伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年09月

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 4 釜石・陸前高田

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 4 
 釜石市・「うのすまい・トモス」
 陸前高田市・東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)と奇跡の一本松

久慈普代 三鉄久慈普代 駅名 被災地と震災遺構を訪ねる旅の合間に、観光地にも少し行きました。車で久慈まで行き、そこで、久慈―普代間の往復乗車券を買いました。宮古駅の観光案内センターで、「宮古から久慈まで乗ってもいいが、トンネルが多いので、車があるなら久慈まで車で行って、リアス式海岸線のきれいなところの往復をしたらいい」と教えてもらったのです。
久慈普代 赤い鉄橋久慈普代 景色 なるほど、情報はその土地土地で仕入れるに限ります。なぜか半額の700円の往復乗車券が買えて、しかもクーポン券付です。10:39発の三陸鉄道に乗車しました。聞いたとおり、トンネルが多かったのですが、堀内と白井海岸の間がリアス式海岸できれいでした。電車も徐行したり、停まったりしてくれます。


釜石 防災教育釜石 てんでんこ釜石 メモリアル 別の日、岩手県の釜石市に行きました。これも観光案内で聞いて、伝承館のひとつ、釜石の「うのすまい・トモス」へ行きました。釜石祈りのパーク、いのちをつなぐ未来館があります。「釜石の奇跡 津波てんでんこ」についても展示されていました。「てんでんこ」は、「てんでん・ばらばらに逃げるという意味だけではない。それぞれが自分の命は自分で守るという防災教育です」ということばが印象的でした。鵜住居駅のホームに立つと、その奥に、釜石鵜住居復興スタジアムが見えます。釜石 ラグビー1釜石 ラグビー2釜石 ラグビー看板と共に僕は、スポーツの中で、好きで今でもよく観るのは、唯一、ラグビーです。新日鉄釜石の時代からよく試合を見ていました。森重隆、松尾雄治らも現役時代から見ていました。ラグビーのワールドカップがあった年だったか、ラグビーを扱ったTVドラマがいくつかありました。ラグビーというだけで見たのですが、萩原健一、高橋克典らが出ていたのを覚えています。その舞台が、ここ釜石の復興スタジアムでした。歩いていくと、中に入ることができ、ながめていると、関係者らしき人が声をかけてくれました。僕が、明治大学出身で、ラグビーの早明戦は東京まで観に行くと話すと、「僕もラグビーをしていました。明治のラグビーはいいですね。僕も明治に行きたかったんですけど…」と話が弾みました。
陸前高田 消防車陸前高田 松植林陸前高田 一本松 その後、「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)」に行きました。みんなの命を助けるために、最後までサイレンを鳴らし走っていた消防車が展示されていました。少し歩くと、有名な「奇跡の一本松」があります。一本松のそばに、ひっくり返ったユースホステルがありました。ずうっと、広く長く続く松林だったそうです。映像で、その松林が、津波にのまれ、根こそぎなぎ倒されるところを見ました。今、松の植林をされていました。まだ小さいです。この松たちが伸びて、松林になるのは何年後だろうと思います。
 今回は、岩手県と宮城県を中心に回りましたが、次回は福島県を中心に行こうと思っています。福島は、原発事故がからんできます。自分の目で見て、体感し、自分の頭で考えて、どう行動するのか、大切なことだと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/15

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 3 宮古市・たろう観光ホテル

東日本大震災の被災地と震災遺構を訪ねる旅 3 宮古市・たろう観光ホテル

 宮城県女川町から吃音親子サマーキャンプに来ていた、阿部莉菜さん関連の話は一応終えて、被災地と震災遺構を訪ねる旅の話に移ります。
 名古屋港から仙台港にフェリーで渡り、そこから車で北上して、僕たちは、岩手県宮古市のホテルに滞在しました。
たろう観光ホテル全景たろう観光ホテル 鉄骨 宮古市の伝承館として挙げられている中で、11年前、映像で見たことがある、たろう観光ホテルを選びました。ガイドさんに案内してもらって、「学ぶ防災」の宮古防潮堤と、津波遺構「たろう観光ホテル〜もの言わぬ語り部として〜」に行きました。
 一緒に回ったのは、僕たちと小学生の子ども2人を含めた4人家族でした。まず、防潮堤の上に立ちました。高い防潮堤です。でも、波は、この防潮堤を越えていったのです。次に、たろう観光ホテルに行きました。鉄骨がむき出しになっていますが、当時のまま残されていました。ホテルの中に入らせてもらい、社長が従業員を高台に避難させ、自分ひとりが残って、ホテルから録画した映像を、社長がいた部屋で見せてもらいました。
防潮堤 防潮堤は、そこに住む人々を津波から守ってくれるものと思っていましたが、映像を見ると、防潮堤が高いので、こちらに住んでいる人には、海が見えません。今、映像を見ている私たちには、防潮堤の向こうに大きな津波が迫っているのが見えます。「早く、逃げて!」と叫びたくなります。しかし、防潮堤のこちら側では、普通に車は走っているし、普段の生活そのままでした。消防車も走っていましたが、この後、走っていた消防車は、津波に巻き込まれたとのこでした。生々しい映像でした。震災直後、たくさんの映像が、テレビに流れましたが、そのとき見た映像とは違うものを感じました。時折、揺れる画面に、撮影している社長の恐怖も映し出されているようでした。ガイドさんも被災者のひとりでした。防潮堤のおかげで助かったと、彼は言っていました。「防潮堤は、津波が町を襲ってくるのを遅れさせてくれるし、和らげてくれる。しかし、それがあるから大丈夫という油断の気持ちを住人に与えることにもなってしまった。地震が起きたら、高いところへ避難するという基本的なことが大切なんです」と彼は話しました。
 その後、たろう庵という、たろう観光ホテルの社長が新しく高台に作ったホテルに行きました。応援したくなります。
浄土ヶ浜 近くの観光地、浄土ヶ浜にも行きました。それまで曇り空だったのですが、着いたとたんにきれいな青空が広がりました。浄土に似ているから、この名前がついたとのことでしたが、浄土とやらに行ったことがないので、どこが似ているのか分かりませんでした。
三陸鉄道 宮古駅に寄り、三陸鉄道を走る電車を見ました。今、全線開通しているとのことで、一両編成のこの電車にも乗ってみようと思いました。
 そのほか、宮古市市民交流センター防災プラザ、宮古震災メモリアルパーク中の浜に行きました。中の浜はキャンプ場だったところで、トイレや炊事場が遺構として残されていました。穏やかな湾で、キャンプ場としてたくさんの人が楽しんでいただろうなと想像できます。津波のすごさをいたるところで感じ取ることができました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/14

東日本大震災の被災地と遺構を訪ねる旅 2 宮城県女川町

 イーハトーブ花の郷を訪ねた翌々日、女川町に向かいました。嘉糠さんの他にもう一人、お会いしたいとずっと思っていた人がいました。嘉糠さんと同じように、阿部さんの家族の行方を捜していたとき、これまた偶然に出会った人でした。
 今野順夫 ひと 朝日新聞その方は、今野順夫さんで、福島大学学長をされていた方でした。阿部容子さんのお母さんのきょうだいで、今野さんは弟さんでした。莉菜さん、お母さんの容子さん、妹のひろかさんのこともよくご存知でした。今野さんとは、11年前だけでなく、その後、2015年9月21日付け朝日新聞の「ひと」欄に「ふくしま復興支援フォーラム」開催100回のことが掲載されたのを見て連絡したり、莉菜さんが生きていれば成人式を迎えたはずのときに連絡をしたりしていましたが、お会いするのは、初めてです。
 ネットで検索してみると、8月31日に、「ふくしま復興支援フォーラム」を開催されるとありました。200回を超える集まりを継続して開催しておられました。そのプロジェクトの代表でもありました。突然連絡してご迷惑ではないだろうか、やはりそう思ってしまいましたが、思い切って、メールしました。すぐに返信があり、福島に住んでおられる今野さんが女川まで来ていただけることになりました。僕たちのホテルからも女川は車で2時間のところです。
 フォーラムの前日の30日、お忙しい中、時間を作っていただきました。ゆっくり話ができるようにと予約してくださった「小さな珈琲店 GEN」に着くと、ちょうど今野さんも到着。店の奥の用意された一室でお話しました。今野さんは1944年5月2日生まれで、4月28日生まれの僕は、4日だけ年上でした。
 阿部さん一家の話、復興フォーラムの話、原発のこと、憲法九条の話、この年齢特有の病気の話など、話題は途切れることなく続きました。不思議なことに、初めてお会いしているという感じが全くせず、昔からの旧友に久しぶりに会ったという感覚でした。
今野順夫 2 慰霊碑今野順夫 1 今野さんの案内で、女川駅そばにある震災で亡くなられた方の名前が刻んであるメモリアルと、阿部莉菜さん、お母さんの容子さんが眠っているお墓へも行きました。そして、最後に、女川で図書館の取り組みをされていた容子さんたちの意思が形となった「女川つながる図書館」へ行きました。吃音に関する検索をすると、僕の本がありません。これはいけないと、寄贈する約束をしました。今野さんは、以前お送りした「どもる子どもとの対話〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力」(金子書房)を持ってきておられました。今野さんは、「ここに、女川町に住んでいた、親戚の阿部莉菜さんのことが書いてあるんだ」とページを広げて指し示しておられました。
今野順夫 3 つながる図書館今野順夫 4 図書館の中
今野さんと別れてから、震災2年後に来たときに訪れた高台の病院に行ってみました。女川病院という名前だったと思うのですが、今は、地域医療センターになっていました。ここから見下ろした女川の町は、当時は更地でした。建物がひっくり返ったままひとつだけ残されていました。山の斜面に「I love 女川」と書かれていたのが印象的でした。
今野順夫 6 墓碑今野順夫 5 墓 名前

 直後にはみつからなかった莉菜さんですが、後で、遺体がみつかり、DNA鑑定で、莉菜さんだと分かったそうです。お母さんはまだみつかっていません。

 亡くなった人は帰ってきませんし、生き残った人もそれぞれ大変な中を精一杯生きています。震災の前も、震災の後も、時間はとまることなく流れています。お墓に行き、手を合わせたことで、僕の中では、ひとつの区切りがついたような気はしましたが、生きたかったけれど生きられなかった彼女の無念さを共に感じながら、僕は、これからも、出会う人々に、彼女が残してくれた作文「どもってもだいじょうぶ!」を紹介し続けるつもりです。その旅に、終わりはありません。
今野順夫 7 女川病院
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/12

東日本大震災の被災地と遺構を訪ねる旅 1

イーハトーブ花の郷

 吃音親子サマーキャンプの感想はまだまだ他にもあるのですが、ちょっと話題を変えてみます。
 サマーキャンプのとき、参加者には伝えたのですが、キャンプが終わった翌日から、長旅に出かけました。ずっと行きたいと思っていた東北への旅です。
 東日本大震災の2年後に、女川町、石巻市に行きました。瓦礫はほぼ片付けられ、更地になっていましたが、まだ大きな船が家の上にのりあげている状態だったり、津波に遭った高校の教室の破壊された様子がむき出しのままでした。カーテンが引き裂かれたまま風に揺れていたのが印象的でした。交番が傾いたままだったりで、大震災と津波の大きかったことが容易に想像できる状態でした。大震災から11年、一度訪れてから9年、どうなっているか、自分の目で確かめてみたいと思っていました。
 今年のサマーキャンプの卒業式は、コロナで中止になった2年分の卒業生も含めて、6人の卒業生に、卒業証書を渡しました。その冒頭、全く予定していなかったのですが、僕は、キャンプの翌日から東北を旅することもあって、宮城県女川町から吃音親子サマーキャンプに3年連続して参加し、2011年3月11日の津波に巻き込まれて亡くなった阿部莉菜さんの話をしました。キャンプ卒業の条件は、3年以上参加することになっていますが、阿部莉菜さんはその条件をクリアしていました。卒業の資格があったのに卒業できなかった莉菜さんの無念さ、卒業証書を渡すことができなかった僕の悔しさを、話しました。彼女が生きていた宮城県女川町にもう一度行きたかったのです。

 サマーキャンプが終わった翌日、名古屋港から仙台港に向けて、フェリーを利用しました。どちらかといえば、フェリーは苦手で、車で陸路を走ることが多いのですが、体を休めるためにフェリーを利用することにしたのです。疲れていたためか、ぐっすり眠れました。
イーハトーブ 4 仙台から車で北上する予定で、道路地図を見ていて、小岩井農場をみつけました。小岩井農場の近くの雫石町に、訪れたいと思っていたペンションがあることを思い出しました。ペンションの名前は、「イーハトーブ花の郷」です。そのペンションのオーナーと知り合ったのは、阿部さんの家族が津波に巻き込まれ、行方が分からず、探していたときでした。そのときの詳細の記憶は薄れているのですが、阿部さんの家族と親しい関係にある方でした。ペンションに来てくださいと言われていて、行ってみたいと思っていたのです。
イーハトーブ 1イーハトーブ 2 あれから、11年も経っています。あのとき、連絡を取ったきりでその後は全く連絡していません。今更連絡しても、覚えていてくださるかどうか、突然連絡しても迷惑だろうと、ずいぶん迷いましたが、だめで元々と思い、残しておいたメールアドレスに、メールを送信してみました。すぐに返事がきました。ペンションは、コロナの関係もあり、泊めることはできないが、阿部さんについてのお話はできるとのことでした。宿泊しているホテルから車で2時間くらいの場所でした。小岩井農場を過ぎて、ペンションが並んでいるところに、「イーハトーブ花の郷」はありました。オーナーの嘉糠くに子さんが迎えてくださいました。
 嘉糠さんがペンションを始められたのは、1991年6月のこと。それまでは、宮城学院にお勤めでした。そこに、阿部莉菜さんのお母さんの容子さんがおられたのです。容子さんの同期の学生が仲がよくて、よく、嘉糠さんのペンションに集まっていたとのことでした。写真も見せていただきました。ペンションは、広くて、緑が美しく、庭が広くて、本当にすてきな所でした。一日中、ぼけーっと坐っていても飽きないだろうと思えるくらい、自然に溶け込んで、まさに、宮沢賢治のいうイーハトーブです。
イーハトーブ 3イーハトーブ 5 容子さんのこと、莉菜さんのこと、嘉糠さんご自身のこと、宮沢賢治のこと、イーハトーブ花の郷を始められたきっかけ、イーハトーブ花の郷で大切にしたいと思っておられたこと、たくさんお話を聞かせていただきました。意外な人の名前も出てきました。竹内敏晴さんと僕たちは長いおつきあいでしたが、その竹内さんから、よく聞いていた名前、林竹二さんの名前です。嘉糠さんの5歳上のお友達のお父さんが林竹二さんだというのです。おもわず、えーっと大きな声をあげてしまいました。林竹二さんは、元宮城教育大学学長で、ソクラテスの問答法を下敷きにした人間形成論を構想し、子どもたちに実際に授業をした記録が残っています。晩年は、足尾鉱山事件の田中正造に関心を寄せ、評伝を書い人です。怖い人だったけれど、一生懸命の人だったとおっしゃってました。不思議なつながりってあるのですね。
 ペンションはもう閉めるとのことで、誰かこのまま譲り受けてくれる人はいないだろうかと相談されましたが、僕たちがもう少し若かったら、30代なら、と考えないこともないですが、78歳の今では無理な話です。でも、ほんとにいい所なので、営業されているときに来ればよかったと、悔しい気持ちでいっぱいでした。
 話はあちこちにとびましたが、楽しい時間でした。
イーハトーブ 6 会いたい人には、とりあえず連絡してみる、というのが今回学んだことでした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/11

映画「若者たち」の映画監督の森川時久さん

森川時久 死亡記事 映画監督の森川時久さんが亡くなったとの記事を読みました。
 その記事には、1966年、フジテレビのディレクターとして、両親を亡くした5人兄妹がたくましく生きる姿を活写した社会派連続ドラマ「若者たち」を演出。1967年から同じ出演者で作られた映画版「若者たち」でも監督を務めた、とあります。
「若者たち」は、僕にとって、忘れることのできない映画です。
 たいまつ新書『吃音者宣言―言友会運動十年―』の中の一文を紹介します。

 この上映会のときには、監督の森川時久さんも、俳優の山本圭さんも来てくれました。
 脚本家の山内久さんとは、その後、長くおつき合いが続きました。山内さんの逗子市のご自宅に招いていただき、いろいろと話をしました。1981年、当時、所属していた言友会の全国大会でも、僕との対談がありました。そのときのテーマは「時こそ今」でした。「常に、ユーモアを忘れず」と、年賀状にはよく書かれていました。
 強烈に思い出すのは、第一回吃音問題研究国際大会の時のこと。少しでも関わりのあった人にカンパを要請するはがきを出したとき、返事をする必要がないにも関わらず、山内さんからは「赤貧洗うがごとしの生活で、金銭的応援はできませんが、心から成功をお祈りします」との丁寧なお手紙をいただきました。どんな金額の多いカンパよりも、僕にはとても大きな応援になりました。山内さんは、社会派の脚本家で、仕事を選んでいたために、生活は豊かではなかったのでしょう。久しぶりに観た「若者たち」三部作の中では、学生運動、政治運動、障害者問題、原水爆禁止平和行進などのシーンが出てきます。やさしいまなざしの中に、平和への強い思いが常に込められていました。
 この山内久さん、音楽の佐藤勝さん、主演の田中邦衛さん、最近亡くなった山本圭さん、そして今回、監督の森川時久さんが亡くなりました。映画「若者たち」の主な関係者はほとんど亡くなってしまいました。
 今でも「君のゆく道は、果てしなく続く・・・」の佐藤勝作曲の歌を口ずさみますが、貧しくとも、真剣に現実と向き合い、必死に生きたひとつの時代が終わったなあという気がします。 僕もあの時代を、これらの人たちと一緒に生きたこと、ありがたいことだったと思います。
 映画「若者たち」と僕の物語は、自分自身でもとても好きで、仲間によく話しているようです。また、機会があれば話したいと思います。『吃音者宣言−言友会運動十年』の文章を紹介します。


 
映画「若者たち」のこと

 会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
 ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立揚を言友会となぜかダブらせていた。
 「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
 そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、未封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
 私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに七ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
 とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。(『吃音者宣言―言友会運動十年―』たいまつ社 1976年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/08

吃音親子サマーキャンプの感想〜どもる人の立場から〜

 吃音親子サマーキャンプの参加者は、どもる子ども、その親、親に代わる大人、ことばの教室担当者や言語聴覚士などの臨床家、そして、どもる人たちです。どもる経験をもつ人なら誰でもいいというわけではなく、きちんと自分の吃音と向き合っている人、それなりに自分の問題を処理している人、僕が書いた本やニュースレターをよく読み、僕の考え方をよく理解している人、吃音を学び続けている人に限っています。多くは、大阪吃音教室の人たちです。
サマキャン 親の学習会 僕たちは、同じようにどもる仲間と出会い、自分ひとりではなかったとほっとし、仲間との対話を通して生きる力を得てきました。この経験をぜひ子どもたちも味わってほしいと願って、サマーキャンプを始めました。サマーキャンプに参加したどもる人は、よく、子どものときにこんなキャンプがあったらなあ、今参加している子どもたちがうらやましいと言います。
 吃音親子サーキャンプのように、どもる人と臨床家が対等な立場で取り組むキャンプは世界的にも珍しいものです。立場の異なる人が対等な立場で取り組むというところに、サマーキャンプのいい味が出ていると思います。
 今日は、初めてサマーキャンプに参加したどもる人の感想を紹介します。


 
親のグループでの話し合いで、親の様々な思いに触れた。私の親は、私の吃音のことをどのように考え、どのような思いであっただろうか。親の思いについて考えたことがなかった私に、新たな視点を与えてくれた出会いだった。
 子がどもっていると、親は子の将来を心配する。キャンプの参加歴の浅い親は心配だと言うが、参加歴の長い親は心配していないと言う。話し合いでは、参加歴の長い親御さんが、ご自身の経験を積極的に語っておられ、皆さん熱心に聞いておられた。子どもの成長以外にも、キャンプではこのようにして参加歴の長い親をモデルに皆さん様々なことを学ばれて、行く行くは、我が子の将来に心配はないと思うことができるのだろう。
 ある父親は、息子の吃音をどうにかしようということではなく、息子の元々持っている強みを生かして、彼自身の力で生きていけるよう願っておられるように、強く感じた。その親の疑問にお答えするかたちで、私は親友と出会い、あるとき私の話を後日、面白い話だったと彼に言ってもらい、伝わった実感を経験できたことから私が話をすることを楽しいと思えるようになったというお話をさせてもらった。その親は、今回そういうことを知りたかったんだ、と大変喜んでくださった。私は自分の経験を誰かに聞いてもらえるだけでもありがたいのに、私の話を聞けて良かったと言っていただけて、うれしかった。
 1度目の話し合いのあと、次の活動までの間のわずかの時間、その親が声をかけてくれた。私は話をするときに身振り手振りが大きい、よく動く、と言われることがある。その人は、マスクをしている今の世の中ではそれは強みだと言ってくれた。その人自身も、マスクをつけている時は身振り手振りを普段より多く用いているそうだ。これからの世の中、マスクの有無は関係なくそのような伝える力が重要になってくると思う。
 2日目午前、吃音親子サマーキャンプに初めて参加する新人スタッフのための研修で、私は「ひとりでぽつんとしている子に、話しかけた方がいいだろうと思う一方で、話しかけられたら、相手が迷惑に感じないだろうかとも思ってしまって、話しかけられない」と話した。その自分の課題を皆で共に考えてもらう機会がなかったら、あの場で相談できていなかったら、私にとって、その後のキャンプは全く違うものになってしまっていただろう。1人でいる子に声をかけることができず、モヤモヤしたものを抱えながら、人見知りをしない積極的な子たちと触れ合っていただけになってしまっていたかもしれない。そう考えると恐ろしい。新人スタッフ研修を初日に行うのではなく、2日目の朝というのも、限られた時間の中に上手く組み込まれたスケジュールだと思う。31年の歴史と文化に救われた。
 入浴は、大阪のベテランの皆さんと一緒になった。皆さん、湯船にかわるがわる浸かりながら、ずっと吃音の話が繰り広げられていた。身体を洗いながら話を聴いていた人も、そっと湯船に足を踏み入れながら自然に会話に入ってくる。自分もその輪に入れてもらった。楽しくて、うれしくて、のぼせるのを覚悟してしばらく湯に浸かっていた。障害者手帳の話、どもる人に就けない仕事はないという話など、みんな裸で吃音のことを話題に盛り上がる。そんな経験は今までしたことがない。「どもりの湯」に肩まで浸かり、癒されたひとときだった。
 初めて演劇というものに取り組んだ。小中高と演劇の機会がほとんどなかったこともあるが、演劇に取り組むチャンスがなかったわけではない。意図的に避けてきた。どもる自分にはできないと思っていた。セリフが言えなくて恥ずかしい思いをしたくなかった。大人の劇を作り上げていく過程を見学させてもらい、皆それぞれのイメージや気持ちを出し合いながら、共有し、一つの作品を作っていくことのおもしろさを感じた。しかしそれを自分たちの力で一からできるのか、大きな不安も感じていたが、皆それぞれの関わり方で、共に一つの作品を創り上げることが出来た。
 あの短い時間で、自分たちの力だけで達成できたことに驚いた。上演の際には、冒頭、自分も舞台に上がり、庭に咲く花を演じ、その後は舞台袖で皆の演じているのを見届けた。その舞台袖からの景色と、幸せな気持ちは忘れることが出来ないだろう。吃音親子サマーキャンプに参加することができたら、何らかのかたちで自分も演劇に取り組んでみたい、挑戦したい、と思っていた。しかし、コロナで今回は別の表現活動に取り組むとのことで、それはそれで楽しみであったが、土壇場で演劇が組み込まれた。今回、思いがけず演劇に取り組めたこと、それを自分達の力でやり切ったことは、私にとって非常に大きなことだった。
 親の皆さんの全力のパフォーマンスも楽しかった。話し合いの場では悩みや子の将来への不安などを切実に語っていた方々の楽しそうな姿。親が頑張っている姿を見せたいとの思いもあるのだろうが、何より、本人たちが楽しんでいるように見えて、観ている私も楽しいひとときだった。
 中学生のSさんとは、朝一緒に野球をした。一緒に野球をしたのでその後も話しかけやすく、その後も顔を見るたびに言葉を交わした。その時もよくどもっていたが、演劇での彼の姿を目の当たりにした時、私自身の最も声を出すことに苦労した頃のことを急に思い出した。同じ年頃のとき私も同じように難発が強かった。私は言いたい言葉が出ない時、強引に出そうとすると身体に力が入り、息もできず苦しかった。その姿をさらすのが嫌で話すのを諦めていた。しかし、S君は諦めない。セリフの語尾の「〜だぜ」まで言い切ることを諦めない。彼に自分の姿を重ねて見ながら、自分が言いたいことを言わずに諦めていたこと、恐ろしい演劇から逃げていたことを思った。自分には言えない、できないと諦めていたことのなんと多かったことかと愕然とした。しかし、今回初めて演劇に取り組むことができた。アイデアを出し合い、皆の力を合わせ、各々が表現し、また、皆で一つのものを表現する。この楽しさ、おもしろさを初めて体験できてよかった。そして、S君だけでなく、皆の、セリフを言い切る意志の強さに心を打たれ、その姿を静かに見守っている場の力に自分も包まれていることを感じ、どうしようもなく涙があふれた。

 3年以上参加して、高校三年生になったときに行われる、卒業式。卒業生のスピーチでは皆が自分の言葉で自分の思いを語る姿を目の当たりにした。自分にとっての卒業の課題に向き合い、今回挑戦できたことで、これでちゃんと卒業できる、と語っていた男の子もいた。自分の同じ歳の頃、私はあのように語ることはできなかっただろう。あのような言葉を私は持っていなかった。卒業生のあの力は、きっとキャンプを通して培われたのだろう。キャンプで仲間と出会い、思いを語り合い、皆で共に考え、演劇に取り組み表現を学び、それぞれの生活の場に戻っては、自分の頭で考え誠実に生きた来たのだろう。大人の社会でも、あのような場で、あれだけ自分の言葉で語れる人がどれだけいるだろうか。
 卒業生はもちろん、どもる子どもたち、どもる大人たちの声の豊かさに気付かされたのは、私が日常の生活の場に戻ってからだ。職場では私の隣で、どもらない同僚が新人に仕事を教えているのだが、やり取りしているその声が、2人とも全く聞こえてこない。キャンプではあちらこちらで声が飛び交っていたのに、これはどうしたことなのか。新人に声をかけて話をしてみても、仕事上防塵マスクをしているとはいえ、なんと言っているかわからない。防塵マスクの壁を越えて声を届けようという気がなさそうに見える。そもそもそんなことを思わないのか。どもる子どもたちの話す言葉には重みや力強さを感じる、と成人のどもる人は言っていた。私もそれは感じていたのだが、どもる人達の声、ことばは、激しくどもりながらでも一言ひと言よく届いて来ていたのだと、キャンプを離れて改めて実感できた。どもる人には、話す、伝える、声を出す、ということに向き合う機会が訪れる。その際、逃げずに向き合ってきた人たちの持っている声は、みなよく届き、人を捉える力があるように思う。

 仕事をしながら、2日目午前の新人スタッフ研修のことを振り返っていたとき、ハッとした。吃音親子サマーキャンプで大事にしている、3つのことば、「あなたはあなたのままでいい あなたはひとりではない あなたには力がある」。ひとりでいる子に声をかけることができなかった、どうすればいいかわからなかった、という自分自身の課題を、対等に、共に考えてもらい、課題を明確にすることができ、自分の課題に向き合い、チャレンジする覚悟ができた。それからは、見える景色が変わった。声をかけていいのか、彼に自分が関わっていいのか等という、結局は自分が失敗したくないという自分本位な考えを捨てられた。自分本位な考えを捨てることができたことで、不全感を抱えることなくキャンプを終えることができた。私は、私として、残りの2日間を生きることができた。
 この経験は3つのことばそのものではないか。今まで何度も何度もふれては考えて来たことばであったが、初めて、「わかった!」と思えた。この3つのことばは、ただのことばではない。あの場に間違いなく「ある」ことばなのだ。サマーキャンプの場には、この3つのことばが様々なかたちで満たされている。参加者は、子も兄弟も親もスタッフも、皆それぞれの経験の仕方、捉え方で感じているに違いない。

 日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」で、吃音親子サマーキャンプ報告やエピソードを読むたび胸が熱くなる経験をして来た。吃音の体験文集や、ことば文学賞の作品にふれる時もそうなのだが、ハッピーエンドの物語だから感動するわけではない。悩みの中にいる時、苦しい時、何かきっかけを得て一歩を踏み出す時、様々な状況のなかで皆、吃音と共に一所懸命に生きている。その姿にいつも心を打たれるのだ。吃音親子サマーキャンプは、実際にその場に行ってみたい、私にとって憧れの場だった。参加できることを夢見て、キャンプが行われるであろう日の予定はずっと空けていた。参加することができて、子どもたちが活動に取り組む姿、兄弟を思いやる姿、親の子に対する思い、スタッフのキャンプに対する思いなどに直にふれることができた。そして、それぞれが生活の場で懸命に生きているということを改めて思い知らされた。自分も今ある力で、自分と向き合い、周りと関わり、生活を大切に、誠実に生きていきたいと、力をもらった。
 何か困難なことがあった時、吃音親子サマーキャンプの出会いや経験が活かされ乗り越えることができるんではないか。今、そう思えるほど、私にとって大きな3日間だった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/02 

吃音親子サマーキャンプに参加して

 スタッフ側の吃音親子サマーキャンプの感想を紹介してきました。
 今日は、初めて参加した人の感想です。キャンプの翌日に届いたこの感想は、僕たちが、迷ったけれど開催してよかったと心から思えるものでした。スタッフのみんなに、この親子の思いが届くといいなあと思います。そして、来年の夏につながりますように。

 
3日間お世話になりました。
 吃音親子サマーキャンプには、初めての参加で、旅慣れしていない私たち家族は、まず、準備することから大変なことでしたが、終わった今振り返ると、親子ともども、とても大きな経験をさせていただいたなと思っています。
 娘に感想を聞くと、「楽しかった! 自分の他にもどもっている人はたくさんいることがわかった。また来年も行きたい!」と言っていました。
 この感想を聞けただけで、私は、思い切ってキャンプに参加して、よかったなと思います。

 小4は1人だけで、女の子もいませんでしたが、ご卒業後スタッフとして参加されていた方々、またスタッフの皆様のあたたかさがあってこその、娘の発言だと思います。
 吃音の話を聞いていると、人生の生き方を教えていただいているようで、吃音あるなし関係なく、心に響くものでした。

 勇気を持って一歩を踏み出す。とにかく声を出すことが大事。自分にとってマイナスと捉えている部分も、自分の一部、特徴として、見方を変え、受け入れる。そして、受け入れた時に、見え方が変わってくる。

 人生の生き方そのものだと思います。そして、ここに至るようになるには、自分が自分と向き合い、葛藤や苦しみを乗り越えることが不可欠なのだろうなと思います。
 娘も自分で苦しまないといけないときが必ずくると思います。でも、勇気を出して、向き合って、自分の一部と捉えることができた時、それはとてもすごいことだと思います。
無敵です。

 私にとっても、参加前と参加後では、心が前向きになるという変化がありました。夏季休暇前、色々あり心が疲れてしまっていました。初参加だったことや慣れない環境で、正直疲れもしましたが、なぜか心は軽やかになっています。まるでセラピーに行ったようです。
 また明日から、日々の生活が始まるわけですが、この3日間でいただいた『活力』を、忘れないようにしたいです。本当にありがとうございました。すべてのスタッフの皆さまに、改めて心より感謝申し上げます。

 また来年も、キャンプが開催されることを、期待して、、、この1年、頑張ろうと思います。本当にありがとうございました。(小4女の子の母親)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/01
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