伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年07月

野口体操から考えた吃音

 「吃音を治そうとする取り組みは、本当に気持ちのいいことですか?」との問いかけから始まった野口三千三さんのことばひとつひとつが心に残ります。
 「どもりを治そうと努力しすぎると、ことばだけでなく人間全体が歪んでしまう。
 自分の欠点ばかりに目を向けすぎると、全体が萎縮してしまう。
 喉や口だけがあなたのすべてではない、全身まるごと全部があなただ。
 どもるかどもらないかにこだわらないで、もっと全体をよくすることを考えよう」

 50年前から僕が考えていたことを、他の領域の人たちも同じように考えて下さり、さらに、僕たちが説明しきれなかったことを丁寧に説明して下さっています。とてもありがたいことでした。
 現在の世界の吃音臨床・研究の現状は、あいかわらず「吃音症状」の消失及び改善のための言語訓練が主流です。この現状にもどかしさを感じつつ、今、「スタタリング・ナウ」を読み返しています。とても新鮮な気持ちで、再び、野口三千三さんに出会っている、そんな気がしています。

  
野口体操から考えた吃音
                      野口三千三
はじめに
 私はどもりについて詳しく知りませんが、身体障害や精神障害の問題には関心を持っています。肢体不自由児施設にはよく出かけ、身体障害の人達と親しくしています。また、施設の先生方が、脳性麻痺児の指導の参考にしようと私の体操教室へ来られます。
 「からだや顔の歪みを直そうとしてはいけない」
 「自分にとって動きやすい動作をしなさい」
 私はアドバイスを求められたとき、こう答えます。施設の中だけでなく、恥ずかしがらずに街へ出て、楽な姿勢で歩いてみるように勧めます。からだの歪みを少なくしようとすると、無理な姿勢をとることになります。表面はどうであれ、自分にとって楽な動作を覚えていくと、顔やからだの歪みは一時的にひどくなりますが、次第に少なくなります。そして、平気で自分なりの動きができるようになります。しかし、やっぱりからだの歪みを直したいと努力する人は、はじめの状態に戻ってしまいます。
 どもりの場合も、恐らく同じことが言えるのではないでしょうか。どもりを直そうと努力しすぎると、ことばだけでなく人間全体が歪むのではないかと思います。自分の欠点ばかりに目を向けすぎると、全体が萎縮してしまいます。
 喉や口だけがあなたのすべてではありません。全身まるごと全部があなたなのです。どもるかどもらないかにこだわらないで、もっと全体をよくすることを考えて下さい。これから私がお話することが、何か参考になればと思います。

からだは意識の奴隷ではない
 みなさんがどもっているときには、首や肩が緊張していると思います。どもりそうだと思ったとき、緊張を解こう、力を抜こうとされるでしょう。ところが、力を抜こうとしても、意識的にできるものではありません。
 どもりの問題に限らず、「力を抜こう」とするのは、意識で人間のからだを支配できると考えているからです。そもそもこの考え方が誤っているのです。からだは決して意識の奴隷ではありません。
 私が人間のからだと意識をどのように考えているか、説明しましょう。
 大抵の人は、人間のからだは、骨が中心にあってそこへ筋肉や内臓がつき、一番外側を皮膚が覆っていると考えています。解剖学的に言えば確かにそのとおりでしょうが、しかし、それは死んだ人間のからだを説明しているにすぎません。生きたからだとは、皮膚という袋の中に液体的なものがつまっていて、その中で骨も筋肉も内臓もプカプカ浮かんでいるものです。つまり、からだの主体は体液であり、骨とか筋肉とか内臓は、体液が後で作った道具なのです。発生学的に考えていくとそうなります。
 人間のこころの面も、はじめは非意識であり、意識は徐々にっくられてきたものです。このことは、誕生したばかりの赤ちゃんを考えてみると分かるでしょう。主体は非意識なのです。もし意識が主体であり、からだを思うままに動かせるとしたら大変なことになってしまいます。歩くという簡単な動作でさえ、短い時間で何百という筋肉に対して、時々刻々変化に合わせて数え切れない命令を出さなくてはなりません。そんなことは到底できるわけがないのです。つまり、人間が生きていくために意識の果たす役割はほんの少しであり、非意識こそが主体なのです。この「体液・非意識主体」を無視して、意識によってからだを支配しようとしていることがどんなに多いことでしょう。
 例えば、吃音矯正の方法も、意識的に発声器官や呼吸をコントロールしようとしているのではないでしょうか。意識的に話そうとするから話し方が不自然になったり、喉や口に注意が向き過ぎて話せなくなったりするのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/15

野口三千三さんからの問いかけ、「本当に気持ちのいいことですか?」

 野口体操を始められた野口三千三さんが、1998年3月29日に亡くなられました。亡くなられる25年ほど前に、僕たちとの出会いがありました。そのとき、野口さんから問いかけられたことばが、今も僕の心に残っています。
 「どもりを治そうとの取り組みは、本当に気持ちのいいことですか?」
 吃音の取り組みに対する、究極の問いかけだと思います。
 1965年の夏、30日間の、東京正生学院で訓練された吃音を治すための、どもらないようにするための言語訓練は、本当に面白くも、楽しくもなく、気持ちの悪いものでした。だから僕は耐えきれなくなって、3日間でやめました。自分にウソをついているような感じです。残りの27日間は「どもっても、言い切る」ために、どもり倒しました。
 「こうしたら吃音が必ず治るよ」と言われても長続きしなかったのは、気持ちよくなかったからです。
 「スタタリング・ナウ」(1998.6.20 NO.46)の巻頭言を紹介します。

  
気持ちいいですか
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「あなたのどもりを治そうとの取り組みは、本当に気持ちのいいことでしょうか?」
 これは、25年ほど前の、野口体操の創始者、野口三千三さんからの私たちへの問いかけだ。
 当時の私たちは、どもりを治そうとして、却って苦しくなり、生き辛くなっていることに気づいていた。吃音を治す試みが挫折し、その悩みの中から、どもりを治そうとすること自体が、むしろどもる子どもやどもる人の悩みを深めるのだと自覚した私たちは、「吃音を治す努力の否定」を提起したのだった。その頃、野口さんに出会った。
 「それは本当に気持ちのいいことですか?」
 吃音治療に明け暮れているどもる人に、こう問いかけ、「気持ちいいです」と答える人はまずいなかったことだろう。どもりに深刻に悩む人は、なんとしてもどもりを治したいと思う。そして、民間吃音矯正所などで、治す方法を教えられる。
 しかし、多くのどもる人は吃音に悩み、治したいと切実に思いながら、治療努力を継続しない。それは、吃音を治す取り組みが、本人にとって、「気持ちのいいこと」ではなかったからだろう。
 事実、「なぜ、治す方法を教えてもらったのに、治す努力を続けられないのですか?」の質問に多くの人がこう答えている。

◇練習が単調でおもしろくない
◇どこまで努力すれば治るのか、見通しが提示されず確信がもてない
◇不自然な話し方で、応用しにくい
◇吃音には、好不調の波があり、好調のときは練習がおろそかになる
◇どもっていてもなんとか日常生活が続けられる

 野口さんは、「気持ちのいい方向」と表現している「気持ちいい」は、浅く考えると危険だと指摘する。快楽を求めればいいのだと、短絡的に考える人も出てくるというのだ。
 私たちの「治す努力の否定」も、「何もしなくてもいいのだ」と受け取る人がいた。私たちは、自分らしく生きるには、質は違うが、吃音を治す努力以上に努力しなければならないことは多いのだと主張したが、なかなか理解されなかった。
 「気持ちのいい方向」の見つけ方について、野口さんは次のように言う。

 ―理屈よりも日常生活の中で実際に生きていく本当の姿を見つめていけば、自然と解決されます。「お前、本当に気持ちがいいかい」と、絶えず自問自答を繰り返し、飽くなき問いを続けることです。そうすれば、自ずと自分が生きていくのに都合のよい方向が見えてくるのです。苦痛が伴うなら、どこかで無理をしているのです。無理があると、あなたのからだやこころを、歪めたり、固めることになります。どもりを治そうとするなら、楽しみながらして下さい。楽しくなかったら、あなたにとってもっと楽しいこと、気持ちのよいことを探せばいい。それは、あなた自身のからだが教えてくれます。じっと耳を澄ませて聴いて下さい。あなたが求めているものは何なのか―

 野口体操は、竹内敏晴さんがその基礎を取り入れ、独自のレッスンとして展開されていて、野口体操が形を変えて私たちとつながっていることになる。ここ10年、私たちが取り組んでいる竹内敏晴さんの《からだとことばのレッスン》は、とにかく楽しく、気持ちがいい。生きる力が沸いてくる。
 「気持ちがいいですか?」
 野口さんの問いかけに、私たちはこう答える。
 「はい、とっても楽しく気持ちがいいです」
 楽しく、気持ちがいいから長く続けられ、人にも薦めることができるのだ。
 野口三千三さんがこの春亡くなった。合掌。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/14

自分のことばや声に自信をもつ

 ボブ・ラブさんの体験を紹介してきました。「スタタリング・ナウ」1998.5.31 NO.45では、このボブ・ラブさんの体験の後、ひとりの中学生の弁論大会の原稿を紹介しています。ボブ・ラブさんの体験を読んで、これもぜひ紹介したいと思った地方新聞に掲載されていた原稿です。
 「何でも自由に話せたら、どんなに幸せだろう」と毎日のように思っていた東さんが、「私って声が出せるんだ」と声が出ることの幸せを感じるのですが、悩みのまっただ中にいるどもる人にはなかなかできないことでしょう。自分の声に自信をもつ。どもる人にとって自分を悩ませてきたことば、声に自信をもつことはとても大切なように思います。
 
〈わたしの意見〉 
  岡山県中学校弁論大会から  
           幸せということ
                    中学校3年 東純代

 あなたは幸せですか。それとも不幸せですか。私は幸せです。でも少し前までは「自分はとても不幸せだ」と思っていました。今、私が話しているのを聞いて「少しおかしい」ということに気付いた人がいると思います。そう、おかしいのです。私は普通に話すことができないのです。小学校二年生から、この「吃音」は始まりました。
 病気ではなく、一種の癖なのですが、一度癖になってしまうとなかなか直すことができないのです。そしてこれが、私が不幸せであった原因でした。そのため、そのころの私は、人前で話すこと、電話をかけることなどがとても嫌で、そういう機会があるたびに、劣等感を抱き、また声がつまってしまうのではないか、相手の人が変に思いはしないかと、おびえていました。
 どうして自分だけが、こんな目に遭わなければいけないのかと、自分が生きて存在していることさえも恨めしく思えたものです。そして「何でも自由に話せたら、どんなに幸せだろう」と毎日のように思っていました。
 だけど、中学生になって、音楽の時間に歌を歌っている時「私って声が出せるんだ」とふと思いました。その時初めて、声の出ることに幸せを感じたのです。それに気が付くと、今まですぐそばにあったのに気付かなかった、すてきなこと、うれしいこと、たくさんの幸せが、次々と見つかったのです。
 大好きな空を見ることができる。美しい音楽を聞くことができる。自分の足で走ることができる。そして、たとえ自由にならないにしろ、声が出て、友達とおしゃべりできる。私はやっと自分がたくさんの幸せに囲まれて生きていたことに気がついたのです。それからの私は、生きるってこんなにも素晴らしいんだ、と思えるようになってきました。
 そしてそれまで、引っ込み思案だった性格もだんだん積極的になって、生徒会に立候補したり、下手ながらフルートの発表会に参加したりできるようになりました。
 幸せって一体何でしょうか。夢や希望がかなうこと、それだけでしょうか。私は幸せとは、すべての人に与えられ、いつも心の中で輝いているものだと思うのです。だけど、そういう小さな幸せは、道ばたに咲くタンポポの花のように、目を向けられるきっかけがなければ気付かれないものだと思います。
 私にとってこの癖は不自由ではあるけれど、癖のおかげで自分が多くの幸せに恵まれていることに気付きました。人はそれぞれ多くの悩みや苦しみを抱えていると思います。
 だけど幸せは絶えず輝き、皆さんに気付かれるのを待っているのです。身の回りにある「当たり前のこと」に目を向けてみてください。きっとそれらの小さな輝きを感じられると思います。そして今までより潤った心で毎日生活できると思います。それこそが幸せではないでしょうか。私はこれからも、たくさんの幸せを見つけていこうと思います。そして、いつまでも、その小さな幸せを感じていたいと思います。
 あなたは、幸せですか。たくさんの幸せを知っていますか。(1997年12月5日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/12

アメリカのプロバスケットチーム、NBAの元スーパースター、ボブ・ラブさんに学ぶ、吃音とのつき合い方

 スポーツニッポン新聞社・学芸部の山脇正章さんの文章の後半を紹介します。
 自信を持つことの大切さを、人はよく言います。どもっているのだから、何か他のことで自信を持たせたいと、どもる子どもの親からもよく聞きます。それは悪いことではないけれど、僕は、吃音としっかり向き合うことの大切さを強調してきました。
 ボブ・ラブのように、バスケットでは超一流で、自信があったとしても、引退してしまえば、その自信は幻になってしまいます。
 他者との比較で、何かに努力して得られたもので、劣等感を解消するのではなく、吃音との直面で得られる、「どもっていても、僕は僕だ。どもっていても、伝えたいことは伝える。どもる覚悟がある」という、自分の存在そのものを肯定することで得られることこそが、人生を歩んでいくための自信になるのだと思うのです。

夢をもち続けて (2)
   元祖スーパースター波乱の半生
           スポーツニッポン新聞社・学芸部 山脇正章


現役引退と再就職の厚い壁
 「吃音のコンプレックスと戦うために続けた」とボブが言うバスケット。
 だが、吃音に加え、そのころには持病の腰痛も悪化していた。1977年に現役生活の幕を降ろす。それからの15年は、55年の人生の中で最悪の時間だった。腰は車椅子生活を余儀なくされるほど悪く、妻からは「しゃべれず、歩けない人とこれ以上生活することはできない」と、三行(くだり)半をつきつけられた。
 同時に家も車も失い、妻は去った。
 ボブはバスケットボール選手の「ボブ・ラブ」として知られていたが、引退した後は、もはやスタンドで応援してくれる人はいない。現役引退は、彼を否応無く吃音と向き合わさせることになった。話すということに直面すると、現実は実に厳しいものだった。再就職は吃音が大きな壁となる。
 ボブが再就職のために様々な会社の試験を受けようとでかけると、「ようこそ、ボブ・ラブ。さあ、入って」と歓迎してくれる。しかし、スポーツの話ばかりで、誰も肝心のボブの仕事の話をしようとはしなかった。ボブは自分のことを売り込もうとしても、それさえ出来なかったのだ。何十回も断られた後、1984年、スーパーソニックスで2年間の競技生活を終えたシアトルにある、ノーズトロム会社がようやく引き受けてくれた。

屈辱の日々
 「ボブ、レストラン事業部で働かせてやろう。しかし君は他のみんなと同じように、下積みから始めないといけないよ」
 オーナーから手渡されたのは、モップとスポンジだった。最高年俸11万ドルを稼いだ男が、その日から、時間給4ドルの生活を強いられることになった。
 レストランの床と皿をひたすら磨き続ける毎日が続く。6ヶ月働き続け、その間一日も休まなかった。店にはラブを知る子どもたちや、ブルズの選手たちもやって来た。
 「おい、見てみろよ。ボブだよ」
 「ボブ・ラブ? 彼はすごいバスケットの選手だったんだぜ。オールスターにも出ていたし。それが今は皿洗いだって」
 彼らがささやくのが聞こえる。
 「ネを上げれば、自分のブルズでの栄光を汚すことになる。そんなバカげたことはない。この状況を前向きに捉え、未だかってない最高の皿洗いになろう」
 軽蔑の視線を感じながらも、ボブはこう決心をする。

初めて吃音と向き合う「天の声」
 そんなボブの姿をみて、とうとうジョン・ノーズトロムがやってきて言った。
 「ボブ、私たちは君が本当に良くやってくれているのに気づいていたよ。しかし、君が話し方をどうにかするまでは昇進させられないんだ。有名なスピーチセラピーがあるそうだ。もし君がそのために時間がいるというなら、そのための時間と費用は払ってやろう」生まれて初めて、個人としてのボブを真剣に考えてくれる人に出会ったような気がした。「天の声だった」。ボブは、シアトルのスーザン・ハミルトンという女性のセラピストのもとで吃音のセラピーを受け始めた。
 ボブは45年間もどもり続けている。彼の知っている唯一の話し方といえば、どもることだ。2、3度セラピーを受けたが、それが自分に合っているかは分からない。スーザンは、ボブのスピーチに関して、一から始めなければならなかった。声の出し方から教えるものだった。2年半通院する中で、スピーチセラピーだけでなく、これまでのプロのバスケット選手としての自分の人生に自信をもつようにと指導された。
 彼の自信はどんどん大きくなり、人の前では何も言えない状態から、2500人を前にしても話せるまで上達した。
 そして…。「声が、会話が戻った」と有頂天になった。

もうひとつの夢
 幼いころからずっと封印していたある「夢」を思い出した。牧師だった実父ベンジャミン・ラブと同じように大観衆の前で説教をすることだった。
 「数万人の前でプレーした俺だ。今度は人前で堂々としゃべるんだ。俺にできないことはない」
 運はあたかも天のベンジャミン・ラブに後押しされるかのように、舞い込んでくる。
 1992年50歳の時。ボブの苦難と成功を知った古巣のブルズ球団が「チームの親善大使にならないか」と申し込んできたのだ。地域への還元を目的としたコミュニティー・リレイションの専属メンバーに、という要請だ。
 一も二もなく了承したボブ。以後ボブは全米を飛び回る人気講演者になった。現役時代、記者の質問に答えられなかった男が、今では1年間で500回の講演会をこなし、時に1万人規模の集会でマイクを握る。子どもたちにバスケットの楽しさ、非行の愚かさ、そしてハンディがあっても夢を失うことの恐ろしさを説いて回る。

うれし涙が溢れた講演
ボブが人生で最も感動したのは、障害を持った子ども達のために基金を創設するイベントで、シカゴの懐かしいバスケットコートで話した時だ。
大企業の250人の経営者の前での講演に招待された。演題に上がって聴衆を見回したときが、ボブにとっては感動的な瞬間だった。なぜなら、現役時代、そのコートでプレーしていた時は、決して試合前のインタビュー、大活躍をしても決してヒーローインタビューで話すことがなかったからだ。ボブは思わず泣き崩れた。幸せで、泣かずにはいられなかったのだ。
 30分の講演をなんとか話し終えた時、彼らは障害を持った子ども達のために100万ドルもの基金を集めてくれた。
 ボブは講演で、このようにしめくくることが多い。

 「私には夢がありました。
 私は45年以上もひどくどもり続け、人前で話すことはできませんでした。私の夢のひとつは、本日皆さんの前で話しているように、大勢の前に立って、楽しかったり、苦しかった自分の人生について話すことでした。
 みじめで、辛く苦しいこともありました。しかし、どんなに悪いことが起ころうとも、夢をあきらめることはしませんでした。なぜなら、長い間しっかりと夢を持ち続けていたなら、きっと夢は実現すると信じていたからです。
 皆さんも必ず実現できます。私はいつかはできるようになってやると自分自身に言い聞かせました。ここにいる人みんなが、どんな夢であれ実現できるための愛と強さ、正直さを持っていると思います。皆さんそれぞれの夢を持ち続けて欲しいと思います。そして私は、全米の大学生や高校生に、私の話をして歩きたいという夢のために努力します」

 教師をしていた今の妻とも、そのような講演会がきっかけで知り合う。結婚式は1995年12月ユナイテッドセンターでのハーフタイム中に行われた。もちろんマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピペンも祝福の輪の中にいた。そして2万人の大観衆も。
 吃音治療に明け暮れた頃を思い返し、ボブは言う。
 「マクドナルドで注文さえできればと考えていては、今のようにはならなかっただろう。できれば父のように、あるいはキング牧師のようにしゃべりたいと考えていた。きっとなれると信じて。だって人生の10%は苦難だが、あとの90%はいいことなんだよ」
 バスケットで学んだ上昇志向が吃音治療にも実を結んだのだった。
 NBAの英雄に映画界も動いた。彼の半生を描いた作品の製作が決まったのだ。脚本はボブ自身が執筆した自叙伝が原作になる。筆はなかな進まなかったが、タイトルはすぐに決まった。
 『WORDS』。

おわりに
 大阪府八尾市でのバスケット講習会。ここでも約150人の生徒の前で弁舌をふるった。もちろん時々どもることはあるが、ひるむことなくユーモアと笑顔を交える堂々の講師ぶりだ。
 「マイケル・ジョーダンは世界一の選手。だが、偶然今のようになったわけでない。彼も夢をもって練習に打ち込んだ。それに豪快なシュートもパスする人がいなければできない。周囲の人たちから信頼され、信頼することが大切だ」
 そう言ってボブは、親善大使の功績で永久欠番になった背番10のユニホームを踊らせ、模範のシュートを打った。少年たちからは羨望の拍手が起こった。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/11

アメリカのプロバスケットチーム、NBAの元スーパースター、ボブ・ラブさんと吃音

 今日は、「スタタリング・ナウ」1998.5.31から、スポーツニッポン学芸部の記者・山脇正章さんの文章を紹介します。
 山脇さんは、ボブ・ラブさんの記事を書くにあたって、吃音の専門家からのコメントも入れて、万全を期したいと思い、僕に取材を申し込んでこられました。
 一般に吃音はボブさんのように治療を受ければ、治るものなのか、安易にこのままボブさんの体験を紹介していいものかというのが、山脇さんの吃音の専門家から取材をしたいとの趣旨でした。そして、僕に吃音に関する取材をして、それらを反映させて、ボブ・ラブの記事を書かれました。ボブさんの記事は3回にわたって、スポーツニッポンに伊藤のコメントつきで掲載されました。残念ながらその記事は見当たらないのですが、記事としては短いものなので、新聞紙面より詳しい文章を書いてほしいと依頼しました。「スタタリング・ナウ」のために書いていただいたのが今回紹介する文章です。
 しかし、僕は、このことをあまり覚えていないのです。山脇さんから取材を受けたこともすっかり忘れていました。今回、「スタタリング・ナウ」を読み返してみて、そういえば、そんなこともあったなあと思い出したくらいの記憶なのです。情けない話です。
 言語治療を受けてボブさんは話せるようになるのですが、僕は、「吃音症状」の改善だけに注目されると、ボブさんの体験を読み誤ると指摘したようでした。
 あまり覚えていなかったことですが、自信と劣等感の話題になったとき、僕はいつも、ボブ・ラブさんの話をします。僕の話の引き出しにしまってある、大切なエピソードなのです。
 スポーツニッポン学芸部の記者・山脇正章さんが書いて下さった文章を紹介します。 

  
夢をもち続けて
    元祖スーパースター波乱の半生
         スポーツニッポン新聞社・学芸部 山脇正章


はじめに
 「NBAの暴れん坊」ことデニス・ロッドマン選手が大勢の報道陣に迎えられ、成田空港に降り立った1997年8月26日午後。ちょうど同じころボブ・ラブさんは、大阪府八尾市内の高校で、地元のバスケ少年らを相手にプレー講習会を開いていた。
 蒸し暑い体育館。栄光の背番号10の入ったTシャツは汗にまみれ、褐色の肌を浮き出している。身長2メートルの見上げるような元スターに少年たちはやや緊張気味だ。ボブさんは彼らのあどけない表情と、40年前の自らの姿を重ね合わせていた。
 NBA(全米プロバスケット)の人気チーム、「シカゴ・ブルズ」のOBボブ・ラブさん(55)が、重度の吃音を克服、現在「チームの親善大使」として全米各地で講演行脚を続けている。そんな彼が昨年夏、グレース宣教会(八尾市)の招へいで初来日。吃音で悩んだ頃の話を中心に、バスケットの楽しさ、少年たちに夢を失うことの恐ろしさを説いて回った。くじけることを知らない男が語った波乱の半生を紹介する。(以下、敬称略)

貧しかった子どもの頃
 ボブは1942年、ルイジアナ州デリー市に、14人家族の末っ子として生まれている。2つの部屋に3つベッドがあるだけの家で、家族全員がベッドの上でも、ベッドの下でも寝るという貧しい生活だった。
 しかし、貧しいながらも学校から帰れば即、育ての親である叔母レイチェルのポシェットをゴール代わりに、バスケットに興じる、見た目には普通の快活な少年だった。
 だが、出稼ぎの実母はいつも不在で、たまに帰ってきた継父からは、ひどいせっかんを受けた。さらにボブには心に大きな重しがあった。
 それは、自らの吃音、言語障害だった。
 「母のいない寂しさや、継父の暴力も原因だったろう。学校へ行くのはとても憂鬱だった。吃音がひどく、だって答えが分かっていても、どうしゃべっていいのか分からないんだから」
 当時を振り返り、ボブは表情を曇らせる。
 田舎町には吃音を相談する場所も治療する場所もなく、幼心にもう吃音は治ることはないと思っていたという。
 ただレイチェルおばさんだけは、いじめられ泣いて帰るボブを抱きしめ、「この世に完全な人間なんていやしない」と励ましてくれた。舌がよく動くようにとアメ玉をなめさせられ学校のテキストをつっかえながらも無理やり読まされたこともあったという。
 ボブは貧困から抜け出すためには、勉強してバスケットボールを始めなければならないと、幼いときから気づいていた。ボブは今でも、最初のバスケットのリングをよく覚えている。それは、祖母からハンガーを盗んで輪にし、家の壁に釘で打ちつけた物で、最初のボールは靴下を丸めた物だった。ボブはいつも最強の選手と闘っているつもりで、ドリブルの真似をしていた。誰にもボールを渡さず、一度も負けたことはなかった。

五輪代表選手からプロへ
 高校3年の時、サザン大学の奨学金を得ることができ、ようやく十分な食べ物と栄養と学ぶ機会を得た。全米選手に3回選ばれ、オリンピックでもアメリカ代表に選ばれた。ボブは南部アメリカチームでは初めての黒人プレイヤーであり、そのことを誇りに思っていた。
 しかし、「周囲の人に隠れるような毎日」は、大学へ進学、五輪代表選手に選ばれた後も続く。
 1966年にNBAシンシナティー・ロイヤルズにドラフト指名され入団。NBAのポイントゲッターとしての輝かしい経歴を歩み始める。それでも、重度の吃音は相変わらずだった。
 「君は思った以上に言葉が不自由だ。これではチームメイトとコミュニケーションさえとることができない」
 移籍したミルウォーキー・バックスではシーズンの始まらないうちに解雇通告されたこともある。
 そして、トレードで入ったのがシカゴ・ブルズで、これがボブの人生の大きな変わり目になった。新天地のシカゴ・ブルズ時代。700を越えるゲームに出場し、そのうち90〜95%で得点王に。1977年の引退までに1万2623点をゲット。これは現在でもマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピペンに次ぐチーム歴代3位の記録だ。
 5回オールスターに出場し、全米プロにも4回出場した。このようにシカゴ・ブルズで輝かしい経歴を積んだという事実にもかかわらず、吃音のために、ボブは自分で獲得したすべての栄誉を受けることに尻込みしていた。ゲームが始まる前にインタビューを受けたことも、ヒーローインタビューに応じることもなかった。インタビューなどの、話し手としての報酬を一度ももらったことはなく、コマーシャルへの出演もなかった。ボブは吃音のために、年俸以外の収入は何も得られなかった。

プライドはずたずたに
 ある時、彼のプライドをズタズタに切り裂く事件が起こる。
 それは移籍から6年がたった1974年のこと。NBAの得点ランキング1位になった時だ。すっかりブルズの一員になったボブは地元ボーイスカウトのランチョン・パーティーに招かれた。会場には子どもや保護者たち3千人でびっしり。会は進み、当然のように司会者がボブを紹介する。
 「さあ、早く出てきて、スピーチなんかないから心配しなくていいよ。出てきてサインするだけでいいから」
 ボブが登場すると、会長はボブを紹介した。子どもや父親たちは立ち上がって5分間も拍手喝采で迎えた。すると突然、何人かが「スピーチ、スピーチ」と叫び出した。大喝采の中で戸惑うボブ。もちろん、一言も発することはできない。会場から「しゃべって!」と嘲笑まじりのヤジも飛ぶ。結局3分間一言もしゃべれず、立ちつくすだけだった。
 会場を飛び出し、車の中で泣きわめいた。大勢のファンの前で、バスケットコートとのギャップを見せつけて情けなかった。神に「私にしゃべらせて」と涙ながらに祈った。
 けれども、ボブの人生がいつも暗かったというわけではない。ボブは社交的な性格で、友人にも恵まれていた。ボブがどもることで、みんなの雰囲気が良くなることが何度もあった。よくボブが思い出すのは、近所の飲み屋でみんなが冗談を言い合ったときのことだ。ボブの番が来て、いつものようにひどくどもりながら話し始めると、しばらくして、一人の友達が言った。
 「聞いてごらん、ボブの話し方、ブクブクブクと、風呂に入っているみたいだ。ちょっと待ってボブ。みんなでトイレに行って来る。戻ってくるまで、まだオチまで行っていないだろうから」
 このような友達のユーモアや温かい理解が、ボブがひどく落ち込むのを防いでいたようだ。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/10

アメリカのプロバスケットチーム、NBAの元スーパースター、ボブ・ラブさんに学ぶ、吃音とのつき合い方

 今日は、1997年7月12日付けの読売新聞の記事を紹介します。
 華やかな超一流のバスケットボール選手から一転、吃音のために不本意な生活をしていたボブさんが、自らの吃音を認め、どもっても大切なことを伝えていこうと方向転換をしていきます。そして、世界中を回って、心の問題や生きることの大切さを考える機会になればと講演活動を始めました。そのことを記事は伝えています。
 
全米プロバスケ元スターが講演
     「生きる」大切さ 一緒に考えよう


 NBA(全米プロバスケットボールリーグ)の人気チーム「シカゴ・ブルズ」の元スター選手で現在はチームの親善大使ボブ・ラブ氏と同チーム専属の牧師ヘンリー・ソールズ氏が17日と20日に相次いで来日、八尾市や東大阪市などでバスケットボール講習会や講演会を開き、中、高生らに夢と希望の尊さを訴える。

19日から八尾などで 障害克服や夢語る

 ラブ氏は1945年生まれ。70年代に大活躍し、生涯得点1万2623点はマイケル・ジョーダンについでチーム歴代二位の記録。背番号10は永久欠番になっている。
 子供のころから、言語障害に苦しみ、周りからいじめられたりした。77年、華やかだったプロを引退してからは、その障害のため、再就職できずレストランの皿洗いなどで生活していた。しかし、そうした生活を8年間続けた後、1年半の会話練習で障害を克服、ブルズから誘われて親善大使となった。現在は年間500回を超える講演を行っている。
ソールズ氏は、アメリカンフットボールのシカゴ・ベアーズや野球のシカゴ・ホワイトソックスの専属牧師を経て、79年からブルズ専属に。毎試合前、選手らを相手に祈りの時間を持つほか、選手らの相談相手にもなっている。
シカゴの教会と交流を行っている八尾市東山本新町1、福音自由教会「グレース宣教会」が昨年、八尾市内の高校生をシカゴに派遣したところ、シカゴ側から「今年はラブ氏とソールズ氏を来日させたい」と申し出があり、来日が実現した。
 グレース宣教会の岩橋竜介牧師は「神戸の小学生殺害事件で日本の中高生は何らかの動揺を感じている。保護者も含めて心の問題や生きることの大切さを考える機会になれば」と話している。講演会やバスケットボール講習会参加の問い合わせは同教会(0729・97・4838)へ。  (読売新聞 1997.7.12)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/09

アメリカのプロバスケットチーム、NBAの元スーパースター、ボブ・ラブさんと吃音

workbook cover 解放出版社の『親、教師、言語聴覚士が伝える、吃音ワークブック』の中に、〈著名人でどもる人〉というワークを作りました。いろんな分野でたくさんのどもる人が活躍されているのが分かります。あまり話さなくてもいい分野でこつこつと取り組まれた人、あえて話すことの多い分野に挑戦された人、それぞれにいろいろな思いがあります。ご自分で、自身の吃音を公開されている人も少なくありません。紹介されている、吃音にまつわるエピソードには共感できるものも多く、身近な存在に思えてきます。
 今日、紹介するのは、NBAの元スーパースター、ボブ・ラブさんです。僕自身はあまり知らなかったのですが、取材を通して知ることになり、彼の人生から学ぶことがたくさんありました。
 「スタタリング・ナウ」1998.5.31 NO.45の巻頭言から紹介します。

自信と劣等感
            日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「吃音のコンプレックスと戦うためにバスケットを続けた」
 NBAの元スーパースター、ボブ・ラブさんの半生は、自分の苦悩の人生をかけて、あるいは通して、大切なことを私たちに伝えて下さっている。
 ボブさんがバスケットで得た数々の栄光は、自信は、吃音の劣等感を和らげることにはならなかった。それでも、バスケットに集中できた現役時代には吃音を無視することができた。しかし、現役を引退すると吃音と向き合わざるを得なくなる。現役を引退して、吃音と向き合うことになった15年間を、ボブさん自身、「最も苦悩に満ちた屈辱の日々」と述懐する。
 なぜこのようなことが起こったのだろう。それは、ボブさんがバスケットの技術は超一流でも、吃音とつき合う術を知らなかったからだ。吃音については、治療も含めて何も試みなかった。話すことも、公的なスピーチだけでなく、マクドナルドでハンバーグを注文することすら避けていた。
 レストランのオーナーに吃音治療をすすめられ、いいセラピストに出会えたことは幸運だった。そのセラピーの中で、初めて吃音と直面ができ、真剣に吃音に取り組めた。
 「重度の吃音者が、吃音を克服してブルズの親善大使として成功する」
 このように新聞で紹介されるボブさんの体験は、一般的には、言語治療の成功例として受け止められる。《1年半の会話練習で障害を克服》などと、言語治療で話せるようになったことがあまり強調されると、吃音治療は効果があり、ボブさんのように努力をすれば治るのだととらえられる。
 しかし、私たちはそうは思わない。言語治療は、ボブさんが初めて吃音と直面し、吃音に取り組むきっかけを作ったに過ぎない。会話練習そのものよりも、40歳を過ぎるまで取り組まなかった吃音に、直面し真剣に取り組んだことが重要なのだ。
 「劣等感をバネにする」という生き方がある。確かに、劣等感をバネにして、努力し、何かを成し遂げたと紹介されるいわゆる偉人は少なくない。「今に見ていろ、私だって」と、自分に劣ったものがあると意識した時、それに代わるもので自信をつけようとする。そのことで一定の成功感、自信を得ても、劣等感をもった事柄に向き合う事がなければ、その自信は、砂上の楼閣のようなものだろう。
 自信は、「何かに他者より優れできる」というような相対的な自信と、「例え何々ができなくても、私は私だ」という揺るぎない自己信頼感からくる自信の二通りがあるように思う。相対的な自信は不安定だ。常に強敵は現れ、競争にはきりがない。またそれを維持するための不安も起こる。相対的な自信だけでは、自己信頼感は生まれない。
 どうしたら自己信頼感が得られるのだろうか。できないことはできないと受け入れ、劣等感をもった事柄に直面し、不安や恐れがあっても、その苦手なものに取り組む過程の中でこそ、自己信頼感が生まれ、育っていくのではないか。
 ボブさんの場合、バスケットで得た自信をどうすれば生かすことができたであろうか。話題は自信のもてるバスケットに関してのことだ。自信のあることは比較的話しやすい。逃げる事なく、どもっても試合後のインタビューを引き受ける。そうしていれば、例えひどくどもりながらインタビューで話しても、ボブさんが恐れた嘲笑したり蔑む人が中にはいたかもしれないが、多くは聞いてくれただろう。どもったからと言って、選手としての実績、栄光には変わりはないことに気づいたことだろう。
 ボブさんの体験は、吃音を隠し、吃音から逃げるのではなく、吃音に直面し、それに真剣に取り組むことの必要性と大切さを教えてくれている。
 「吃音を忘れて何かに打ち込もう。吃音以外の何か自信をもてるものを見つけよう」
 これらが、あまり役に立たないことをボブさんの半生が示してくれている。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/07

佐野浅夫さんの素晴らしかった「島ひきおに」の語り

佐野浅夫 新聞記事 水戸黄門役で有名な俳優・佐野浅夫さんが96歳で亡くなられたと、ニュースで知りました。水戸黄門が有名ですが、僕たちにとっては、「夢贈る童話の語り部」としての佐野浅夫さんも、強く印象に残っています。
 1984年8月12・13・14日、京都エミナースで、第18回言友会全国大会を開催しました。そのとき、佐野浅夫さんに、講師として来ていただきました。
その2年前の1982年、どもりなから豊かな表現をしたいと、「表現よみ」を大久保忠利さんから学びました。そして、前年の1983年には、俳優の沼田曜一さんに、「民話の語り」として、来ていただきました。その流れで、1984年は、佐野浅夫さんだったのです。
 佐野さんは、NHKのラジオ番組「お話でてこい」で、童話を語り続けておられました。
 大会の資料集が手元にありますが、そこには、1984年3月19日付けの日本経済新聞の記事が掲載されています。茶色に変色した紙面の見出しは、『夢贈る童話の語り部 ◇「お話でてこい」聴取者と共に歩んだ30年◇』とあります。読みにくいのですが、少し拾ってみます。

◇心のひだを語りたい
 私がNHKから「お話でてこい」の出演依頼を受けたのは昭和29年3月で、ちょうど第五福竜丸が水爆実験で被災し、大騒ぎになっていたときだった。私はこれに先立つ終戦の年、広島で演劇仲間を原爆でいっぺんに失っている。第五福竜丸事件で、そのとき感じた言いようのない悲しさを思い出した。NHKの仕事を引き受けたのは、平和と子どもの幸福を思う気持ちからだった。
 ラジオは童話を語るには最適だ。映像が見えないから、自由にイメージが広がる。何より夢がある。子どもたちは、ラジオからあふれ出てくる童話の世界に素直に入ってきてくれた。熱烈なファンレターが毎週いっぱい送られてきた。
 面白かったのは、子どもたちが書いて送ってくる私の似顔絵が、ほとんど例外なく、ハゲ頭でアゴに白いひげをたくわえている、おじいさんだったことだ。「まだ、二十代なのに、こんなイメージなのかなア」と苦笑すると同時に、子どもたちの夢を大事にしてやりたいと思ったものだ。
 童話の語りは私のライフワークの一つだと思っている。しょせん、私は一人の俳優であり、一人の語り部である。肉体で表現し、語ることを仕事とする者だ。
 ただ、中身のない人間を演じることだけはしたくなかった。人間一人一人のもつ喜びや悲しみ、内面の心のひだといったものを表現して、はじめてその人間を描ききることになるのだと思う。語るということは、心を語るということだ。この心を失ったら俳優としても語り部としても失格する。これを自分の戒めとしてきたし、また今の自分の原点でもある。

◇「百歳までも」と黒柳さん
 関係者の温かいご支援のたまものなのだが、今度三十年を迎えるにあたって、「佐野浅夫―語りの世界―」というLPレコードを出す運びになった。私の特に好きな童話である「泣いた赤おに」と「島ひきおに」を収録している。今までの自分の俳優生活の総まとめのつもりで、脚色、構成、主題歌の作詞まで自ら試みた。
 どちらの話も、人間と仲良くなりたいと願う鬼が主人公である。赤鬼は、青鬼の犠牲で念願を果たすが、最後に青鬼の友情を思って一人涙を流す。島ひき鬼は、だまされたとも知らずに、人間の友情を求めて海の中をさまよう。二つの童話は、友情のかけがえのないことを人に教えている。
 私はかねてから、電車のシルバーシートが嫌いだ。全車両のうち一定の場所だけを指定して、それ以外の場所では、皆、我関せず、のような顔をしている。全車両がシルバーシートであってほしい。このシルバーシートをなくすまで、私は「泣いた赤おに」と「島ひきおに」を語り続けるのだ、と決心している。(後略)
 
 僕たちの前では、佐野さんが大好きだという「島ひきおに」を語って下さいました。すぐ目の前での語りは迫力がありました。話の中にぐいっとひきこまれたことをよく覚えています。また、佐野さんは、僕たちの「吃音者宣言」をすばらしいと言って下さり、これからの講演で、このことを伝えていきたいとおっしゃいました。講師として来て下さった方から、このような心強いことばを聞いて、とてもうれしく思いました。
 温和なお顔と語り口は、今でも心に残っています。
 訃報に接し、38年前の出会いを思い出しました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/05

セルフヘルプグループと吃音 (4)

ガイドブック セルフヘルプグループ表紙 松田博幸さんの話のつづきです。今日で最後です。大阪セルフヘルプ支援センターの活動について話していただきました。僕も、以前は、電話当番をしたりして活動していましたが、今は、吃音のことで忙しくなり、遠ざかっています。あの頃、共に活動していた人たちとは、信貴山で合宿したり、講演会を開いたり、活発に活動していました。とても楽しく活動をしていました。その仲間たちと僕とで、朝日新聞厚生文化事業団から「セルフヘルプグループ」という冊子を作りました。僕が編集したから言うわけではありませんが、セルフヘルプグループ関連の本ではベストなものだと思います。たくさんのグループのリーダーと専門職者が書いてくれました。もう絶版になりましたが、朝日新聞厚生文化事業団の好意で、日本吃音臨床研究会のホームページの中の、「セルフヘルプグループ」のコーナーに全ページを掲載しています。セルフヘルプグループに関心をもたれる方におすすめです。お読みいただければうれしいです。大阪セルフヘルプ支援センターとの出会いは、僕の財産です。

セルフヘルプグループとのかかわり (4)
                  日本福祉大学(当時) 松田博幸

グループを支援する活動
 セルフヘルプグループを支援する活動についてふれます。日本では、まだあまり注目されていませんが、いろんなセルフヘルプグループの活動を支援する機関が大切であり、ぜひ必要ではないかと思っています。
 アメリカ、カナダ、ドイツではそのような機関がたくさんあり、一般的に、セルフヘルプ・クリアリングハウス(情報センター)と呼ばれてます。
 日本では、「大阪セルフヘルプ支援センター」が1993年に始まり、関東の方では、準備委員会ができて、ぼちぼち活動を始めています。
 そのような機関では、次のような活動が行われています。

1.いろんなグループの情報の提供
 セルフヘルプグループは、大抵、小さいグループが細々とやっていますから宣伝も十分じゃないし、一般には知られていない。だから、ある人が生き辛さを抱え、その気持ちをわかちあいたいと思っても、どこへ行ったらいいか分からない。そこで、いろんなグループの情報をいっぱい集めて、“自分はこんなしんどさを抱えているんです。同じ仲間の人に会いたいんです”という相談があれば、“こんなグループがありますよ”と紹介を行う活動が行われています。

2.グループ作りやグループの運営に対する支援
 悩みを抱えている人にぴったり合うグループが見っかるといいけど、そんな場合ばかりではありません。グループがない場合、グループを作りたいという人が出てきます。グループを作りたい、仲間がほしいと思っても、まず何をしたらいいのかが分からない。
 また、すでに活動を行っているグループも、お金、活動の場所、人をどうやって集めるか、専門家とどうやって関係を作っていったらいいかなどいろんな問題を抱えています。しかし、そんな問題を相談する場所がありません。
 それで、セルフヘルプグループを支援するセンターでは、そういった相談に応じるいろいろな活動もしています。例えば、アメリカやカナダでは、グループ作りの手引書を作って配ったり、グループ作りのビデオを販売したり、グループのリーダーの研修会を開いています。いろんなグループからグループのリーダーが集まってきて、グループの運営について研修を受けるわけです。

3.グループのことを専門家や一般の人たちに分かってもらう
 こういうグループが本当に大事だということが、一般の人々の間でなかなか理解されていないのが現実です。一般の人たちが分かっていないだけでなくて、社会福祉、医療、保健、教育などの専門家の人たちも結構分かっていない。グループの実態を知らない。
 それらの人たちに、“セルフヘルプグループはこんな値打ちがあるものなんですよ”ということを伝える活動が行われています。「大阪セルフヘルプ支援センター」では、年に1回、「セルフヘルプグループ・セミナー」を開いていて、大阪吃音教室の方も来ていただいているのですが、いろいろなグループの人が集まります。そして、それぞれのグループでどんなことをしているのかを、グループのメンバーの方々に発表していただくのですが、そこに、一般の人とか専門家の人が参加できるようにしています。

おわりに
 最後になりましたが、こういったセルフヘルプグループというのは、みんなが使える方法だと思っています。一部の障害、病気、何らかの問題を持った人だけが使える方法ではなくて、誰でもが使える方法ではないかと思います。みんなそれぞれ何らかの生き辛さをもって生きていると思います。ですから、こういった方法がどんどん広がり、いろんなグループができて、みんなでセルフヘルプグループという方法をわかちあっていけるといいなと思います。
 「大阪セルフヘルプ支援センター」で活動している者として、今後、セルフヘルプグループの可能性を広げていくことができればと思っています。

 松田博幸さんに、大阪吃音教室で、お話していただきました。それをテープ起こししたものです。文責は『スタタリング・ナウ』編集部にあります。(了)
(「スタタリング・ナウ」1998.4.18 NO.44)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/03

セルフヘルプグループと吃音 (3)

 松田博幸さんの話のつづきです。グループと出会って、グループの中で段階的に成長した個人について、またグループ自体の変化について話していただきました。
 日本ではまだセルフヘルプグループの紹介も、名称も使われていなかった頃、僕は、どもる人のセルフヘルプグループである言友会を創立しました。世界のセルフヘルプグループと同じように、僕たちも、成長し、変化してきたのだなあと思います。

セルフヘルプグループとのかかわり (3)
                  日本福祉大学(当時) 松田博幸

CRグループの例から
 あるグループを紹介したいと思います。
 CRグループ(Consciousness-Raising:意識覚醒)というのがあります。これは、アメリカの女性解放運動のなかで出てきたグループです。女性が女らしさからときはなたれるグループです。女らしさは周りから押しつけられます。人は、女らしさのイメージを知らず知らずのうちに内面化して、つまり心に取り入れて、大きくなっていっている。それがあるためにときはなたれない。
 グループで行われていることは、先ほどお話しした「わかちあい」と同じです。女性が集まってきて、自分自身について話します。他の人はそれに耳を傾ける。議論したりはしない。誰かが何かを言ったら、それに対して「あんた、それはおかしい」とか「そんなことを考えたらあかん」などとは言わない。言いっ放し、聞きっぱなしのグループです。
 「ここでは生身の自分が出せる。そう思ったら本当の生身の自分が出てしまって、ああ相当鎧を着ていたんだなあと分かりました」
 参加している人の感想です。つまり、女性らしさを意識して、人とつきあうにも鎧をいっぱい着てつきあっていたが、グループでは、生身の自分が出せて楽になりましたということです。
 「ここで話していると、温泉に入ってぼけーとしているみたい。裸で浮いていても隠さなければならないものが何もないというこの心地よさ。この関係が他に一体どこにあるのかと思う」
 こんな面白い感想もあります。
 グループに来たら何も隠さなくていい。社会のなかで生活していると、自分自身を隠して、鎧を着て、窮屈な思いをしていますが、グループに来たらそんな部分をぱーっと開ける。温泉に入っているみたいだと言うのは面白いですね。
 「自分はなかなか動けないけれど、変わっていけてる人の近くにいると、元気が出るということが私には重要でした」
 こんな感想もあります。グループのなかで人間とはどんどん成長していくわけです。そして成長している人を見てると、自分もああいうふうになれるのかなあと思えてくる。そして、元気が出てくる。
 CRグループのあるメンバーが、グループで生じる個人の変化とグループの変化を、自分自身の体験をもとに整理しています。
 その人は、自分は、グループのなかで4つの段階を経て成長したと言います。

〈第1段階〉
 世間や常識という薄い膜に包まれて「〜すべき」という規範を抱え込んで生きていた。自信がないので、「〜すべき」「〜すべきでない」という規範を強固に取り入れ、合わせようとしていた。しかし、それは自分と折り合わず心身症を起こしてしまった。“人間はこうでないといけない”“こういった生き方をしないといけない”というラベルが、いっぱい張りついていた。“べきべき”で、結局しんどくなってしまっていた。

〈第2段階〉
 他者と関わると吸収されてしまう感じがあって距離を置き、いつも他者の考えを優先していた。
 人に見捨てられるのが怖い。自分の意見を言うと、その人から見捨てられそうな気がする。だから、言いたいことも言わずに、適当に自分をけずって合わせる。イエス、イエスとニコニコしている。そんな状態だった。

〈第3段階〉
 私は「〜したい」「〜したくない」という自分の感情が明確になってきた。自分のことを話すと、今まで自分の見たくなかった部分も出して話している。そしたら、自分が「〜したい」ことや「〜したくない」ことがすごくはっきり出てきた。

〈第4段階〉
 「私」が確立した。私を主体として考えるようになった。主観と客観を分離して物事をみることができるようになり、自分は自分だ、人は人だ、そんな感じが生まれてきた。

 それまでは自分自身を人の目を通して、社会の目を通して、自分自身を見、自分自身に低い評価をしていた。それが、自分自身の目で自分自身を見ることができるようになる。そしたら、「〜すべき」という規範が薄まって、他者を個々人としてとらえ、かかわれるようになる。自分が確立すると、結構、人というのもひとりひとり違うんだなということが分かってくる。そして、人との関係をうまく作れるようになる。
 みなさんも、こういった感じのことをグループで体験されていると思います。最初は、「〜すべき」「〜すべきでない」があって、結構、窮屈な感じをもっていたのが、グループのなかで、自分のことを話して、人に聞いてもらえると、すごく楽になっていく。今まで押さえっけていたものがとれてきて、自分は「〜したいんだ」「〜したくないんだ」がはっきりしてくる。自分の輪郭がはっきりしてきて、人と自分とは違うものだということを感じながらもうまく関係が作れる。
 セルフヘルプグループで行われていることは、そういうことだと思うんです。
 その人は、個人である自分が変化した過程と同時に、グループの変化についても4つの段階に整理しています。簡単に見てみます。

〈第1段階〉
 グループに来てもみんな殻にこもって、わかちあいを始めていない段階。

〈第2段階〉
 それぞれ自分のことを話し出し、みんな一一緒だったんだと思えるようになる。それまでは、殻を閉じていたわけですが、わかちあいをすると、殻が取れて、むき身のあさりのような状態になる。

〈第3段階〉
 「〜すべき」という考え方がとれてきて、「〜したい」という気持ちがどんどん出てくる。

〈第4段階〉
 それぞれのメンバーが、自分を知り、他者を知るようになる。自分が見えてくるし、そのことで他者が見えてくるようになる。そして、メンバーの間に対等な関係が生まれる。(つづく)
   (「スタタリング・ナウ」1998.4.18 NO.44)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/02
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