伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年06月

気持ちを表現する

毎月のニュースレター「スタタリング・ナウ」と年報「竹内敏晴の世界」の編集と印刷屋への入稿、開催を決めた吃音親子サマーキャンプや吃音講習会の案内作成など、多くの、今、しなければいけない仕事が重なり、しばらくブログ、Twitter、Facebookをお休みしました。
 体調を崩した訳ではありません。また今日から、ぼちぼち続けていきたいと思います。
 今日は、1998年2月21日 NO.42の「スタタリング・ナウ」を紹介します。先日、紹介した松尾さん親子のどもり旅の続編として編集したものです。まず、僕の巻頭言から紹介します。

  
気持ちを表現する
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

ガイドブック セルフヘルプグループ表紙 松尾君の担任、田嶋先生の松尾君への文章を読んで、思いがけず涙が溢れた。すでに彼から何度も聞いて知っていたことなのに、なぜこう涙が溢れたのだろうか。
 この1カ月、春に出版される『朝日福祉ガイドブック―セルフヘルプグループ―』(朝日新聞厚生文化事業団)の編集にかかりきっていた。
 私を含め12人が、「セルフヘルプグループの私」を書いている。誰にも悩みを話せず、独りぼっちで悩んできた人達。分かってもらえない辛さと、分かってくれる人との出会いの喜びの体験を、繰り返し読んでいる最中だっただけに、松尾君のことを分かろうとする田嶋先生のかかわりがうれしかった。また、私が子どものころ、田嶋先生のような教師に出会うことができなかった無念さも込み上げてきた。教師は誰ひとり、私の悩みを分かってくれなかった。そればかりか、教師の対応によって、私の人間としての尊厳は傷つき、人間への不信が芽生え、それは増幅していった。
 うれし涙と、無念の涙だったのだと気づいた。


 「田嶋先生は、僕のこと分かってくれてるねん」
 松尾君はことも無げに言うが、小学4年生のことばとしては、このことばは実に重い。先生が分かってくれていると実感でき、それをこのようにことばにする。このふたりの関係の深さを思う。
 「話すのは死ぬ思いや」
 松尾君は母親に言う。
 家族にまで吃音の辛さや悩みが言えないのは、親に心配させたくなかったからだというどもる人は少なくない。心配だけでなくそう言われて立ち往生するかも知れない母親に、このことばが言えること、このこともまた深い。母と子の信頼があってのことばだ。
 松尾君と担任教師との、また松尾君と母親との信頼関係が前提にあったからこそ、吃音親子サマーキャンプでの私たちとの出会いが活きた。
 今春、松尾君は中学1年生になるが、先だって中学1年生が「きれて」英語の教師を刺殺した。
 街頭の50人の中学生への面接調査によると、「むかつく」「きれる」ということばを日常的に使っている中学生は9割いる。また、「むかつくのは分かるが、切りつけたりは理解できない」という子どもが多い一方で、15人のもの中学生が、「よくやったと思う」「自分もきれたら何をするか分からない」「少年の気持ちがよく分かる、先生を殺してやりたいと思ったことがある」などと答えている。(1998.2.6朝日新聞)
 子ども達には、教師は自分たちのことを分かってくれていないという思いが常にあるのだろうが、なぜこうも「むかつき、きれて」、このような事件を起こしてしまうのか。
 文部省はまた、あわてて、《こころの教育》を叫ぶ。上から教えるという、このような構えたものではなく、「気持ちや、思いをもっと表現しようよ」と、子どもに伝えたい。
 子どもの分かって欲しい気持ちを、大人が分かろうとする想像力をもつと同時に、子どもたちも、自分の気持ちをことばにしていくことが必要だ。
 「悲しい・苦しい・悔しい・うれしい」ことをことばに出して言う。腹が立ったら、「ムカツク」だけでなく、もう少し詳しくことばにする。
 喜怒哀楽の感情を、自分のことばで表現できる子どもになって欲しい。そうなるために、子どもの頃、情報伝達のことばが育つ前に、表現としてのことばをいっぱい言っておくことだ。
 中学生による教師刺殺事件は、自分を表現できることばを子どもの頃から育てる必要性を提起している。
 少なくともどもる子どもにかかわる私たちは、どもらずに流暢に話すことばより、どもっても自分を十分表現することばを大事にし、育てていきたい。
 「先生は、僕のこと分かってくれてるねん」
 「話すのは死ぬ思いや」
 松尾君のこのことばをかみしめたい。(1998年2月21日)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/09

吃音と自己表現 3

 少し長くなりますが、今回で、この鼎談の紹介を終わります。この鼎談が行われたのは、今から25年くらい前のことです。読み返してみて、全く色あせていないと思いました。
 内須川洸さん、平木典子さん、そして話の中に出てくる竹内敏晴さん、改めて、多くの方の支えの中で活動を続けていることを思いました。
 内須川洸さんは、日本の吃音研究の第一人者で、長年、日本吃音臨床研究会の顧問をして下さり、1986年の第一回吃音問題研究国際大会の顧問でもあり、ずっと私たちの活動を見守って下さっていた人でした。今回、僕は、久しぶりにこの鼎談を懐かしく読み、内須川さんのことを思い出していました。
 どもる子どもの教育、成人のどもる人たちの生き方にヒントがいくつもありました。
 
 では、1997年9月13〜15日に開催された、第4回吃音ショートコースの最終日の鼎談を紹介します。これで最終回です。

人と人との触れ合いにも流れがある
内須川 人と人の触れ合いの流れのようなのがあって、リズムよくごく自然の中で言葉が出ると、その言葉は生きてるわけ。言葉だけ取り上げると、どもってる、おかしいと言えるかも知れないけど、人間関係の流れの中に埋め込まれていくと、極めてそれが生きる。そういうことなんじゃないかな。
 人間関係の流れを変な方向に断ち切らないようにすることが大事で、そのためには自分の感情を素直に人の前に出せることが前提であって、そのことが大事なんじゃないのかと思います。
 そういう関係から引き抜いて、ことばそのものを滑らかにしようと一生懸命になると、流れそのものの中のセンシティビティーがなくなって、おかしなものができると僕は思うんです。
 どもる人たちが集まっているときに話す言葉は確かにどもってますよ。どもっているんだけど、そこには笑いがあり、流れがあり、人間関係があるわけでしょう。そういう流れを見てると楽しいですよ。これが生きてるってことじゃないか。関係が生きてるってことだと僕は思う。それがただ、どもらない人の間に入った時に、そう簡単にはいかないんだな。

平木 今の話で、流れという意味では、普通の人達のところで気がつかされることが一つあるんです。
 自己表現の中でも、あるいはカウンセリングの中でも、緊張したり、言葉が詰まったり、うまい言葉が思いつかなかったり、どもらない人でもひっかかることってたくさんあります。そういう時に、「今、緊張してるんですけど」と言ったら、緊張は下がるんです。自分の気持ちの流れをちゃんとその人が動かしてるんです、途切れてないわけです。「ちょっと待って下さい」と入れても良いんですけど、そうすると、緊張してる、緊張してる、どうにかしなくっちゃと止まってしまうよりも、ずっと早く元に戻っちゃうんですよね。
 「緊張してます。ちょっと待って下さい」「ちょっと今言えません」と言ってると、自分の気持ちが流れていく。ことばの教室の先生方のKJ法図解の中に、先生に「僕はどもるんだ」と言えるようになることがとても大切だというのを見た時に、似たようなことを思ったんです。「僕はどもるんだ」と言うのは「今、緊張してます」と言うのと、似てると思うんです。自分の心の流れの中を表現して言っているわけですから。

伊藤 どもる人が発言をする時に、「僕はどもります」と言うと、とたんにどもらなくなることがあります。
 どもりたくない、どもってはいけないと思って、その不安が緊張になってどもってしまうわけだから、それを先取りしてしまう。僕はどもるんだから、どもって当たり前。だから、聞き苦しかったり、分かりにくかったら質問して下さいと前置きをするととたんにすっと喋れる。これは、先ほどの「今緊張してます」と言うこととつながる。

平木 それは自分の心の流れには逆らってないですね。

伊藤 今自分の動いている気持ちを口に出すというのが、とっても大事じゃないかと思うんですね。

内須川 僕は吃音の方と接してみて感ずるのは、人間関係の中で、ことばがどもる以外に、吃音の方は心の動きが前に向かない、戻っちゃう。何かあるとすぐ引っ込む。防御の姿勢になるんです。心の動きが戻れば人間関係が遮断される。バックすることで人間の関係の流れを自分で切ってしまうというところがあるんじゃないのかな。だから、切らないように、言葉が出なければ、言葉以外の身振りでも手振りでも視線でも笑いでもなんでもいいからそれを出せば、僕は戻らないですむんじゃないかなと思うんです。
 そう考えると、なぜ戻るのかという問題が出てきます。これは吃音にももちろん関係あるけれども、どもったという経験、それによって笑われたとかパニッシュメントを与えられたとかあるかも知れないけども、やはり小さいときからの人間関係のありかたのようなものがあると思うんですよ。
 年齢を重ねると人間関係を経験する。しかも人間関係の流れに失敗経験を重ねると、どうしてもそういうものがだんだんと強くなってくる。言葉の症状もだんだんと進んでしまって、困難な状況に入っちゃう。こうなると、言葉の困難性からまた不安の芽が出てくるというふうに循環しちゃう。

平木 そういう悪循環はいろんなところで起こります。
 さっきの幼稚園の子どもの家族の話でも悪循環が起こっているわけで、いい循環に変えることは誰でもできるけれど、一旦悪循環にはまるとなかなか出られなくなります。自分の中の循環をいい循環に変えるのもどこでもできるはずなんですけど、それが断ち切らないんですよね。

内須川 難しいですね。そう簡単にはいかないんでしょうね。ですからそういう心理的な背景が仮にあるとすると、心理的なものは自分で自由自在にコントロールできないから、変えていく何かをしなきゃいけないですね。先ほどの例でいえば、今ここに集まっているどもる人たちが、言葉の面ではどもってる。けれども、実際はコミュニケーションがうまくできて、しかもみんな笑ってね、どもればアッハッハアッハッハ笑ってる。ところが、どもりでない人のところでそれができるかというとできないんだよね。
 自分の感情を相手に出せるタイプの吃音の方、私は外国でそういう先生にお会いしたのです。吃音学者でね、非常に魅力的な方で、その人ものすごく詰まってどもるんですよ。授業でどもるとね、ニヤッと笑うんですよ。そうすると、ワーッて学生皆笑うんですね。すると場面がパッと変わっちゃう。それで人気が非常にあるという人がいましたけどね。こういうやり方が使えれば良いんですよ。
 言葉が詰まるからというのじゃなく、その人が吃音をそういうふうに受けとめて、自分の魅力にしてる。学生はわんさわんさやって来る。そういう人がいらっしゃいます。

伊藤 大人になってから、いろんなしがらみやプライドが出てきた中で、それをしていくというのはすごい難しいんですね。だから、やっぱり子どもの頃からのことを根本的に考えなきゃならないだろうと思います。
 去年この吃音ショートコースに来て下さった、竹内敏晴さんが、言語には情報伝達の言語と、表現としての言語と、そして呼びかけの言語があるとおっしゃいましたが、ある話し合いの中で、こんなことを話しました。
 言葉が一語文、二語文と発達していく中で、「あんたの言ってることは分からないでしょ。もっとちゃんと言いなさい」と、情報伝達型の言語をちゃんと言うことを子どもの頃から要求され、情報伝達型の言語にどもって生活をしてくると、自分を表現する言葉を忘れていってしまう。そんなすごい欠落をして、情報伝達の言語を滑らかに流暢にしようとばっかり思ってると、ますますできなくなってくる。そこで、しばらくの間は、情報伝達の言語はあきらめて、自分を表現する言葉を徹底してやっておく。それが基礎にならないと、情報伝達の言語まではいかないんじゃないかなあ。
 子どもの頃に、音楽でも絵でも、どんなチャンネルを使ってでもいいから自分をいっぱい表現する、そこらあたりを徹底的にしないと、情報伝達の言語まではいかないかなあと思うんです。

平木 本当にそういう意味では今日本の教育は、その逆の教育をしすぎていると私は思うんです。子ども時代は、言葉の意味が分からないところから育っていくわけなので、どちらかというと、情報伝達的なものは一切なしにして、その人の表情、動き、声の調子とかでみんな情報をもらってるんですよね。だから、ほとんどが非言語的なものから子どもはたくさん情報をもらうことに優れています。
 例えば、お母さんが優しい顔をしないでにらんだような目をして「こっちへいらっしゃい」って言ったっで、子どもは来ないんです。どっちかって言うと、「こっちへいらっしゃい」なんか聞いてない。変な目してみてるというのをちゃんと見てるんですよね。それくらい子どもというのは、いろんな伝達方法の中で、言葉以外のものをたくさん吸収して、相手の言わんとしていることを判断することができている。どちらかというと、子どもの方が本音をちゃんと見取ることができるような状況であるのに、言葉の方が本当だっていうことをどんどん宣伝しちゃう。それで子どもは大きくなると言葉でごまかすんです。本当は人間ってもっとすごいいろんなものを使って人の言うことを聞こうとしているんだと思う。言葉なんかできるようになったら、むしろどんどん言葉にごまかされていく。だから、みなさんがここでみんな楽しいというのは、どもらない人より言葉以外で表現しようとしてらっしゃることがたくさんあるからだと思います。おそらく皆さんもそういうふうに、相手が言わんとしていることを他のものでもちゃんと聞こうとしてらっしゃるんじゃないかなあ。そんな感じがします、とっても。

内須川 幼児は成人に比べればまだ未熟ですから、感情は生のままおいておくでしょ。感情は奔放なもので、この時出そうって出るもんじゃなくって、出るとき出ちゃうんです。だからある程度それが出せる自由な環境がなければ、感情は出ないんです。
 吃音の方は、非常に優しいという良い面がありますが、私は過ぎちゃうって言ってるんですが、優しいと同時に、真面目なんですね。真面目がくせ者なんです。真面目は大変良いんだけども、くそ真面目だから。くそ真面目は、奔放なことができない。型にはめられると楽にできるが、型をぶち壊して何かやるとなると、なかなかできないんですね。それがくそ真面目の特徴なんです。
 だからなんでも壊しちゃうという、現状にあるものを変えちゃうという自由度。これを小さいときから培うことが必要なんじゃないのかなあ。ある程度大人になると、分かっているけどそれはできない問題が出て来る。小さいときに自由奔放に感情を出す。感情は否定的感情から形が出るんですけども。肯定的感情を出すには否定的感情を出さないとダメです。低レベル、基礎レベルは否定的感情を出すっていうことですね。
 くそ真面目になると、否定的な感情は出しちゃいけないんじゃないかって考えてしまう。それが抑制力を作るんじゃないかと僕は見てるんです。
 家庭の中には何か規範があると同時に、非常に優しさっていう過保護の両方があるところが問題なんです。規範は、どもる子どもを真面目なものに押し上げる。それをぶち壊しちゃうような感情を出す、これは否定的な感情でしょ。だから第1反抗期。反抗が自由に出るような環境を整えておくことが必要で、なかなか出にくかったんじゃないかというふうな感じを持ってるんです。それは非常に重要なベース、基礎になっている。(了)
              吃音ショートコース開催は、1997年9月13〜15日


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/02

吃音と自己表現 2

 一昨日のつづきです。
 1997年9月13〜15日、奈良県・桜井市で開催した、第3回吃音ショートコースでの最終プログラムを紹介しています。そのときのテーマは《吃音と自己表現》。特別講師に平木典子さん(日本女子大学教授)を迎え、日本吃音臨床研究会顧問の内須川洸さん(昭和女子大学教授)を交えて、実習を取り入れながら、語り合いました。
話すことが苦手な人のアサーション 表紙 その3時間の鼎談の完全採録やグループ実習の記録、アサーティブネスについての水町俊郎・愛媛大学教授の論文など、金子書房『話すことが苦手な人のアサーション〜どもる人とのワークショップの記録〜』(定価 1800円+税)に掲載しています。ご希望の方は、郵便局に備え付けの郵便振替用紙をご利用の上、ご送金下さい。お送りします。
  加入者名  日本吃音臨床研究会
  口座番号  00970−1−314142
  代金    定価 1,800円+税180円=1,980円 (送料当方負担)

 では、1998年1月17日の「スタタリング・ナウ」(NO.41)で、ほんのさわりを紹介した鼎談のつづきを紹介します。
 
どもるがゆえにできる素晴らしい自己表現
伊藤 昨日の夜に、ことばの教室の先生方との話の中で出た話です。吃音の研究者はかなりいますが、サンフランシスコでの吃音国際学会で、女性の研究者がどもってどもって発表するんです。それが、流暢に原稿を読み上げる発表よりもすごく素敵なんですね。ああ良いなあって、何か耳に心地よい、すごいリズム感でその人の人柄がよく出ている。かなりどもってはいるんだけど、全く気にならない。こういうどもり方なら、どもりというのは一つの言語として、「どもり語」を使う民族として、誇ってもいいと、その時ふと思いました。
 どもりというのを取り除けば表現できるということではなくて、どもりながらでもああいう学会の場で、どもらない人よりもすごい説得力のある表現力をする。そしてまたそれが説得力だけではなくてさわやかな印象を与える。僕がすごいなあという話をしていたら、内須川先生が「その人知ってる」とおっしゃった。笑顔の素敵な…

内須川 私はね、3年前のドイツの国際学会で会ったんですよ。昨夜彼の話を聞いて、直ぐに彼女じゃないかと思い出したんです。名前忘れちゃったけど。私も素晴らしい魅力的などもり方をする人だと強く印象に残っています。同じ人ではないかも知れないけど、ドイツで会ったその方の場合は、どもるということ自体が非常に重要な要素なんですね。どもるような話し方と、その人のパーソナリティーとが一致してるということで、どもるということがその人の話し方になっている。こうなると、魅力が出て来るんですね。その他にも、笑顔が素敵できれいでしたけどね。(笑)

平木 昨日のように集団討議を中心にしたトレーニングの段階が終わると、次の段階は自分がどのようにアサーティブに表現ができるようになるかという個別指導の小グループによるトレーニングがあるんです。6人ぐらいを一組にして、一人一人が自分がアサーティブになるためのトレーニングに入ります。そのトレーニングでは、何が悪いというのは一切言わないんです。原因を治さなくちゃダメっという言い方はしない。「ここが良いからそれを使って、ともかくやりなさい」とか「今のあなたの表現の中で、ここがとっても良かったからそこを使って表現するようにしなさい」ということしか言わない。ロールプレイでトレーニングするんですが、ときどきものすごく面白いことがあります。あなたのここが良かったから、これをうまく使いなさいと言うときに、「あなたが、下を向いてじっと何も言えなかったのが良かった」「あそこはすらすら言わないでひっかかって言ったから説得力があった」というのが出てくるんです。多くの人がすらすら表現したいと思ってるのに、アサーションってすらすらじゃないんですよ。下を向いて言えなかったことが良いと思えるようになるんです。今のどもって発表する研究者もそうですね。その人の魅力になったら良いんですよね。

内須川 私は、吃音の体験がなくてね、どもる方から見れば流れが速いことについて憧れがあるかも知れないけど、滑らかに話す人から見ると、どもることは憧れなんです。つまり、私の話し方に、あのーとか、んーとか、そのーが入らない。入れられないんです。こういう人をどう思ったらいいの?(笑)
 これは私のパーソナリティーからきているんで、そのパーソナリティーを崩したらおかしなことになるんじゃないかって思います。それぞれそういうユニークな話し方があるんじゃないか。でもどもりの場合は言葉にこだわるから、ちょっとおかしくなるというところがあるんじゃないでしょうか。それと、どもりそのものと直接関係があるとは思わないけども、自分の感情を表すという、自己主張ですね、これが得手でないというところがあるんですね。これと言葉がくっつくと、問題が起きると思うので、感情を表すことが自由にできる素地を作っておくことがどもりの問題を良い方向に向けるには非常に重要なことじゃないか。

平木 気持ちのところで一つ段階を乗り越えれば、次は大分楽になるんだろうなって思うんです。あのKJ法の図解で印象的なのは、リラックスしている時や歌を歌っている時、遊んでいる時はどもらないとありますでしょう。ただ、気にしていることを気にするなというともっと気にするので、私は気にしていることは気にするなとは言わないことにしています。気にしている人は気にした方がいいと思うんです。だって気になっちゃうんだから。

内須川 気にしなくなるまで気にすることだな。(笑)

平木 そのうち嫌になるよって。そしたらきっと、やめたくなったらやめるんじゃないか。

伊藤 先ほどの、下を向いてうつむいているのがすごく良かったというお話の中で、それはアサーティブ・トレーニングを経てきたからで、以前だったらあまり良くない表現だと思ってたんでしょうね。
 トレーニングを経ることによって、うつむいたりもじもじするといったような、これまでネガティブに考えていた表現の形が、その人にとって、今、相応しい表現だと思えるようになるのはすごい進歩なんでしょうね。

平木 すごい変化ですね。それまでは、滑らかにスムーズに話すことがいいことだと思っていた人が、そうじゃないんじゃないか、そこで止まったから次に言った言葉が生きたんじゃないかと発見する。
 逆に言うと、すらすらと言ってしまったらすうっと耳から通り過ぎてしまったかも知れないのに、もたもたして止まったために次に言った言葉がインパクトとしてすごく強いわけなんですよね。
 今まで一度も謝ったことのない人が謝るというのや、ごねたことがない人がごねるというのは、すごい大変なわけですね。だから、んーとか、あのーとか言いながら、「実は悪いと思ってる」なんて言うとね、大拍手になる。そしてあそこでもたもた言ったから良かったってなるわけですよ。
 「(流暢に)ごめんなさい」って言うと、本当に大変な思いをして言ってるのが全然伝わらない。

伊藤 この夏の吃音親子サマーキャンプの時のことを思い出しました。子どもたちはえらいしたたかだなと思ったんです。「どもってて良かったなあと思うようなことはないか」と子どもたちに聞いたら、「答えが分からないときにごまかすのにどもっているふりをするとええんや」とか、「なんか人に謝ったりするときに、どもるとええ」とかね。大人よりもしたたかというか見事と思いました。表現の「つぼ」というのを心得ている。
 確かに、いつでもどこでも流暢に表現しなければならない、そういうあたりに僕たちは長年とらわれすぎてきたんじゃないかなと思うんです。(つづく)
(吃音ショートコース開催は、1997年9月13〜15日) 


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/01
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