毎月のニュースレター「スタタリング・ナウ」と年報「竹内敏晴の世界」の編集と印刷屋への入稿、開催を決めた吃音親子サマーキャンプや吃音講習会の案内作成など、多くの、今、しなければいけない仕事が重なり、しばらくブログ、Twitter、Facebookをお休みしました。
体調を崩した訳ではありません。また今日から、ぼちぼち続けていきたいと思います。
今日は、1998年2月21日 NO.42の「スタタリング・ナウ」を紹介します。先日、紹介した松尾さん親子のどもり旅の続編として編集したものです。まず、僕の巻頭言から紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/09
体調を崩した訳ではありません。また今日から、ぼちぼち続けていきたいと思います。
今日は、1998年2月21日 NO.42の「スタタリング・ナウ」を紹介します。先日、紹介した松尾さん親子のどもり旅の続編として編集したものです。まず、僕の巻頭言から紹介します。
気持ちを表現する
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
松尾君の担任、田嶋先生の松尾君への文章を読んで、思いがけず涙が溢れた。すでに彼から何度も聞いて知っていたことなのに、なぜこう涙が溢れたのだろうか。
この1カ月、春に出版される『朝日福祉ガイドブック―セルフヘルプグループ―』(朝日新聞厚生文化事業団)の編集にかかりきっていた。
私を含め12人が、「セルフヘルプグループの私」を書いている。誰にも悩みを話せず、独りぼっちで悩んできた人達。分かってもらえない辛さと、分かってくれる人との出会いの喜びの体験を、繰り返し読んでいる最中だっただけに、松尾君のことを分かろうとする田嶋先生のかかわりがうれしかった。また、私が子どものころ、田嶋先生のような教師に出会うことができなかった無念さも込み上げてきた。教師は誰ひとり、私の悩みを分かってくれなかった。そればかりか、教師の対応によって、私の人間としての尊厳は傷つき、人間への不信が芽生え、それは増幅していった。
うれし涙と、無念の涙だったのだと気づいた。
「田嶋先生は、僕のこと分かってくれてるねん」
松尾君はことも無げに言うが、小学4年生のことばとしては、このことばは実に重い。先生が分かってくれていると実感でき、それをこのようにことばにする。このふたりの関係の深さを思う。
「話すのは死ぬ思いや」
松尾君は母親に言う。
家族にまで吃音の辛さや悩みが言えないのは、親に心配させたくなかったからだというどもる人は少なくない。心配だけでなくそう言われて立ち往生するかも知れない母親に、このことばが言えること、このこともまた深い。母と子の信頼があってのことばだ。
松尾君と担任教師との、また松尾君と母親との信頼関係が前提にあったからこそ、吃音親子サマーキャンプでの私たちとの出会いが活きた。
今春、松尾君は中学1年生になるが、先だって中学1年生が「きれて」英語の教師を刺殺した。
街頭の50人の中学生への面接調査によると、「むかつく」「きれる」ということばを日常的に使っている中学生は9割いる。また、「むかつくのは分かるが、切りつけたりは理解できない」という子どもが多い一方で、15人のもの中学生が、「よくやったと思う」「自分もきれたら何をするか分からない」「少年の気持ちがよく分かる、先生を殺してやりたいと思ったことがある」などと答えている。(1998.2.6朝日新聞)
子ども達には、教師は自分たちのことを分かってくれていないという思いが常にあるのだろうが、なぜこうも「むかつき、きれて」、このような事件を起こしてしまうのか。
文部省はまた、あわてて、《こころの教育》を叫ぶ。上から教えるという、このような構えたものではなく、「気持ちや、思いをもっと表現しようよ」と、子どもに伝えたい。
子どもの分かって欲しい気持ちを、大人が分かろうとする想像力をもつと同時に、子どもたちも、自分の気持ちをことばにしていくことが必要だ。
「悲しい・苦しい・悔しい・うれしい」ことをことばに出して言う。腹が立ったら、「ムカツク」だけでなく、もう少し詳しくことばにする。
喜怒哀楽の感情を、自分のことばで表現できる子どもになって欲しい。そうなるために、子どもの頃、情報伝達のことばが育つ前に、表現としてのことばをいっぱい言っておくことだ。
中学生による教師刺殺事件は、自分を表現できることばを子どもの頃から育てる必要性を提起している。
少なくともどもる子どもにかかわる私たちは、どもらずに流暢に話すことばより、どもっても自分を十分表現することばを大事にし、育てていきたい。
「先生は、僕のこと分かってくれてるねん」
「話すのは死ぬ思いや」
松尾君のこのことばをかみしめたい。(1998年2月21日)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/09