松田博幸さんの話のつづきです。話の中に、上智大学の岡知史さんの、セルフヘルプグループで人はどう変わるか、が出てきます。わかちあい、ときはなち、ひとりだち、この3つは、セルフヘルプグループの原点であり、僕も実感しています。専門家との対等な関係、仲間同士の対等な関係、それが基本になっています。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/28
セルフヘルプグループとのかかわり (2)
日本福祉大学(当時) 松田博幸
セルフヘルプという考え方
セルフヘルプグループを、嫌なことばですが、「同類相憐れむ」と見る人は結構います。悩みをもっている人が集まって愚痴をこぼし合って、「傷のなめ合い」をして何になるんやという声がまだまだあると思いますが、本当にそうでしょうか? 私は、それは違うと思います。
セルフヘルプグループという場合の、「セルフヘルプ」ということば自体は、19世紀の中頃から世界に広がった古いことばです。明治時代に日本に入り、日本語では自助と訳されることが多いようです。その場合のセルフヘルプと、1930年ぐらいにできたセルフヘルプグループの人たちがいうセルフヘルプとは、似ているようで、どうも違うのじゃないかと、早稲田大学の成富先生は言います。
ひとりの人間が生きていくには、仲間や専門家や社会制度と関わっています。しかし、このような様々なものとの関係を断ち切って、「自分の力でやっていく」というのが明治時代に入ってきたセルフヘルプということばの意味で、日本で、自助ということばが使われる場合、古いセルフヘルプの考え方が込められています。
一方、セルフヘルプグループでいうセルフヘルプは、「自分の力でやっていく」という点は同じですが、仲間、専門家といった様々な人たちや様々な制度と関係を主体的に作り、関係を大切にしながら、「自分の力でやっていく」ということです。
仲間や専門家や制度などと関係を持つといっても、様々な関係が考えられます。支配する・されるという関係もありますし、対等な関係もあります。
新しいセルフヘルプが成り立つ関係は、支配する・されるという関係ではなく、対等な関係です。専門家が「こういうような方法でやればうまくいくからやりなさい」と一つの方法を押しつけることで、支配する・されるという関係が生じることがあります。大阪吃音教室に、どこかで吃音の矯正法を広めている専門家が現れたとしましょう。そして、自分のやり方を押しつける。そうなると、きっと、そんなの嫌だと言う人が出てくる。すると、専門家は「嫌だったら、あんたはもう出て行きなさい」と言う。こういうのは、専門家に支配されている関係です。
セルフヘルプグループによるセルフヘルプというのは、専門家との対等な関係のなかで行われることなんです。
専門家が何か方法を考えても、それを鵜呑みにして従うのではなくて、自分たちで話し合えばいいわけです。そして、そのやり方を取り入れることが自分たちにとってどんな意味があるのかとよく考えて、自分たちにとって必要であれば取り入れたらいいし、必要でなければ取り入れなくてもいい。そういった関係が対等な関係だと思います。
自分たちで話し合う場合も、仲間同士の対等な関係が必要です。いろんなものとの間に、支配したりされたりすることのない対等な関係を主体的に作りながら自分の力でやっていく、それが新しいセルフヘルプなんです。
その際に、仲間とのわかちあいが力の獲得の基礎となるのです。いろいろ関係を作るんだけど、仲間との関係が特に大事になってくる。その関係があるから自分の力でやっていけるようになる。それが、セルフヘルプの考え方なんです。
セルフヘルプグループのなかで人はどう変わるか
セルフヘルプグループのなかで、人はどう変わるのでしょうか?
みなさんも経験されていると思いますが、セルフヘルプグループに参加すると、同じような体験をしてきた人たちがそこにいます。そのなかでいろんなものをわかちあいます。
上智大学の岡知史さんは、セルフヘルプグループの基本的要素として、
1.わかちあい
2.ときはなち
3.ひとりだち
の3つを挙げていますが、その3つを岡さんの説明で紹介しましょう。
1.わかちあい
「複数の人が情報や感情や考えなどを対等な関係のなかで自発的に交換することであり、しかも互いの人柄が明らかになり情緒的に抑圧されていない形で交換されること」(岡知史)
みなさんもグループのなかでいろんなものをわかちあっています。自分は吃音をもつことでこんな体験をしてきたと誰かが話すと、他の人が自分もそうだと思う。それが《体験のわかちあい》です。また、病気をもった人たちのグループだと、こんな医療機関があるよという《情報のわかちあい》があります。《感情のわかちあい》もあります。自分はこんなつらい思いをしてきた、また今しているんだと誰かがみんなの前で話すと、他の人も自分もそうだと思える。そういうことが行われるのがセルフヘルプグループです。
わかちあいには、語ると綴るがあります。《語るわかちあい》は今述べたようなものですが、《綴るわかちあい》は、会報などを通して行われます。会報に自分の体験を載せると、それを読んだ人が、あっ自分だけじゃなかった、自分も同じような体験をしているんだなと思えるわけです。
《話し合い》と《わかちあい》は違います。話し合いは、結論を出します。例えば、何かある行事をする時、その進め方についてみんなで話し合います。みんなで意見を出し合って最終的に結論が出る。だけど、わかち合いに結論は関係ありません。ある人が自分のしんどさを皆の前で表現する。みんなはそれを聞いてああ自分もそうだったんだなと思い、共感する。自分だけじゃなかったんだと思える。これには結論も何もない。ただ、誰かが話して、それを聞いて、あるいは見て、自分も同じだと思える。それがわかちあいです。そんなわかちあいがあると、次に「ときはなち」が起こります。
2.ときはなち
「自分自身の意識のレベルに内面化されてしまっている差別的・抑圧的資源をとりのぞき、自尊の感情をとりもどすことであり、しかも、外面的な抑圧構造をつくっている周囲の人々の差別と偏見を改め、資源配分の不均衡や社会制度の不平等性をなくしていくこと」(岡知史)
「自尊の感情」は、英語にすると、セルフエスティーム(self-esteem)で、自分自身に対する評価のことです。グループに来る人は、それ以前に、自分自身に対して低い評価をしてしまっていることが多い。自分は“つまらない人間”だとか、“変な人間”だとか、“劣った人間”だとか、“情けない人間”だといったイメージをもってしまっています。だけど、グループのなかでわかちあいが行われ、そんな体験を繰り返していくと、自分自身はそんな変な人間でもなかったんだなと思うようになってきます。
例えば、子どもを虐待してしまう親のグループの場合、世間一般の「常識」では、子どもに手を出すということはひどいことです。あるグループのメンバーが言っていました。自分たちは、本当は心の底ではやめたいけれど、手が出てしまう。子どもをほったらかしにしてしまう。そして、自分自身を、世間が言うような“ダメな母”だと思ってしまう。
アルコール依存症の人たちも一緒で、心の底ではお酒をやめたいけれど、手が出てしまう。そこで、自分自身を“あかんたれ”だと思ってしまう。自分自身をコントロールできない“ダメな奴”だと思ってしまう。
それがグループで「わかちあって」いると、自分は、“変な人間”だと思っていたけど、まあ、そうでもないなと思えてくる。楽になれる。自分だけじゃなかったんだと思える。
3.ひとりだち
「わかちあいを通じて、自分自身の状況を自分自身で管理し、問題解決の方法を自己決定し、社会に参加していくこと」(岡知史)
「わかちあい」「ときはなち」を通して、「ひとりだち」が可能になると言います。
「わかちあい」があって、「ときはなち」が行われ、「ひとりだち」ができるようになる。そのような過程は、まさしく、新しいセルフヘルプの過程だといえるでしょう。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/28