伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年03月

藤沢周平さんと吃音 5

 昨日の続きです。
 藤沢周平さんがお亡くなりになった直後に特集した「スタタリング・ナウ」(1997年2月)を紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介します。

卒業の頃
 六年生の二学期が始まったとき、宮崎先生に召集令状が来て、戦争に駆り出され、ほかの教師や校長に受け持たれたりしながら周平さんは小学校高等科を卒業する。
 卒業するとき、周平さんはクラスのトップになっており、卒業生総代の答辞を読まなければならなかった。どもるために声の出ない周平さんは、級友に代読してもらうことになる。どもりの屈辱は、最後までついてまわったのだという。

 《私がそういう半人前の子どもになったことを、両親はとても心配し、またそのことで落胆もしたようであった。なにしろ、郡賞をもらう生徒が読むしきたりだった卒業生総代の答辞を級友に代読してもらったのは、村の小学校開校以来、おそらく私だけだったろうから。
 だからもし、中学校を受験しろなとど言われても、どもりを抱える私は、多分必死になって断ったにちがいない。〈中略)
 Kさんは、時々下士官養成学校のパンフレットなどをもってきて、ここを受験しないかなどと言って、私をおどろかした。
 私もひそかに東京からパンフレットを取り寄せていたが、それは東京吃音矯正学院といったような名前のどもりを治す学校の説明書で、ほかに将来のことなどは何ひとつ考えていなかったのである。(中略)
 昭和十七年、三月に私は村の高等科を卒業し、四月からは鶴岡印刷株式会社で働きながら、夜は鶴岡中学校の夜間部に通うことになった『半生の記』》

 《ドモリの方は、宮崎先生がよそに転じられた後、いつとはなくなおった。今ならば心理的な抑圧とか何とかで説明がつく現象だろうが、当時の私には不思議なだけだった。
 しかしいま私が小説を書いている根本的なところに、宮崎先生とのめぐり合いがあることは疑いがないのである。そもそも文学と終始つかず離れずかかわり合ってきたこと自体が、宮崎先生との二年間を抜きにしては説明がつかないのである。これは、なぜ時代小説を書くかという疑問よりは、よほどはっきりしていることである『周平独言』》

 《私のどもりは自然になおった。それも宮崎先生の記憶が、やや薄らいだころに。
 私のどもりは明らかに宮崎先生のせいだったが、私はそのことで先生をうらんだことは一度もなかった。それどころか、教師になろうとしたとき、私はあきらかに宮崎先生のことを考えていたのである。そしていま小説を書いていると、宮崎先生とどもりに出会わなかったら、こういう人生がなかったこともよくわかるのである『周平独言』》(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/17

藤沢周平さんと吃音 4

 昨日の続きです。
 藤沢周平さんがお亡くなりになった直後に特集した「スタタリング・ナウ」(1997年2月)を紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介します。

 何故どもり始めたのか
 《「賢治。オ、オーギ(扇)か」と言う。すると賢治はむきになって、「オ、オーギでなく、た、ただのオ、オーギ」と言った。そんなふうに、私たちは賢治のどもりをからかっていた『周平独言』》

 周平さんの家族は、学校の教室の中で声が出ないのを、大変心配したという。特に母親は、「ンださげ、賢治の真似すんなと言ったのに」と周平さんを叱った。
 周平さんの生まれ育ったのは、山形県の鶴岡だが、その地方には、「橋の上でどもりの真似をするとうつる」という言い伝えがあったのだ。周平さんの家の近くには、青竜寺川が流れており、下の橋と呼ばれる橋がかかっていた。その橋の上も子ども達の遊び場所であり、その言い伝えを知っていた周平さんは、気にはなりつつも、ついつい、賢治さんの真似をしてからかっていたのであろう。賢治さんのどもりは、周平さんのいう典型的などもりだったのだ。母親は、周平さんのどもりがその賢治さんからうつったものと判断した。橋の上でどもる真似をしたからどもりになったのだと信じ、他人にもそう言っていたという。
 周平さん本人も、子どもの頃はそう思っていたようだが、後になって、そうではなく、本当の理由は別にあったと気づく。しかし、それは誰に言っても信じてもらえそうにないから、言わなかった。
 それほど、「橋の上でどもりの真似をするとどもりになる」がこの地方では、信じられていたのであろう。

宮崎先生
 《私がいた小学校に、宮崎東龍という若い先生がいた。白皙長身で、スポーツマンだった。鶴岡中学校時代に、短距離で県の記録保持者だったというし、剣道も段位をもっていたようである。ただし癇癪持ちで、学校で一番こわい先生だと言われていた。小学校の二、三年の頃、私たちは高学年の生徒が運動場に並べられ、宮崎先生にひとりずつ頭を叩かれるのを、後者の窓から覗き見し、ひそかにふるえ上がった。
 先生は一度他校に転任し、また私たちの学校に戻ってきた。そして、五年生、つまり私たちのクラスを受け持つというではないか。それを聞いたときの恐ろしさを、いまも記憶している。五年生になると同時に、私は奇妙などもりになった『周平独言』》

 周平さんは、宮崎先生は万能の、誇るべき担任で、理想的な教師であると認めつつも、大変恐れていた。学校中で、一番こわい先生として知られており、受け持たれている上級生を気の毒に思い、担任でなかった自分たちの幸運を思って、ひそかに胸を撫でおろしていたほどである。
 宮崎先生は、一度転校したあと、今度は周平さんたちの担任として戻ってきた。そのこわさを誰にも、家の者にも話さなかったが、そのかわりにどもるようになったという。
 新しく担任になった宮崎先生は、周平さんのこの奇妙な無言の行が、本を読めないからではなくて、吃音のせいだということにすぐに気づく。
 しかし、指名するのを免除することは無く、時々指名する。指名されれば立って読む姿勢はするのだが、まったく声がでてこない。声がでない周平さんは、そんな姿を同級生の眼にさらしている恥ずかしさに、冷や汗を流しながらだまって立っているだけだった。2,3分もそうして立っていると、宮崎先生は、「やっぱりだめか。出ないか」と落胆したように言い、座っていいと言った。
 それで、周平さん自身もほっとして座るのだったが、毎日の授業が憂鬱だった。音楽と作文と図画の三科目は好きだった。作文も図画も声を出さなくてもいいし、宮崎先生が朱筆で書いてくれる作文の批評が楽しみだった。また、音楽のときは、何の支障もなく声が出たのだった。
 
 《ほかの授業時間では、私はクラスの余計者のようだった。私はいつもひとり。クラスメートが活発に手を挙げて答えたり、本を読んだりする授業のざわめきの外に孤立していた。しかもいつ指されるかと、たえずそのことにおびえていた。指されれば、いつものように立つだけのために立つしかないからである『周平独言』》

 《教室で声が出ないということは、屈辱的なことだった。本を手に、ただ立っているために立ち上がるとき、私の胸は屈辱でいっぱいだったし、三分ぐらいのその時間が、無限に長く感じられた。初めの頃クスクス笑ったクラスメートは、そういう私にしだいに馴れていったが、私はその屈辱にいつまでも馴れることができなかった。
 私がその頃の子ども一般の読書量をはるかに越える本読みになったのは、多分この屈辱感と無縁でない『周平独言』》

 この時期、周平さんの読書量は驚くべきものであった。姉たちのもっていた雑誌、親から買ってもらった本は全て読み、友達からも借りて読み、近所の家に上がり込んでは、読み耽り、鶴岡の図書館にもよく足を運んだ。
 家で読み、学校の休み時間に読み、下校のとき歩きながら読み、授業中にも机の中に頭を突っ込んで読む。級友はそれを「ヒマアレバ、ヒマアレバ」とからかった。ひまさえあれば読んでいるという意味だ。ほとんど活字中毒だという。しかし、その活字中毒を小説好きにし、書くことに興味をもたせたのは、宮崎先生だった。
 午後の一時間を使って、ビクトルユーゴの「レ・ミゼラブル」を読んできかせたり、作文を書かせたりした。そして、一人一人にその作文を返すとき、末尾に、感想と指導の要点を、朱筆で書いてくれたのだった。周平さんは作文の時間が好きだった。声を出して読まずに済み、感想で褒められることが多かったからだ。
 この宮崎先生との出会いでどもるようになったこと。
 クラスで孤立し、屈辱感、孤立感の穴埋めをするために本を読んだこと。
 宮崎先生の国語教育、とくに作文指導の中で、少しずつ書くことに自信がついたことなどで、小説家への道は、宮崎先生によってつけられたのだろう。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/16

藤沢周平さんと吃音 3

 《私の手元に、「吃音者宣言」という一冊の本がある。言友会という吃音者の組織があって、そこから送られてきた本である。私はいまはどもらないが、子どものころ吃音で苦しんだ時期があって、それでこういう本が送られてくるのである》

 藤沢周平さんは、このような書き出しで、『周平独言』の中で、吃音について書いておられます。僕たちは、《吃音を治す努力の否定》の問題提起をし、それが、《吃音者宣言》に結びついていく流れの中で、藤沢周平さんにお手紙を書きました。周平さんが、どもった経験があるということを知っていたからです。そして、丁寧なお返事をいただきました。周平さんが直木賞を受賞された3年後のことでした。
 その後、僕の著書『吃音者宣言』をお送りするなど、交流がありましたが、直接お会いする機会がありませんでした。藤沢さんはその後、時代小説を次から次と発表し、みるみる人気作家になっていかれました。
 いつか、お会いしたいと思っていましたが、その機会をみつけられないままに、時は過ぎ、藤沢周平さんは、1997年1月、お亡くなりになりました。お元気なうちにお会いしておきたかったと、悔やまれます。
 お亡くなりになった直後に、「スタタリング・ナウ」(1997年2月)で、藤沢周平さんの特集を組みました。その中から、紹介します。

 
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介したい。

何故作家になったか
 《私はいま物を書いて暮らしている。そうなった経緯というものはさまざまに入り組んでいて、ひとくちには言えないのだが、その最初のあたりに、子どものころのどもりがあったことは確かである『周平独言』》

 何故、時代小説を書くのかというのは、藤沢さんがよく聞かれる質問だ。
 「歴史の未知の領域に創造力が及ぶと、創作意欲が刺激される」と答えるのが常だったが、要するに、時代小説が好きだった。しかし、それはとりあえずそう答えるということで、すべてではなかったようだ。何故、時代小説なのかという問いには、明確に答えられなかったが、何故文章を読んだり、書いたりすることに興味をもったか?の問いには、明確に答えている。その時期は極めてはっきりしているという。小学校高等科5年、6年の時期だ。この時期、周平さんは吃音に悩んでいた。

周平さんのどもり
 《私のどもりは、どもりながらも話せるあのどもりではなかった。緊張すると声が出なくなる性質のものだった。ことに教室で指されたりするとき、まったく声が出なかった。本を読むように言われて、教科書を手に立つことは立つ。だがそのまま、一言も声を出せずに、座れと言われるまで立っているのである。
 むろんそういう状態は異様な感じをあたえるわけだから、同級生は変な顔をし、中にはくすくす笑う者もいた。その笑い声は私の背を刺した。私は顔面蒼白になり、口を開いたリ、しめたりして何とか本を読もうとするのだが、声は出て来なかった。私は屈辱感にまみれながら、先生が座れというまで立ち続けた『周平独言』》

 藤沢さんはこのどもりを奇妙なドモリだという。
 どもりといえば、一般的には、「どどど…」と音を重ねるいわゆる連発のどもりを想像する。音を重ねながらも喋れるどもりだ。藤沢さんのどもりは、いわゆる難発のどもりだった。喋ろうにも、声が出てこないのだ。どもりはじめのどもりは、「どどど・・」と音を繰り返したり、「どー」と引き伸ばしたりする。それが進展すると、ことばが詰まって出て来ない、いわる難発のどもりに移行する。成人のどもりの多くは、この難発のどもりだ。どもり始めてすぐに、この難発のどもりになったのだから、藤沢さん自身も、周りの人も、随分と驚いたことだろう。奇妙などもりだというのを藤沢さんはこう説明する。

 《教室の中でだけ、私は全く声を出せない子どもになったのである。授業が終わって廊下に出ると、私のこわばった舌はゆるやかに回復し、普通に喋ることができるようになる。
 だが教室の中は地獄だった。音楽と図画の時間は平気だった。図画は喋らなくとも描けるし、音楽のときはちゃんと声が出たのである。一番苦痛だったのは国語の時間だった。指名されて本を手にして立つ。だが舌は石のように動かず、口をパクパクやってみるだけで、額に冷や汗がでる。こういうことが重なると、しまいには私は座れという声がかかるのを待つために立っているだけになった》『周平独言』》(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/15

藤沢周平さんと吃音 2

 「吃音を治す努力の否定」を提起したとき、藤沢周平さんにお手紙を差し上げました。そして、次のような問いかけをしました。そのときいただいたお返事を紹介します。

ゝ媛擦稜困澆箸呂匹里茲Δ覆發里世辰燭
吃音のとらわれから解放され、吃音を克服されたきっかけは何か
8什漾吃音をどう思っているか
ぁ垉媛擦鮗す努力の否定》をどう思うか

藤沢周平さんからのお手紙
〇笋里匹發蠅稜困澆箸
 普通の会話ではどもらないで、教室で指名されて本を読むとき、また講堂、運動場で大勢の前で発言しなければならない、といった状況で、最初の発声(発音)が出てこない、というものでした。期間は小学校5年6年の2年間です。
 指名され、本を持って立ち上がるたびに声が出ないという状態は、子ども心にも大層屈辱的なことで、苦痛でした。ひたすら指名されないうちに授業時間が終わることを祈りました。
 新聞か雑誌で、吃音矯正の本の広告を見て、見本を取り寄せたこともありますが、結局本は買いませんでした。多分、金額が子どもの手に余ったからでしょう。親たちも、私が学校でそういうふうであることを知っていましたが、手の打ちようがないという感じで、心配しているだけでした。
 友達との普通の会話には不便を感じなかったのですが、やはり劣等感があり、友達も限られた2,3人だけで、孤独な状態を好み、本を乱読するようになりました。

△い帖△匹Δ靴銅ったのか
 この記憶が全くありません。推定を言えば、中学の頃に級長になったりして、無理にも発言せざるを得ない立場におかれ、次第に自信をもつようになったかと思われますが、確信はできません。
 いつの間にか治っていた感じです。

今、どもりについてどう思うか
 昨年、生まれた土地で30年ぶりに小学校の同級生に、20年ぶりに中学校で教えた人達に会いました。そのとき印象的だったのは、私を含めて4人いた小学校のどもり仲間が全てどもりが治っていることでした。教え子の中にも一人、大変などもりの子がいて自分の経験から矯正法らしいものを放課後二人でやってみたことがあるのですが、その子も現在はきれいに治っていました。
 こういうことから、今私は吃音はいつか治るものなんだなという感じ、楽観的な感じを強く持っているわけです。
 したがって、吃音観というものも、「そう深刻なものでなく、やがて治るものだ」という楽観論になるわけですが、私には吃音の心理的なあるいは生理的な構造というものが、全然分かっていませんから、こういう見方は、あるいは軽薄なのかもしれません。
 現在吃音に悩む人間にとっては、経験からいってもこの世は地獄みたいな深刻さがあるわけですから。
 なお、私の吃音の時期を考えると、吃音は同調できないものへの拒否のようなものだったと思います。吃音はいつも過度の緊張を伴って現れましたが、この緊張は参加へのためらい、拒否の姿勢だったように考えられます。したがって当時の孤独感というものも、むしろ吃音を構成していたひとつの要素だったかもしれません。

さ媛擦鮗す努力の否定について
 全面的に賛成です。
 吃音がそのように市民権を取り戻すところに、治る契機がひそんでいる気がします。小学校時代のどもり仲間が、現在治っているのも、どもることをあまり気にしなくなったせいかもしれないという気がします。
 ただ、治す努力―テクニックは否定していいと思いますが、治る希望を否定なさらないようにすべきではないでしょうか。治ることは、吃音者にとって依然絶対的な願望だと思いますので。
 あなたがたの努力を「治すために、治す努力を否定する」ものかと想像し、大変興味深く、また敬意をもって受け取りました。(1974年5月)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/14

藤沢周平さんと吃音

 コロナの影響も多少はあって、普段、ニュース以外はテレビはほとんど見ないのですが、録画しておきながら観ないまま溜まっていたDVDを、食事中に観ることが多くなりました。
 僕は、高倉健のデビュー作から遺作までをほぼリアルタイムで観ています。一人の俳優をデビュー当時からずっと追いかけてきました。健さんの映画がテレビなどで放映されたときには録画をして、高倉健のDVDオリジナルコレクションをしてきました。今、健さんのデビュー作「電光空手打ち」から遺作となった「あなたへ」までを年代順に整理し、順番に見始め、その変化・成長を楽しんでいます。
 また、今年初めから、「土曜は寅さん」の合い言葉で、渥美清の「フーテンの寅さん」が第一作から放送されています。それも第一作から見始めました。

 中学生から映画館に入り浸っていた僕ですが、欧米の映画がほとんどで、日本映画は高倉健さんの映画以外はあまり観ていませんでした。
 歌舞伎が好きだったこともあって、テレビでは、中村吉右衛門さんの「鬼平犯科帳」の再放送を観るようになりました。今まであまり見ることのなかった時代劇を見るようになったのは、大好きだった中村吉右衛門さんの「鬼平犯科帳」が追悼番組で流された頃からかもしれません。
 「鬼平犯科帳」とは全く趣は違うのですが、市井に住む人達の優しく温かい生き方に触れることのできる藤沢周平さんの作品も、小説は読んでいたものの、映画は観ていなかったのですが、今、観るようになりました。コロナ禍の影響のひとつです。
 藤沢周平さんとは残念ながら、直接お会いすることはできませんでしたが、同じようにどもる人としての交流はありました。僕たちからお手紙を差し上げたのですが、丁寧に誠実なお返事をいただきました。
 今回紹介するのは、藤沢周平さんがお亡くなりになったとき、特集を組んだ「スタタリング・ナウ」です。1997年2月の、まず、巻頭言から紹介します。

周平さんの生き方
              日本吃音臨床研究会 会長伊藤伸二

 角を矯めて牛を殺す、ということばがある。
 少しの欠点を無理に治そうとして、かえって全体をだめにしてしまうという意味だ。
 吃音で悩んできた人と接すると、とても優しい人が多いと感じる。長年吃音の心理的側面から研究を続けてこられた昭和女子大学内須川洸教授も、どもる人の特徴として、優しさ、敏感さ、真面目さ、などを挙げている。いじめられることがあっても、決していじめる側には立てない。人柄の良さを言って下さることも多い。どもる子どもをもつ親も、子どもの中に優しさを見ている。
 このような面をもっている人が、どうすれば、吃音の悩みから解放されていくだろうか。その道筋は、人それぞれに違うが、一番てっとり早い方法は、図々しくなることだ。人を人と思わず、人を見下し、相手を練習台と思い、喋りまくることだ。しかし、多くのどもる人は、そうはできない。
 ある時出会った、大阪の上場企業の創業社長は、それができた人で、実際そのことをすすめていた。
 私たちの合宿に参加し、ひとり喋りまくった。どもりは治ると、自分のノウハウを私たちに押し付けもした。吃音相談会などを開くと、必ずといっていいほど、一方的に攻撃的に喋りまくる人がいる。喋れるようになると、喋り過ぎるようになり、引っ込み思案がなくなると、攻撃的になることがあるのだ。
 一時、大阪でも、いわゆる人間改造セミナーが流行った時があり、私たちの仲間にも参加した人がいた。人が変わったように元気になった。そして、私たちを強引にそのセミナーに誘った。以前の穏やかな、相手を尊重する態度は、消えていた。
 たとえ、吃音の悩みから解放されたり、吃音が軽くなったとしても、せっかく持っているその人らしさ、良さがなくなってしまうなら、当人には大きなお世話かもしれないが、残念なことだ。
 どもりに悩んだことが、小説家になるきっかけになっているという藤沢周平さん。
 どもっていた時の感性をそのまま持ち続けた人だ。
 怖がっていた教師が担任に決まったことで、その恐怖感から、周平さんはどもりになったという。
 敏感で、真面目で、やさしい子どもだったのだろう。怒鳴ったり、人を叱りつけたり、人を欺いたりできる人ではなかった。
 小説に出てくる主人公は、その藤沢さんがそのままに出ているかのようだった。波瀾万丈の人生を生きた人や、豪傑では決してない。どこにでもいる、江戸の町に息づく市井の人、下級武士、浪人であった。ごく普通の人間の、ごく普通の生活の中での哀歓を、端正な文章で描いていく。
 その目は、常に温かいまなざしをもっていた。
 暗い話も、結局は、「人間っていいな」と、読者にメッセージを送り続けていた。
 藤沢さんは、私の著書『吃音者宣言』をずっと手元に持っていて下さったようだ。どもりに関心を持ち続けて下さり、《治す努力の否定》の問題提起に対し、全面的に賛意を表しながらも、「治るという希望は捨てないで」と言っておられた。
 小学校5年、6年の吃音体験が、よほど辛いものであったのであろうことがうかがえる。
 このメッセージは、暗い、辛い中にも、常に希望を失わない、藤沢周平さんならではの私たちへの思いやりであったのだろう。
 「周平さん、今、私たちは治るということに、あまり希望はもっていないんですよ」
 どもりが治らなくても、希望はもてることを、もっと藤沢さんとどもりについて話したかった。
 語り合えば、23年前にいただいたメッセージとは違うものを返して下さるのではないかと思う。
 どもりに悩んだ頃の感性をそのまま持ちつつ、その人なりの人生を歩むことの素晴らしさを、藤沢周平さんは、自分の人生、小説を通して語りかけてくれているようだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/13

東日本大震災から11年〜吃音親子サマーキャンプでの出会い

 あれから、11年が過ぎました。コロナの影響を受けているから、また11年という年月がそうさせるのか、だんだんと震災関連の報道も少なくなってきたように思います。そこに住んでいた人たちにとっては、あれから時が止まったままだという人は少なくありません。あの日あのときから今日までずっと続くひとりひとりの物語、簡単に「分かる」とは言えないけれど、できるだけ想像力を豊かにして、ひとりひとりの物語に近づきたいと思います。
 これまで何度も書いてきましたが、宮城県女川町から、吃音親子サマーキャンプに参加していた阿部莉菜さん。彼女のことや彼女の作文は、あれからいろいろな研修会や講習会などで話し、何冊かの本で紹介してきました。今日は、静かに彼女のことを思う日にしたいと思います。1年前の3月11日のブログから、一部引用します。

 この日に毎年思い浮かべるのは、宮城県女川町から吃音親子サマーキャンプに3回連続して参加した阿部莉菜さんです。莉菜さんは、小学校6年生のとき、サマーキャンプに初めて参加しました。6年生になって、吃音のことで転校生らにいじめられ、不登校になっていた莉菜さん。キャンプに参加して、同じ6年生のグループでそのことを涙ながらに話しました。同じグループの子どもたちとの話し合いの中で、問題を整理し、自分の中で解決し、彼女は、キャンプから帰ってから、学校に行き始めました。僕は、ここに、彼女の持つレジリエンスを感じました。仙台の高校に進学が決まり、制服も届いて、楽しみにしていたとき、東日本大震災が起こり、お母さんと共に大津波に巻き込まれました。
 彼女が初めてキャンプに参加したときに書いた作文は、僕の宝物です。子どものレジリエンスをみつけ、育てていくことが大切だと僕が話すとき、いつもそこに彼女の顔が思い浮かびます。しっかりと伝え続けていくことを、今日、新たに誓います。ブログでも以前紹介したことがありますが、彼女の書いた作文を紹介します。それは、NPO法人全国ことばを育む会編の両親指導の手引き書41 「吃音とともに豊かに生きる」の中の<防災教育と吃音>のところで紹介しています。

親の会パンフレット表紙

防災教育と吃音
 被災地では、「釜石の奇跡」と呼ばれる「防災教育」が成果をあげました。大きな津波を経験している三陸地方では、家族てんでんばらばらに逃げて生き延びる「津波てんでんこ」が言い伝えられています。これを防災教育に生かしたのが釜石市です。群馬大学の片田敏孝教授の徹底した教育を受けた子どもたちは、学校の管理下になかった5人をのぞいて、市内の小中学生およそ3000人全員が無事に生き延びました。子どもたちは、「日頃教えられたことを実践したに過ぎない。奇跡ではなく、実績だ」と話します。防災教育が徹底された地域とそうでない地域の大きな差は、教育の力の大きさを表しています。
 どもることは何の問題もありません。吃音を否定し、劣等コンプレックスに陥って、吃音は単なる話しことばの特徴から、取り組まなければならない課題へと転じます。まだ子どもが吃音を否定していない場合でも、否定するとどのような問題が起こるか学んでおく必要があります。吃音の取り組みは、防災教育に似て、予防教育だとも言えると僕は思います。
 吃音親子サマーキャンプに、宮城県女川町から3年連続して参加した4人家族がいました。小学6年の阿部さんは、6年生になっていじめに合い、不登校になりました。そのつらさを僕のグループで泣きながら話しました。90分の話し合いで、顔が晴れやかになり、翌朝の作文教室で「どもってもだいじょうぶ」と作文に書きました。すぐに学校に行くようになり、その後もキャンプに参加して、将来の明るい夢を語り、仙台の高校に入学が決まっていたのに、お母さんと一緒に逃げ遅れて亡くなりました。彼女のことは決して忘れないでおこうと、その後の講演などで、作文を紹介しています。

  どもっても大丈夫
                            阿部莉菜
 私は、学校でしゃべることがとってもこわかったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていて、どもってしまうと、みんなの視線が気になります。そして、なんだか「はやくしてよ!」と言われそうで、とってもこわかったです。なんだかこどくに思えました。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに来てみて、みんな私と同じで、どもってるんだ、私はひとりじゃないんだと思いました。そして、夕食後、同じ学年の人と話し合いがありました。そのときに思ったのは、みんな、前向きにがんばってるんだ、なのに私はどもりのことをひきずって、全然前向きに考えてなかった。そのとき、私は思いました。どもりを私のとくちょうにしちゃえばいいんだ。そのとき、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。どもりもりっぱな、いい大人になるための、肥料なんだよ。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。今日、朝起きたときは、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりだと思うけれど、とても学校などでしゃべれる自信がつきました。
(「吃音とともに豊かに生きる」両親指導の手引き書41 P.32-P.33 NPO法人全国ことばを育む会編)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/12

からだ・ことば・こころ〜ことばの中には、いろんな操作がある。その中で、感情を表現するということは、つまり対人関係の中で生きたことばを話すということになる〜

 1996年9月21〜23日、滋賀県・大津市で開かれた吃音ショートコースのテーマは《からだ・ことば・こころ》でした。特別講師に竹内敏晴さん(名古屋聖霊短期大学教授・演出家)を迎え、日本吃音臨床研究会顧問の内須川洸さん(昭和女子大学教授)を交えて、からだについて、ことばについて語り合いました。最終日の午前中のプログラムは、竹内さんと内須川さんの対談でした。伊藤伸二が司会をした3時間は、前半はおふたりを中心に話が進み、後半は参加者の声を拾いながら全員参加のディスカッションで、テーマ通りの興味深い話し合いとなりました。その冒頭の部分、今日は、内須川さんの話を紹介します。どもらない内須川さんが、長年、どもる人の心理を研究されてきた中で考えたことが凝縮されています。

からだ・ことば・こころ

                内須川洸さん(昭和女子大学教授)

 私の見る限りはどもる人は、要求水準が高いようです。なかなか下げられない。下げるとなると、カタンと下げ、ガクッときてしまう。
要求水準というのは、上げたり下がったり、適応して上げ下げするのがノーマルと言われますが、どもる人は、そういう意味で、あるいはサブノーマルかなと思ったんです。
 私は、卒業論文にこの吃音の人の性格研究を取り上げました。いろいろどもる人に接しておりますと、どうしてこんなに自尊心が高いのだろうと思うくらいに、自尊心が高い。要求水準でいうと、高くて、これが下げられない。こういう問題がどうも性格的にあるんじゃないかなとうすうす感じてきたんです。
 吃音は、確かにことばの現象で、言語障害のひとつと考えられているけれども、私の考えでは、もともと吃音というのは言語障害ではないと思っています。それが言語障害になっていく。
 言語障害には、もともとの言語障害があるんです。例えば脳性小児マヒの方の言語は、初めから言語障害です。ところが、吃音はそうじゃなくて、言語障害でもなんでもない、多少ことばの話し方が一風変わっている程度のものから始まるんです。それがだんだんと言語障害になり、最後は、まさに言語障害で、コミュニケーション障害になってしまう。
 普通は幼児期に大半のどもりが始まります。小学校から始まるというのもありますが、私の見る限りは学童期から始まるというのはそれほど多くない。本人も気づいていないし、周りの人も気づいていないという場合もあります。周りの人の気づきの最初の発見者はお母さんで、これは当たり前ですね。お母さんが一番子どもをよく知っているんだから、当然なんです。そういう形で始まるということを最初に指摘したのは、私の恩師であるウェンデル・ジョンソンです。
 ジョンソンのえらい所は、そこを取り上げたというところです。当たり前のことだと思っていることを、普通は取り上げない。当然のことを、当たり前じゃないというふうに見たところが素晴らしいんです。
 どもる人は、ことば、ことばと言うけれど、その前に人間関係に問題があるのではないか、問題があるというと語弊があるんですが。人間関係の中で、何かが足りないと思います。
 それは、相手に向かっていくということです。これを攻撃性というと極端ですけど、どもる人は、相手を攻撃しないんです。攻撃できない人間は相手を受容もできないんですよ。受容したつもりでいるだろうけれども本当の受容ではない。本当の受容は、相手に向かっていかなきゃいけない。そこで、受容というものが起こるんです。
 攻撃の一番最初の頃は、友達とけんかをすることです。小さいときに友達とけんかをしないで成長すると、立派な大人になっても、本当の人間関係ができない。本当の友人を作ることができない。
 最近の若い人、本当の友人っているだろうかと、非常に心配に思うんです。友人がたくさんいて、互いに友人だと思っているけれど、本当の友人ではない。なぜかというと、人間関係ができていないからです。どもる人は、ことばをうまく喋れないという前に、人間関係という点において問題があるんじゃないかと感じるんです。
 もうひとつ、人間関係で問題になるのは小さいときから、人に対して非常に過敏だということ。どうして過敏になったかは、環境的なものを私は中心に考えます。体質的なものもあるかもしれませんが、ほとんどこれは、子どもの時代から成長する過程の中でそういう環境が与えられてくることが重要なんじゃないかと考えます。
 そこで、ご承知のように、私が提唱した仮説ができるんです。
 どもる子どもの家庭には温かい雰囲気がある。つまり、温室育ちです。その上に規範が与えられると、やらなければならない、ねばならないという意識が育つんです。これが真面目さなんです。
 どもる人の性格は、真面目が過ぎている、いわゆる生真面目です。非常に温かい所で育ったんで、相手のことを感じ取る感受性が豊か、といえばいいけれども、豊かすぎるんです。
 それを少しずつ変えていく。もともとどもる人は鈍感にはなれないので、過敏の過をとって敏感になればいいんですが、それがなかなかできなくて、苦労しているんじゃないでしょうか。
 どうしたらそういうふうになるかというと、これは一人で黙想したり、一人の生活をしていたのではなれないんです。やっぱり人の中に入らなきゃなれない。人とぶつからなきゃならない。
 人とぶつかる手初めは、相手を攻撃することです。自分の方から相手にぶつかっていくことなんです。それを通して学習していく以外はできないんじゃないかというのが私の考えです。人と接するときの姿勢ですが、皆さんは、相手を見るということをどのくらいしますか。じっと相手の顔を見るというのは相当図々しくないとできない。どもる人は、見ながら相手の視線が向かってくると、すっと外してしまう。これは、弱さです。相手の視線が向かってきたらその視線をじっと見るということが必要なんです。ただ見ればいいということではなくて、こちらから向かっていく、攻撃性が必要です。その意味ではもっと攻撃性を出していいんじゃないか、もうちょっと野蛮になったらいいと思うんです。
 どもる人は野蛮になれない。非常にみんなジェントルです。そんなところは、私大好きなんですが、もうちょっと相手に向かっていくということが非常に重要です。向かって、相手とぶつかると、争いが起こります。だから、争いを避けると、そういう学習はできない。恐らく、皆さんはこれまでそういう争いを避けてきたんじゃないでしょうか。避けるのが得意なんですね、どもる人は。避け過ぎては問題が起こります。
 回避すること自体は問題でもなんでもない。昔の人は、逃げるが勝ちといいました。逃げるが勝ちっていうのは、逃げるべきときには逃げる。逃げてはいけないときには逃げない。これができるのを逃げるが勝ちというのです。
 ところが、何でもかんでも逃げてしまうと、アブノーマルな回避行動となります。吃音の問題で悩んでいる皆さんの心の中にあるものはそれじゃないでしょうか。
 ことばが不自由だから、ことばをできるだけ使わないところに勤めようというのは、回避の典型です。ことばが不自由なら、本当は、ことばを使わなければいけないところに就職することがいいんです。そうすると吃音はよくなってきます。逃げ回っていると、一生逃げ回って、吃音状態から解放されないんです。
 まず人間関係の中で、体当たりをすることを勉強していただくといい。けんかを売っていこうと決心して、どんどんとおやり下さい。向こうからの攻撃に対するだけでは、けんかを売ったことにならない。自分の方から向こうに噛み付いていかないと。だから、噛み付き精神が少し足りない。
 仲良しは見かけ上の受容性です。どもる人は見かけ上の受容性がたくさんありますが、本当の受容性は、けんかを売ってそこでぶつかって、互いを認め合う。これがほんとの受容性なんですよ。
 人間関係の面から考え直さないと、吃音のことばというものは了解できないんじゃないか。
 コミュニケーションのために言語を学ぶのは、そのとおりで、私は言語の最大の機能はそういうところにあると思います。しかし、むしろことばの大事な点は、心の問題だと思うんです。
 心とは、見えない、聞こえない世界です。つまり、精神世界、抽象的世界といってもいい。抽象的世界にはいろんなものがあります。例えば、ものを考える、思考も抽象的世界です。感情というのも、抽象的世界でしょう。特に感情、情緒の問題は非常に重要です。情緒なしで人間関係はできない。必ず人と接する場合には感情が動き、感情が触れます。感情を出して、相手に触れるというところを前向きに学習しないと、いわゆる吃音の状態みたいな状態が起こるんじゃないか。
 これが自己主張ができない、できにくいということではないかと思います。だから、人に接して自分の感情を相手に伝える、感情を出す。その時どもる人は、自尊心が高いということが邪魔して、感情を出すと、自尊心が許さないみたいところがあって、出せない。これなら出せるという状況は極めて限定されてしまう。限定されるというのは、人間関係を遮断するということです。
 特殊な人にしかできない。場合によっては旦那さんが奥さんとだけ、また場合によっては夫婦でもその感情が出せない、なんていう問題だって起こるかもしれません。
 だから、夫婦間に限らずいろんな人に、自分の感情を出していく。前向きの感情表出ということを勉強するといいんじゃないか。どうも感情表出というのは、大人になると誰でもできるように思うけれども、そうじゃなくて、それにはやっぱりプロセスがあります。
 最初にそれを出すのが2歳くらで、母親に対する反抗期という形から出すんです。だから、必ず感情というのは、ネガティブな感情なんです。ネガティブな感情が出せないというところが問題なんです。自分の否定的な感情を出せるようになると、肯定的な感情もその次に出てくる。肯定的な感情をいきなり出そうたって無理です。否定的な感情を豊かに出すことが必要です。小さい時は、いわゆる情緒的な成長が普通ならば、みんな出します。それが第一反抗期です。
 第一反抗期は、どの子でも例外なく本来は出るもので、当たり前のことなんです。現代は、それが出しにくいような環境が出てきて、最近では半数近くの幼児は、第一反抗期がないと言われています。第一反抗期がない子どもは、ちょうど吃音の子どものように非常におとなしい。親の言うことをよく聞く。すなおなんです。ひねくれ者がいない。ひねくれるだけのエネルギーを出せないから、悪いことをしないんです。
 なぜ悪いことをしないかというと、親が大体悪いことを教えないからね。どもる子どもの親は模範的な親ですから、悪いことはしていけませんよと教えるわけで、これが規範なんです。そうすると、規範にのっとりながら、行動的には悪いことを何もしないで、模範的な子どもになるんです。
 感情的な面からいうと、感情の成長は模範生じゃだめなんです。つまり、反抗する子どもでないと。そして、それを出しているうちにいろんなものが出る。
 否定的感情を出す一番最初は、ことばじゃなくて、行動なんです。幼児の行動を見ていますと、非常に行動的でしょ。そして、その行動は、いい行動だけやってません。大人のことばでいうと、いたずらです。
 幼児は、いたずらなんかやってるつもりはないんです。感情を出しているんです。それは、大人の世界から見ればいたずらだけど、子どもの世界から見れば当たり前のことをしているんです。それを思う存分やるようになると、行動的になる。子どもってじっとしていませんね。行動が大きく触れる、これを私は運動反応で感情を表出する、と表現します。
 いろんな出し方があって、更にレベルが高まると、人間の音声を使う。声でもって感情を出す。声で一番感情が表出されるのは、大人の世界ではけんかですよ。ですから、「このやろう、てめえ」こういうことばが出ないとだめなんです。竹内先生のレッスンの中で、前にことばが出ないというのは、それなんです。
 「このやろう!」という時、「このやろう」と自分に言ってもしようがないんで、相手にぶつけなきゃいけない。「このやろう!」こういうことばがどんどんどん出るときはどもらないでしょう。
 しかし、けんかしそうな雰囲気が出てくると、すうっと逃げちゃう。だから、好んでそういう雰囲気の所に出掛けていくようにすると、これは大変にいいんだけど、それを皆さんやりなさいと言っても大人になったら無理だから、無理しない方がいいですよ。
 こういうのを小さいときからやりなさい。本人がやるわけにはいかないから、お父さんやお母さんがそういうふうに子どもを育てなきゃいけない。
 そういふうに育てると、簡単に「このやろう!」というのができるわけです。けんかなんかすぐできる。そういう感情を前に出すことができると、行動面から、やがてはことばを使うわけです。
 人間が成長すると、今まで行動的なものが言語の領域に込められて言語で処理できるようになる。これは、大人になる、つまり利口になる、最も能率的になる、一番いい方法でしょ。そこで、ことばを学習する。そうすると、ことばの中には、いろんな操作があるんで、その中で、感情を表現するということは、つまり対人関係の中で生きたことばを話すということになるのです。
 ことばだけを、どもらないよう話そうとすると、ことばの命がなくなるんです。なぜなら、感情がどこかにいっちゃうんです。形だけが残るんです。これが、竹内先生がおっしゃった、いわゆる情報ですよ、情報伝達言語になる。情報伝達というのは、一方的でいいんです。相手いらないんです。
 本当に生きている人間との心のふれあいというのは、相互関係ですから、相手がいないとできない。こういう中でのことばが、生きたことばで、生きたことばというのは必ずことばの中に感情というものが込められています。
 この感情で言語を表出する。小さい子どもを対象として治療を試みて改善をしていくプロセスを調べてみると、一番最初は感情表出が行動面でまず出るというレベルであって、それからそれがだんだん上手になると言語のレベルに達する。言語のレベルに達して初めて吃音にかかわりを持ってくるんですよ。だから、言語のレベルに達すると、おしゃべりになるんです。
 今まで、あまり喋ったことのない子どもがぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋る。ぺちゃくちゃ喋るということは、ただ、発話量が増えたということではなく、それだけ感情が容易に出るようになったということです。結果的に発話量が増えて、ぺちゃくちゃ喋っていると、吃音の症状という面から見ると、症状はだんだんだんだん変化する。
 ブロックという状態から、延ばす、繰り返す。最後は繰り返しながら、滑らかなどもりになる。これでもってどんどん話していると、変わっていくんです。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/10

2022年度に向けての、大阪吃音教室運営会議

 2022年3月6日、いつもの大阪吃音教室の会場であるアネックスパル法円坂の会議室で、大阪吃音教室の運営会議が行われました。例年なら、2月に行っている運営会議ですが、コロナの影響を受け、少し先延ばしにしました。もう少し感染者が減少傾向になるかと思っていましたが、そうでもなく、できだけの感染対策をしての開催でした。
大阪運営会議1 大阪吃音教室の休講が続いているので、みんなに会うのは本当に久しぶりです。毎週金曜日に顔を合わせていたので、これだけ長く会わないというのは、不思議な感じがします。「みんな、よくサバイバルして、生き延びてきたね」という感じです。
 参加したのは、13人。本当は、15人参加予定だったのですが、子どもが通っている幼稚園で陽性者が出て休園となり、子どもは濃厚接触者ではないけれども、自分も送り迎えで園に出入りしているので用心して欠席するという急なメールで不参加になった人もいました。このような状況の中、これだけたくさんの運営委員が参加してくれたこと、うれしく、ありがたく、心強く思いました。
 いつもの会場より広い会議室で、午前9時45分から始めました。
 2021年度、大阪吃音教室は、予定していた40回の半分の20回しか開催できませんでした。参加人数にも影響は出ていました。感染者が少なかった秋頃は、新しい参加者も多く、連続して参加して下さるなど、定着の傾向が見られたのですが、休講になってしまい、残念でした。
 運営会議に参加した運営委員の近況報告も、会っていないときに、そんなことがあったのかと思うものでした。コロナの影響をあまり受けず、順調に仕事を続けている人もいれば、家族以外の人と食事をしてはいけないという厳しい制限を受けている人もいます。リモートワークが定着した人もいれば、身近な感染を気にしながら出勤している人もいます。自粛を徹底している人もいれば、自然を求めて旅をしている人もいます。数少ない講座担当の話をしたり、機関紙「新生」の感想が出たり、体調管理の話になったり、ごちゃまぜですが、それがなんともいえないいい味を出しているなあと思いました。
 大阪運営会議22022年度のスケジュール、講座のタイトル、担当者と、どんどん決まっていきます。1986年に国際大会を開き、その翌年、僕は大阪吃音教室を金曜日開催にして、全講座を担当させてもらいたいと申し出て、実際にそうしましたが、今は、多くの運営委員が自ら手を挙げ、講座担当をしています。なんだか不思議な気がします。
 毎週の講座の世話人、機関紙「新生」の編集担当も決まりました。
昼食を挟んで、午後は、僕の方から、日本吃音臨床研究会関連の話をしました。イベントとして、吃音講習会、吃音親子サマーキャンプ、新・吃音ショートコースの日程と内容を伝えました。大阪吃音教室と日本吃音臨床研究会は、同じ立場で活動を続けています。どもる人、どもる子ども、その保護者や、ことばの教室担当者や言語聴覚士などの専門家が、互いを尊重し、互いの声に耳を傾け、どもる人やどもる子どもの幸せを願って、活動しているのです。
 久しぶりに、仲間に会い、たくさん話し、語り合いました。仲間っていいなあ、出会うっていいなあ、話し合うっていいなあという思いを強くしました。
 2022年度は、そんないい仲間と、活動を続けることができるようにと願っています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/07

からだ・ことば・こころ〜吃音という形だけを技術的になんとかしていては、いつまでたっても人間的なことばを獲得するということにはならない〜

 第2回吃音ショートコースは、滋賀県・大津市で行いました。ゲストにお迎えしたのは、竹内敏晴さんでした。日本吃音臨床研究会の顧問である内須川洸さんとの対談のテーマは、「からだ・ことば・こころ」、お二人が長年考えてこられた、からだについて、ことばについて、そして、こころについて、たっぷりと語っていただきました。お二人の、やりとりに入る前のお話を紹介します。すべてが収録されている日本吃音臨床研究会の年報「からだ・ことば・こころ」は、残念ですが、完売し、在庫はありません。

からだ・ことば・こころ
 1996年9月21〜23日、滋賀県・大津市で吃音ショートコースが開かれました。
 テーマは《からだ・ことば・こころ》。特別講師に竹内敏晴さん(名古屋聖霊短期大学教授・演出家)を迎え、日本吃音臨床研究会顧問の内須川洸さん(昭和女子大学教授)を交えて、からだについて、ことばについて語り合いました。最終日の午前中のこのプログラムは、竹内さんと内須川さんの対談。伊藤伸二が司会をした3時間は、前半はおふたりを中心に話が進み、後半は参加者の声を拾いながら全員参加のディスカッションでした。テーマ通りの興味深い話し合いとなりました。その冒頭の部分だけを紹介します。

伊藤伸二(司会:日本吃音臨床研究会会長)
 今、ここで、生まれてくることばを大切にしようと思います。予めこういう話をして、こういう展開をしようということは、考えておりません。
 まず、竹内さんに口火を切っていただきます。今から、9年前になるでしょうか、大阪吃音教室に来ていただきました。私たちのところに来ていただいて、私たちのからだやことばに触れていただいた印象から話していただこうと思います。

竹内敏晴さん(名古屋聖霊短期大学教授・演出家)
 レッスンしようということで大阪吃音教室に行きまして、とにかく皆さんが話をするのを聞いて、びっくりしたんです。
 「こんなに喋れる人が何の文句があるんや」
これが最初の感想です。
 私は喋れん人間だったわけで、それがなんとかかんとか自分の言いたいことをことばにして、口から出さんとあかんと必死になった人間から見ると、皆さんはペラペラペラペラと喋る。それも、すさまじいスピードで。こんなに喋れる人が何の文句があるのだろう、これが最初の印象なんです。
 私、子どもの頃からどもる友達が、中学生の頃かな、ちらほらいました。仕事に入ってからも、国立劇場の、照明の課長をしている人が、はっきりした吃音でした。
 それから、私のところヘレッスンに来た、吃音の方が何人かいます。一様に言えば、そういう人たちはなかなかうまく喋れなくて、やっとこせっとこ喋っています。その代わり、やっとこせっとこ出した一言っていうのが、凄い迫力がある。
 吃音の人はそういうものだと思っていて、大阪吃音教室に行ったら、そんな人は一人もいなくて、みんなペラペラペラペラ喋る。ほんとに私は初め、一体、俺はここで何をしたらいいんやろと思いました。帰ろうかとさえ思いました。(笑い)
 吃音の人たちは、自分が吃音だから、なんとかそれを克服したいと一所懸命思っている。ということは、自分よりよく喋れる人の方ばかり向いているということなんです。吃音の人たちよりも喋れない人はたくさんいるわけです。吃音の人たちは、障害ということばの中にくくられるような所にいるけれど、障害者ではない。それが、ペラペラ喋れる人たちの世界に入りたくてしょうがなくているというふうにそのときの私には見えた。
 「どもる人たちよりもっと喋れない人たちにとってはどうなるんや」
 「うまくことばが出ない、やっとこせっとこ、一言一言出していくという人たちを全部切り捨てて、どもる人は上昇していくつもりか」
 大阪吃音教室のある集まりで、こうきついことは言わなかったと思うけど、話したことがありました。いささかこっちは向かっ腹が立ちかけてるところがあったわけです。
 「障害というなら障害ということをちゃんと考えたらどうや」
 「ことばがうまく喋れないということはどういうことだと思うんや」
 ただペラペラペラペラ喋ること、それをうまくやれるということばっかりに目を向けていて、それで、人が喋るということに本当になるのかという気持ちがありました。
 私が、からだということに理論的に気がついた最初は、メルロ=ポンティという哲学者の『知覚の現象学』という本に出会ったことです。その中で、ことばの問題が扱われている。彼は、言語には2種類あるという言い方をしています。
 第一は、情報伝達のための言語。これは、ひとつひとつの単語が、社会的に意味が確定している。確定している、これが大事なことです。確定している意味の単語を結び合わせて一つの文章を作る。そして、ひとつのまとまった情報を伝える。
 もうひとつの言語は、そのことばが生まれ出て来る時に、そのこと、そのプロセス自体の中で、ことばが意味をもつようになることば。
 分かりにくいかもしれませんので、私なりに言うと、今生まれ出てくることばです。自分の中で感じていることをどういうふうにしてことばにしたらいいだろうかと思って、やっとことばをみつけてくる。そうすると、それは今まで普通に聞いていることばとは全く違うような表現の仕方をする場合がある。
 例えば、《話しかけのレッスン》というのがあるんですが。何人かいるほかの人たちの、誰かを目指して話しかける。聞く人は自分に話しかけられたと思ったら手を挙げて下さいという簡単なことから始あるんです。「どんなふうに聞こえましたか」と聞くと、こんなことを言い出す人がいる。
 「うまく言えないんだけど、声が、ここをかすってあっちへ行っちゃった」「この辺でバーンと広がった」「私の方へ来たけど、その辺で落っこっちゃった」とか。
 そんなことばは、ただこういうふうに聞いたら、あの人あほやないだろうかと思うようなことばですね。その人が感じていることをことばに表していくと、そういうふうにしかならない。これは情報伝達のことばとしてはものすごくへんてこりんなことばです。社会的な意味が確定していないことばが奇妙に組み合わされてくるわけです。だけど、そういうことばが、表現ということですね。
 自分の中からことばを生み出していく。生み出されたときに初めて、今までなかったことばですから、そのときにそのことばが意味というものを生み出すという、こういうことです。
 大阪吃音教室で私が感じたことは、情報伝達のための言語をなんとかすらすらすらすら喋るようにしたいからだばかりがそこに詰め掛けているということです。自分を表現するということへの欲求が、最初に私が出会ったときにはほとんど感じられなかった。
 ひとりの人間が社会生活をするためには、情報伝達の言語に習熟していないといけないけれども、ひとりの人間が自分が生きるということをどういうふうに感じて、生きて、表していくかということになれば、表現としてのことばにおいてしか成り立たないのです。
 表現としてのことばは、必ずしも話しことばだけではありません。私は、《からだで語る》ということがとても大事だと思っています。からだで語るということがなければ、言語にはならないというふうに思っています。
 昨日、私のからだを押せと言ってなんべんもやらせた女の人がいましたね。ふたりでどんどんやったから、みなさんお分かりにならなかったと思うけれども、あれはどういうことをしたかというと、《他者を押す》ということをしたんです。
 あの方の手はいっぺん私の肩にかけるが、少しオーバーにやると、こういうふうにすぐ離れる。離れておいて、腕を棒にしてボーンとぶつかってくる。ボーンとぶつかっておいて、すっと下がる。これは、人が人のからだに触れて、その人のからだを向こうへ押しやる、ということと全然別のことです。いっぺん離れておいて自分のからだを棒にして、例えば丸太んぼうですわ、丸太棒が丸太棒にボーンとぶつかっておいてぴゃっと逃げてくる、こういうふうになっている。これは、外から見ていれば押していると見えるでしょうけど、これは人が人に対して働きかけるという意味の《押す》ではない。自分も相手も物体化しておいてボーンとぶつけるだけですからね。これも、広い意味ではからだが語ることばにはなるわけです。
 あの方が私、あるいはもっと一般的に言えば、他人、人に対して、人として向かっていないということを意味している。自分も相手のからだも、人間としてではなくてモノにしてしまわないと触れていけないという自分を語っているわけです。
 人が人に話しかける、働きかけるということはそういうことではないだろう。ちゃんと手が触れて、つながり合っているからだを向こうへとこういうふうに押すのが、人が人に対して働きかけるということです。
 ところが、情報伝達のことばというのは、とにかく、ボンボンボン、バンバンバンと、機関銃みたいに発射する。これは人が人に働きかけることばではなくて、情報という〈物〉を向こうにぶちこむというだけのことですから、私に言わせれば、相手も物体にしている、人が人に話しかけることばにはならない。こう思っているわけです。
 メルロ=ポンティは、言語の機能をもうひとつつけ加えています。言い方がちょっと違うんですけども。最初に言ったのが《情報伝達》。2番目が《表現》。もうひとつつけ加えています。それは、《よびかけ》です。
 よびかけというのは表現とはまた違うわけです。表現というのは、自分の中から、動いてきたものを相手に差し出すということ。もっとも、日本語で表現というと、差し出すという部分が欠けていることが多い。自分の中から出すことだけが表現だと思っている。それを、私は《表出》といいます。《表現》というのは、他者に対して手渡すことです。だけど、《よびかけ》というのが出てきて、それに関してはほとんど言及されていないんですけども、《よびかけ》というのは、一番、人間が人間に働きかける、非常にプリミティブな、言語機能として一番原初的なことだと私は思っています。
 《よびかける》ということがほんとに成り立たないところで、人と人とが話し合うという、話しかけが成り立つはずがない。《情報伝達》だけであるならば、人間の音声を使っての話し言葉というのが、今やどんどん機械に置き換えられているので、ほとんど必要なくなるだろうと私は思っているのです。
 大阪吃音教室に戻ります。例えば、「ここは滋賀県のなんとかいう所で、瀬田川のふちでありまして、青年会館という場所におります」というようなことを言うとする場合のことです。ひとつの文章を喋り始めるときに、もう終わりまで一緒に喋ろうとしているということなんです。一気にこれだけのことを全部喋ろうと思っている。
 そんなことはできるはずないことで、「私は」と言うときに「〜です」を言おうとしていたら、ひっかかるのが当たり前だというのが私の感じ方です。「私は」と言ったら「私は」とだけ言えばいいのに、「私は〜です」こういうことを言おうとしている。ひとつのセンテンス全部を言おうとしているということは、つまりこのことが情報の内容として、自分の中に全部なければ成り立たないわけでしょ。
 今、自分が思うことを一言一言喋っていこうというときには、先の部分はまだことばになっていない。ここから始めて、どこへたどりつくか分かっていないのですからそんなに急ぐわけにはいかない。未来とはそういうものでしょう。ここから一言一言辿っていくよりしようがない。
 ところが、これだけのことをまとめたら、これだけいっぺんに言わなければいけないというふうに思い込んでいらっしゃるというのがそのときの印象です。
 その時の印象は、いまだに変わらないですね。さっき参加者と話していたのですが、昔はずいぶん、呼吸法をやってこられたというから、ちょっと話をストップして、「ゆっくり息をしてゆっくり喋って」と言いました。息がちゃんと流れて出てくるという感じになると、すっとどもらなくなったなあというのが、私の方の印象です。
 最後に参加者が、
 「吃音ということにこだわるんじゃなくて、ことばは人間にとってどういうことかということを考えるというか、そのことの問題ですね」
 という言い方をされましたけども、私は、自分の立場からの偏見もありましょうが、常にそういうふうに思っています。
 もっと喋れない人がたくさんいて、そういう人たちがやっとこせっとこ喋れることばが、本当に人間的なことばになるにはどうしたらいいかということをひっくるめて、ことばの様態はあるのであって、その中で、吃音というものを考えて欲しい。吃音という形だけを技術的になんとかするということだったら、いつまでたっても人間的なことばを獲得するということにはならないだろうと思っています。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/04

吃音を認めることと、日本語のレッスンは矛盾しない

 吃音の研究者で、僕が敬愛しているのは、チャールズ・ヴァン・ライパー博士ですが、流暢性にこだわっているところが僕とは違います。考え方が一番似ているのは、ジョゼフ・G・シーアン博士です。吃音受容に徹底していました。流暢性はあくまで結果として起こるという主張も共通でした。一番会いたかったシーアンですが、1986年に京都で第一回吃音問題研究大会を開いた時にはすでに亡くなっていました。シーアン本人に代わって、やはり言語病理学者の夫人の、ヴィヴィアン・シーアンが参加してくれました。「私は夫である、ジョゼフ・G・シーアンの考えを伝えに来ました」、「どんなにどもっても、言いたいこと、言わなければならないことは言っていこう」と強調していました。
 ジョゼフ・G・シーアンは、どもる人の問題の核心を、話したいけれども、どもるから話したくない、という2つの欲求が対立しているとして、接近回避抗争だと名付けました。そして、吃音を受け入れてどもっていくしか道はないと言い続けていました。
 僕たちは、吃音を受け入れている、つまりどもっているそのままでいいと思っています。しかし、自分のことばへの取り組みはします。それは吃音受容と矛盾しないからです。ことばへの取り組みとは、どもらないようにするためのものではなく、日本語の発声の基本への取り組みです。そのことを書いた、「スタタリング・ナウ」(1997年1月30日 NO.29)の巻頭言を紹介します。

   
矛盾
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 どもる人は二つの矛盾し、対立した欲求の中で生きてきた。話したい欲求、しかしどもるのが嫌さに話したくないという欲求だ。
 ジョゼフ・G・シーアンは、接近回避型抗争と名付け、これを、どもる人の問題の核心だとした。
 話したい欲求が、話したくない欲求より明らかに強い場合は、比較的すらすらと喋る。話したくない欲求が、明らかに強い場合は黙っている。話したい欲求と話したくない欲求が拮抗したときに、どもるのだと、シーアンは言う。二つの相反する欲求が拮抗した時に、問題が起こるというのだ。
 私たちはとかく物事を二つに分けて考える傾向がある。「男・女」「どもる・どもらない」「治す・治さない」「明るい・暗い」など。
 二つに分ければ、思考が明確になるし、一方に価値を置けば、行動はしやすい。かつては、治すに徹していたし、男女の問題にしても、男が圧倒的に女を押さえつけて来た。関係が拮抗しないと、問題も起こらないかわりに、新しい動きもない。
 この二分法の考えが、今大きく揺らいでいる。多様な生き方をする人が増えているからだ。男女の問題では、夫婦別姓を選べる民法改正要綱が発表されるなど、これまでの垣根がどんどんと取れていっている。その時代に、「どもる人、どもらない人」などという二分法的に分類することは、人が自分らしく生きることの妨げとならないか。
 かつては、どもる人やどもる子どもを、どもらない人間に近づかせるための、《吃音を治す》ことだけを考えた歴史が随分と長く続いた。私たち自身も、「わーたーくーしーはー」と、発声訓練に明け暮れた。
 これまで、《治す》に集中してきた流れを、変えるには、振り子の原理で、一方に大きく振る必要がある。私たちは、《吃音を治す努力の否定》とまでいって、吃音を受け入れて生きることに集中して取り組んで来た。一方への集中は、効率的だし、取り組みやすい。だからこそ成果があがり、《吃音とつきあう》取り組みとして結実した。
 その実践の中から、少なくとも、私たちの身近な仲間は、何があっても吃音受容は揺るがないという自信ができた頃、タイミングよく、竹内敏晴さんと出会った。
 竹内さんのレッスンで、これまで閉じこもっていた自らのからだに気づく人がいた。これが自分の声だと思っていた人が思わず出た大きく伸びやかな声に驚いた。息が深くなり、話しやすくなった人がいた。どもるどもらないは問題ではなかった。
 どもる人でなければ決してしないような発声訓練に明け暮れていた頃は、訓練すればするほど心も声も沈んでいった。なぜ、このような単調なおもしろくない発声訓練をしなければならないのか。
 竹内さんのレッスンは、どもる、どもらないの区別はない。すべての人に必要なレッスンだといっていい。吃音の発声訓練と違って、楽しく、からだが弾み、心が弾み、元気になった。
 吃音の受容を前提に置きつつ、私たちは今、このからだとことばのレッスンに取り組む。
 「吃音を受け入れている、つまりどもっているそのままでいいと言っているあなたたちがなぜ、ことばへの取り組みに積極的なのか? それは吃音受容と矛盾しないのか」
 このような質問は時々受ける。
 二つの欲求が拮抗した時に、問題が起こると、シーアンはいう。私たちの中では、《治したい》《受け入れたい》の二つの欲求が拮抗していない。
 『どもっていい、そのままでいいんだ』と、《吃音受容》の立場に立ち切っている。そのうえで、どもる子ども・どもる人のからだとことばに触れていく。いわゆる吃音症状に取り組むのではなく、その人間のからだとことばに触れていくのだ。
 これは、どもる人とどもらない人を分けた、二分法の、従来の在り方への挑戦だといっていいのではないか。吃音治療ではなく、これは、竹内敏晴さんのいう、《ことばの産婆》の役割なのだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/03
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