伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2022年03月

吃音者宣言7 消えた“タブー” 読売新聞 1997.5.17

  仲間との出会いの大切さ確信

 読売新聞の7回連載の最後となりました。改めて通して読んでみて、波瀾万丈、ドラマティックな人生を歩んできたものだと思います。21歳までの苦しい期間があったからこそ、吃音について、どもる人の幸せについて、真剣に考え続けました。今、僕は、とても幸せに生きています。僕も、僕の仲間のどもる人たちも、自分の人生をかけて、吃音と共に豊かに生きていくことができることを証明しています。

吃音者宣言7  消えた“タブー”  

読売新聞連載 写真_0007 「治すことだけにとらわれずに吃音を受け入れ、どう付き合っていくのか」
 1986年8月に京都で開かれた吃音者の第一回世界大会後、伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、このテーマで吃音当事者でつくる大阪言友会(現在は、大阪吃音教室)の活動プログラムづくりを始めた。
 「吃音とは何か」「吃音があってもコミュニケーション能力を高めることができる」「よりよい人間関係を築く」―の三本柱をプログラムの基本に据えた。吃音と関係のない文章力や話を聞く力を高める講座も取り入れ、週一回の「吃音教室」を続けた。
 かつての伊藤がそうであったように、吃音者は「悩んでいるのは自分だけ」という考えに陥り、孤立しやすい。仲間と出会ったときの喜び、安心感。それが吃音教室にはあった。結果として参加者のコミュニケーション能力が高まり、家庭や職場での人間関係がスムーズになるケースも多かった。
 伊藤は子どもたちにも目を向けたいと思った。大人以上に仲間との出会いが少ない子どもたち。自分が体験してきた寂しく孤立した子ども時代を送って欲しくはなかった。
 1990年から、言友会(現在は、大阪吃音教室)のメンバーを中心に吃音親子サマースクールを開始。子どもたちは、様々な年代の仲間や大人と出会って、自信を深めることができ、親同士も悩みを語り合える。
 1995年8月、京都府綾部市で開いたスクールに参加した小学4年生の男児は「友だちができたことで、なんでどもりになったのかなという暗い心が、どもりになって良かったという明るい心になった」と感想を寄せた。
 翌年のスクールは大津市内。5年生になった男児は最終日に代表としてあいさつをした。伊藤は、堂々とした彼の態度を頼もしく、そしてまぶしく感じた。
母親も「家ではどもりの話題はタブーでしたが、スクールをきっかけにオープンにでき、自分たちだけじゃないという安心感が生まれました」と喜んだ。
世界大会も、ドイツ、アメリカ、スウェーデンで3年ごとに開催され、1995年の国際吃音連盟創設につながった。伊藤は3人の運営委員の一人に選出されている。
 吃音については、連盟参加団体でも「受容」と「治療」のどちらを優先するか、が大きな論点になっている。最近でも、吃音者で日本でも人気のあるアメリカの歌手、スキャットマン・ジョンが創設する吃音者への支援基金の使途をめぐってインターネット上でホットな論争があった。伊藤は、自身の活動から「吃音を受容することによって悩むことが減り、症状にいい変化も出る」と、当事者グループへの支援を主張。スキャットマンも「私も吃音を認めた時、振り回されることはなくなった」と賛成したが、他の国からは「治療が大事」と、治療法に取り組む研究者への支援を支持する意見が相次いだ。
 結局、双方の考え方を取り入れ、基金を活用することになった。伊藤も治したいと願う気持ちは痛いほど理解できるし、尊重したいと思う。ただ、当事者同士の出会いの場、セルフヘルプ・グループの持つ力の大きさは何よりも確信している。今年も8月にキャンプで子どもたちとの出会いが待っている。(敬称略) (おわり)  担当・森川明義

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/30

吃音者宣言6 世界大会の夢実現 読売新聞 1997.5.16

  「治す努力否定」足元から

 僕が職業に就いたのは、28歳のとき、大阪教育大学の教員としてでした。回り道をして、話すことの多い、というか、話すことが仕事だともいえる大学の教員になりました。自分がなりたくてなったというのではなく、風に吹かれてのようなものでした。
 そして、大学を辞めた僕が、次に選んだのがカレー専門店でした。僕がカレー専門店をしていたことを知らない人がいるかもしれません。10年続けました。大学教員からカレー専門店のオーナーシェフと、仕事が変わっても、変わらないのは、吃音に関わる活動でした。吃音は、僕のライフワークなのです。カレー専門店を経営しているときに、第一回吃音問題研究国際大会を京都で開催しました。世界のどもる人に会いたい、話したいとの長年の夢が叶いました。京都国際会議場でのフィナーレ、参加者みんなで肩を組み、「今日の日はさようなら」の旋律は、忘れることができません。
 
吃音者宣言6  世界大会の夢実現 

読売新聞連載 写真_0006 吃音当事者のセルフヘルプ・グループ「言友会」が打ち出した基本理念「治す努力の否定」。副会長だった伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)が草案を練り、みんなで検討し、文章にした。1976年5月、東京で開いた会の創立十周年記念大会で採択された。
 〈私たちはどもりを隠し続けてきた。私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを。一方、どもりながらも明るく生きている吃音者がいる事実も。どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりだからと自分の可能性を閉ざしている固い殻を打ち破ろう〉
 全国の仲間に対して呼びかけた「吃音者宣言」。会場で事務局長が文章を高らかに読み上げている間、伊藤は逃げ続けてきた自分の人生を重ね合わせながら、感慨にふけっていた。大会後、共感する全国の吃音者から大きな反響が寄せられた。
 「かっこよすぎる」という声もあった。大阪教育大学の講師として、言語障害児教育を受け持っていた伊藤は「宣言はそのように生きたいという願いであり、目標。100逃げてきたのなら、それを一つでも二つでも減らそうやないか」と答えていた。が、「安定した土台があるからきれい事が言える」との指摘には、さすがにショックを受けた。
 「宣言」の翌年、大学を辞した。「自分も当事者。研究者ではなく、当事者の側にいるべき」と考えたからだ。
 大学を辞めた伊藤が次に選んだ仕事は、カレー専門店。1980年4月、大阪市福島区の大阪大学病院前に「タゴール」を開いた。店を吃音者の働く場やたまり場にしたく、3人の従業員も吃音者だった。凝った手作りのカレーが評判を呼び、繁盛した。
 店は病院の移転が決まったこともあって10年で閉めたが、この間は思惑通り、吃音者のたまり場となった。また、遠くから相談に訪れたり、電話がかかったりで、全国組織の事務局にもなった。
 こうした中で、伊藤は「世界の吃音者と思いを分かち合いたい」という世界大会開催の夢を膨らませてきた。1984年4月、京都市で開いた全国のリーダー研修会で提案したが、20人のリーダーたちは沈黙するばかり。言友会の年間予算がわずか30万円のことを思えば無理はなかった。一人の「やってもいいかな」という発言を機にムードが変わった。「失敗してもボーナスを出し合えばいい」と覚悟を決めた。
 開催への機運が盛り上がり、大会は2年後、海外からの研究者も多数参加する音声言語医学会が日本で開かれる1986年8月と設定、準備に走り出した。全国各地の言友会も活発に資金集めに奔走、その額は1200万円にも達した。大会には11か国約400人が参集、世界で初めての大会は大成功に終わった。
国際大会会場写真 大会では「宣言」とともに「治す努力の否定」の理念は好意的に受け入れられたが、具体的な実践例についての質問が相次いだ。確かに弱点だった。
 「治す努力の否定といっても、何もしないことではない。どもったままコミュニケーション能力を高めるなど、することはいっぱいある」。頭では分かっていたが、十分に答えられず、伊藤は忸怩たる思いがした。足元を見つめ直す必要に迫られた。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/27

吃音者宣言5 矯正から受容へ 読売新聞 1997.5.15

ありのままに生きる

 昨日のつづきを紹介します。どもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立した僕は、仲間と共に、活動を続けました。その頃の仲間で今も活動している人は誰もいません。僕だけがしつこく続けています。
 言友会は、全国に広がっていきました。僕たちは、吃音の学習をすすめ、海外の文献を取り寄せて翻訳したり、吃音に関する冊子を編集・発行したりしました。何よりも、どもる人の生き方を考えるようになりました。そして、それらの活動は、「治す努力の否定」、「吃音者宣言」へと結実していくのです。

 
吃音者宣言5  矯正から受容へ

読売新聞連載 写真_0005 伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)らが、吃音当事者のセルフヘルプ・グループ「言友会」を結成したのは、1965年10月。メンバー11人は、毎週日曜日、中学校の教室を借りて例会を持った。伊藤は、幹事長として会を引っ張った。
 吃音の矯正が目的だったが、伊藤は「もうどもりは治らない」という確信めいたものを感じていた。吃音症状そのものにこだわる気持ちも薄らいでいた。矯正訓練以上に重視したのは、みんなで取り組むサークル的な活動だった。小、中、高校時代を通じて孤独だった「寂しさ」の反動もあった。ダンスパーティーや映画の上映会、文化祭など次々とイベントを開いた。
 当時、大学2年で会に参加した村上英雄(48)(現・岐阜県教委指導主事)は、バックアップしてもらおうと、自民党の幹事長だった故田中角栄元首相との面会を取り付けた。田中も吃音者で、子供のころ、かなり、悩んだようだ。
 伊藤と村上が、東京・目白の田中邸を訪ねると田中は、例によって扇子をぱたぱたとさせていた。「わしは浪花節で治した。君らも頑張れ」と励ましてくれた。二人は、支援の額の多さに驚き、結局、辞退することにしたのだが…。
 こうした積極的な活動は「どもっていても、前向きになれる」ことをメンバーに実感させた。「治そうという努力が自分を苦しめる。どもりという症状にとらわれた生き方から脱却し、ありのままに生きたい」。会の活動を通じて、伊藤の思いは一層強まっていく。さんざん矯正訓練をしても治らない現実を直視した上での"到達点"だった。
 「治す努力の否定」―矯正から受容への転換。もちろん、治ることの否定ではない。この伊藤の考え方は後々まで続く「治す派」と「受容派」の論争の出発点にもなった。
 「受容」は、伊藤にとって、「どもりが治らない限り人生はない」と、周りからも思い込まされ、逃げ続けてきた自分自身、仲間の苦い経験から必然的に導き出されたものだ。価値観の転換には「治す努力の否定」という衝撃的な言葉が必要だった。
 72年、会の活動を続けながら、村上とともに、吃音研究者がいた大阪教育大学の言語障害児教育教員養成一年課程に入学。大学卒業者を対象にした課程で、修了後、村上は古里で教師になり岐阜言友会を立ち上げ、伊藤は研究生として残り、助手を2年務め、講師になった。
 助手時代、伊藤は「治す努力の否定」が社会に受け入れられるのかどうかを確かめたくて、75年10月から翌年2月まで、全国35都道府県で相談会を開き、この考え方をアピールした。各会場では「努力で治る」と、乗り込んで来た専門家らも少なくなかったが、多くの人はじっくり話すと理解してくれた。
何より収穫だったのは、どもったまま明るく生きている人が予想以上にたくさんいることが分かったことだった。それは伊藤たちを勇気付けた。
そのころ、言友会は全国に広がり、会員も約2000人に膨れ上がっていた。75年5月、兵庫県・鉢伏高原で開いた全国大会でも「治す努力の否定」は合意を得た。伊藤は「どもり」を理由に人生から逃げていた吃音者が自らを見つめ、受容するまでの経過を文章に残したいと思い始めていた。(敬称略)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/26

吃音者宣言4 矯正所の訓練に疑問 読売新聞 1997.5.14

  セルフヘルプの会旗揚げ

 昨日のつづきです。どもりを治さないと自分の人生はないと思い詰め、民間吃音矯正所の東京正生学院に行きました。治ると宣伝していた矯正所で、僕の吃音は治りませんでした。治らなかったのは、僕だけではなく、そのとき来ていた全員が治りませんでした。この現実に向き合い、努力すれば治る・治せるに疑問を持つようになりました。学童期・思春期を孤独に生きた僕は、人一倍人を求めていたようです。人と出会い、一緒に活動したい、その思いがグループ設立につながりました。
 この東京正生学院の経験は何度も書いたり、話したりしてきましたが、その経験の意味づけが変わりました。過去の意味づけが、思いがけずに変わったのです。2018年、東京大学先端科学技術研究センターでの「どもる人たちの当事者運動を振り返る 伊藤伸二さんを囲んで」の講演の準備をしているときです。これまでは、東京正生学院は、僕にとって、「初めて吃音と向き合った所」「吃音が治らなかった所」「仲間と出会えた所」「吃音を治すことをあきらめられた所」であり、そのように紹介していました。では、僕が変われたのはどこだったのだろうか、セルフヘルプグループの活動の中で変われたのだろうかと深く考えてみると、そうではなかったと気づいたのです。僕が大きく変わったのは、東京正生学院でした。東京正生学院に対する、「初めて吃音と向き合った所」「吃音が治らなかった所」「仲間と出会えた所」「吃音を治すことをあきらめられた所」という意味づけが、「どもれない体」が「どもれる体」になった所という意味づけに変わったのです。
 「どもれる体」になったという表現を、僕は、東京大学での講演で初めて使いました。このことについてはまた、書きたいと思います。

吃音者宣言4  矯正所の訓練に疑問

読売新聞連載 写真_0004 二浪して大学に入学した伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、その年の夏、吃音矯正所の寮に入った。多くの仲間と出会い、ひた隠しにしてきた「どもり」を大っぴらにできる環境が、大きな安心感を与えてくれた。
つらかったこと、嫌だったことを話すと、みんな自分のことのように耳を傾けてくれる。相部屋の仲間と夜遅くまで青春を語り合った。徐々に自信を取り戻していく確実な手ごたえを感じていた。
矯正所の一日は午前9時から始まる。教官の合図で背筋を伸ばし、鼻から大きく息を吸って口に出す呼吸法。これを30分ほど繰り返し、発声練習と続いた。この練習に「平均間隔平等法」という治療法があった。「精神一到何事か成らざらん」といった格言をゆっくり、朗々と独特の節回しで発音する。
 そして、戸外での訓練。矯正所の近所で、通行人のだれかれなしに「郵便局はどこですか」などと話しかける。さらに、何人かのグループで公園や電車の中で「皆さん、突然大きな声を張り上げまして……」と演説をぶつ。
 しかし、伊藤は一か月目ごろから疑問を感じた。確かに、ゆっくり歌うように話せば言葉に詰まらないが、ふつうの会話にはほど遠かった。意識しなければ、やっぱりどもった。「治った」と矯正所を後にした仲間が舞い戻って来るケースがたびたびあった。伊藤は「どもりが治るとはどういうことなのか。完全に治るのは無理かも知れない」と、思い始めてもいた。
 だが、落ち込むことはもうなかった。伊藤はある日、矯正所仲間の女性に「遊びに行こう」と、思い切って声をかけた。返事はOK。生まれて初めての経験。デートの前夜は、わくわくして一睡もできなかった。東京タワーに行き、ラーメンを食べ、どんな味だったのかは思い出しようもないが、積極的になれたことがうれしかった。
 夏休みを利用して広島から矯正所に来ていた女性に、ほのかな恋心を抱き、何度かデートもした。大学の友達と喫茶店に行った時、女子学生に「ぺらぺらしゃべる人より、どもっていても、伊藤さんの方がすてき」と言われたことが鮮明に残っている。
 吃音である限り、女性には好かれない、と悲観していただけに、その言葉には勇気づけられた。「どもっていても分かり合える女性がいる。生きていける」
 矯正所は夏休み一か月間の入寮後、その年の10月まで3月間通った。その1か月ほど前の9月、「講談でどもりが治る」という新聞記事が目に留まった。さっそく、それを実践している講談師の田辺一鶴の元に足を運んだ。そこである歯学生に出会い、気が合った。
歯学生も矯正所に通ったことがあり、その方法には否定的だった。同じ疑問を抱き始めていた伊藤は、年上の歯学生をリーダーにグループ結成を持ちかけた。矯正所は経済的な負担もかかり、治るという見通しも立たない。「それなら自分たちの手で」というのが発想だった。
伊藤らの呼びかけに10月、矯正所仲聞ら11人が上野公園に集まり、日本吃音矯正会「言友会」を旗揚げした。当事者だけのセルフヘルプ・グループの誕生だった。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/25

吃音者宣言3 矯正所の門をたたいた 読売新聞 1997.5.13


久々に心の底から笑った

 僕の逃げの人生のはじまりは、高校で入部した大好きな卓球部を、合宿の前日に辞めたことでした。このことは、講演の中でよく話します。話しながら、なんとも言えない悔しさがこみ上げてきます。自己紹介ぐらいで、そんなに思い詰めないでもよかったのにと思います。合宿の日だけ休めばよかったし、どもらないで名前が言えたかもしれないのです。しかし、当時の僕は好きになった彼女の前では絶対にどもりたくない、吃音を隠したいの思いだけで、いっぱいだったのでしょう。「隠す」、「逃げる」は、僕にとって、ずっとキーワードでした。でも、このときの僕がいたから、今まで、吃音をライフワークとすることができたのだとも言えます。僕の人生の転換になる出来事でした。
 昨日のつづきを紹介します。

吃音者宣言3  矯正所の門をたたいた

読売新聞連載 写真_0003 津市内の県立高校へ入学した伊藤伸二(53)は、中学生時代、心の支えにしていた卓球部へためらわずに入部した。入学式でちらっと見かけた瞬間、胸をときめかせた女生徒も、卓球部に入っていた。とてもうれしかった。かわいくて、清楚で…。遠くから見ているだけでも気持ちが弾んだ。初恋だった。
 5月の最初に男女合同の新人歓迎合宿が計画された。彼女と親しくなれる絶好のチャンス。が、同時に頭に浮かんだのが「自己紹介」。
 「彼女にどもりであることを知られたくない。惨めな自分をさらしたくない」
 「どうしよう」「どうしたら」。思い悩んでいるうちに、とうとう合宿の前日。伊藤は追いつめられたように、先輩の部長に「卓球部を辞めます」と告げた。「何で」といぶかる先輩の声が聞こえないふりをして背を向け、すたすたと体育館を出た。
 支えだった卓球も失ってしまった。「最も大切にしているものからも逃げてしまった」。何事にも背を向ける自分が実に情けなかった。
 授業も当てられるのが苦痛で、さぼっては映画館に足を運んだ。2年生の秋、楽しいはずの九州方面への修学旅行も、独りでぽつんといた辛い思い出だけが残っている。学校でも家でも、だれとも言葉を交わさない日も多かった。
 「今は仮の人生。どもりが治った後に、本当の人生が始まる」。そんなことばかり考え、雑誌などで知っていた東京の矯正所に入る思いがぐんぐんと膨らんだ。「そこに行けばきっと治る」と。
 大学は東京と決めた。しかし、不勉強がたたって二浪の憂き目に。「将来への不安、絶望感を断ち切らなければだめになる。とにかく働きながら、進学を目指そう」とその春、家出同然で大阪に向かった。
 新聞広告で見つけた新聞販売店に住み込むことにした。「まず、東京の大学に行き、矯正所に入る資金を」。倍の配達を受け持ち、一年間、黙々と励み、勉強にも取り組んだ。孤独だったが、希望があった。「どもりなんか治らない」と言われ、ずっと恨んでいた母親を許せるようにもなった。3年目にようやく大学に合格した。
 東京での生活。「これまでの暗やみからやっと抜け出せる」。入学後、都内で経験のある新聞配達店に住み込んだ。資金もたまった1年生の夏、あこがれだった民間の吃音矯正所を訪ねた。ところが、入り口で立ち止まってしまった。どもりの自分と正面から向き合うのが怖かったのだ。
 とはいえ、もう逃げるわけにはいかない。思い切ってドアをくぐった。意外とたくさんの人がいてほっとした。伊藤は1か月間の泊まり込みコースを選んだ。3階建ての寮はいっぱい、泊まり込みだけで100人近くもいた。
 嫌で嫌でたまらなかった自己紹介だったが、だれもがどもっている。「あ、あ、あ、秋田から来ました」。たちまち、親しみを感じて打ち解けることができた。
 「最初の声が出ないので、電話が怖い」「からかわれて悔しかった」「友達ができずに寂しかった」。
 おそろしいほどみんなが同じ体験をし、悩んでいた。それが仲間内だと笑い飛ばせる。伊藤は何年かぶりに心の底から笑った。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/24

吃音者宣言2 孤立していく日々 読売新聞 1997.5.10


  音読できず「怠け者」の怒声

 昨日のつづきです。この記事掲載のために取材を受けたとき、僕は53歳でした。24年前のことです。ついこの前のような気もしますが、ずいぶん前のような気も。ただひたむきに一つの道を歩いてきたなあと思います。今読み返してみて、随分たくさんのことを森川記者に質問を受けながら、よく話したものだと思います。ジャーナリストの目からの質問だったから、ここまで話していたのでしょう。僕は自分の体験をよく話しますが、今回の新聞記事は、今はあまり話さなくなったことまで話しています。それをよく短い記事にまとめてもらったと、今更ながらに感謝です。

読売新聞連載 写真_0002 
吃音者宣言2  孤立していく日々
 小学校2年生で吃音を強烈に意識し始めた伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、それまで詰まりながらも難なく言えた自分の名前さえ出なくなった。最初の一音が出ない。やっと出ても今度は「イ、イ、イ」となる。「返事が元気なこと随一」と通知簿にも書かれた1年生当時の面影はなかった。
 授業中に当てられると立ち往生する。周りからはクスクスという忍び笑いが聞こえてくる。答えが分かっても手が挙がらない。授業以上に遠足や運動会などの行事が嫌だった。
 「歩いているとき、だれか話しかけてくれるだろうか。だれか一緒に弁当を食べてくれるだろうか」。絶えず不安が付きまとった。
 忘れられない苦い思い出がある。
 6年生の時、なぜか児童会の副会長にクラスから推された。多分、だれかがふざけたのだろう。この推薦を巡ってクラス会が開かれた。「どもっていると格好が悪い」「推薦しない方がいいと思う」。残酷なまでに率直な意見が飛び出した。耳をふさぎたくなる時間だった。
「どもりは悪いもの、劣ったもの」との気持ちがますます強まった。「どもりが治らない限り、ぼくの人生はない」。悲痛な思いでかみしめた。

吃音の苫しみを理解し、味方になってくれた教師も、またいなかった。
中学2年生の時、英語の授業で、音読を命じられた。案の定、声が出ない。教師から「テストはいいのになぜ読めないんだ。家で練習してないのか。怠け者」と怒られた。
放課後、伊藤は意を決して職員室に行った。〈怠けていたのではない。どもるから読めない〉。言葉に詰まりながら、必死で訴えた。だが、教師は「分かった、分かった」と、さも迷惑そうに言っただけ。悩み抜いて申し出た結果がこの返答だった。
学校で孤立していく自分を見つめる自分がいた。自宅も安住の場ではなかった。

このころ、書店で「どもり二十日間で必ず治る」というタイトルの本を見つけ買い求めた。内容通りの発声練習を自宅近くの丘や河原でこっそり続けた。夏のある日、雨が降っていた。鏡台の前で発声特訓をしていた。
「うるさいわね。そんなことをしても治るわけはないでしょ」。
母親がどなった。
 「本には親が協力して治ったと書いてあるのに、うちの母ちゃんはなんや」。涙を飛ばしながら母親に食ってかかった。ふろしきに教科書を包んで家を飛び出した。
 実際には、数時間後に帰ったのだが、自宅でも安らぎを感じなくなった伊藤は、父親が集めていた切手をもらっては勝手に換金、夜は映画館に入り浸るようになった。一人で行く映画館はほっとした温かい場所だった。
 もう一つ伊藤の救いになったのは、中学時代の部活動の卓球だった。友人はできなかったものの、無心に白い球を追っていると気が晴れた。人付き合いでも引っ込み思案になっていたが、卓球だけは3年間打ち込めた。県大会では選手として出場できるまでの実力をつけていた。
 当然、高校に入学しても、卓球だけは続けようと考えていた。
 だが……。(敬称略、次回は十三日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/23

吃音者宣言1 逃げの人生の始まり 読売新聞 1997.5.9

 学芸会の配役に屈辱感

 大阪セルフヘルプ支援センターで知り合った、読売新聞の記者の森川明義さんが、僕の人生に興味・関心をもち、僕の人生を7回にわたって、記事にして下さいました。僕は、研修会や講習会で、また本の中で、自分の人生を話したり書いたりしていますが、他者が書いてくれた僕の人生を、新聞記事として読むというおもしろい経験をしました。今日から7回の連載を紹介します。

読売新聞連載 写真_0001 
「どもりで本当によかった」。日本吃音臨床研究会(大阪府寝屋川市)代表の伊藤伸二(53)は今、自信と誇りを持ってそう言える。
 11年前の1986年8月11日正午前の国立京都国際会館Aルーム。国連の軍縮会議なども開かれた馬蹄形の威厳のある大会議室だ。世界11か国から約400人の吃音者や研究者らが集まった第1回吃音問題研究国際大会の幕が、熱気に包まれながら下りようとしていた。
 明かりが落とされた会議室で、参加者全員が立ち上がり隣の人と肩を組み「今日の日はさようなら」の曲をハミングで響かせる。当時、吃音者でつくる全国言友会連絡協議会長で、大会の会長を務めた伊藤は静かにマイクを手に取った。
 「私はどもりが嫌いでしたが、世界の仲間と出会え、どもりが好きになっている自分を感じています。3年後、ドイツのケルンでまたあいましょう」
 会場から、伊藤に惜しみない拍手が贈られた。
 世界の仲間と集いたいと、ほのかな構想を抱いてから16年、具体的な準備にも3年をかけた国際会議のフィナーレ。感激で涙があふれた。

伊藤が、初めて「どもり」を意識したのは、津市で暮らしていた小学校2年生のときだった。
吃音は3歳ごろからあったようだ。が、意識することは全くといっていいほどなかった。どもっていてもよくしゃべり、明るく元気で友だちも多かった。成績も良かった。何事にも積極的でクラスの副委員長にもなった。
 2年生の秋。恒例の学芸会が迫っていた。伊藤たちのクラスの出し物は「浦島太郎」に決まった。当時、成績のいい子が重要な役を射止めた。「当然、自分は主役の太郎役」と思い込んでいた。家族にも得意になって話した。
3週間前、担任の教師から配役が発表された。わくわくして待った。「太郎は○○君、亀は××君」。重要な役は次々に決まっていくのに伊藤の名は呼ばれない。最後に数人やっと役が振り当てられた。多数の村人役の一人。せりふは皆で一緒に言う「さようなら、亀」だけだった。
今から思えば、傲慢で冷や汗ものだが、その時は屈辱感に震えた。「どうして、成績のいい僕が……」。ふと、思い当たった。
 「どもっているから?」
 練習が嫌でたまらなかった。"その他大勢"の仲間を誘ってさぼろうとした。嫌な人間だと思ったが、独りに耐えられなかった。
 吃音を強烈に意識するようになった。成績も良く、走るのも速い。級友からも一目置かれた存在だったのが、学芸会をきっかけに、誇りや自信を急速に失ってしまい、いじけたようになった。
 いじめられるようにもなった。ちょっと言い争いになると「どもりのくせに」という言葉が浴びせかけられた。自分が正しいと思っても、その言葉で腰が引けてしまう。相手はそれを知っているから余計にはやし立てる。どんどん無口に、そして引っ込み思案になっていった。
 たくさんいた友人も、1人抜け、2人抜け……。気が付くと独りぼっち。自分自身から、吃音から逃げる人生の始まりだった。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/22

不思議な縁のつながり〜読売新聞での連載のはじまり〜

 小学校2年生から21歳までの暗黒の時代を経て、21歳からの僕は、本当にラッキーな人生を送ってきたと思います。人に恵まれました。自分のもつ力以上のことができた上出来な人生を送っています。
 今日紹介する読売新聞での連載は、不思議な不思議な、人とのつながりから生まれました。
 1986年、第一回世界大会で「出会いの広場」を担当して下さったのが、九州大学の村山正治さん。村山さんの九州でのベーシック・エンカウンターグループで初めてファシリテーターをさせてもらったとき組んで下さったのが九州大学の高松里さん。セルフヘルプグループの研究をしていた高松さんに紹介されたのが、大阪セルフヘルプ支援センターで、そのメンバーのひとり、読売新聞の森川明義さんと知り合いました。
 その森川さんが、僕の半生を7回シリーズで大きな記事にしてくれました。今回は、その記事を紹介します。
 不思議な縁は、その後も続きます。森川さんに紹介してもらったのが、應典院の秋田光彦さん。應典院は、竹内敏晴さんの大阪レッスン会場であり、また大阪吃音教室の会場でもありました。その應典院の小さなニュースレターに載った僕の記事を読んで下さったのがTBSディレクターの斎藤道雄さん。斎藤さんに紹介されたのがべてるの家の向谷地生良さんというわけです。

 1997年6月の「スタタリング・ナウ」の巻頭言を紹介します。次回からは、森川さんが書いて下さった記事を紹介していきます。

基本的信頼感
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

  動物園のラクダさん
   まんまるお月さん出た時は
    遠いお国の母さんと
     おねんねした夜を思い出す

 小さいころ、泣いたり、すねたりした時、いつも母が私を胸に抱き、この童謡を歌ってくれた。大人になってからも、この歌を口ずさむとき、母の胸の温もりが、母の優しさが蘇る。
 この童謡は、ほとんどの人が知らない。私だけのための歌であり、私の大切な宝物だった。
 アイデンティティとライフサイクルで知られるE・H・エリクソンは、0歳から1歳半ごろまでの発達課題を、《基本的信頼感対基本的不信感》の対の概念で表し、不信感にまさる信頼感がもてたとき、この時期の課題が達成されるとした。
 私は、この歌を口ずさむ時、親から絶対的に愛されているとの確信がもてた。この基本的信頼感が、私のその後の人生に大きな役割を果たした。
 私が、エリクソンをとても好きなのは、このライフサイクル論によって、私がどもりに悩み、劣等感に悩まされ、自己否定の中から、自己肯定の道を歩む道筋が、見事に説明がつくからだ。
どもりに悩んだ学童期、劣等感のかたまりだった。学童期の課題が全く達成できていないために、思春期に自分が自分であることがつかめなかった。吃音を否定し、自己を否定した。
 この自己否定は、私がどもりを治そうと発声練習をしていた時に投げかけられた母のこのことばで決定的なものになった。
 「うるさいわね。そんなことをしても、どもりは治りっこないでしょ」
 温かった家庭が一変して私には冷たい場所に感じられ、私の居場所がなくなった。私はさらに深くどもりに悩むようになった。何度も取り上げられる母には申し訳ないが、私の吃音の歴史で、この出来事をはずすわけにはいかない。
 しかし、私がその後、吃音者のセルフヘルプグループを作ることができたのは、基本的信頼感が基本にあったからだ。自分を信じ、他者を信じることができるようになったのは、母から与えられた絶対的な愛があったからだと思う。
 グループの活動の中で、学童期・思春期の課題を少しずつ達成し、少し遅れはしたがアイデンティティを確立することができた。
 子どもに障害や病気があれば、治してあげたいと願うのは親の自然な思いだろう。一方、矛盾のようだが、例えそれが叶わなくても、《そのままのあなたでいい》との思いが同時にまたは先にくることが、基本的信頼感につながるのだと思う。
 子どもの成績が悪くても、障害があっても、子どもに、いっぱいの愛を惜しみ無く与えることが、親にできる最大のことだ。
 基本的信頼感を、童謡という証拠品まで残して与えてくれた母に、改めて感謝したい。
 新聞に、母とのことを含んだ私のどもりの歩みが、5月、7回の連載で紹介された。
 新聞連載の最終回が掲載された5月17日。その掲載された新聞を車中で読みながら、私は、何の楽しい思い出のない、辛いばかりの故郷の三重県津市に向かっていた。三重県言語・聴覚障害研究会の1997年度総会で講演をすることになっていたからだ。講演の前、小学校、中学校、高等学校を訪れた。誰ひとり、どもりを理解してくれなかった。劣等感、人間不信の芽生える役割しか果たさなかった教師とのかかわりが鮮やかに思い浮かぶ。
 講演では、私の体験を通して、《今、教育で大切なこと》を話したが、この教師とのかかわりを抜いては話せない。私のような体験を、あとに続く子どもにしてほしくないとの思いから、つい教師への願い、期待に力がこもる。
 新聞掲載の最終日。故郷で教師に話すという不思議な縁に、過去とのひとつの決着を感じた。
 今また、新しい旅が始まる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/20

藤沢周平さんと吃音 7

 藤沢周平さんが亡くなられたときに特集した「スタタリング・ナウ」を紹介してきました。周平さんからいただいたお返事、著書にみる〈藤沢周平さんと吃音〉、新聞記事など、そのどれもに、周平さんの親しみやすい温かい人柄が感じられます。
 今日は、特集の翌月、「スタタリング・ナウ」を読んで下さった、読売新聞の三木健二さんの「今日のノート」を紹介します。
 三木さんは、それまでにもお付き合いのあった方です。吃音のことをよく理解して下さっていた記者のひとりでした。
 藤沢周平さんと吃音については、今日が最後です。

今日のノート 三木健二 読売新聞 1997.2.23》
      周平さんの答辞
藤沢周平 読売新聞 三木健二 小学校の卒業式で答辞を読む総代の声が出ず、級友が代読する事態になったのは前代未聞のことだろう。吃音のため声が出なかった総代が若き日の藤沢周平さんだ。
 五年生の時、学校で一番こわがられていた、スポーツマンの宮崎先生が担任になったとたん、どもりだしたから感受性のとても鋭い少年だったに違いない。どもりも「ががが…」などと音が重なる連発タイプではなく、しゃべろうとしても声が出ない難発の吃音だった。先生に指名されて立ち、教科書を読もうにも舌は石のように動かないひどい状態だった。
 この屈辱感から、手当たりしだい本を読みあさった。やがて作文の時間が大好きになる。声を出さなくていいし、先生が朱筆で書いてくれる講評でほめられるのがうれしかったから。中学生のころ、吃音は自然に治ったという。
 「宮崎先生とどもりに出会わなかったら、こういう人生がなかった」と藤沢さんが小説家になったきっかけを記しているのを、日本吃音臨床研究会の会報今月号の藤沢さん追悼特集で知った。
 〈治そうとする努力そのものよりも人間として生きる努力を。どもったまま生きよう〉という研究会の「吃音者宣言」に、藤沢さんは自分の体験を重ね、全面的に賛成する手紙を寄せ、吃音者にもあたたかいまなざしを向けた。
 どもりの人には優しくて敏感でまじめな人が多い。だが、吃音から解放されると、反動のようにしゃべりまくるか、尊大な態度に転じる人が中にはいる。「藤沢さんはその正反対。どもっていた時の感性をそのまま持ち続けた人でした」と研究会代表の伊藤伸二さん。人情味あふれる時代小説は悩み続けたころの『感性』とは無縁ではない。吃音から作家のあたたかさとひたむきさがみえてきた。(「スタタリング・ナウ」 1997年3月 NO.31)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/19

藤沢周平さんと吃音 6

藤沢周平さんが亡くなったことの、新聞・週刊誌に見る反響

 1997年1月、藤沢周平さんが亡くなられたとの報道は、全国紙のほとんどが1面で報じていました。3面には、周平さんの業績と人となりが、そしてその後は、夕刊等の文化欄でかなり詳しく解説がなされていました。
 「全作品とも人肌のぬくもりを持ち、それが現代人の徒労感を慰め、癒してくれた。生きることの悲しさ、人間の優しさが胸に迫ってきた」
 このように紹介される記事には、次のタイトルがつけられていました。
  まなざしの深さとあたたかさと
  錬磨の文体、道開く行脚
  ひたむきな生、ひたむきに描き
  「庶民感覚」こだわった職人
  時代小説の「旗手」
  人情味・哀感あふれる時代小説

 また、これらの解説や追悼文の中には、周平さん自身のことばも紹介されていました。

 「僕はキラキラ光っているようなものは嫌いです。あまり目立たないもの、世の片隅でひっそりとつつましく生きているようなものが好きです」
 「私の小説の色彩は、まあ暗いんですが、ある時期から、ありのままの人生を認めるだけの気持ちのゆとりができてきて、人生には暗い面もあれば、明るい面もあると分かってきた」

 反響の大きさが、藤沢周平さんの存在の大きさを表しているようでした。
 その中から、朝日新聞の「天声人語」(1997年1月28日)と週刊「文春」(1997年2月6日号)を紹介します。

《天声人語 朝日新聞 1997年1月28日》 
藤沢周平 天声人語 藤沢周平さんの最後の作品集となった『日暮れ竹河岸』(文藝春秋)の中の一編『飛鳥山』は、たまたま出会った幼女をさらう茶屋つとめの女の話である▼子供を抱いて、女は走る。その子もさびしい境涯にある。しっかりとつかまった女の子が、ささやく。「おっかちゃん」。「おうおう」と答える女の目から涙があふれ出る。生きることの哀しさ、人間の優しさが胸に迫る。人肌のぬくもりが、無性に懐かしくなる▼藤沢文学の愛好者は数多い。なかで、ひときわ熱心な読者は四十歳前後から上の男性の会社員、管理職ではないか、と想像する。競争社会にふと疲れを覚え、人間関係につかの間嫌気がさす。そんなとき、たとえば、少年藩士が成長していく姿をゆったりとした筆遣いで描いた『蝉しぐれ』は、落ち込みかけた心を癒やしてくれる▼集団や組織からはみ出す癖が私にはある、と藤沢さんは何度か書いている。それも〈集団から疎外されるのではなく、自分勝手にはみ出すわけである〉と。小学校の授業がいやだった、運動会も嫌いだった、と指を折る。そして、語る。「成功しない人間にこそ真実があり、物語があります」「いつの世でも、権力というのは油断ならない。信用できるのは、普通の人間です」。こうした視点も読者を引きつけた▼雑木林が好きだ、と繰り返し書いた。元気だったころは、朝の散歩を好んだ。冬の雑木林の明るさに誘われ、林の奥に入り込むこともあった。『冬の散歩道』と題したエッセーの一節。〈……芝生のある道に出て、芝生のむこうに大きな農家と見事なケヤキの大木が見えて来る。冬の木々は、すべての虚飾をはぎ取られて本来思想だけで立っているというおもむきがある〉▼〈もうちょっと歳取るとああなる、覚悟はいいか……〉と文章は続く。藤沢さんは「本来の思想」を貫き、冬、歩み去った。
                  
《週刊『文春』1997年2月6日》
 同じように吃音体験のある作家の井上ひさしさんは、こう振り返る。

 ―現実の藤沢さんは、トツトツとして言葉少なく、それでいて気難しい感じのまったくない人でした。藤沢さんと僕は同じ山形出なもので、あるとき山形新聞が、直木賞の二人に新年のための対談をするよう言ってきました。ところがいざ対談してみると、まったく話が弾まない。
「藤沢さんは山形は鶴岡のご出身ですね」
「はい、鶴岡ですねえ」
「僕は米沢です」
「ああ、米沢でしたねえ」
といった調子で終始してしまいました。藤沢さんにこっちも感化されて、新聞一面の対談ですから三十分ですむところが、三時間半もかかりました。山形新聞始まって以来の暗ア〜い新春対談だったそうです。
 だけど藤沢さんはまるで平気でいる。この人は度胸の据わった人だと思いました。だいたい、よく喋る人って、“素”になるのが怖いから喋っているんですよ。言葉で“素”を補おうとして、つい喋らなくてもいいことまで喋ってしまうことが多い。藤沢さんは、言葉で自分をごまかしたり、人を傷つけたりするよりは、黙っていたほうがいい、“素”になっても構わないんだという覚悟のようなものがあったのではないでしょうか。
 あの訥弁の藤沢さんがペンを持つとあんなんすてきな小説を書く。やはりほんとうの小説家だったのですね。なにしろ文章でしか喋ることができなかったのですからね。―


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/18
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