仲間との出会いの大切さ確信
読売新聞の7回連載の最後となりました。改めて通して読んでみて、波瀾万丈、ドラマティックな人生を歩んできたものだと思います。21歳までの苦しい期間があったからこそ、吃音について、どもる人の幸せについて、真剣に考え続けました。今、僕は、とても幸せに生きています。僕も、僕の仲間のどもる人たちも、自分の人生をかけて、吃音と共に豊かに生きていくことができることを証明しています。
吃音者宣言7 消えた“タブー”
「治すことだけにとらわれずに吃音を受け入れ、どう付き合っていくのか」
1986年8月に京都で開かれた吃音者の第一回世界大会後、伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、このテーマで吃音当事者でつくる大阪言友会(現在は、大阪吃音教室)の活動プログラムづくりを始めた。
「吃音とは何か」「吃音があってもコミュニケーション能力を高めることができる」「よりよい人間関係を築く」―の三本柱をプログラムの基本に据えた。吃音と関係のない文章力や話を聞く力を高める講座も取り入れ、週一回の「吃音教室」を続けた。
かつての伊藤がそうであったように、吃音者は「悩んでいるのは自分だけ」という考えに陥り、孤立しやすい。仲間と出会ったときの喜び、安心感。それが吃音教室にはあった。結果として参加者のコミュニケーション能力が高まり、家庭や職場での人間関係がスムーズになるケースも多かった。
伊藤は子どもたちにも目を向けたいと思った。大人以上に仲間との出会いが少ない子どもたち。自分が体験してきた寂しく孤立した子ども時代を送って欲しくはなかった。
1990年から、言友会(現在は、大阪吃音教室)のメンバーを中心に吃音親子サマースクールを開始。子どもたちは、様々な年代の仲間や大人と出会って、自信を深めることができ、親同士も悩みを語り合える。
1995年8月、京都府綾部市で開いたスクールに参加した小学4年生の男児は「友だちができたことで、なんでどもりになったのかなという暗い心が、どもりになって良かったという明るい心になった」と感想を寄せた。
翌年のスクールは大津市内。5年生になった男児は最終日に代表としてあいさつをした。伊藤は、堂々とした彼の態度を頼もしく、そしてまぶしく感じた。
母親も「家ではどもりの話題はタブーでしたが、スクールをきっかけにオープンにでき、自分たちだけじゃないという安心感が生まれました」と喜んだ。
世界大会も、ドイツ、アメリカ、スウェーデンで3年ごとに開催され、1995年の国際吃音連盟創設につながった。伊藤は3人の運営委員の一人に選出されている。
吃音については、連盟参加団体でも「受容」と「治療」のどちらを優先するか、が大きな論点になっている。最近でも、吃音者で日本でも人気のあるアメリカの歌手、スキャットマン・ジョンが創設する吃音者への支援基金の使途をめぐってインターネット上でホットな論争があった。伊藤は、自身の活動から「吃音を受容することによって悩むことが減り、症状にいい変化も出る」と、当事者グループへの支援を主張。スキャットマンも「私も吃音を認めた時、振り回されることはなくなった」と賛成したが、他の国からは「治療が大事」と、治療法に取り組む研究者への支援を支持する意見が相次いだ。
結局、双方の考え方を取り入れ、基金を活用することになった。伊藤も治したいと願う気持ちは痛いほど理解できるし、尊重したいと思う。ただ、当事者同士の出会いの場、セルフヘルプ・グループの持つ力の大きさは何よりも確信している。今年も8月にキャンプで子どもたちとの出会いが待っている。(敬称略) (おわり) 担当・森川明義
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/30
読売新聞の7回連載の最後となりました。改めて通して読んでみて、波瀾万丈、ドラマティックな人生を歩んできたものだと思います。21歳までの苦しい期間があったからこそ、吃音について、どもる人の幸せについて、真剣に考え続けました。今、僕は、とても幸せに生きています。僕も、僕の仲間のどもる人たちも、自分の人生をかけて、吃音と共に豊かに生きていくことができることを証明しています。
吃音者宣言7 消えた“タブー”
「治すことだけにとらわれずに吃音を受け入れ、どう付き合っていくのか」1986年8月に京都で開かれた吃音者の第一回世界大会後、伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、このテーマで吃音当事者でつくる大阪言友会(現在は、大阪吃音教室)の活動プログラムづくりを始めた。
「吃音とは何か」「吃音があってもコミュニケーション能力を高めることができる」「よりよい人間関係を築く」―の三本柱をプログラムの基本に据えた。吃音と関係のない文章力や話を聞く力を高める講座も取り入れ、週一回の「吃音教室」を続けた。
かつての伊藤がそうであったように、吃音者は「悩んでいるのは自分だけ」という考えに陥り、孤立しやすい。仲間と出会ったときの喜び、安心感。それが吃音教室にはあった。結果として参加者のコミュニケーション能力が高まり、家庭や職場での人間関係がスムーズになるケースも多かった。
伊藤は子どもたちにも目を向けたいと思った。大人以上に仲間との出会いが少ない子どもたち。自分が体験してきた寂しく孤立した子ども時代を送って欲しくはなかった。
1990年から、言友会(現在は、大阪吃音教室)のメンバーを中心に吃音親子サマースクールを開始。子どもたちは、様々な年代の仲間や大人と出会って、自信を深めることができ、親同士も悩みを語り合える。
1995年8月、京都府綾部市で開いたスクールに参加した小学4年生の男児は「友だちができたことで、なんでどもりになったのかなという暗い心が、どもりになって良かったという明るい心になった」と感想を寄せた。
翌年のスクールは大津市内。5年生になった男児は最終日に代表としてあいさつをした。伊藤は、堂々とした彼の態度を頼もしく、そしてまぶしく感じた。
母親も「家ではどもりの話題はタブーでしたが、スクールをきっかけにオープンにでき、自分たちだけじゃないという安心感が生まれました」と喜んだ。
世界大会も、ドイツ、アメリカ、スウェーデンで3年ごとに開催され、1995年の国際吃音連盟創設につながった。伊藤は3人の運営委員の一人に選出されている。
吃音については、連盟参加団体でも「受容」と「治療」のどちらを優先するか、が大きな論点になっている。最近でも、吃音者で日本でも人気のあるアメリカの歌手、スキャットマン・ジョンが創設する吃音者への支援基金の使途をめぐってインターネット上でホットな論争があった。伊藤は、自身の活動から「吃音を受容することによって悩むことが減り、症状にいい変化も出る」と、当事者グループへの支援を主張。スキャットマンも「私も吃音を認めた時、振り回されることはなくなった」と賛成したが、他の国からは「治療が大事」と、治療法に取り組む研究者への支援を支持する意見が相次いだ。
結局、双方の考え方を取り入れ、基金を活用することになった。伊藤も治したいと願う気持ちは痛いほど理解できるし、尊重したいと思う。ただ、当事者同士の出会いの場、セルフヘルプ・グループの持つ力の大きさは何よりも確信している。今年も8月にキャンプで子どもたちとの出会いが待っている。(敬称略) (おわり) 担当・森川明義
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/30
吃音当事者のセルフヘルプ・グループ「言友会」が打ち出した基本理念「治す努力の否定」。副会長だった伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)が草案を練り、みんなで検討し、文章にした。1976年5月、東京で開いた会の創立十周年記念大会で採択された。
大会では「宣言」とともに「治す努力の否定」の理念は好意的に受け入れられたが、具体的な実践例についての質問が相次いだ。確かに弱点だった。
伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)らが、吃音当事者のセルフヘルプ・グループ「言友会」を結成したのは、1965年10月。メンバー11人は、毎週日曜日、中学校の教室を借りて例会を持った。伊藤は、幹事長として会を引っ張った。
二浪して大学に入学した伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、その年の夏、吃音矯正所の寮に入った。多くの仲間と出会い、ひた隠しにしてきた「どもり」を大っぴらにできる環境が、大きな安心感を与えてくれた。
津市内の県立高校へ入学した伊藤伸二(53)は、中学生時代、心の支えにしていた卓球部へためらわずに入部した。入学式でちらっと見かけた瞬間、胸をときめかせた女生徒も、卓球部に入っていた。とてもうれしかった。かわいくて、清楚で…。遠くから見ているだけでも気持ちが弾んだ。初恋だった。
小学校の卒業式で答辞を読む総代の声が出ず、級友が代読する事態になったのは前代未聞のことだろう。吃音のため声が出なかった総代が若き日の藤沢周平さんだ。
藤沢周平さんの最後の作品集となった『日暮れ竹河岸』(文藝春秋)の中の一編『飛鳥山』は、たまたま出会った幼女をさらう茶屋つとめの女の話である▼子供を抱いて、女は走る。その子もさびしい境涯にある。しっかりとつかまった女の子が、ささやく。「おっかちゃん」。「おうおう」と答える女の目から涙があふれ出る。生きることの哀しさ、人間の優しさが胸に迫る。人肌のぬくもりが、無性に懐かしくなる▼藤沢文学の愛好者は数多い。なかで、ひときわ熱心な読者は四十歳前後から上の男性の会社員、管理職ではないか、と想像する。競争社会にふと疲れを覚え、人間関係につかの間嫌気がさす。そんなとき、たとえば、少年藩士が成長していく姿をゆったりとした筆遣いで描いた『蝉しぐれ』は、落ち込みかけた心を癒やしてくれる▼集団や組織からはみ出す癖が私にはある、と藤沢さんは何度か書いている。それも〈集団から疎外されるのではなく、自分勝手にはみ出すわけである〉と。小学校の授業がいやだった、運動会も嫌いだった、と指を折る。そして、語る。「成功しない人間にこそ真実があり、物語があります」「いつの世でも、権力というのは油断ならない。信用できるのは、普通の人間です」。こうした視点も読者を引きつけた▼雑木林が好きだ、と繰り返し書いた。元気だったころは、朝の散歩を好んだ。冬の雑木林の明るさに誘われ、林の奥に入り込むこともあった。『冬の散歩道』と題したエッセーの一節。〈……芝生のある道に出て、芝生のむこうに大きな農家と見事なケヤキの大木が見えて来る。冬の木々は、すべての虚飾をはぎ取られて本来思想だけで立っているというおもむきがある〉▼〈もうちょっと歳取るとああなる、覚悟はいいか……〉と文章は続く。藤沢さんは「本来の思想」を貫き、冬、歩み去った。