伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年06月

吃音治療器具のDAF(聴覚遅延フィードバック)の効果の根拠

言語障害事典(内須川洸編 岩崎学術社)

 昨日の続きです。今日は、吃音予期闘争説と、人工吃の2項目を紹介します。人工吃の発見が、治療法としてのDAF(聴覚遅延フィードバック)に発展しました。現在でも、一部で使われていますが、DAFの装置をつけている時は「ゆっくりのスピード」になるために、どもらないのですが、それを外すと効果はなくなります。世界大会で役員だったイスラエル人が大勢の前で、決まった文章を読むときなどで使っていました。DAFを使って訓練してもほとんど役に立たないことは、世界大会で何度も発表されていました。

吃音予期闘争説(英)approach avoidance conflict theory of stuttering
 話す前にうまく話せないと考え、そのため発語器官の筋肉が緊張し、話すことに躊躇する、つまり話すことを妨げる行為から吃音が起こると吃音予期闘争説は説明する。
 ブルーメル(Bluemel,C. S.1932)は、子どもの吃音は、自覚も努力もない音のくり返しや引き伸ばしで始まるとし、それを一次吃と名づけた。そのくり返しや引き伸ばしを注意されるたびに、うまく話そう、うまく話せないかもしれないという反応を示すようになり、そのような状態の吃音を二次吃と名づけ、吃音が予期闘争反応となるのは、この二次吃においてだと説明した。
 一方、ジョンソン(Johnson, W.1955)は、ブルーメルが一次吃と名づけたものは、正常な幼児のことばの非流暢性とあまり変わらないとし、子どもが予期闘争反応を示すようになるのは、子どものせいではなく、両親の子どものことばに対する異常な反応にあると主張した。
 シーハン(Sheehan, J.G.1958)は、二重接近−回避型の抗争として吃音を説明した。話したいという欲求と話したくないという欲求、黙っていたいという欲求と黙っているのが恐いという欲求が、相争うことによって吃音が起こると説明したのである。
 これら吃音予期闘争脱を唱える人々は、吃音の始まりや進展をこの説によって説明しようと試みているが、特定の子どもについての説明はできてもすべての吃音について十分説明できるとは言い難い。しかし、吃音を闘争または回避といった予期反応であるとし、それを支持する専門家は多い。
 吃音の予期反応、発吃理論 (伊藤伸二)
〔文献〕神山五郎・伊藤伸二(1967)改訂・吃音研究ハンドブック 金剛出版。

人工吃(英)artificial stuttering
 〔意義〕人が話すとき、話し手の声は聞き手の耳に入ると同時に、話し手自身の耳にもフィードバックされる。つまり、自分の声を自分の耳で確かめながら話しているのである。これは瞬時に行われているため、異和感はなく、普段は意識の上にのぼることはない。
 しかし、自分の話し声が短い時間遅れて耳にフィードバックされたらどのような効果が現れるであろうか。
 1950年、リー(Lee, B.S.)は、自分の話し声を発語と同時ではなく、0.1〜0.2秒遅延させてフィードバック(delayed auditory feedback, 略してDAF)させると、話すときに入ってくる自分の声が邪魔になって、⑴読むスピードが遅くなる、(2)声が大きくなる、(3)流暢さが乱れる、などの現象が生じることを報告した。リーはこれらどもりに似た言語状況を人工吃と名づけた。
〔検討〕リーの報告以来、DAFとスピー チの関係について関心が持たれ、DAF効果がよく現われる遅延時間、DAFに長時間慣らされた後の残留効果、年齢的要因、性差など多くの研究がなされた。
 どもりとの関係においては、ロッツマン (Lotzmann; G.,1961)らは、吃音者に DAF を負荷すると吃症状が非常に減少することを、遅延時間との関係で報告した。それによると、文章朗読が最もスムーズに行なわれるのは、多くの吃音者の場合、delay timeが 50msecのときであるが、吃症状の重症度により個人差があると言う。
 また、ニーリイ(Neelley, J. M.;1961)は、23人の吃音者の言語症状とDAFのもとに起 こる非吃音者の言語症状(人工吃)とを比較し、次の結論を得た。「吃音者に同一文章を 5回読ませると吃症状は45%減少するが、非吃音者の人工吃の場合は20%しか減少しない。また、両者の声を健聴者に聞かせると78%の確率で区別できる」とし、DAFによって生じる人工吃と吃音者の吃症状は異質なものであると主張した。この主張は一般に受け入れられ、吃音は聴覚的知覚の欠陥から生じるという仮説は一応容定されるが、ニーリイの行った実験手続き等の不備を指摘する反論も出されている。人工吃について概要を述べたが、まだまだ検討すべき余地は残り、興味ある研究テーマであることには違いない。
〔治療への応用〕吃音者はゆっくり話せば速く話すときに比べ吃症状は诚少する。どもる人に対する「ゆっくり言いなさい」というアドバイスはあながちまちがいではない。DAF のもとで会話速度が低下することは、リー以下多くの研究者が報告している。当然、この効果を吃音治療に生かそうとする考え方が出てこよう。つまり、ゆっくり話すパタンを作るためにDAFが有効であると考えられるのである。遠藤真ら(1971)はDAFによる治療計画を次のように立てている。「まず、DAF条件で長時間音読と会話を行って非流暢性の消去をはかる。その直後の消去効果が持続されている期間に正常なフィードバック条件で音読と会話を行って流暢なスピーチを強化する」。この方針のもと大学生3名に治療を試み、3事例とも吃症状が消去し、その後の追跡調査でもそれが維持されていると報告している。森山晴之ら(1977)は、携帯用のDAF装置を作成し、その訓練適応の検討を始めた。今後、吃音とDAFの関係、そして治療についての研究は統けられるものと思われる。
 DAF (伊藤伸二)
〔文献〕遠藤真・他(1971)大学生吃音者の治療におけるDAF効果の研究 山形大学保健管理概要 103。永渕正昭(1973) Delayed Auditory Feedbackに関する文献考察 音声首語医学14-2 ;14-52. Van Riper, C;(1971)The Nature of Stuttering, Englewood Cliffs, N. J. Prentice-Hall.


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/13

どもる言葉や、場面に対する不安や恐怖 「言語障害事典」

 言語障害事典(内須川洸編 岩崎学術出版社)

 昨日に続いて、「言語障害事典」に掲載されている、僕が執筆した項目を紹介します。今日は、吃語恐怖と場面恐怖の2項目です。

吃語恐怖(英)word fear
 進展した吃音者(いわゆる2次吃音)の感情で最も共通しているのは恐怖である。恐怖とは不快の予期に他ならない。この予期は、あいまいなものから確信といえるほどのものまで幅広い。ジョンソン(Johnson, W, 1937)は、吃音者がどもる語をどれだけ予想できるかについて研究した。彼は、吃音者にこれから話そうとする語に、,匹發襦↓△そらくどもる、3里に流暢に話せる、という3通りの予想を立てさせた。その結果、吃音者はどもると予想した語の88%にどもり、流暢に話せると予想した語の0.4%にどもることがわかり、予想の度合いと実際にどもった度合いとの間には確かな関係があると報告した。また、世慣れした吃音者はナイーブな吃音者よりも予想が不確かであるとの結果も出た。
 一方、マーチン(Martin, R.R.,1967)の研究では、よりどもるであろうと予想した語は、そうでない語に比べ確かに吃の出現は目立ったが、それだけを見た場合、予想の半分もどもらなかったと報告している。以上のことから吃語恐怖と実際の吃の出現の間には、かなりの関係があるものの完全というものではないということが共通の理解となっている。
 臨床の場では、自分の名前について極端に吃症状が見られたり、タ行やカ行音について極度にどもる吃音者は実際に多い。そうした音や単語をどうしても使わなければならない場面や本を朗読しているとき、吃語恐怖のため非常に不安定な心理状態になることは事実である。吃音者はそのようなにがてな語を巧みに言い換えなどで避けるが、固有名詞など変更できない語の場合、吃語恐怖は深刻な問題となる。
 吃音の予期反応、場面恐怖   (伊藤伸二)
〔文献〕Van Riper, C.(1971)The Nature of Stuttering, Englewood Cliffs, N. J. Prentice-Hall.


場面恐怖(英)situation fear
 吃音者は特定の場面を恐れる。これは、吃語恐怖と同様、ある特定の場面でどもって失敗し、周囲の人から笑われたり、軽蔑されたりした嫌な経験の積み重ねによって形成されたものである。
 吃音児が恐れる場面の代表として国語の時間の教室があげられるが、年齢が進むにつれて、社会的生活の範囲が拡大し、どもって失敗する嫌な体験も増える。一度、就職の面接試験にどもって失敗した吃音者が、以後の面接試験をいっさい受けられなかった例や、電話をかけて一言も声が出ずに電話を切られたり、また何とかどもりながら話し始めたのを「忙しいんだ。早く言え」とどなられたのをきっかけに以後電話にはいっさい出られなくなったという吃音者は少なくない。自己紹介が嫌さにサークルに入りたくても入れなかったり、レジで品物を渡すだけのシステムのスーパーでしか買い物ができずにいる人もいる。
 大勢の聴衆の前、目上の人、結婚式でのあいさつなど、吃音でない人でもあまり出たくない場であれば、吃音者が恐怖を持つであろうことは一般の人でも予想できよう。しかし、予想し難い場面もある。吃音者の電話恐怖は予想以上のものであるし、多くの人が楽しく話し歌っている場面に恐怖を感じ、そのような場面に出ていけない吃音者も少なくない。そのためそのような場での経験が乏しくなりさらにその場がにがてになって恐怖を抱くという悪循環に入ってしまう。
 その悪循環を断つには、場慣れする他にない。場面や相手や内容などを困難の程度によって段階分けし、易から難へと脱感作していく行動療法がそのために適用されている。
吃語恐怖、吃音の予期反応 (伊藤伸二)
〔文献)Van Riper, C.(1971)The Nature of Stuttering, Englewood Cliffs, N. J. Prentice-Hall.


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/12

言語障害事典(岩崎学術出版社)

 内須川洸先生の退官記念の講演を紹介しました。
 内須川先生は、どもる人ではありませんでしたが、どもる人の心理を研究されていました。そして、たくさんのご著書があります。その中に、「言語障害事典」という厚さ3.5僂らいの事典があります。言語障害関係のことばのすべてが網羅されていると思われます。僕も、いくつか書かせていただきました。
 久しぶりに、「言語障害事典」を開けてみました。執筆者はほとんどが大学の先生か国立の研究所関係の人で、病院関係者も少しいました。その中で、おそらく僕だけが、セルフヘルプグループの会長という肩書きで、いくつかの項目を担当しているのです。内須川先生が声をかけてくださったから実現したことといえます。
 「吃音者」の表現は、今は使いませんが、事典のそのままを紹介します。不思議なもので、当時、当然のように使っていたことばですが、使わなくなると、とても違和感を感じます。僕が執筆した中から、今日は、「吃音の予期反応」について紹介します。学術的な事典なので仕方がないですが、今の僕の文体とはずいぶん違うような感じがします。これもひとつの違和感です。

     
吃音の予期反応(英)expectation for stuttering

〔意義〕アメリカ言語財団の用語解説によると、吃音の予期反応を次のように説明して いる。
 「どもりそうだと恐れていることばに近づくときに、吃音者によって示される異常な反応ないし動作。すなわち吃音者が予期した困難を避けようとするとき起こる言語行動であり、明白などもりという行動に先立って経験される感情や見られる行動である」。

 ことばで説明するとこのようになるが、これは吃音の体験者でなければなかなか実感し難い。次のような吃音者の体験が、予期反応と言えよう。
 「自己紹介が始まった。私は8番目だ。だんだんと番が近づいてくる。胸の動悸は高まり、他の人がどのように紹介しているのかなどほとんど耳に入ってこない。自分の番が終わってやっと落ち着き、人の顔が見れるようになった」。
 この予期反応は、朗読や自己紹介の番が回ってくるという比較的近い将来起こりうる事態に対して生じるだけでなく、さらに遠い将来にまで及ぶ。例えば次のような場合である。
 「結婚式の祝辞を依頼され引き受けたが、3カ月後の結婚式のことと思うと食事も満足にのどを通らない」。
 吃音者がさまざまに抱えているどもりの悩みは、この不安という形で表われる予期反応に負うところが大きい。

〔構成および発展〕吃音者は話す前にうまく話せるだろうかと不安を持つ。過去、どもって人前で恥をかいたり、敗北感を味わった経験が、どもったときの自分の姿を予期させ、不安を大きくするのである。
 吃音の予期反応は次のようにして構成される。どもるかもしれないという予期→予期どおりにどもる→さらに強い予期→さらにひどくどもる→いっそう強い不安。この悪循環が発展して吃音の予期反応はさらに強固なものとなり、ついには話さなければならない場面にいっさい出られない状態にまで吃音者を追い込んでいく。 .

〔解決〕悪循環を断ち切るために、比較的予期反応が小さい場面を考えてみよう。
 周囲がどもっている人ばかりの、例えば吃音矯正所内など、どもっていることが当たり前の状況では、予期反応が入り込む余地は少ない。また、吃音者が吃音矯正として大勢の人の前で演説することがあるが、この場合、これは練習である、だからどもってもともとという気持ちがあるため、予期反応は入ってこない。これらを手がかりに次のような解決策が考えられよう。

◎まわりの人が、どもっても当たり前だと思うように話す前にどもりであることを公表してしまうこと。公表したのだからどもってもともとだと考えると気が楽になって、予期反応は小さくなるだろう。
◎ヴァン・ライパー(Van Riper, C.)は若い頃、どもっている姿を老人に笑われた。自ら吃音者であった老人がユーモアを交え自分のどもりを語るのに彼は心を魅かれた。以後、ヴァン・ライパーは、どもらずに話そうともがくのはやめよう、もっと楽にどもろうと決意した。どもりをユーモアを持って語れ、またどもらずに話そうとするのをやめることは、1つの吃音問題解決となろう。

 以上、予期不安からの解放の仕方を述べてきた。要は、偶然であっても意図的であっても、また自ら求めたものでも他人の意図が入っていようと、予期不安を自分から切り離し客観的な対象ととらえ、不安の入り込む余地をなくすこと、つまり不安を先取りして消してしまうことが肝要である。
              吃語恐怖、場面恐怖、吃音の回避反応(伊藤伸二)
〔文献〕神山五郎・伊藤伸二(1967)改訂・吃音研究ハンドブック 金剛出版。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/11

吃音研究を担い続けて−内須川洸先生と吃音

 内須川先生とは、プライベートでもおつきあいがありました。年に一度、旅行もしました。その旅行を、僕たちは、「もつれ会」と呼んでいました。チャールズ・ヴァン・ライパーに、「吃音者宣言についてどう思うか」と尋ねたとき、チャールズ・ヴァン・ライパーは、「舌がもつれたきょうだいたちへ」というタイトルの文章を書いて、僕たちに送ってくれました。それで、そのタイトルからとって「もつれ会」としたのです。一緒に旅行する仲間の関係がいい感じにもつれているという説もありますが。
 内須川先生退官の記念講演の続きです。

吃音吃症状について
 しかし、症状が非常に重い場合は、そのまま放っておくのは良くありません。吃音の場合、いろんな症状がありますが、困る症状はつまる症状(ブロック)です。言おうとすればするほど、出てこない吃音症状をたくさん持っている場合には、そのまま放っておいても自然には良くなりません。「ぼ・ぼ・僕ね」という形からもっと進むと「ぼーくね」と伸ばさないと言えなくなってしまいます。一番具合の悪いのは、「ウッ!」とつまってしまって、ブロックになってしまい、そのまま強行して話そうとすることです。そうなるとどもりが悪くなってしまいます。
 だから、症状的には、軽くどもるのは大変結構で、軽くどもる状態で、前向きにどんどん話すような子どもは、すぐ治ってしまうことが多いです。自然治癒のタイプはたいていは、人間関係の過敏さは少なく、タフネスがあり、悪いことばでいうと図々しいんです。だから図々しい子どもを作ることが大事だと思います。
 私は吃音の成人の方と長く接していますが、図々しい吃音の方にはなかなかお目にかかれません。伊藤伸二さんの仲間の中にはかなり図々しくなっている方もおり、人に言いにくいことをずばりと言うし、人の嫌がることを言うし、どもればみんなワーッと笑うしね。だいたい、どもったら笑っちゃいけないと思ってるんですが、そうじゃない。笑われたからといって、吃音のことを気にしていたら駄目なんです。自分もワーッと笑えるような子どもにすれば、自然治癒するんです。それができないから、自然治癒にはならないのです。ことばだけを一生懸命いじくりまわして、何か良い方法はないかということになってしまいます。
 ブロック症状がどうしても抜けないどもりに、もっと楽にしゃべることができるように指導することは、意味があると思います。しかし、子どもが楽にどもるようになったら、それでもうおしまいではなくて、問題は内面的なものを考えなくてはなりません。これが私の基本的な考え方です。
 U仮説というのは、吃音を内面と外面の両面から考えています。外面的条件というのは、そういう条件が加わるとどんどん良くなる条件です。これが積極的改善条件で、一つは、ブロックまでいかない軽くどもるような状態で、何でも話せるおしゃべりを、人前でどんどんしていくことが挙げられます。これを積極的に治すといいます。
 吃音問題は、時間は長くかかるけれども、間違わない指導をすればどんどん悪くなるということはないと思っています。

成人の吃音
 しかし、成人の問題に関しては、伊藤さんたちが言う通り、治療の問題ではない、こどばを良くするという問題をはるかに超越している。吃音をどのように自分で受け止めるのかという吃音観・価値観の問題だと思います。少なくともこれまで、吃音は治さないと駄目なんだ、治さない限り全部マイナスしかないという考えの人が、治すことに一生懸命になってきました。しかし、果たして治すことはできるのか、つまり、現象はまた戻ってきます。出たり入ったりしています。完全に治すなんてことは有り得ない、これは夢で、そんなことは有り得ないことです。ことばが正常な人間でも、完全なスピーチができる人なんていないんだから。
 だから問題は、ことばではないんです。どもってもよいじゃないか、どもるから言いたいことが言えないのか、どもりながらでも言いたいことを言い切ればよいじゃないか。問題は途中で止めてしまうことです。だから、心の問題を前向きにしていけば、症状の問題ではないのです。症状を取り去ろうと考えているうちは駄目なんです。
 私はこのように考えています。成人については、核心的なことに関する研究不足ですが、これからだんだん成人の領域に入ろうと思っています。(了)


 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/10

吃音研究を担い続けて−内須川洸先生と吃音

 僕たちの考えや活動を深く理解し、応援してくださっていた研究者のひとり、内須川洸先生が筑波大学を退官されるとき、退官記念の集まりを関西で持ったのですが、そのときの記念講演の吃音に関する文章がありました。1991年1月31日付けで報告されたものです。
 内須川先生とのお付き合いは、長く、深く、2016年11月10日にお亡くなりになるまで、静かに続きました。
 1986年、京都で第1回吃音問題研究国際大会も、大会顧問として、全面的に支援して下さいました。『人間とコミュニケーション』や『どもりの相談』の出版も、内須川先生がいて下さったからできたことでした。
 吃音研究一筋、どもる人の立場に立ちきって、吃音問題を考え続けて下さった先生のことを思い出しながら、30年前の先生のお話を読み返しています。

          
吃音研究を担い続けて

 内須川洸・筑波大学心身障害学系教授が、1991年3月で筑波大学を定年退官される。
 改めて言うまでもなく、内須川教授は日本の吃音研究の分野において第一人者である。私たちとの関わりも、パンフレット『どもりの相談』の監修や第一回吃音問題研究国際大会の顧問など、深い理解と惜しみない協力をしていただいている。
 1990年11月25日に京都で関西の「退官記念の集い」が、大阪吃音教室の仲間を含めた有志の主催で行われた。「集い」に先立ち、京都言語障害研究会の20周年記念大会のメインプログラムとしての講演が開かれた。
 「言語障害臨床の今後の展望」と題された講演会より、吃音に関する部分を紹介する。

U仮説
 現場の先生には、吃音というのは、どうも難しいからと敬遠して逃げているんじゃないかという話もありましたが、これは真実です。ことばの教室にどもる子どもが来なくなった、吃音は減ったんじゃないかと言われることがあります。しかし、あることばの教室に来ているどもる子どもは実に多い。それは、そのことばの教室を担当している先生が吃音の指導の実力を持っているからです。吃音の発生に地域差はないと私は思います。力のある所に人は集まるのです。だから、どもる子どもが少なくなったという現象は、自分の指導力がないからだと反省することが必要かと思います。
 確かに、吃音というのは、私どもが研究しても非常に複雑で、難しい。こうすればいいというルーティン(手順)がない。まず、診断が適確にできないと駄目ですが、それができると、手の打ち方はいろいろあるのです。
 私はU仮説というものを作りました。これは、日本の学会はもちろん、国際学会でも発表しております。是非、これを使ってみて、駄目なときは駄目といってほしいのです。仮説というのは確信をもってやっているのではなく、仮の考えです。しかし、でたらめの説を立てるというものではなくて、相当程度私どもの方で治療・実験研究を重ねていますが、全体のどもる子どもに比してやはり数が少ない。だから、全てのものにそれが当てはまるかどうか分かりません。そこで、これをことばの教室の皆さん方に実際に使っていただいて、こういう場合は駄目だったというデータが出たら、それを明らかにしていくことで、臨床の数をどんどんふやしていきたい。そうすると、使いものになるのです。

過敏性と波状現象
 私は、幼児・学童の吃音は、ことばの指導に力点を置いたやり方では、古いと思っています。子どもがそのことばを自分でどう受け止めるかという問題が非常に大きいということです。
 私のこれまでの臨床では、一番問題になるのは、どもる子どもはまず例外なしに、人間関係に過敏であるということです。過敏性という面を変えていかないと、吃音の症状は消えてもまた何等かの形で問題は出てきます。
 吃音の症状の特徴として、ほとんどのものに循環性があると考えていいと思います。循環性というのは、良い時があると次に悪くなる、悪くなっていると次に良くなる、という現象のことを言い、私は、波状現象と呼んでいます。ある意味では、波状現象は避け難いものです。また、もう少し極端に言えば、吃音独自のものというより、正常な人のことばでも、波状現象があると思います。しかし、波が小さいからほとんど気にならないし気にもしない。時々皆さんにも、ことばが具合悪いときがあると思います。いつでも、ことばが完壁な人なんていません。私なんか、早口で、人に比べるとことばが出てくる方かもしれませんが、それでもひっかかったり、特に格好良く話をしようなんて気持ちがあるときなど、ひっかかってしまいます。
 つまり、波状現象はだれにでもあるんです。ただ、吃音の場合、波状が大きく、上がり下がりするからいやでも目につきます。また、人によっては、幼児期に吃音が出て、その後知らないうちに良くなってしまったという子がいます。そして、小学校時代、一度もどもったことがない子どもが中学校になって再びどもり始めたという例もあります。これも一種の波状現象で珍しくありません。ただ問題は、その間、中学校に入るまで、その子の人間関係の過敏さがどれだけ改善されたかです。ところが、過敏性というのは、短期間に変えられません。一種の性格改造と同じだからです。我々の性格は、なかなか変わりません。
 特に、大人になって性格を変えることはまずできません。大人になって性格が変えられることがあるとすれば、それは非常事態であり、例えば、戦争体験とかで、自分の命を奪われるということが頻繁に起こるような、物騒な時代にはそういうことがありました。今は平和な時代ですから、そんなことがあっては困るわけです。
 だから、逆に言えば、今は良い時代で、過保護なのです。子どもにとって非常に過保護なのです。しかし、過保護というのは、どもる子どもにとっては敵なんです。過敏性を改善することは、過保護の中ではできません。過敏性を改善する方法は一つしかないと思います。それは、プレッシャーをかけることです。ただ、プレッシャーのかけ方を間違えると、せっかく吃音の症状がなくなっているのにもかかわらず、また吃音が出てきてしまうことがあります。だから、吃音が出てくるほど、プレッシャーを強めてはいけないんです。最初は軽くかけて段々とかけ方を強めていく。そうすると、どうしても長期間を要するのです。私は、幼児も、ケースによっては学童期よりもはるかに難しいケースがあると思っています。また、発吃から時が経過すると、ある子どもは自然に吃音が治ってしまいます。こういうのを自然治癒といいます。ところが、自然治癒というのは、残念ながら、私達に研究の努力が足りないので、あまりよく分かりません。どういうときに自然治癒が起こるのかが分かれば、もっと明確なことが言えるでしょう。
 どうも私達の臨床経験では、吃音は簡単には除去できない、解決にかなり時間がかかると見ていいでしょう。
 対人関係の過敏性が保存されたまま、ことばの問題だけをいじっていると、ことばがどもらなくなっても、また循環性によって吃音が出てきたときに、そこから問題が起こってきます。特に問題なのは、思春期・青年期なんです。このときは人間関係にデリケートになる時期で、どもる子どもの場合、デリケートな上にデリケートになってしまいます。

けんかができない
 小学校1年生のどもる子どもを考えてみると、他人に迷惑をかける・お母さんの言うことを聞かない・悪さをするということができないんです。友達関係を見るとよく分かります。けんかができないんです。お母さんはその場合、けんかができないとは言わずに、けんかをしない良い子と言いますが、私はけんかもできない弱い子と言うんです。同じことなのです。お母さんは良い子だ、争いを好まない良い子だと言うのですが、そうではないのです。これは間違いなんです。友達の中で自分の主張ができれば、嫌なことは嫌と言えます。向こうが欲しいと言ってきたとき、嫌と言えば争いになります。吃音の子どもの特徴は、「これ欲しいよ」と友達に言われたら嫌であっても、「いいよ」と言ってしまうところです。争わないから、一応友達関係はできますが、これは本物の友達関係ではありません。友達関係の良さ・おもしろさというのは、けんかして仲直りすることの繰り返しです。これを体験すると、本物の友達になっていきます。けんかができるということは、例えば、親友ができ、大人になって何か問題があったとしたら、「それは問題じゃないか、やめろよ」というのが親友ですね。変だというのが分かっていながら、何も言わないというのは、親友とは言わないのです。こういうことが言えるようになるためには、おとなになってからでは難しく、やはり小さい頃からトレーニングをすることが大切です。自然治癒した子どもは、性格的にタフネスがあって、けんかはするし、やんちゃ坊主です。私は、そういう子どもを小さいときから作っていくことが、大事だと思っています。ところが、今の子どもは、おとなしく模範生で争いごとはしない、しかも大人みたいに争うと損だと考えてしまう。このようにならないようにした方が良いですね。実は吃音の自然治癒の問題の中核にそれがあるんじゃないかと考えています。幼児・学童において、どもる子をただ、どもらないようにする、ことばだけの問題と考えてはいけないんで、問題は、そこの所の改善を中心に考えることです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/9

鴻上尚史さんがワークショップに参加して、感じた幸福な時間

  鴻上尚史さんの体験した「吃音」 (番外編)
  
 「幸福な時間」として、吃音ショートコースのゲスト、鴻上尚史さんが、『ドン・キホーテのピアス』の8巻、『ドン・キホーテは眠らない』のあとがきの全てを使って、私たちとの出会いを書いて下さいました。「週刊SPA!」のエッセーで、吃音ショートコースに参加して感じたことを4週連続で書いても、まだ足りないと書いて下さったものです。 ここまで深い所まで、考えていて下さったのかと、読みながら、その時のワークショップの時の光景が鮮明に思い出されて、涙がとまりませんでした。これまで吃音と無縁だった人々が関心を持って下さるきっかけになればうれしいです。
 

幸福な時間〜あとがきにかえて〜
       鴻上尚史

 ワークショップをやっていて、ふと、幸福だなあと思う瞬間があります。
 2002年の秋、ぼくは、日本吃音臨床研究会という団体が主催する合宿に、ワークショップをするために招かれました。
 「吃音」とは、平たい言葉でいうと、「どもり」ということです。代表の伊藤伸二さんは、「吃音ではなく、どもりと言って欲しい」と、軽くどもりながらおっしゃいます。「吃音」という言い方だけしかなくなったら、自分たちどもりの存在が否定されてしまうような気がするとおっしゃるのです。
 「ドン・キホーテ」シリーズでも、一度、伊藤さんのことは書きました。[「ドン・キホーテのキッス」参照)
 合宿の参加者は、ほとんどの人が、どもりの人でした。伊藤さんは、「どもりに悩むのではなく、どもりである自分を受け入れて、そして、表現を楽しもう」という狙いで、ぼくのワークショップを希望されたのです。
 €ぼくはいろんなところでワークショップをしています。もちろん、時間がなくて、ほとんどの依頼は断るしかないのですが、それでも、なるべくいろんな人と出会おうとしています。未知な人と出会うことは、なにか、面白いことが待っているんじゃないかと思えるからです。
 が、どもる人のワークショップは初めてでした。
 そもそも、どもりは、隠された障害になりがちです。どもる人は、笑われ、傷つくことを恐れて、なかなか、人前で喋らなくなるのです。
 そして、そうなると、どもらない人は、どもる瞬間に出会うことが少なくなり、たまに出会うと、ただそれだけで、反射的に笑ったりしてしまうのです。
 そして、悪循環が始まります。どもる人は、笑われたから、ますます人前に出なくなり、どもらない人は、ますますどもる瞬間に出会わなくなる。
 自分の今までのワークショップを思い出しても、激しくどもってレッスンが進まなくなった、という経験はありませんでした。どもる人は、予期不安という「どもったらどうしよう。今は大丈夫でも、いつどもるかもしれない」という不安に捕らわれて、なかなかそういう場に参加しないんだと、伊藤さんは教えてくれました。
 一体、どんなワークショップになるんだろうと思いながら、「ま、なんとかなるだろう」と思うのも、いつもの僕のことで、合宿会場の滋賀県草津の会場に向かいました。
 琵琶湖近く、JRの草津駅に降り、タクシーに乗り込み、「お客さん、遠くからですか?」と運転手さんに話しかけられ、「あの、草津って、温泉があるんですか?」と素朴に聞けば、「あんさん、それは、群馬県でしょうが。ここは、滋賀県で温泉なんかあらしまへんで」と軽く突き放され、「そうでしたか」と答えれば「それでもね、1年に二人ぐらい、群馬の草津と勘違いした人が来ますわ。旅館の名前言ってね。そりゃ、あんた、遠すぎますわって答えます」と運転手さんは、楽しそうに答えました。
 会場に着いてみれば、参加者は60人ほど。7割近くがどもる人で、残りが教師・教育関係者の方でした。 
 さて、ぼちぼち始めますか、と体をほぐしながら、様子をうかがいました。
 中年の男女は楽しそうな顔をしていますが、二十代の男女は、みるからに緊張しています。自分がなるべく発言しないようにしようと、身構えている雰囲気が伝わってきます。 伊藤さんは、事前に、「年齢を重ねてくれば、だんだん自分の吃音とつきあい、受け入れられるようになりますが、思春期の男女に、それはもう、苦悩します。恥ずかしくて、こういう合宿に出るだけでも、大変な勇気が必要なんです」と教えてくれました。
 さて、じゃあ、軽くゲームから始めますか、呼びかけてから、慎重に、特定の言葉がキーワードにならないようにゲームを進行し始めました。
 特定の言葉、たとえば「ストップ」が、ゲームのキーワードの場合、スがどもる人は、なかなか、気軽に参加できなくなるわけです。その場合、「とまれ」「待て」「フリーズ」「ちょっと!」などの言い換えの可能性を、さりげなく提示してゲームを始めました。
 もっとも、これは、それが正解というわけではなく、僕が勝手に思ったことです。みんな、だんだん楽しそうになってきたので「椅子取りゲーム」をすることにしました。
 円形に椅子に座って、一人が真ん中で何かを言って、該当する人が立ち上がって、別な椅子に移動するという、みんなが知っている「椅子取りゲーム」です。
 僕がやる「椅子取りゲーム」は、真ん中で言う時に、「自分に該当することだけ言う」というルールがあります。つまり、「朝、朝食を食べなかった人」と言えるのは、実際に「朝、朝食を食べなかった人」だけで、「盲腸の手術をしたことがある人」と真ん中で言えるのは、実際に「盲腸の手術をしたことがある人」だけということです。楽しくゲームをしながら、自己紹介と仲間作りも兼ねてしまおうというルールです。
 だって、「ラーメンがものすごく好きな人」と言って何人かが立ち上がったら、それを言った人も立ち上がった人も「ラーメン大好き」ということになりますから、後々、「おいしいお店を知ってる?」と会話が始まる可能性があるのです。
 僕は、「これなら、言葉を選べるから、どもる人も楽しめるんじゃないか?」と思って始めたのです。が、最初の人から、いきなり、どもり始めました。
 「き、き、き、き、き、きのうのよ、よ、よ、夜、お酒をの、の、の、の、」
 僕は、一瞬、しまったと思いました。
 ワークショップにおける最初のゲームの意味は、雰囲気作りです。「表現」はレッスンの前に、楽しく、リラックスした環境を作ることが最初のゲームの役割です。これが成功したら、ワークショップの5割は成功したと言っても過言ではないのです。
 が、最初で、いきなり、どもる状況を与えてしまった、さてどうしようと、僕は思いました。
 が、顔を真っ赤にして、どもっているその若者に対して、椅子に座った人たちから、すぐに「どうした!」とか、「分かんないぞ!」とか「なんだって!」とかの声が飛んだのです。
 言葉にすると、責めているようですが、そうではなく、それは、例えば、結婚パーティで、感謝の言葉を言おうとして、緊張してとっちらかってしまった新郎に対して、悪友達が、笑いながら「なんだって!」「どうした!」と突っ込む匂いと同じものでした。突っ込みの言葉が跳ぶたびに、軽い笑いが起こり、どもっている人は、苦笑いしながら、言葉を続けました。
 「の、の、の、飲んだ人!」
 と叫んで、どもった人は楽しそう椅子に向かって走っていきました。苦笑いは、決して卑屈な笑いではありませんでした。どもる自分に対して、しょうがないなあという突っ込みの笑いでした。
 次に真ん中に立った若い女性は、いきなり、「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど、どもりの人!」と叫びました。そして、いっせいに、うわっとみんな、腰を上げました。
 僕は、圧倒されていました。
 真ん中に立つ人は、軽くどもったり、顔を真っ赤にしてどもったり、体全体をくねらせてどもったりしながら、次々といろんなことを言いました。
 それは、あったかい「椅子取りゲーム」でした。
 真ん中で言葉をだすことを楽しみ、楽しんでいる人を楽しみ、その言葉の内容を楽しみ、出した言葉に敏感に反応する、かつて経験したことのない、「椅子取りゲーム」でした。みんなが、真ん中でどもりながら話している人の言葉に集中しているのが分かりました。真ん中でどもっている人は、言葉を出すことを楽しんでいるのが分かりました。
 こんなあったかい「椅子取りゲーム」を僕は初めて経験しました。体に幸福な気持ちが漂ってくるのが分かりました。このまま、この幸福な時間を大切にしたいと感じました。
 が、僕は、ワークショップ・リーダーで、「表現」とはどういうことかを伝えにきたと思って、「椅子取りゲーム」を終わらせました。幸福な時間は終わり、好奇心に満ちた時間が始まりました。
 後から、伊藤さんにお聞きした所、ふだん、どもっている若い男女が、こんなふうに大きな声で、堂々とどもって叫ぶのは、めったにないことだとおっしゃいました。
 みんなどもっているから、自分もどもれると思ったのでしょうと、伊藤さんはおっしゃいました。仲間がいる、自分と同じことで苦悩している仲間がいる、そして、大きな声でどもってもいいから話せる、それが、「椅子取りゲーム」の幸福感の正体のようでした。
 「表現」のレッスンをしながらも、僕は、幸福な時間の余韻に浸っていました。そして、幸福な現場に立ち会えたことを、本当に幸せに思ったのです。
                                
 『ドン・キホーテのピアス8 ドン・キホーテは眠らない』より(2003年1月)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/6

鴻上尚史さんの体験した「吃音」 (4)

 鴻上さんによる、『週刊SPA!』のエッセイの4回連載の最終を紹介します。
 どもる人はよく「思っていたことの半分も言えなかった」と言いますが、それは、どもる人に限らず、どもらない人にとっても同じことのようです。思いをことばにすることは難しいです。ことばに悩んできた僕は、だからこそ、ことばを大切にしたいと思うのです。
 本当に言いたいことは、どもってでも言いたいし、伝えたいです。吃音に悩んでいるとき、本当は言いたいのに飲み込んできたたくさんのことばがありますが、「どもれる体」になってからは、自然にどもれるようになりました。僕たちの体験を、鴻上さんは「どもる力」と表現しました。うれしいことばでした。また、このつづきを、ご著書『ドン・キホーテは眠らない』のあとがきにも、書いて下さったのです。明日は、それを紹介します。

ドンキホーテのピアス (399) 『週刊SPA!』2002 12/10

「言葉はいつも思いに足りない」ということ

 さて、先週の続き、「どもらなければ言葉との距離はないのか?」という話です。
 僕が大学生の頃、山手線の電車の中で、近くにいた中年のカップルの会話が聞こえてきました。
 「ねえ、私のこと、愛してる?」
と女性が言うと、中年のサラリーマンの人は、
 「ああ、愛してるよ。……いや、『愛してる』っていう言葉じゃないな。『好き』……いいや、これも違うな。……『ほれてる』……うん、近いけど、これも違うな。……『やりたい』……そういう部分もあるけど、全部じゃないな」
と、自問自答を始めたのです。
 見れば、中年のサラリーマンは、ふざけているのではなく、今、自分の抱えている感情に、できるだけ、"正確に"言葉を当てはめようと一所懸命のようでした。
 自問自答はまだ続いて、「……『抱きたい』……うん、これも間違ってないけど充分じゃないし……『好きや』……うん、近いけど……『一緒にいたい』……そうなんだけど……『そばにいてくれ』……『いとしい』……ううん、違うなあ」
と、終わりそうにありませんでした。
 女性は、微笑みながら、ふうふう言ってる男性を見ていました。
 いったい、どういう言葉にたどり着くんだろうと思っていたら、駅に着いて、二人は降りてしまいました。
 「言葉はいつも思いに足りない」
 という有名な言葉があって、なんのことはない僕の言葉なんですが、人は恋をすると、初めて、自分の感情と言葉との距離を自覚するのです。
 それは、初めて自分の感情をじっくり見つめる、ということかもしれません。
 そして、じっくり見つめた自分の感情を、ちゃんと正確に相手に伝えたいと熱望するということでしょう。
 すると、どんなに言っても言っても、自分の感情を正確に表してないというもどかしさを感じるのです。
 心の中にある溢れる思いに対して、言葉はなんともどかしく、不便なのかということを(多くの人は)初めて知って、衝撃を受けるのです。
 でもまあ、恋愛でこういうことを知るのは、とても幸福なケースで、仕事なんかで、言っても言っても自分の意図が伝わらず誤解されてしまう時は、「自分の感情やイメージと自分の言葉との距離」ではなく、「相手の鈍感さ」に原因を求めてしまう傾向があって、なかなか、本質的な「言葉の距離」を自覚することはないのです。
 恋愛だと「どうしてちゃんと伝わらないんだ」と悲しくなって"言葉の距離"に思い至りますが、仕事だと「どうしてちゃんと伝わらないんだ。やっぱ、あいつはバカなんだあああ!」と"上司との距離"になってしまう傾向があるのです。
 と、いうようなことを考えると、「どもっている人だけが、自分の感情と言葉の距離を感じる」というのは、ちょっと違うんじゃないかと思えてくるのです。
 そして、どもるがゆえに、時々、発せられる言葉にドキッとさせられるのは、この「言葉との距離」を自覚しているからじゃないかとも思うのです。

言葉が出ないことで気づく言葉との距離

 「だ、だ、だ、だ、だ」とどもり、そして、「だ、だめだよ!」と全身の体重と熱を言葉に乗せたような言い方で言葉を発し、しかし同時に、その言葉に対して、「私はこの言葉以上のことを言いたいんだ。でも、うまく言えないから、この言葉にたっぷりの感情とイメージを込めるんだ」という、"体温"を感じる時に、僕はその言葉にドキッとします。
 そういう瞬間が、夜、吃音のショートコースに参加した人達と、ビール飲み飲み話していて何度もありました。
 それは、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつないでいる"時間には、体験しない言葉の衝撃でした。
 そして、ここでもまた英語との共通点になるのですが、海外の英語学校に留学した日本人の、特に女性の多くは、英語学校の休み時間に、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつないでいる"という日本では当たり前だった時間の逃げ方ができなくてがく然とするのです。
 感じる前にオートマチックに言葉がでて、とりあえず空間を埋める、ということをこなすためには、英語がオートマチックに出ないと不可能です。
 が、それはかなりの英語の水準で、それはとても難しく、結果、日本人女性の多くは、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつなげない"という瞬間に初めて出くわします。
 これは衝撃の体験で、つまりは、人間関係の生の形に出会うわけで、多くの日本人は休み時間の間、ただ黙って微笑んでいるか、誰も会わないように逃げているか、"どうでもいい話"をするために日本人を探すかの道を選んでいるのです。
 そして、そういう生活がしばらく続くと、だんだんと、"これだけは言いたい"というモノが出てくるのです。
 このことだけは休み時間に話したい、と思うようになった時、「いったい、自分は今まで、言葉とどう付き合ってきたんだろう?」と思うようになり、そして、自分がいかに、"どうでもいい話でとりあえず人間関係をつないでいたか"を知って、また、がく然とするのです。
 うまく言葉が言えない経験をして初めて、距離を自覚しない言葉を、だらだらと並べていたんだなあと気付くのです。
 というようなことを、吃音ショートコースというワークショップに参加して思いました。四週に渡って書きましたが、じつは、まだまだ思っていて、それは、今度は発売されるドン・キホーテのピアス第8巻『ドン・キホーテは眠らない』の"あとがき"に書きました。
これだけのことを思わせてくれたのも、"どもる力"だったと僕は思っています。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/5

鴻上尚史さんが体験した「吃音」 (3)

 「マイノリティー感覚」という鴻上さんの、このことばにはドキッとしました。僕は、どもる人のことを「吃音を通して、生きること、ことば、自分、人間関係、コミュニケーションなどを考えるテーマを与えられた人」といえるのではないかと、よく言ってきました。これは、「マイノリティー感覚」を否応なしにもつことにつながると思います。この「マイノリティー感覚」が教育に必要だとの鴻上さんの主張、その説明を、なんとか教育関係者に伝えたいとの思いを、改めて強くしました。今後の僕の講義や講演で、鴻上さんの話を伝えていきたいと思いました。
 僕は、鴻上さんが、吃音ショートコースに講師として来て下さったときのことを鮮明に覚えています。プログラム中はもちろんのこと、休憩時間や夜のコミュニティアワーのとき、参加者の輪の中に積極的に入り、時には鴻上さんの方から内気な参加者を引っ張り込んで、話し込んでおられました。鴻上さんの、他者への温かい、優しい、豊かな想像力を思います。

   
ドンキホーテのピアス (398) 『週刊SPA!』2002 12/3

 マイノリティー感覚の経験は人間成長の糧だ

 先週の続き、イギリスに行って、僕は言葉の問題で、強烈な"マイノリティー感覚"を経験したという話です。
 "どもり"の問題を、僕が少しは理解というか共感できたのは、この経験があったからだと思っています。もし、イギリスに行く経験をしていなければ、"吃音の人達へのワークショップ"を、お引き受けすることはなかったでしょう。
 マイノリティーであることは、なかなか複雑なことで、一人、クラスでいつも話しかけてくる男性がいました。
 彼は、イギリスの中流階級の出身で、(イギリスは階級社会ですから)東洋から来た〈下等な〉男に、あきらかに"慈悲"の心で接していました。この"慈悲"の心というのは、敏感に感じるもので、「あ、こいつ、一段高い所から、憐れんで僕を見てるな」と分かるのです。
 通常、それを"差別"というのですが、彼本人としては、まったくの"慈悲"だと思い込んでいると僕は判断しました。
 だって、彼は、本当に心配した笑顔を僕に向けてくるわけで、英語がうまく喋れないで落ち込んだ授業の後の休み時間なんかに、「ショウ、大丈夫かい?」と微笑むのです。
 で、ここからが複雑なんですが、僕としては、少しでも英語のレッスンをしたいわけです。レッスンというのは、つまり、喋る場数なわけです。いっぱい喋って、失敗して、また喋っていく中でしか上達の道はないと思っているわけです。
 なおかつ、淋しかったりするのです。失敗して、自己嫌悪なんかを感じている時に、笑顔で「ショウ、大丈夫か?」と話しかけられると、やっぱり、ほっとして嬉しいのです。
 嬉しいのですが、話すとすぐに、「あ、こいつ、一段高い所から、僕を見下ろして心配しているな」と感じるのです。
 で、差別にムッとするのですが、同時にやっぱり嬉しいのです。
 簡単に言えば、「バカにされてるのは腹がたつ。でも、話しかけてくれるから嬉しい」。そして、さらに、「バカにされながら、話しかけられて嬉しいと感じる自分に腹がたつ。腹がたつけど、話しかけられるから嬉しい」という、これまたなかなかに複雑な心境になるのです。
 まるで、「自意識を持て余している自分は恥ずかしい」という自意識を持て余している自分は恥ずかしい―という自意識を持て余して恥ずかしがっているようなケースです。
僕はこんな感情を生まれて初めて経験しました。
 たぶん、名前ではなく、「おじいちゃん」とだけ話しかけられるお年寄りとか、街で、「どこいくの?」と幼児扱いされて話しかけられる目の不自由な人は、同じ感覚を持つんじゃないかと思いました。
 この男は、クラスの黒人や労働者階級出身の人間達にも、同じような態度で接して反発されていましたが、反発の理由は、理解できないようでした。
 そして、言葉に苦しめられている僕に、同じ目線で心配してくれたのは、この黒人や労働者階級のクラスメイトでした。
 それと、英語以外の言葉を勉強して苦しんだ経験があるクラスメイトでした。
 自分の感情と言葉との間に距離があるんだねと、言葉で苦労した経験がある人は分かってくれました。

 マイノリティーとマジョリティー

 それは、一番は、イギリスに来ている他のヨーロッパ人、次に香港で育ったイギリス人でした。中国語と英語のバイリンガルだったその生徒は、僕の苦悩を、「わかるよ」と言ってくれました。
 いきなり、話は飛ぶのですが、僕は、もし、「教育にとって一番大切なことは何か?」と聞かれたら、「バランスよくマイノリティー感覚を経験すること」だと思っています。
 もっと恥ずかしい言い方だと「人間を最も成長させることはなにか?」という質問でもいいです。
 バランスよくマイノリティー感覚を経験すること。
 バランスよくというのは、マイノリティー感覚を感じる時期と、反対のマジョリティー感覚を感じる時期の両方を、ちゃんと持つということです。
 それが、「教育」や「成長」に一番欠かせないことだと僕は思っているのです。
 日本に戻って僕は、マイノリティー感覚からマジョリティー感覚に移りました。帰国してしばらく、「日本語でいい」ということに、嬉しく泣きそうになりました。日本語を操ることに快感を感じたのです。が、また、明日、イギリスに行って、イギリス人の俳優と英語で議論し始めたら、あの懐かしいマイノリティー感覚は蘇るのです。
 多分、昔の子供達をとりまいていたシステムはそうだったと思います。算数の時間にマイノリティー感覚を感じた子供は、体育の時間にマジョリティー感覚を感じたり、学校ではずっとマイノリティーな奴は、放課後の原っぱではマジョリティーだったりと、ちゃんとバランスよくマイノリティー感覚を経験できたんだと思います。
 バランスよくマイノリティー感覚を経験した人間は、優しくなると思います。ちゃんとした大人に成熟すると思うのです。が、マイノリティー感覚だけをずっと感じている人は、暗黒面の強い、やっかいな大人になるのです。
 もちろん、ずっとマジョリティー感覚だけで育った奴もやっかいです。そんな奴と一緒に仕事はしたくないもんです。
 "どもり"の人を前にして、僕は、昔、僕のワークショップに参加してくれた"筋ジストロフィー症の女性の話"をしました。譬えは、暴力的で強引ですが、彼女と比べれば、どもりながらワークショップに参加することは、マジョリティー感覚なのです。
 と言いながら、僕は、「どもらなければ、言葉との距離はないのか?」という話に進むのです。それは、来週。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/4

鴻上尚史さんが体験した「吃音」 (2)

 鴻上尚史さんが、僕たちの吃音ショートコースの講師として来てくださったことは、奇跡みたいなことだったような気がしています。忙しい人であり、吃音とは何の接点もなく、無縁の人でした。ただ、ラッキーだったのは、初めて出会ったとき、鴻上さんがイギリスから帰国した直後だったということでした。英語圏で強烈なマイノリティ感覚を味わった経験があっただけに、僕たちの吃音のことを、我がこととしてとらえてくださったのでしょう。その出会いに、今も感謝しています。


 
ドンキホーテのピアス (397) 『週刊SPA!』2002 11/26

 英語が話せなかった僕が経験した強烈な感覚

 先週の続き、「吃音(どもり)」についてです。
 そもそも、日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんと出会ったのは、僕がイギリスから帰ったすぐ後のことでした。伊藤さんから、"どもることの苦しさ"をいろいろとお聞きしているうちに、なんだか僕は「まてよ、この感覚を俺は知っているぞ」という気持ちになりました。
 自己紹介の時に笑われる話。うまく言葉が出なくて、自分の気持ちとかけ離れた言葉をとりあえず言ってお茶をにごす話。分かっているんだけど、言葉が出ないから、「分かりません」と授業中に答える話。そして、言葉に詰まったり言葉が流暢に出ないことそれだけで、相手から、知能や人格を一段低く見られてしまう話。
 これらは、すべて、「どもり」に関する話でしたが、僕には、海外で「英語」を話す時に感じられること、そのものに思えたのです。
 拙い英語で笑われる感覚。「ワクワクした」と言いたいのに、「ワクワク」という英語が分からないので、「アイム・ハッピー」と、気持ちとは別の言い方を選ばないといけない感覚。
 それは、「カ行」がどもってしまう人が、人前で「くやしい」と言えないので「つらい」と言い換える感覚そのものじゃないかと思ったのです。
 そうすると、「どもりは絶対に治る」という考え方は、「日本人でも、ネイティブと同じ英語を話せるようになる」と思うことと同じで、もちろんそうなるにこしたことはないんですが、もしそうならなかった時に、「英語さえなんとかなったら自分の人生は変わるのに」と思ってしまう感覚は、「どもりさえ治れば、人生は変わるのに」と思う感覚と同じだと僕は思ったのです。
 海外では、こう思い続けて、引っ込んでいる日本人は多いです。「英語さえ話せば、人生は変わるのに。でも、今、ネイティブみたいに話せないから、家にいるしかないんだ」と思って、"暗い"人生を送っている人たちです。
 暗黒面の力は強く、こう思っている人は、こう思っている人を引き寄せます。
 ロンドンのチャイナ・タウン近くのパブで出会った日本人は、3年近くロンドンにいるのに、ほとんど英語が話せない人でした。
 ただ、日本人を見つけて話しかけて、「いやあ、英語さえうまく話せたら、いいのにねえ」と言っていました。そして、いつの間にか、同じことを言う日本人が集まっていました。
 その"暗黒の力"は強烈で、思わず、「そうだなあ。日本語でいいじゃん。英語を話そうとして、バカにされたり笑われたりするぐらいなら、日本人とだけ話して、あとはじっと黙っていればいいじゃん」と思ってしまうぐらいのエネルギーでした。
 暗黒の力を持つ人と出会った時に、唯一できることは、逃げることだけです。相手のその暗黒面をなんとかしようなんて、間違っても思ってはダメです。それは、ムダです。だから、僕は、そのパブにさえ行かなくなりました。
 というような話を、合宿に集まった"どもる人達"にしました。そして、英語に苦しんだ僕が、なんとか生き延びるために見つけ出したテクニックを話しました。
 例えば、会話は内容ではなくリズムと判断して、タイミングがずれた長文のナイスな答えより、「そうそう」とか「うん」とかの短い答えでリズムを大切にすべきだという話。それは、たぶん、"どもる場合"も同じで、単語でもいいから、短くリズムの中で生きる方が重要だと言いました。

 ネガティブな思考は周囲を引き寄せる

 また、ロンドンの演劇学校では、昼休みに、いつもサンドイッチを買って、中庭でみんなで昼食を取っていたのですが、そういう時は、最初のうちに、発言するようにしました。
「このサンドイッチ、美味しいね」とか「今日はいい天気だね」とか、単純な言葉です。ですが、最初に発言しておけば、あと何十分、発言しなくても、「あいつは、いつも黙ってる」と思われなくてすみます。後になればなるほど、事態は複雑になり、英語の聞き取り能力が試されてしまうのです。最初なら、内容は複雑になっていなくて、短い言葉でも大丈夫なのです。
 たぶん、"どもる"場合も、最初のうちに、短く「そうね」とか「美味しい」とか言っておけば、"仲間"と思われる可能性が高いと思います。
 そして、最も大切なことは、ユーモア。ウイットに富んだやり取りをストックすることで、硬直しがちな集団との関係を溶かすことができました。同時にそれは、自分自身の怯えがちな気持ちも溶かします。「英語は話せる?」と聞かれて、「I hope so」と答えることは、その一例なのです。
 こういう英語の話をすると、「それは、"サバイバル・イングリッシュ"ですね。それでは英語の力は伸びませんよ」と、英語の達人の人から言われるのですが、まさに、僕は、"生き延びる英語"の話をしているのです。英語の勉強は、あとで、ゆっくり辞書引いて、CDを聞きなおせばいいのです。
 僕は、生まれて初めて"マイノリティーであること"を強烈に自覚しました。
 ぶさいく村に生まれたと、エッセーに書いていますが、それは、コンプレックスになっても、"マイノリティー感覚"とは違っていました。たぶん、あちこちに"ぶさいく村"出身者が多かったからでしょう。
 が、英語に苦しんだ時には、本当に強烈な"マイノリティー感覚"を持ちました。が、今、"マイノリティー感覚"を経験したことは、じつによかったと思ってます。
この話、さらに続きます。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/3

鴻上尚史さんが体験した「吃音」 (1)

 吃音ショートコースで2日間のワークショップをした下さった、劇作家・演出家の鴻上尚史さん。鴻上さんが、連載中の『週刊SPA!』で連続4回にわたり、吃音ショートコースに参加して感じたり考えたりしたことを書いて下さいました。鴻上さんと出版社の許可を得て日本吃音臨床研究会の『スタタリング・ナウ』で紹介したものです。鴻上さんのこのエッセイは、私たちにとって大きな応援歌のひとつとなりました。
 『スタタリング・ナウ』にはこう書かれていますが、僕たちだけでなく、吃音に関わるすべての人への応援歌になると思います。4回にわたって紹介します。
『週刊SPA!』2002 11/19 11/26 12/3 12/10扶桑社

   
ドンキホーテのピアス (396)
 吃音のワークショップに参加してきた

 来年1月に新国立劇場でする芝居『ピルグリム』の台本を、ふうふう言いながら書いています。ふうふう言っているのは、いろんな仕事が合間に入っていて、なかなか、書く時間が取れないからです。
 で、そんな中、日本吃音臨床研究会という所が主催した"吃音ショートコース"というものに呼ばれて、一泊二日でワークショップをしてきました。
 日本吃音臨床研究会と代表の伊藤伸二さんについては、以前、この欄で書いたことがあります。
 伊藤さんは、自分自身を"どもり"と呼んでいて、「吃音と言う言い方ではなく、どもりはちゃんと、どもりと呼ぶべきです」とおっしゃっています。
 日本吃音臨床研究会がユニークなのは、この"どもり"を治したり、改善することを目指すのではなく、"どもりと上手につき合う"ということを目指している点です。
 部外者の僕がうまく説明することは難しいのですが、これは、代表の伊藤さんが、十何年にわたって"どもり"の治療を受け続け、しかし、なんの改善も見られなかった時に、「どもる自分を受け入れよう」と決めた所から始まります。
 伊藤さんによると、"どもり"の根本的な治療はないそうです。「もちろん、治れば、それにこしたことはないのですが、残念ながら、治療の意味はありません。そもそも、"どもり"の根本的な原因が分かってないのですから、根本的な治療があるわけがないのです。治療を受けている中で、治ることがあっても、それが治療の効果かどうかは、分からないのです」と、伊藤さんはおっしゃいます。
 「それより、問題なのは、"どもり"の治療を受けるたびに、自分はどもりなんだ、と突きつけられる気持ちになることです。それが、マイナスの自分を作り続けます。すべてがうまくいかないのは、自分のどもりのせいだと思うようになるのです。けれど、じゃあ、どもりが治ったら、人生、すべてうまくいくのか?と私は思うのです。そんなことはないだろう。そもそも、そんな日はまず来ないのに、効かない治療を受け続けるより、どもる自分を受け入れ、そこから始めることの方が、はるかに大切だと私は言いたいのです」と、伊藤さんは、どもりながらおっしゃいます。
「だから、今までは、どもる自分を受け入れるというようなワークショップをしていたのですが、鴻上さんに、もっと攻める姿勢も表現を磨くワークショップをしていただきたいんです」と言われて、それじゃあ、おじゃましますと、答えたのです。
 今回、僕は僕なりにいろんな発見をしました。一番問題なのは、"どもり"は、"隠された障害"だということでしょう。

隠された障害になる。それが一番問題だ
 ワークショップの後、ビール飲み飲み、いろんなどもりの人と話してみると、ほとんどの人が、「自己紹介」の苦しさを話します。
 自分の順番が来て、「ちゃんと自分の名前をどもらずに言えるだろうか?」という恐怖にとらわれると言うのです。
 そして、多くの人が、自己紹介の途中でどもり、笑われたと語ります。
 「自己紹介」は逃げようがなく、また、自分の名前は絶対に言わなければいけない"言葉"なので、よけいに恐怖が増し、そして、どもるのだそうです。
 中学や高校、そして、大学の教室やサークルで、それは起こります。
 最初の一音が出なくて、苦しみ、顔が真っ赤になり、体をねじっているうちに、どもらない人に笑われます。どもらない人は、どもりの人になかなか出会わないから、そういう風景に慣れていなくて、思わず、笑うのです。
 そして、どもる人は、それが深い傷となって、自己紹介をするような場所には行かなくなると話は続きます。
 そして、"どもり"は隠された障害になります。自己紹介する場所にさえ行かなければ、傷つくことはないという結論に達するからです。
 自己紹介しない場所の場合は、発言さえしなければ、笑われることはない、と考えるようになります。
 そして、ますます、どもらない人は、どもる人と出会うことがなくなり、まれにどもる風景にあって、思わず、笑ってしまうのです。
 失礼な警えになるかもしれませんが、この話を聞きながら、僕は、"顔に障害のある人たち"のことを思っていました。体に障害があって車椅子に乗っている人は、ようやく、街でもあちこちで見かけるようになりました。この国全体が、そういう人達が外出しやすい街を作る必要を意識し始めたのだと思います。
 が、顔に障害があって、皮膚の色が違っていたり、顔の形が歪んでいる人は、まだまだ、外出を控えがちになります。
 そして、悪循環が続きます。ふだん、そういう人を見ないから、たまに見ると、驚きます。思わず、声を上げたり、指で指したりする"心ない人"も出てきます。そして、そういう障害を持った人は、ますます、外出を控え、"隠された障害"となるのです。
 伊藤さんは、「どもってもいいから、話そう」と言います。かつて受けた治療は「カーレーラーイースーを一く一だ一さ一い一」というような、とにかく、ゆっくりと言葉を伸ばして言う治療だったそうです。ゆっくり言えば、どもることはないのですが、そう言いながら、伊藤さんは、「この言い方は不自然だ」と思っていたそうです。それなら、「カ、カ、カ、カ、カカレーライス!」とどもって注文した方が、よっぽど、ましだと言うのです。
 この話、続きます。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/2
Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード