伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年06月

なってみる学び(5) スポンタネアティ spontaneity

 「なってみる学び」を国語教育に関連して書いてきました。僕たちはカウンセリングの世界でも「なってみる学び」を経験してきました。今回は、深山富雄・愛知学院大学教授、増野肇・ルーテル学院大学教授から学んだ心理劇(サイコドラマ)についてです。
 大阪吃音教室では、職場の同僚や上司との関係などの悩みをサイコドラマで取り上げることがあります。特に印象に残っているのが、研究職に就いている仲間が「研究成果を口頭発表しようとしたら、君はよくどもるから、ポスター発表にしたらと迫られ、あまり抵抗できずにポスター発表をしたが、悔しい思いが残り続けている」ことをサイコドラマで再現しました。本人が上司になったり、参加者が本人になったり、上司の立場になって発言したり、仲間を励ます立場で発言したりするなどを繰り返しました。すると、ただ、吃音に無理解な上司の指示に対する怒りに似た感情や考え方、口頭発表を主張し続けなかった自分への強い後悔の感情や考え方が、変わっていきました。
 こんな悔しいことがあったと、ただ、仲間の中で話しただけでは気づけなかった、上司に「なってみる」ことや、違う自分に「なってみる」ことを通して、様々な気づきがありました。1988年、深山富雄・愛知学院大学教授が僕たちのところに来て下さった時に、僕が書いた文章を紹介します。
 

 
スポンタネアティ
 どもる人に限らず、人と豊かな人間関係が作れずに悩む人は多い。まして人と人を結びつける話しことばにハンディを持つ私たちは、なおさらである。様々な人間関係の中で、自分を一歩ひっこめ、つまり言いたいことを言わず、また言えず、フラストレーションを募らせることも少なくない。
 言いたいことが現実の生活の場面で言えている場合は問題ないのだが、実際はがまんしてしまっている。それが言えればいいだろうなあと思う。しかし、実際言ってしまったら、ますます人間関係が悪くなるかもしれない。いろいろ思い悩む。
 現実の場面とは違う舞台、たとえ攻撃的なこと、否定的なことをぶつけても許される場、安全な場で、その場面を想定して、即興劇を演じる。その中で、不自由な、他人の目を意識しすぎている自分から解放され、思いきり自分の感情をぶつける。そしてまた、ぶつけられる相手の立場にもなり、言われたときの相手の気持ちも味わう。

 5月、研修会は、心理劇〈サイコドラマ〉を取り上げた。
 愛知学院大学の深山富男教授の指導のもと、具体的な職場での人間関係が舞台の上で構成されていく。「職場でうまくいかなくってね、一人浮いてしまっているようなんですよ」と、人間関係に悩むMさん。うまくいっていないという人間関係の説明を詳しく聞いても、もう少しピンとこなかった。それが、この席にはBさん、この席にはCさん、そして…係長、部長の席が実際の職場のように配置され、それぞれ役割が与えられ、日常の職場での交流パターンが再現される。くり返しくり返しとってしまっている行動のパターンをMさんは具体的なセリフで肉づけていく。臨場感あふれる舞台の上で、ドラマが展開していく。何人かがこのように対応したらどうかと、実際Mさんになって演じる。そして話し合い。そのドラマの中でMさんがどのように感じ、みんなとの話し合いの中で何を見い出したか、少なくともこれまでのパターンとは違う行動は、舞台という安全な場では演じることができた。それを実際の生活の場でどう生かすかは、Mさんのその後の自主性に委ねられる。しかし、こうしたら式のアドバイスとは違う具体的な問題把握と展望を自分自身の手で握めたのではないか。

 心理劇で最も重要なことばは、スポンタネアティだと、深山先生は言う。
 一般的には自発牲と訳されているが、深山先生は「その訳は十分に言い表してはいない。だから私は外来語としてスポンタネアティを使う」と説明された。
 大きな辞書で調べてみると、
(強制、努力、考慮の結果ではなく)、自然発露的なこと、自然さ、自動性、自然発生とある。その他、自由、自由意志、無意識がその意味に含まれる。確かに、自発(自らすすんで行うこと)性とは少し違う。
 心理劇は、日常生活の中で埋没している、スポンタネアティを引き出し、新しい自分の生き方を発見するのに役立つ。またスポンタネアティは、環境に適応し、障害を乗り越える力を持つという。
 現実の生活の中ではなかなかできないこと、できない役割を信頼する仲間の中で力いっぱい演じる。そこからスポンタネアティが育つ。そして、それを実際の生活の中でも生かすことができるよう、僕たちの大阪吃音教室の舞台は、その舞台を活用する人のためにあり、大勢の人が活用することによって、中味の濃いグループへと育っていく。

 セルプヘルプグループは、専門家が中にいないのが一つの特徴である。それぞれが実践し、学んだことを出し合い、影響し合っていく。専門家の直接の指導がなければそのアプローチの効果がないか、かえって害をおよぼすという恐れのあるもの以外は、大阪吃音教室では、貪欲に吸収しようとしている。
 表現よみ、自己形成史分析、自分史、論理療法とそれなりに効果をあげてきた。心理劇もまたそのうちのひとつである。この夏は、交流分析を学ぶ。(1988年5月26日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/27

なってみる学び(4)

『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)

 渡辺貴裕さんから送っていただいたご著書『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』の感想を、と思って書いてきましたが、どんどん広がっていっているようです。 昨日は、かなり前に書いたものですが、国語教育について、希望と期待をこめて書いたものを紹介しました。僕は、何でも、吃音とからめて考えるのですが、国語教育がどもる子どもにとって楽しく充実したものであれば、ことばの教室は必要ないのではないかと思ったときもありました。
 しかし、今は、ことばの教室こそが、日本の教育を変えていく原動力になると思っています。子どもを取り巻く担任やことばの教室の担当者の意識やあり方、それが学校という場を作る大きな力になります。寄り道ついでに、ニュースレターの巻頭文として1965年に書いた文章を紹介します。
 
  
ことばの教室への応援歌
                        伊藤伸二

 かつて私は、ことどもる子どもの指導に限ってのことだが、ことばの教室不要論者だった。
 ひとりひとりの子どもを大事にし、国語教育で《読む・話す・聞く・書く》を適切に指導できる、学級担任であれば、どもる子どもはことばの教室に通う必要はないのではないか。また、子どもが悩んだ時、養護教諭も、カウンセリングマインドで適切に対応できれば、子どものよい味方になってくれるのではないか。個人を大事にする担任と、国語教育と、養護教諭に期待していたのだ。
 20年前、大阪教育大学・言語障害児教育教員養成課程に在職していた頃、ことばの教室の教師を養成する立場にありながら、そう考えていた。
 私自身が、担任教師から不当な扱いを受け、それが吃音に悩む原因となっただけに、担任教師にどもる子どもの味方になってほしいという願望と期待がより強かったのだと思う。
 しかし、それはそうたやすく実現できるものではなかった。家庭の教育力は落ち、子どもを取り巻く社会状況は年々悪化している。教育現場でも、個人が大事にされているとは言い難い。
 『小学生の3人に1人は自分が嫌い』
 大阪市内の小学生5・6年生男女1,558人を対象にして出された自己意識調査の結果だ。従来、諸外国に比べ、日本の子どもは自己評価が低いと言われてきたが、それを裏付けるような結果だ。(1996年3月 幼少年教育研究シンポジウム・大阪)
 自分が嫌いだという子どもがこれほど多いのは、現在の学校教育システムが子どもの自己概念を破壊し、無力化させているからだとはいえないか。
 この現在の普通学級の現状の中で、私が求めたどもる子どもへの対処は期待できるだろうか。私は今、かつての、「ことばの教室不要論者」から大きく変わった。ことばの教室こそ、日本の教育を変える突破口になるのではないかとさえ思う。
 ことばの教室は、「自分が好きだ」という子どもを育てる場だと考えているからだ。
 不登校やいじめの問題への対処としての学校カウンセラー制度は、まだ試験的に一部の学校に導入されたにすぎない。しかし、ことばの教室は、全国各地にかなりの数設置されている。
 ことばの教室では、45分間、ひとりの教師がひとりの子どもに、個人を大事にしてかかわる。こんなぜいたくなことはない。どもる子どもは現在の日本の学校教育の中で、恵まれた存在だといえる。
 吃音の症状を治すのではなく、その子どもの持っている悩みに耳を傾け、その子どもの個性を尊重して、「どもっていても自分が好きだ」と言える子どもに育てることは、なんとやりがいのある仕事ではないだろうか。
 しかし、どもる子どもへのこの指導は、ことばの教室だけでできることではない。学級担任の子どもへの適切な対応が不可欠である。学級担任が、子どもに適切に対応できるようになるには、ことばの教室からの、学級担任への積極的な関わりと連携が必要になる。一般的に学級担任は、吃音について無知であり、どのように対応すればよいか戸惑っているのが現状だからだ。
 大津市のどもる子どもが、普通学級の教師にどのようにとらえられ、対処されてきたかの調査でも、調査をした木全清友さんは、普通学級の担任教師への啓蒙こそが大切だとしめくくっている。
 ひとりのどもる子どもを周りが大事にしていく、普通学級をまきこんでの取り組みで、どもる子どもがどんどん「自分が好き」になっていけば、その成果は、ひとりどもる子どものものだけでなく、そのクラスの他の子どもにも影響していくことになるだろう。
 「自分が嫌いだ」という他の子どもへの対処にも結びつくはずであり、ことばの教室は、日本の教育を根本から変えていく可能性を秘めている。
 この取り組みは、単に吃音症状の消失や改善を目指す指導より、はるかになすべきことは多い。ことばの教室で何ができるか、一緒に考え、実践をしていきたい。
                    (1965年6月15日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/25

なってみる学び(3)

『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)

 渡辺さん、藤原さんの本の紹介に関連して、国語教育について少し触れました。音読が苦手で、不登校にもなったことのある僕は、国語は嫌いな科目でした。文学作品に親しんだり、作文を書いたり、物語を読解したりすることは好きで得意だったのですが、ただ音読だけがクローズアップされて、苦手だ、嫌いだと思っていたようです。そんな僕ですが、それでも「国語教育」に対して、希望と期待を持っていました。そんな文章をずいぶん前に書いています。タイトルは、ずばり、「楽しい国語教育」です。
 渡辺さんたちの「なってみる学び」とは、かなり違いますが、1991年当時は、このようなことを考えていたようです。

  
楽しい国語教育
                         伊藤伸二

小学校時代、国語が大嫌いだった。
 朗読の順番が近づくと、胸はドキドキ、顔がほてる。つまってつまって読んで、時には先生から叱られ、友達からは笑われた。「国語」といえば、朗読の時、立往生している姿しか思い出せない。文学作品に親しむこと、文を書くことは好きであり、「国語」が全て嫌いだったわけではない。しかし、当時の「国語」は、読解・音読が中心であり、正確に、流暢に読むことが評価された。

 「国語」の学習指導要領が大幅に改訂され、「話しことば」を前面に出した国語教育が、来年度から始まる。今後、どのように展開されるかは未知数だが、この方向は画期的なことだと言える。
 それに先立って、NHK日本語センターが主催し、杉澤陽太郎さんたちを講師に、国語科教師のための「話しことば教育」のセミナーが開かれた。全国から集まった100名程の教師と共に、話す、読む、聞くトレーニングを受けた。グループに分かれ、人前でスピーチをし、順番に朗読し、テープにとって検討していく。実習やディスカッションを通して「話しことば教育」の重要性を確認し合った。夏休みを利用し、自己研修に励むこれら多くの教師の真摯な姿に接し、ここに参加している教師が、子どもの指導に当たれば、どもる子どもにとって「国語」は好きな科目になるのではないかと期待が持てた。
 長年にわたって私たちは、どもる子どもの指導は、「ことばの教室」の指導だけでなく、通常学級での「国語教育」の充実が必要であると主張してきた。しかし、これまでの「読み」中心の国語教育は、どもる子どもに役に立つどころか、プレッシャーを与えてきた。今回の改訂による「話しことば教育」が、「読み」でされてきたように正確な発音や流暢さを強調されることがないよう願いたい。どもりながらでも、自分のことばで話すことが最も大切なことだ。
 話すことは本来楽しいことである。その楽しさや人に伝える喜びを知れば、どもることの不安や恐れがあっても、話そうとする意欲は失われないだろう。そして多少の厳しいトレーニングにも耐えることができるだろう。これまでの「国語」の読みは、私たちの生きた日常会話に生かすことができなかった。吃音治療のための音読練習も、またそうであった。
 セミナーでは「話をするように読む」ことを指導された。私自身、人前で順番に読むことが楽しく、また他者のを聞いていても楽しかった。読むことの楽しさを初めて知ったと言っていい。ここでは読みと話すが一体となった。

 今夏行った吃音親子サマーキャンプでのこと。あるエクササイズをし、最後に順番に発表する。小学生、中学生が、どもりながらも誰もが最後まで言い切った。ふりかえりの時、中学生は次のように言った。
 「これまで、読みや発表で順番が回ってくるのがとっても怖かったし、嫌だった。でも、今日は発表が待ち遠しかった。順番が回ってくるのがうれしかった」
 どもる子は発表したり、話したり、読んだりすることが嫌いだろうと決めつけられない。言いたい、他の人に伝えたい、そんな気持ちが強ければどもっても話そうとするだろう。今回のエクササイズで、中学生は、自らの頭で考えたことを是非他人にも知ってもらいたいとの気持ちが強く働いたのだろう。
 言いたくもないことを言わされる、それもどもってとなれば、話すことが楽しくなるはずがない。
 話そうとする意欲を持ち、話すことが楽しいことだと思える子どもを育てることが「話しことば教育」にとって最も大切なことではないか。

 話しことば教育に無縁だった私たちは、大人になった今改めて、自分史、聞く5つのスキル、表現よみ、1分間スピーチ、アサーティヴ・トレーニングなどを通して、コミュニケーション能力を高めるトレーニングを5年前から続けている。
 「国語」がコミュニケーション能力を高めるのに役立てば、日常に生かせるものになれば、国語が好きだというどもる子どもやどもる人が増えるに違いない。(1991.8.31)
(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/24

なってみる(2)

『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)

 新型コロナウイルスに翻弄され、1年半になりました。政府、自治体のコロナ対策のひどさは絶望的です。それは、「他者への共感、想像力」のあまりにもなさ過ぎることによる施策だからです。緊急事態宣言下の飲食業界や、芸術関係のイベントへの休業要請などの説明不足と対応など、挙げればきりがないので挙げませんが、直近のこととしては、「ワクチン接種」の混乱です。高齢者のネット予約の混乱など、ほんの少しの想像力と共感力があれば、パソコンをもたない人も少なくない高齢者に、ネットやスマホ予約など、どうしたらデザインできるのでしょう。自分が「高齢者でパソコンが使えない」高齢者に「なってみる」ことを厚労省の役員や自民党議員、政府がしていれば、こんなことにはならなかったはずです。今、起こっている様々な事象はこの「他者への共感、想像力」のなさからくるものだと私は思います。
 また、この状況下でも、オリンピックを開催し、さらに観客を入れて開催することを決定しました。また、スポンサーのことを考え、アルコールの販売も検討していました。アルコールの販売を禁止され、倒産した居酒屋もあるというのに、オリンピック会場では酒類の販売を検討している。飲食業の窮状に対する想像力はありません。さすがに厳しい反対で販売は中止になったものの、検討したこと自体あきれるばかりです。
 オリンピック開催が、どのような状況を招く可能性があるか、想像しようとする姿勢がありません。想像したら、開催などあり得ないと僕は思うのです。この人たちはもう無理ですが、このような大人にならないようにするためには、子どもの頃の教育が必要です。未来ある子どもには、「他者への共感、想像力」が育ってほしいと強く思います。

 渡辺さんと藤原さんの「なってみる学び」の本には、子どもの頃から、この人間としてもっとも大事なもののひとつ、「他者への共感、想像力」を育てるのに役立つ演劇的手法が紹介されています。読むと、きっと取り組んでみたくなるだろうと思います。そして、実際にやってみれば楽しさと、大きな驚きと、そして喜びが待っています。この本は、「みんなでやってみましょうよ」とまず実践することを勧めています。そのために、丁寧に、なぜ演劇的手法なのか、実際の実践報告、演劇的技法の紹介、取り組みの試行錯誤の歴史が正直に報告されています。教育現場で広くこの本が読まれ、実践する人が増えることを願っています。
 
 「なってみる」こと、「他人を演じる」ことで得た、気づき
 僕は、今、小学校で国語教育がどう展開しているかは全く知りません。見当違いになるかもしれませんが、作品に出てくる主人公や、登場するものの「気持ち」を想像し、理解し、「気持ちを込めて読む」「役になりきって読む」の指導がなされているだろうと、想像します。「役になりきって読む」のと、「なってみる」ことの大きな違いを、僕は竹内敏晴さんの演出する舞台に立って、強烈に体験しました。
 宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」で、僕は一頭の鹿になりました。ススキがいっぱいに広がっている舞台の中で、4頭ほどいる鹿の一頭になり、歌い、踊るうちに、本当の鹿になったかのような不思議な体験をしました。また、「セロ弾きのゴーシュ」では、何度も行う稽古の中で、ゴーシュになったり、猫、かっこう、たぬきの子、野ねずみの親子などになったり、実際に「なってみる」経験をしました。「セロ弾きのゴーシュ」は何度も読んだはずなのに、実際に「なってみる」と、黙読や音読とは全く違って、楽しくて楽しくて、宮沢賢治の豊かな世界に引き込まれていく体験をしました。
 また、竹内さんが、僕が吃音に悩み始めるきっかけになった小学2年生の学芸会でセリフのある役を外された悔しさ、悲しさをくみ取り、秋浜悟史の作の「ほらんばか」の主役をさせて下さいました。
 「ほらんばか」は、東北地方の寒村が舞台で、春になるとほらんばか(ほら事語り)になってしまう工藤充年(くどうじゅうねん)が主人公です。工藤充年は、仲間と集団農場を経営していて、自分がいない間に、牛をすべて伝染病で死なせたことで、ほらんばかになってしまいます。そして、狂気の中で恋人を殺してしまうという物語です。主役候補は2人いて、僕に脚本を読ませたとき「ほぼ絶望した」と竹内さんはメモに残していました。 当時、僕は、講義や講演など人前で話す時は、ほとんどどもらなくなっていました。スラスラと大きな声で、明瞭にセリフを読んだことが、「この説明、説得的ないいまわし」では、情念の世界を演じる演劇では通用しないと、僕を主役からおろすことも考えたようです。しかし、「演劇へのこだわり」を知っている竹内さんが、徹底的に稽古をすることを条件に主役をさせて下さいました。
 はげしい稽古でした。また僕も日常生活の中でも、よく練習しました。そして、東京公演、名古屋公演と大成功で、竹内さんも褒めて下さいました。ところが、不思議なことに、3か月くらいして、僕の「説明、説得的ないいまわし」は見事壊れました。「ほらんばか」を必死に演じた結果かどうかはわかりません。ただ、講義や講演、人前で話すときには知らず知らずのうちに「説明、説得的ないいまわし」が身についていたのでしょう。それが壊れて、自然な僕のことばが立ち現れたのかもしれません。すると、以前よりはよくどもるようになり、講義や講演でもどもるようになりました。「竹内さんに壊された僕のことば」という文章を書いたことがあります。
 まさに、「演劇恐るべし」です。再び、よくどもるようになりましたが、今の自然にどもる僕はいいなあと思います。どもりたくないと、コントロールしていたわけではないのですが、自然に「どもらない体」になっていたのかもしれません。それを、竹内敏晴さんが「どもる体」に戻してくれたのかもしれません。もし、竹内さんの舞台に立たなかったら、どうなっていたのだろうと思います。僕が再びどもるようになったことを、周りの人は喜んでくれています。 (つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/23

なってみる(1)

 『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)

なってみる学び 表紙 昨年の秋に、渡辺貴裕さんからお送りいただいたこの本の感想を今、やっと書いています。
 お送りいただいたとき、丁寧に時間をかけて作られた本だと感じ、きちんと読んで感想をお送りしますと、すぐにお礼の手紙を書いたのはよかったのですが、ずっと書けずに、気になりながら今日になってしまいました。
 遅れれば遅れるほど、ちゃんと書かなければとの思いがふくれあがります。その思いが強すぎると、いつまでも書けない気がしますので、肩の力を抜いてこのブログで書きます。
 ここまで遅れたのだから、本への感想だけでなく、「なってみる」ことの意義や、僕の「国語教育への思い」「コミュニケーション能力」「自己表現」などについて、吃音をからめての思いを書いていこうと思います。「なってみる」は多くのことを考えさせてくれるきっかけになりました。「なってみる」シリーズに、しばらくおつき合いください。

  演劇的手法の力
『なってみる学び―演劇的手法で変わる授業と学校』(時事通信社)
 
 この本の著者、渡辺貴裕さんには、竹内敏晴さんが亡くなった後、吃音親子サマーキャンプの「劇と上演」のプログラムをずっと担当していただいています。吃音親子サマーキャンプの一ヶ月前にスタッフで合宿で、その年に子どもたちと上演する劇の演出、子どもに教えるための手順などを、「事前レッスン」と名付けた1泊2日の合宿で学びます。竹内さんが吃音親子サマーキャンプのために書き下ろしたシナリオを渡辺さんが演出し、子どもと一緒に劇に取り組むための手順や、ウォーミングアップの「架空の世界を感じて、演じて楽しむ」エクササイズをして下さいます。20代、30代の若い人だけでなく、引っ込み思案で、劇をするなど考えられなかった、50代、60代の大人が楽しそうに弾けて演じる姿を見ると、どもることで、お芝居や表現することと一番遠い位置に、僕たちがいたのだなあと思います。
 おそらく、僕と同じような経験をしているどもる人にとって、自分が芝居をするというは非常にハードルの高いものだと思います。ところが、その吃音に悩んできた人たちが、渡辺さんの指導する「事前レッスン」の場で、楽しそうに演じている姿を見ると、時々、涙がにじんでくるのです。大人でも演劇的活動は楽しいのですから、子どもがのってくるのは当たり前のことです。これまで人前に立つことを避けてきたどもる子どもたちが、吃音親子サマーキャンプの場で、どもりながらもいきいきと演じる姿を30年間見続けてきて、演劇の大きな力を僕は感じます。
 渡辺さんのいう「架空の世界を感じ、それを通して気づきを得る」活動は、吃音親子サマーキャンプの劇の練習と上演に活かされます。

  僕の演劇と演劇的手法体験の歴史

 僕の吃音の悩みが始まり、深まっていくのに、演劇が深く関わっています。小学2年の秋の学芸会で、吃音を全く意識せず、明るく元気で、クラスの人気者だった僕は、成績もクラスのトップクラスだったこともあり、主役か、それに準じる役を密かに期待していました。ところが、どもるという理由だけで、セリフのある役から外され、それが吃音に初めて劣等感をもつきっかけになり、学芸会が終わる頃には僕は別人になっていました。勉強も遊びもせず、仲間の中にも入らず、自分を全く表現できない人間になり、将来を全く展望できない、無気力な人間になりました。小学校、中学校、高等学校生活で、何一つ楽しい思い出はありません。一方、僕の苦悩、孤独を和らげてくれたのが、文学や小説、映画や舞台だったこともあり、演劇には強い関心を持ち続けていました。
 吃音に深く悩んでいた僕は、国語の時間が大嫌いでした。高校二年生の時に、国語の時間の音読が怖くて、一ヶ月ほど不登校になりました。正しく、よどみなく読むことを強要される「音読」が国語教育のすべてのような時代です。自分の考えや感じをことばにしたり、作品を表現することの喜びなど、まったくなかった国語教育だったと記憶しています。
 そのような「国語教育」を経験していたにもかかわらず、僕は、大阪教育大学の言語障害児教育教員養成課程の教員をしているとき、「国語教育」こそが、吃音に悩む子どもたちにとって、一番の味方になり、今後の生きる力の源泉になると強く思っていました。だから、ことばの教室の教室を担当する教員を養成する立場でありながら、「国語教育」が充実し、養護教諭がカウンセリングについて学び、「保健室」が小学校で機能していれば、どもる子どもが、特別にことばの教室に通う必要はないのではないか、という文章を書いたことがあります。その文章は、この「なってみる」の文章のシリーズの中で紹介しますが、おそらく、僕自身が学童期・思春期に経験した「国語教育」とは全く違う「国語教育」をイメージしていたのでしょう。この本を読んで、渡辺さん、藤原さんが実践し提案している「国語教育」のようなものを、私はイメージしていたではないかと、今、振り返って思います。

 僕たちは、「吃音とともに豊かに生きる」ために、吃音を認め、「表現すること」について取り組みを続けてきました。3日間の吃音ワークショップでいろんなことを学んできました。東京都立大学・大久保忠利教授から「表現読み」、日本女子大学・平木典子教授からアサーショントレーニング、詩人の谷川俊太郎さんから「詩の表現」、竹内敏晴さんから「からだとことばのレッスン」、劇作家で演出家の鴻上尚史さんから「表現すること」を学びました。さらに、鴻上さんからは、今回、渡辺さんが著書で紹介しているいろいろな演劇的手法を教えていただき、大騒ぎしながら楽しみました。
 さらに、臨床心理の立場では、深山富雄・愛知学院大学教授、増野肇・ルーテル学院大学教授から心理劇(サイコドラマ)のワークショップ、大阪市立大学・倉戸ヨシヤ教授から、ゲシュタルトセラピーのワークショップで学びました。個人的には、倉戸ヨシヤ先生のゲシュタルトセラピーと、深山富雄先生のサイコドラマのワークショップは、数え切れないほど参加し続けました。ゲシュタルト療法50セッション訓練にも参加しました。
 その中で、「なってみる」ことによる深い気づきを数限りなく体験しました。
 前置きが長くなりましたが、そのような数々の演劇的体験のある僕自身が、『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』を読んでの感想と、「なってみる」ことについてこれまで考えていたことを、このブログで書いてみます。  (つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/22

吃音に命をかけた男二人、吉田昌平と伊藤伸二

 昨日の続きです。吉田昌平さんの娘さんとの奇跡的な出会いです。
 ブログにも書きましたが、吉田昌平さんのことを僕は、唯一無二の親友だと思っています。大親友であり、戦友でした。僕が東京にどもる人のセルフヘルプグループを作り、これからそのグループを全国に広げていこうとしていたとき、二人でいろんな話をしました。約束通り、京都に戻った昌平さんは京都言友会を作り、それは全国に広がっていく出発となりました。二人で話していると、考えていることが全部実現しそうな気になりました。夢はどんどん大きく広がっていきました。思ったことは何でも話したので、けんかもよくしましたが、すぐに仲直りをして、夢を語っていました。
 そんな大親友なのだから、何でも聞いて下さいと言うと、彼女は、まず、「やさしい人でしたか。短気じゃなかったですか」と聞きました。

 昌平さんはやさしい人でした。声を荒げて怒ることなどありませんでした。体は大きくて、声も大きかったけれど、気持ちは優しく、性格はおおらかで、相手を思いやることのできる人でした。穏やかな人でした。人徳があり、彼の周りにはいつも人が集まってきました。彼は突然、29歳という若さで亡くなりましたが、葬式にも、何年後かの偲ぶ会のときにも、大勢の人が集まったことをよく覚えています。

 「父は、あがり症ではなかったですか」と、彼女は聞きました。自分が、1年前に、社員の結婚式で主賓の挨拶をするとき、ものすごくあがってしまい、手が震えたことがあり、それと関連づけての質問でした。
 僕は、そんなことはなかったと思うと答えました。リーダーをしていた僕も昌平さんも、大勢の人の前で話したり挨拶したりすることはよくありました。あがって、手に汗かいて、のようなことはなかったと思います。ひとつ、よく覚えているのは、亡くなる10ヶ月前に開いた第一回吃音問題研究集会での開会の挨拶です。昌平さんは、大勢の参加者を前にして、「本日は…」と言おうとして「ほ」がなかなか出ず、少しの沈黙の後、とっさに大きな声で、「ハ、ヒ、フ、ヘ、本日は…」と始めました。この開会の挨拶は、参加者にとって、とても印象的なできごとでした。あがり症ではないと思うし、どちらかといえば、本番に強い人だったと答えました。それを聞いて、彼女は、「私も本番に強いと思ってたんです。確かに強かったんです。だから、1年前の結婚式でのことがショックというか、忘れられないんです」と言っていました。

 ご自分の話もたくさん話して下さった彼女との時間は、本当に楽しく、なつかしく、いい時間でした。

 「父は何をしたかったのでしょうか」
 これがもしかたしら、彼女が一番聞きたかったことなのかもしれません。これは、昌平さん自身に聞かないと分からないことなのですが、僕も考えてみました。強く覚えているのは、病院に行くと、よく言っていたことがあります。
 「伊藤、大阪教育大学の一年の勉強が終わったら、東京へ戻るやろ。そのとき、俺も、家族と一緒に東京へ行くわ、やっぱり東京で活動するのが一番や、伊藤と俺の二人がそろえば、いろんなことができるで」
 ずっと、吃音のこと、会のことを考えていました。僕は東京には戻らず、大阪教育大学の教員になり、大きく活動が展開していきました。その後の僕の活躍を彼はきっと喜んでくれると思います。「吃音の虫」ということでは、吃音を愛し、どもる人を愛していたことは共通ですが、吃音をどうとらえるかは、少し違っていたかもしれません。昌平さんは、吃音を障害ととらえ、それを社会に知らしめて、社会が困っていることを手助けしないといけないとし、社会運動を展開しようとしました。僕は、吃音を、障害ではなく、人の話し言葉のひとつの特徴だととらえていました。その違いはありますが、どちらも、どもりがどもりのまま認められる社会を作りたいというのは共通でした。そして、日本だけでなく、世界の仲間とつながっていこうというのも共通でした。
 だから、彼が亡くなった後、「吃音を治す努力の否定」を提起し、「吃音者宣言」を出し、京都で第1回吃音問題研究国際大会を開いたことも、子どもたちの吃音親子サマーキャンプを続けていることも、昌平さんがしたかったことと大きな違いはないだろうと確信しています。
 昌平さんが亡くなるとき、僕は、声にはならない昌平さんの思いを聞きました。「伊藤、どもりのことは、頼むよ」と言われているような気がしました。きっと、今、僕が考え、取り組んでいることを、昌平さんは応援し、喜んでくれているだろうと思います。

 二度と会えるはずのない人と、直接、本人ではないけれど、娘さんと出会えたこと、この運命的な出会い、不思議な縁を思うと、人間っておもしろいなあ、生きているということはいいもんだなあと思いました。夢を語り合った昌平さんの分まで、僕は、今、できることを精一杯取り組んでいこうという思いを強くしています。その勇気を、48年間という時を超えて、もらいました。彼は僕のことを「伊藤」と呼び、僕は一歳年上の彼を、「昌平」と呼んでいました。自分の「娘」と、「伊藤」が48年の歳月を超えて出会い、長い時間自分のことを話している姿を、「昌平」はとても喜んでくれていると思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/21

吃音がとりもつ、不思議な、不思議な出会い

 人間っておもしろいなあと思うときがあります。不思議な縁というか、運命の出会いというか、そんなことを思える日でした。
 金曜日、ひとりの訪問者がありました。その人は、48年前に亡くなった吉田昌平さんの娘さんです。吉田昌平さんのことは、このブログでも紹介したことがありますが、僕と出会ったのは、東京でした。1965年、21歳のとき、僕はどもりを治すために東京正生学院に行き、そこでの訓練に見切りをつけ、治すことをあきらめ、どもりながら生きていこうと、どもる人のセルフヘルプグループを作って活動を始めた頃でした。1966年、京都から、同じようにどもりを治そうと東京に出てきていた吉田昌平さんに出会いました。東京のオンボロの事務所に昔からいたみたいに住み着いていた吉田さんのことは、今年の2月にブログに書いています。そのブログを再掲します。
 吉田さんの娘さんは、そのブログをみつけて読んで下さって、僕のところに連絡してくださいました。ブログを読むようになったきっかけは、彼女が経営する会社を訪れたひとりの女性との面接でした。その人は、別の会社を辞めて、彼女の会社の面接を受けることになっていました。正確には、前の会社を辞めさせられて、と言った方がいいかもしれません。その理由を聞くと、彼女が吃音だったからなのでした。どもることは社長も知っていました。それを承知の上で雇ったのに、配属された指導役の上司から「そんなにどもっていて、営業なんかできるわけがない。なぜ営業を希望したのか」などと、ひどいことを言われ、とうとう彼女はその会社を辞めました。
 「吃音」ときいて、娘さんは、父親も吃音だったことを、ふと思い出します。父親の昌平さんが亡くなったのは、娘さんが生まれて1ヶ月後のことです。父親のことは全く知らずに育ちました。知りたいとも思わず、これまで生きてきました。でも、父親が吃音だったということは、母親から聞かされていたのでしょう。父親の名前と吃音と入れて検索してみると、ひっかかったのが、さきほどの僕のブログだったというわけです。そして僕に電話をしてきて、昨日の来訪となったのです。
 なんとも劇的な、人生っておもしろい、捨てたもんじゃないと思える話でしょう。
 ではまず、不思議な出会いのきっかけとなった、ブログを再掲して、つづきます。


故吉田昌平氏の思い出
 私が言友会の活動の中で涙を流したのは、旧事務所が取り壊される時と吉田昌平氏の死に直面した時の2回である。
 言友会が好きで好きでたまらなかった彼と私はまさに言友会の虫であった。言友会の大会の議事の最中に喧嘩をしたり、意見が合わないと言っては何度も喧嘩をした。「お前みたいな奴とはもう会いたくない」とお互いに何度この言葉を言い合っただろうか。それでも私たちは離れることはなかった。彼は私にとって本気で怒りをぶつけられる相手であった。
 彼との出会いは昭和41年7月の下旬であったろうか。久しぶりに事務所を訪れた私は、見かけない男が一人、自分の家のように住みついているのを見て驚いた。一見おとなしそうで、変に図々しいこの男の間の抜けたけた話しぶりが、この家にいることの正当性を主張していた。
 話してみると愉快な男で、自分が何故ここに住んでいるのかを、おもしろおかしく語ってくれた。どもりに悩み、なんとかどもりを治したいと思いつめた彼は、職を捨て、恋人と離れて東京のどもり矯正所に来たのだった。
 そこで言友会を知り、例会に参加するうちに会がおもしろくなり、京都にも言友会を作ろうと決意したという。
 ちょうど夏休みに入っていた私は、彼と私と、そしてSとIとの4人で共同生活を始めた。彼が土方やダンプの運転手をして稼いだお金は、私たちの夕食代に消えていった。カレーライスやブタ汁を作り、夜も遅くまで語り明かした。2ヶ月にわたる私たちとの付き合いの中で、彼は京都で言友会を作るエネルギーを貯えていった。
 彼は、その後京都に戻り、言友会を作る活動を開始した。9月下旬京都に帰り翌年の6月まで、職につかずに彼は言友会の専従として仲間作りや事務所作りに専念した。
 活動家が育ち、会が軌道に乗ったのを見届けて、彼はタクシーの運転手になった。どもりながらも親切に応待する彼のタクシーは評判であったが、その料金収入のカーブは言友会の活動に対する貢献度と見事に反比例し続けた。
 その後、京都ろうあセンターの職員になった彼は、水を得た魚のように手話通訳や聴力検査・聴能訓練に打ち込んでいった。彼の豪放でユーモラスな性格と、人並み外れた行動力は、ろうあ者と吃音者との結びつきに大きな役割を果たした。彼のシンボルとも言うべき大柄な体と太い手の指で、体ごと語る彼の手話はろうあ者の信頼を得ていった。「僕は手話をやりながら話すとどもらない、君も手話をやったらどうだ」と私たちにも推めたものだ。
 彼は京都、私は東京と生活の場は離れたが、二人は良く会った。彼は、私のことを「千三つ」と言っては良くからかった。大風呂敷を広げた話ばかりで、千に三つしかまともなことを言わないと皮肉るのだ。その彼とて、私に勝るとも劣らず話が大きかった。私たち二人が会うと夢は大きく広がった。
 彼は、良く東京に出てきては私と新宿のサウナで話し合った。私たちは、それをサウナ会談と名付けた。京都では受け入れてもらえない話でも、東京では受け入れられて話が進んでいく。それに力を得ては、彼は「東京は実行することを決意し動き始めた」と京都の会員を説得し、強引とも言えるやり方で京都言友会をリードしていった。
 その現われが、吃音専門雑誌『ことばのりずむ』の発行であり、第1回吃音問題研究集会の開催であった。
 当時、全国に言友会が広がりつつある情勢の中で、彼と私は「吃音児・者の指導はいかにあるべきか」「各地で吃音に対してどのような取り組みがなされているのか」「吃音とは何か」などを全国のレベルで総合的に考える雑誌や研究会の必要性を感じていた。京都と東京が一体となって雑誌作りが進められ、昭和46年9月『ことばのりずむ』が創刊された。その後、彼が病に倒れるまで彼を編集責任者とする京都言友会がその発刊の責任を担っていった。
 昭和47年5月には、彼を実行委員長とした第1回吃音問題研究集会が京都で開かれた。彼なくしてはとても開かれなかったと言われる集会であった。冒頭の「ハヒフヘ本日は……」で始まった実行委員長の挨拶は、未だに参加者の心に残っている。思えば、この吃音問題研究集会が終わった頃から彼は時々頭痛を訴えるようになっていた。
 正月には一緒にマージャンをやろうと言っていた彼が、卓を囲む直前の昭和47年12月29日、病に倒れた。すぐ京都の病院に駆けつけた私は、大きな体の彼が小さくなってベッドに横たわっている姿を見て胸が締めつけられた。「伊藤やで」と言った私の声に頭だけを動かしてわかったという合い図をしてくれた。
 その後、一進一退を続けた彼だが、時には見違える程元気な時もあった。そんなある時、彼は私にこう言った。
 「なあ伊藤、この春大阪教育大学を卒業したら東京へ帰るやろ。オレも病気が治ったら家族みんなを連れて一緒に東京へ行くわ。二人で東京言友会の専従をしたら東京で大きな事ができるで。やはり東京は日本の中心や、東京で活動しなきゃなあ。早く治りたいわ……」
 彼は病の中でも常に言友会のことを考えていた。その彼が、突然、余りにも急に昭和48年3月29日、帰らぬ人となった。病名は脳腫瘍であった。私の胸の中で、彼は今も生き続けている。「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ。(1971年9月24日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/20

伊藤伸二の吃音方程式と、チャールズ・ヴァン・ライパーの吃音方程式

 昨日、「言語障害事典」の項目のひとつ、〈吃音児の治療教育〉を紹介しました。その中で、チャールズ・ヴァン・ライパーの吃音方程式を紹介しました。ライパーは、吃音の悪化要因を分子、改善要因を分母に置きました。そして、分子を減らし、分母を増やす臨床を提案したのです。
 ライパーは、僕が最も敬愛する吃音研究者ですが、この方程式で、分子に吃音に直接関係する要因はかなり丁寧にあげている一方で、分母には大雑把に、士気、自信、そして流暢性を置きました。士気、自信はいいのですが、流暢性を置いたことは、大きな間違いだったと僕は思います。そのことで、その後のライパーの弟子たち、例えば、カール・デルやバリー・ギターは著作で流暢性にこだわっています。ライパーは、流暢さにこだわるという負の遺産を残したのではないかと思います。アメリカ言語病理学は、この呪縛からずっと抜け出せないでいます。
 
 僕は、1976年、3か月間をかけて、35都道府県38会場で、全国巡回吃音相談会を開いた時、「吃音と悩みの実態調査」も実施しました。その結果、吃音が重かった時期と悩みが深かった時期とが必ずしも一致しなかったことが、かなり明らかになりました。
 それらをもとに、どもる人の悩みと意識と行動に焦点を当てて、伊藤伸二の吃音方程式を作りました。吃音の悩みを深める要因を分子に、悩みを軽減する要因を分母に置きました。流暢性よりも、どもっても目的を達成できた経験が大事だと僕は思うのです。

 ライパーと僕との決定的な違いが、この方程式の違いに現れています。
 ライパーは、1930年代、アイオワ州立大学でブリンゲルソンの「随意吃音」で改善し、大学教授(吃音研究者)になり、5000人以上の治療にあたりました。ほぼ全員が治らなかったのですが、改善できたといいます。「流暢にどもる」、どもり方は変えられると主張しています。つまり、自分がセラピーを受けて変われたから、セラピーの必要性を強調するのです。セラピーで、「流暢にどもる」ようにならないことは、その後の、バリー・ギターの治療実績でも明らかになっています。

 一方、伊藤伸二は、1965年、東京正生学院の30日間で治療に見切りをつけ、「どもれる体」になり、どもりながら日常生活に出ていくことで自然にどもり方が変わりました。つまり、治療ではなく、吃音を認め、訓練は一切やめて、日常生活をどもりながらも、積極的に話していく中で変わっていきました。30日間、恋人、親友、仲間とどもりながら徹底的に話し、話すこと、伝わることの喜びを味わったのです。それが後に「吃音を治す努力の否定」「吃音者宣言」につながったのです。

 ここで、伊藤伸二の吃音方程式を紹介します。

  〈分子 吃音の悩みを深める要因〉
愛された実感が少ない
同年齢の友だちが少ない
吃音への否定的対応
完全主義からくる失敗恐怖
未来への失望
話すことからの回避の度合い
吃音のことを話せる人がいない
学校やクラスに居場所がない
どもることやその他の劣等感
周りの無理解

  <分母 吃音の悩みを軽減する要因>
味方になってくれる友だちがいる
家族・地域などの豊かな人間関係
得意なことや好きなことがある
熱中できるものがある
どもってできた経験が多い
モデルとなる人との出会い
吃音の適切な知識
未来への展望・希望
人に受け入れられた経験など
楽天的な人生観

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 201/6/16

言語障害事典(内須川洸編 岩崎学術社 1979年)

内須川本表紙4冊_0002 内須川洸先生の退官記念講演の紹介から、先生が編集を担当された「言語障害事典」に執筆させていただいた項目を紹介してきました。今日が、その紹介の最終となりました。
 今日の項目は、「吃音児の治療教育」です。「吃音児」も「治療教育」も、今は、僕は使うことはなく、違和感のある言葉なのですが、書いている内容に関しては、ほとんど変わりません。最後に書いている下記の文が、それを表しています。
 「以上のことから、吃音児の治療教育の中心は、吃音を持ったまま明るく元気な子どもを育てることにあるといえよう」

吃音児の治療教育(英)remedial education for stuttering

〔沿革〕1959年(昭和34)、公立小学校に「言語治療教室」が設置されるまでは、吃音は学校教育のなかでも福祉のなかでもまったく放置されていた。しかし、吃音で困り悩んでいる児童・生徒が少なかったというわけではない。文部省が主催して吃音矯正教師講習会を開いたり、夏休み等を利用して「吃音矯正会」を開いてはいたが大きな力とはなり得なかった。特に地方都市においては民間の吃音矯正所が全国各地を巡回する矯正活動を続けていた。吃音児は「1過間以内でどもりが治ります」と宣伝するその機会を利用することが多かったようである。吃音児を扱いかねていた学校側はクラス担任を通して父兄にこの巡回矯正会の情報を流し、学校の施設を貸すなどして積極的に援助をした。しかし、「治る」と宣伝しているその民間の矯正会で、多くの吃音児のどもりは治らず、かえって悪化していく場合が多かったことは、多くの吃音児・者の体験が物語っている。

◎それまでどもりながらも明るく生活していたのに、巡回矯正を受けてから暗くどもりを気にする子になりました。
◎指導を受けて1カ月は調子が良かったのですが、すぐに元にもどってしまいました。

 まれにどもりが治ってしまう場合もあったが、上述のように、学童期の吃音児には民間矯正所の発声練習や呼吸法を中心にした、つまり吃症状のみに集中した指導がかえって吃音を意識させ、吃音の悪循環を育てることにもつながったようである。
 全国各地に「ことばの教室」が設置された現在でさえ、この種の矯正会を教育委員会等が後援している例があり、保育所、幼稚園、学校にその案内のパンフレットが配られてくるのは残念なことである。

〔指導内容〕前述の「ことばの治療教室」 が設置され吃音児を持って悩む母親に大きな希望を与えた。当初は全国に数カ所しかなかったため、転居してまで子どもを通わせようとした熱心な母親もいたという。
 アメリカの言語病理学が日本に紹介され、それらをもとに指導法が考えられた。母親の指導の中心には、ジョンソン(Johnson, W. 1955)の診断起因説から、子どもが自分のことばの異常を気にしないように、子どものことばに寛大になり「言い直してごらん」、「ゆっくり言ってごらん」などのことばに関する注意をやめるとともに、子どもが喜んで話したくなるような聞き手になることを基本においた。また、ヴァンライパー(Van Riper, C.1964)は吃音の重症度に関係する要因を仮定し、それらをあてはめて1つの公式を考案したが、子どもの指導はこれに基づいている。
 その公式は、 こう表される。
 
 S= (P・F・A・G・H)+(Sf・Wf)+Cs
           M+Fl            

S 吃音の頻度や重症度。
P(penalty 罰)吃音に対して罰が与えられたとき、あるいは過去に与えられた記憶があるとき。F(frustration欲术不満)経験または記憶に残っているすべてのタイプの欲求不満。A(anxiety 不安)不安があるとき。G(guilt罪)罪の意識。H(hostility 敵意)はけ口の必要な敵意。Sf(situational fear 場面に対する恐れ)過去の不愉快な記憶に基づく場面に対する恐れ。Wf(word fear 語に対する恐れ)過去の不愉快な記憶に基づく特定の音または語に対する恐れ。Cs(communicative stress 話すことに関する心理的圧力)。
M(morale 志気)志気ないし自我の強さ、あるいは自信。Fl(fluency 流暢さ)本人の感ずる流暢さの度合い。

 各要因を以上のように説明し不安定度を表すとともに、さらに治療にあたっては、公式の分子を小さくし、分母を大きくすることによって吃音の頻度・重症度を軽減しようと した。ことばの教室ではそれらの上に立って自信を持たせ、子どもの志気を高めることに指導の重点を置いている。
 以上のジョンソン、ヴァンライパーらの説をもとに、母親指導を中心にした吃音児をとりまく環境の整備、そして吃音児には吃症状にのみ中心を置かず、自信を持たせるなどの指導が試みられ、吃音の治療が進められてきた。

〔現状〕当初、ことばの治療教室が設置されたときの「言語障害は治る」という期待は、少なくとも吃音に関しては消えつつある。幼児の吃症状が母親を中心とした環境の整備 (吃音に注意を向けず、大らかな姿勢で子どもの成長を見守る)などで消失することは多いが、小学校2〜3年と経てきている吃音児がある程度の改善はあっても、担当教師の思いどおりに治っていく(一般に言うどもらずになめらかに話す)ケースはそれほど多くはない。
 ことばの教室の担当者が自主的に参加し、研修する研究会の報告を見ても、そのあたりの事情をうかがい知ることができる。ことばの教室の開設期から発展期1963〜65年(昭和38〜40)頃までは、研究会などで吃音児の指導・治療の事例報告が多く出され、指導方法がさかんに論議された。しかし、1971年(昭和46)頃からどうしても治らない事例が報告されるようになり、例えば7年間ことばの教室を担当したが、満足して治したといえる事例は極めて少ないとの報告もある。1976年(昭和51)の言語障害児研究大会では、1973 年(昭和48)頃から吃音に関する事例報告がいろいろな研究会でなされなくなったと報告された。そして、
◎どもりは治らないのではなく、治療する方が未熟なのだ。
◎治らない吃音はあり得ない。
◎実際治らないケースはあるのだから、そこからのアプローチが必要だ。
などさまざまな意見や報告が出され、担当者が吃音児の指導はいかにあるべきかを悩んでいる姿が浮きぼりにされた。

〔展望〕従来、吃音児の指導は「吃音を治療する」方向に目を向けられてきた。吃音そのものに焦点をあてない指導でも「治っていく」ことを期待していたのは言うまでもない。前述のことばの教室関係者の感じてるいきづまりは、この「吃音を治療する」ことに目が向きすぎていたためではないだろうか。
 確かに吃音児・者本人、吃音児・者を持つ両親が吃音を治したい、治りたいと考えるのは当然すぎるほど当然であろう。また、愛情ある教師ほどなんとか治せるものなら治してやりたいと考えるのも当然であろう。そうすることが子どもの幸せにつながると考えられていたのである。しかし、前述のことばの教室の担当者の報告にあるように、治ると言われていた吃音児の吃症がそれほど治っていかず、それにもまして問題となったのは、治し得なかったことばの教室の担当者が感じる自責の念であった。「他の先生に指導してもらっていたら治っていたかもしれないのに」と自分の勉強不足を責めジレンマに陥る担当者も少なくなかったのである。
 また指導される側の吃音児にとって、「治す」という方向での指導は、吃音問題解決を考えるにあたって最大のポイントとなる“吃の受容”を遅らせる要因になりうる危険性もある。
 どの吃音が治り、どの吃音が治らないかが予測できない現状では「治す」という方向でのみ考えるのでなく、その子どもが治らなかったときのことも配慮し、どもりながらもそれがハンディキャップとならないような指導を考えることが大きなポイントとなろう。
 以上のことから、吃音児の治療教育の中心は、吃音を持ったまま明るく元気な子どもを育てることにあるといえよう。

 診断起因説、親子吃音関係、吃音に対する態度テスト、吃音の治療、吃音の対症療法、民間矯正所 (伊藤伸二)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/15

言語障害事典(内須川洸編 岩崎学術社)

 昨日の続きを紹介します。今日は、「吃音に対する態度テスト」という項目です。
 ジョンソンの言語関係図は、画期的な提案で、吃音問題を考えるときの極めて大切な視点です。どもる症状にのみ焦点を当てていたそれまでの臨床に、二つの視点からも考えるという、一石を投じたことの意味は大きいです。X軸(どもる状態)、Y軸(聞き手の反応・環境)、Z軸(本人の反応・吃音の捉え方)、それぞれの軸の減少を言いながら、Y軸(聞き手の反応・環境)へは、「より良い聞き手になりましょう」と、どもる子どもの保護者に提案したものの、Z軸に関してはあまり具体的な方法が提示されませんでした。
 今、僕たちは、3つの軸のうち、Z軸への取り組みこそが吃音の臨床の中心に来るべきだと、論理療法、認知行動療法、ナラティヴ・アプローチを活用しています。

吃音に対する態度テスト(英)attitude test for stuttering

言語関係図〔意義〕ジョンソン(Johnson, W. 1961) は、どもりの問題を考えるにあたって、図に示すような視覚化できる3つの主要構成要素を考えた。その3つとは、⑴吃音者がとる吃行動の特徴(図のX)、(2)その吃音者がとる行動に対するまわりの人の評価や反応(図のY)、(3)自分の吃行動の特徴や、それに対するまわりの人の評価や反応に対する吃音者本人の反応(図のZ)である。この3つの要索の大きさ(重症さないし、強さの程度)をそれぞれの広がりの大きさで表し、3次元の立体を構成するのである。できあがった立体の大きさ・形が、どもりの問題の大きさ、質を表していると説明した。
 次に、ジョンソンは、吃音問題解決をはかるため、それぞれの軸の大きさの減少を以下のようにとらえた。
 X軸に関しては、吃行動そのものを変えることが無理であったとしても比較的楽にどもることができるのではないかと考えた。Y軸に関しては、もし吃音者が自分の吃行動をありのままに受けとれば、まわりの人も徐々に吃音者や吃行動に理解ある反応を示すようになるのではないかと考えた。また、Z軸に関しても、まわりの人の反応や自分のとる行動に対する自分自身の反応を変えることによってどもりの問題の解決の方向も見えてくると考えた。

〔概要〕ジョンソンは、以上の考え方に立って、Iowa式態度尺度を考案した。これは、45項目から成る質問紙で、「どもりの少年は クラスや学校の委員長に立候補すべきではない」とか「女の人が自分のボーイフレンドを友達に紹介するときに、その名前でどもったらみっともないと思うべきである」など、社会生活のさまざまな状況のなかで、吃音者自身、また吃音児を持つ親を初め、それぞれの吃音児・者にとって重要な聞き手が、どもっている状態、どもっている人、あるいは吃音一般に対してどのように感じ、どのような態度をとるかについて、被検者にチェックさせるものである。なお、ジョンソンらによると、治療開始後2〜3週間以上たった吃音者が示す態度は、ほんとうに吃音者自身の態度なのか、あるいは治療者の求める態度の反映なのか、カウンセリング等を通して、十分確かめることが必要であるという。
 一方、内須川洸(1974)は、吃音児・者の主な聞き手である両親、特に母親が子どもの言語に対してどのように考えているか、および実際の場面で子どもに対しどのような態度をとるかをみるために、「HU式I型、親子言語関係診断テスト」を考案した。
 このようなテストから得た資料をもとに、吃音の問題を聞き手とのかかわりから、また話す場面状況のなかに探り、指導の手がかりにすることは大切なことである。
 親子吃音関係、親子言語関係 (伊藤伸二)

〔文献〕ジョンソン,W. 田口恒夫訳 (1969)言語病理学診断法協同医書出版社。 ジョンソン,W. 田口恒夫訳(1974)教室の言語障害児 日本文化科学社。内須川洸(374) 親子・言語関係診断テストの標準化に関する基礎的研究⑹東京学芸大学附属特殊教育施設報告。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/14
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