伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年05月

吃音を認め、受け入れられた日

 昨日は、吃音相談会に参加された保護者の感想を紹介しました。今日も、同じように、相談会に参加されたお母さんの感想です。この方は、その後、吃音親子サマーキャンプに家族4人で参加されました。たった一度の出会いで、変わることもあると実感できた出会いでした。

  
吃音相談会で涙を流したこと

        田中多佳子(小学3年女子をもつ親)

 当日、自己紹介の時に、私は涙が溢れて止めることができませんでした。なぜ、涙が出たのか、あの日、私は帰り道、考えました。あれは、今まで娘の吃音について一人で悩んできた私が、初めて同じ悩みを持つ人の輪の中に加えていただき、心から相談できる喜びの涙でした。
 私は大阪吃音教室のこと、吃音相談会のことは、新聞の案内を見て初めて知り、親子相談会の参加を申し込みました。今まで、そんな会があることも知らずにいた私は、申し込んだ時から、この相談会にさえ相談に行けば娘の吃音は100%治るものだ、それも、そんなに時間がかからずに治ると期待に胸ふくらませて参加したのです。
 ところが、皆様の自己紹介を聞いているうちに、私の考えは甘くて、吃音は私の考えているように簡単には治らないんだと察しました。娘の8歳という年齢から考えて、この方たちのように成人しても、今から、40年、50年も悩み続けるのかと思うと、娘が不憫に思えて、また、涙が溢れてしまったのです。
 でも、この考えこそが、どもる皆様を差別しているような、誤った考え方でした。申し訳ありません。
 伊藤伸二さんの講演を聞く前の自己紹介の時の、私の正直な気持ちを、失礼な考え方と存じ上げながらもあえて書かせていただきました。お許し下さい。ただ、吃音相談会に望みをかけていた希望の風船がパチンとはじき消えたような心中もお察し下さい。
 しかし、これはあくまでも相談、講演前の気持ちであって、相談、講演によって、心は随分と明るくさせていただきました。
 グループ相談では、同じ年頃のお子様をお持ちのお母様方とご一緒させていただき、共感できる意見が多々ありました。
 私の市と違って、他市には、ことばの教室があり、ことばの教室の先生がこの相談会に参加したり、その教室に通っておられたり、また、学校の先生の紹介でこの相談会に来られた方のお話を聞いて、他市の先生方は積極的に働きかけておられるのだとうらやましくも感じました。
 ことばの教室の存在すら知らなかった私は、娘を治してやりたいと思いながら、今まで何の努力もしてきませんでした。せいぜい図書館で本を借りて読むくらいでした。そして、口では娘に「大きくなったら治るからね」などと、本当に子どもだましの気休めを言って育てていました。娘がどもり始めて約5年間ほど、私は一体何をやっていたのだろうと思います。
 本には、どもりを作るのは母親の責任のように書いてあり、それを信じ込んで私の育て方に非があったのではないかとずーっと考えていました。娘に「どもるのは、お母さんが悪いのよ。あなたのせいではない」と話していることを伊藤伸二さんにお話しました。
 「誰のせいでもなく、母親の責任でも決してない」と断言され、心が軽くなりました。娘を救う以前に、私の心が救われました。
 ですから、その後の講演で「どもりは治らないかもしれない」と伊藤さんがおっしゃったときにも、大きな失望は感じませんでした。それよりも、「もう、そんなことはどうでもいいんだ」という気持ちも芽生えてきていました。そして、彼女の良い面を伸ばしてやりたいと思います。娘の吃音よりも、私の心の方が病んでいたように思います。
 吃音相談会後、娘には今まで“どもり”ということばで話してやっていなかったので、「さっちゃんのアーアというのはどもりと言うのよ」と、どもりということばを正しく教えました。
 そして、今まで「治る、治る」と言い育てていた手前、娘の反応が怖かったのですが、「大人になっても治らない」と話しました。「なんで?」という答えが返ってくるのではと恐れ、また泣かれるのではとないかとも思っていましたのに、「別にいいやん、そんなこと。どうでもいいよ」という答えが返ってきました。あまりにあっさりした反応に、分かっているのかな?と思う気持ちと、既に友達に指摘されて嫌な思いもしているのに、分かっているはずだのにという思いです。
 彼女は小さいながらも、今は子どもなりに、自己受容ができているのではとも思いました。ただ、これから思春期を迎えていく間に、この気持ちが否定されないように、この大らかな性格で育ってほしく思います。
 私自身も、相談・講演会後、大きく成長できたように思えることがあります。過去に4回(保育園・幼稚園・小学1・2年)と、担任の先生に娘の吃音について私からお話しています。なぜか、先生の方から切り出されることは今回も含めて一度もありません。
 「どもるんですけど・・・」と私は話していました。この語尾の「ですけど・・・・」の部分に私の全ての気持ちが含まれているように今になって思います。
 自然と、このように話していたのですが、「ですけど」と問いかけることによって、先生から「大丈夫ですよ」と返答されることを期待していたのです。心の奥で娘のどもりを認めたくない気持ちが働き、どもりを否定してほしかったのです。そして、4回とも、何の知識もない先生の、「大丈夫ですよ。お友達もたくさんいるし、明るいし、まだ今はことばより気持ちが先走ってどもってしまうのですよ。また、そのうち治りますよ」のことばを信じたくて、とりあえず娘のどもりは治ると思い込むことにで安心しようとしていたのです。
 伊藤さんの講演の最後で、「何の根拠もないのに、大丈夫などということを信じていたのですか?」という内容の質問を伊藤さんからされて、「はい。娘は明るいから」などと答えたのですが、本当に愚かな答えでした。本当は、私自身がどもりを否定したくて、娘の吃音を全く受け入れていなかったのではないでしょうか。
 今年も家庭訪問がありました。先生に私の方からお話しましたが、「どもりなんです」と言えました。相談会に参加して、その時の話を娘にしたこと。娘はクラス替えで、前のクラスのお友達にも、また新しいクラスのお友達にも指摘されたり真似されたりすることがあるが、親も子も気にせずにいたいと思っていること。そのことを強いて先生に注意していただかなくてもよいと思っていること。ただ自然に受け入れたいと思っていることなどをお話しました。
 これは、私にとって大きな成長でした。「どもりです」と言えたことで初めて私の中で娘の吃音を受け入れられ始めたように思います。
 新クラスで2か月過ぎようとしていますが、娘は特に落ち込む日もなく、毎日楽しく通学しています。大阪吃音教室と相談会に出会えていなかったら今頃はまだまだこんな気持ちになれずに、今年もきっと「どもるんですけど・・・」と切り出していたに違いありません。
 過去5年間ほど、私は何をやっていたんだろうと思うと、もっと早く伊藤さんたちに出会いたかったという気持ちがありますが、娘のこれから先の人生を考えると、まだまだ早いこの時期に、今回の相談会に参加できて本当に嬉しく思います。
 私は全くの初めて、他のどんな教室にも参加したことがなかったので、全てにおいて勉強になりました。最初の自己紹介の時、体ごとこちらを向いて聞いて下さる皆さんに、凄いパワーを感じました。圧倒されたといってもよいくらいで、同時に心から相談できるという信頼感も生まれました。
 皆さんのお話の中で、電話に出られない、食べたいものを注文できないということに、本当に大変な思いをされているのだと知りました。
 講演はすごくひきつけられるお話ばかりでした。特に、「どもっていてもなれない職業はない」ということばに、本当に勇気づけられて印象深く心に残っています。どもりである学校の先生が新着任校での挨拶の時にどもりまくったというお話に、参加していた皆様と共に私も笑ってしまいました。これはその方の大変な思いを十分にご存知の皆さんが笑われたことも、頭では大変だろうなと考える程度の私が笑ったことも、同じ笑いだと思うのです。うまくことばで表現できないのですが、決してどもりを軽蔑した笑いではなく、温かい笑いなのです。でないと、遠慮して決して笑えないですよね。これが、大阪吃音教室の温かさだと思います。
 娘がどもっても「どもっちゃったあー」と、本人も親も周りも温かく笑いたいです。
 もう一歩確実に前に進みたくて、この夏の吃音親子サマーキャンプに家族全員で参加致します。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/31

直接出会えないことのもどかしさ−吃音相談会の感想に触れて

 大阪はじめ9都道府県に出されていた緊急事態宣言が延長されることになりました。僕たちの毎週金曜日のミーティングの場である大阪吃音教室も、ずっと休講のままです。出会い、語り合う場を持つことができないのは、本当に寂しいことです。
 ひとりで、自分の問題に向き合うことは大変なことです。同じような体験をした人の話を聞き、自分の体験を語り合う中で、たくさんのヒントを得ることができます。今は、そのような場を持つことがかなり難しいのですが、以前、開催していた吃音相談会に参加した保護者の感想をみつけました。吃音相談会では、子どもの吃音を心配して、本当に藁にもすがる思いで参加される保護者の方にたくさん出会ってきました。自分の体験を整理して伝え、どもりながらも、その子どもらしく生きることができると、自分の体験を語ってきました。語り部としての活動を、できるだけ今後も続けていきたいと思っています。
 今日紹介するような感想を読むとと、自分の体験が役に立ったようで、うれしくなります。2015年の冬の相談会に参加された方の感想です。


 
相変わらずの寒さで、春の訪れが待たれる昨今ですが、いかがお過ごしでしょうか?
 昨年12月5日の吃音相談会に参加させていただきました木村遼の母の木村春子です。相談会ではありがとうございました。
 現在中学1年の次男が3歳頃からどもることに気づき、市のことばの先生に相談などもしました。小学校に入っても授業参観の時の発表など、ことばの出だしが「繰り返し」の状態でどもっていましたが、一度ことばが出るとあとは普通に話していて調子の良い時や悪い時もありましたので、そのまま特に何をするでもなく過ごしていました。
 ところが中学1年の夏休み頃からどもりが急にひどくなり、今までの繰り返しの状態ではなく「・・・・・」とつまりが10秒位長い間が続くような状態が続き、しまいには話すのをやめてしまうようになってしまったのです。何か質問をしても最初は本人も話そうとするのですが、ことばが全く出ないため、話す事を諦めるようになりました。家でもこんな状態なのだから外で友達と話す時や部活で学年の違う(どもる事を知らない)先輩などと話す時は辛い状況にあるであろうと心配していました。
 そして夏休みが終わり、二学期に入ると朝起きてもとても暗い顔をして学校へ行く準備もなかなか進まず、暗い顔で家を出て行く日が続きました・・・。金曜日学校が終わり家へ帰ってきた時が一番ほっとして明るい表情になる時でした。学校がない土日が嬉しかったようです。
 毎日大丈夫かなと心配していたある日、朝起きてもまったく学校に行く支度をせず部屋でとても暗い顔をして下を向いて座っていました。「学校、遅刻するから早くしなさい」と言ってもなかなか動かず、「学校に行きたくないの?」と質問すると「学校でみんなの前で話す発表があるから…」とやはり学校での発表が嫌で学校に行きたくないという限界がきたようで普段は全く泣く事などないのに突然わっと泣いて行きたくないと言いました。たしかにまったく言葉が出ない状態だったのでよほど辛かったと思います。
 「じゃあ、今日は休もうか」と言った瞬間とても穏やかな表情に変わりました。学校の先生にも説明して休ませました。時には学校で具合が悪くなったと言って保健室で休んでいた事もあったようでした。一度休むと、それからまた何日かしてまた休みたいと言うようになりました。学校に行きたくないこともよくわかりましたが、このままではどうなってしまうんだろう、どうしたらよいのだろうと私は考える毎日でした。本人に「ことばが出るように練習や努力もしてみなよ!」などと言い、本人は泣きながら「そんなのやってるよ!」本人が一番どうしていいかわからない時にそんなひどいことばを言ってしまったことを後悔しました。
 毎日悩んでいても何も変わらないと思い、市の保健センターに電話をして相談したところ息子の年齢が大きいため、市の相談所では対応できないとの事でいくつかの吃音の相談に合う病院を勧められました。早速いくつかの病院に電話をしてみたところ、ある小児精神科の予約をとることができました。すぐにでもみてもらいたかったのですが、その診察の予約は1ヶ月半後位でした。そんなに先の診察になってしまうのか…と思いながらインターネットでも調べてみたところ、伊藤伸二さんのページと出会いました。
 そこで伊藤さんのプロフィールなどすべて読み、ホットラインまであることを知り、早速電話をしました。本当にご本人と電話で話せるとは思わなかったのでびっくりしました。息子の現状を相談すると、伊藤さんは息子の気持ちがよくわかると、そして私の悩みにアドバイスを下さいました。その後すぐに、『どもる君へ いま伝えたいこと』『親、教師、言語聴覚士が使える 吃音ワークブック』『両親指導の手引書41 吃音とともに豊かに生きる』の3冊を購入しました。
 そして本が届いてすぐにはじめは私が声に出して読んで聞かせました。ただただ黙ってずっと聞いてくれていました。読み終えると、「苦しんでいるのは遼(息子の名前)だけではないんだよ。伊藤さんのように吃音に苦しみ、でも今では考え方も変わりとても立派な人になっているんだよ」と伝えてから数日後、あれだけことばがでなかったはずなのにどもりもせずに話せるようになったのです。本当に心の中で驚きました。
 息子の気持ちの中で伊藤さんの本を読んで、また、自分だけではないんだと知って心が軽くなったのでしょうか? 信じられないほど普通に話せているのです。そんな時に相談していた学校の担任の先生からも「遼君、最近表情も明るくなり学校で普通に話せていますよ」と電話がありました。私も担任の先生に伊藤さんにめぐりあえたことを説明し、「遼の中で良い方向へ気持ちの変化があったのかもしれません」と伝えました。
 そしてすごいタイミングで先日の吃音相談会の案内の連絡がありました。私は伊藤さんとお電話で話し、本を読んでからご本人と直接会ってみたいと思っていましたが、お住まいは関西とのことだったですし、私は関東なので先生に実際に会えるこんなチャンスはないと思い、参加させていただきました。
 ああいう会に参加するのは初めてだったので緊張しましたが、今まで同じような事で苦しんでいる人とは出会った事がなく、私と同じように考えている他の親御さんたちのお話も聞けて、まったく同じことで悩み、同じように大切な自分の子どものことを思い悩んでいる人に直接会えたことで、悩んでいたのは自分だけではないんだと今まであまり相談もできずにいた重たい気持ちが、説明会が終わり帰る時には軽くなった感じでした。
 相談会の数日後、冬休みに入る前の中学校の先生との保護者面談がありました。
 そこで担任の先生から「遼君があれほど話せるようになり、変わったのには正直びっくりしました」と言われ、「お母さんが出会ったという人の事を教えて下さい」と言われましたので、私はもし他でも同じように悩み苦しんでる人がいたら学校の先生なら伝えてくれるかもしれないと思い、伊藤伸二さんの名前を伝えました。
 担任の先生は「私もあとで調べてみます」とおっしゃってました。
 息子がどもりがよくなったのは同じ経験をし、それとずっと向き合ってきた伊藤さんのことばが心に響いたんだと思います。吃音に苦しんでいない人からこうしてみたら? などと、息子からしたら僕の苦しみなんてわかるわけないのに!! と思っていたに違いありません。
 伊藤伸二さんに出会えたことにとても感謝しています。
 そして、今では普通に話している息子が学校も休まず前のように暗い顔をしていないのが本当に親として幸せです。今後もこのような会がありましたらぜひ参加させていただきたく思います。
           2016年1月26日
                                木村春子


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/30

吃音と共に豊かに生きる、ひとりの吃音人生の軌跡 (7)

 今日で、堤野さんの体験紹介が終わります。こうして、7作品を一気に読み、人が変わっていく様子を身近で共有することができたこと、ありがたかったです。堤野さんが変わっていったのには、「どもる力」があったのではないかと思います。
 「どもる力」と表現されたのは、吃音ショートコースに講師としてきて下さった、劇作家・演出家の鴻上尚史さんでした。
 どもる力とは、どもっても伝えたいことは伝えるという力であり、自分自身をしっかりみつめる力であり、他者とつながっていこうという力であり、借り物でない自分のことばをもつ力であり、他の障害や生きづらさを抱える人の気持ちを思う力だと思います。僕たち大阪吃音教室の仲間たちは、自分が持っている「どもる力」を信じて生きています。
 堤野さんは現在、パソコンの技術を活かして起業し、このコロナの影響を受けている、地域の商店街の人たちに、自分の持っている力で少しでも貢献しようと、忙しい毎日を送っています。孤独だった堤野さんが、どもる仲間だけでなく、地域に根ざして多くの仲間の信頼を得て、日々、充実した日々を送っていることを思うと、これまでの7編の自分史の彼とは別人のような変わりように、大きな安堵を覚えます。スピーチセラピストと一緒に「吃音をどうしても治したい」と、大阪吃音教室に参加した時の堤野さんの印象を強く覚えているだけに、感慨深いものがあります。
 世間は、相変わらず「吃音を治す・改善する」が大多数派です。統計をとっていないので、「エビデンス・ベースド」としては、僕たちの取り組みの成果は証明できませんが、「ナラティヴ・ベースド」としては、僕たちの取り組みの成果は証明できると思います。僕たちの仲間が、自分の吃音の苦しみの歴史を書き、そこから変わっていく歴史を綴る、大阪吃音教室の「ことば文学賞」の取り組みは、今後も続いていきます。コロナ禍の中で見つけた、堤野瑛一さんの文章は今回で最終です。
 
  
自意識を超えて
                  堤野瑛一(団体職員)  33歳

 十代の終わりから二十代の始めにかけて、私は吃音の治療に明け暮れた。どもりが治らなければ生きていけないと思っていたのである。いや、正直に言い直せば、本当は生きていけるにもかかわらず、絶対に人前でどもりたくない、どもる人間として生きていきたくないと思っていたのである。
 吃音に悩んで大学を休学していた十八歳のとき、スピーチセラピストの勧めで、どもる人のセルフヘルプグループである大阪吃音教室を訪ねたが、一度参加しただけで、それ以後は通わなかった。そこには、どもりながらも、その人なりに社会生活を充実させている人がたくさんいたのだが、そのことは、どもりのせいで学校や社会に出て行けないという私の自己欺瞞を露呈し、私をそこから引きずり出そうとするからである。
 その後、私は結局不本意ながら大学を中退し、失意の中で、ほとんど話さなくていいようなアルバイトを転々としながら、吃音が治ることだけを夢に見て、治療生活を続けた。しかし私は、吃音は一人部屋に籠って、あるいは医療室の中で治療や訓練を重ねたところで改善するようなものではないことを、本当は薄々わかっていた。それでも治療を続けたのは、社会に出て行くことを出来るだけ先延ばしにしたかったからであり、そのためには、私はなにもしないで怠けているわけではない、一生懸命治療に励んでいるではないか、という口実が必要だったからである。
 二十代も半ばに差し掛かった頃、私は、もう二度と足を踏み入れまいと決めていた大阪吃音教室に、再び足を運んだ。年齢的にも、いつまでも社会に出て行くことに躊躇しているわけにはいかなくなり、もう吃音が改善することは潔く諦めて、どもる人間として生きていく決心をしたかったのだが、そのために今度は、どもりながらもその人なりに生きていけているたくさんの人を、目の当たりにしたかったのである。そして私は多くの吃音仲間から、どもりながらでも社会へと出て行く勇気を得た。
 それから年月を経て、私はとある団体の職員として働き始めたのだが、その中で、どもることで困ることも多々ありながらも、仕事仲間にはどもることを開示し、なんとかコミュニケーションを図り、私なりにこだわりをもって仕事を丁寧にこなすうちに、私の仕事を認めてくれ、私を必要としてくれる人も現れ始めた。こんな私でも役に立てるのかと思い、嬉しかった。
 そんなある日、私の勤務先で、職業訓練の一環としてのパソコン講習を実施することになり、その仕事をするメンバーに私も加えられた。私はパソコンは不得意ではなかったものの、人に教えた経験などなく、また大勢の人前で話すことにも不安があったので、差し当たり講師としてではなく、アシスタントとして教室の後ろに常駐することになった。
 その間、複数の人が入れ替わりで講師を務め、授業が展開されたのだが、教え方の上手な人もいる一方で、受講生からわかりにくいと言われる講師もおり、クラスからの不満の声は日に日に大きくなっていった。その講師の教え方はたしかにまずく、就職難の中、なんとか職に就くためにパソコンのスキルを身につけようと切実な思いで訓練に来ている受講生としては、不満を書いたくなるのも無理はないと思い、受講生を気の毒に思った。私は、これなら自分が教えた方がましなのではないかと思い立ち、思い切って同僚にその旨を伝え、その講師に代わって私が講師を務めることとなった。
 あれほど人前でどもることを恐れ、話す仕事から逃げ続けていた私が、大勢の人前に立って講師をすることになるとは夢にも思わず、自分で言い出しておきながら大きな不安が押し寄せてきたのだが、他方、これは人前で話すことに対する恐怖を克服するチャンスかもしれないとも思った。
 自分が講師をする日が来るまで、私は幾人かの講師を観察し、よいところは見習い、ああいう教え方ではわかりにくいと感じたところは、では一体どうすればいいだろうかと考え続けた。話し方、間の取り方、授業を進めるテンポ、指示棒の指し方、プロジェクターで映し出される手本用のパソコン上での操作の仕方など、あれこれと吟味し、テキストも熱心に読み込み、想定される受講生からの質問にもきちんと答えられるように入念に準備をした。
 そうこうしているうちに、いつの間にか、どもることへの不安などほとんどなくなっていった。私の関心はもっぱら、パソコンに対して苦手意識をもっている受講生にいかにわかりやすく教えるかであり、パソコンを使えるようになってもらい、職の選択肢を少しでも増やして、無事に就職出来ることに協力することだった。
 いよいよ私が講師を務める日が訪れ、授業の始めに出席を取るときには、最初の人の名前で派手にどもってしまったが、ほかの講師がやっていたのとは違って、受講生一人一人の顔を確認しながら、丁寧に出席を取っていった。平日毎日六時間の授業であり、決して楽ではなかったが、入念に準備していた甲斐あって、授業の中でしどろもどろになってしまうことはなかった。
 思えば、どもりながら生きていくのは嫌だと頑なに思い、吃音を治そうとばかり努めていた頃、私は恥ずかしいほどに自分のことしか考えていなかった。自意識過剰である。どもる姿を晒したくなく、どもれば相手にどう思われるかとばかり気に掛け、いかにどもらずにやり過ごすか、ごまかして切り抜けるかばかりに関心がいっていた。目の前で言われたりおこなわれている事柄や、相手のために自分に何が出来るかなどということには、ほとんど関心がいかなかった。
 唐突にあまりひどくどもれば、事情を知らない相手なら驚くのが普通であるし、そういう状況で、多かれ少なかれ恥ずかしく思い、出来るのであれば極力どもりたくはないと考えるのは自然なことである。人間であれば誰しもそういった自意識から完全に自由になることは出来ない。しかし、自意識に飲み込まれてしまうのでなく、自意識の向こう側に身を乗り出してみることは出来るのである。
 授業の中で私は、時折派手にどもったが、受講生と真摯に向き合っていれば、私がどもることをとやかく言う者など誰もいなかったし、なかなか言葉が出て来なくてどうしようもないときには、事情をユーモア混じりに説明すれば、愛想よく笑って受け流してくれ、友好的な態度を示してくれる人さえいた。受講生にとっては、私がどもるかどうかなどどうでもよいことであり、要はわかりやすく教えてくれさえすればよいのである。
 毎日授業の最後には、受講生にコメントカードを書いて提出してもらうことになっていたのだが、授業がわかりやすくて助かっているといった感想を書いてくれる人もおり、概ね反応はよかった。べつに自分が好評を得るために授業をしているわけではないので、必ずしもこういった感想が伝わって来なくてもいいわけなのだが、それでも正直なところ嬉しかったし、なにより昔のことを思えば、私が自意識を越えて他人の役に立てたことが感慨深かった。
 さて、あれから私の仕事は打って変わり、現在、客からの電話がかかることの多い職場に移ったのだが、私は電話が大の苦手であり、極力受話器を取ることを避けてしまっている。ほかのスタッフもいる中で、わざわざどもる私が電話に出なくてもいいではないかと思ってしまうのであるが、後ろめたい気持ちもなくはない。さあどうしたものか。(2011年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/26

吃音と共に豊かに生きる、ひとりの吃音人生の軌跡 (6)

 今日で、堤野さんの体験を紹介するのは6編目です。こうして連続して読むと、年に一度、「ことば文学賞」の応募作品として読ませてもらうのとは違い、圧倒的な迫力で、読む僕に迫ってきます。その源を、彼は、劣等感や孤独にあったと言います。
 僕も、数々の劣等感を持っていました。また、どもりたくないために友だちの輪の中に出ていけず、僕個人の感覚なのですが、小学校・中学校・高校と、「友だちが一人もいない」状態でした。運動会も遠足も大嫌いでした。一緒に弁当を食べる友だちがいないからです。吃音で一番苦しかった、辛かった思い出は何かと問われると、僕はいつも「高校2年生の時の修学旅行」を挙げます。3泊4日くらいでしたか、いつもひとりでいる修学旅行ほど辛い思い出はありません。「ひとりでも平気」ではなかったので、常に、誰かと話したい、遊びたい、友だちになりたいと切望していました。だから、それを妨害する吃音を治したかったのです。
 「人を求める力」が人一倍強かったから、日本で初めてのどもる人のセルフヘルプグループの全国組織をつくりましたし、世界大会を初めて開催し、国際吃音連盟をつくりました。孤独、孤立が、その後に続く僕の活動の原動力になったのだと思います。
 堤野さんの体験には、僕と重なる部分が多く、共感を持って、読んでいます。

 
【2009年 ことば文学賞 最優秀作】
     劣等感
                  堤野瑛一 団体職員、30歳

 僕は、ずっと孤独だった。
 幼少のころから、他者と関係をもつことが苦手であり、億劫だった。友達と外で遊ぶよりも、家の中でひとり、電車の模型や、おもちゃのピアノで遊んだり、絵を描いていることが好きだった。そこにはいつも、自分だけの自由な世界が広がっていた。誰にも邪魔をされたくなかった。
 当時は6男の子といえば、おもてで駆けまわったり、公園で野球をしたりするのが普通だったが、僕はそういうことには、まったく楽しさを見出せなかった。
 小学生になっても、中学生になっても、一貫して極度に運動音痴だった僕は、体育の授業が大変な苦痛だった。普通の男の子なら、誰にでも楽々とこなせるようなことが、僕にはうまくできずに、いつも恥をかかねばならなかったし、ドッヂボールなどは、僕にとってはただの拷問だった。父親はいつも、そういう僕を、男のくせに情けないやつだ、と嘲笑していた。
 僕は、緊張感ですぐにお腹をくだしてしまう体質だったので、授業中には毎時間、脂汗を流しながら、便意と戦っていた。
 遠足や修学旅行といえば、みんなにとっては喜ぶべき行事だが、トイレにいつでも行ける自由のきかない遠足とは、僕にとって恐怖でしかなかったし、他人と一緒だとほとんど眠れない僕には、修学旅行とは気の遠くなるような苦行だった。
 遠足や運動会の前日、みんながわくわくと明日を待ち望んでいるのをひしひしと感じながら、僕はひとり、明日が雨になることを、切実に願った。そういうときにはいつも、泣きたくなるような孤独を感じた。僕が切実に望むようなことは、いつだって、ほかの誰も望んでいないことなのだから。
 みんなが好きなことが嫌いであるだけではない。僕は音楽といえばクラシック音楽が好きだったが、音楽の授業でのクラシック音楽鑑賞の時間とは、みんなが退屈するもの、嫌な顔をすべきものであり、自分がクラシック音楽を好きであることは、誰にも言えなかった。
 とにかく僕は、趣味趣向や、興味の対象、物事の感じ方が、みんなとは極端に違っていて、書き出せば切りがないが、好きなことを堂々と好きだと言えない、嫌なことを嫌だと言えない窮屈さに、日々悶えていた。
 小学四年生のころには、僕にチックの症状が出はじめた。そのことで、級友にからかわれたり、担任の教師には煙たい顔をされたりもし、自分はみんなと違っている、自分は劣等品種であるという意識は、それまで以上に顕著なものとなった。
 家にいれば、早くチックを治せと父親には罵倒され、ときには殴られ、蹴られ、母親には、いつになったら治るのだと毎日責められ続けた。かと思えば、弟と母親が一緒になって僕のチックの真似をし、二人して大笑いすることもあった。そういう生活が、延々と続いた。
 学校にも家庭にも、心安らぐ場所はひとつもない。いつどこにいても、他者とは自分を傷つけるもの、脅やかすもの、はずかしめるものだった。
 集団の中で生きていくとは、なんて苦しいことなんだろう!? 人生とは、なんて過酷なんだろう!? こんなにも生きる適性を欠いた自分が、この先、生きていけるのだろうか?ああ、誰とも関わらずに、ひとりで生きられるような世界があったなら! 僕は、そんなことばかりを考えていた。将来大人になり、自立して一端の社会人になっている自分の姿など、まったく想像出来なかった。
 それでも、自分の劣等性を可能なかぎりごまかし、背伸びをして「普通」を演じようと努め、ほとんどギリギリの状態で、なんとか学生生活をやり過ごしていたのだが、高校生のとき、そんな僕にとどめを刺すようなことが起こった。僕は、どもりになってしまったのだ。その挙句、せっかく必死に努力をして入学した大学さえも、どもりによる不自由、劣等感にくじかれてしまい、退学してしまった。
 僕は、自分の境遇、人生を、心底憎んだ。なんで俺ばかりがこんな目に!? なんで俺ばかりがこんな目に!? もはやそんな言葉しか浮かばず、それまでずっとこらえてきて溜まりに溜まっていた涙が、一気に流れ出た。僕は、本当に孤独だった。

 それ以後数年間は、無気力で、荒れた生活が続いた。精神的にかなりすさんでいて、犯罪に近いことにもを手を出し、絶望的な気持ちで日々を過ごしていたが、他方、完全にぐれたり、死ぬ勇気もなかった僕は、なんとか生きる術を身につけなければならないと、常に頭の片隅では考えていた。
 僕が考えていたこととは、どもりを治すことだった。どもりさえ治ってくれれば、もうほかにはなにも望まない。どもりに比べれば、以前より抱えていたほかの劣等性など大したことではない。どもりが治るためならば、どんな苦しいことだってする。どもりさえ治れば、あとはどうだってなる―そう考えていた僕は、毎日毎日発声練習を続け、どもりを治してくれるかもしれないと思えば、どんな治療機関にでも駆け込んだ。
 しかし、なにをやっても、どもりが治るような兆しは一向にみられず、何度も何度も期待をくじかれ、疲れ果て、僕はもうボロボロになってしまった。
 とことんまで落ち込み、消耗しつくしたとき、自分は一体なんのために一生懸命になっているんだろうという疑問が、頭をかすめるようになった。僕は、どもりが治ることだけを夢に見て、それに莫大なエネルギーを注いできたが、仮にどもりが治ってみたところで、それはなんてことない「普通」である。僕のこれまでの人生の苦しみは、「普通」でないことへの苦しみだった。なぜ「普通」でないことに、そこまで劣等意識をもつ必要があろうか? なぜいつも自分だけが、たかだか「普通」のために身を削って努力せねばならないのか? ああ、なんて馬鹿らしいのだろう!? どもりは治らないとわかった今、もう「普通」ではない自分を認め、「普通」をあきらめるほんの少しの勇気さえあれば、僕は生きていけるのではないか!? 僕には、ありのままの自分でいる権利があるはずではないか!?

 僕は、どもりを治す努力を一切やめ、どもる人間として生きていく決心をした。その決心の表れとしての大きな第一歩が、大阪吃音教室への継続的な参加だった。そこで僕は、以前はまともに向き合うことが嫌で嫌で仕方がなかった自分のどもりと正面から向き合い、自分がどもる人間であることを素直に認めた。それだけではなく、チック症や、そのほか以前より抱えていた自分の劣等性、劣等感すべてと、僕は正直な気持ちで向き合うようになった。
 どもりを認めたといっても、その瞬間から劣等感が消えうせたわけではない。人前でどもってどもって話すことは、たしかに少々こたえるものがあったが、少なくとも、背伸びをしたり、借り物の衣装を無理に着ているのではない〈自分自身〉を、そこに感じることができた。チックの症状が人目に触れることに、なんの抵抗も恥ずかしさもなくなったわけではないが、しかし、それが自分なのだと認め、開示をすることで、僕はほかの誰でもない自分自身を生きているという感じがした。
 僕は自分の人生においてようやく、優劣や価値にとらわれない、ただあるがままの〈自分自身〉になることができた。
 大阪吃音教室でのどもる仲間との出会いは、戦友を得たようで頼もしく、嬉しかった。週に一度の例会には、毎週積極的に参加をした。
 しかし、そういう仲間の中にいても、僕は安易にみんなと同化してしまうのではなく、あくまで自分固有の感じ方、考え方、自分の体験を通じての直観を大切にし、自分の言葉で発言をしていった。日常のあらゆる場でも、僕はあくまで、僕個人の言葉を語り、相手の話にも真剣に耳を傾け、良くも悪くも、他者と正面からぶつかるようになった。
 その結果、他者と大きな対立をし、相手も自分も大きく傷つけることもあったが、他方で、(僕の勘違いかもしれないが)僕をとても信頼してくれる人も、ポツポツと現れだした。劣等感に苛まれつづけた昔の僕には考えられないことだが、あらゆる他者との正面きってのかかわりの中で、自分の人生の主体はあくまで自分であるという感覚や、自分は一個人として共同体の中で生きているという感覚がもてるようになった。
 僕は今でも、劣等感のすべてから解放されたわけではないし、僕は今でも孤独である。しかし、孤立はしていない。この世界には自分のような人間でも生きられる空間がある、僕は生きていける、という思いがある。
 劣等性や劣等感は、人生の過酷さだけではなく、その過酷さを生き抜いてきたからこそ味わえる喜びを教えてくれた。それに、こういう境遇を生きてこなければ、たぶん味わえなかったような人の温かさを、ほんのときどき感じさせてくれる。
 どのように生きたって、いずれこの人生は終わる。それなら、僕はあくまで自分自身を生き、自分自身をもって他者とかかわり、そして、自分自身を死にたい。

受賞者コメント 
 劣等感や孤独という観点から、自分の半生を綴ってみました。僕は、本当に孤独でしたが、孤独を生きてこなければ、きっとわからなかった人間観や人生観、見えなかった世界があると思っています。
 人間は本来、誰もがある意味孤独であると思いますが、安易で軽率な共感や仲間意識が、本来各人がもっているはずの豊かな固有性を塗りつぶしているように思います。
 孤独は、辛く寂しいことでもありますが、だけど一方で、とても豊かな感受性というか、世界をよく観る目を養ってくれるように思います。
 それに、吃音ショートコースという、こんなにも温かい場で、最優秀賞までいただけるのですから、苦しかったけれど、孤独を一生懸命に生きてきてよかった、と思います。
本当に、ありがとうございました。

選者コメント
 読み始めから、ぐんぐん引き込まれ、一気に読み進んでしまう。その文章力に圧倒される。「劣等感」というひとつのテーマを深く掘り下げ、自分をみつめていく。同じような体験をしてきた人なら、作者の心の軌跡を一緒に辿りながら読み進めることができる。淡々と、飾り気のない文章は、余分なものがなく、表現は実に細やかである。自分の内面を手探りしながら、自分のことばを探るときの、ことばのもつ力強さを感じさせてくれる。
 理想とする自分と、現実の自分とのあまりの違いに立ち尽くし、自分を変えたいと莫大なエネルギーを使い、疲れ果て、ボロボロになる。もがき尽くした絶望があったからこそ、作者は、〈あるがままの自分自身を生きる〉ことを選択することができたのだろう。孤独だが、孤立はしていないということばに、ほっとさせられる。(2009年)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/25

吃音と共に豊かに生きる、ひとりの吃音人生の軌跡 (5)

 「つらかったし、苦しかったけれど、吃音に悩んでいた頃は、濃い時間を過ごしていた」と、吃音親子サマーキャンプの卒業の時に語った女子高校生がいました。毎週金曜日の夜、大阪吃音教室に参加し続けることは、職場の調整に大変な苦労があったと思いますが、参加し続けた看護師も、吃音を乗り越えてから、同じように振り返っていました。それは、吃音と向き合い、吃音とのつきあい方を自分なりに確立したから言えることでしょう。
 僕は吃音に深く悩んでいた思春期、明日がまったく見えない中で、もがき苦しんでいました。今回、堤野さんは大好きだったピアノとそのピアノを学ぶために入った大学を辞めるいきさつを、大好きだったピアノの先生との関わりで綴っていきます。彼のピアノと比較になりませんが、僕も高校に入学して大好きな卓球部に入ったものの、新入生歓迎の合宿を前に卓球部を辞めました。合宿の時の自己紹介が怖かった、というたったそれだけの理由からです。大好きな卓球からも逃げたことで、僕はさらに深く悩み、友だちもなく、勉強も全くしない、無気力で、不本意な高校生活を送りました。ただただ吃音を恨み、吃音が治ることだけを夢見た高校生活の3年間でした。その経験があるだけに、堤野さんの今回の文章は、僕の胸に突き刺さってきます。
 
 
2008年度 ことば文学賞 優秀賞

   伝えられなかったこと
                    堤野瑛一 会社員、29歳

 大好きなピアノを勉強するために、僕は大学へ進学した。

 高校二年で急に思い立って、ピアノ科受験の準備を始めるなんて遅すぎると、周りの人から言われもしたが、意志が強く、負けず嫌いだった僕は、音楽への情熱だけを糧に、大学でピアノを学べることを夢見て、練習、勉強にあけくれた。
 そうした思いと努力の末に、入学した大学だった。
 しかし、入学を境に、僕のどもりの苦悩は始まった。
 ほんの二年前に発症し、そのうち自然に治るだろうと軽くみていたどもりは、一向に治ってはおらず、僕は入学直後のある授業で、初めて人前で激しくどもり、深く傷ついた。
 このままでは駄目だと考えた僕は、一年間大学を休学し、必死の思いで、どもりの治療を試みたが、結局まったく治らないままに、休学期間を終え、一年越しに、改めて大学生活をスタートさせた。
 とはいえ、僕は怠惰だった。きちんと、どもる自分自身と向き合うことはせずに、この期におよんで、そのうちどもりが自然に治らないかと、根拠のない期待をいだき、人前でどもることを、極端に恐れた。そうしながら、みんなの前で発言を求められるような授業は避け、だましだまし、大学生活を送り始めた。

 しかし、レッスンだけは、毎週欠かさず通った。
 大学では週に一度、ピアノ実技の個人レッスンがある。ピアノが二台置いてあるだけのレッスン室で、マンツーマンで行われる。僕のレッスンの担当は、東欧人の先生だった。先生は、一応日本語は謡せたものの、あまり上手ではなく、つたない日本語だったので、会話のペースはいつもゆっくりだった。そのせいか、僕は先生に対してだけは、どもりの不安は比較的小さかった。それに、先生だって日本語の流暢でない外国人なのだから、という気持ちもあり、先生の前では割合どもることもできた。
 レッスンを重ねるごとに、僕はだんだん、先生に親しみを感じ、先生を好きになっていった。先生は、一見怖そうな50代の男だったが、詰しだすととても気さくで、面白おかしくよくしゃべり、よく笑った。レッスンとは関係のない、ごくプライベートなことまで、なんでも開けっぴろげに、よく話してくれた。
 いつも煙草をくゆらせ、おおよそ、日本人の先生にはあり得ないような、自由奔放な振るまいだったが、それでいて、指導は丁寧で、いつでも鮮やかに、ピアノを弾いてみせてくれた。僕は先生に憧れていた。ずっと昔から親子関係の良くなかった僕は、本来父親に対して向けられるような愛着を、先生に対して感じていた。
 この先生から、たくさんのことを学びたいと思い、毎週、レッスンに向かうのが、楽しみだった。

 しかし一方で、僕のどもりに対する苦悩は、日に日に膨れあがっていった。
 相変わらず、いくつかの授業は避け続けており、どもりになにか変化がある気配もない。
いつまでも、ごまかしがきくはずもなく、どんどん焦りが増した。
 僕は入学当初、いっさいの努力を惜しまない意気込みでいっぱいだった。しかし、こんな状態が続けば、いくら大学に来たって、単位を取れずに卒業できない。その先、社会に出ることだってままならない。このままでは、いくら努力をしたって、なにも実らず、なにも報われない。ピアノなんか一生懸命練習したって、なにもならない。そんな気持ちが、僕の心を徐々に支配していき、練習も、だんだんと上の空になっていった。

 そんなある日のレッスンでのこと。先生は唐突に、
 「あなた、いつも悲しい顔をしてる。なにか悲しいことでもある?」と僕にきいた。
 僕はいっそ、この際に、誰にも話せないでいたどもりの苦悩を、すべて先生に話してみようかと一瞬思った。しかし結局思いとどまり、ただ遠慮がちに、「僕は吃音があるので…」とだけ答え、それ以上は話さなかった。
 僕は、どもる症状自体もさることながら、それにともなう苦悩の内容と、そういう自分の弱さを、人に知られることが怖かったのだ。
 先生は、意外にも“吃音”という言葉を理解し、「ああ、どもりね。ボクもどもりだよ」と言った。言われてみれば、たしかに先生も、若干どもることがあった。先生は、僕を励ますふうに話を続けた。
 「そんなこと以外にも、ボクには怖いことがたくさんある。会議でも、外国人は自分だけだし、日本語は難しいし、よその子どもに“外人だー”なんて言われることもあるし…でも、どもることくらい、心配いらない、大丈夫」
 僕は静かにうなずき、とりあえず納得したようなふりをしたが、「いや、全然大丈夫じゃよい、そんな軽い悩みではない」という思いが込みあげた。
 しかし、どもることで学校生活が恐ろしくて仕方がないこととか、具体的にどんな場面に怯えているのかとか、必要な授業を避けていること、途方のない不安のためにピアノへの意欲が低下してきていることは、怖くて話せなかったし、「僕は吃音があるので…」だけでは、そこまで伝わるはずもない。
 悩みの本質をすべて話せなかったことに、あと味の悪い気持ちが残った。

 さらに日がたち、悩みの真っ只中で、ピアノの練習もろくに手がつかなくなったころ、僕はレッスンで、先生を苛立たせることが多くなっていった。
 「何でちゃんと練習して来ないの?」
 僕は、「すみません…」としか言えなかった。やはり先生の中では、僕がどもりで悩んでいることと、練習がおろそかになっていることとは、結びついていないようだった。あからさまに先生の機嫌を損ねてしまい、レッスンが始まって数分しかたたないうちに、「今日はもういいよ」と帰されたこともあった。
 先生は、どもる僕に対しては優しかった。「息を吸って、ゆっくり吐きながら話してごらん」と促してくれたり、僕の肩や背中を優しく叩き「大丈夫」と微笑んでくれた。しかし、きちんとピアノの練習をしてこない僕に対しては、厳しかった。それは当然で、ここは音楽を勉強しにくるところなのだ。

 僕の苦悩は、ますます膨れあがった。
 僕は本当にピアノが大好きで、そのためなら努力は惜しまないという気持ちは、決して嘘ではない。しかし、頑張りたいのに頑張れない。決して、怠けたくて怠けているのではなく、本当はいくらでも努力がしたい。先生から、たくさんのことを教わりたい。それなのに、練習が手につかない。先生に対して申し訳のない気持ちと、本音を全部話せない自分への苛立ち、どもりでさえなければという悔しさ…。
 僕はとうとう耐えられなくなり、不本意ながらも、大学を辞める決心をした。

 またのレッスンの日、僕は、大学を辞めることを先生に伝えるために、いつもの決まった時間に、レッスン室へと向かった。レッスン室のドアを開けると、先生は、いつもと同じように僕を待っていて、いつもと同じようにこれからレッスンを始めるつもりでいて…そんな、いつもとなんら変わらない様子が、切なかった。
 僕は、先生とあいさつを交わすなり、いつもの調子で話しだそうとする先生を遮る形で、唐突に、今日で大学を辞めることを告げた。
 先生は、驚いた様子で、「なんで?」ときいてくれたが、僕は、父親の仕事が大変になってきたので…と、嘘をついた。
 「そう、残念…」と、先生は言ってくれた。
 それからしばらくの時間、先生はなにか話をしてくれ、僕がレッスン室を出るときには、いつもとちがい、一緒に外まで出てきてくれた。そこで表を見ながら、引き続き少し立ち話をしてくれた。そういう間じゅう、僕はなるべく平然を装っていたが、実際には、辛さと、申し訳なさと、後ろめたさと、悔しさと、先生との別れの寂しさでいっぱいで、先生の話はほとんど頭に入ってこず、先生の顔も、まともに見ることができなかった。
 そして最後に先生は、「じゃあ、元気でね」と、いつもの微笑をもって、バイバイと手を振ってくれた。

 先生、ちがうのです! 本当は辞めたくない、頑張りたい、先生からたくさん学びたいい…そんな僕の叫びは、ただ心のなかで虚しく響くだけで、先生に届くはずもない。
 結局、そんな思いは伝えられないままに、僕はレッスン室をあとにした。以前のあの努力と、入試合格の喜びと、希望に満ちた志は、一体なんだったのだろうかと途方に暮れ、なんともいえない虚脱、無力感に苛まれ、未練をずるずると引きずりながら、大学を去った。
 あれから、ちょうど十年になるが、今、こうして当時をふり返りながら思うのは、人は、驚くほどに変わるということだ。
 当時の僕は、どもりをかたくなに拒絶し、どもりでは生きていけないと固く決め込み、人前でどもることは、人生の終わりかのように恐ろしいことだった。
 しかし、あれから少しずつ、どもってでもできた経験、どもっても他人は自分を否定しなかった経験を重ねていくなかで、徐々に、“どもりをもった自分”という自己像が、確立されてきた。“どもる人間として”生きていこうと、徐々に歩きはじめた。
 なにより、さんざん治療を試みた結果、どもりは治らないと“あきらめた”ことが、僕を新たな歩みへと向かわせた。
 今では僕は、どもるからといって、本当にしたいこと、せねばならないことを、あきらめることはない。
 時間をさかのぼって、“もしも”のことを考えても仕方がないが、今の僕ならば、大学を辞めはしないだろう。多少、不自由で不便で、少々辛いこともあったかも知れないが、それでも、どもるのが自分だと認めたうえで、その都度、どんな手段をつかってでも、どうにかして、大学に通うことはできたはずだ。
 大学を辞めてしばらくは、ピアノもろくに弾かず、無気力な生活を送ったが、年月を経て、徐々に生きる気力がよみがえると同時に、また、ピアノを弾きたい気持ちがあふれてきた。どうも僕は、生きる気力と、ピアノへの意欲が、連動しているようなのだ。
 しかしもう今となっては、先生の教えを受けることはできない。先生は、僕が大学を辞めた数年後に、亡くなってしまったのだ。
 今のような迷いのない気持ちで、もしも先生のレッスンを受けることができたなら、先生は一体、どんなことを教えてくれただろうか。そんなふうに、ときどき先生のことを思い出しながら、僕はこれからも、ピアノを続けていくだろう。

選者コメント
 作者にとってピアノは大きな存在だった。今の作者から想像すると、きっと真面目で本当に一生懸命練習に施んでいたのだろう。しかし、どもりという大きな象は、それを認め、どもる人間として生きていこうと決断しない限り、人生の岐路に立ちふさがる。大好きなピアノを、必死にがんばって入学した大学を、大好きだったピアノのレッスンを辞めざるを得なかった作者の悔しさを思うと、読んでいて胸が苦しくなる。
 10年という時間が経過し、作者は今少しずつ変化していっている。どもる自分としての歩みを確かに刻み続けている。あの、ピアノの先生に伝えられなかったことを今、他の誰でもない自分と対話しながら、歩き続ける作者に、静かに声援を送り続けたい。

受賞者コメント
 もう何年も続けて、「ことば文学賞」には応募していますが、今のところ毎回、べつの側面をクローズアップしつつも、これまでの僕の人生の同じ時期にスポットを当てて書いてきました。その同じ時期から、僕はまだまだ、書きたい材料を引っ張り出すことができると思います。それほどに、その時期というのは、僕のこれまでの人生の中で、もっとも重たく、悩みに悩んだ時期でした。
 毎回、応募作を書き上げて思うことは、あの頃は本当に、身動きできないほど悩み、生活の具体的な進展は、なにひとつ止まってしまっていましたが、今にして思えば、そうやって、とことんまで悩み抜いたことが、僕の内面を激動させ、たしかに現在の僕を形づくっており、絶対に無駄ではなかった、ということです。
 それがなければ、僕はもっと貧相だっただろうし、それに、今でも苦労は尽きませんが、あの頃にくらべれば! と、いつでも思えます。あの頃の体験は、今の僕にとって、とても大切なものです。
 その大切なものを文章に書き出して、優秀賞に選んでいただけたことは、とてもうれしいです。ありがとうございました。(2008年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/24

吃音と共に豊かに生きる、ひとりの吃音人生の軌跡 (4)

 吃音を治したいと強く願う人のエネルギーは大きいです。僕も、今ならとてもできないだろうと思うことを、吃音矯正所でしてきました。上野の西郷さんの銅像前での演説、100人の人に声をかける街頭訓練、山手線の電車の中での演説などです。吃音が治らないと、僕の人生は始まらないと思い詰めていたから、できたことでした。
 堤野さんも、考えられるたくさんのことをしていました。そして、最後に、共に生きる道を選びました。大学生のときに堤野さんが言語聴覚士と一緒に参加した時のことを僕はよく覚えています。一度参加するだけで出会えなかった人はかなりいます。しかし、時を経て再び出会う人もいます。その人にとって、出会うタイミングというものがあるのでしょう。だから、毎週金曜日に、大阪吃音教室はどもる人に門を開き続けているのです。堤野さんと再び出会えて本当によかったなと思います。堤野さんは、回り道をした分、今の僕たちとのつながりは強く、太く、確かなものになっています。

   
第9回 ことば文学賞 最優秀賞  
   僕の帰る場所
                   堤野瑛一(27歳)

 19歳の時、僕は初めて大阪吃音教室を訪れた。どもる人たちのためのセルフヘルプグループだ。その時僕は、勉強したい一心で進学した大学を、吃音に悩まされて休学中だった。
 僕は高校2年生の頃からどもり出した。それ以前は、言葉を発するのに苦労した経験など、一度もなかったのに。それでもまだ、高校にいる間は、誰にも吃音を悟られる事なく、何とか騙し騙し、上手くごまかしながらやって来れた。大学に進学した当初は、どもる自分が、これからまったく新しい環境で学生生活を送っていく事に対して、多少の不安はあったものの、まあ何とかなるだろうと楽観視していた部分もあった。しかし実際は、何とかならなかった。
 ある授業に出席した時、初回という事で順番に自己紹介を求められた。初対面の人ばかりに囲まれている緊張もあったのだろう、そこで僕は、初めて人前で激しくどもった。必死で自分の名前を言おうとするが、何秒経っても、最初の音がなかなか出てこない。何とか出そうと力んで引きつった僕の顔を、みんなが見ている。ある人は不思議そうに僕を伺い、ある人は驚いた様子で、ある人はヒソヒソ、クスクスと何かを言って笑っている。ただ自分の名前を言うだけなのに、そんなにどもるなんて普通ではないし、それは可笑しいだろう。恐れていた事が遂に起こってしまった。僕は絶対に他人には見せてはならない恥部を、この時初めて、さらけ出してしまった。何とも言えない恥辱、屈辱感だけが僕の頭の中を駆け巡り、その後の授業など、身に入るはずもなかった。
 それ以来僕は、いつでもどもる恐怖に駆られ、不本意に人を避け、同じ学科内で友達も作る事が出来ず、喋る事が必要な授業には出なくなり、しかしそんな事を続けていては、単位を取得出来ずに卒業も出来ない。
 このままでは駄目だ。何としてでもどもりを治さなければ、自分に将来なんてない。一年間休学して、吃音の治療に専念しよう。そう決心した僕は、学校に休学届けを出し、まず病院でスピーチセラピストの先生からカウンセリングを受け始めた。その先生の勧めで一度、大阪吃音教室を訪れる事となった。

 僕はそこで、初めて自分以外に、どもる人たちをたくさん見た。吃音症状の差こそあるが、多かれ少なかれ、みんな自分と同じようにどもっていた。僕はそのたくさんのどもる人たちを見て、ますます惨めな気持ちになった。格好悪い。不憫だ。自分も端から見たら、ああいう姿なのか。思わず目をつぶり、耳をふさぎたい気持ちだった。
 大阪吃音教室でまず初めに得た情報としては、吃音は治らない、治す事は諦めた方が良い、という事だった。そこの教室では、決してどもりを治そうとはしない。どもりは治そうと思って治せるものではないと、自分がどもる事実を認めて、しかしどもりながらでも、いかに自分らしく豊かに生きていくかを提唱していた。事実、かなりどもりながらでも、その人なりに豊かな人生を生きている人は、たくさんいるのだという。
 しかも予想外な事に、ここの教室は、来る前に僕が想像していた、暗くて地味で、慰め合いのような雰囲気とは大きく違い、終始みんなが楽しそうで、笑いも多く、どもっているにも関わらず活き活きとしているように見えた。僕にはそれが異様に思えて、同じようにどもる人同士の輪の中にいるのに、疎外感をもった。
 何が一体そんなに楽しいのだろうか、みんなどもるのに。どもりながらでも豊かに楽しく生きられるなんて、とんだ綺麗事だ。やせ我慢だ。それに多くのどもる人は、物心ついた幼い時分からどもっていた、いわば先天的などもりなのだろうけど、自分はついこの間まで“普通”だったんだ。喋る事に苦労など一度もする事なく、これまでやって来たんだ。自分の吃音は後天的なんだ。今、一時的に病んでいるだけなんだ。先天性の吃音は治らないのかも知れないが、自分は何とかすれば、きっと治るに違いない。必ず元に戻れる。自分は、この人たちの仲間になんか入りたくない。
 頑なにそう思った僕は、ここにはもう二度と足を踏み入れる事はないだろうと、一度参加したきりで、教室をあとにした。

 “何としてでも吃音を治さなければ、お先真っ暗だ。自分に人生なんてない、絶望だ”“吃音を治して生きるか、さもなければ死ぬしかない、そのどちらかだ”そう考えていた僕は、どもりを治す事だけに、毎日必死になった。病院に通い、精神安定剤らしき薬も処方してもらったが、どうもこんなものでは何も効果がない。薬や医者だけに頼っていては駄目だ、自分で思いつく限りの努力をしなければと、毎日、発声練習もした。ただ声を出すだけでは駄目だと試行錯誤し、鏡に映る自分を相手に見立てて喋ったり、緊張を強いるために録音をしてみたり、自分がどもりやすいシチュエーションを出来るだけリアルに想像して故意にどもる状態を作り、そこから出来るだけ瞬時に口内の硬直をコントロールしてどもる状態から抜け出す技術を身につけようと頑張ってみたり、家族と喋る時には敢えてどもりやすい言葉を選んで喋ってみたり、自分なりに工夫を重ね、いろいろやってみた。しかし、いざ外へ出て話す機会に遭うと、一切の努力は報われる事なく、相変わらずどもり、思い通りには話せなかった。むしろ、吃音を意識し過ぎる余り、今まで以上に話す事が怖くなった気さえした。
 ある時、催眠術を試してみてはどうかと思い立った。これはひょっとしたら効くかも知れないと、収入のなかった僕は、決して安くはない料金を親に支払わせ、決して快い意思は示さない親の態度に苦い思いをしながらも、治るかも知れないという期待を膨らませ、催眠療法に通い始めた。しかしいくら通っても、吃音には一向に変化がない。期待は呆気なく打ち砕かれた。高額である事もあり、ある時点で見切りをつけ、催眠に通うのはやめた。多額のお金を捨てに行っただけ、という虚しさだけが残った。
 結局、どもりには何の変化もないままに、復学の時は刻々と近づいてくる。焦りに焦って、もう大学は辞めてしまおうか、自分の人生はこれでお終いなのかと、頭を抱えた。しかし、スピーチセラピストの先生が親身に復学する事を推してくださり、何とか励まされ、勇気を振り絞って復学の時を迎えた。しかし結局僕は、しばらく大学生活を送っていく中で、吃音の苦悩に押しつぶされ、一年も通学しない内に、不本意ながらも退学してしまった。何とも言えない虚脱、無力感、どもりでさえなければという悔しさでいっぱいで、僕は途方に暮れた。
 以後数年間、何をするわけでもなく、無気力な生活が続いた。それでも、何とか吃音を治したい、治さなければ生きてはいけないという思いは強く、吃音が治るかも知れないと聞けば、鍼やお灸にも通い、気功による整体もしばらく続けた。行く先々に対してどうしても“今度こそ”という期待をもってしまい、しかしその期待は裏切られるばかりなので、結局はどこに行っても、かえって心の傷を深くしてしまうだけだった。
 そして、いつしか僕は、もう自分の吃音を頑なに拒絶し続けるのに、疲れ果てていた。これだけの事をしても治らない吃音を、何とか治そうとエネルギーを遣うのにも、かなり消耗していた。気がつけば、吃音に対する激しい反発心や、人生に対する抜け道のない絶望感さえも徐々に衰え、以前に比べれば気持ちに落ち着きが出て来てもう充分に頑張ったのでないか、治す事は諦めた方が楽になれるのではないかと、大袈裟な表現かも知れないが、そんなある意味“悟り”のような、穏やかな心境になりつつあった。
 そして更に気がつけば、あれだけ他人に知られる事を恥や恐れとしていた吃音の事を、「僕はどもります」と、自分から他人に話すようになっていた。以前ならどもりそうになると、他のどもらない言葉に言い換えたり、話すのをやめたりしていたけど、どもりをさらしながら話をする事も多くなっていった。そして冷静に見てみると、僕の事をどもる人間だからといって拒んだり、嘲笑するような人は、そう多くはいないという事も実感した。
 以前の僕は、“吃音を治して生きるか、さもなければ死ぬか”の二者択一だったけれど、新たにそこに、“どもりながら生きてみようか”という、第三の選択肢が生まれた。

 「僕はどもる人間だ」
 そんな風に思えるようになった頃、ふと、以前にたった一度だけ参加した大阪吃音教室の事を思い出した。あそこには、自分と同じくどもる人たちがたくさんいる。また参加してみたいと思い立ち、あれから数年を経て、僕は再び、教室に足を踏み入れる事となった。
 教室に入ると、相変わらずどもる人がたくさんいた。以前はあれだけ、仲間になんか絶対になりたくないと拒絶し、見るのも嫌だったどもる人たち。しかし今回は不思議と、たくさんのどもる人を見て、ホッとした。今までひとりで背負い込んでいた重たい荷物を、ようやく降ろす事が出来たような、軽快な気持ちになれた。
 自分ひとりではない、仲間がたくさんいる。そんな風に思えて嬉しくなり、元気をもらった。そして以前のように疎外感をもつ事もなく、終始、楽しく充実した時間を過ごす事が出来た。
 吃音をもちながらでも豊かに生きられる。今はその事を、むしろ現実的と感じ、素直に受け止められる。ここにいる人の多くが、時には不便な思いをしながらも、その人なりに何とかやっている。
 大阪吃音教室に通い続けて、かれこれもう四年が過ぎた。すっかり馴染みの顔になってしまった。毎週教室に来ると、思わず「ふう」と溜め息が漏れ、出掛けると言うよりも、今週もここに帰って来れた、という気持ちになる。今では僕にとって大阪吃音教室は、もうひとつの家、僕の帰る場所だ。

選者講評
 どもる事実を認めることができず吃音を治そうと懸命になった日々。大阪吃音教室に出会ったものの、ここは自分の来るところではないと拒否し、治そうともがき続けた日々。
一人のどもる人間の心の歴史が淡々と、丁寧に綴られている。寄り道をし、回り道をして、再びめぐり合った大阪吃音教室が、帰る場所であったというしめくくりは、大阪吃音教室参加者の共感を呼ぶだろう。人には出会うべくして出会う時期というものがあるのかもしれない。作者とのこれからからのつながりが見えてくるようである。(2006年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/23

吃音と共に豊かに生きる、ひとりの吃音人生の軌跡 (3)

 吃音の問題を考えるとき、キーワードになるのが、「隠す」「逃げる」だと思います。堤野さんには、隠したいことがたくさんあったようです。次から次へと、隠したい対象が現れ、そのエピソードがユーモアを交えて綴られています。
 スキャットマン・ジョンも、周りには見えている吃音を隠そうとして、怯えていました。ジョンは、大きな像と表現していました。隠さないで等身大で生きること、それが一番楽な生き方のようです。僕にも、吃音以外にも、なかなか人に言えないコンプレックスがありました。高校時代、勉強がまったくできない、極めて劣等生だったことは、いろいろなところで話したり書いたりしています。しかし、家が貧乏だったことは、ほとんど書くことはありませんでした。
 大学受験に二度失敗し、新聞配達店に住み込んで浪人生活を送ったこと、受験料・入学金・授業料など、その後の東京での大学生のすべてを自分で稼いでいたことが、「話すことから逃げない生活」につながりました。それで、「家が貧乏でよかった」と、やっと書けるようになったのです。その後、僕はすべての劣等感について書いたり、人に話したりできるようになりました。自分の劣等感を公開することについてこんな経験があるので、堤野さんの「劣等感」の公開に、さわやかさを感じます。大阪吃音教室の2005年度の「ことば文学賞」の最優秀作品です。
 
【ことば文学賞 最優秀賞】   

  隠していた頃
                         堤野瑛一 27歳
 何かと、隠しごとの多い子どもだった。ボテボテと太っていて、目は腫れぼったく、口はいつも半開きで表情に締まりがなく、髪にはいつも寝癖がついていた。そんな冴えない風貌だった僕は、生来の内気な性格も加わって、学校でお世辞にも一目置かれる存在ではなかったし、周りの人間の僕に対する扱いも、それ相応なものだった。しかし、見た目以上に僕は、人には言えないさまざまなコンプレックスを抱えていた。

 僕は、小学3年生くらいの頃から、チック(トゥレット症候群)の症状が表れて、よく顔をゆがめたり、首をビクビクとふったり、鼻や喉をクンクンとならしていた。チックを人に知られたくなかった僕は、できるかぎり、人の前では症状を我慢していたのだけど、我慢にも限界がある。自分では症状が人の目に触れないように最善を尽くしているつもりでも、やはり気づく子は気づいていたし、何度か友達に指摘もされた。「何でそんなんするん?」と訊かれるたび、「ああ、最近首が痛くて」とか「鼻の調子が悪いねん」と、その場しのぎなことを言い、笑ってごまかしてきた。ある時教室で、症状を我慢しきれなくて、誰も見ていないことを確認し、顔を引きつらせながら首をガクガクと思い切りふり乱した。しかしふり返ると、クラスではアイドル的な存在だったひとりの女の子がじっと見ていて「頭おかしいんちゃう?」と真顔で一言つぶやいた。
 僕はその子に特別興味をいだいていたわけではなかったのだけど、その言葉は深く突き刺さった。しかし何ごともなかったかのように振るまい、ショックを押し殺し、自分の傷を見ないようにしていた。残念なことに、僕には当時チックの理解者がいなく、親にはチックの事を責められ、担任の先生にも煙たい顔をされたりで、チックの辛さというのは、僕ひとりの中だけに押し込められていた。また、他人に、自分がチック症という名前のついた病気があることをいつ悟られるかとビクビクし、教室のどこかで誰かが「畜生!(ちくしょう)」と言ったり、「ロマン“チック”」とか、チック症に似た言葉を言っているのを聞くたび、ドキッと心拍数があがり、冷や汗が出た。

 抱えていた悩みはチックだけではなかった。当時の僕は、相当な精神的な弱さからくる、慢性的な腹痛に悩まされていた。授業中の張りつめた空気、トイレに行けないプレッシャーから、毎時間、お腹が痛くなった。テストの時間などは最悪だった。そして、休み時間のたび、友達から隠れてこそこそとトイレに行った。もしも大便用個室で用を足しているのを同級生に見つかり、からかわれるのが怖かったため、万全を期してわざわざ別の校舎のトイレまで行っていた。学校での腹痛を防ぐために、毎朝、登校前には、長時間トイレにこもった。今ここで一生分の排泄物を出し切ってしまいたい…そう願いながら。また、たいていの子どもにとって、遠足といえば楽しいものだけど、僕には恐怖だった。学校にいる時以上に、トイレの自由がきかないから。も…もれるっっ…、一体何度、その窮地に立たされ脂汗をかいてきただろうか。結果的に一度も“おもらし”をせずにすんだのが、奇跡的と思えるくらいだ。

 まだある。僕のヘソは出ベソで、そのことを、小・中学校にいる間中、ずっと隠し通していた。もしも出ベソがばれたら、からかいの対象になることは目に見えていたからだ。身体測定でパンツ1枚になる時など、パンツはいつもヘソよりも上まであげて隠していた。太ってお腹が出ているせいで、しょっちゅうずれ落ちてくるパンツを、引っ切りなしに上げ直していた。あまり上まであげるものだから、いつもパンツはピチピチしていて、股の部分は吊り上げられ、今思い返すと見るからに不自然だった。水泳の時間なども、いつも意識は出ベソを隠すことに集中していた。

 他にも、男のくせにピアノを習わされていたことや、誰もが持っているゲーム機を持っていなかったこと…人に知られたくないコンプレックスはたくさんあった。見た目もデブで不細工、くわえて運動音痴、これといって人目をひく取り柄もない。たびたび自分のことを遠くから見ながら、チックの症状を見てクスクスと笑っている女子たちに気づいたこともあった。そんな経験もあって、今でもどこかでヒソヒソ声やクスクス笑う声が聞こえると、自分のことを笑っているように思えてしまう。コンプレックスのかたまり…僕は本当にそんなだった。

 しかし僕は、そんな劣等感のさらに奥深くで、人一倍、自尊心も強かったように思う。どれだけ人からからかわれても、笑われても、大人たちがまともに相手にしてくれなくても、決して自分を卑下することはなかった。「くそ、自分はそんな馬鹿にされた人間ではない。自分にはきっと価値がある」そんな思いが強かった。劣等感と自尊心、一見そんな対極に思えることが、僕の中にはたしかに混在していた。いや、劣等感と自尊心は対極なのだろうか? 自尊心が強いから劣等感をもつ、劣等感が強いから自尊心に火がつく、卵が先か鶏が先か…そんなことは分からないけれど、とにかく両方あるから、自分を変えようとする原動力になる。

 中学生になった頃、僕は自分の容貌の悪さをさらに強く意識するようになった。これでは駄目だ、痩せよう…そう思い立った。朝食は抜き、昼食はおにぎりかパンをひとつだけ、間食は控えて、タ食もそれまでの大食いをやめた。そして、毎晩、体重計に乗った。日に日に体重が落ちるのが楽しくて、食べることよりも、体重が減っていく達成感のほうが、快感だった。中学二年の頃には、ずいぶんとスマートになっていた。並行して、以前は親から与えられた衣服をそのまま着るだけだったが、自分で洋服を選ぶようにもなり、髪もいじるようになった。また、鏡を見るのが大嫌いだったけど、よく鏡を見るようになった。すると、それまでは半分しか開いていなかった力のない目も、自然とくっきり開いてくるし、ゆるんでいた口元も絞まる。

 また幸運なことに、クラスの同級生にたまたま、自分以外にもうひとり、しょっちゅう大便用個室に行く男の子がいた。「緊張すると、すぐお腹痛くなるんよなー」その子は恥じらう様子もなく、いつも堂々と、チリ紙を持ち個室へと入って行った。自分ひとりではない、仲間がいる! 僕は嬉しくてたまらなかった。それ以来、その子に便乗して、「あー、またお腹痛いわ」とか冗談混じりに言いながら、人目を気にせずトイレに行くようになった。授業中に「先生、お腹痛い、トイレ!」と大声で言い、笑いがとれるようになるほど、吹っ切れた。

 そんなこともあり、自分の見た目にも以前のようなコンプレックスはなくなり、僕は徐々に明るく活発になった。そうなると、自然に付き合う友達のタイプも、活発なタイプに変わってきた。もしも、以前の見るからにコンプレックスのかたまりのようだった僕が、隠れてコソコソとトイレに入って行くところを誰かに見られたら、たしかにからかわれただろう。でも、自分に自信がつき、堂々とトイレに入っていけば、誰もからかわない。出ベソを見られたって、誰も馬鹿にはしなかった。小・中学校は、ずっと地元の公立で、昔から知っている者どうしだったけど、中学も卒業し、高校に行けば、誰も僕が昔あんなだったとは、想像もしなかった。チック症のことは、おそらくたびたび、「ん?」と変に思われることもあったのだろうけど、そのことで日頃から馬鹿にされたり、とりたてて何か訊かれることもなかった。

 “変えられることは変えよう、変えられないことは受け入れよう”太っていることは努力で解決出来た。腹痛や出ベソそのものには、対処できない。だから自分の持ち前だと認めて、隠すのをやめた。気持ちに余裕ができると、結果的に慢性の腹痛は、徐々に軽くなっていった。チックのことも、自分ではそんなに気にならないようになった。もう自分には、これといったコンプレックスは何もない…そう思っていた。

 高校二年になったころ、僕はどもり始めた。それまでは何ともなかったのに。初めは、そのうちなくなるだろうと楽観的だったのだけど、だんだんと慢性化していった。「おかしいな…」そして気がつけば、いつしか、どもりを隠している自分がいた。会話でどもりそうになると、たとえ、話が支離滅裂になってでも、どもらずにすむことを言ってごまかした。自分がどもることを知られたくない…かたくなにそう思って、隠して、隠して、隠し続けた。どもることを受け入れられず、そして、どもることを隠すがゆえに、自由がきかなくなった。まただ。こんなはずではなかったのに…。

 …あれから、もう10年が過ぎた。あまりに、いろんなことがありすぎた。
 僕は数年前から、大阪吃音教室に参加している。そこで、豊かに生きるためのヒントとして、“変えられることは変えていこう、変えられないことは受け入れよう”ということを学び、共感した。僕は中学生の頃、それを体験的に知っていたはずなのに、どうしてまたあの時、どもることを隠してしまったのだろう、「先生、お腹痛い、トイレ」とか言ったのと同じように、「俺、めちゃくちゃどもるわ!」とか言って、みんなを笑わせてやる選択もあっただろうに。でも、当時はそれができなかった。どもることを、受け入れられなかった。

 今は、多くのどもりの仲間に恵まれ、たくさんの人の考えや体験に触れ、“どもりながらでも、豊かに生きられる。どもる事実を認めて、どもりと上手に付き合おう”と、前を向いて歩いている。どもりの悩みの真っただ中にいた頃は、自分の未来像なんてまったく描けず、ただただ真っ暗闇だったけれど、今は着実に、明るい道を歩んでいる。僕は、どもる人間だ。どもる人間が、どもりを隠そうとしたのでは、何も出来ない。たしかに、どもると不便なことが多い。でも、どもることが理由で出来ないことなんて、本当は少ないんじゃないだろうか。ずいぶんと遠回りをしてしまったけれど、どもることが原因で一度は不本意にあきらめたことを、これからじっくり、やり直していきたい。どもりと上手につき合いながら。

選者コメント
 当時は、話すことさえできないほど嫌だったことでも、年月がたてば、口にすることもできるし、文章に書くこともできる。作者は、書くことを通して、当時の自分に出会っていたのではないだろうか。隠したいコンプレックスが次から次へと出てくる。これでもか、これでもかという具合に。羅列しているかのようにみえて、実はそうではない。一つのテーマにしぼっているので、ひとつひとつのエピソードにつながりがあり、ばらばらではない。読み手をわくわくさせ、次はなんだろう? もっとないの?とさえ思うくらい、読む気を起こさせる。当時は、きっと深刻であったろうことをユーモアを交えて書いている。これは、作者の生きやすさと連動していて、「よかったね」と拍手を送りたい気持ちにさせる。

受賞感想  堤野瑛一
 この度文学賞に騰するために書くことで、断片的な記憶や漠然としていた思考が整理され、また新たに思考をめぐらせるきっかけにもなりました。
 今回の作文は、大阪吃音教室でのテーマのひとつにもなっていることですが、“変えられる事は変える、変えられない事は受け入れる、変えられる事と変えられない事とを見極める”ということをキーワードに、自分が吃音になる、さらに以前の経験から振り返ってみました。じっくり記憶を遡っていると、長い間忘れていたことも思い出したり、当時は深刻だった悩みも、今思い返すとおかしくて思わず笑ってみたり、あんなふうに悩んできたことが、今の自分をたしかに形成していることを実感できたりと、いろんな思いが交差しました。文中で、“なぜあの時、どもることを受け入れられなかったのだろう”という問いかけをしましたが、それを堀り下げていくと、それだけでひとつの作文になってしまうので、今回は控えましたが、“なぜ、どもることを隠さなければならなかったのか”を、また考えていきたいと思います。(2005年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/22

吃音と共に豊かに生きる、ひとりの吃音人生の軌跡(2)

 1986年、僕が大会会長として開催した第一回吃音問題研究国際大会に参加し、その後ずっと世界大会で会っている親友、オーストラリアのジョン・ステグルスは、不自然なゆっくりさと、抑揚のない話し方をします。彼は吃音治療を受けて、どもらない話し方を身につけたと言うのです。家族の前ではどもりながら話すと言うので、「吃音の仲間の僕たちの前で、そんな話し方をしなくてもいいだろう」と言うと、「それはもうできない」と言います。家の中では自然にどもっているのですが、家を出るときには「仮面」をかぶり、仕事場では絶対にどもらないように話すのだと言いました。彼の「仮面のことば」の話は強く記憶として残っています。
 昨日から紹介している僕たちの仲間の堤野さんにも、「仮面」というタイトルの文章がありました。最後に紹介する選者の高橋徹さんも、この仮面について、仮面の負の本質を言い当てていると、触れています。まさに、「仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しい」のです。どもる人が、どもりながら話すのは当然のこと、本人がそう思い、周りがそう受け止めてくれたら、生きやすいのにと思います。

  
仮面
                  堤野瑛一(25歳 アルバイト)

 つい最近になって、やっと実感出来る様になってきた事である。僕は確実に、昔の僕ではない。僕はようやく、仮面をはずす事が出来たのだ。

 昔、僕は人前でどもる事を恐れ、人前で自分がどもる事がバレる事を恐れ、ずっと無口な人間を演じていた。必要最低限の事以外、何も言葉を口にしなかった。でも僕の中にはいつも不完全燃焼な気持ちが残り、大きなストレスを抱えていた。
 「本当は違うんだ、僕には喋りたい事がもっと沢山あるんだ。意見だって自論だって興味だって、もっと口にしたい事が山ほどあるんだ!」
 僕はいつも、心の中でそう叫んでいた。
 でも今は違う。今では訊きたい事を人に訊き、喋りたい事を何でも喋り、以前の様な不快なストレスは殆どない。決してどもりが治ったわけではない。人前でどもりながら喋っている。思い切りどもっている。

 昔の僕は、注文を言う事が出来なかったので、一人で喫茶店に入れなかった。コンビニで煙草を買う事が出来ず、いつもわざわざ自動販売機を探し買っていた。店に行って、分からない事があっても店員に聞くことが出来なかった。仲間との会話で、どもる事が嫌なばかりに、知っている事や分かっている事を、知らない、分からない振りをして何も喋らなかった。でも今は、この全部が出来る様になった。

 そう、僕はどもりを隠さなくなった。どもる自分を認める事が出来る様になったのだ。今になって考えてみると、それは当然の事の様にも思う。目の見えない人間が見える振りを出来ない様に、耳の不自由な人間が聞こえる振りを出来ない様に、片足のない人間が松葉杖を使わずに歩く事が出来ない様に…、又、どもる僕がどもりでない振りなど出来る筈がないのである。

 …どうしてこんな事に今まで気がつかなかったのだろう。認められなかったのだろう…。
結局僕は昔、背伸びをしていただけなのである。自分を実際より大きく見せようとして無理をしていただけなのである。健常者という名の仮面をつけていたのである。だけど今になって、ようやく等身大の自分を人前にさらけ出す事が出来るようになった。仮面をとる事が出来た。

 しかし何も僕は、自分一人の力だけで今の自分になれたわけではない。僕の周りには、ちゃんとモデルがあったのだ。どもる事を受け入れ、人前で堂々と等身大でどもりながら喋る人間が、僕の周囲にいる。そう、見本があれば、人間というのは生きやすいものである。自分が理想とするものが、実際にモデルとしてあれば、非常にその理想の姿に近付き易いものである。そういったモデルの方々のお陰で、僕はその人達を具体的な理想とする事が出来、そして一歩一歩近付く事ができたのである。そのモデル達に、僕は感謝したい。

 …今でも、この時はどもりたくないなとか、今どもってしまって恥ずかしいなと思う瞬間はしばしばある。しかし、もう僕は仮面を付ける事は望まない。「仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しいのである。これから僕は、素顔をさらして生きていく。そう、仮面なんてない方が、顔が涼しいし、生身の空気を肌で感じる事が出来るから…。

 選者 高橋徹さんのコメント
 段落毎の入り方がうまい。「つい最近」「昔、僕は」「でも今は」「そう、」「…どうしてこんなことに」…。引かれるように次の段落へと進む。多重人格、仮面夫婦などが現代社会の問題となつているが、「仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しい」に仮面の負の本質を言い当てている。(2004年記)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/21

吃音と共に豊かに生きる 1 ひとりの吃音人生の軌跡

 大阪吃音教室の存在を知り、吃音を治したいと思って訪れたが、そこで、「吃音は治らない。吃音とともに生きることを考えよう」と言われて落胆し、ここは自分の来る所ではないと思って、離れていく人がいます。僕たちは、一期一会を大事にしていますので、初回に大切なことを伝えるようにしています。「吃音は治らない」と、「吃音と共に豊かに生きる」ためには、吃音の勉強と、より良く生きるためのある程度の練習が必要だということです。そうすると、何年か後に再会できることがあるのです。やっぱり治したい、治すところを探すのだと離れていった人が、いろいろ巡って、治らない現実と向き合い、そういえば…と、大阪吃音教室に戻ってきて下さることは少なからずあります。
 そのような人の中の一人、堤野瑛一さんの体験を紹介します。同じようにどもる人に出会い、その人たちの体験に耳を傾け、自分の内面を深く丁寧に、つぶさにみつめ、ことばにしていく作業を通して、堤野さんは変わっていきました。僕たちは、堤野さんと共に喜び、共に歩き続けてきて、彼の変容を間近で見てきました。「吃音を治す・改善する」の大きな流れに対峙する僕たちの大切な仲間、戦友です。今日から、堤野さんが体験を綴った7つの文章を連続して紹介します。読み返してみると、一人の真剣に吃音と向き合う人生に同行する経験になりました。
 大阪吃音教室が制定していることば文学賞への応募作や、いろんな機会に書いたものが混在しているので、文体も変わりますし、同じ事を書いていることもあるでしょうが、25歳から33歳までの心の軌跡であり、貴重な歴史なので、そのまま紹介します。ことば文学賞の選者だった、元朝日新聞記者の高橋徹さんのコメントもそのまま紹介するとにします。
 
   
新しい道を歩き始めて
                   堤野瑛一  会社員 25歳
 僕は、高校2年生頃からどもり始めました。何故だか言葉を発しようとすると息が詰まり、足で地面を叩かないと声が出なくなったりして、初めはこれが吃音だと分からず、「何だろう?」と思っていました。
 僕は吃音である以前にチック症で、その事もあり神経科の病院へ通ったところ、先生の前でどもると、「あー、どもりの症状も出ているのかあ」と言われ、そこで初めて自分の声の出ない症状が吃音である事を知りました。
 初めは家族の前でしか出なかった吃音の症状も、次第に学校でも友達の前でも出るようになり、悩み始めました。しかしその頃、僕が吃音で悩んでいる事を、学校の先生や友達は誰も知りませんでした。僕が「あ、どもる」と思うと、喋るのを止めたり、何とか言い換えをしたりと、どもりを隠し続けていたからです。授業中に当てられても、分かっている答えがどうしてもどもって言えなくて、渋々「分かりません」と答えた経験も、多々あります。
 僕はこの高校2年生の頃、吃音になった傍ら、ピアノで芸術大学を受験することを決心しました。それまでは殆ど趣味感覚でやっていたピアノを、受験に向けて真剣に勉強するようになりました。ピアノを練習している間は、吃音の事などは考えていませんでした。それよりも芸大に合格する事で頭がいっぱいでした。芸大に行ければ、どれだけ幸せだろうと思い、無我夢中で一日に何時間でも、ピアノを練習していました。結果、僕は芸大に合格しました。あの合格発表の時の喜び、感動はこの上ないもので、今でも忘れません。僕は早く高校を卒業したくてたまらなく、夢や希望を大きく膨らませながら、大学に入学する日を毎日ウキウキしながら待っていました。
 しかし大学は、僕の思っていた様な楽しい場所などではなく、自分にとっては辛く厳しい場所でした。大学入学後、どの授業に出ても、まず自己紹介をさせられます。高校の頃は、どもっては困る場面からは何とか逃げてごまかして来ましたが、この時ばかりは逃げようがありません。とうとう自分の自己紹介の番がやって来ました。すると、案の定、どもってどもって自分の名前の最初の音が出て来ません。必死に言おうとしますが、10秒、20秒たっても言葉が出て来ません。その間の僕のどもって力んでいる顔をチラチラ見ては、周りがクスクスと笑い出します。やっとの事で言えましたが、僕はその後授業に没頭出来る筈もなく、何とも言えない恥辱感、屈辱感にかられました。そしてどの授業でも、いつ自分が当てられるかと、いつもビクビクしていました。また、声楽の試験の時は、大勢の生徒や審査員の先生がいる前で、自分の生徒番号と名前、歌う曲目を言わなければなりませんでしたが、勿論これも失敗しました。それに、ピアノや声楽の試験の結果を、自分の門下の先生に電話報告しなければなりませんでした。その上大学は、中学や高校の様に担任の先生がいるわけでもないので、必要な書類などは自分で事務室に言って自分の口で説明し、貰わなくてはならないし、何かと吃音では不便な事だらけでした。高校生の時のように、何とか吃音を隠してごまかしながら、という風にはいきませんでした。
 そんなこんなで、僕の吃音に対する恐怖は、高校の頃よりも何倍にも膨れ上がり、結果、どもりを隠したままではまともに友達と会話も出来ないほど、症状は酷いものになりました。それに伴い、勉強やピアノの練習を続けていく気力も、だんだんと薄れてきました。入学前に描いていた大学生活のイメージと、入学後の現実は、雲泥の差でした。結局僕は、もうやっていけないと思い、大学を中退しました。あれだけ努力し、夢に見て、自分の力で入った大学を、今度は自分の意志で中退しました。「中退せざるを得なくなった」と言った方が適切かも知れません。あの受験の為の努力や、合格発表の時の喜びは一体何だったのだろうと、途方に暮れました。この時「どもっていては人生は開けない、お先真っ暗だ」とか、「吃音が俺の人生を狂わせた」とか、「何としてでもどもりを治さなくてはならない」とか、「どもりさえ治れば、俺の人生は切り開かれる」とか、そんな事ばかりを強く思っていました。そんな思いで、それから数年間、「どもりが治るかも知れない」と聞けば、どこへでも行きました。はり、催眠、お灸、気孔、整体…と、色んな事を試しました。しかし結果、どれも全く効果がありませんでした。行く先々に、初めはどうしても大きな期待をもってしまうので、治らなかった時のショックも、大きなものでした。そして徐々に、「どもりは絶対治らないものだ」という意識も強くなっていき、治すことを諦めざるを得ない状況になって来ました。
 そして僕が最後に行こうと決心したのが、「大阪吃音教室」です。実は、大学在学中にも一度だけ、吃音教室に顔を出した事がありました。その時僕は、驚きました。教室のみんながどもりを隠しもせず、わきあいあいと喋っているのです。そして、「どもりながら生きていこう、どもりと仲良く付き合おう」と言うのです。しかしその時の僕には、そんな考え方は絶対に受け入れられませんでした。「隠さずにどもろう」とか、「どもりと仲良く」なんて、絶対に考えられませんでした。むしろ、「どもりが治らなければ絶対に良い人生は送れない、絶対に治さなければ」と強く思っていました。そして僕はこの吃音教室の考え方がどうしても受け入れられず、それっきり通わなくなりました。
 しかし、大学中退後、さんざん何年間も吃音の治療を試みて、全く治らなかった現実と向き合った以上、「自分はどもりとして生きていくしかないのか」と思うしかありません。ようやくそう思い始める事が出来た時ふと、大阪吃音教室の事が頭によぎったのです。
「あそこには吃音を受け入れて生きていこうと言う仲間がたくさんいる。」そう思ったのです。僕は大阪吃音教室に通う事を決心しました。今年の7月以来、毎週欠かさず通っています。吃音は治るに越した事はありませんが、今僕は、吃音を治そうとは思いません。どうあがいたって治らない事を知っていますし、絶対に治らないものを治そうと努力すれば、決して幸せにはなれない事を、よく知っているからです。
 大阪吃音教室のみんなと、どもりながらでも上手に生き、吃音とうまく付き合えるようになればな、と思っています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/20

大阪吃音教室の学びのすばらしさ−論理療法

 昨日の沢田さんの、どもらない人なら、3分半で読み上げる両親への手紙を、12分かかって読み上げた体験を、どのようにお読みになったでしょうか。
 一般的に考えれば、自分が主人公になれる晴れの舞台、それもクライマックスともいえる新婦の「両親への手紙」を、どもりながらそれだけの時間をかけて読んだことは、「せっかくの結婚式でひどくどもってしまった。恥ずかしい」と考えても不思議のない状況です。たとえ、仮に、感極まったとしても、です。
 しかし、彼女は、そのできごとで、自分自身に自信が持てたと言い、緊張の中、読み切った達成感が自分へのご褒美だとしています。そして、その後、結婚式の体験をなつかしく思い出しています。さらに、文章の最後に、大阪人らしく、彼女がどもっている間、「マイクをもつ夫が疲れたらしい」としめくくっています。なぜこんな文章が書けたのでしょうか。彼女がもし、大阪吃音教室に出会うことなく、吃音親子サマーキャンプや吃音ショートコースを体験せず、吃音を否定し、吃音に悩んだまま、結婚式を迎えたとしたら、このような結末にはなっていなかったのではないかと、僕は想像します。どもることで、会社での仕事のことで悩んでいた彼女は、毎週、大阪吃音教室に参加し、吃音とともに豊かに生きるための理論や、日常生活の中での訓練法を学んでいました。訓練法といっても、吃音を軽くしたり、治すためのものではなく、まして、結婚式のときに、あまりどもらないで手紙を読み上げるための練習法ではありません。考え方の練習法なのです。その考え方の理論、練習方法である「論理療法」を、僕たちは大阪吃音教室の主要なプログラムのひとつとして、しっかりと学び、それを生活の中で実践し続けてきた成果が現れたのではないかと僕は考えるのです。
 アルバート・エリスが考えた論理療法は、ABC理論が中心です。Aはできごと、Bは受け止め方・信条・考え方、Cは結果・悩み です。彼女の結婚式の「両親への手紙」の朗読の場面を、論理療法で考えてみましょう。

A できごと
 通常なら3分半で読める文章を、どもってことばにつまりながら12分かかって読んだ。

 大阪吃音教室に参加せず、吃音を否定的に考えている人が、このようなできごとに遭遇したとしたら、どのようなBとCが考えられるでしょうか。

C 結果、悩み
 うまく読めなかったことは恥ずかしいと落ち込み、嫌な気持ち、不快感をずっと持ち、もう今後一切、人前でスピーチしたり人前で読んだりすることはまっぴらごめんだと考えるかもしれません。せっかくの結婚式を台無しにしてしまった、吃音を知らない人に、自分の欠点、弱点であり、否定している吃音をさらけ出してしまったことに、悔しさと嫌悪感、挫折感など、さまざまな感情が渦巻くかもしれません。そのようなネガティヴな感情や今後の自分の行動まで規制してしまうのは、Aの、人前でひどくどもってしまったという出来事が、そのような感情や結果を引き起こすのではなくて、必ず、その人の持っている非論理的思考があるからだと、アルバート・エリスは断言します。

B 考え方、受け止め方
 「せっかくの晴れの舞台で、ひどくどもって、自分の欠点、弱点をさらけ出してしまったことは、あまりにも情けない」、「結婚式を台無しにしてしまったのは、吃音のせいだ」、「やはりこんなにどもる私がどもると分かっている朗読などしなければよかった」、「結婚式を台無しにしてしまったことで、夫にも申し訳ない」などです。

 これらの考え方を持っていると、Aのできごとに対して、強い否定的な感情がわき上がることになります。
 ところが、大阪吃音教室では、そのような考え方を参加者みんなで探し、検討してそれらを非論理的思考だと断定し、その考え方に、みんなで修正を加えていきます。
 「両親への手紙をひどくどもって読んだからといって、決して失敗ではなく、精一杯自分の思いを伝えたことは成功だった」
 「私の吃音について知らない親戚をはじめとする多くの人に、どもる私の姿を見せることができたのは、成功だった」
 「どもりながら両親への感謝の思いをきっちり伝えることができてよかった」
 「新婦の朗読がなめらかに読むこと、感動的に読めることが、必ずしも成功だとは言えない」
 「ひどくどもりながらも伝えきったことこそが、親への感謝の気持ちの表れだ」
 このように考えることができたら、ひどくどもって両親への手紙を読んだというできごとは、肯定的なものへと変わることができるのです。
 沢田さんの結婚式のエピソードは、大阪吃音教室がずっと取り組んできた論理療法のひとつの成果の具体例だと、僕は思います。
やわらかに生きる表紙 彼女が書いたような文章に出会うと、大阪吃音教室がうまく話せるため、どもらないで話せるようになるための言語訓練を一切しないで、どもることをどのように受け止め、とらえることができたらよいかを考え続けてきた大きな成果だと思うのです。

参考文献 『やわらかに生きる―吃音と論理療法に学ぶ』(石隈利紀・伊藤伸二、金子書房)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/19
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