伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年03月

伊藤伸二の自分史−本番に強い男

 昨日、吃音にまつわる早春のほろ苦い感覚についての文章を紹介しました。
 今日は、「本番に強い」僕の出発点の物語です。僕はこの経験で、「本番に強い男に変身した」と書いています。確かに僕は仲間や家族と話すときにはかなりどもっていても、大勢の前など緊張する場面では、適度な緊張が幸いするのか、普段よりはどもりません。なぜそうなのか、記憶がどんどん薄れていきますが、こんなことが出発点だったようです。
 「本番に強い男」で一番記憶に残っているのが、1986年の夏、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会です。
 世界の人々を招いて、400人が参加した世界大会、受付の段階からハプニングが続きました。ホテルの確保が大変で、イギリスの臨床家、レナ・ラスティンと、もう一人誰だったか女性を、ツインルームにしたのですが、絶対に一人でないと嫌だと抗議してきました。 今、思うと、当然の抗議だったと思いますが、セルフヘルプグループでの集まりで相部屋になるのは普通のことだったので、つい同じようにしてしまったのです。別のホテルを探すなど、てんやわんやでした。いろんなことが重なり、開催初日の前日は、睡眠がほとんどとれませんでした。そして翌日、大会が開幕しました。
 まず、僕の大会会長の基調講演です。みんなは心配してくれましたが、僕は「本番に強い男」です。何の不安も心配もなく、壇上に上がりました。しかし、さすがの僕も、連日の準備の疲労と、前日に眠っていないことが影響したのか、のどがからからになり、しゃべりにくくなっています。講演は60分、同時通訳者のために事前に原稿を渡してあります。自分では堂々と原稿を読み上げて、やはり僕は、本番には強いと、満足して壇上を後にしました。
 ところが、後で、同時通訳者から原稿1ページ飛ばしていて、びっくりしたと言われました。1ページも飛ばしながら、自分では気づかない、聴衆も1ページ飛ばしていることに気づいていない。つまり、1ページ飛ばしながら、つじつまが合うようにうまくつないだことになります。「本番に強い男」なら、1ページ飛ばすことはないだろうと思うし、それでもつじつまを合わせたのはさすがだと周りの人は言うし、おもしろい体験でした。
 では、本番に強いルーツです。

     
本番に強い男
                伊藤伸二

 小学校3年生頃からずっと、本読みや発表のある授業は苦手だった。中学校の時は、どもって立ち往生することが多かった。高校になると、そのみじめな立ち往生に耐えられなくて、よく授業をさぼった。
 どうしても言わなければならないことを言うときや、人前での発表や話などは、ほとんど必ずどもって失敗した。いざという時にことばが出ない、本番にはからきし弱い男だった。
 1966年4月3日。待ちに待った言友会の発会式。幹事長の私が、見知らぬ大勢の人の前で10分程度、これまでの経過を報告することになっている。
 発会式の準備をしている間も、本番での報告が頭から離れない。不安と緊張で、胸がしめつけられそうだ。その不安はことばに正直に現れ、時間が近づくにつれ、だんだんとしゃべりにくくなってくる。席の配置などの準備、段取りの最終チェックの間中、ひどくどもり続けた。
 「伊藤、そんなにどもって大丈夫か。俺が代わって報告しようか」
と丹野裕文会長が言う。他のメンバーも同調する。それほどひどくどもっていた。
 高校時代の私ならおそらく、このことばに飛びつき、代わってもらっていただろう。しかし、どもる仲間を知って、リーダーになってからは、話す場面からは決して逃げないでおこうと心に決めていた。
 「だ、だ、だ、大丈夫ですよ。今これだけどもっていれば、本場になると却って落ち着きますよ」
 不安がないわけではない。普段より調子の悪いことが私を開き直らせた。どもる人の会の発会式だ。どもった方が、却っていいのではないかと思い込もうとした。
 会長のあいさつの後、私がスポットライトを浴びて、高い壇上に立った。不思議と落ち着いている。10分間の報告は実に堂々としたものだった。
 皆が後で、口々に良かったとほめてくれた。たった1回のこの経験が、私を本番では実に強い男に変身させた。(1994.7.1)「どもる人のための書くトレーニング」より


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/16

伊藤伸二の自分史 1 早春

 早春、この季節には、特別の思い入れがあります。顔にあたっていた、冷たく寒い冬の風が、ふとやわらかく感じる一瞬があります。長かった冬が終わりに近づき、春の近いことを感じさせる早春、少しずつ風が心地よいものになっていく頃、いつも胸がキューンと痛くなります。新学期や新学年での自己紹介がとても怖かった。特に、中学生になる怖さは格別でした。
 この苦い思い出が、新しい出会いを感じさせる高揚感に変わったのは、1965年の秋に創立した、どもる人のセルフヘルプグループ言友会の発会式が、翌年4月にあったからです。
 丹野裕文会長や仲間に会うのが楽しくて、毎週日曜日の例会が来るのが待ち遠しかったこと。秋から冬を経て、発会式の準備の楽しかったこと。孤独でひとりぼっちだった僕が、リーダーとして、みんなの先頭に立って活動をすすめていた高揚感。これらは、決して忘れることはありません。自己紹介にまつわる不安と恐怖の感情と、発会式を準備する高揚感の2つの感情が入り交じって、なつかしい思い出になっています。
 時、今、早春。久しぶりにそんな懐かしい感情を思い出しました。「自分史づくり」を提唱するときに書いた一文です。

      
早春
                               伊藤伸二
 どもりに悩んでいた頃、早春が一番嫌いな季節だった。小学校5年の春から、もう中学校での入学式の日の自己紹介が気になっていた。小学校6年の2月には、嫌な気分はピークに達した。ふと一人になると、胸がしめつけられるようでドキドキする。それでも逃げることができずに中学校の入学式を迎える。案の定、どもってどもって自己紹介をして、みじめな新学年がスタートする。
 小学校と違って、中学、高校は一年ごとにクラス替えがあり、その度にいつもゆううつな気分になった。それが高校3年の早春まで続いた。自己紹介から解放されてからでも、春の息吹を感じさせる冷たい風がたまらなく嫌だった。
 どもりをなんとか治したいと言友会を作った。秋から準備をし、4月7日、ちょうど入学式と同じ頃に、言友会の発会式を計画した。その発会式の準備は、入学式を待つあの嫌な気分とはまったく違っていた。
 言友会発会式の当日、私は幹事長として10分ほどの報告をする予定になっていたが、恐れや不安は全くなかった。どもる人の会の発会式、その役員がどもって話をするのはむしろ自然だからだ。楽しい、緊張感のある活動が続いた。冷たい風が春の息吹を感じさせる頃、言友会発会式の準備はピークに達した。ふと、その風が心地よいものになっているのを感じた。言友会の発会式の準備の高揚した気分が、それまで早春の頃にいつも感じたゆううつな気分を吹き飛ばしてくれた。
 その時から、早春が私の一番好きな季節となった。しかし、今でも、春に向かう冷たい風を肌に感じる時、ほろにがい思いがよみがえってくることがある。今はそれも壊かしく、楽しんでいる。(1995.3.17 「自分の吃音体験を書く」より)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/15

吃音について、人生について、語り合うワークショップ

第5回 新・吃音ショートコース

 様々なテーマで、その分野の第一人者を講師に迎えて、ワークショップ形式にこだわって続けてきた吃音ショートコースが幕を閉じたのが、2015年秋でした。
 それから、1年半後、新・吃音ショートコースの名で、外部から講師を迎えず、出会い・語り合いの場を設けてきました。第1回新・吃音ショートコースを開いたのは、2017年1月でした。それから、毎年、開催してきて、昨年は、コロナの影響で中止となりました。
 参加者のひとりひとりの発言が大切にされ、互いの物語に耳を傾け、それぞれが感じたり考えたことを発言することで、ひとりひとりの人生に触れてきました。「困った問題」「挑戦したい課題」を、笑いあり涙ありの中で考えてきました。とても素敵な空間を、共に過ごしてきました。「直」の出会いが難しい中、それがどれだけ大切な場なのか、昨年はコロナ禍で中止になったことで、僕は、改めて感じています。僕は、セルフヘルプグループ型の人間なので、その思いはより強かったように思います。
 先日、新・吃音ショートコースの会場の予約をしてきました。感染状況が全く見通せないところですが、できうる限りの対策をして、集まる場、語り合う場を設けたいと考えました。
 日程・会場は、下記のとおりです。第一報をお届けします。

日時 2021年6月19日(土)13:00〜22:00
   20日(日) 9:00〜17:00
会場 寝屋川市民会館 第7会議室
講師 伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長
参加費 5,000円(宿泊費・食事代は各自ご負担下さい)
宿泊 宿泊の場合、各自でご予約下さい。大阪市内や寝屋川市内ならどこでも便利です。
趣旨
 精神医学、臨床心理学、教育学、演劇など幅広い領域の第一人者を講師に迎えた吃音ショートコースでは、論理療法、アサーション・トレーニング、交流分析、認知行動療法、ゲシュタルト療法、当事者研究、内観、建設的な生き方、トランスパーソナル、からだとことばのレッスン、笑いとユーモア、サイコドラマなどを学び、体験してきました。
 これらを、日常生活に、これからの人生設計に、また、どもる子どもの支援にどう活かすかを探っていきます。
 新・吃音ショートコースは、現在、どもることで困っていることだけでなく、こう考え、こう取り組めば、より楽しくより豊かに生きることができるという視点でも、生活や人生を見つめ直す場にできればと考えています。吃音を切り口にして、生きることを考える「吃音哲学」が今後ずっと続くテーマです。
 最初からきちんとしたプログラムができているわけではありません。とりあえずのおおざっぱな流れはあるものの、参加者の希望や要望で、柔軟に企画します。
 今、ここで感じたことを率直に出し合い、対話を通して自分に気づき、他者に気づいていく、そんな時間を共有していただければと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/14

吃音物語は、吃音に悩む人への処方箋 8

 東日本大震災、福島原発事故から10年の日を迎え、やはり、そのことについて書きたいと思い、村上さんの「十秒のあいさつ」の途中でしたが、吃音親子サマーキャンプに宮城県女川町から参加した阿部莉菜さんの作文を紹介しました。
 今日は、村上さんの「十秒のあいさつ」のつづきです。吃音の大きな問題である「予期不安」について、よく分かる描写が続きます。いよいよ、離任式前日になりました。手話を使おうか、いっそのこと欠席しようか、思いが乱れて迎えた当日、村上さんは、逃げ出さず、演壇に立ちます。今、読むと、ちょっと笑ってしまうような光景ですが、それは、それだけ不安も大きかったのだということを表しているのでしょう。この話はまだ教員に成り立ての頃のエピソードですが、その後彼は誠実に教員としての仕事に邁進し、県の教育委員会の指導主事を経て、大きな県立特別支援学校の校長で定年を迎えました。200人近い教職員の管理職として仕事を全うしたのは、吃音とうまくつき合うことを実践してきたことや、自分よりはるかに年上の、様々なタイプの社会人の集まる、どもる人のセルフヘルプグループで事務局長として活躍した経験が、多少なりとも生きたのではないかと、僕は思っています。十秒のあいさつの最終章です。

   
十秒のあいさつ−去来する不安との闘い
                     村上英雄
 4月7日
 もう明日に迫ってしまった。朝から考えは離任式のことばかり。一室に閉じこもって、あれこれと考えたりする。もう日数はなく、精神的にかなり追い込まれ、ここ2、3日でだいぶやせたように思える。
 ふと誰かがしていたように、手話を使って話したらと思う。早速本をとり出して、「1年間、お世話になりました。何事も努力です。頑張って下さい。」
 という短い文を手話を使って、一字一字練習する。熱心に練習をしたが指が思うように動かず、もたついてばかり、結局あきらめてしまう。昼頃も手話の次にかつて言友会でやった発声練習のことが思い浮かび、ゆっくりと大きい口形で、腹式呼吸を使ってやれば、必ずうまく言えると自分を思いこませる。不安はつきないが、なんとかいけそうだと、自分に暗示を与える。思いつきにすぐ動かされる自分を情けない奴だとつくづく思う。

 4月8日
 いよいよ離任式の当日になってしまった。今日着ていく服のことや、午後からの新しい職揚での仕事など、別なことばかり考えて気分を紛らわそうとつとめた。しかし、時々風邪で欠席との電話をしたら、という考えがさっと浮かぶ、逃げるのなら今だと思うと、本当に考えこんでしまう。
 結局は逃げる勇気もなく、時間に追いかけられるように出かけてしまう。行く途中でも、ここらで逃げようと何度も思う。いろいろ考えているうちにもう校門についてしまった。「なぜ来たのか?」。すぐ前に大きな不安が横たわって、恥をかくに決まっているものをと、自分でない自分を叱責したりした。
 式の前に別室へ案内されて休んでいると、もうなるようになれといった感じになる。運を天に任せた。しかし、ここまで出て来た自分に感心もする。
 いよいよ式の時間になった。案内されて講堂に入る。生徒がすでに静かにして待っていた。不安に負けまいと胸を張って歩く。
 5分もかけた先輩の落ち着き払ったあいさつに感心する。やはりあれくらい内容をかけてしゃべるのが本当なんだろうと思う。
 いよいよ私の番となった。名前を呼ばれ、階段をひとつひとつ踏みしめながら登った。すでに皆の視線が背中にあることを感じた。演壇の前に立つが、前がはっきりわからない。司会の人の、「礼!」という大きな声に合わせて、700人の頭が一度に見事におじぎをした。私もおくれて礼をした。私が顔をあげると、すでに700人の頭は起きていて、おくれて上がった私の顔をみようとして視線が集中した。調子が狂ったのだ。極度にあがってしまい、これまで練習してきた言葉が全く出てこない。ただ言葉を出そうと、右足を大きく右に動かすと、自分でない自分の口から思ってもみなかった言葉が飛び出したのであった。
 「ファイト、ファイト」
 次の「頑張って下さい」の「が」が出てこない。再び、右足を右後方に大きく動かしてみる。司会の人が動いた私をみて、終わりの礼だと直感したのか、「礼」と大きな声でいってしまわれた。私はあわてて、
「以上簡単ですが、終わります」
 やや頭をおくれて下げながら、一気に言った。その間わずか数秒であった。このわずか10秒でも1時間、2時間もの間、壇上にさらされていたようで、体が熱くなっているのを覚える。
 考えもしなかった思いがけない短いことばに、バツの悪さを感じながらおりる。もうこれで終わってしまったという安堵が心の中を支配して、これまでの悩みが一度に吹き飛んでしまった。もう体の中には、張りつめたものはない。生徒と一人一人握手をして帰るとき、やはり来てよかった。悩んだけれど、そんなに恥などかきはしなかった。とにかく逃げないで来た自分になんとなく誇りがもてたようであった。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/13

東日本大震災、福島原発事故から10年の日に

 東日本大震災、福島原発事故から、10年が経ちました。10年が長かったのか、短かったのか、よく分かりませんが、僕には、あっという間だったような気もします。
 今日は、10年の節目ということもあり、メディアは様々な形で、10年前を取り上げていて、10年前を語る多くの人の声が紹介されています。そこで語られていることばを目にし、耳にするたびに、ひとりひとりの物語があることを改めて感じています。
 10年前の午後2時45分のことだけではなく、それから今日に続く長い時間の物語です。これからどう生きていくべきか、残された僕たちに突きつけられた大きな課題です。
 僕は、2011年の5月に被災地に入りました。後で紹介する女子生徒が住んでいた女川町の地に立ちたかったからです。その時に、釜石市などで見た、船が乗り上げた家屋、窓がなくカーテンが大きく揺れている学校の校舎の光景は、決して忘れることはありません。
 あの大震災、原発事故については今後も決して忘れることなく、注視し、起こすべき行動はしていきたいと考えています。しかし、僕は、やはり、僕だからできること、吃音にかかわり続けていきたいと思います。そんな静かな覚悟を自分の中に確認しました。
 この日に毎年思い浮かべるのは、宮城県女川町から吃音親子サマーキャンプに3回連続して参加した阿部莉菜さんです。莉菜さんは、小学校6年生のとき、サマーキャンプに初めて参加しました。6年生になって、吃音のことで転校生らにいじめられ、不登校になっていた莉菜さん。キャンプに参加して、同じ6年生のグループでそのことを涙ながらに話しました。同じグループの子どもたちとの話し合いの中で、問題を整理し、自分の中で解決し、彼女は、キャンプから帰ってから、学校に行き始めました。僕は、ここに、彼女の持つレジリエンスを感じました。仙台の高校に進学が決まり、制服も届いて、楽しみにしていたとき、東日本大震災が起こり、お母さんと共に大津波に巻き込まれました。
 彼女が初めてキャンプに参加したときに書いた作文は、僕の宝物です。子どものレジリエンスをみつけ、育てていくことが大切だと僕が話すとき、いつもそこに彼女の顔が思い浮かびます。しっかりと伝え続けていくことを、今日、新たに誓います。ブログでも以前紹介したことがありますが、彼女の書いた作文を紹介します。それは、NPO法人全国ことばを育む会編の両親指導の手引き書41 「吃音とともに豊かに生きる」の中の<防災教育と吃音>のところで紹介しています。

防災教育と吃音
 被災地では、「釜石の奇跡」と呼ばれる「防災教育」が成果をあげました。大きな津波を経験している三陸地方では、家族てんでんばらばらに逃げて生き延びる「津波てんでんこ」が言い伝えられています。これを防災教育に生かしたのが釜石市です。群馬大学の片田敏孝教授の徹底した教育を受けた子どもたちは、学校の管理下になかった5人をのぞいて、市内の小中学生およそ3000人全員が無事に生き延びました。子どもたちは、「日頃教えられたことを実践したに過ぎない。奇跡ではなく、実績だ」と話します。防災教育が徹底された地域とそうでない地域の大きな差は、教育の力の大きさを表しています。
 どもることは何の問題もありません。吃音を否定し、劣等コンプレックスに陥って、吃音は単なる話しことばの特徴から、取り組まなければならない課題へと転じます。まだ子どもが吃音を否定していない場合でも、否定するとどのような問題が起こるか学んでおく必要があります。吃音の取り組みは、防災教育に似て、予防教育だとも言えると僕は思います。
 吃音親子サマーキャンプに、宮城県女川町から3年連続して参加した4人家族がいました。小学6年の阿部さんは、6年生になっていじめに合い、不登校になりました。そのつらさを僕のグループで泣きながら話しました。90分の話し合いで、顔が晴れやかになり、翌朝の作文教室で「どもってもだいじょうぶ」と作文に書きました。すぐに学校に行くようになり、その後もキャンプに参加して、将来の明るい夢を語り、仙台の高校に入学が決まっていたのに、お母さんと一緒に逃げ遅れて亡くなりました。彼女のことは決して忘れないでおこうと、その後の講演などで、作文を紹介しています。

  どもっても大丈夫
                            阿部莉菜
 私は、学校でしゃべることがとってもこわかったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていて、どもってしまうと、みんなの視線が気になります。そして、なんだか「はやくしてよ!」と言われそうで、とってもこわかったです。なんだかこどくに思えました。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに来てみて、みんな私と同じで、どもってるんだ、私はひとりじゃないんだと思いました。そして、夕食後、同じ学年の人と話し合いがありました。そのときに思ったのは、みんな、前向きにがんばってるんだ、なのに私はどもりのことをひきずって、全然前向きに考えてなかった。そのとき、私は思いました。どもりを私のとくちょうにしちゃえばいいんだ。そのとき、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。どもりもりっぱな、いい大人になるための、肥料なんだよ。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。今日、朝起きたときは、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりだと思うけれど、とても学校などでしゃべれる自信がつきました。
(「吃音とともに豊かに生きる」両親指導の手引き書41 P.32-P.33 NPO法人全国ことばを育む会編)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/11

吃音物語は、吃音に悩む人への処方箋 7

 どもる人で、学校の教師をしている人は、僕たちの周りにも多くいます。その人たちにとって、一番悩み、困る場面として、卒業式を挙げる人はたくさんいます。厳粛な卒業式で、子どもの名前を呼ぶということを想像しただけでも、とてもできないと思ってしまうようです。昨日から紹介を始めた村上さんにとっては、離任式でのあいさつでした。当日まで克明に記された心の動きの続きを紹介します。
 新しい職場に出向いた村上さんは、職員の前での自己紹介で図らずも、自分の吃音について口走ってしまいます。初めての経験に戸惑いながらも、これで何も気にせずに済むとほっとするのですが、翌日には自分の行動が軽率だったのではないかと落ち込みます。大丈夫と思ったり、落ち込んだり、離任式まで、日替わりで、気分が大きく揺れます。


 
4月1日
 午後から新しく勤務した職場の会議があり、まず全職員の自己紹介から始まった。前任校と名前、それに簡単な抱負を述べるだけのものであったが、近づいてくるに従って、自分の言う事柄に思いを巡らすようになり、人の話は満足に耳には入らなかった。
「南中から参りました村上と申します。経験といっても、わずか1年しかない未熟ものですので、新任同様にご指導をよろしくお願い致します」
 こんなせりふを早速考えて何度も頭の中で繰り返し言う。雰囲気はよかったが、中にはよく知っている人がいるので、その人に自分のどもりが気づかれては恥ずかしいとも考える。大垣の「オ」が言い難いので、村上の「ム」から切り出そうと思いつく。名前を忘れて話していた人もいたので、
「肝心の名前を忘れるといけませんので、まず名前から申します」
 と言えば、ユーモアがあって爆笑するだろうと思ったりするが、そんなにスラスラ出るはずがないとも考えてやめる。
 とうとう私の番になってしまった。席を立つが、足も床についていないようで、体が自分のものではない感じを受ける。不安がさっと頭の中をかすめる。もしや……恥ずかしい思いをしなければ……。礼をして頭を上げ、村上の「ム」を言おうとするが、出てこない。人の顔が満足にわからないのに、何か熱い視線を感じる。「マ、ミ、ム」と五十音順に軽く口ずさみながら出そうとしても、肝心の「ム」が出てこない。この間5秒の沈黙だった。 口ずさんでも出ない私の顔は、きっと何かにあがいている、とてもみっともない顔つきに見えたのであろう。私のまん前に坐って私の顔を下からみつめていた2人の若い女性が、クスクスと笑いだしてしまった。つっ立ったままで何もしゃべろうとしない男と、前で大笑いする女性。なにが起こったのかと全員が首をこちらへ向けてきた。ところが、私は2人に笑われて、不安や恥ずかしさが一度に吹き飛んでしまった。妙に心が落ち着き、胸につかえていた息が出てしまって、新しい気分にたちかえる。そして、あらためて礼をして、大きく足を横に動かしながら、
「村上と申します」
 ことばがスラスラと出て来たのである。次に予期しないことばが出てしまった。笑われてしまった私は、そのことを弁解しようとしたのか、
 「私は、どもりで20数年間悩み続けてきまして、今なお克服をめざして頑張っています。ご迷惑でしょうが、よろしくお願いします。南中での経験はわずかですので、ご指導よろしくお願いします」と言ってしまったのである。席に坐って、やっと自分自身に立ち返ったような落ち着きをとり戻す。自分のいやな恥ずかしい面を、この時にすべてはき出した感じで、何か胸につかえていたものがなくなり、すっきりする。
「自分はどもりで悩んでいます」
 こんな場で言ったのは、もちろん初めてである。言おう言おうと観念的にはわかっていても、実際逃避したり、ごまかしたりして、いつも切り抜けたりしていた自分を顧みて、
「やった! 言ってしまった」
 という成功感を体に覚えるようになる。
「どもりと言われるけど、ほとんど気づきませんよ」
「うまいしゃべり方ではなかったですか」
 会議が終わって、回りから同情や慰めみたいなことばが私に寄せられた。
 自分のどもりを公表したことで、肩の荷がすっかりおりて、これから何も気にせず仕事に打ち込めると思うと、自信が100倍にもなってくるように思われる。

 4月2日
 自分の恥ずかしいものをさらけ出しても、翌日になると考えが微妙に変ってきた。顔を合わせる度に、相手の視線が妙に気になり、笑っているような、軽蔑しているような風に自分で受け止めてしまった。昨日の成功感とはうって変って、敗北のような感じであった。自己紹介であんな軽率なことをよく言ったものだと思われているのかもしれないと考えたりする。自分から話しかけることもなく、黙りこくっていた。

 4月3日
 辞令交付を受けにセンターへ行く。交付後次々と講話が始まる。その中のある講師が、フォード成功五訓の印刷文を全員に渡し、読むように指示した。誰がいいかと300名の名簿を手にとって無作為に番号を選び出された。急に私の不安が高まった。
「もしや、私の名前が呼ばれ、読まされるのではないか」
「いや、300人だから、まず当たるはずがない」
 あれこれと考えるうちに、不安は高まり、頭の中は当たったらどうしようということばかりになってしまう。ひとりの名前が呼ばれ、自分でないとほっとした。次の不安がまた湧き、またほっとする。このようなことを繰り返しているうちに5人が読んで、すべてを読み終えてしまった。

 4月4日
 研修に今日もセンターへ行く。分科会に分かれて話し合う。手を上げて意見を述べようとするが、そんな勇気もなく、自分がこう言えば皆の共感を呼ぶのではないかと、言柄だけを何度も頭の中で言ってみたりする。考えていると、話は次々と展開していき、自分の考えている事柄は、すでに合わないようになってとり残されてしまう気がする。こんな事を言ったら笑われてしまうだろう。どもらないだろうかと、とめどもなく考えが入り乱れ、ついに発言はできなかった。

 4月5日
 研修の3日目。講師が自分の言ったことを覚えさせるために、同じことを当てて言わせる。
 全体会なので、300分の1、まさか当たらないだろうと思いつつも、一昨日と同じような心境におちいり、不安は深まる一方であった。300人の中で身を縮みこませ、ただ当たらぬように祈るだけであった。その甲斐あってか、なんとか当たらずに済んだ。

 4月6日
 今日は予定がなく、体を休めることができた。しかし、暇になると、もう考えることは明後日の離任式のことばかりである。今ではもうどうしたらうまくいって、その場を切り抜けるかだけである。言いにくい言葉、どもりやすい言葉を省いて、言いやすい言葉に置き換えてみようとする。できるだけ長話を避け、短くまとめようとする。反面、こんな短いとよけい笑われるのではないかと思ったりする。講堂の正面横の額をさして、それについて話したり、毛筆で大きく書いた紙を提示した人が昨年あったので、自分もそうしてみようかと考える、しかし、ただ考えるだけで実際の行動には移さなかった。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/10

吃音物語は、吃音に悩む人への処方箋 6

 岐阜県に、僕と長いつきあいのある村上英雄さんという人がいます。僕が、大阪教育大学に行くことになたきっかけを作ってくれた、いわば、僕の恩人です。
 東京で活動していたとき、僕が言友会の運営委員長で彼が事務局長で強力なコンビでした。その彼が大阪教育大学で、吃音や言語障害について勉強したいと言ったので、以前から知っていた神山五郎教授の横浜の自宅に連れて行きました。神山先生が、大阪教育大学でする勉強について話して下さったことに、興味を惹かれ、僕も行ってみようと思ったのです。ちょうど2つ目の大学の卒業の時期だったので、僕も彼について大阪に来ました。大阪教育大学で学んだ後、彼は故郷の岐阜に戻り、僕はそのまま大阪教育大学の研究生として残り、1年後に大阪教育大学の教員になったのです。
 岐阜に帰った村上さんは、岐阜でどもる人のセルフヘルプグループを作り、教員になり、県教育委員会を経て、特別支援学校の校長で定年退職しました。50年のつきあいになると思います。今日は、彼の体験を紹介します。村上さんといえば、彼が、学校の離任式での不安を書いたものがあります。日記として記録していたものです。彼の自分史を紹介しようと思ったのですが、離任式のことを思い出したので、それも合わせて紹介します。


            
おんたけさん
                      村上英雄

 初夏の暑い日だった。近所の仲の良い友人と一緒に学校へ用事があって自転車に乗って出かけることなった。小さいときから大人用の自転車を乗り回していた私にとって自転車は自信があった。
 空がよく晴れわたり、遠くの山々が手にとるようによく見えた。石ころだらけの道を自転車に乗ってしばらく行くと、今まで余り見たことのない大きな山が付近の山々のずっと上方にどっかりと眺められた。自転車に乗りながら、山の話になった。
「あれは、どこの山やろか?」
「富士山ではないしな」
「北アルプスの山やろか?」
「のりくらかな?」
 友人より地図に少し詳しかった私は、方角的にみて山の名前は理解できた。右手で山の方角をさしながら…「いや、あれはな」といって「オ」と言おうとしたが、次のことばが出てこない。「オ」の口形で口を開け、右手をさしながら全身が硬直してしまった。
 当時、吃音のひどい時、私はこの状態では、身体をうしろにして言うしかなかった。次のことばを出そうとするうちに、足はペダルから離れ、自転車に乗っていた私は、バランスを失い、全身がつっぱった状態であおむきながら頭から路上に倒れた。後頭部に石の角があたり、すごい出血になった。あわてて家に戻り手当をしたが、皆が「何で倒れたんや」と聞く。何度も聞かれたが「道に大きな石があって、それで倒れたんや」としか、いいわけができなかった。
 「オンタケサン」のことばで「オ」につまってあえいでいるうちに倒れてしまったことを私の吃音をよく知る友人も、この真相を知っていない。「オー」と悲鳴をあげながら倒れたぐらいにしか思っていないだろう。
 「どもりのせいで倒れたんや」と、はっきり自分で言えることなぞ、その時分の私には言えなかったのである。ひとりで、頭の痛さをおさえながら、どもりを恨んでいただけである。

   
10秒のあいさつ  ―去来する不安との闘い―
                    村上 英雄(教員)

 吃音者は、ちょっとしたつまずきでどもって失望感や不安感に悩む。私自身、離任式(学校で教師が転勤のため全校生徒にお別れのあいさつをする式)という絶体絶命の場に立たされ、不安が募り身も細るほど悩んだ。そのときまでの様子を日記によって振り返ってみた。

 3月26日
 教職に就いて1年目。初年度の修業式も終わってほっと一息して、机に坐ってお茶を飲んでいると、教頭が近づいて来て、
「送別会と8日の離任式には、必ず出席して下さいよ」と耳打ちした。
「はい、わかりました」と、何のためらいもなく口から出てしまった。隣の同僚の先輩が聞いていて、離任式は、ひどく緊張してしまうことを、私に話してくれた。普通の人でも緊張するのに、まして、どもる私がうまく言えるはずがないと思ってしまう。一年前、私が新任して着任したのと入れ変わりに、転勤されていった人々の離任式でのあいさつが思い出された。
 700余名の生徒の視線を一身に浴びて、お別れのあいさつをする、極めて厳粛な儀式であった。
 短いあいさつでもどもらずに話すことは、私にはまず不可能に思えて、不安が広がる。しかし、去年の離任式には、用事で出席できなかった人が半数以上もいたことに気づき、なんとか用事をみつけて欠席すればいいと思いつく。ここで不安は解消でき、忙しさに追われて考えなくなってしまった。

 3月27日
 新しい勤務校発表と面接のため、会場の高校体育館へ赴く。200余名の新任が体育館の演壇に向かって坐って待つ。離任式もこんなところでやるのかと思うと、とたんに不安が私の体中に押し寄せてきて、折からの寒さに加えて、こきざみに震えが起きだし止まらなくなる。

 3月28日
 新しく行く職場の抱負など、いろいろと頭の中に思い浮かべてみるのだが、時どき離任式のことが脳裏をかすめ、憂うつになってしまう。思いきって出席し、晴れ晴れとあいさつして、自分の教えた生徒と一人一人握手をして別れたいと思うのが心情だろう。そんなことで悩みぬかねばならない自分がいやになってしまう。そして、なんとかどもらずにうまく話す方法として、小型のテープレコーダーに吹き込んで、口だけ動かしてみてはと思ったりする。

 3月29日
 家にいてぶらぶらしていると、頭に浮かぶのは離任式のことばかり。「うまく言える」「いや、言えない」ああでもない、こうでもないと少し悩んでは立ち消えることが、このところ日課のようになってしまっている。

 3月30日
 ノーベル物理学賞を受けた江崎玲於奈博士は、小さい時から重いどもりで、今でもどもっているとのことであったし、テレビでもその様子を見ることができる。しかし、苦しそうにどもりながらも、自分の主張をしっかりと述べ、自信のある物おじしないその態度に、なんとなく勇気が湧いてきたようである。

 3月31日
 NHKテレビの「勝海舟」を見ていたら、島田正吾が口をやや左に下げながら、気張った口調で話していた。離任式の時も、彼のように口を力ませて話したら、しゃべる時に気がそちらへそそがれて、うまく言えるのではないかと考えたりする。とりあえず、送別会のあいさつで練習しようと、早速寝床の中でも口元を力ませながら、歯に口肉をかませたりして言ってみたりする。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/9

吃音物語は、吃音に悩む人への処方箋 5 吃音を通して価値観を見直す

 吃音親子サマーキャンプを始める前から、僕たちは「どもる子どもの両親教室」という名前で、吃音相談会をずっと開催してきました。受付で、不安そうな両親が、相談会が終わって帰る頃には、すべての参加者がといっていいほどに、ほっとした表情になり、安心して笑顔が出ていました。
 吃音とは何か、将来どうなっていくのか、書籍を読んだだけではイメージができません。一人一人の保護者の疑問に答え、質問に対して複数のどもるスタッフが自分の体験を話していきます。我が子が、吃音のまま大人になったらどうなるだろうと、不安をもっていた保護者が、実際に大人になって、教員や営業職、看護師などの仕事に就いているスタッフの話を聞くことで、具体的にイメージできるようです。帰り間際に、親同士互いに連絡先を聞き合っている姿には、暗い表情はもうありません。
 今年も、吃音相談会を開催できてよかったと、毎年思うのです。
 二人の保護者の体験を紹介します。
 
  
吃音を考えることは、人生観や価値観を考えること

                  木下 良二(会社員)

 私の長男は小学校4年生です。どもり始めたのは小学校1年でしたが、最初のころはあまり気にもしていませんでした。しかし、2年生、3年生になっても治る様子もなく、親として次第に不安が募ってきましたので、大きな本屋に行って、言語障害についての本を買って読んだりして、吃音とは何か、子どもへの対応の仕方を学ぼうとしたのですが、明確な答えは得られませんでした。ある日、読売新聞の泉の欄で、両親のための吃音相談会があると知り、吃音について理解を深めようと参加させていただきました。
 会に参加して驚いたのは、参加人数の多さと、悩んでいることが、皆さんほぼ同じ内容だったことです。
 吃音は治るのか?
 どうすれば治るのか?
 私も同じ疑問を抱えて出席しました。
 スタッフの体験談や解説を聞くにつれ、2時間ほどの間に、吃音に対する考え方が徐々に変わってきたのに気づきました。これまでは、吃音はみっともないとか、恥ずかしいものと思っていました。しかし、「吃音とつき合う」という表現を聞いたとき、ハッとしました。吃音とは、人間の背が高いとか低いとか、足が速いとか遅いとかと同じ次元の問題なのだと気づいたのです。何かふっきれた感じがしました。
 私は、将来吃音で悩むであろう子どもに、吃音とはその次元の問題と認識できる柔軟な考え方でした。それは、吃音に限らず、その他色々な問題に対しての、子育ての原点でもあり、自分自身も向上してゆこうと思いました。この会に参加して、吃音を考えているうちに、何か人生観、あるいは価値観といったものを、吃音を離れて考えさせられ、大変勉強になりました。(1989年)


 
どもったっていいんだよ
                      松谷 佐知子(主婦)

  小学一年生の長男が心配そうに言います。
 「お母さん、今日、ぼく、日直だけどうまく言えるかな」
 「つまったって大丈夫、いいんだから。笑われたら、笑いかえすくらいのユーモアをもちな」
 「そんなことできたら、苦労しないよ」
 幼稚園の年長組の途中で大阪に引っ越してから、どもりはじめた息子をこんなふうにはげますことができるようになるまで、私は相当に悩みました。
 そういう私も子どものころから吃音をひどく意識し、どもりさえ治ったらといつも思い、自分の進路も真っ暗でした。そんな私ですが、教職課程だったために、すらすらしゃべれるようになったら、ことばの先生になりたいという夢はもっていました。ところが、大学の終わりころ知り合った今の夫との恋愛をきっかけに、ことばの教室の教員になりたいと思っていた夢をすて、どもりから逃げるように、父母からもふるさとからも遠くはなれて、結婚してしまいました。
 そんな中で子育てが始まりました。心の奥に、子どもだけはどもって欲しくないとの思いがありました。結婚生活の中でも吃音を隠し、できるだけ話すことから逃げていました。次男もうまれ、長男は1、2回どもりかけていましたが、何とかおさまっていたのが、引っ越ししてから、完全にどもるようになってしまったのです。
 先日のNHK教育テレビで、どもりを治すには、親子の心の安定が必要と先生が話しておられましたが、引っ越しや、私がどもることや、他の自分のいやな事から逃げていたこともあり、心の安定からはほど遠い、ひどい状態でした。
 でも、吃音相談会に参加し、他の保護者や、どもる人の体験、そして講師の方の話を聞くうちに考え方が変わってきました。自分自身の吃音も、子どもの吃音もいやで、息子がどもってしゃべるのを聞きたくもなかったのが、どもりながら一所懸命しゃべる息子がいとおしく、この子がずっとどもっていてもいいじゃないかと思えるようになってきました。どもっていても明るくどもりに負けない子に育ってほしいと思い出したら、いらだちがなくなってきました。NHK教育テレビで、子どもがどもっていても許される環境をつくることが必要だと話していたことを思い出しました。
 子どもの吃音を受け入れることができるようになり、家では息子のことばの方は、早口ながら、以前よりは落ち着いています。息子が学校から帰ってきました。
 「お母さん、今日学校で、つまらないで言えたよ」
 「そう良かったね。でもつまったっていいのよ」
 引っ越し以来、うつ状態も続いていた私ですが、少しずつ元気になってきました。今あるものに感謝をもって、三人の子どもを育ててゆきたいと思います。(1989年)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/7

吃音物語は、吃音に悩む人への処方箋 4 「吃音者宣言」と「森田療法」

 昨日は、僕たちが開いている相談会やワークショップに参加した人が、同じようにどもる人に出会って、ドミナント・ストーリーからオルタナティヴ・ストーリーに変えるきっかけになった物語を紹介しました。
 今回は吃音ワークショップに参加して下さった講師の感想を紹介します。これまで、たくさんの方々が講師として参加して下さいました。初めて僕たちと出会った講師の方々が一様に感想として話されることが、どもる僕たちの明るさと、話を聞く態度です。映画監督の羽仁進さんが講演で、「皆さんの、声を出して笑う姿や、声を出しての相づちに、とても楽しく話せました」と話されました。
 大阪吃音教室では、「話す練習」はしていませんが、「聞くトレーニング」をしているので、その成果を評価していただいたように思えて、とてもうれしかったことを覚えています。
 「生きがい療法」実践会の伊丹仁朗先生の感想を紹介します。


   
広い世界で大きく生きるために
                      柴田病院医師 伊丹仁朗

§ユーモア・トレーニング
 「皆さん、こんにちは。柴田病院の伊丹です。少し前、山陰のある病院へお話に行ったときのことです。特急八雲の車窓から眺めていますと、宍道湖の広々とした美しい湖面が続きます。私はどこかで見た景色だなあと思いました。そして、憶い出しました。
 2年前、モンブランに登山したときに、スイス国鉄でレマン湖畔を走ったときの風景にそっくりなんです。そこでついでにつまらないことまで憶い出してしまいました。走る列車の中からレマン湖を眺めていますと、金髪の女性3人が泳いでいるんです。その瞬間私はハッとしました。3人とも水着をつけずに泳いでるんです。(笑)
 私は思わず窓ガラスに顔をつけてもっとよく見ようとしたんですが(笑)、無情にもスイス国鉄は速いんですね、アッという間に通り過ぎてしまいました。(爆笑)」

§笑いの効果
 私はいつも講演の初めに、例えばこんなユーモア・スピーチをするようにしています。そうしますと聴く人も退屈せず楽しく聴いてもらえるだけでなく、話す側の私も緊張がほぐれ、話の内容に集中できる効果があります。
 吃音ワークショップで「生きがい療法」実習のセッションを持たせてもらいました。その冒頭で参加者全員に、ユーモア・スピーチをしていただきました。ところが皆さん、これが上手なんですね。しかも話の内容のレベルが高い。講師の私も3つほど話の見本をしたんですが、その内容はトイレの男女を間違えた話、オシッコをちびりそうになった話、飛行機の機長のウンコの話など、レベルの低い話ばかり。一方、吃音に悩んできた皆さんの話は学校の授業の話、お婆さんの買物の話、霧の中の登山の話などレベルが高いんです。しかも面白い。満場爆笑でした。
 後で何人もの方からユーモア・スピーチのおかげで、話し方よりも話の内容に心を向けるコツが分かり、大変良かったと言っていただきました。

§誰にも役立つ不安解消法
 うまく話せるだろうか、という不安な気分に心を向けるのでなく、話の内容・目的に心を向ける。つまり「気分本位」でなく「物事本位」で取り組むのがコツなんですね。生きがい療法がべ一スとしている森田療法も、この考え方を指針としています。
 これは、話をする場合だけでなく、様々な心配・不安・死の恐怖にも通用するわけです。生きがい療法を活用しているガン闘病者の人々も、病気や死の不安という「気分」はそのままにして、今日一日生きる目標に取り組むという「目的本位」で頑張っています。それによって、結果的に不安に圧倒されることなく、有意義な生き方ができるわけです。
 私が『吃音者宣言』」を知ったのは8年ほど前だったと思います。その内容がここで述べている森田療法の考え方と同じであることに、当時驚いたのを憶えています。その後の経験を通して、こうした考え方はガン患者・吃音者・神経症ばかりか、全ての社会人の不安の解決と建設的行動の指針として役立つことを知りました。

§社会に貢献することを考える
 「病気になっても、病人にならないようにしよう」
 これは生きがい療法のコピーの一つです。体内にガンを持っていても、それは自分の人生の一部分に過ぎない。病気に負けずに社会人としての役割、目標にチャレンジすることを勧めているのです。ですから生きがい療法でガン闘病中の人は、例えば造船所の現場作業員、学校の先生、OL、印刷屋さん、看護婦さん、様々な職業を通じて良い仕事をして、社会に貢献することをめざしています。今回私と共にワークショップの講師で来ました藤原さんも、子宮ガンに負けずに主婦の仕事ばかりか、京都国体のボランティアや看護学校で体験談を話したり早川一光先生とラジオ対談したりと、社会に貢献されています。そして、ガンになる前よりも、生きがいや社会実践がもっと大きくなったと言われています。当然、ユーモア・スピーチの能力も…。

§ガンや吃音を持ちつつ優れた仕事を
 私は最近「ガン患者」に対する社会のイメージが、着実に変わりつつあるのを実感しています。ガン患者は同情されるべき特別な人々ではなく、普通の社会人と同じ又はそれ以上に有意義に生き、社会に貢献している人なのです。その点でも、吃音を持ちつつ優れた仕事、社会生活の実行をめざす『吃音者宣言』の考え方と生きがい療法の共通性を感じます。
 でも違う点もありますね。生きがい療法は登山は得意ですが、ソフトボールは得意ではないんです。皆さんがワークショップ中、毎朝6時起きでソフトボールをされるのには、びっくりしました。それはともかく、生きがい療法をやっているガン闘病者の人々が、社会のいろんな場所でみなさんと出会うことがあると思います。そのときには、お互い社会人として仕事と生きがい達成のため協力し合っていきましょう。
 広い世界の中で、大きく生きるために。(1989年)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/6

吃音物語は、吃音に悩む人への処方箋 3

 どもる人が、体験としてよく書くものの一つに、どもる人との初めての出会いがあります。吃音の発生率が人口の1%だとすると、本当はこれまでに出会っているはずなのですが、「初めて、どもる人に出会った」という人は少なくありません。それは、どもる人が、どもりたくないために、あまりどもらないようにしているからです。
 吃音に対するネガティヴな物語、言説が「吃音と共に豊かに生きる」ことを著しく阻害しています。一度もってしまった物語を、ナラティヴ・アプローチでは、「ドミナント・ストーリー(思い込みの物語)」と呼びます。このドミナント・ストーリーが吃音に悩む人の精神的な苦痛の源泉となっている支配的なナラティブです。
 この、悩みの源泉となっているドミナント・ストーリーを発見し、それを、「オルタナティブ・ストーリー(代替の物語)」に変えることは、とても一人の力ではできにくいようです。実際に僕も、小学2年生の秋からもった、ドミナント・ストーリーを発見し、変えていくことができたのは、初めて同じようにどもる多くの人に出会ってからでした。
 21歳まで持ち続けたこのストーリーを変えることができるほどに、「同じような体験をした人との出会い」は大きな意味をもつのです。
 吃音相談会や吃音ワークショップや吃音親子サマーキャンプなどでの「吃音と共に豊かに生きている人」との出会いが、「オルタナティブ・ストーリー」に変えていくきっかけになったと語る人は多いです。成人のどもる人と、保護者の物語を紹介します。

  
幸せを感じたワークショップ
                  山中 高志(小学校教員)

 ワークショップに参加した中で、私は自分が幸せだと感じた。今まで、私は吃音のために、自分は非常に不幸であると思い続けてきた。
 人と人を比べるのは、時に差別や羨望につながり、必ずしも良いことではない。しかし、多くの人を知ることは自分自身を客観的に見る機会を与える。私はどもる人のセルフヘルプグループに参加し、多くのどもる人と出会い、いろんな話をすることができた。これまでどもる人と出会ったことがなく、吃音については親とも友だちとも話したことがない。誰に話しても、分かってくれる感じがしなかったからだが、もうひとつの理由は、特定の音や場面ではかなりどもることがあっても、うまく切り抜けてきたために、周りの人は私の吃音は知らないからだ。教員生活の中でも、子どもたちの前で話す時はもちろんのこと、職員室でも必要最小限のことしか話さないから、同僚の教員は私がどもることをほとんどの人は気づいていないだろうと思う。
 しかし、ひとりで悩んでいた頃は、自分のどもりこそ最大の悪であり、不幸の源泉であり、許すべからざることであった。その恥ずかしい吃音について誰かに話すことなど、到底できることではなかったのだ。
 ところが、大阪吃音教室に初めて参加した時、吃音は治りにくいという事実を知らされ、吃音といかにうまくつき合っていくために学び合っていることを知った。吃音が治らないなら死ぬしかないと思いつめていたのが嘘のように、治らないものなら仲よくするしかないと、きわめて自然に思えるようになった。それは、理屈が先行して納得したというような性質のものではない。目の前で実際にそのようにして生きているたくさんの人に出会って、感動したからである。仲間がたくさんいることは、今の私にとって幸せなことである。 だからその後知った、吃音ワークショップも、たくさんの仲間に会いに行こうというのが私の参加目的であった。見事にその目的は達成された。その目的だけでなく、吃音とうまくつきあうための理論や方法論も学ぶことができた。そして、とてもありがたかったことは、そのワークショップで取り上げられていたテーマは、私の教員生活を豊かにし、子どもとうまくつきあうためのヒントをたくさん学べたことだ。



 
多くのどもる人が生き生きと生きていた。この貴重な体験を子どもに話したい

                          栗本 美由紀
 
 私は一児の母で、母子でどもります。そして子どもの職業を勝手に私が決めていました。話す職業はダメだろう。いえ仕事をすれば必ず話さなければならないから、仕事に就けず、ひとりでは生きていけないのではないか。この子は、どうやって生きていくのだろう、子どもが生活の中でひどくともった時には、そのことを考え、ワークショップに参加するまで暗い日々を送っておりました。
 ところがどうでしょう。皆さんの生き生きとした態度、その職業のすばらしさ、世間で一目置かれる方々の多かったこと。話す職業に就かれている方がむしろ多かったのです。学校の先生や看護師さん、車のセールスマンとか、一日中話さなければならない職業に就いていたのです。そしてその方々の、どもりながら話すときの楽しそうなこと。どもることよりも、話の内容のすばらしさに聞き入ってしまいました。
 どもると相手は話の内容が分からず、疲れるのではないかと思っていました。ところが、人のどもるのを聞いても、どもることより話の内容を聞きたいと思うものだと分かりました。それならどもることにこだわらず、楽しく話した方がよいのではないかと思うようになりました。
 子どもの将来を親が決めてはいけないのです。たとえどもることで悩んだとしても、それは子どもが自分で解決していくことで、私は今回の貴重な体験を子どもに話してやることだけでいいのではないかと思うようになりました。たとえどもっていても立派に生きている人たちのいることを。そして、どもっていてもあれだけ大きな、有意義なイベントを催されたことを。
 私自身もどもるから何もできないと自分に甘えないで、これからはいろんなことを勉強し、可能性に挑戦していこうと思います。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/5
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