昨日、吃音にまつわる早春のほろ苦い感覚についての文章を紹介しました。
今日は、「本番に強い」僕の出発点の物語です。僕はこの経験で、「本番に強い男に変身した」と書いています。確かに僕は仲間や家族と話すときにはかなりどもっていても、大勢の前など緊張する場面では、適度な緊張が幸いするのか、普段よりはどもりません。なぜそうなのか、記憶がどんどん薄れていきますが、こんなことが出発点だったようです。
「本番に強い男」で一番記憶に残っているのが、1986年の夏、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会です。
世界の人々を招いて、400人が参加した世界大会、受付の段階からハプニングが続きました。ホテルの確保が大変で、イギリスの臨床家、レナ・ラスティンと、もう一人誰だったか女性を、ツインルームにしたのですが、絶対に一人でないと嫌だと抗議してきました。 今、思うと、当然の抗議だったと思いますが、セルフヘルプグループでの集まりで相部屋になるのは普通のことだったので、つい同じようにしてしまったのです。別のホテルを探すなど、てんやわんやでした。いろんなことが重なり、開催初日の前日は、睡眠がほとんどとれませんでした。そして翌日、大会が開幕しました。
まず、僕の大会会長の基調講演です。みんなは心配してくれましたが、僕は「本番に強い男」です。何の不安も心配もなく、壇上に上がりました。しかし、さすがの僕も、連日の準備の疲労と、前日に眠っていないことが影響したのか、のどがからからになり、しゃべりにくくなっています。講演は60分、同時通訳者のために事前に原稿を渡してあります。自分では堂々と原稿を読み上げて、やはり僕は、本番には強いと、満足して壇上を後にしました。
ところが、後で、同時通訳者から原稿1ページ飛ばしていて、びっくりしたと言われました。1ページも飛ばしながら、自分では気づかない、聴衆も1ページ飛ばしていることに気づいていない。つまり、1ページ飛ばしながら、つじつまが合うようにうまくつないだことになります。「本番に強い男」なら、1ページ飛ばすことはないだろうと思うし、それでもつじつまを合わせたのはさすがだと周りの人は言うし、おもしろい体験でした。
では、本番に強いルーツです。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/16
今日は、「本番に強い」僕の出発点の物語です。僕はこの経験で、「本番に強い男に変身した」と書いています。確かに僕は仲間や家族と話すときにはかなりどもっていても、大勢の前など緊張する場面では、適度な緊張が幸いするのか、普段よりはどもりません。なぜそうなのか、記憶がどんどん薄れていきますが、こんなことが出発点だったようです。
「本番に強い男」で一番記憶に残っているのが、1986年の夏、京都で開いた第1回吃音問題研究国際大会です。
世界の人々を招いて、400人が参加した世界大会、受付の段階からハプニングが続きました。ホテルの確保が大変で、イギリスの臨床家、レナ・ラスティンと、もう一人誰だったか女性を、ツインルームにしたのですが、絶対に一人でないと嫌だと抗議してきました。 今、思うと、当然の抗議だったと思いますが、セルフヘルプグループでの集まりで相部屋になるのは普通のことだったので、つい同じようにしてしまったのです。別のホテルを探すなど、てんやわんやでした。いろんなことが重なり、開催初日の前日は、睡眠がほとんどとれませんでした。そして翌日、大会が開幕しました。
まず、僕の大会会長の基調講演です。みんなは心配してくれましたが、僕は「本番に強い男」です。何の不安も心配もなく、壇上に上がりました。しかし、さすがの僕も、連日の準備の疲労と、前日に眠っていないことが影響したのか、のどがからからになり、しゃべりにくくなっています。講演は60分、同時通訳者のために事前に原稿を渡してあります。自分では堂々と原稿を読み上げて、やはり僕は、本番には強いと、満足して壇上を後にしました。
ところが、後で、同時通訳者から原稿1ページ飛ばしていて、びっくりしたと言われました。1ページも飛ばしながら、自分では気づかない、聴衆も1ページ飛ばしていることに気づいていない。つまり、1ページ飛ばしながら、つじつまが合うようにうまくつないだことになります。「本番に強い男」なら、1ページ飛ばすことはないだろうと思うし、それでもつじつまを合わせたのはさすがだと周りの人は言うし、おもしろい体験でした。
では、本番に強いルーツです。
本番に強い男
伊藤伸二
小学校3年生頃からずっと、本読みや発表のある授業は苦手だった。中学校の時は、どもって立ち往生することが多かった。高校になると、そのみじめな立ち往生に耐えられなくて、よく授業をさぼった。
どうしても言わなければならないことを言うときや、人前での発表や話などは、ほとんど必ずどもって失敗した。いざという時にことばが出ない、本番にはからきし弱い男だった。
1966年4月3日。待ちに待った言友会の発会式。幹事長の私が、見知らぬ大勢の人の前で10分程度、これまでの経過を報告することになっている。
発会式の準備をしている間も、本番での報告が頭から離れない。不安と緊張で、胸がしめつけられそうだ。その不安はことばに正直に現れ、時間が近づくにつれ、だんだんとしゃべりにくくなってくる。席の配置などの準備、段取りの最終チェックの間中、ひどくどもり続けた。
「伊藤、そんなにどもって大丈夫か。俺が代わって報告しようか」
と丹野裕文会長が言う。他のメンバーも同調する。それほどひどくどもっていた。
高校時代の私ならおそらく、このことばに飛びつき、代わってもらっていただろう。しかし、どもる仲間を知って、リーダーになってからは、話す場面からは決して逃げないでおこうと心に決めていた。
「だ、だ、だ、大丈夫ですよ。今これだけどもっていれば、本場になると却って落ち着きますよ」
不安がないわけではない。普段より調子の悪いことが私を開き直らせた。どもる人の会の発会式だ。どもった方が、却っていいのではないかと思い込もうとした。
会長のあいさつの後、私がスポットライトを浴びて、高い壇上に立った。不思議と落ち着いている。10分間の報告は実に堂々としたものだった。
皆が後で、口々に良かったとほめてくれた。たった1回のこの経験が、私を本番では実に強い男に変身させた。(1994.7.1)「どもる人のための書くトレーニング」より
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/16