伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年03月

全国巡回吃音相談会、旅立つ前のドタバタ

 全国巡回吃音相談会は、今から考えれば、かなり大きなプロジェクトだったようです。当時の私は、ただ勢いに任せて走っていただけですが、後になって大きなできごとだと分かりました。相談会での講演記録は、後で紹介しますが、出発のドタバタを書いた文章がありましたので、前回とダブるところがありますが、紹介します。

 
「どもりで悩んでいるみなさん、私たちとともにどもりについて考えましょう」
 オンボロ車に、スピーカーと横断幕をつけて、旅回り役者の一座のように全国を回れば楽しいだろうなあ、私はそんなどもりの旅をしたいと周りの人に語っていました。
 そんな夢物語が、1975年10月から翌年2月にかけて、全国巡回吃音相談会として実現しました。きっかけは、私が「吃音を治す努力の否定」の前提で、吃音の問題を考えていく方向に確信が持てるようになったからです。「吃音は治らないかもしれないが、吃音を持ったままでもよりよく生きていこう」との考え方を一人でも多くのどもる人と共有したい。そのためにできるだけ多くの人に「吃音を治す努力の否定」の考え方を伝えようと考えたのです。また、「吃音を治す努力の否定」の考え方が、相談・治療機関もなく、ひとりで悩んでいる人にどれだけ受け入れてもらえるか、受け入れられないとすれば、どこに問題があるのか、多くの人に指摘してもらいたいとも思ったのです。
 実際、私の提起に対して、「吃音の程度が軽く、積極的な人ならできるかもしれないが、消極的で、吃音の重い人には無理だ」との批判がかなりありました。また、言友会の内部からも、「どもりを治したいと会に参加してくる人たちに、治す努力をやめようというような話はできない」という意見もありました。それらの批判に向き合い、今後の展望も探る意味でも、全国でひとりで悩んでいる人と話したかったのです。
 多くのどもる人、ことばの教室の先生、どもる子どもの保護者に私の考えを伝えて、批判があれば批判してもらい、再度考えを深めていきたい。ある意味、過激な、これまでとは全く違う視点での吃音の取り組みです。「検証の旅」をしないと先には進めなかったのです。また、吃音の悩みも人様々です。いろんな角度から、どもる人がどのように悩み、どう対処してきたかの「悩みの実態調査」もしたいと思いました。
 そこでチームをつくり、私に同行してくれる人を募りました。伊藤研究室でマネージメントをしてくれる人も数人手を挙げてくれました。悩みの実態調査の項目検討には、大阪教育大学の特殊教育特別専攻科の現職の教員が参加してくれました。私の研究室では夜遅くまで大勢の人が集まり、準備に取り組みました。
 しかし、いざ実行となると、本当に実現できるものか不安も出てきました。なにしろ困難な条件ばかりです。費用にしても、3人で出かけるので、百万円程度はかかると思われましたが、費用がありません。これまで全くつきあいのなかった「ことばの教室」や「親の会」が果たして協力してくれるだろうか。不安はつきません。困難な条件ばかりを考えていると、いつ実現できるかわかりません。とにかくやろうと、覚悟を決めました。
 相談会を開く地域の「ことばの教室」に相談会の主旨を伝え、会場の世話をお願いしました。地域の新聞社やNHKに報道を依頼したのですが、出発2週間前になっても、返事は帰ってきません。焦りましたが、考えてみればずいぶん乱暴な話です。これまで何の連絡もしてこなかった「ことばの教室」へ、突然、吃音相談会を開くから会場を頼むとお願いするのですから。出発3日前、ようやく第1回目の北海道の帯広、そしてつづく東北地方の会場が決まりました。
 そこで、「ことばの教室」と新聞社、私たちが把握しているどもる人に案内とよびかけの文書を送りました。自動車にスピーカー、横断幕というのは実現しなかったのですが、ひとり30キロ近くのリュックを担いで大阪を最終の寝台列車で出発しました。 (つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/30

吃音の対処に大きな展望を開いた、全国吃音巡回相談会 (1)

 前回、大学4年生の時の3か月の「日本一周ひとり旅」で、多くのことを学び、多くのことを得て生きる自信がついた文章を紹介しました。今回は、もうひとつの「全国への旅」です。この旅で僕は、1965年の秋から考えてきた吃音についてのひとつの考え方が、吃音にとって、決定的に大事なことだとの確信を得ました。この旅がなければ、現在の「吃音と共に豊かに生きる」を自信をもって語ることも、その後の展開もなかったでしょう。吃音の問題の対処の歴史にとって、大きな分岐点となる旅でした。
 それが、1975年の全国吃音巡回相談会の旅です。無銭旅行に近い前回の日本一周と同様、これもとても無謀な旅でした。何の見通しも展望もなく、「多分なんとかなるだろう」「最悪の場合、ただ旅をするだけでもいいや」と、後先も考えずに旅立ちました。よくまあ、あんなことができたと、今、ふりかえっても思います。

 大阪教育大学の教員時代、僕は自分自身の吃音に悩んだ人生を振り返り、1965年に設立した、どもる人のセルフヘルプグループでたくさんの仲間との対話を繰り返し、多くの人の体験を整理し、吃音について、これしかないという地点に到達しました。
 「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかの問題だ」の吃音についてのとらえ方です。「吃音を治す、改善する」しか誰も考えなかった時代に、「吃音を治す努力を否定して、自分のより良い人生のためにエネルギーを使おう」は、これまでの吃音の取り組みの全否定ともいえるもので、多くの人が戸惑ったようです。
 世界的にも全くみられないこの吃音に対する発想の大転換が、果たして多くの人に受け入れられるのか、それを検証しないと、次のステップへは踏み出せないと考え、新しい考えが受け入れられるかどうかの「検証の旅」に出ることにしたのです。

 大阪教育大学・言語障害児教育講座の主任教授である、内須川洸先生に全国のことばの教室と親の会に推薦と協力依頼の手紙を書いてもらいました。
 「大阪教育大学の教員である、伊藤伸二が吃音相談・講演会、吃音の悩みの実態調査を計画しているので、会場の設定や広報で協力してやって欲しい」
というものです。出発点である北海道帯広市、札幌市、青森市、八戸市から協力するとの連絡があり、開催日と会場とが決定しました。その後の日程はまったくたっていません。旅が果たして続けられるかもまったく未知数です。それでも、3人で大阪を出発しました。
 相談会・講演会の講師料は必要ないけれど、参加費は無料なので、会場の設定と会場費はことばの教室か親の会で負担して欲しいとお願いしました。交通費と宿泊費は、自分たちで負担しました。僕と一緒に旅をしてくれる大阪教育大学の2人の研究生は、僕と同じ吃音仲間です。
 水戸黄門の全国漫遊の旅のように、吃音黄門の伊藤伸二が、お供の2人である、どもる助さん・格さんの協力を得ての3人旅です。
 3人がそれぞれ10万円ずつ出して、交通費・宿泊費にあてました。僕の研究室には大阪教育大学学生が毎日詰めて、会場の交渉や、開催日時の決定など、スケジュール管理をしてくれます。最初の日本一周の一人旅の時も大きなリュックサックでしたが、今回も大きなリュックサックです。今度は、リュックサックの中に、「吃音の悩みの実態調査」の大量のアンケート用紙が入っています。3人の珍道中は、北海道・帯広市から始まりました。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/28 

伊藤伸二の自分史 10 吃音と、日本一周の一人旅

 僕は吃音に悩んでいた時、いつもひとりぼっちでした。「吃音で一番苦しかったのは」と質問を受けて、僕は、高校二年生の時の九州への修学旅行を挙げます。観光バスやフェリーの座席など「好きな者同士で座っていいぞ」と言われると僕は苦しくなります。仲の良い人がさっとペアやグループを組みます。だいたい僕が取り残されるのです。周りが楽しく騒いでいる中で、ひとりポツンとしているほど惨めなことはありません。一人でいる事もつらいのですが、ひとりぼっちでいることを周りの人に見られていることが、たまらなくつらいことでした。だから、日本一周の一人旅は僕にとって、後から考えると、とても大きな意味をもちました。
 小学の高学年から、僕は、よく夜の町をさまよいました。自転車で海岸に行き、波打ち際で打ち返す波を見ていました。孤独が身に染みました。日曜日には一人で山に登ったり、自転車で遠くの知らない町に行ったり、当時から「放浪癖」がありました。放浪癖があったからこそ、三重県津市から大阪に出て、新聞配達店に住み込み、大学受験の二浪生活の一年間を過ごせたのだと思います。
 今日紹介するのは、どもる人の弁論大会で話したもののようです。
 この頃から僕にとっては「旅」は不要不急のものではなかったのです。


 
旅で得たもの
                          伊藤伸二
 
 「旅」という言葉ほど、私の心をときめかすものはありません。
 大学4年生の時、アルバイトか何かで2万円ほどのお金が手元にありました。さてこの2万円をどう使うか、いろいろと考えました。そこで、ふと日本一周の旅に出ようかと考えついたのです。なぜ2万円が日本一周と結びついたのか見当がつきません。いかに国鉄運賃が安かった時代であったとはいえ、2万円で日本一周ができるはずもありません。
 でもアルバイトをしたり、お金をためている時間がもったいない。卒業論文も書かねばならない。今、この時を逃がすと日本一周はできないのではないか。そう思いつめて、日本一周の旅のことを友だちに話しました。Aから1万円、Bからは2万円と何人かに頼み込んで、なんとか8万円ぐらいのお金が工面できました。費用を安くするために、スリーピングバッグ、大きなリュックサック、いろんなものを買い集めますと1万、2万のお金が吹っ飛んでしまいました。それでもなんとか3ヶ月一人で日本一周をするんだと思いつめて、私は東京を出発いたしました。
 「エンヤドット」と元気のいい歌声が流れて観光客を迎えています。日本三景のひとつ松島に着いた時は3日目ぐらいになっていたでしょうか。私一人が浮かぬ顔で、その間ひとこともしゃべっていません。一人旅ですから当然なのかもしれませんが、しゃべらない。いや、このままいくとつまらない旅になりそうだ。なんで一人で出てきたんだろうか。非常にさびしい思いに、それもみんなが楽しそうに旅行しているのを目のあたりにしていますから、さびしさは余計につのります。
 でも、自分はどもりだから、気軽に他人にしゃべりかけられない。どうしてきっかけを作ってしゃべりかけようかと。みんな、それぞれグループを作っていますから、それぞれ仲良く楽しく話をしています。そこへうす汚い服装の人相の悪い男が話しかけても、受け入れてくれるはずもありません。
 松島をあとにして中尊寺へ。そのころにはもう6日目くらいに入っていたでしょうか。何かのきっかけである男性と話をしました。何を話したかのか、もちろん覚えていません。けれども、その中尊寺のどこかで話したことがきっかけとなって、それ以後、話すことができるようになりました。その時には、どういう話しかけをしたらいいのか、どう話しかけたらおかしく思われないのか、そんなことはあまり考えませんでした。
 それから3ヶ月間、北は北海道の礼文島、利尻島、南は沖縄の一歩手前の与論島まで。当時沖縄がまだ返還されていない時で、沖縄に行くにはパスポートが必要でした。だから、文字通りの北の果てから南の果てまで、一人で旅をしたわけですが、一人でいることはほとんどありませんでした。宿泊した先がユースホステルが多かったので、そこでいろんな人たちと知り合うことができたし、街の中で気楽に人と話すこともできたし、与論島では鹿児島からの船の中で知り合ったおばさんが「学生さん、今日の泊まる所はあるんかいな」「いや、別に行くあてもない」「もし良かったら、うちへ泊まっていきなさい」。与論島で1週間1銭も払わないで泊めてもらいました。多くの人にトラックや自動車に乗せてもらいました。様々な人々から多くの親切を受けながら、総額約8万円くらいで日本一周の一人旅ができました。
 それまでの僕は、自分に自信がありませんでした。僕は家族、親戚以外の他人から好かれるはずもない、特に女性にはもてないであろうという自信がありました。でも、この旅が、その自信を打ち砕いてくれました。どもっている自分を、多くの人たちが受け入れてくれました。そして、その人たちと仲良く一緒に行動している自分自身を好きになることができました。それと、いろんな人とのふれあいや、行く先々の風景で感動する心をより育てることができました。
 函館山から見た夜景は一緒に登った人がいい人だったせいかもしれませんが、思わず涙がこぼれました。知床の夕日、与論島の珊瑚の砂浜、これらの場所では何時間もじっとしていました。いろんな所で見た様々な景色と、いろんな人々が、いまでも写真を見ると鮮明に思い出されます。一人で3ヶ月、自分だけの力で旅をしたおかげで、繰り返しますが、自分自身が好きになれました。そして、ものごとに感動する自分に気づきました。そして、以前よりはるかに明るくなれました。そして、何よりも自分のどもりを、確実に受け入れることができました。これらのことは、僕が一人旅で得た、大きな成果でした。(1984.6.15)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/26

伊藤伸二の自分史 9 吃音の悩みと服装、外見を整える

 吃音に深く悩んでいた、小学2年生から21歳までの13年間、その5倍以上の時間が経過した今、苦しかった時代がどんどん忘れ去られていきます。早く、自伝小説的なものを書きたいと思いながら、まったく手つかずのままに日が過ぎています。今、段ボールに入っていた、過去のニュースレターの中に、過去に書いた文章をみつけると、とても懐かしい思いが広がります。今日、紹介する文章は、ニュースレターの中のものではないので、いつ書いたのか不明ですが、僕にとっては大きな出来事でした。
 この体験で外見も形も大事だとの思いを新たにしました。これは、父親の影響です。父については文章は全く残っていないので、「赤シャツ」の前座として少し書きます。
 父は、明治生まれの人間としては背が高く、180センチほどはあったでしょうか。三人の息子は誰も父親の背を抜くことはできませんでした。大阪の船場で、親の材木関係の仕事を継いだものの、戦争の影響で倒産し、吃音を治すためにと打ち込んでいた「能楽・謡曲の師範」を生業として6人家族の生計を立てていました。敗戦の後、趣味にお金を使う余裕がない中で、「お弟子さん」も少なく、極めて貧しい生活を余儀なくされていました。しかし、いつも着慣れた和服姿で颯爽と町を歩いていました。まだお金があった時に買いためていた「和服」は質屋に入れたものも多かったはずですが、多少残っていたのでしょう。
 貧乏なとき、つらい、苦しいときほど、「身なりはちゃんとするものだ」が口癖でした。それが「赤シャツ」を着ることにこだわったルーツだと思います。

    
赤シャツ
                 伊藤伸二
 何度も何度もその店の前を通りすぎた。今日は必ず買おうと下宿を出て、アルバイトに行く途中のこの店の前に来る。この男性洋品の店に真赤なスポーツシャツが吊るされているのを見てほっとする。
 陰気で地味で目立つことのできない私は、学校での講義、集会等、人の集まる所ではいつも隅っこにいる。髪型もオーソドックス、くつは黒ぐつ、上着はいつもくすんだ茶色か灰色、ズボンも汚れが目立たないものばかり、どもりの暗さをほぼ完壁に身にまとっていたのであろう。
 こんな自分を変えたい、明るくなりたい、どもりから解放されたい、どもりにがんじがらめになっていた私が、なぜ「赤シャツ」に目をつけたのか、今では思い出せない。ただ過去の暗い自分と訣別するのに一番手っとり早い方法だと考えたのだろうか。
 あの「赤シャツ」を着れば何かが変わる―そのような気がして半ば強迫的に思いつめた。しかし、長年の習慣を打ち破るのは簡単なことではない。
 赤シャツが買えない。
 どもるから買えないのではない。ぶらさがっている赤シャツを手にとって札に書いてある代金を手渡せば手に入るのだから。それなのに、10日間も買えずにいる自分が腹立たしい。
 それがなぜ、11日目に買えたのかは思い出せない。11日目に赤シャツを手にしたときは宝物を手に入れたような気持ちになった。アラビアンナイトに出てくる魔法のジュウタンがちょうど私の赤シャツにあたるのだ。急いで下宿に帰って着てみた。今までの地味な自分を見慣れているので、赤シャツを着た自分が別人のように見えた。いかにも軽薄な間抜けに見え、これだったら灰色の方がよっぽどいいやと思い、何度も着替える。似合わない。一体どんな人がこんな赤シャツを着るのだろうか。
 赤シャツを買うまでに11日間、そしてそれを着て町に出るのに7日間、ずいぶんばかげた話だが、当の本人は真剣そのものだった。赤シャツを着て町に出たときは、18日間もかけてひとつの仕事をやりとげたという充実感でいっぱいだった。町のみんながふりかえる、そんな気恥かしさを感じながら、昼の新宿の町を一人で歩いた。
 ひとつの赤シャツをきっかけに、私の服装はずいぶん変わった。目立つ色やデザインのものを平気で着ることができるようになった。初めの頃、全く似合わなかった赤シャツも、今ではピッタリ似合うから不思議なものだ。
 23歳のとき、ひとりで3か月の日本一周の旅に出た。そのときの写真を見ると赤シャツだらけ。そして、その横にはほとんど女性が一緒で、知床で、桜島で、赤シャツを着たうれしそうな顔が笑っている。
 陰気な、くすんだように目の輝きのない高校生時代の写真とは全く別人のようだ。

                  
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/25

伊藤伸二の自分史 8 「そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ」と、僕に投げかけられた母親からのことば

 思いがけずに母とのことを詩のような形で書きました。文章はたくさん書いていますが、詩のようなものはこれだけです。詩のように書いた方が書きやすかったのでしょう。
 後日談です。もう25年くらい前になるかと思いますが、縁あって、東京都内の小学校で、一般の保護者向けの講演をしたことがあります。どもる子どもの保護者にはたくさん話していますが、その日は吃音がテーマではなく、一般的な子育てや教育についてでした。90分ほどの話を終えた後の質問の時間に、一番前にいた保護者が「伊藤さんのお母さんはどんな人だったんですか」と質問しました。とっさのことだったので、用意はありません。やはり一番記憶としてある「うるさいわね、そんなことをしても、どもり治りっこないでしょ」と母親から言われて傷ついたとの話をしました。すると思いがけない反応が返ってきました。
 「いいお母さんですね」
 びっくりしました。僕は、その日は母親の体調が悪かったのだろうと考える程度にして母親のことばに納得していたのですが「いい母親ですね」とは。「どうしてそう思われるのですか」と尋ねると、「どもりを治そうと必死になる必要はない。あなたは、あなたのままでいいじゃないかと、ことばはきついかもしれないけれど、子どもに伝えたかったんじゃないでしょうか」とおっしゃるのです。初めて聞いた、考えてもいなかった視点でした。「そうかもしれない」と思い始めました。そう考えると過去の出来事が、違う景色に見えてきました。そうでもして、「お前は、お前の、そのままでいいんだよ」と伝えたかったのだと思えるようになりました。昨日の続きです。

 
母へのレクイエム 2

母の晩年に
思いがけずに母と二人で暮らす生活が持てた
二人での生活の始まった日
母はとびきりのごちそうをっくってくれた
ぶりの照り焼き、おつくり、蛤のおすまし、野菜の煮物
この年になって僕は母を独り占めにした
その料理のひとつひとつに
傷ついた僕への思いやり、励まし、応援がこめられていた
ふたたび僕は母の愛につつまれた
ちょっと僕は幸せだった

「僕がどもりを治すために練習していたとき
うるさいわねと言ったこと、覚えている?」
八十歳の母に聞いてみた
よく覚えていると母は涙ぐんだ
僕は大阪での孤独の中で
母への思いを取り戻したが
母はずっと息子への懺悔の気持ちを持ち続けていたのだった

母さんのあのことばで
僕はどもりにすごく悩むようになったけれど
今は、それがよかったと思っている
どもりにあれだけ悩んだから
どもりについていろんなことができるんだから
母は本当にうれしそうに笑った

五月七日、突然の病院からの電話で
病院に駆けつける時、母物映画を見たときのあの不安が
胸一杯に広がった
朝出掛けるときは元気だったのに
突然倒れての入院
病院にやっと着いたとき
母はベッドで上半身裸にされ
蘇生のマッサージを受けていた
母はまだ温かかった

息子の顔を見た医師は
しばらくして、「もうやめていいか」と聞いた
うなずくしかなかった
温かかった母のからだはすっと冷たくなった
やすらかな眠り顔だった

葬儀のあと本棚から母の日記を見つけた
五月三日から五日まで息子が出掛けていないと書いてあった
ゴールデンウィークの
息子のいないひとりでの食事
ゴールデンウィークを息子と過ごしたかった母が
晴れやかな休日をひとりで過ごす寂しさを
日記に書いていた
出掛けなければよかったと悔いが残った

母の晩年の数年を
一緒に生きることができたこと
母を独り占めにしたこと
僕は幸せだった (おわり)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/23

伊藤伸二の自分史 7 「そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ」と、僕に投げかけられた母親からのことば

 昨日、吃音にさらに深く悩むきっかけとなった「母親のひとこと」の文を紹介しました。その後のことについて、思いがけずに詩として書くことができました。
1998年、詩人の谷川俊太郎さんと竹内敏晴さんの二人のゲストを招いて「谷川俊太郎と竹内敏晴の世界」と題した2泊3日のワークショップを開きました。
その時のプログラムの中で、「谷川俊太郎 自作の詩を読む」のライブの前に、僕たちも詩をつくって、前座として発表することになりました。そこで、急遽作った詩が、今回紹介する「母へのレクイエム」です。
その詩が、「母親のひとこと」の続編のようになっています。
 長くなりますが、2回に分けて紹介します。


  
母へのレクイエム
                    伊藤伸二

   ♫ 動物園のらくださん
     まんまるお月さん出たときは
     遠いお国の母さんと
     おねんねした夜を思い出す

     元気でいますと お月さん
     砂漠のお空を通るとき
     お伝え下さい 僕たちの
     やさしいやさしい 母さんへ

     教えてあげましょ お月さま
     月夜に 僕らの見る夢は
     恋しい母さん 待っている
     砂漠のお家へ帰る夢 ♫

小学校へあがる頃
母はよく僕をひざの上にのせ
この童謡を歌ってくれた
胸のあたたかさと声のやわらかさが僕をつつんだ
僕は幸せだった

遠足、運動会が大好きだった
母が色どりよくつくってくれた弁当を
友達に自慢げに見せながら食べるとき
母の笑顔が浮かんだ
僕は幸せだった

母物映画が流行った頃
学校の講堂や夜の公園で
時々母物映画をみた
決まって楽しい母は出てこない
いつも悲しい結末の映画だった
その映画を涙をぼろぼろこぼしながら見ているとき
いつも胸騒ぎを覚えた
母はどうしているだろうか
映画が終わるのを待ちかねて
僕は思い切り家までかけもどる
元気な母の顔を見てほっとする
息せききってかけもどった息子が
まじまじと自分の顔を見て笑うのを
けげんそうな顔で母は笑っていた
僕は幸せだった

小学二年生の秋から
僕はどもりに悩み始めた
授業では本が読めずに立っていただけ
懸命に読んだ僕の音は
タ、タ、タ、タタと激しく音を重ねる
つらかった、苦しかった
そのつらさは母にも言えなかったけれど
きっと母は分かってくれていると思っていた
僕はその母がいることだけで
つらい学校生活を耐えられたのかもしれない
どもりに悩み始めてからの僕は
運動会が嫌いになった
弁当を見せ合う友達が
ひとりもいなくなったからだ

「うるさいわね、そんなことしてもどもりが治るわけないでしょ」
中学一年生の夏
僕がどもりを治すために発声練習をしていたとき
このことばが飛んできた
聞くはずのない言葉
聞きたくない
これまでの母への思いが一瞬のうちに
凍りついた
「なんでそんなこと言うんや」
涙がぼろぼろこぼれた
そのときから僕は母が嫌いになった
なんて僕は不幸せなのだろう

生活の中での必要なことば以外
僕は話さなくなった
母の声は、気持ちは
もう僕に届かなくなった
学校での孤独、家での孤独
僕は本当のひとりぼっちになった
僕はどもりのために友達と母を失った
どもりを治したい
その思いばかりがふくらんだ
僕は不幸せだ
一浪の末にまた大学受験を失敗
いつも鬱々とした気分
冷たい家での勉強、早く家を出たい
勉強は身に入らずいつもボーとしていた
大学に受からないのは当然だった
逃げるように家を出た
田舎からふろしきに教科書を包んで大阪へ
何が待っているのか分からないが
母と離れることの寂しさは
全く感じなかった
母物映画を見ているときの
不安な気持ちは味わいたくてももう味わえなくなっていた

大阪の僕は本当のひとりぼっちだった
家庭の中で孤立していたときとは
まったく違う孤独感
気が遠くなるような寂しさ
月がきれいな夜には決まって
母を思い出した
まんまるお月さん出たときは
僕は動物園のらくだになっていた

母物映画で流した涙がまた
戻ってきた
「うるさいわね」
と言った母よりも
動物園のらくださんを歌ってくれている母の方が思い出された  (つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/22

伊藤伸二の自分史 6 母親のひとこと

 僕には、吃音にまつわるいろんなエピソードがあります。その中でも最大級の出来事が今回紹介する「母親のひとこと」です。この出来事があるまでは、学校ではどもることで嫌な思いをし、友だちもなく孤独でしたが、家庭の中は温かく、いい家族でした。学校に居場所はありませんでしたが、家庭の中では居場所がありました。
 ところが、中学2年の夏のこの出来事で一変します。家庭にも居場所がなくなりました。母親とは口をきかなくなり、父親とも、きょうだいとも仲が悪くなりました。冷たい家族の中で大学受験の二浪生活を過ごしたくないと思い、三重県の津市から大阪に出ました。これは、最後の家出でした。こうして僕の、家族の中での孤独は、「母親のひとこと」のできごとから、大阪の新聞配達店に住み込んでの一年間の浪人生活を送った20歳まで続きました。

  
ひとこと
                      伊藤伸二

 人には「これだけは聞きたくない」ということばがある。ましてそれが母親から言われたことばであれば、その人の人生をも狂わせることになることがある。母の「うるさい」のことばは、私にとって、家族との関係を壊してしまうほどの、決定的なことばになった。 『どもりは二十日間で必ず治る』
 中学2年生の夏休みに入ってすぐ、小遣いをあつめて本屋でこの本を手にしたときは、天にも昇るような気持ちになった。これで僕のどもりの苦しみから解放される。夏休みの間に練習すれば、秋の新学期には、別人になって学校へ行ける。その日から、毎日の訓練の日課が始まった。口唇を十分にマッサージをしてから、大きな声で「あーいーうーえーおー」と発声練習をして、本に書かれている文章を、その本の書かれている独特の発音の仕方で読み上げる。大きな声を出すために、近くの小さな山や、人のいない河原で練習を続けた。毎日練習をしないと、せっかくの成果も水の泡になるというようなことが書いてある。毎日、毎日練習を続けた。
 ところがその日は、日曜日で、大きな台風が昼間に通過すると予報が出ていて、実際に暴風雨が直撃している。家族は全員家にいる。呼吸練習なら静かにできるが、発声練習はそうはいかない。今日一日くらい休んでもいいとも思うが、一日も欠かしてはいけないと書いてある。どうしようかと迷ったけれど、やはり練習することにした。呼吸練習や、口のマッサージの後、母親の鏡台の前で、「あーいーうー」と大きな声を張り上げた。
 「うるさいー、朝っぱらからなによ、そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ。やめてよ」
 母親の大きな怒鳴り声が飛んできた。一瞬耳を疑った、聞きたくない、聞くはずのない母親のことばだ。母親のことばだとは信じたくなかった。
 「この本には、親子で一緒に練習して治したと書いてある。僕は自分で治そうとしているのに、なんでそんなこと言うんや! くそババア」
 その日は体調が悪く、いらだっていたのだろう。そう思いたい。そう思っても許せない。不思議とどもらずにまくし立てた。涙がボロボロこぼれた。母も悪かったと思ったのか泣いていた。私は泣きながら、普段あまり勉強もしないくせに、風呂敷に教科書を包んで、暴風雨の吹き荒れるなか、家を出た。中学二年の夏、私の暗い人生がスタートした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/21

伊藤伸二の自分史 5 吃音を否定し、吃音から逃げる人生のはじまり

 僕が過去に書いた文章を紹介していますが、「卓球」の文章は、今思い返しても涙ぐんでしまうほど、悔しい体験でした。ここから、僕の本格的な「逃げの人生」がスタートしたと思います。それまでも、どもるのが嫌さに、音読や発表から逃げ、友だちとの人間関係からも逃げていたのですが、この「卓球部退部」が、その後の僕の人生に決定的な影響を与えました。それも、高校1年の初っぱなのできごとですから、これが高校生活全般に大きな影響を与えました。今から振り返れば、どうしてここまで、どもることが嫌だったのだろうかと思いますが、これが当時の僕の現実でした。本当に「損をした」との思いが強いので、後に続く人たちに僕のような経験をして欲しくないと考えて、この「卓球」の文章を、とても大切な文章だと思っています。
 

  
卓球
                           伊藤伸二

 「部長、私、一身上の都合で卓球部やめさせていただきます」
どもりながら、これだけ言うのが精一杯だった。
 「なぜだ」の部長の声を背中で聞きながら、それに答えることもなく、足速に体育館を去った。
 もう振り返りはしない。しかし、一足ごとに寂しさが、悔しさがこみあげてきた。このときほど、どもりを恨んだことはない。
 
 どもりに悩み、暗かった中学校生活で唯一の救いであった卓球。国語の時間、英語の時間、どもって立往生した嫌な気分も、汗を流して白球を打ち込むことで忘れることができた。非行に走りそうな私をかろうじて支えてくれたのが卓球であった。
 高校入学と同時に、当然のように卓球部に入った。中学校の県大会で競い合ったライバルと今度は仲間として磨き合う。高校時代の唯一の救いとなるはずだった卓球。その卓球に、今日、さよならをする。
 期待より不安いっぱいの高校生活のスタート。入学式のとき、気になる一人の女生徒がいた。清楚な姿に魅かれ、入学式の間中、彼女の横顔をみつめていた。
 卓球部に入部して初めての練習日、私の胸は高鳴った。あの彼女も卓球部に入っていたのだ。うれしかった。不安におびえる授業も、放課後の卓球の練習のこと、そこで会える彼女のことを思うとがまんができた。隣の女子のコートにいる彼女の姿が視界に入っているだけで幸せだった。しかし、その幸せな気分も長くは続かなかった。
 4月中旬、新入生歓迎の男女合同合宿の計画が部長から話された。まさか、男子と女子が一緒に練習するなんて思いもよらなかった。合宿となると、自己紹介がある。すぐに、彼女の目の前でどもっているみじめな自分の姿が思い浮かんだ。好きな彼女の前ではどもりたくない。どもりであることを知られたくない。合宿だけをやめようか。しかし、その適当な理由がみつからない。それなら卓球をやめるしかないのか。あれだけ好きで、唯一の楽しみである卓球をやめたくない。それから毎日毎日、そのことばかりに思いをめぐらし、勉強も卓球も手につかなかった。そして、合宿の前日を迎えた。決意をしていたわけではない。直前まで迷っていた。しかし、もう迷うことはできない。合宿は明日から始まるのだ。その日の放課後、練習服に着替えることなく、学生服のまま体育館に入った。部長をみつけ、つかつかと歩みよった。
 この日から私は、一層落ち込んだ。勉強に打ち込むでなく、学校生活を楽しむでなく、ただ自分のどもりを恨んだ。片思いであったにせよ、恋を失い、卓球を失い、私は暗い暗い高校生活へと転落していった。
 私の逃げの人生のスタートであった。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/20

伊藤伸二の自分史 4 正義感ゼロ

 映画が好きで、よく映画館に行っていたと、昨日、書きました。僕が中学生の頃は、中学生がひとりで映画館に行くことは禁止されていました。そういう規則があることは知っていましたが、寂しさ、孤独を紛らわせるためには、僕には、映画は必要なものだったのです。何度も補導されましたが、今日紹介するエピソードは深く記憶に留まっています。
 「今週は補導週間で、警察も補導員も出るから、今週はおとなしくしていろよ」
 担任から言われていました。しかし、僕にとっては不要不急の映画館通いではなく、生活の一部として必要だったのです。石田秀夫という若手の担任教師に、補導員に捕まったことを報告に行ったとき、頭ごなしに叱るのではなく、「あれだけ映画館に行くなと言ったのに、行ったのには、何か理由があるのか?」と聞いてくれたら、教師と僕との対話が始まり、僕は吃音の悩みを話せたかもしれません。後になってカウンセリングを学んで、このときの教師の対応をよく思い出します。
 もう10年以上も前になりますが、中学校の同窓会に参加しました。その時、この石田先生と会いました。同級生の行方君と僕を呼んで、石田先生は「お前たちふたりは、よく映画館に行ってたなあ」と言われました。僕なんか、全く存在感がなかったので、覚えているとは驚きでした。映画好きのエピソードと、この「正義感ゼロ」はセットとして忘れられない思い出です。
 どもる子どもとの対話が大切だと、今、言っていますが、その原点ともいえる体験のひとつです。


   
正義感ゼロ

                     伊藤伸二

 何も自分が常に正しいことを考え、正しい行いをしているとは思っていないが、「正義感ゼロ」とまで通知簿に書かれると、「僕にも正義感はある」と叫びたくなくなる。
 吃音の悩みの真只中にいた中学3年生。
 高校受験勉強に身を入れなければならない時期なのに、私は映画ばかり見ていた。いつ指名されるかおびえながらの授業は、おもしろくない。家に帰っては、きょうだい4人の中で自分だけが吃音であることをひがみ、いつもいさかいを起こしていた。自分の吃音の悩みを友人にも家族にも一切話さなかった私は、学校でも家庭でも孤立していた。
 吃音の苦しさ、つらさをまぎらわせる唯一のものが、一人でも暗いところでも楽しめる映画だった。中学生は家族同伴でなければ映画館に行ってはいけないという規則はあった。しかし、連れていってくれる親子関係はなく、一緒に行く友人もいなかった。いつ補導の先生に見つかるかの不安を抱きながらも、いつも一人で行っていた。「今の僕の楽しみは映画しかない」と開き直りに似た思いもあった。またそれまで一度も補導されたことはなかった。
 その日は運が悪かった。楽しかった映画が終わり、立ち上がった時、不意に肩をたたかれた。心臓が早鐘のように打った。ついに時が来たのだ。
 翌日、朝一番に職員室の担任の所に行って、昨夜、規則を破って映画を見に行ったことを報告した。
 「悪いことをする奴に限って、少しでも罪を軽くしようと悪知恵が働くんだなあ。補導の先生からの連絡の前に言いにくる」
 担任は軽蔑し切ったような目を私に向けて、はき捨てるように言った。当時の通信簿には行動評価の欄があり、責任感、積極性などとならんで正義感の項目があった。その学期末の通知簿のその欄に赤いペンでバッテンがつけら、「正義感ゼロ」と書きこまれた。
 その担任の私を軽蔑し切った顔は、吃音の嫌な思い出と共に、私の脳裏から消えることはない。  (1990.6.15 大阪吃音教室「吃音者のための書くトレーニング」より)


 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/18

伊藤伸二の自分史 3 何度も同じところで泣いた映画「エデンの東」

 僕が、映画が好きなことはいろいろなところで度々書いています。小学2年の秋から続いている、孤独で寂しい僕の唯一の友だちが、読書と映画でした。いくつもの物語が僕の救いになりました。
 父親が映画が好きだったこと、そのことが僕には大きなプレゼントになったのでしょう。小学生で、字幕を追うのが大変だったろうに、洋画が好きでした。週に2度は映画館に通うほどの「映画狂い」でした。三重県津市で上映された、当時のアメリカ映画、フランス映画は、ほとんど観ていると思います。男優では、バート・ランカスターが特に好きでした。そして、好きな映画は、ジェームス・ディーンが主演した「エデンの東」です。
 
        
エデンの東
                        伊藤伸二

 「人に認められない、愛されないことがどんなに辛く、悲しいことか。息子に何か頼みなさい。君が頼りだということを示して上げなさい。このままでは、あなたに愛されていないと信じて、彼は今後生き続けるのですよ」
ジェームズ・ディーンの写真 
 兄のフィアンセだった彼女にうながされて、病床の父は、ジェームス・ディーンの演じるキャルに、口うるさい看護婦を追い出せと頼む。父から初めて頼られた時のうれしそうなジェームス・ディーンの顔にいつもほっとする。
 このシーンにくると、いつも涙があふれた。何度観ても同じだった。映画館を出るとき、恥ずかしいほど目が腫れるほど泣いた。
 どもりの自分が許せなかった。いつもひとりぼっちだった。できのいい兄といつも比べられているように感じていた。中学2年の夏のある出来事からだが、父からも母からも愛されていないと思っていた。兄といつも比べられ、いつも認められている兄がうとましかった。ジェームス・ディーンはまるで自分そのものだった。
 思いきり涙を流すことで、今の辛さが少し癒された思いがした。映画館を出ると、父への母への兄への恨みが少し和らいだからだ。
 何度も何度も同じ映画を上映の度に観た。その数、30回は越えているだろう。その度に、父を母を少しずつ許せるようになっていくのが分かる。映画を観る回数とその後の人生体験による自分の成長が、歩みを同じくしているのも実感できた。
 どもっている自分が、人から愛されている。そして、恋人に、僕の好きな映画を観に行こうと誘えるようになった。同じ場面で大泣きしたが、その顔を彼女の前でも隠さずにいることができるようになった。一人で観ているときとは全く違う不思議な思いが胸いっぱいに広がる。人に認められ、愛されるようになった私が、これまでとは全く違う立場で、『エデンの東』を観ているのだ。4人きょうだいの中で、私一人がどもりで、きょうだいは比べられた。成績も行いもすべて兄より私が劣っていた。
 清く正しく、誰からも愛された兄、ことごとく反抗し、ひねくれていく弟。このきょうだいの葛藤を描いた『エデンの東』が、辛かった時代の私を救ってくれた。正しかった強かった兄が、結局は破壊の道を歩み始め、誰からも愛されていないと思っていた弟が、兄の婚約者の愛を得たからだ。私も、最終的には兄に負けないかもしれないとの期待を持たせてくれたことも私には大きかったようだ。
 『エデンの東』は今ではビデオがあり、映画館に行かずとも、いつでも好きな時に観ることができる。しかしほとんど観なくなった。私にとって『エデンの東』は、もう必要がなくなったのであろう。
 『エデンの東』とは別のつき合い方ができるようになったが、清く正しいと自分で思っている兄については、昔の感情とほとんど変わっていない。
 今でも兄は、私の嫌いな人間のままだ。(《自分を綴る》1996.7.19)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/17
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