伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2021年02月

第8回吃音講習会の動画を公開しました

 今日は2月28日、今日で2月も終わりです。明日からは3月。時間の過ぎるのがあまりにも早く、戸惑っています。
 毎月発行しているニュースレター「スタタリング・ナウ」(年間購読費5000円)の継続購読をお願いする時期になり、改めて1年経ったんだなあと思っています。読者の皆さんは、一度もお会いしたことがない人も多く、一度だけお会いしただけという人もおられます。送金の際、近況報告など添えていただいているのを読み、大変うれしくありがたく思っています。
 また、いつもなら、来年度、つまり2021年度のいろいろなイベントスケジュールなどをお知らせする時期でもありますが、昨年と同様、コロナの影響がいつまでどこまで続くのか見通しが立たず、なかなかスケジュールも組めない状態です。なんとか、皆さんと直接にお会いできる場を作りたいなあとは思っているのですが。
 せめて何か動画でお伝えできないだろうかと考えました。大阪吃音教室の仲間が、2019年の第8回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会での、僕の話しているところを編集して、You Tubeにアップしてくれました。ぜひ、ご覧いただければと思います。
 第8回吃音講習会は、2019年8月3・4日、僕の故郷である三重県津市で行いました。前日まで、全国難聴・言語障害教育研究協議会三重大会が津市で開かれていて、それに引き続いての開催でした。
 講習会のテーマは、「どもる子どもとの対話〜子どものレジリエンスを育てる〜」でした。対話をめぐる対話と題したシンポジウム、前日の全国難聴・言語障害教育研究協議会三重大会で発表したふたりの報告、吃音を生きる成人へのインタビュー、牧野泰美さんの講座として「対話」のもつ可能性、大阪吃音教室による公開講座、どもる子どもとの対話の実践報告・演習など、盛りだくさんの内容でした。
 今回、You Tubeでアップしたのは、僕が担当した2つの講座です。
ぜひ、お知り合いの方にも広げていただければうれしいです。

ゝ媛擦鮴犬抜く吃音哲学の前提
https://youtu.be/c54Z1gvIhTo

吃音を生き抜く吃音哲学のすすめ〜質問にこたえて〜 
https://youtu.be/WpndIVV0rro

You Tubeを見ていたら、僕が書いた『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版社)を紹介して下さっている動画を発見しました。
https://www.youtube.com/watch?v=FHg4e7ccYgI

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/28

僕と一緒に言友会を創立した丹野裕文さんの自分史 3

 ちょっと芝居がかったような卒業式での様子に、丹野さんらしいなと思いながら、紹介してきました。
 僕は、自己紹介や挨拶、面接などで、どもる人がどもらずにできたという経験を、それほど大きなこととは考えていません。むしろ、逃げ出さず、どもりながらも目的を達成できたということが大きいのだと思います。丹野さんも、断らず引き受けて、どもりながらも最後まで言い切ったことに、大きな満足感を感じていたのではないでしょうか。
 娘さんの感想も合わせて紹介します。娘さんの感想を読むと、丹野さん一家と共に吃音が存在したことがよく分かります。

 丹野さんとはもう25年ほど会っていません。僕の中ではまだ「フーテンの寅」さんのイメージのままです。数年前に少し電話で話しましたが、今、電話をしてもケイタイが通じなくなっています。21歳で出会って、今僕はあと2か月で77歳です。丹野さんは、僕より8歳年上なので85歳です。もう一度会いたいと思うのですが。もし、消息をご存じの方がいらっしゃったら、教えていただければうれしいです。僕としては久しぶりにあのころに帰ったような気分になりました。


 
娘の卒業式に謝辞を読む 3
      東京言友会会長  丹野裕文(歯科医師)

 私は謝辞を読み終わると、それを巻紙に収め、壇上の箱の中に入れ、教職員、卒業生、父兄、そして来賓の方々に深々と頭を下げて私の席に座った。意外と冷静であった。そのうちに、「やったのだ!」「やれたのだ!」という実感が少しずつ涌いてきた。そして、心の中でつぶやいた。
 『娘よ!よく聞いたか? これが、父のこれまでの生きざまなのだ。お前の父は、今までこれだけ苦労して生きてきたのだ。もうお前も十五才、物事の分別がよく分かる年代になってきた。父は晩婚のため、あとどれ位長くお前と共に生きられるかわからないが、父のこの姿をお前の目によく焼き付けておいておくれ。父はこれまで、精一杯頑張って生きてきたのだよ。』
 その後、全員起立して「卒業式の歌」を斉唱したが、私は全身の力が抜け、ただかろうじて立っているだけだった。
 卒業式は無事終了した。司会者の指示で、卒業生は拍手のもとにつきつぎと立ち上がって退場していった。そして来賓の番になり、お偉方を先頭にして退場していった。
 私はまた一番最後に位置し、泣きはらした顔を見られるのが恥ずかしいので、下を向いたまま歩いていった。そして父兄席の前で深く頭を下げると、意外にも多くの拍手を浴びてしまい、何となく照れ臭い気がして、足早に退場したのである。

§式が終わって
 講堂を出て校長室に戻ると、食事の用意がしてあった。そして意外にも、学園長をはじめ多くのお偉い方々が、私に対して称賛のことばをかけてくれた。私は恐れ入ってしまい、隅で小さくなっていたが、ハッと気がついた。
 意を決して、言友会の名刺を持って区長のところへ行き、「私はこういう会を作っており、区に会館がありますので、今後ともよろしくお願いいたします。」と話した。すると、「是非とも応援したい」との返事が返ってきた。
 また、元PTA会長が目を真っ赤にして寄って来られ、「私も四十六年前までは、あなたと同じようにどもりで悩んでいました。今それを思い出して泣けて泣けて仕方がない…」と言われ、私の手を握ったのである。
 その夜、自宅に未知の方から電話があった。「今日の卒業式はすばらしかった。今まで何度か卒業式に出ていますが、あんなに感動したのは初めてです。娘も私も一生忘れることができない卒業式でした。この一言が言いたくて電話しました。どうもありがとうございました…」

 私は今回の謝辞では、不思議なほどどもらなかった。これまでなら、千五百人の前で話すということは、考えてみただけでしりごみしてしまうことであった。日常生活ではほとんとどもることはなくなっているが、かしこまった席での挨拶などは不安が大きく、緊張してどもってしまうことが多かった。だから今回もできれば断りたかったし、うまくやれる自信もなかった。それができた。それも完全にできた、ということは、これからの私の人生にとって、大きな自信をもたらしてくれた。もう私には、話すことに関して何も恐れるものはない。これが、今回の、最高の結論である。


  父の謝辞を聞いて
                      丹野○○
 父が謝辞をすることになって私は「名誉だ、うれしい」という気持ちと「きちんとみんなの前で読むことができるのだろうか?」という不安とが入り混じった複雑な心境でした。父が家で読みを録音してみたら、まるで演説のようでした。私はとても心配になりました。しかし、本人はお風呂の中で暗誦するなどやる気満々でした。
 不安な気持ちのまま卒業式をむかえました。私は講堂に入る前、思わず神様に手を合わせました。どうか父の読む謝辞が成功しますようにと…。
 ゆっくりと、しかし着実に卒業式は終盤へと近づいてきました。謝辞の前の答辞を聞いた時から私はもう半べそでした。とうとう謝辞の番が来てしまいました。私はもう一度いのりました。
 「謝辞」
 父がそう読んだ瞬間、目の前が真っ暗になりました。あの録音テープと同じ読み方だったのです。しかし先へ進むにつれてだんだんと感情がこもってきました。そして、ある部分にさしかかろうとした時、父の声は涙声へと変わっていました。私が卒業することと、自分自身の過去の体験が、一瞬にして脳裏を横切ったのだと思います。私も思わず涙がこぼれました。まわりをチラッと見ると、先生や友達もハンカチで涙を拭っていました。無事に謝辞を読み終えると、来賓、諸先生、父兄の方々、そして友達、みんなのすすりなく声が聞こえてきました。大成功だったのです。誰もが感動したすばらしい謝辞でした。そして一度もどもりませんでした。
 私生活ではいつも脳天気な父ですが、この時ほど誇りに思ったことはありませんでした。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/27

僕と一緒に言友会を創立した、丹野裕文さんの自分史 2

 丹野さんは、人情あふれる熱い人でした。弁論大会で声は鍛えていて、声量もあり、いい声の持ち主でした。カラオケに行くと、ここに紹介している「人生劇場」や、鶴田浩二の歌など、よく歌っていました。熱い思いにあふれる人だからこそ、どもる人のグループ作りに情熱を捧げることができたのでしょう。僕たち若者の、ともすれば先走ってしまう危なっかしい行動を、落ち着いて、かつ、熱い思いのまま、支えていただきました。
 娘さんが通っていた中学校は、公立中学校ではなく、都内でも有数の名門私立中学です。時には、来賓として国会議員が来るような、そんな中学校なので、気合いが入るのは無理ないことかも知れませんが、それにしても、時代がかっています。それが丹野さんのおもしろいところです。言友会創立時と違って、この頃の丹野さんに、僕はよく、「フーテンの寅さん」のイメージを重ねていました。当時の丹野さんにしては大仕事だったのでしょう。卒業式当日の丹野さんの胸の内、ライブ感覚でお読みいただければと思います。 

娘の卒業式に謝辞を読む 2
      東京言友会会長  丹野裕文(歯科医師)

§当日
 いよいよ当日、三月十八日、日曜日がやってきた。さすがに、前の晩はよく眠れなかった。顔がほてり、頭がふらふらするような感じであった。
 副校長に言われたように、午前九時前に学校へ行った。十時から開始だったので生徒はまだあまり来ていない。校長室に通され、謝辞の仕方、作法などを副校長から教わった。私は「本番では、さぞかしあがってしまうだろうなあ」と内心どきどきしながら説明を聞いていた。
 九時半頃になると、PTAの会長、前PTA会長(現顧問)、区長、そして学園長と卒業式の主要人物が揃った。そして司会役の教頭が、私の名前の正しい読み方を聞くに及んで、「ああ、やっぱり自分自身が謝辞をやるんだなあ。」という思いが私の胸をしめつけた。もう逃げられない。ここて逃げたら、人生の敗北者であり、社会的名誉・信用が喪失し、そしてこれが一番恐いことだが、多感な一人娘から何と思われるかわからない。いろいろな思いが去来したが、やらなければならなかった。この謝辞は、絶対私にしかできない内容のものであったからだ。

 定刻十時の五分前、学園長を先頭にして、お偉方から順番に慣れた足どりで部屋を出て、卒業式の行われる講堂へと向かっていく。私はその「軍団」の最後尾について、まるで夢遊病者のように、宙を浮いたような足どりで歩いている。
 千五百人は軽く収容できる講堂は階段状になっており、立っている人もいて、立錐の余地もないほどいっぱいにふくれあがっている。私は舞台の右前に作られた来賓席の最前列に座った。来賓席の正面は教職員席になっている。学園長と区長、PTA会長が舞台の壇上に登っていくのが見えた。
 式はまず、全員起立して国歌斉唱から始まった。恐る恐る式次第を見ると、「父兄総代謝辞」はすべての挨拶の最後で、それまで長い緊張が続くことになる。
 それでもあっという間に、「卒業証書授与」「褒賞授与」「記念品贈与」と式典は進められ、とうとう「学園長の挨拶」まで来てしまった。
 私の心臓はどきどきするばかりで、もうすべての雰囲気に完全に圧倒されていた。「うまく話すことができるか?」「どもらずに話せるか?」という考えが、全身を覆い包みこんでしまっているようであった。父兄席を見渡すと、妻らしい人影がチラッと見えた。恐らく彼女も心配しているに違いない。
 来賓の挨拶として、区長、PTA会長と続き、在校生の送辞、卒業生の答辞と型通り式は進められ、とうとう私の番がやってきた。
 その時、それまで舞台の壇上におられた学園長、来賓の方々が、皆壇上から降りて来るではないか? そして学園長は教職員の席の一番前に立ち、来賓席の前にマイクが置かれたのである。要するに、父兄代表の私の謝辞を、学園長と教職員の先生方が立ち上がって威儀を正し、拝聴するということらしい。
 「よし!どもってもともと、正々堂々と話していこう!」私は、この光景を目の当りにして、もうじたばたしても始まらない、度胸を決めるしかないと観念した。

§いよいよ本番
 「次は父兄総代としまして…」司会者が私の名前を告げた。私はゆっくりと立ち上がり、左のポケットに入れておいた巻紙の謝辞をおもむろに取り出した。司会者の声が続く。「卒業生、在校生 起立!教職員起立!父兄の方も御起立下さい!」

―青成瓢吉(私の愛読書『人生劇場』の主人公)、いよいよの出番だ。瓢吉っつあん、頑張ってくれ!
 『亡き父よ!亡き母よ! 半生をどもりで悩み、いつも学校の成績が悪くて、あなた方の期待を裏切り、そしてあまり親孝行もできなかった息子…そんな駄目な男が、名誉にも学校から指名されて、こんなにも多くの人たちの前で謝辞を読むことになったのだよ。喜んで下さい! 陰ながら応援して下さい!
 妻よ!娘よ!今日のこの父の姿を、後々忘れぬようよく見ておいてくれ。父は精いっぱい頑張ってくるからね』―

 私は心の底からそう叫んで、ゆっくりとマイクに近づいていった。
 マイクの前に立つと心臓の動悸は不思議と無くなっていた。第一音が勝負、「勘どころ」なので、なるべくゆっくりと話し出すよう心がけるつもりでいた。
 『謝辞!』―言えた。ゆっくりと、はっきりと、発することができた。うれしかった。これならば何とかいけそうだ。永年の勘で、瞬時のうちにそう判断した。
 『草木も芽生え、山々の残雪の遠景にも春の訪れを感じる時節となりました。』なかなかの名調子である。ゆっくりと、話しかけるように、弁論調にならないように心がけた。練習でテープに入れた時、あまりの演説調子なのを妻や娘に注意されたからである。
 『本日、陽光うららかな佳き日、』この名文句は、私の好きな鶴田浩二のセリフから取ったものである。
 『○○中学校第六十四期生卒業式に臨席させていただき、誠に僭越でございますが、父兄を代表しまして、ひと言感謝の意を申し述べさせていただきます。』
 ウーン! これならばもう大丈夫だ。心配していた声のふるえも全然ない。これは、ひょっとすると名調子でやり通せるかもしれない。私は内心非常に喜んだのである。
 『光陰矢の如し、と申しますが、月日の経つのは誠に早いもので、ついこの間までは親の後を追い、無邪気な遊びに熱中していた子供達でしたが、今では生意気にも親に反抗するような年代にまで成長してまいりました。』
 なかなかの名調子が続いていく。特に「生意気にも」のところを少し声量を高めて発音するなど気を使った。それは落ち着きも充分に出てきた証拠でもあった。
 『成長するということ、それは子供が親から離れてゆくことでもあり、そのことに関しましては大いなる喜びを感じるとともに、一抹のさびしさをも又感じてしまう、というのが偽らざる親の心境でごさいましょう。』
 オーッといけない。最後の文章のところで、ちょっと声がふるえてしまった。あまり感情を出して読んでいったせいか、ぐーっと胸にくるものがあったようだ。

―そうだよなあ! 子どもが親から離れていくのはさびしいものだよなあ。幼稚園や小学校低学年の頃がなつかしい。あの頃はよく「パパ、パパ!」と、なついてそばに寄ってきたっけなあ。―

 そんなことを思ったせいか、少々話し方が涙声になってしまった。こりゃいけない。青成瓢吉っつあん、たのんまっせ!
 『いずれにいたしましても、この三年間の中学生活で子供達は体力的にも、学力的にも、より一層充実さを増し、今ここに集う卒業生の、自信に満ち満ちた力強い姿を目の当りに見ます時、教育のもつすばらしい力に、今更ながら感動いたすものでございます。』
 前の涙声から立ち直って、この文章は情をこめて堂々と読むことができた。ここのところの文章は、ゆっくりと読まないとつまづいてしまう心配があったので、その点を配慮して読んでいくように努力した。
 『これらはまた、今日ここまで御導き下さいました学園長先生はじめ、諸先生方の御指導の賜物と、心より深く感謝申し上げる次第でございます。』
 そこで私は、教職員の席に向かって深々と頭を下げた。よし、落ち着いているぞ、その意気で最後まで頑張っていこうぜ! 瓢吉っつあん!
 『今更申し上げるまでもなく、○○学園の伝統はその一貫した教育体系にあります。また校章の○○は、生徒本人を学校と家庭で支えあって教育していくのが、○○学園の信条である、ともうかがっております。』
 さらに、ますます好調さが続いていく。もう全くどもりなど意に介さなくなってしまった。
 言わせてもらえるものならば、私にとって、生涯一度の名場面であろうか。
 『私共は、その教育方法、教育方針に非常に共感しており、そのような良き環境のもとで、これからもより一層充実した学園生活を送っていけますよう、私共父兄は心から祈念いたしたく思います。』
 できた! 形式的な前半は終わった。いよいよ、これからが私の本当の出番。私しか言えない場面がやってくる。青成瓢吉君、しっかりたのんだぞ!

 一呼吸置いて、私は静かな語り口で話し始めた。
 『これは私事で恐縮ですが、この場をお借りして、卒業生の皆様に是非聞いていただきたいことがあります。』

―そうなのだ!なんとしても聞いてもらいたいことなのだ!私の苦しんだ少年時代を―

 『私は、子供の頃からひどいひどいどもりで、ことばをスムーズに話すことができず…』
―あーっと、いけない。瓢吉君どうしたんだ。だんだん涙が出てくるではないか。ああ!これはまずいことになった。頑張ってくれ、頑張って話していかなくてはいけないんだよ。―

 『小学校でも中学校でも、学校の授業では自分では知っているやさしい字も読めず…』

 ああ!、とうとう完全に涙声になってしまった。唇がぶるぶるふるえてくるのが分かる。嗚咽している状態で、それでも無理をして話している。困った!でも最後までやらなくてはいけない。必死に声をふりしぼって話し続けていくより他はない。―

 『何も知らない先生からは馬鹿にされ…』

―そうなんだ!もっともっと先生に理解があったならば、どもりに対する知識があったならば、私の子ども時代はどんなにすばらしかったことだろうか。それを思うと、どもりに理解のある先生に会わなかったのが悔しかった。私は小学校中学校と、今でも全部の先生の名前、顔を覚えている。けれど、誰一人として私のどもりに対して、勇気づけ励ましてくれた先生はいなかった。時代が時代だといえばそれまでだが、私はそんな無知な先生たちが憎い。今でも憎い!―
 『同級生からは、どもり、どもりとからかわれ、いじめられ、口では言えないほど、大変つらい思いをしてまいりました。』
 私の話し方はもうまったく涙声で、唇はぶるぶるふるえ、そのふるえを歯でしっかりと固定しようと努力しているだけだった。しかし、永年鍛えてきたおかげで、声量だけは豊富である。腹の底から、丹田から発する発音は、声は鳴咽していてもしっかりとしている。
これこそ二十数年間の言友会活動の、いや、高校時代からのどもり克服のための練習の成果である、と言えようか。
 『高校に入りましてからも、どもりは尚更ひどくなり、学校に行くことさえいやになる時もありました。』

―そうだったなあ! 私の入った高校は旧制府立十一中(現江北高校)で、非常に教育熱心な学校だったのだ。意地の悪い女の英語の先生がいて、授業中よく立たされたっけなあ。でも一人だけ親切な先生がいた。数学担任の大竹先生だ。先生のおかげで、私はどもりを自分の力で治してみよう、そのために弁論大会に出てみようと思うようになったのだ。―

 話しぶりは相変わらず鳴咽状態の涙声で、数度にわたって話すことを中断してしまった。涙が出てきて仕方なかった。でも私は頑張った。何としても言いたかった。話したかった。訴えたかった。
 『しかし、高校二年生の時に、私は決心したのです。よし、私自身の力でどもりを治してみよう!と。』

―そうなのだ! 私が本当にどもりの克服に目覚めたのは、高校二年の夏休みからだったのだ。高校一年の秋から新聞配達を始め、夏休みまで貯金をして、そのお金で「東京正生学院」に入ったのだ。―

 『それからは、毎日毎日発声訓練、弁論の訓練等を繰り返し繰り返し練習してまいりました。』

―そうだったなあ。いろいろな名称をつけては、どもり克服の訓練をし、その結果をこまめに日記に書いていったっけ。あの若き日の情熱が、今はとてもなつかしい。―

 私の涙声はいくぶんおさまって落ち着いてきた。そしてそれに乗じて今度は、俗に言う熱弁風な弁論調に変わってきたようだ。弁論調ならばお手のものである。大学の弁論部で鍛えてある。

―青成瓢吉よ! これからが肝心なところだ。卒業生に、父兄に、そして教職員の先生方、ご来賓の皆さん方に訴えていこうではないか!―

 私はゆっくりと、そして自信をこめて、こう言ったのである。
 『そして現在では、皆様の前で、これだけ話せるようになったのです。』
 もっともっと言いたかった。言いたいことは山ほどある。しかし、それ以上言ってしまっては、やはり「キザ」になってしまうであろう。もう私自身の体験談はこれだけでよい。今日は卒業式だ。卒業生を励ます必要がある。私はより一層声を大にして話しかけた。
 『本日の卒業生の皆さん方の中に、もしも私のように何らかのハンディ、劣等感をもって悩んでいる方がおられたならば、私は言いたい!』
 このシーンこそ、私が一番言いたかったことである。私は「何らかの」のことばに特別なアクセントをつけ、そして、「私は言いたい」というフレーズをものすごい声量で、この日最も大きな声で絶叫した。
 『その障害に負けてはいけません!絶対あきらめないで努力して下さい!』
 言語に火がつく、というのは、まさにこういうときに使われる表現なのだろう。私は、半泣きの声と、力いっぱいの声量とで言い抜くことができた。
 『そして、勇気を出して、その障害に立ち向かっていって下さい!努力をすれば、努力をすれば必ず道は開かれてゆくものと、私は確信いたします!』
 とうとう言い抜けることができた。私はこのことを、これから旅立っていく前途ある若人に言いたかったのだ。障害などに負けるな! それよりも、それを克服していこうという努力こそが必要なのだと。
 『これからの高校生活を大いに意義あるものにすべく、私のつたない体験談を話させていただきました。』
 これだけを言い終わると、私の涙声はなくなっていった。もう熱弁をふるう必要はない。あとは巻紙に書かれてあることをたんたんと読んでいけばいいことであった。
 『終わりに、○○学園のますますの御発展と学園長先生始め諸先生方、並びに御来賓御父兄の皆様方の御健勝を心からお祈り申し上げまして、感謝の辞とさせていただきます。平成二年三月十八日、○○中学校第六十四期卒業生、父兄代表、丹野裕文』
                          (1990.4.30 つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/25

僕と一緒に言友会を創立した丹野裕文さんの自分史 1

 今回、過去のニュースレターから見つけて紹介しようとした丹野さんの「娘の卒業式に謝辞を読む」の前に、丹野さんとの出会いに始まり、言友会誕生のエピソードや活動の思い出で、長い寄り道をしてしまいました。
 当初の目的だった、丹野さんの体験を紹介します。
 以前、紹介したことのある「仲人を引き受けて」の奈良善弘さんも、その挨拶の中に、自分の吃音のことを盛り込んで、挨拶文を作り、会場の参加者に感動を与えました。
 当の本人に感動を与えようという気など全くなかったと思いますが、自分のことを誠実に率直に語る中に、人は自分と重なるものを見つけ、心を揺さぶられる経験をするのでしょう。吃音にはそんな力があるのだと思います。1965年の秋に出会ったときは、ほとんど、どもらないように見えた丹野さんですが、吃音で苦労してきた仲間だったのだと、思える体験です。丹野さんの「娘の卒業式に謝辞を読む」を、3回に分けて紹介します。

娘の卒業式に謝辞を読む
      東京言友会会長  丹野裕文(歯科医師)

§謝辞の依頼
 私の一人娘は、この三月に中学を卒業した。
 二月の初め、娘の通っている中学校の副校長から私に、卒業式で父兄を代表して「謝辞」をするようにと要請された。
 学校の役員をしている私の妻は、その日のうちに副校長に会い「主人はどもりなので、うまくやれるかどうかわからない」と話したところ、「そういう人こそ適任です。生徒達も感激するでしょう」と言われたという。
 私はその話を聞くと、自信が持てず妻に断りに行ってもらったのも忘れ、持前の反骨精神が涌いてくるのをおぼえた。
 現在の私には正直言って何かが欠けていた。青春時代のような熱気あふるる情熱、やる気が、年令を重ねるうちに次第に無くなってきたようだ。毎日の仕事に追われ、雑用に追われて単調な生活に埋没してきたような気がする。私にはもっともっと、前向きな何かがあったはずであると思いつつ。

 思い返すと、どもりで一番苦しみ悩んでいた高校時代。「よし! 弁論大会に出てみよう!」と発奮し、どもりに挑戦していった日々があった。あの時、私の家は貧しかったので、一年間余り毎朝早起きして新聞配達のアルバイトをし、それでためたお金で、当時最も権威のあったどもりの矯正所「東京正生学院」に行ったのだった。あの日から、もう何十年の歳月が流れていったことだろうか。
 あの頃の一日一日は本当に充実していた。毎日が来るのがとてもとても楽しかった。後ろを振り返る余裕などなく、ただひたすらに前をのみ見て歩いていた。
 高校三年生の時弁論大会に出場し、準優勝をして、どもりに対しての考えが前向きに変わってきたように、今現在、何となくたるんだ、中年のわびしい人生を送っている自分自身に「活」を入れるためにも、私にとって何か刺激が必要であった。
 「よし! 謝辞を読むことを受けよう!」私は決心した。「子供達に私のどもりの体験を話し、これからの人生に何かを感じ取ってもらおう。」と考えると、久しぶりに青年のようなエネルギーがほとばしってくるのを感じた。

§準備
 私は早速「何を話すべきか」を考え、謝辞の構想を練った。学校側から貸していただいた前年度の謝辞の文章を見て、あまりの美辞麗句の連発にいささかとまどってしまったが、私にはやはり「どもり」を中心にした文章を書くことしか目的がなかった。誰が聴いてもわかるような、やさしい内容の文章にすることにした。そして大体の草案を持って、副校長に初めてお会いし、内容の了承をもらうことができた。文章の清書を著名な書家に巻紙に書いていただき、改めて読み直すと、自分でも満足のできるものであった。
 この充実感を何と表現したらいいか。人間は目的目標を持つと、これ程までも変わっていくものなのか。
 私はこの充実感に大いなる満足をおぼえた。

 高校三年生の時、弁論大会を前にしての練習方法は、もっぱら演説の練習で、公園の中や電車の中、駅の待合室、上野の西郷さんの銅像の前でと、若さにまかせて恥も外聞もなく練習をしたものであった。
 中でも特に電車の中での練習は面白かった。当時の電車は、車内の真ん中に金属のポールが立っている。それに背をもたせて大きな声で、「車内の皆さま!突然大声を張り上げて申し訳ありませんが、私のつたないどもりの体験談を聞いて下さい。」とやったものだった。
 この車内演説は、最初の第一声で車内の乗客が一斉に私の方を見るので、相当度胸がつく方法であった。
 痛快だったのは、これまで学校で「どもりの丹野」とからかっていた連中と一緒に電車に乗った時に、いきなり連中のそばで、「車内の皆さま……」とやった時である。連中は顔を真っ赤にして、ひたすら私の前から逃げていったのであった。
 しかし、現在の私にはそんな練習をする度胸もないし、機会もなかった。それに社会的な体裁ということもある。そこで私が考えた方法は、ともかく度胸をつけること一本にしぼったものである。それには「カラオケ」が一番手っ取り早かった。見も知らぬ人の前で、わざとセリフの入った歌を情をこめて歌うのである。卒業式の本番までに、私は練習という名目で何度もそういう「巷」をさまよい歩いた。(1990.4.30 つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/24

唯一無二の僕の親友であり戦友だった、吃音に命を捧げた男

 僕は本当に、人との奇跡的な出会いによって生かされてきたのだと思います。だから、自分の能力を超える様々なことができたのだと思います。言友会の産みの親である、丹野裕文さんとの出会い、そして、若い僕の暴走につきあってくれたたくさんの人たちとの出会いなど、あまりにもタイムリーな人との出会いが、僕の行く道にありました。望み以上の人生を送れたのはこのラッキーな出会いのおかげです。
 言友会のすばらしい仲間に支えられてきましたが、僕にとって大きな存在は、丹野さん以外では、今回紹介する京都の吉田昇平さんです。彼がいなかったら、言友会が全国に広がっていくのが少し遅れたことでしょう。東京で始めた言友会活動を関西に広げたのは彼の功績です。京都に、大阪に、広がったことで、全国に活動が広がりました。大きな体と大きな手、豪快な顔、鮮明に僕の中で生き続けています。本音でぶつかり合い、本気でケンカができた人でした。僕が全国言友会から離脱したとき、吉田昇平がいたら、どうなっていただろうかと、よく考えたものです。僕より一歳年上でしたが、互いが尊敬し合い、認め合った、よきライバルであり、戦友でした。今回紹介する文章の最後に、<「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ>と書きましたが、残念ながら僕は言友会からは離れました。しかし、言友会を離れてからの僕は、吃音に関しては書籍の出版や、ことばの教室との関わりでは、言友会にいる時以上に活動の場が広がりました。彼に、「吃音については、まだ、しつこく取り組んでいるよ」と、自信をもって言えることがうれしいことです。
 今回で、「言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出」と題した、1971年9月24日に書いた文章は終了です。

言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出(6) 

故吉田昌平氏の思い出
 私が言友会の活動の中で涙を流したのは、旧事務所が取り壊される時と吉田昌平氏の死に直面した時の2回である。
 言友会が好きで好きでたまらなかった彼と私はまさに言友会の虫であった。言友会の大会の議事の最中に喧嘩をしたり、意見が合わないと言っては何度も喧嘩をした。「お前みたいな奴とはもう会いたくない」とお互いに何度この言葉を言い合っただろうか。それでも私たちは離れることはなかった。彼は私にとって本気で怒りをぶつけられる相手であった。
 彼との出会いは昭和41年7月の下旬であったろうか。久しぶりに事務所を訪れた私は、見かけない男が一人、自分の家のように住みついているのを見て驚いた。一見おとなしそうで、変に図々しいこの男の間の抜けたけた話しぶりが、この家にいることの正当性を主張していた。
 話してみると愉快な男で、自分が何故ここに住んでいるのかを、おもしろおかしく語ってくれた。どもりに悩み、なんとかどもりを治したいと思いつめた彼は、職を捨て、恋人と離れて東京のどもり矯正所に来たのだった。
 そこで言友会を知り、例会に参加するうちに会がおもしろくなり、京都にも言友会を作ろうと決意したという。
 ちょうど夏休みに入っていた私は、彼と私と、そしてSとIとの4人で共同生活を始めた。彼が土方やダンプの運転手をして稼いだお金は、私たちの夕食代に消えていった。カレーライスやブタ汁を作り、夜も遅くまで語り明かした。2ヶ月にわたる私たちとの付き合いの中で、彼は京都で言友会を作るエネルギーを貯えていった。
 彼は、その後京都に戻り、言友会を作る活動を開始した。9月下旬京都に帰り翌年の6月まで、職につかずに彼は言友会の専従として仲間作りや事務所作りに専念した。
 活動家が育ち、会が軌道に乗ったのを見届けて、彼はタクシーの運転手になった。どもりながらも親切に応待する彼のタクシーは評判であったが、その料金収入のカーブは言友会の活動に対する貢献度と見事に反比例し続けた。
 その後、京都ろうあセンターの職員になった彼は、水を得た魚のように手話通訳や聴力検査・聴能訓練に打ち込んでいった。彼の豪放でユーモラスな性格と、人並み外れた行動力は、ろうあ者と吃音者との結びつきに大きな役割を果たした。彼のシンボルとも言うべき大柄な体と太い手の指で、体ごと語る彼の手話はろうあ者の信頼を得ていった。「僕は手話をやりながら話すとどもらない、君も手話をやったらどうだ」と私たちにも推めたものだ。
 彼は京都、私は東京と生活の場は離れたが、二人は良く会った。彼は、私のことを「千三つ」と言っては良くからかった。大風呂敷を広げた話ばかりで、千に三つしかまともなことを言わないと皮肉るのだ。その彼とて、私に勝るとも劣らず話が大きかった。私たち二人が会うと夢は大きく広がった。
 彼は、良く東京に出てきては私と新宿のサウナで話し合った。私たちは、それをサウナ会談と名付けた。京都では受け入れてもらえない話でも、東京では受け入れられて話が進んでいく。それに力を得ては、彼は「東京は実行することを決意し動き始めた」と京都の会員を説得し、強引とも言えるやり方で京都言友会をリードしていった。
 その現われが、吃音専門雑誌『ことばのりずむ』の発行であり、第1回吃音問題研究集会の開催であった。
 当時、全国に言友会が広がりつつある情勢の中で、彼と私は「吃音児・者の指導はいかにあるべきか」「各地で吃音に対してどのような取り組みがなされているのか」「吃音とは何か」などを全国のレベルで総合的に考える雑誌や研究会の必要性を感じていた。京都と東京が一体となって雑誌作りが進められ、昭和46年9月『ことばのりずむ』が創刊された。その後、彼が病に倒れるまで彼を編集責任者とする京都言友会がその発刊の責任を担っていった。
 昭和47年5月には、彼を実行委員長とした第1回吃音問題研究集会が京都で開かれた。彼なくしてはとても開かれなかったと言われる集会であった。冒頭の「ハヒフヘ本日は……」で始まった実行委員長の挨拶は、未だに参加者の心に残っている。思えば、この吃音問題研究集会が終わった頃から彼は時々頭痛を訴えるようになっていた。
 正月には一緒にマージャンをやろうと言っていた彼が、卓を囲む直前の昭和47年12月29日、病に倒れた。すぐ京都の病院に駆けつけた私は、大きな体の彼が小さくなってベッドに横たわっている姿を見て胸が締めつけられた。「伊藤やで」と言った私の声に頭だけを動かしてわかったという合い図をしてくれた。
 その後、一進一退を続けた彼だが、時には見違える程元気な時もあった。そんなある時、彼は私にこう言った。
 「なあ伊藤、この春大阪教育大学を卒業したら東京へ帰るやろ。オレも病気が治ったら家族みんなを連れて一緒に東京へ行くわ。二人で東京言友会の専従をしたら東京で大きな事ができるで。やはり東京は日本の中心や、東京で活動しなきゃなあ。早く治りたいわ……」
 彼は病の中でも常に言友会のことを考えていた。その彼が、突然、余りにも急に昭和48年3月29日、帰らぬ人となった。病名は脳腫瘍であった。私の胸の中で、彼は今も生き続けている。「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ。(了 1971年9月24日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/23

言友会誕生のエピソード−言友会事務所物語

 小学2年生の秋の学芸会で、セリフのある役から外されたことで吃音に強い劣等感をもってからの僕は、半ば、死んだような状態でした。不登校や引きこもりのなかった時代、僕はただ漫然と学校に通っていただけです。授業中の勉強も、宿題も、試験の時も、僕は勉強をする気力を失っていました。家でも勉強せず、夜の町をさまよい、海岸で砂浜に打ち寄せる波をじっと見ていました。音読や発表から逃れたい思いだけで、早く高校を卒業したいと思っていました。遊びも、スポーツも、クラブ活動も、勉強もしない三年間でした。今から思うと、授業がさっぱり分からないままに、よく三年間高校に通ったものだと思います。大学受験に失敗するのは当然です。三重県津市から大阪に出て、新聞配達店に住み込んで、二浪生活を送りました。この二浪生活で新聞配達を一年間続けたことは、僕にとっては実績でした。21歳までそんな生活を送ってきた僕でしたが、今、こうして言友会の創立時から振り返ってみると、驚くばかりのエネルギーの爆発です。
 前回紹介した、映画『若者たち』の上演と講演会のイベント、その後の「言友会の事務所づくり」は、僕が先頭に立って、ぐいぐいとみんなを巻き込み、しゃにむに活動しています。僕がこんなにエネルギッシュだったこと、自分でも不思議なくらいです。運営委員会で半数近い反対があっても、説得し、賛成してくれる仲間を増やしていって、「事務所づくり」にまでもっていき、実際に新築の事務所を作ってしまいました。
 今の言友会の人たちは、僕たちがこんなに苦労しながら、必死で働き、事務所作りに邁進したいきさつを知りません。苦労はありましたが、あの頃の僕は、一番輝いていたと思います。僕が「事務所づくり」に必死でかかわったこと、もう一度読み返してみても、誇りと感謝の気持ちで一杯なのです。
 やはり、先頭に立ち、苦労した人が一番得をしているのだと思います。僕の「心の中での大きな財産」になっている、「言友会事務所物語」を紹介します。 

 
言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出 (5) 

吃音者、街に出る
 私たちのすばらしいオンボロ事務所も、4年間の会の活動の重みに耐えられなくなるほどに老朽化してきた。これまで活動が続けられたのはこの事務所のおかげと思えば、壊れてしまうのをそのまま見過ごすわけにはいかなかった。会費月200円の言友会に、事務所を修理するまとまったお金があるわけではなかったが、私は昭和45年の活動方針に事務所改築を入れた。方針案説明の時その費用の捻出方法を質問された私は、何とも答えられなかった。
 故吉田昌平氏と私は、京都と東京に離れてはいたものの、会活動で困ったことが起きた時や新しいことを考えついた時、私が京都へ出かけたり、彼が東京へ来るなどして常に密接に連絡をとりあっていた。新宿のサウナが彼と私の会議室だった。ゆったりした休憩室の中に2人でいると、夢はいつも果てしなく広がっていくのだった。私以上に政治の力を信じ、政治活動にもエネルギーを集中してきた彼は、私に吃音問題の解決のための請願運動の必要性を説いた。賛成をした私は、それでは全国的な規模でカンパ運動にもとりくもうと逆に提案をした。若かった私は恥ずかしいことに、その時カンパ金の方により強く心が動かされたのだった。
 さっそく東京、京都、その他の言友会で話し合いがもたれ、署名、請願運動を全国の言友会が展開することになった。署名用紙やビラが印刷され、狭い事務所がより狭く感じられるほど積み上げられた。
「これだけのビラを配るのに1年はかかるぞ」
 そそっかしい印刷担当者を責めたが、あとのまつりであった。
 事務所で泊まることの多かった私は、いつも山と積まれたビラを眺めながら眠りについた。このビラを早く片付けなければならない。私たちは請願運動にエネルギーを集中していった。
 立看板が用意され、ハンドマイクがあるメーカーから提供された。それらを運ぶトラックも用意された。署名カンパ運動が始まったのは、冷たい風の吹きつける2月のことであった。
 「ご通行中の皆さん、私たちはどもりです。自分のどもりを克服しようと集まっている言友会の者です。言語障害児対策は日本ではたいへん遅れています。全国にもっともっと多くの言語治療教室の設置と専門の治療機関を作らねばなりません」

 時にはどもり、時には大雄弁家になったつもりでマイクを手にした。新しく入った会員も古い会員も街頭に立った。1週間に3日、今日は有楽町、明日は目黒と東京中で署名カンパ運動が続けられた。昭和45年2月から12月の11ヵ月の間に、署名約5千、カンパ金43万円、言友会の会員の個人カンパを含めて60数万円が私たちの手元に集まった。

事務所新築に動く
 その頃、言友会には、責任ある活動をしていくための専従がおかれた。その費用は全てカンパに頼らなければならなかった。60数名が毎月会費の他に500〜1,000円のカンパを継続してくれることになった。ともすれば全ての仕事を引きうけがちになり、昼間は一人きりで事務所にいる専従者を孤立させないためにも私たちは力を入れて活動を続けなければならなかった。その熱意が実ったのか、その年の言友会の夏の合宿には103名という記録的な参加者を得た。吃音者のエネルギーが千葉の海に爆発したのだった。
 しかし、事務所改築の交渉は順調には進まなかった。「新しく建てた建物は坂谷氏の登記とするかわり、半永久的に言友会が使用し、家賃の月5,000円は20年間据え置く」という条件に、運営委員会では議論が百出した。
 言友会が全額費用を負担し、更に家賃を払うのはおかしいという意見が強く出され、たびたび坂谷氏と交渉を重ねた結果、時価250万円する借地権を70万円で買い取ることに成功した。寒い夜、凍える手でマイクを持って訴え、寄せられた暖かいカンパ金60数万円は全て借地権の買い取りで消えた。常識では考えられない安い買い物ではあったが、お金のない言友会にとっては大きな金額であった。事務所新築は新しい局面を迎えた。

全障研とともに事務所を
 障害者運動に積極的に関わる中で、私たちと全国障害者問題研究会(全障研)とのつきあいが始まっていた。
 そんなある日、私は、新宿にある全障研の事務所に遊びに出かけた。6畳一間のアパートを事務所として使用していた全障研も、また事務所を求めていることをそのとき知った。世間話の中から、言友会が事務所を作ろうとしているとの話がでた。そして共同出資で事務所を建てようというところまで話が進んだ。建築費用は折半し、所有は言友会で、5年間無料で全障研が1室を事務所として使い、5年たった時点で全障研が出した金の半分を返却するという条件は、私たち言友会にとっては願ってもないことであった。しかし、借地権買い取りその他ですでに80万円近いお金を使いきり、私たちにはお金が全くなくなってしまっていた。私たちはまた金策に苦労しなければならなくなった。
事務所の写真 新 その年5月の第4回言友会全国大会(名古屋)では、事務所新築を東京言友会のものと考えず、全言連の事務所として位置づけ、全国でカンパ運動に取りくむという大会決定がなされた。
 全国の仲間に励まされ、私たちはまた活動を開始した。私たちは再び街頭へ出るとともに、全会員にさらにカンパを要請した。
 カンパとともに、自分たちの力で少しでもお金を稼ごうと建築を請け負ってくれた建築会社でのアルバイトが始まった。毎週日曜日私たちは朝8時に集合した。建築資材の整備が私たちの仕事であった。炎天下まっ黒に日焼けした私たちは上半身裸で作業に励んだ。交通費は自己負担、さらにそこで得た報酬は全て事務所建設の費用になるという条件の中でも多くの人が参加をしてくれた。働いている人にとっては日曜日は休息日、それを返上しての参加だった。近くを通りかかったからと西瓜の差し入れをしてくれた会員、また建設会社の人の善意に励まされながら、私たちは汗にまみれた。
「風呂代ぐらいは出そうか」
「風呂代、出してくれるのですか?」
 若い会員がうれしそうに言った。その頃の風呂代はまだ50円だったであろうか。みんなと汗を流しあい、風呂につかりながら、一日の仕事ぶりを話しあった。
「今日の分はトイレのタイル分ぐらいかな」
 私たちは、新しく建つであろう建物に思いをはせた。このバイトは、事務所が新築されてからも続いた。言友会のエネルギーが一気に爆発した頃の活動は楽しかった。事務所には常に5,6名が泊まりこみ、記念祭に、文化祭に、合宿にと言友会三大行事に取り組んだ。事務所新築が決まり建設会社との契約をかわした私たちは、次の目標、5周年記念大会へとエネルギーを集中させた。
 映画『若者たち』のスタッフを囲んでの討論会、みんなで歌う歌「言友会の歌」の発表、夢のような企画が会員のしゃにむな活動によって現実のものとなっていった。
 言友会の歌は、「若者たち」「昭和ブルース」の作曲家、佐藤勝氏が心よく作曲を引きうけてくださった。言友会の歌がテープによって届けられたとき、事務所で仕事をすませたあと、みんなで何度も何度も聞いた。さっそく生演奏のある銀座のビアホールに楽符を持っていき、演奏してもらった。お客さんはどもりの人たちの歌とも知らず、私たちの歌に手拍子を打った。愉快だった。
 当日は、いろんなサークル、障害者団体の人びとがかけつけてくれ、400名の人が言友会の創立5周年を祝ってくれた。その数日後に旧事務所の取り壊しがあった。
事務所の写真 旧 いろいろな活動があった。けんかをしたり飲んだりした。失恋に泣きむせんだ人もいた。ボロ屋だけど本当にみんなが親しんだ事務所が今取り壊される。私たちの思いを知る由もない建設会社の人たちが無造作に取り壊していく。
「もっと大事に扱ってください。」
 10名ほどの会員の見守る中、事務所は音をたてて崩れていった。涙が一筋、ほおを伝った。ありがとう。長い間ありがとう。私たちは心の中で叫んでいた。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/22

言友会誕生のエピソード−言友会事務所と映画『若者たち』

 前回紹介した、言友会誕生の地が上野公園で、上野公園が僕の「心の公園」になったように、僕にとって特別な歌で「心の歌」になったのが、映画『若者たち』の主題歌、「若者たち」です。この歌を口ずさむとき、この映画を僕たちが全国に先駆けて上映した時の興奮を思い出します。

 ♫ 君のゆく道は 果てしなく遠い
   だのになぜ 歯をくいしばり
   君はゆくのか そんなにしてまで
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める ♫

 僕はよく「しつこい男」だと言われます。「粘り強い」とも言えますが、一度こうだと決めたら、なかなか諦めません。吃音を治すことは、あれだけこだわっていたのに、さっぱりと諦めることができました。それなのに、その後は、こうだと決めたことについては、とことん諦めずに追求するのです。なかなか諦めない「しつこい男」だから、映画『若者たち』の制作会社の新星映画社と俳優座が、映画の無料貸し出しに応じてくれたのです。
 文章に書きましたが、それまで生きてきた中で、一番うれしいことでした。吃音のために何事も断念してきた僕が、7か月もしつこく頼み続け、実現したことなのですから。
 それと、今でこそ、研究会やグループが事務所をもつことは当たり前でしょうが、会員が100人もいないグループが、50年も前に、自前の事務所をつくろうとしたこと、今から思うと、よくやったものだと思います。寝泊まりできる事務所を持つことで、僕の、多くの人を巻き込んでの活動が本格的に動き始めるのです。毎日、毎日が楽しくてしようがない、高揚したあのころの感覚は、ずっと僕の中にあり続け、自家発電し、今でも燃えています。だからこそ、55年間も、一貫して吃音戦線の先頭に立ち続けることができたのでしょう。壊れそうな事務所、とても懐かしいです。
 

言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出(4) 

老朽した家屋を事務所に
事務所の写真 旧 発会式が無事に終わって、会員も80名近くになり、いろいろな活動が可能になってきた。新聞発行、会員の連絡と会の仕事は急に増え、いつまでも丹野さんの家をずうずうしく使うわけにはいかなかった。聞きとりにくい電話、それもひんぱんにかかってきては丹野さん一家がノイローゼになるのも無理なかった。
 しかし役員以外の会員はどこまでもずうずうしく、総会で提案された「事務所設置のための“千円カンパ”に猛烈に反対をし、そのまま丹野さんの家を使っていこうと言うのだった。やっとの思いで、わずかの差で可決されたものの前途は暗かった。
 そんなとき私達の新聞での呼びかけに、すぐ応じてくれたのは、かつてどもりで苦しんだ坂谷松栄さんで、その日すぐ私達は喜びいさんで坂谷さんの貸そうという一軒家に出かけた。港区白金とくれば迎賓館が頭にうかぶ東京の一等地。この家がその家ですと言われてもしばらく信じられなかった。東京の文化財保存の実績を誇るかのように、今どき珍しい汲み取り式の便所までついていた。私達が靴をぬいで上がろうとすると、そのままでいい、とおっしゃる。恐る恐る足を踏み入れると、“バリ!”と床板が破れる。私はもうがまんならなかった。とても人が住めるとは思えなかったのだ。案の定10年近く人が住んでいなかったらしい。
 若い私達の思いは通じず、坂谷さんと丹野さんの話はすすみ、1ヵ月5,000円で話は決まった。総会でもめながらも集めたカンパ金は全て家屋修復に使われ、会員である大工さんを中心に10数名の会員が作業にあたった。ほこりにまみれているうちに、私達はこのボロ家に愛情をいだき始めていた。電話が入りタタミを入れ替えると泊まり込む人も増え、まさに仲間のたまり場となっていった。

映画「若者たち」のこと
映画 若者たちのポスター 事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。
 会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
 ある日、新聞で『若者たち』という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。
 「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」
 そのことが頭にひらめくと、私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。
 私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。
 私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
 とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/21

言友会誕生のエピソード−言友会の誕生の地「ああ、上野公園」

 さあ、今日はいよいよ、言友会の誕生です。上野公園に13名が集まった時のこと、今でも鮮明に思い出すことができます。うれしくて、うれしくて、前の日は眠れませんでした。興奮したまま、上野公園に行きました。夏に30日間、西隆盛の銅像前で演説の練習をした、あの上野公園です。
 前年に井沢八郎の「ああ、上野駅」の歌が大ヒットしました。

♪♪ どこかに故郷の 香をのせて
   入る列車の なつかしさ
  上野は 俺らの 心の駅だ
   くじけちゃならない 人生が
   あの日ここから 始まった ♪♪

 僕の幸せな吃音人生も、ここ上野から始まったのです。井沢八郎の歌う上野駅が「心の駅」なら、僕にとって、上野公園は「心の公園」です。僕は一年に数回は東京に行きます。年末年始、10日間ほど、東京で過ごすこともあります。東京に行ったら、必ず上野公園に一度は足を踏み入れます。言いようのない、懐かしさがこみ上げてくるのです。このような公園があること、幸せなことだと思います。

言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出 (3) 

言友会結成
 昭和40年10月、13名のサムライが上野公園に集まった。熱っぽい話し合いに、映画好きのA君は、「血判状を作って誓おう」とまで言い出した。彼こそ最初の脱落者だったのだから、血判状を作っておけばと悔やまれる。会の名前をつけるのに相当の時間を必要とした。「わかば」「あすなろ」は紅一点のM子さん。政治好きのK君は、「日本吃音同志会」「吃音撲滅同盟」などといかめしい。50近くの名前が出て迷っていた時、それまで押し黙っていた神野芳雄君が重い口を開く、「ことばで結ばれる……ことばのとも……言友会」このことばで「言友会」は誕生した。
 その後の役員人選では、丹野裕文会長、伊藤伸二幹事長以下、11名全員役員という豪華な体制を作りあげた。私達は一日も早く会員を集める必要があった。役員ばかりでは会は動くものではないのだ。
 講談・詩吟・弁論・話し方・社交ダンスのクラブ活動中心の例会は厳しい中にも楽しさいっぱいで、役員の自覚で欠席者はほとんどなく、例会後の喫茶店の語らいがまた楽しく、私達は日曜日の例会が待ち遠しくてならなかった。私達にとって丹野さんはよき先生であり、また、兄貴でもあり、丹野さんの魅力が言友会の全てのような感じだった。それでも1ヵ月もすると、会員が増えていたのに例会参加者は減り、寒い冬の数名の例会はさびしさも一段とこたえた。早くもピンチを迎えたのだ。
 翌41年1月中句、言友会の一大転機を迎えた。丹野さんの投書が朝日新聞に掲載されたのだった。言友会のマスコミ界への初陣であった。

◇サークルへの誘い◇
「現在、日本の吃音矯正はすべて民間に委託されているが、営利が目的で、真に吃音者のためを考えていないようです。それで都内に住む吃音者有志で言友会を作り、どもりを吃音者自身の団結の力で克服しようと試みています。
 会員は現在30余人で、弁論、講談などのクラブ活動を行っています。吃音者の参加を歓迎します」。
 反響はすごく、電話や手紙で問い合わせが殺到し、言友会は役員だけの会からの脱皮に成功した。毎週水曜日開かれていた幹事会に新しい人も加わり、熱っぽい話し合いが続いた。終わったあとのおにぎり屋での一杯こそ若い私達をひきつけていた。会の将来を、また先輩の人生をみんなで考え語るうちによく最終電車に乗り遅れ、近くの会員の家で泊まったりもした。丹野さんのエネルギッシュな言動が会に熱っぽい雰囲気を与え、人間関係も血の通ったものになったり、会は除々に力をつけてきた。

言友会発会式
発会式の朝日新聞記事 昭和41年4月3日、朝日新聞は大スクープをやってのけた。他紙に全く載っていない大きな記事。「力を合わせてどもり克服に励む言友会、今日発会式」3段抜きの大きな扱いに、私たちの2ヵ月にわたる努力がむくわれた思いだった。例会にほとんどの会員が参加し、演劇に講談にと練習にはげんでいたのだった。新聞を見ると私はすぐに丹野さんの家に向かった。
 2人で会場に向う車のなかで私達ははしゃいでいた。「あんなに大きく出たんだから200人は来るな」「いや300はかたいよ」やけに車が遅かった。みんなもすでに新聞のことを知っていてうれしそうに準備をしていた。記者席、来賓席は前列に用意した。私といえば300人の大聴衆の前での報告を頭にえがいて胸は高なっていた。しかし開始の時間が来ても目につくのは準備をしている会員だけ、30分遅らせても結果は同じで、会員すら全員参加でなく、新聞を見てきた人などほとんどいなかった。
 私たちはここでやっと現実に戻らなければならなかった。やたらと主のない椅子席が目立ち、私はそこに目をやりながらこれまでの会の報告をした。どもる元気もなかった。
 でも、会員は出席者の少ないのに反発するかのような熱演ぶりだった。中でも演劇部の「模擬国会」の迷演には、笑いとひやかしの声援がとんだ。みんな素直に自分の地を出していたのだ。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/20

吃音を生きるには、目標になるメンターが必要

 吃音をテーマに生きてきた僕にとって、メンターである丹野裕文さんとの出会いが、決定的な意味を持ちました。吃音に強い劣等感をもって、「どもっていたら楽しい、有意義な人生は送れない」と思い込んでいた僕にとって、30日間で「どもれる体」になって、どもりながらも生きていく道筋に立ったものの、明るい展望があったわけではありません。これまで、吃音にとらわれて、勉強を全くしなかったため、基礎学力がなく、人間関係を完全に絶っていたため、人とのつきあい方も知らない、言ってみれば野生動物のような人間が、社会に出てきたようなものでした。ただ、元気だけは、吃音に悩む前に戻ったのでした。
 そこに現れたのが丹野裕文さんでした。7歳年上で、歯学部の学生で、家が歯医者だっために、お金ももっていました。そしておしゃれで、とてもかっこいい。僕にないものを全部もっているような人でした。
 家が極めて貧しく、大学受験の2浪生活も、大阪の新聞配達店に住み込み、大学も東京の新聞配達店から通い、東京での大学生活の学費から生活費まですべて自分で稼がなくてはならない貧乏学生の僕にとって、丹野さんはあまりにも僕とはかけ離れて、まぶしい存在でした。丹野さんも、僕をとてもかわいがってくれ、今で言う「クラブ」や「バー」などでおごってくれました。お酒はもともと全く飲めないので、飲みませんでしたが、これまで経験したことのない世界に連れていってくれました。
 彼のような、かっこいい「どもり」になりたいと思ったものです。その丹野さんとの出会いです。

言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出 (2) 

 吃音矯正所で格闘するどもりたち
 私には、丹野さんがどもるどもらないより、彼が歯学部の学生で家が歯科を開業していることの方に関心があった。私の歯はやぶ医者に徹底的に痛めつけられていたのだった。私はずうずうしくもさっそく丹野さんの家を今度は一人でたずねていた。これが丹野さんと私のつきあいの始まりである。
 私の虫歯が治るころ、一鶴さんの「講談教室」への参加は随分減っていた。また依田さんの親話会も謡曲が中心で若者の心をとらえることはできなかった。
 私の通っていた吃音矯正所といえば、「ユックリ、呼吸を整えて話せば治る」というのが基本で、「わーたーくーしーはー」の、どこか間の抜けた話し方を守る者が優等生ということになっていた。早口でしゃべりまくる私など、基本に忠実でない劣等生であった。まじめな人間からは、「君は本当にどもりで悩んでるのか」とまじめに聞かれもした。
 ここには北は北海道から南は沖縄まで全国各地のドモリストが集まり、社会人の多くが職を捨ててまできていた。中小企業で働く者に、1ヵ月間の吃音矯正のための東京行きは職を捨てることにも等しかった。よくなったと喜んで帰る人に、「あれは一時的なもので、すぐに元にもどるさ」と、3回目というS氏が先輩顔に話すのが印象的であった。でもみんな一生懸命に頑張っていたし、雰囲気も結構楽しいものであった。
 劣等生の私には、いつの頃からかどもりの治る治らないより、どもりの人がこんなにもいて、それぞれ力いっぱい闘っているのだという現実に関心があった。私はどもりがこんなにも大勢いる、ということが大きなショックだったのだ。

 吃音者の組織づくりを決心する
 吃音矯正所の有効期間も終わり、講談にもあき始めていた私は、赤倉という学生と丹野さんを訪れていた。当時を振り返って丹野さんは、次のように書いています。

 「私は講談のリズムによる矯正法というよりも吃音者の会づくりに興味をもち、毎回出席していたが、その間多くの吃音者と知りあいになることができたのである。そしてその中の数名の人とともに親話会の会合に出席し、一鶴氏の講談教室と合併して新たな会を作っては、と提案したが予期に反して猛反対にあってしまった。
 私としても、以前吃音者の会づくりに失敗している経験があるので、新たな会づくりの意欲はなく、また一鶴氏の講談教室のように会員の減少を見るにつけても、吃音者の組織づくりの至難さがつくづくわかるのである。
 そんなとき私の家へ、一鶴教室で知りあった赤倉智(日大生)、伊藤伸二(明大生)の2人が訪れ、是非とも自分たちで新しい会を作ろうと相談をもちかけてきた。
 しかし、私としても以前の失敗があるので、即座に応ずるわけにはいかなかった。が彼等の情熱と若いエネルギーならばもしかしたら今度は成功するかも知れない、と思う気持ちもあった。そこで彼等に質問した。
 「『自分はやり出したからには最後までやり通したい。君達にもその意気込みがあるのか?』すると2人は口をそろえて『必ずやり通す。失敗しても最後まで頑張っていく』と熱意をこめて答えてくれたので、『それでは!』と会づくりをする決心をしたのである」。(言友会誌『泪羅』7号より)(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/19

言友会の創立者−僕の恩人・僕の吃音のメンター、丹野裕文さん

 このブログでは、僕がニュースレターに書いた巻頭言を中心に紹介しています。その号の他のページは、紹介してきませんでしたが、せっかくなので、紹介していこうと思います。
 その中で、言友会を僕と一緒に作った丹野裕文さんの文章が出てきたので紹介しようと思います。
 言友会は、1965年に創立し、正式な発会式が翌年の4月なので、すでに55年以上も前の話になります。言友会の創立者が丹野裕文さんと伊藤伸二だということは、僕が言友会から1994年に離脱したために、言友会の歴史ではなかったかのようにされています。僕の名前は多少知られていても、丹野裕文さんのことは知らない人も多いのではないかと思います。どんな歴史であっても、歴史をなかったことにはできないものです。
 僕は本当に恵まれた、ラッキーな人との出会いでここまで幸せな人生を生きてきました。それは、丹野裕文さんとの出会いが出発です。彼との出会いがなければ、確実に今の僕は存在しません。
 心からの感謝の気持ちをこめて、丹野裕文さんのことを紹介します。
 丹野さんの「娘の卒業式に謝辞を読む」の文章を紹介するまえに、1971年に僕が書いた「言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出」の文章を紹介します。若気の至りか、文章には勢いがあるものの、いちびって書いている部分もありますが、当時書いたものなので、そのままお読みいただきます。

 
言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出(1) 
            伊藤 伸二

 どもり講談教室での出会い
 偶然に会い、なんとなく別れてゆく淡白な出会いの多いなかで、その人と私の出会いは何かが起こりそうな、そんな殺気をはらんでいた。
 民間吃音矯正所に籍を置き、「どもりが治るのならなんでもやってやろう」と意気盛んだった私は、「講談のリズムでどもりを治そう」との田辺一鶴さんの呼びかけにもすぐに応じていた。今でこそテレビ・寄席などで大活躍の一鶴さんも、トレードマークのヒゲがまだ生えやらぬほんのかけ出しだった。どもりを治すために講談の世界に入り、講談ではどもらなくなったという実績をふまえての呼びかけだけに、かなりの人が集まっていた。
 1人での個人参加が多いなかで、ひときわ声高にしゃべる集団参加の一団があり、その声がそれでなくてもおとなしいまわりの人達をますますおとなしくさせていた。私が吃音矯正所仲間を大勢ひきつれて顔をみせていたのだった。一応の説明が終わった時、おとなしいはずの参加者のなかから異質な人間が前に出て、「先生」と、大声を出した。これまでの説明の間にはみかけなかった顔だった。医者と教師以外の「先生、先生」に不快感を持っている私には、それだけでいやになっていた。
 「私もどもりを治すためのこのような会のできるのを待っていました。私も一生懸命やりますから頑張りましょう」
 握手を求め、贈り物まで手渡した。説明も聞いていないで、私達大集団をさしおいての大きな態度に私達は相当頭にきていた。
 吃音矯正所仲間のなかで、どもることにかけては質量共に1番と折り紙つきのK君には、態度そのものより彼の口から飛び出す流暢な日本語にがまんならなかった。会合が終わるとK君はその人に詰め寄っていた。「君は全然どもらないのになぜこの会に来たのか?それに贈り物なんかして何か魂胆でもあるのか」。仲間内では通じるK君のことばもその人には通じなかったかも知れない。しかし、K君の態度からただごとでないことはわかったらしかった。
 一瞬殺気立った空気が流れ、帰りかけていた人も立ち止まった。
 「なあ、みんなで食事でもしてゆっくり話そうや」
 声をかけたのは今は故人となられた親話会(どもり矯正会)の依田さんだった。冷静に考えれば彼に詰め寄る積極的な理由を見つけられなかった私達は、その言葉に救われた思いだった。むしろK君の森の石松ぶりにおかしさすら感じていた私達は、むろん全員参加でのぞんだ。
 おなかが一杯になったK君がおとなしかったので話ははずんだ。
 「遅れて来たんで、すわる場所がなかったんです。それで『チョット』と思ったパチンコで、思いがけずにとれた景品を、持って帰るのもめんどうなので渡したのがどうも誤解されてしまって」
 その人はテレて説明をした。大笑いだった。誤解はとれてもK君にとっては、「私も前はひどいどもりで苦しんだんです」のことばだけは納得いかなかったらしい。それだけその人の日本語は確かなものだった。
 この人こそ、言友会の生みの親、長い間東京言友会の会長をつとめ、全国言友会運動の先頭にも立つ丹野裕文その人だった。そして民間吃音矯正所の仲間をひきつれてきていたお山の大将は、当時大学1年生の私で、言友会はこの2人の殺気だった出会いから始まったのだった。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/18
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