伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年10月

「吃音」と「楽しい思い出」が結びついた場−吃音親子サマーキャンプ (26)

 4日前に、日本吃音臨床研究会のホームページの問い合わせ欄から、1本のメールが入りました。見覚えのある名前です。吃音親子サマーキャンプに参加したことのある子からでした。本文を読むと、第19・20・21回と、連続して3回、サマーキャンプに参加したとありました。もう大学生になっています。大学では、教育・心理学の勉強をしているそうです。
 僕のブログを読んで、その中で、宮城県女川町から参加し、大津波で亡くなった阿部莉菜さんの名前をみつけ、連絡してきてくれました。莉菜さんと同じ部屋で宿泊したとのことでした。亡くなったことを知らず、びっくりしていました。
 今も、どもりながら、でも、吃音とうまくつきあっているとのことでした。一番しんどかった時期に母がサマーキャンプに連れていってくれたことがよかったとメールにありました。サマーキャンプに連れていってくれたお母さんが7年ほど前に亡くなられたそうなのですが、サマーキャンプの資料は残されていて、その中に、お母さんのメモがたくさんあったそうです。母親と一緒に、吃音とともに豊かに生きる道を歩いてきたことが分かりました。「サマーキャンプは、私の中で唯一、『吃音』と『楽しい思い出』が結びついたもので、サマーキャンプに感謝している」と、メールは結ばれていました。
 8月の終わりから、このブログで、サマーキャンプの特集を続けています。今年のサマーキャンプが中止になってしまったので、その代わりにと始めたものですが、そのブログを読んでくれている人の存在を確かに感じることができ、それが一時期共に過ごした参加者だったこと、ありがたいと思いました。
 そして、何より、吃音親子サマーキャンプを続けてきたこと、よかったなあと思いました。

第26回吃音親子サマーキャンプ 2015年
   会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
   参加者数  138名
   芝居    雪わたり

第26回吃音親子サマーキャンプを特集したニュースレターの巻頭言

ひとつの家族の物語
     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「サマーキャンプでは、みんなが吃音について話し合うことから始めて、やがて吃音を超え、苦労すること、悩むこと、そして生きることについての思いを分かち合う。2泊3日の時間と、様々な活動を通して、吃音の子どもと親とスタッフの140人あまりの集まりは、緩やかで、いろいろで、そして大きなひとつの家族になっていく」
 TBSの報道番組「報道の魂」を企画・制作した斉藤道雄さん(現在は、手話と日本語の2つの言語で教育する明晴学園理事長)が、その放送をもとに、TBSニュースバードで、自ら解説員として解説し、41分の吃音を特集した番組を作って下さった。吃音を考える上で最適な教材として、私が担当する言語聴覚士を養成する大学や専門学校では、必ずそのDVDを学生に見てもらう。
クラフト棟での食事 何度も何度も見ている映像だが、見飽きることがない。そして、このナレーションが流れる2日目の夜の、それぞれが談笑しながら、楽しそうに、野外でカレーを食べているシーンが私は大好きだ。まさに、大家族がひとつ屋根の下で食事をしているかのようだ。
 キャンプは今年で26年になる。毎年キャンプの準備を始める頃、不安に襲われる。これまでのキャンプは、参加者もスタッフも満足するいいキャンプになった。果たして今年は、例年のようにいいキャンプになるだろうか。140名を超えるキャンプには、40名以上のスタッフが必要になる。スタッフは交通費も参加費も自ら支払って参加する。昨年までのようにスタッフが集まってくれるだろうか。毎年、毎年このような不安に駆られるが、今年も沖縄県をはじめ九州各地から、関東地方から大勢のことばの教室の教師や言語聴覚士が集まってくれた。そして、キャンプが終わった時、みんなで、今年もいいキャンプだったねと、振り返ることができた。そのようなことを、一年、一年と積み重ねて26年。これはもう奇蹟に近いのではないかと思えてならない。子どもには子どもの、親には親の、スタッフにはスタッフの、それぞれのドラマがある。そのひとつひとつを明らかにしていけば、壮大な人間ドラマになるだろう。
 12月4日、横浜市で、横浜市教育委員会が主催する「保護者教室」があった。どもる子どもの保護者会なので、多く集まっても30名程度だろうと予想していたのが、130名ほどが参加した。定員いっぱいで、断られた人が、翌日、私が主宰する吃音相談会に参加するなど盛況だった。大学や専門学校での講義、今回のように保護者に対する講演の場合でも、私の話の中心は、吃音親子サマーキャンプで出会った子どもたちだ。その子どもたちが成長し、就職し、子育てをしている。ある一定の短期間、つきあうのではなく、その子どもが望めば、その子どものその後の長い人生にもつきあう。長いスパンで子どもとつきあっているからこそ、見えてくるものがある。
 1965年の夏から始まった私の吃音と向き合う人生。様々な活動をしてきたが、最も基本として大切にしてきたことは、私自身が本当にしたいこと、楽しいこと、一緒に取り組んでくれる仲間がいることしか、しないということだ。私を含め、一人の力は弱く、小さいが、志を同じくする人の力が集まればこのようなことができるのだ。私は「世のため、人のために」と、してきたのではない。自分の喜びであり、楽しみであり、自分がわくわくすることだけをしてきたに過ぎない。その自分本位の様々な活動に、多くの人が関わって下さり、参加した人たちが、参加したことが人生の転機になったと言って下さる。こんなことを50年も続けることができた私はなんと幸せなことか。どもりの神様に感謝せずにはいられない。(了)(2015.12.20)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/7

吃音の深い悩みを救った、読書と映画−吃音親子サマーキャンプ (25)

 吃音に悩み、ひとりの友だちもいなかった学童期・思春期、僕は、本を読むこと、映画を観ることで、辛うじて自分を支えていました。図書館と映画館が、僕の唯一の居場所だったのです。
 高倉健さんが大好きでした。健さんの映画はデビュー作「電光空手打ち」から全て観ています。映画だけでなく、健さんの生き方も大好きです。出会いを大切にし、人に優しく、誠実に、丁寧に生きているところが、すてきだと思います。
 昨秋、北海道を旅して、夕張にある、「夕張 幸せの黄色いハンカチ想い出ひろば」に行きました。映画「幸せの黄色いハンカチ」のロケ地で、たくさんの黄色いハンカチが風にはためき、炭鉱長屋が残され、武田鉄矢が乗っていた真っ赤な車も置いてありました。映画の世界に浸りながら、健さんの「あなたに褒められたくて」を思い出しました。健さんが俳優業を続けることができたのは、母親に褒めてもらいたいという思いからだったとのこと。僕が吃音にかかわり続けるのも、今まで出会ってきたたくさんのどもる人たちに、あんなに惨めな学童期・思春期を過ごした僕でも、幸せに生きている今の僕の姿を見てもらいたくて、なのかもしれません。

第25回吃音親子サマーキャンプ 2014年
   会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
   参加者数  140名
   芝居    王様を見たネコ

第25回吃音親子サマーキャンプを特集したニュースレターの巻頭言

  
高倉健さん ありがとう
   
      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 吃音に深く悩んでいた学童期・思春期、私はひとりぼっちで、学校に居場所はなかった。中学2年の夏からは、母親との関係が悪くなり、家庭にも居場所がなくなった。孤独な私を救ってくれたのが、読書であり、映画だった。
 もし、本と映画がなければ、今まで生きてこられたかどうかわからない。それほどに読書と映画は私の心の支えだった。子どもの頃、特に、下村湖人の「次郎物語」とジェームス・ディーンの「エデンの東」は特別の本と映画だった。
 強い劣等感をもつ子どもや人に、「何か自信をもてるものをみつけなさい」と周りの人は言う。特別の能力もない私にとって、自信がもてるものなど何一つなかった。自信はないけれど、読書をしている時、映画を観ている時は目の前の苦しさを感じない、意識しないで済んだ。何かに夢中になっているときは、私にとって唯一、強い劣等感から解放される時間だった。今日一日、今日一日と、21歳の夏まで生き延びてきたような気がする。
 小学生の高学年頃から、当時、父親が収集していた記念切手を売りさばいては映画館に入り浸っていた。私は、女優よりも男優が好きだった。バート・ランカスター、クリント・イーストウッド、高倉健の三人だ。この三人はデビュー作品から、映画人としての変化、成熟を見続けてきた。
 バート・ランカスターは、「真紅の盗賊」などのアクション映画から、重厚な「山猫」や「エルマー・ガントリー」などアカデミー主演男優賞俳優に変わっていく。クリント・イーストウッドも、テレビドラマの「ローハイド」のカウボーイから「マカロニ・ウェスタン」を経て、ハリウッドを代表する俳優・映画監督になった。高倉健も、デビュー作「電光空手打ち」などでは、ここまでの俳優になるとは思わなかったが、大きく化けた。
 私が言友会を創立した1965年、国家権力・大学当局と闘っていた私たち全共闘世代に圧倒的に支持を得た「昭和残侠伝」「網走番外地」のヤクザ映画が始まった。そして、「幸せの黄色いハンカチ」のような作品へと転じ、健さんは文化勲章を受章する映画人に変わっていった。健さんが亡くなって1か月になるが、「週刊朝日」臨時増刊が出版されたり、共演者だけでなく、裏方のスタッフ、ロケ地で撮影に協力した人々にも、優しく接し、出会ったことを宝物のように語る、テレビの特別番組を見て、人が、変化、成熟する姿を思った。
 1976年の私の二冊目の著作、「吃音者宣言−言友会運動十年」(たいまつ社)の裏表紙に、私の恩師、大阪教育大学の教員への道を作って下さった神山五郎先生が、「常にすがすがしい好漢」のタイトルで次の文を書いて下さった。
 「高倉健に惚れ、かつどもりである大学教官というように彼を紹介しておこう。事実、伊藤伸二を慕うどもる人びとや関係する学生は多い。彼自身も面倒見がよくつねにすがすがしい。
 彼がどもりながら話すせいか、聞き手はつい彼の指示に素直に従ってしまう。かようにどもりであるメリットを生かし続けている好漢である。
 この度、どもりであることを主張し生かす自他の方法、体験などを集め、評価し、書となすという。草稿はまったく見ていない。世のなかから厳しく批判された方が薬になる段階に彼はいる。読者の叩き方が強ければ強うほど、彼は強くなる。一つおおいにやっつけてください。彼がどうさばくか、それをみるのもまた楽しい」
 健さんは、映画史上最も過酷な雪中のロケに自分をさらした映画「八甲田山」を転機にあげ、人との出会い、作品との出会いが自分を変えたという。三人の映画人のように、私が成長してきたかと言えばこころもとないが、健さんが大切にしてきた「人に、想いを伝えたい」は、ずっとしてきたように思う。同時代を生きた健さんの死は寂しいが、自分の人生を振り返る機会にしたい。
 どもる人間としての想いを伝えることで、どもる子どもたちが、吃音親子サマーキャンプでの出会いやできごとを通して、変わっていくきっかけとなればうれしい。
 健さんありがとう。合掌 (了)  (2014.12.23)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/6

吃音の「治療・改善」ではなく、「生きる」ことを考える場−吃音親子サマーキャンプ (24)

 吃音親子サマーキャンプを始めた当初、参加者は20〜30人程度でした。少しずつ増えていき、11回目で、一気に、参加人数が1.5倍と、ぐんと多くなりました。また、大阪など関西からの参加者がほとんどだったのに、全国に広がりました。遠い北海道や沖縄からの参加もありました。新聞などで募集をしているわけではないので、どうして全国に広がっていったのか、不思議です。参加した人たちの口コミだったのだろうと思っています。参加者が増えると、スタッフもそれだけ必要になります。スタッフも、参加者と同じで、交通費も参加費も払っての参加になるので、毎年、僕は、「今年もスタッフが参加してくれるかなあ」と心配になります。でも、毎年、全国からスタッフが集まって下さって、開催することができています。最近は、サマーキャンプの卒業生がスタッフとして参加してくれるようになりました。スタッフの高齢化が進む中、若い彼らは貴重な存在です。
 そんな人たちのおかげで、サマーキャンプは今まで続いてきています。

第24回吃音親子サマーキャンプ 2013年
  会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
  参加者数  138名
  芝居    森は生きている

第24回吃音親子サマーキャンプを特集したニュースレターの巻頭言

  
みんなが元気になる

     日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 吃音親子サマーキャンプはここ15年、参加者は140名前後で推移している。どもる子どもと保護者の参加が増えるとスタッフが必要になる。スタッフは、子どもにかかわる専門職者として、ことばの教室の担当者を中心とした教師、さらに保育士や言語聴覚士などだ。そこに、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの成人のどもる人と、サマーキャンプの卒業生が加わる。
 このキャンプは、25年前、ある自治体の言語聴覚士7人と、どもる私たちが実行委員会をつくって始めた。成人のどもる人たちは、どもる子どもたちに関わりたいと考えていたものの、成人単独では、子どもたちに関わるべきではないと考えていたので、言語聴覚士などの専門家と実行委員会が組めたことで第1回キャンプを開くことができたのだった。
 5回目からは、成人の私たちが単独で開くことになった。果たして、どもる子どもやその親が集まるだろうか。また、交通費は自己負担、参加費も一般参加者と同じという条件の中で、ことばの教室の担当者や言語聴覚士などのスタッフが集まるたろうか。不安だった。成人のどもる人も、当事者なら誰でもいいというわけではなく、竹内敏晴さんのことばのレッスンを受けた経験があり、カウンセリングや児童心理、グループについて私たちと学んでおり、私たちが適任だと認めた人に限っていた。大学生や社会人で、キャンプに参加したいと申し込んでくる人は多かったが、条件を満たさない場合はすべて断ってきた。
 それが今では、遠く南は沖縄から北は栃木や千葉の関東地方から、広い地域からことばの教室の担当者が参加して下さるようになった。スタッフが集まる大きな転機は、今回、吃音親子サマーキャンプの報告をして下さった千葉市のことばの教室担当者が作って下さった。キャンプに参加して元気が出た彼女は、キャンプの経験を周りの人たちに語っていった。そして、次の年、周りのことばの教室担当者や、担当している子どもたちを連れてキャンプに参加した。同じような経験をした人たちがさらに他の人を誘い、いつしか、千葉県からの参加者が増えていった。毎年、スタッフとしては、千葉県のことばの教室担当者が一番多い。さらには、自分が担当している子どもたちを連れて参加するため、千葉県からの参加がとても多くなった。ある年、どの地方からの参加者が多いか、サマーキャンプの冒頭のプログラムである出会いの広場で調べたとき、大阪府にわずかな差でトップは譲ったものの、際だって千葉県が多かった。その多さには参加者の中からも、驚きの声が上がったほどだ。
 誰に頼まれたわけでもなく、仕事の延長として参加しているわけでもない。専門家が最初参加する動機は、ことばの教室の実践に役立てたいなど、吃音を学ぶためという人は少なくない。しかし、キャンプが始まって数時間もすると、そのような学ぶ姿勢は消えていくそうだ。ことばの教室担当者、言語聴覚士という専門家としての役割は消え、一人の人間として、自分のために参加している自分に気づいていく。
 どもる子どもや保護者は、仲間やどもりながら楽しく豊かに生きている成人のどもる人たちと出会い、「吃音を治す、軽減する」ではなく、「吃音とうまくつきあい、豊かに生きる」という価値観や文化を自分のものにしていく。また、「吃音を治し、軽減してあげる」ことが専門家としての役割だとの考えから、なかなか抜け出せなかった、ことばの教室担当者や言語聴覚士も、子どもたちがいきいきと活動し、話し合う姿に触れて、「治す、改善する」の呪縛から解放されていく。
 140名を超える人たちが、吃音をテーマにして集まり、「治療」ではなく、「生きる」ことを考えるとき、それぞれの人生が響き合う。昨年、小学4年生の時から参加し、キャンプを卒業し、スタッフになってからも毎年欠かさず参加している長尾政毅さんの結婚式に、10組ほどの親子が参加したのには驚いた。お互いに元気と勇気を与え合っていたのだ。たくさんのドラマを作り上げてきたキャンプは、今夏、25回目を迎える。(了) (2014.1.20)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/5

吃音は哲学だ−吃音親子サマーキャンプ (23)

 吃音は哲学だと、僕はよく言います。薬や手術で簡単に治ってしまうものなら、哲学など必要ありません。治らない、治りにくいものだから、それと共にどう生きるかを考えるので、哲学が必要になるのです。世間には、治らないもの、治りにくいものはたくさんあります。それと共に生きている人もたくさんいます。その人たちの生き方に学ぶことは多いです。人間にとって、永遠の、普遍的なテーマだと言えるでしょう。
 吃音の問題を、どもる人や吃音関係者だけの限られた問題とせず、もっと広く、生きづらさを抱えて生きることとしてとらえるならば、学ぶべきことは広がります。
 サマーキャンプの歴史の中でも、哲学者は数多く育っていきました。

第23回吃音親子サマーキャンプ 2012年
   会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
   参加者数  147名
   芝居    コニマーラのロバ

第23回吃音親子サマーキャンプを特集したニュースレターの巻頭言 

   
小さな哲学者たち

           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 パリ郊外の幼稚園の、幼児クラスの担任パスカリーヌ先生は、月に数回「哲学」の授業をする。「愛」、「自由」「大人と子どもはどう違う」「友だち」「死」など、時々によって違うテーマを子どもたちに投げかけて対話をする。子どもたちのための哲学の授業という、世界的にも珍しい試みの様子を2年間にわたって記録した、教育ドキュメンタリー映画が「小さな哲学者たち」だ。
 最初は慣れていないために集中できなかった子どもたちが、大人でも難しいテーマを真剣に考え、ことばにしていく。授業の最後の日、「哲学の授業」が大好きになった子どもたちは、これから進級する小学校には、「哲学の授業」がないからつまらないと発言していた。この発言に、私は吃音親子サマーキャンプの子どもたちを重ねていた。
 今年23回目になる吃音親子サマーキャンプが始まった頃、楽しいキャンプを主張する言語聴覚士たちと、吃音の話し合いを重視する私たちと、常に対立していた。吃音について、自分のことばで吃音の物語を話せて、他者の吃音の物語を聞いて対話を続けたことが「吃音を生きる」出発となったことを経験している私たちは、吃音についての話し合いは譲れなかった。私たち単独で行うようになって、90分、120分、60分の話し合い、さらに90分の作文教室の時間に吃音と向き合う。話し合いが私たちのキャンプの一番の柱になった。
 その後、卒業式のために60分の話し合いをカットしたとき、「吃音の話し合いを一番楽しみに参加しているのに、時間が減るのは困る」と苦情を言ってきた子どもたちも多かった。子どもは、楽しい遊びの方を喜ぶだろうと思っている大人の感覚と、「哲学」でいろいろなテーマを語る楽しさを知った子どもたちの感覚の違いを思う。
 今年のキャンプも小学1年生は1年生なりに、高学年や中学生、高校生はその年代に応じて、吃音の様々な問題について語り合っていた。 
 私は5、6年生の子どもの話し合いに加わったが、人の話を真剣に聞く姿が印象的だった。話し合いを子どもたちはこう振り返った。
 ・みんなの話を聞いて、考え方が変わった。
 ・話し合いができる仲間ができてよかった。
 ・どもるのが恥ずかしく恐かったが、どもってもいいと思えた。
 ・みんなのことを思い出して学校でもがんばる。
 その中のひとり、初参加の5年生の女の子がこんな作文を書いていた。
 「(略)・・・『英国王のスピーチ』を見てどもりを治してがんばっても結果は同じだったけれど、ジョージ6世は自分は自分やし、どもってもいいやという気持ちがあったから最後に話せたのだと思いました。一番最後は感動して泣きました」
私は、大学や専門学校で、講義の前に、映画『英国王のスピーチ』の感想レポートを提出してもらっている。150ほどのレポートを読んだが、現職教員を含め、彼女のようなことを書いた人は誰ひとりいなかった。多くが、言語聴覚士・ローグのセラピーの成果で、開戦スピーチが成功したと考えていたからだ。まさに彼女は小さな哲学者だ。
 先だって、東山紀之主演の『英国王のスピーチ』の舞台を観た。吃音に悩んだ当事者、サイドラーの脚本を、監督と主演のコリンファースが誠実に徹底的に討議して生まれた映画と、吃音の理解が浅い脚本と演出、東山の演技で、ここまで別物になるのかと、あまりにも映画との違いに驚いた。
 舞台の東山は繰り返しの多い、表面的にはかなりどもるジョージ6世を演じた。そして、最後のスピーチは、ぺらぺらと演説のように流暢に話し、全くどもらない。コリンファースが、どもる真似ではなく、内面的な苦悩を表現して、ブロックのある、どもる人の「間」を上手に生かしながら、訥々と、誠実にスピーチしたのとはまるで違った。
 この舞台だけを観た人は、ジョージ6世の開戦スピーチは、言語訓練でこんなにも流暢に話せるようになるのかと映画以上に思ったことだろう。
 これでは、小さな哲学者が、感動して泣くこともなかっただろうと思う。(了)( 2012.11.20)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/4

どもる子どもの経験を語り継ぐ−吃音親子サマーキャンプ (22)

 2007年、宮城県女川町から母親と妹と一緒に、初めて吃音親子サマーキャンプに参加した莉菜さんは、そのとき小学6年生でした。それまでは、どもることをからかわれたり、いじめられることは全くなかったのですが、転校生が中心になり、6年生になってすぐに、強いからかいやいじめが始まりました。学校へ行けなくなり、それは、短い夏休みが終わり2学期が始まっても続きました。そして、8月の終わりの週の吃音親子サマーキャンプに参加しました。 
 そのことを事前に聞いていたので、僕は、6年生の話し合いのグループに入りました。初日の話し合いは夕食後です。莉菜さんは緊張で堅い表情をし、最初は何も話しませんでした。でも、子どもたちが話すのを聞いて、自分も話したいと思ったのでしょう。「みなさん、私も話していいでしょうか」と遠慮がちに手を挙げて話し始めました。「みんなは、どもっていても元気に学校へ行っているのに、私は4月からずっと学校へ行っていません」と、今の状況を泣きながら話しました。子どもたちは、どんどん質問し、それに応えていく中で、彼女は、自分の体験を客観的に捉えることができたのでしょう。90分の話し合いの終わり頃には、笑顔が出ました。
 翌日の朝に彼女は、「どもってもだいじょうぶ!」のタイトルの作文を書きました。彼女の持つレジリエンス、健康生成論でいう把握可能感が発揮され、彼女は、サマーキャンプから帰ってから、からかった子どもたちの問題がまだ解決していないにもかかわらず、学校に行き始めました。その後、父親も一緒に4人家族でサマーキャンプに参加しました。 中学3年のときはクラブ活動とぶつかって、参加できませんでした。そして、2011年3月11日、進学する高校の制服も届き、将来の夢に向かってがんばろうとしていたときに、あの大津波が襲い、母親と一緒に彼女は亡くなりました。
 僕は、莉菜さんが吃音親子サマーキャンプで経験したこと、考えたこと、感じたことを、残してくれた彼女の作文をもとに、講演や講義、研修会で語っています。それが、残された僕の役割だと考えるからです。彼女が吃音と共に生きたことを話し続けています。

第22回吃音親子サマーキャンプ 2011年
   会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
   参加者数  116名
   芝居    カラスがくれたきき耳ずきん(木下順二)

 
どもってもだいじょうぶ!
                   小学6年 阿部莉菜
 私は学校でしゃべることがとてもこわかったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていても、どもってしまうと、みんなの視線が気になります。そして、なんだか「早くしてよ!」と言われそうで、とってもこわかったです。なんだかこどくに思えました。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに来てみて、みんな私と同じで、どもってるんだ、私はひとりじゃないんだと思いました。そして、夕食後、同じ学年の人と話し合いがありました。そのときに思ったのは、みんな、前向きにがんばってるんだ、なのに私はどもりのことをひきずって、全然前向きに考えてなかった。そのとき、私は思いました。どもりを私のとくちょうにしちゃえばいいんだ。そのとき、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。どもりもりっぱな、いい大人になるための、肥料なんだよ。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。今日、朝起きたときは、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりだと思うけど、とても学校などでしゃべれる自信がつきました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/3

吃音のメンター(先輩)の話は説得力がある−吃音親子サマーキャンプ(22)

 2011年は忘れられない年です。3月11日、東日本大震災の大津波で、吃音親子サマーキャンプに参加し、将来の夢に胸ふくらませていた一人の女の子が母親と共に流されて亡くなりました。僕がその後、よく講演や講義、研修などで話す宮城県女川町から参加していた阿部莉菜さんです。彼女が残した作文を、いろいろなところで紹介していくことが、僕の役目だろうと思っています。
 莉菜さんの作文は、明日、紹介しましょう。

第22回吃音親子サマーキャンプ 2011年 
  会場    滋賀県彦根市荒神山自然の家
  参加者数  116名
  芝居    カラスのくれたきき耳ずきん(木下順二)

第22回吃音親子サマーキャンプを特集したニュースレターの巻頭言

  
共振する力

        日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「好きな人がいて、何度も話しかけようとしたけれど、どもるのが嫌で結局話しかけられない」
 「どもると相手に嫌われると思うの?」
 「そりゃあ、そうでしょう。どもると嫌われて、相手にされないに決まっている」
 吃音親子サマーキャンプの話し合いで出された話題で、それほど深刻な悩みではないにしても、女子高校生にしては、切実なテーマではある。
 今年の高校生グループ6人のうち4人が女子だ。半数が複数回参加していて、吃音について学び、将来への展望は暗くない。男子は交番勤務の警察官、内装工事の左官工と、現実的な展望を語る。一方女子は、英語を生かして外国で仕事をしたい、国際連合の職員になりたい、言語聴覚士になりたい、ステージのバックコーラスの歌手になりたいと、それぞれに自分の可能性を広くとらえて、夢がある。しかし、現実の学校生活の中では、友人からどもることを指摘されたり笑われたりしているためか、人間関係については不安が残る。
 どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトの例会は毎週金曜日に開かれ、30人前後が参加する。毎回新しい参加者があり、その人たちは就職に際しての、または仕事上での悩みが多い。
 この4月から参加し始めた香緒里さんは親しい人や家族と話すときはよいが、上司への報告や人前でのスピーチ、電話などでは常に緊張し、仕事を辞めたいと上司に相談するほど悩んだ上で大阪吃音教室を訪れた。最初の日の自己紹介。名前が言えず、1分以上もかかったが、顔をしっかりと上げてどもり、精一杯伝えようとする誠実さが伝わってきた。その日から彼女は毎週熱心に通うようになった。大きな問題を抱えて悩んでいるにもかかわらず、私たちが半年は継続して参加したらどうかとすすめても何回かで来なくなる人、一回きりという人も少なくない。その中で積極的に発言し、例会後の喫茶店の語らいにも毎回参加する香緒里さんの熱心さは際だっていた。彼女の自分を変えたいとの熱意が伝わってくる。
 吃音親子サマーキャンプに大学生や成人が参加したいと申し込むことはよくあるが、すべて断っている。キャンプはあくまでもどもる子どもたちのもので、成人のためのものではない。どもる人のスタッフは、児童の心理やカウンセリング、グループについて、ことばのレッスンなどを学んできた人、キャンプの卒業生に限られている。吃音の体験をしてきたからといってそれがどもる子どもや親の役に立つとは思えないからだ。
 どもる人がキャンプのスタッフとなる原則を初めて破って、香緒里さんに事前の演劇のためのレッスンからのキャンプへの参加をすすめた。本人がキャンプで自信を取り戻してほしいとの思いだけでなく、彼女の人生に対する真剣さや誠実さがキャンプで接する子どもたちにいい影響を与えるだろうと考えたからだ。
 キャンプをすすめた後で、彼女が来年結婚することになった。相手の家族との顔合わせでひどくどもることを予想しながら出かけ、実際にかなりどもったとき、彼が「どもっていたけれど、ちゃんと言えていた、よかったよ」と言ってくれた。「どもる私以上に彼が私の吃音を受け入れてくれている、私も彼に近づきたい」という話をうれしく聞いていた。この話を、恋愛の話が出たときに高校生に話すと、目を輝かして聞いていた。
 見知らぬ誰かではなく、現に今、キャンプに参加している人の話だから、「どもっていても大丈夫。受け止めてくれる人はいる」の話も説得力がある。食事の時間に香緒里さんを女子高校生が取り囲んで話を聞いていた。
 キャンプに、小学生、中学生、高校生、大学生、さまざまな仕事をしている社会人が参加していることに大きな意味がある。今、悩んでいることに、ひとつの答えをもった体験者がいることは強みだ。女子高校生にとって、少し先を歩む香緒里さんの体験に、勇気づけられたであろうし、香緒里さんも、自分の体験をしっかりと興味を持って聞く後輩に、自分の体験が役に立っているとの思いが、自信につながったことだろう。
 キャンプのキーワードに「真剣さ」がある。人生を真剣に生きる人の体験と体験がぶつかり合い、共振し、これまでとは違った物語を語り始める。(了) (2011.10.23)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/2

竹内敏晴さんに壊された私のことば 吃音親子サマーキャンプ(21)PART3

 昨日は、吃音親子サマーキャンプの演劇の舞台裏を紹介しました。僕自身、初めて知ることもありました。事前レッスンを合宿で受け、吃音だけでなく、ことばや表現についても、よく話し合ってきた仲間なので共通することも多いのですが、グループごとに独自の取り組みがなされていることがおもしろかったです。
 基本にあるのは、竹内敏晴さんから学んだことでした。その竹内さんがお亡くなりになって1年経ち、藤原書店が『環』という雑誌で、竹内さんの特集を行い、僕も執筆依頼を受けました。その文章を紹介します。

  
竹内敏晴さんに壊された私のことば
           日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 私は、竹内敏晴さんに、意図的に「ことばを壊された」、おそらく唯一の人間ではないかと思う。壊されたとは、世間一般の価値観からすればのことで、私にとってはありがたいことだった。あまりどもらなくなっていた私は、竹内さんの芝居の稽古の結果、再びどもるようになった。
 私は21歳まで、吃音に深く悩み、民間吃音矯正所で必死に治療に励んだが治らず、治すことを諦めた。どもりながら日常生活を続ける中で、親しい人とでは相変わらずどもるものの、大学の講義や講演など、人前で話すときは、ほとんどどもらなくなっていた。
 吃音を治すではなく、どもる人が、もう少し楽に声が出ないかを探っていたころ、竹内さんに出会った。20年以上も前のことだ。どもる人とレッスンを受け、声を出す楽しさ、喜びを味わった。楽しくて、私はその後、毎月レッスンを続けた。毎週大阪から名古屋の大学の講義に通うなどの熱意に、竹内さんは、私を芝居の主役にと考えて下さった。私の吃音の悩みの始まりが、小学2年生の学芸会で「セリフのある役」から外されたことによることをご存知だったからだ。大学の講義が始まる前の1時間を稽古に当てて下さった。その時のことを、私の『新・吃音者宣言』(芳賀書店)の紹介文にこう書いて下さった。
 「伊藤さんは、台本を熱のこもった声で朗々と読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにすらすらことばは進む。この日のわたしの手帳には『ほとんど絶望的になる』とある。つきあって数年、かなりレッスンをし、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたのだが、からだにはなにも滲みていなかったということだろうか。『説得、セツメイ的口調の明確さを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか』・・
(中略)劇の上演はすさまじい迫力だった。東京の劇団にいる青年が、幕が下りた後訪ねてきて、これほど感動した芝居はなかった、と息を弾ませて言った」
 芝居は、東北地方の青年が、新しい農業を根付かせようと格闘し、狂気のはてに恋人を殺してしまう、秋浜悟史作『ほらんばか』だ。情念の世界を演じるこの芝居は、「吃音を治す」に、「治すではなく、どう生きるかだ」と闘う運動家として、「説得、セツメイ的な口調」が身についている私には、無理だと考えたそうだ。しかし、私の劇へのこだわりを知っているだけにさせてもやりたい。竹内さんは迷いに迷う。
 奇妙な声で人気があったある女優が、このままでは芸域が広がらない、声を変えたいと竹内さんのレッスンを受けに来た。しばらくレッスンをしたが、このままレッスンを続けると、人気の声が壊れるかもしれない。話し合い、本人の意志でレッスンを中止した。竹内さんにはこのような経験があるから、私に稽古をすることを躊躇したのだそうだ。伊藤なら、壊れたとしても、自分なりに受け止め、対処するだろうと信頼し、覚悟を決めて、竹内さんは、私を主役にし、激しい稽古を付けて下さった。
 夏公演のこの舞台は、晩秋に名古屋でも再上演された。そして、その冬、私のことばは見事に壊れた。金沢市での新任教員研修の講演。120人を前にして、ある文章を読み上げている時、ひどくどもり、その後の話も話しづらかった。人前でこれほどどもったのは、ここ30年で初めてのことだ。その日から私は、人前でも、普段でも同じようにどもるようになった。自分ではまったく気づかなかったが、人前ではどもらないようにとコントロールしていたのだろうか。「情報伝達のことば」と「表現としてのことば」の乖離がなくなったことを私は喜んだ。そのように受け止めた私を、竹内さんも喜んで下さった。
 その後、日本吃音臨床研究会主催で、竹内敏晴さんの「大阪定例レッスン」が始まり、丸10年が過ぎた。そして、11年目の6月にがんが発見されながらも、私たちの吃音親子サマーキャンプで行う劇の台本を書き下ろし、合宿で演出指導をして下さった。7月には、定例レッスンをいつものようにこなして、9月にお亡くなりになった。
 「私は聴覚言語障害者だ」と、吃音について強い関心をもち、どもる私たちを仲間としていつも大切にして下さった。毎月の大阪のレッスンの時、宿舎に戻る前に立ち寄る、ハーブティーの店で1時間ほど、生きること、ことばについて、プライベートなことまで包み隠さずいろいろと話して下さった。このひとときは、私にとって至福の時間だった。
 学んだことを、『親や教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック−吃音を生きぬく力が育つ−』(解放出版社)の中に、多くのページをさいて残せたことがうれしい。(了)

藤原書店『環』〜竹内敏晴さんと私〜  vol.43/2010 Autumn


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/10/1
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