伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年08月

吃音と就職・就労 5

最初に、一番行きたい会社を受ける

 僕は、21歳の夏までは、社会人として働いているイメージが全くもてませんでした。吃音を治さないと働けないと本当に考えていました。だから、吃音を治すために「吃音は必ず治る」と宣伝する東京正生学院で30日間の寮生活を送ったのです。そこで、治らないと断念して、どもる僕でも働けるとやっと思えたのです。だから、どもる人が就職に果敢に挑戦する姿には、敬意の気持ちがわいてきます。
 その僕がえらそうなことは言えませんが、就職に不利だ、どもっていたら就職できない、どもっていても就職できるよう社会が理解してほしい、そう嘆いているだけでは、問題は何も解決しません。どもっているからこそ、他のことはしっかり準備するとか、どもっているからこそ、笑顔だけは絶対負けないとか、何か必要だと思います。
 今日は、どうせ落ちるだろうから、最初に、一番行きたい会社を受けると心に決めていた人の話です。強い決意と覚悟、それが就職への道を開いたのではと、彼は考えています。

    
決意

 時は、就職氷河期、真っ只中。来年就職を控えた一人の青年がいました。彼は幼い頃から吃音でした。
 「吃音があると就職すらままならない」
 そう将来を悲観していました。しかし、就職しないわけにもいきません。大きな不安を抱えながら就職活動を開始しました。
 彼の学校では、就職活動サポートの一環として、模擬面接を実施していました。模擬面接は、集団面接と個人面接の2回に分けて実施されました。彼は非常に大きな予期不安を抱きました。そう、学校名と名前が言えないのです。さらに、自分が吃音であることをクラスメイトや学校関係者に告げていませんでした。不安と恐怖を抱えながら、集団面接に挑みました。
 受験者の5人が、部屋に通されました。面接官は学校の先生、後は、同じ学校の就職を控えた同級生です。クラスメイトもいました。受験者は全員起立し、端から学校名と名前を言っていきます。彼の順番は最後でした。学校名と名前なのでそれほど時間がかかることはありません。
 そして彼の番になりました。不安は的中しました。学校名が言えない。最初の一音が出てこない。面接官も受験者も怪訝そうな目で彼を見ました。彼が言い終わるまで、受験者は着席できません。彼はなんとか声を絞り出し、どもりながら小さな声で学校名と名前を言いました。
 情けない思いと惨めさで、顔が真っ赤になりました。違う学校の受験者ならともかく、同じ学校の同級生、クラスメイト、先生にまで吃音があることがバレてしまった。恥ずかしい…。ずっと吃音を隠し続けてきたツケがこんなころで回ってきました。
 面接の後半、それぞれが興味のある時事ネタを語る時間がありました。彼は、当時、興味のあった時事ネタを自分なりの意見を交えて一生懸命語りました。
 そして面接が終わりました。それぞれの受験者に対し、講評がありました。彼は、面接官からこう言われました。
 「君の時事ネタの話が一番良かったよ。過去にも君のような子がいたよ。その子は苦労しながらもがんばって30社ほど受けて、見事内定を取ったよ。だから君もできるはず」
 その言葉を受け、少しホッとしました。最低な面接だと思っていたが、少しはいいところもあったみたいだった。また、自分のような吃音を持つ人でも内定を得られることを知ったこと。不安でたまらなかった就職活動に少し勇気を持つことができました。

 彼は就職活動をするにあたって、ひとつ心に決めていたことがありました。どうせどもりなので、何十社も受けて落ちることになるだろう。どうせ落ちるなら、最初の1社目は自分が一番行きたい会社を受験しよう。先生に無理と言われても、クラスメイトに馬鹿にされても、それでも一番行きたい会社を最初に受けよう。
 見事に落ちて、「やっぱりダメだったじゃん!」ってみんなの笑い話にでもなればいいと思っていました。そう心に決めて、本格的に就職活動を始めました。
 彼は、決意どおり、一番行きたい会社に一通目の履歴書を送りました。そして幸運なことに、面接のアポをとることができました。
 面接当日。初めて袖を通すスーツ。緊張しながら会社の受付に向かいました。予想と反して温かく迎え入れてくれました。
 役員面接、作文、適性試験。適性試験は何も準備していなかったのと、緊張でほとんど問題が解けませんでした。しかし、作文や面接では、学校で努力してきたこと、会社が作る製品への想い、会社への想いを一生懸命語りました。
 そして社長面接。学校名がなかなか言えない彼に対して、にこやかな笑顔で「どうぞ座ってください」と言ってもらい、終始和やかな雰囲気で面接は行われました。
 すべての試験が終わりました。
 「ダメだった…」
 率直な感想でした。
 面接以外何も準備していなかった。それは吃音以前の問題でした。でも、彼の心の中で何か吹っ切れた気がしました。
 これからが本番だ。吃音のハンディを背負っているが、何とか受かるまでがんばろう。失敗を踏まえて、決意を新たにしました。さっそく何社か面接のアポを入れ、まったく準備していなかった適性試験の問題集を買って、次の試験に備えました。
 数日後、最初に受けた会社から面接の結果が届きました。どうせ落ちているだろうと思っていたのですが、なんと、合格していました。彼は驚き、にわかには信じられませんでした。自分の何が良かったのだろう?
 とりあえず、ひと安心しました。こうして、彼の就職活動は意外な形での幕切れとなりました。

 10月。内定式。内定者には、必要書類とともに、花束が贈られました。
 花束などもらったことがない彼は、少し恥ずかしいなと思いながら、学校に戻りました。クラスに戻ると、みんなが花束を見て、うれしそうに祝ってくれました。
 「内定式で花束なんてくれるの! いい会社やん!」
 照れながらも、彼は花束を見て少し誇らしい気持ちになりました。
 吃音があると就職できないと絶望していた十代後半。吃音を持たなくても、就職が難しかった時代。
 吃音が就職に不利に働くとするなら、なお一層強い決意を持って臨まなければならない。その強い決意が、就職への道を開いたのかもしれない。吃音がなければ、そこまで強い決意を持てただろうか。

 そして現在。
不満をたくさん持ちつつも彼はまだその会社に勤め続けています。経営状態も良くなく、明日どうなるか分からない身ですが、あのときの強い決意と覚悟は、いつまでも忘れないでいたいと思っています。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/9

吃音と就職・就労 4

「どもっていても、仕事に関係ないから大丈夫と思います」のことばに支えられ

 どもる人に限らず、どんな仕事をするか、どんな仕事がしたいのか、どんな仕事ができるのか、思い悩むものです。面接でつまずいたり、研修期間中の研修に耐えられなかったりして、辞めてしまう人もいます。話すことが少ないと思って選んだのに、だんだん話すことが多くなっていって悩む人もいます。
 揺れ動く気持ちの中で、「どもっていても大丈夫と思います」のひとつの言葉を支えにしてがんばってきた人の体験を紹介します。今も、彼は誠実に仕事を続けています。その仕事に就くまでに、いろいろなことがあったのだなあと改めて思わされました。それにしても、自分の話し方に「どもる」という名前がついていたことを就職の時に初めて知ったことに、びっくりします。「どもり」が使われなくなったからでしょうか。

今の会社で働けるまで

 高校3年生の大学受験は、不合格に終わった。1年間、浪人をすることにした。一人で勉強をする自信がないので予備校に行きたかった。それなのに予備校に行くことができなかった。受付で名前を言うときにどもるのが嫌だからだ。太っている姿を見られるのが嫌で図書館にも行けず、家で勉強をすることしか選択肢が見つからなかった。一人でする家での勉強は、はかどるはずもなく、結局、2度目の大学受験も不合格に終わった。
 進学はあきらめて就職することにした。ハローワークに行っても仕事を選ぶのに困った。事務は電話があるからしたくなかった。体力に自信もないので建設作業もしたくなかった。どうしようかと悩んでいたら、スーパーの求人が目についた。これなら話す機会も少ないと思い応募した。幸い、採用が決まり、4月1日から働くことになった。
 4月1日、本社に行くと研修が始まった。初日は、話を聞くことだけで終わった。ところが、研修の最後に研修担当者が、とんでもないことを口にされた。「明日は電話の応対をしてもらいます」。その言葉を聞いて焦った。100人近くいる人の前でどもるなんて考えられるものではなかった。帰宅途中の電車の中でも、家にいても「明日はどうしよう」ずっとそのことばかり考えていた。
 翌日になっても、どうしても会社に行く勇気が持てなかった。どもるなんてとんでもないことだった。もし、みんなに笑われたら、もし、みんなに変な顔で見られたら、そんなことを考えていると、ますます、出勤をする勇気が持てなくなってきた。どもる姿をみんなに見られることは、恥ずかしいことだった。格好悪いことだった。どう考えてもさらけ出す勇気をもつことができなかった。仕方ないので、その1日でスーパーを辞めることを決意した。
 スーパーを辞めても、どうしたらいいのか分からなかった。電話がない働き先があるのか? 話さなくてもいい働き先があるのか? 働いても、またすぐ辞めてしまうのではないだろうか? こんな話し方をするのは、世界で一人だけだと思っていた。誰にも話すことができずに一人で悩んでいた。時期が来れば、いつかは吃音は治ると思っていた。
 大阪中央郵便局で貯金を下ろしたときに、郵政外務職員募集の用紙を見て応募した。念のために、問い合わせ先に電話をして確認をとった。
「言葉が詰まるのですが、…応募しても大丈夫でしょうか?」
私が質問すると、担当者は
「詰まるとはどういうことですか?」と質問をされた。
『「ぼ・ぼ・ぼ・ぼ・ぼく」のような感じなんですが』
「どもるってことですか? 少々お待ち下さい」
この、自分の詰まる話し方が「どもる」ということを初めて知った。しばらくして担当者から、「関係ないから大丈夫と思います」という返事が返ってきた。
 その言葉を糧に試験を受けた。面接もその言葉があったから、恥ずかしながらも安心して受けることができた。無事に採用が決まった。当初は仕事をしていて、どもりそうになったとき、その言葉を思い出して自分自身を励ましていた。
 あれから20年が経って、今、振り返ってみて、その言葉を支えに働いてきたような気がする。いつの日か、心からそう思える自分になりたい。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/8

吃音と就職・就労 3

吃音が周りから理解されないと嘆いても、何も始まらない 

 今日は、就職活動をテーマに絞り、大学4回生のときと大学院を終えたときの自分の変化、吃音についてのとらえ方、吃音との向き合い方の違いについて、細やかにその軌跡を追った体験を紹介します。大学院に進んだのは、就職活動が恐かったからだという自己分析に始まり、一般社会は吃音なんてどうでもいいことで、理解してもらおうと必死になっている自分が馬鹿らしくなったこと、どもることを公表し隠さず顔を上げて話をすればちゃんと自分の話を聞いてもらえるということを実感していきます。
 「自分を磨かずに、吃音が理解されない不満ばかりを言っていた。自分が変われば、世界が少しずつ変わっていった。世界が変わってほしいと思うなら、自分を変えなければならなかったのだ」の洞察は、そのとおりだと思います。
 最後に、面接に落ちたことを吃音のせいにしている間は受からないというのも、しっかりと吃音と向き合ってきた彼女ならではのことばだと思いました。どもらない人なら、すんなりと通り過ぎていくところを、どもる人ならとても頷ける苦労の連続です。それでも、就職するんだとの強い意志をもてば、自ずと道は開けることを彼女の体験が示しています。

世界を変えるためには

 就職先なんて見つからないんじゃないかと本気で思っていた。私は来年3月で大学院を卒業する。卒業するからには就職活動をしなければいけない。しかし、いつになったら内定という言葉に出会えるのか、不安でしょうがなかった。内定なんて自分はもらえないんじゃないかと本当に思っていた。
 私が大学院に進んだのは、勉強が好きだからと人には言っていたが、実は就職するのが嫌だったからだ。就職の前の就職活動が、怖くて仕方なかった。4回生の春から秋にほんの数回した就職活動でも、集団面接が怖くて無断欠席したことがある。それぐらい就職活動に恐怖を感じていた。
 恐怖の中心にあったのは、「どもる」ということだった。大阪吃音教室に参加して、自分がどもるという事実を認めてはいたけれど、人の反応が怖かった。どもると変な目で見られるから絶対に落とされるし、集団面接で一緒に受ける学生にも変に思われる。そう考えると、どもるのが怖くて、恥ずかしくて、どもりを人に知られたくなかった。
 就職活動が怖かったからか、就職活動自体にやる気を出せなかった。自己分析も会社研究も筆記試験対策もほとんどしていなかった。面接対策については全くしていなかったので、マナーからひどかった。スーツも大学入学時に買ったもので、ぶかぶかで全く似合っていなかった。受けた会社は全て落ちた。今考えると当然のことだと思えるが、当時の私は、自分が何もできていないことをわかっていなかった。「怖い」と思うのに、何も努力をしていなかった。
 その後、私は大学院に進むことを決めた。研究したいことがあったからでもあるが、私は逃げたのだ。そして私は別のことからも逃げていた。それは、話すことだ。
 しばらくしてから、大阪吃音教室で伊藤伸二さんに叱られたことがある。あなたは下を向いて小さな声で一人でしゃべっている、どもる態度は変えられることだ、と。少しずつ変えていけばいいかと思いつつも、何もしないで逃げて怠けていたことをズバリと言われた。2年半吃音のことで毎日泣いていた頃に比べたら格段に吃音を受け入れられるようにはなっていたけれど、吃音は受け入れるだけじゃダメなことに気づかされた。一人でしゃべっているような人間を雇おうとする会社がなかったのも、当然のことだった。
 4月、私は大学院に入学し、自己紹介で初めて吃音のことを言った。怖かったが、言った後は楽になった。院生協議会という生徒会にも立候補した。今まで吃音があるからと言って逃げてきたことをしてみたいと思ったからだ。勇気の面で、私は変化していた。
 けれども、話すことへの自信がなかった。そんな中、吃音ショートコースで発表することになった。発表当日は、とても怖かったし、心臓の音も緊張もものすごかった。それでも、ちゃんと発表ができた。人前で話すことに自信がついた。
 年が明けた1月から、就職活動を始めた。今回の就職活動は、4回生の時とは違って、やる気があった。前に進んでいく勇気もあるし、人前で話すことも怖くない。堂々とどもって、どもりを前面に押し出した就職活動をしようと思っていた。どもる自分を見てもらうんだ、堂々とどもっていれば大丈夫だ、と。
 しかし、最初に行った会社説明会の受付で名前を言う時に、激しくどもった。「堂々と」とはほど遠かった。緊張が勝ってしまっていた。人事の人が言う。「そんなに緊張しなくていいですよ」。確かに緊張もしていたが、緊張していたからだけじゃない。なんでどもる人の存在を知らないんだ。悲しくて悔しくて、帰りの電車の中で涙が出てきた。
 しかし、落ちこんでいる場合じゃない。今回はなんとしてでも就職しなければ。いろいろな説明会に行き、選考を受けた。4回生の時より筆記試験対策をしてきたので、筆記試験で落ちることはなくなった。しかし、面接で落ちる。一次面接やグループワークを受かっても、別の担当者による面接で落ちる。選考の一つで店舗でのインターンシップをした時も、「どもるのがなかったらいけてる」と言われた。どもる人じゃダメなのか? なんで世の中にはスラスラしゃべる人しかいないと思っているんだ? 「劣っていると思わなくていい」などの「励まし」を言う人も、どもる姿に不快な表情を浮かべる人もいる。どの面接でも、最初にどもることを伝えているのに、落ちる。だんだんと、どもることが嫌になってきた。
 何度も「どもるの嫌や」と泣いた。自分がどもりであることが嫌なのではなく、吃音への理解がないことが嫌だった。「どもります」「吃音者です」と言って、理解できる人がなんでこんなに少ないんだ。本当に、どもる人を採用してくれる会社なんてあるのか? みんな吃音を隠して受かったんじゃないのか? 私も今までのアルバイトは隠して受かってきた。私は今真剣になっているから緊張している。だから隠せなくなってひどくどもる。けれども、こんなにどもる私を、どこが採用してくれるというのか。どこも採用してくれないんじゃないか。どもることが、本当に嫌になった。
 もう6月になっていた。ある就職イベントの相談コーナーに相談をしてみた。私にはそこへ行くにも勇気のいることだった。私は相談しながら涙が止まらなくなった。それぐらい苦しかったのに、担当者は何一つ救ってくれなかった。「会社としても、どもる人をお客さんに近い所に置きたくないのでしょう」「向き不向きがあるんだからどもる人に向いている仕事を探せばいい」。どもりだからしてはいけない仕事があると言われているようで、その後は1時間トイレから出られなかった。しかし、このことから、普通の人にとっては吃音なんてどうでもいいことなんだ、と力が抜けた。必死になって吃音のことを理解してもらおうとしている自分が馬鹿らしく思えた。
 それ以来、力を抜いて挑むようになった。面接もだんだんと慣れてきた。どもり方もマシになってきた。院生協議会での仕事も、問題を解決していくことで自信がつき、履歴書に書いたり面接で話したりする良いエピソードになった。
 どもることの公表も、明るく言えるようになった。以前の公表は、自分がつっかえつっかえで話していることの言い訳をしているようだったと今思う。「吃音」という言葉を知っている人は本当に少ないし、「どもります」と言っても、ただ緊張してどもるのだと勘違いされる。だから私は「障害」だと言っていくことにした。私は吃音は障害だと思って楽になれた。だから、人にもこれは障害だと伝えた方が楽になる。それに「障害」は言いやすいサ行だ。言いやすいからもっと楽に言える。力を抜くと、楽な方を選ぼうと思える余裕も出てきた。
 公表したことで得た印象深い経験がある。それはグループ内で自己紹介をし、互いに印象を書くグループワークだった。私は吃音があることを伝えた。書かれた印象は「真面目」「緊張してそう」がほとんどだった。次に再び1分間ずつ話す。私は、昔は悩んで人前ではしゃべれなかったが、大阪吃音教室と出会って考え方が変わり、今では営業の仕事をしたいと思っているという話をした。すると印象が「前向き」「タフ」「話に共感を持てる」に変わった。周りの人がどういう反応や評価をするのかが、言葉にされてよくわかった。変に思われるどころか、逆に評価が上がった。でも、下を向いて小さな声でしゃべっていたら、きっと同じ評価はもらえなかっただろう。私は、ちゃんと顔を上げて話さなきゃいけない。それに、吃音や障害があるという事実だけでは理解されにくいこともわかった。自分が隠さずに顔を上げて明るく話をすれば、ちゃんと聞いてくれる、見てくれる。
 6月の就職イベントの翌日から、落ちてもいいやと思いながら、業界もバラバラに受けてきた。そして7月、8月、ついに内定をもらった。しかも3社からだ。そのうち2つは営業の仕事だ。どもるのに、営業で採用された。
 1つ目の会社は、一次面接では、初めにどもることを言わないでいたら少し馬鹿にされていたが、障害だと言ったとたん、面接官の表情が変わった。最終面接はほとんど吃音に関わる話ばかりだった。ペラペラしゃべる営業じゃなく、気持ちを伝える営業をしたいこと、そして自分がそうだったように、どもる営業ウーマンになって、これから就職するどもりの人に勇気を与えたいことを伝えたことが、合格になったと思う。
 2つ目の会社は、話を聞く態度と、見た目が「できそうな人」ということで、雰囲気からほとんど受からせてくれたんじゃないかと思っている。相づちと笑顔の、話を聞く態度は、大阪吃音教室で学んだ。また、就職活動中、自分に合うスーツで髪もビシッとまとめて眼鏡もかけていたら、複数の人に「できそうな人」「キャリアウーマン」と言われた。老けたとも言われたが、以前就職活動をしていた4回生の時には、新入生と間違われてサークル勧誘されたぐらいだ。見た目から変えることも大事だったのだ。
 3つ目の会社は、面接は無しに、19日間のインターンシップで、課題に対する能力や姿勢を見てくれた。発表の時にひどくどもっても、ちゃんと中身を評価してくれた。
 私は、就職活動中、たくさんのことを吃音のせいにした。「吃音があるから落ちたんじゃないか」「どもる自分なんかどこが採用してくれるのか」。しかし、今振り返ると、一度目の就職活動では根本的な対策が、そして二度目は面接で話した内容がかなりひどいものだったと気づく。自分が受かることにも必死だった。受かるために本当は思ってもいないことを言ったし、どこかから盗んできた言い回しも使った。自分の言葉を伝えていなかった。自信もなかった。
 私は自分を磨かずに、吃音が理解されない不満ばかりを言っていた。自分がいかに間違っていたか、今気づく。面接を何度も受け、落ちては悩む中で、私は変わっていった。自分が変われば、世界が少しずつ変わっていった。世界が変わってほしいと思うなら、自分を変えなければならなかったのだ。
 就職先は、尊敬できる経営陣がいて、インターン中、日々自分を成長させ、自分がどういう仕事をしたかったのかを思い出させてくれた、最後に内定をもらった会社に決めた。就職活動の中で学んだこと。それは、就職には努力や対策が必要で、落ちたことを吃音のせいだと思える間は受からないということ、そして、どもっていても就職できるということ。この言葉は、長い就職活動を終えた今、本当に、心の底から言える。(了)


 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/7

吃音と就職・就労 2

 吃音ボクサー

 NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの例会である、大阪吃音教室で、就職問題について考えたとき、これまで大阪吃音教室に実際に参加した人の職業をホワイトボードに書き挙げていったことがあります。一般的には、どもる人は話すことの多い仕事を敬遠しがちだと思われているようですが、全く違いました。むしろ、話さなければ成り立たない仕事に就いている人が実にたくさんいたのです。教員は、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学とすべていましたし、医師も、内科、外科、小児科、耳鼻科、眼科、泌尿器科など、ほとんどの科の医師がいました。看護師、薬剤師など、医療従事者もいました。警察官、消防士、海上保安官、バスガイドや添乗員、結婚式の司会業もいました。また、珍しい職種としては、プロの棋士もいました。愛媛大学教授の水町俊郎さんのどもる人の就労の調査でもあらゆる仕事に、まんべんなく就いていていることに、驚いておられました。

 今日は、ちょっと珍しい職業に就いた人の話です。プロのボクサーです。僕も、招待されて、この人のボクシングの試合を見に行ったことがあります。初めてのボクシング観戦経験でした。派手なガウンの彼が出てくると、大勢のファンが声をかけ、華やかな会場のリング上で輝いている彼は、いつも大阪吃音教室で見る彼とは別人のようでした。
 大阪吃音教室の作文教室の時に彼が書いたものを紹介します。


    
吃音ボクサー

 俺は高校でボクシングを始めた。
 中学の頃はひねくれていて、中途半端な奴だった。だけど、ボクシングをしてからは生活も性格も更生されていき、毎日が充実できるようになっていった。昔から多少あったどもりは、普段の生活では自分でも別に気にならない程度だったが、ボクシングでどつかれたダメージもあるのだろうか、徐々にひどくなっていった。
 だけど俺はボクシングが楽しくて仕方がなかったから、気にせずに強くなることだけを考えて毎日励んだ。高校の試合で成績を残せた俺は、中卒で働こうと思っていた頃には考えもしなかった大学にまで進学できた。ボクシングのおかげで勉強ができない俺も大学に行くことができたことに、自分も周りも本当に驚いた。
 大学でもボクシングの充実した毎日を送った。4回生になったときには、教員免許の資格をとるために大学から出身中学へ教育実習に行った。体育の教員としてだけど、保健の授業もあるし、体育館で何百人もの前で自己紹介や挨拶をしなければいけないし、ひどくなってきている吃音に不安が出てきた。
 そこで調べて、初めて行った大阪吃音教室は衝撃的だった。普段周りにはどもりがいないが、吃音教室に参加している人はみんなどもりで、なんか自分を見ているみたいで正直ショックだったが、反面、「俺だけやないんや」と安心でき、心強く温かかった。
 大阪吃音教室に行ったおかげで見事、俺の教育実習は成功した。ただ当時は吃音は治るものだと思っていたから、どもらないようにごまかしごまかしで、生徒に気づかれないように話し、うまく過ごした。
 その後は俺は教師になる道を選ばずに、大学卒業後は、プロボクサーの道を選んだ。最初はのびのび自分のしたいようにボクシングをしていたから、連勝しすべてKO勝ちで順調にランクを上へと登っていった。ボクシングは殴り合う、言葉のいらないスポーツだ。だけど強くなってくると周りが変わってくる。後援会やスポンサーもついて人前や目上の人と話す機会が増え、気をつかわなければならない環境になり、それが次第にストレスとなって自分のやりたいように戦えなくなっていった。それでも俺は勝ち続けていった。だけど下手な試合はできないから、俺は毎試合必死だった。
 そして4度、強くなるために渡ったアメリカでの武者修行。そこでガチのどつき合いをかなりして俺はだいぶダメージを受けてしまう。ボクシングの環境のストレスとパンチのダメージで、俺は前よりどもりがひどくなってきたように思った。
 そしてある時、試合後のリング上で、勝者のヒーローインタビューが行われたとき、俺はかなりひどく皆の前でどもってしまった。テレビ放送が予定されていたこともあり、俺は勝利したけれど、どもりを披露したことによってしばらく屈辱的な気持ちだった。
 そんなことがあってから俺はまた大阪吃音教室に行こうと思い、通い始めた。また行くようになったおかげでたくさんの方から助言もいただいたし、相談にものってくれたから、今では笑い話にできるくらいになって、ホントに良い経験をしたと思えるようになった。それからは周りにどもりを披露してしまったこともあり、もう吃音を受け入れるしかないから、前みたいに治そうとは思わなくなった。
 そして先日、俺はプロボクシングの道からグローブを置くことに決めた。アマチュアから入れてボクシング歴13年。チャンピオンにも挑戦し、ベルトこそ奪うことはできなかったが、様々な経験ができ、人脈も増えて、俺にはチャンピオンになる以上の財産ができたと思っている。多少ダメージは残ったが、本当にボクシングに感謝している。
 引退してからあるきっかけで、縁あってある刑務所で刑務官の訓練生の訓練を見学し、おまけに講演までさせていただくことになった。ちょうど前日に自分の結婚式があり、そこで挨拶もうまく成功していたので自信はあったが、刑務官の想像以上にすごい訓練を目の当たりにして圧倒され、すごく緊張した。
 最初に「俺は口べたです」と話してから、俺の生い立ちとボクシングで経験したことをどもりながらも熱く一生懸命話した。あんまりうまく話せなかったからちゃんと伝わったかなと不安だったが、皆さんは俺の話を一生懸命聞いてくれて、最後には花束や寄せ書きまで書いて、俺にサプライズでプレゼントしてくれた。皆さんからの、感動し刺激をもらったとの温かいメッセージに俺は感動し、ボクシングをしていて本当によかったと思った。それに、どもりだから逆に相手に伝わったのかもと思えてうれしくもなった。だからとにかく何でも一生懸命することが大事なんだと感じて、どもりも捨てたもんやないなと思った。本当にすばらしい体験になった。
 これからも俺は、無理して飾らず、自分のありのままで一生懸命に生きていこうと思う。
 ボクシング。最高の俺の青春でした。(了) 


 ボクシングを引退した彼は、その後、刑務所で講演をしたことをきっかけに、刑務官の仕事をしていると聞いています。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/6

吃音と就職・就労 1

 僕は、成人式のとき、自分が社会人となって仕事をしている姿を想像することができませんでした。名前も言えない、自己紹介もできない、電話もできない、そんな人間に仕事ができるとは思えなかったのです。
 仕事ができるようになるためには、吃音を治すしかないと思い、民間吃音矯正所・東京正生学院に行くのですが、そこで出会った人たちは、みんな、吃音を治すために来ているけれど、家に帰れば、ちゃんと仕事をしている人たちばかりでした。どもりながらも仕事に就いて、生きているということを知ったことはとても大きいことでした。
 どもる人の就職・就労について相談を受けることも多いですし、いろんな人が自分の仕事について、書いています。しばらく、そんな話を集めたいと思います。
 まずはじめに、厚生労働省の外郭団体から「吃音と就労」について書いて欲しいと依頼を受けて書いた文章を紹介します。

 
吃音と就労
                日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
 夢がないのがつらい
 私は小学校時代、音読や発表でどもることを笑われ、吃音に強い劣等感をもち、どもりたくないために、あらゆる話す場面から逃げた。勉強も、遊びも、スポーツも身が入らず、不本意な学童期・思春期を生きた。仕事に就いている自分をイメージできずに成人式を迎えた。子どもの頃、流行っていた宮城まり子の「ガード下の靴磨き」の歌の、♪風の寒さやひもじさは 慣れているから泣かないが ああ 夢のないのが つらいのさ♪の「夢のないのがつらい」の言葉がずっと私の未来を覆っていた。

 吃音治療所での体験
 「どもりを治さないと私の人生はない」と、どもりが治ることだけが私の夢となった。大学1年生の夏休み、「どもりは必ず治る」と宣伝する吃音治療所に1か月入寮し、訓練に励んだが、私を含め300人の全員が治らなかった。しかし、私は初めて自分以外の多くのどもる人と対話し、吃音の知識だけでなく、どもる人の人生を知った。
 ・「ぼぼぼぼぼ僕」とどもっていた私は、「僕」と言おうとしても「……」と「ぼ」の音がつまって出てこないどもり方があることを初めて知った。人によって、どもり方もどもる程度も、どもりやすい言葉や場面も違う。
 ・吃音になる原因は、膨大な研究がありながら、解明されず、治療法としては、「ゆっくり話す」言語訓練しかない。本人の性格の弱さや努力不足とは関係なく、ほとんどの人が治らず、世界中でどもる人は、人口の1パーセント程度いる。
 ・かなりどもっても平気な人、ほとんど分からないくらいなのに深く悩んでいる人など、悩みや人生への影響は吃音の程度ではなく、本人がどう受け止めているかによる。
 「どもりが治るはずだ」と信じていた私は、吃音が治らないという現実を知って大きなショックを受けたが、どもりが治ることにあきらめがついたことで、吃音と共に生きる覚悟ができた。そこから私の人生は大きく変わっていった。

 どもっていても、できないことは何一つない
 治療所で出会った人たちは、地元に帰れば様々な仕事に就いていた。農業をしたり工場に勤めたりしている人もいたが、学校の教師や僧侶、営業職や会社の経営者など、話すことの多い仕事に就いている人もたくさんいたことは、驚きであるとともに、私に夢を与えた。家が貧しく大学の生活費すべてを自分で賄わなくてはならなかった私は、当初新聞配達店に住み込んで大学生活を始めた。吃音治療所を退寮した後は、様々なアルバイトをしようと決めた。セールス、接客、工場、家庭教師など様々な仕事に就き、苦しいことも多かったが、「どもるからといってできない仕事は何一つない」と経験を通して知った。その後、吃音が縁で、言語障害児教育教員養成大学の教員になり、講義や講演など人前で話すことが仕事になった。ライフワークとして、どもる人の生き方、どもる子どもへの支援について研究し、実践を続けきた。私が開設する電話相談・吃音ホットラインには、吃音の就労について、どもる当事者やどもる人が勤めている企業からの相談が多く寄せられる。
 
 吃音ホットライン(072−820−8244)への就労の相談
眼鏡チェーン店でトップの売り上げを続け、都内の有名な高級眼鏡店に引き抜かれて4か月になる女性は、対面での営業には自信があり、売り上げでトップに立ったが、電話応対がマニュアルどおりにできず退社するかどうかで悩んでいた。「電話がマニュアルどおりできなくても、眼鏡に愛情が深く、知識も豊富で接客がうまい、売り上げのトップの人を、どもるからといって解雇する経営者はいないと思う。正直に吃音について話をして、相談したらどうか」と伝えた。彼女は、吃音について正直に伝えた。電話は仕事のごく一部だ。彼女は会社を辞めることなく、好きな眼鏡店で楽しく仕事をしている。
 「消防士になりたいが、僕のようにどもっていてなれるだろうか」と相談してきた大学生に、どもる苦労はどんな仕事に就いてもついてくる。自分の本当にしたい仕事なら、苦労に耐えられるのではと、夢を追うことをすすめた。消防学校時代、「そんなにどもっていて、市民の命が守れるのか」と指導教官から強い叱責を受けて悩んだが、消防服に着替える速さでは人に負けないなど、話すこと以外では人一倍努力し、消防学校を卒業し、今は消防士として仕事を続けている。
 教員採用試験でどもって名前がなかなか出なかった時、「私はどもります」と自ら公表したことで、「ゆっくりでいいですよ」の面接官のことばに落ち着き、吃音に悩みながらも教師になりたいとの夢を語った。「あなたのような人が教員になれば、何かに悩んでいる子どもにとって、力になるでしょうね」と面接官が言った。採用された女性は、卒業式で生徒の呼名をする時に困るなど苦労はあるが、工夫をしながら教師の仕事を続けている。

 吃音への理解 
 どもる言葉、どもる場面、困る場面はどもる人ひとりひとり違う。吃音は、「努力で治るはずだ」などの誤解も多く、理解されにくい。「吃音は一般的にこう理解すべきだ」ではなく、私はこのようなことが苦手だが、この点ならがんばれるなど、自分の言葉で自分の吃音を説明し、周りに伝える力をつけておくことが必要だ。どもる人が吃音を否定し、隠し、どもらないようにしようとすると、かえってどもり、その態度が就職活動で不利に働くことがある。また、仕事に就いてからも、「どもりたくない」の思いが強すぎると、仕事上うまくいかなくなる。就職活動の面接でも、その後の仕事でも、吃音を認め、どもっても話すことから逃げない態度が何よりも大切なことだ。
 就労関係者もどもることより、その人の人柄、能力を見てほしい。また、仕事場で、どもる人がどんなことに困っているかの本人の声に耳を傾けてほしい。周りの理解と、どもる人本人の少しの工夫で、どもる人はその力を発揮しやすい。
  
 どもる人の就労の実態調査
 1992年、愛媛大学の水町俊郎教授が113名のどもる人の就労の実態調査をした。
 「どもる人の職種といえば、あまりしゃべらなくても済むと一般的に考えられている仕事ではないかと思われがちだが、実に多種多様である。一番多かったのは公務員(教員以外)、次いでプログラマーなどの技術者、三番目が教諭であった。注目すべきことは、一般的に仕事を遂行する上で、コミュニケーションが重要な役割を果たす職種であると考えられる学校の教諭、営業職が上位を占めているということと、総合病院の受付、医師、看護師、接客業など人と直に接する仕事の分野にどもる人が進出しているということである。多くのどもる人があらゆる仕事に就いていて、いろんな問題にぶつかりながらも自分なりに工夫、努力をして、真摯に職務を遂行している。それらの事実を知ると、「このままでは、この子は将来、どんな仕事にも就けないのではないか」と悲観的な思いをしている親が、子どもの将来について無用な取り越し苦労をする必要がなくなると同時に、将来を見越して今何をやっておくべきかが明らかになってくる」
 『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』第7章 吃音者の就労と職場生活P.123~P.144 水町俊郎・伊藤伸二 ナカニシヤ出版 2005年
 この調査研究から20年以上たち、状況は多少違ってきているかもしれないが、眼鏡店の販売員、消防士、教師の話は最近のことだ。吃音を否定せず、吃音について自らの言葉で周りに理解を求めることで、就職活動に成功したり、職場生活でも仕事がしやすくなった例は実に多い。どもる人のセルフヘルプグループである、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトでは、「吃音と共に生きる」ことを学び、実践している。
 
 おわりに 
 近年、発達障害とは本質的にはまったく異質の吃音が、発達障害者支援法の中に、なぜか入った。吃音はその程度はさまざまで、障害者手帳を取得しての就労を選択する人も出てくるだろう。選択肢が増えたことは喜ばしいことだが、私には少しの危惧がある。就職活動で苦戦するとつい安易に自分の可能性を閉ざしてしまわないかということだ。面接でひどくどもって、教師になることを心配されたが、苦労はあったものの、教師生活をまっとうした人を何人も知っている。吃音は生活の中でできるだけ話していく中で、自然に変わっていくものだ。現在のどもる状態が固定するわけではない。できるだけ、自分のしたい仕事に就いてほしい。たくさんのどもる人の就労に立ち会って、自分自身の経験からも、心から願っている。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/5

吃音と面接 3 高校受験と面接

自分の言葉で吃音について説明することが大切

 僕は、滋賀県で行われている吃音親子サマーキャンプ以外にも、他の県で行われているキャンプにも毎年参加しています。その吃音キャンプに小学生の5年生から参加している女の子の話です。
 僕は、何回か彼女の話し合いのグループに参加していて、彼女の発言がどんどん変化していき、成長していく姿を、とてもたくましく思っていました。
 最初出会った時は、親が、学年が変わるたびに、彼女の吃音について担任教師に説明に行くと話したので、それは、彼女の生きる力を奪うことになるからやめた方がいいと提案しました。本人がどうしてもそうしてほしいと言ってきたとしても、安易にすべきではないことですが、母親は、子どもに頼まれてもいないのに、担任に吃音を説明に行っていました。そうすることが、彼女のためになると信じて、学年が変わるたびに自動的に行っていたのです。
 彼女はキャンプでの話し合いの時も積極的で、しっかり物事を考えられます。キャンプで「吃音としっかり向き合った」ことを契機に、全校的な集まりの世話人や、クラス代表、地域の子供会などでも積極的に行動できるようになり、心配していた中学校も「楽しくて楽しくて」とうれしそうに話していました。自分で考え、積極的に行動する彼女に、僕は吃音については、今後どんなことが起こっても対処できるだろうと確信をもっていました。
 本人は、どんどん成長していっているのに、周りの大人がその彼女の力を信じて、待つことができず、情けなくなることが起りました。

 彼女の地域の教育委員会は、高校受験の時にことばの教室などに通った経験のある生徒を対象に、「吃音」の診断書を出すように、中学3年生の担任に求めてきました。他の県ではそのような話は聞いたことはないのですが、本当にびっくりしました。「合理的配慮」が言われるようになった流れからでしょうか。親も、以前通っていたことばの教室の教師も、何の疑問ももたずに、それではと、僕の知り合いの言語聴覚士に、吃音の診断書を書いてくれるところを教えて欲しい言ってきました。
 僕は、その言語聴覚士から、診断書のことをどう考えればいいかと相談を受けました。高校受験をする彼女のことは言語聴覚士も僕も吃音キャンプを通してよく知っているので、まず、彼女自身はどう考えているかが気になりました。
 そこで、次のような僕の考えを、その言語聴覚士に伝えました。

 『高校受験の面接で、面接官の質問に、いくらどもっても、誠実に答えればいい。さらに必要なら、受験する高校で何を学びたいか、何に興味があり、何に取り組みたいかなど、今後どう「生きたいか」を話せばいいことで、自分の考えを伝えることができれば、吃音が理由で不利になることはあり得ない。教育委員会がどういう意図で診断書を出せというのか、それも聞いてみればいい。もし、どもることで不利にならないようにとの配慮なら、彼女だったら、診断書を出して配慮を求めるより、面接の時に、たとえば名前が出ないとき、面接官が質問をしてきたら、「私はどもるんです」と説明することができるだろう。吃音キャンプでこの何年かの成長からすれば、診断書を欲しいと思うとは僕には思えない。彼女には自分で説明する力が十分にあるから、診断書を書いてもらう必要はない。高校受験のために吃音の診断書を書く医師を僕は知らない。仮に、診断書が出て、高校に合格した場合、あの診断書のおかげで合格したと考えてしまうかもしれない。そんな、もったいないことはないと思う。これからの人生、診断書などに頼らずに、説明が必要な時には、自分のことばで、自分の吃音について周りの人に伝える力をもってほしい』

 このような内容のことを知人の言語聴覚士に伝えたことが、その後どう展開していったかは詳しく報告を受けていませんので、僕の話がどのように彼女本人に伝わったのか知りませんが、結局彼女は診断書を求めることをせず、高校を受験し、合格しました。明るく、前向きな彼女のことですから、楽しく高校生活を送っていることでしょう。
 
 教育委員会が「吃音の診断」を求めるとは、どういうことなのでしょうか。おそらく、厚生労働省が、吃音を発達障害の中のひとつに入れてしまったことによるものかもしれません。吃音は発達障害ではないし、病気でも、障害でもないと僕は考えています。
 「医学モデルが人の可能性を狭める危険性もある。病気や障害と診断されたために、周囲も本人も期待することをやめ、負荷や葛藤が減り、安定した生活が送れる人がいる一方で、仕方ないと、将来の可能性をあきらめてしまう」
 発達障害の臨床に携わる精神科医の岡田尊司さんが指摘しています。吃音もそうならないようにと願うばかりです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/4

吃音と面接 2

40社以上不合格、一度は引きこもった後、大阪吃音教室と出会う
 

 吃音に悩む人たちは、どのようにして就職活動をし、就職試験の面接を切り抜けてきたのでしょう。大阪吃音教室に集まる人々はみんな仕事に就いています。面接試験をくぐり抜けてきた人たちです。僕はどうだったのだろうと振り返ると、明確な意識はありませんが、この面接が恐かった可能性があります。吃音の悩みにとらわれ、全く勉強をしなかったために、大学は2浪してやっと合格し、4年間で大学は卒業したものの、同じ大学の別の学部に学士入学して3年間行き、いよいよ就職というときに、大阪教育大学に勉強に行き、就職試験を経験しないままに、大阪教育大学の教員になりました。28歳でやっと社会に出たことになります。つまり、僕は、就職試験の面接を一度も経験していないのです。
 そんな僕ですから、どもる人たちが大変な面接試験をくぐり抜けてきたことに、敬意を抱きます。今回紹介する人は、40社以上不合格が続いたそうです。2、3度不合格になると、もうだめだと諦めてしまう人もいるでしょうに、よく頑張ったと思います。だからこそ、僕たちの大阪吃音教室に出会えたのかもしれません。

 
あるがままに

 私の人生は吃音の悩みが常につきまとっていた。
 学生時代は、国語の時間の本読み、人前での発表、自己紹介、電話などことばを発しなくてはならないあらゆる場面が恐怖だった。それらの場面では、自分の言いたいことを言おうとしてもひどくどもって声が出ず、ひたすら口をパクパク動かして足掻くことが頻繁にあった。自分がどもったせいで沈黙が流れたときの周りの冷たい視線やクスクスと笑う声が苦痛でたまらなかった。どもっている自分の姿は、ものすごくかっこ悪いものだと感じた。
 どもりたくない、他人に自分のどもっている姿を見られたくないという一心で、自然とどもりやすいことばを避け、似た意味を持つ別のことばに言い換えるようになっていた。しかし、自分の名前を名乗るときや国語の本読みなど、ことばを言い換えられない場面ではどうしようもなかった。どもったら馬鹿にされて周囲から嫌われる、どもりはいけないものだと思った私は、人と接する場面をなるべく避けるようになった。
 どうして自分ひとりだけがまともにスラスラ話せないのだろうか。当たり前のことができないことが悔しくて仕方がなかった。自分の苦しみを分かってくれる人はいないだろうと、仲の良い友人にさえどもりを打ち明けることはできなかった。常に孤独を感じていた。もしどもりが治ればなんでもうまくいくに違いないと常に思っていた。
 私の人生の中で最も辛かった経験は、大学3回生の冬頃から始めた就職活動だ。中学生の頃からあこがれていたプログラマーの仕事に就きたかった私は、主にIT企業の求人を中心に面接の応募をした。コンピューターが好きなことだけでなく、あまり人と接する機会が少ない仕事だと思っていたからだ。しかし、就職活動で人と話す場面は当然避けられない。プログラマーの仕事でもある程度のコミュニケーションスキルは必要であった。やはり吃音が大きな壁となった。
 会社説明会や面接を受けるために企業を訪問し、企業の受付の前に置いてある受話器で名前や学校名を伝える場面が苦手だった。名前を言おうとしてもことばがすぐに出ず、ひたすら沈黙が続くことが何回もあった。時には、立ち往生している私が心配になって、面接担当者が受付まで来てくれたこともある。自分の名前すらろくに言えないことは採用選考において絶対にマイナス評価になるだろうとため息をつくばかりだった。
 本番の面接や集団討論でもさんざんな結果であった。自分の人生が決まるかもしれない独特な緊張感が漂う空気のせいもあったのか、自己紹介や志望動機などを伝える場面ではほとんどまともに話すことができなかった。どもってはいけないと必死にことばを言い換えて話すことを試みたが、却って意味が伝わりにくくなってしまった。面接中にかかわらず、これ以上どもりたくない、早く帰りたいと思うことさえもあった。ほとんどの採用担当者が「緊張しないで、リラックスしてゆっくり話して下さい」と言うのだが、そんなことができる余裕はなかった。もちろん自分がどもりだとその場では決して言えなかった。
 面接が終わった後の帰り道はいつもひどく落ち込んだ。何日もずっと落ち込み続けていたこともあった。「こんなにどもっていては社会人としては失格だ。就職なんてできるわけがない。どうして自分だけ吃音を持って生まれてきたのだろうか。このまま吃音が治らなかったら自分の人生はお先真っ暗だ」と自分自身を悲観し続けた。悔しさと情けなさでいっぱいだった。
 当然のことながら、何度面接を受けても不採用が続いた。一次面接を通過したことすら一度もなかった。次第に面接に行くことに恐怖を感じた。面接の前夜はどもることが心配でほとんど寝られないこともあった。吃音を治したい、面接でどもらずにうまく話したいという一心で何度も自己紹介などの練習を繰り返したが、改善することはなかった。
 結局、約40社以上の選考で不採用になり、大学4回生の秋頃には就職活動を辞めてしまった。このまま継続していても時間の無駄だと思ったからだ。家に引きこもるようになった。
 同級生が次々と就職していく中で、就職もせずに大学を卒業し無職になってしまった。このまま家に引きこもっていては何も始まらない。ここまで育ててくれた両親にも申し訳ない。なんとかして吃音を克服して就職したいと思った。そこで、以前インターネットで吃音のことを調べていて知っていた大阪吃音教室の例会へ参加することを決心した。2011年4月のことであった。
 大阪吃音教室に参加して、自分以外のどもる人に初めて会うことができた。世の中にこれだけたくさんのどもる人がいることに驚いた。自分と同じ悩みを持つ仲間にやっと出会えてうれしかった。皆自分と同じく吃音を持っているにも関わらず、どもることを気にせず、明るく笑顔で話す人ばかりだった。そして、ほとんどの人が社会人として、吃音とつきあいながらも立派に働いていることを知った。自分も早く仕事を探さなければいけないと思った。もっと早くここに来ていたらよかったと少し後悔したが、自分の吃音を見つめ直すことができる良いきっかけになったと希望がわいた。すぐに就職活動を再開することを決めた。
 学生時代に新卒として就職できず、社会人未経験だったため、限られた企業にしか面接の応募はできなかったが、何ヶ月かかってもあきらめずにがんばってみようと決心した。もちろん少しでも吃音を改善したい、それがだめなら吃音を受け入れたいという思いから吃音教室へも通い続けた。
 大阪吃音教室に何ヶ月も毎週通い続け、毎回違ういろいろなテーマの講座を受けていくうちに、少しずつだが、自分の吃音に対しての意識が変化したことを実感した。その中でも「森田療法に学ぶ」の講座は大きな感銘を受けた。森田療法の考え方が、吃音に絡めて説明され、不安や恐怖などの対処が体験を通して語られ、話し合っていく。吃音に置き換えれば、「自分がどもるという事実をあるがままに受け入れること」である。
 私は今までどもる自分自身が嫌だった。どもることは恥ずべきことだと考え、必死にことばを言い換えてごまかしたり、人と接することから逃げたりするばかりであった。しかし、森田療法の講座を受けて、「吃音は決して悲観すべきものでも、恥ずべきことでもない」、「吃音が治ることはないが、それを受け入れ、自信を持って堂々と話したらいい」と学んだ。この考え方にとても勇気づけられた。吃音の改善を目指すのではなく、吃音を受け入れていくことを決意した。
 大阪吃音教室の森田療法の講座から数ヶ月が経過し、気がついたら吃音を少しずつ受け入れられていることを実感した。人前でどもることに対してもほとんど抵抗がなくなり、どもってもあまり落ち込むことも少なくなった。以前の自分ではあり得ないことだ。
 その後の就職活動では、履歴書にあらかじめ自分がどもることを書いて面接官に伝えた。面接ではいくらひどくどもっても堂々と自分のことばで熱意をもって話すことを心がけた。それが功を奏したのか現在の会社に就職することができた。入社日の自己紹介では自分はどもることをどもりながらも隠さずに公表できた。幸い吃音を理解してくれる同僚らにも恵まれ、現在一人前のプログラマーになるため日々修行中である。
 どもりを受け入れる前と後では症状は一切変化していないが、会話をすることが本当に楽になった。どもりを隠すことなく、堂々とどもることができる今の自分こそ本当の自分なのだと思う。
 あのとき、大阪吃音教室へ通う決心ができて本当によかった。大阪吃音教室で学んだすべての講座とかけがえのない仲間に出会えたことは私の財産である。
 どもりだからといってできないことは何ひとつないと思う。これからは、何事も逃げずチャレンジしたい。吃音と上手に共存し、あるがままの人生を歩むつもりだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/3

吃音と教員採用試験の面接

どもってもいいよ

 どもる人にとって、苦手な場面として、電話を取り上げました。電話と同じくらい苦手な場面として挙げるのは、面接の場面です。自分をよく見せたい、なんとか合格したいとは誰しもが思う、当然のことですが、そう思うと僕たちどもる人間は、どもりたくない気持ちが強まります。「どもりたくないと思えば思うほど、どもってしまう」ことは、吃音のある意味で常識ですが、だからこそ、よけいに緊張してしまいます。
 それでも、面接は人生の中で誰もが乗り越えなければならないテーマです。そこで、どもる人が面接試験でどのような体験をしてきたか、NPO法人大阪スタタリングプロジェクトの「ことば文学賞」の応募作、最優秀賞や優秀賞受賞作などから、紹介します。
 まず、公立小学校の教員採用試験の面接で、自分の名前が言えず、焦って、困ったひとりの女性は、不思議そうに見る面接官に、「私はどもります。だから、名前が言えませんでした」と言いました。そんな体験を紹介します。

      
どもってもいいよ

 「それでは、名前と自己ピーアールを1分間でどうぞ」
 「えーっと、あの…」
 「どうしましたか」
 3年前に受けた、教員採用試験の2次面接でのことである。自分の名前が言えない。第一音がどうしても出ない。手を振っても、体でリズムをつけても、息を深く吸っても、何をしても駄目だった。
 「もう落ちた!!!」と心の中で叫んだ。そして、3人の面接官が不思議そうに私を見つめた。「名前が言えないなんて、面接官にどう思われているのだろう…」「早く名前を言わなければ…。でも、声が出ない。もう、この場から逃げ出したい!」焦り、悔しさ、恥ずかしさでいっぱいになり、額から汗が流れ出てきた。と同時に「家であれほど自己紹介や自己ピーアールの練習をして、今日の面接に臨んだ。筆記試験も出来たし、せっかく2次面接まで進めたのだから後悔はしたくない」と思った。そして、勇気を出して、
 「私はどもります。だから名前が言えませんでした」
 と正直に笑顔で面接官に伝えた。すると、面接官の1人が
 「そうですか。では、どもってでも結構ですので、ゆっくりお話下さい」
 と笑顔でおっしゃった。その言葉を聞いて、肩の力がぬけた。「どもってもいい」と聞いてほっとした。私は面接官の言葉を聞くまで、緊張のあまり「面接だから、流暢に話さなければならない」「かっこいい自分を見せなければならない」と思い込んでいた。しかし、吃音を公表したことと、面接官の言葉のおかげで「どもってもいいから、最後まで笑顔で自分の思いを伝えよう」と決心した。
 面接では「今まで吃音で悩んできた自分だからこそ、悩みを抱えている子どもに寄り添える」など、吃音の自分だからこそ教師としてできることを、手振り身振りを使ってアピールした。熱意が伝わったのか、面接官も相槌を打ったり、うなづいたりしながら、私の方をしっかり見ながら聞いて下さり、私も十分自分を出すことができた。そして、堂々とどもることができた。面接の最後に、
 「あなたのような先生なら、きっと子どもたちは喜びますよ」
 と面接官が言って下さった。私はこの言葉を聞いて「あぁ、もう合格でも不合格でもどっちでもいい。自分の力を全て出し切った。ありのままの自分を見てもらえたのだから…」と清々しい気持ちになった。
 そして今、5年生の担任として教壇に立っている。相変わらず、毎日どもりながら授業をしている。私は「か行」が大の苦手。国語の教科書に「かたつむりくん」「かえるくん」「がまくん」が出てくるお話には、大変なエネルギーを使う。毎時間汗びっしょりだ。教師の仕事は話すことが多いので、どうしても言えないときは、黒板に書いたり、言い換えをしたりして、その場をしのいでいる。また、指でその物を指しながら、「それ」「これ」「あれ」と言うことも日常茶飯事だ。私がつっかえていると、子どもたちが自然と言ってくれることもある。「子どもたちに助けられていることが多いな」と日々感じる。
 どもってどもって、その場から逃げだしたくなったり、穴があったら入りたくなるようなことがあっても、教師を続けられるのは大阪吃音教室と出会ったからだ。
 以前の私は「どもりながら話すのは恥ずかしいこと」「どもっていたら就職ができない。なんとかして治さなければ…」「吃音さえなければ、幸せだったのになぁ」と思い込んでいた。どもりそうになったら話すのをやめる、電話は自分からかけない、音読を避けるなど「逃げの人生」を送っていた。本当に吃音が憎くて仕方がなかった。そんな私が教師になるなんて、自分でもびっくりしている。
 大阪吃音教室にはいろいろな人がいる。すごくどもるのに話すことが多い仕事に就いている人、どもるのにおしゃべり好きな人、「今日、自分の名前を言うのに10分もかかったわ」とあっけらかんと言う人、どもってでも自分の意見はきちんと言う人…そんな姿を見て「どもってもいいんだ」「どもりながらも、楽しい人生が送れるんだ」と安心した。
 どんなにどもっても、私はやっぱり教師の仕事が好きだ。3年前の面接で、笑顔で吃音を公表し、ありのままの自分を見せたから今の自分がある。これからも、落ち込んだり悩んだりしながらも、子どもたちにありのままの自分を見せ、子どもたちと正面からぶつかっていこうと思う。そして、笑顔で自分らしくどもり続けていきたい。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/2
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