伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年06月

吃音の深い悩み 『凍える口 金鶴泳作品集』(発行:クレイン)

 吃音に深く悩む人と、在日朝鮮人

凍える口 表紙 小さめ クレインという名前の出版社を作った文弘樹さんは、在日朝鮮人の三世です。出版社を始めた当初から、在日朝鮮人二世である金鶴泳の作品集を刊行したいとの思いを抱き続けてきたといいます。僕たちが「スタタリング・ナウ」で金鶴泳の特集をしたとき、文弘樹さんは、その思いを綴ってくれました。「なぜ私はこの日本で朝鮮人として生まれてきたのか」という問いに掴まれます。それも人並み以上にこの問いに掴まれました。小学校から高校まで、文さんは、ごく一部の人を除いて在日朝鮮人であることを隠しています。しかし、大学に進学し、在日朝鮮人文学に出会い、「朝鮮人として悩み苦しんでいるのは私だけではない」と知って、孤独感から解放されたといいます。
 僕は、話す言葉を聞けば、誰もがどもる人間だと気づくにもかかわらず、必死の思いでどもることを隠し続けました。隠すには話すことから逃げるしかありません。高校一年の時、思いを寄せた女子高校生に「どもる人間」であることを知られたくないだけの理由で、大好きな卓球部を退部しました。文弘樹さんと、本質的には違いはあるものの、「自分を隠す」ことには違いありません。
 『凍える口〜金鶴泳作品集』(発行:クレイン)を、是非多くの人に読んで欲しいとの願いをこめて、文弘樹さんが僕たちに書いて下さった文章の一部分を紹介します。
 
 
・・・・それからというもの、積極的に朝鮮人として生きていくためには、まず民族のアイデンティティーの獲得が必要だという自覚のもと、朝鮮語を学び、同じ在日の友人達と交わり、政治集会に参加し、といった活動を行なっていきました。そしてその活動は、当時の私にとっては生き甲斐のようなものにもなっていました。
 しかし、いつの頃からか、そうした活動が少しずつ重荷になってきたのです。言葉一つとっても、朝鮮人なのだから朝鮮語を話せるようになるのは当然だという前提で学ぶものですから、言葉を習得する楽しみよりも、話せなければいけないという責任感が先行して、朝鮮語の勉強が楽しくないのです。政治集会にしても、朝鮮人差別は厳然とあり、その撤廃のために闘うのは当然なのですが、一方で、闘う当人達の非抑圧者としての正当性によりかかる態度に違和感を感じるようなことも多々ありました。
 そんなときに、金鶴泳の小説に出会いました。『あるこーるらんぷ』というタイトルの単行本でした。「錯迷」「あるこーるらんぷ」「軒灯のない家」の三作品を収めていました。それぞれの作品に胸打たれました。それぞれの作品が悲しみと閉塞感とに包まれて、けっして読む者に勇気を与えるような内容ではありませんでした。ただ共通して、登場人物達は、自力では逃れることのできない朝鮮人という運命を背負いながら、ときに出口のない自閉の谷に落ち込みながら、少しでもそこからはい上がろうと懸命に生きていました。強い政治的メッセージを織り交ぜることなく、享受した生が結果として朝鮮人であった人間の感情を丁寧な筆致で描いていました。そうなのです。彼の作品においては、在日朝鮮人は、格闘する生のプロセスを経て「朝鮮人」に昇華していくのではなく、この日本で朝鮮語もしゃべれず、朝鮮人としてのアイデンティティーの獲得にも頓挫する「在日朝鮮人」のままにその運命を受け入れていくことの確かさに力点が置かれているのだと思います。在日朝鮮人が、いつの日にか真正な「朝鮮人」になるだろうなんていう不確かなことに賭けるのではなく、いまある「在日朝鮮人」という自らの存在の確かさに賭ける、この金鶴泳の姿勢に私は惹きつけられたのです。
 彼、金鶴泳は、在日朝鮮人二世であると同時に吃音者でした。彼にとっての人間としての苦悩は、まず「吃音者」としての苦悩から始まります。その苦悩する姿は『凍える口』に克明に描かれています。そしてその作品の中だけでなく、今回の本に収録している日記にも、吃音矯正に努力している様子を見受けることができます。彼は吃音を矯正したいという強い目的を持った時期がありました。『凍える口』の中にこんなせりふがあります。

 「私という人間から吃音をひいた人間がほんとうの私という人間だ」
 ここを初めて目にしたとき私はこう読みかえていました。「私という人間から朝鮮をひいた人間がほんとうの私という人間だ」
 物心ついてから金鶴泳は、数限りなく「俺から吃音を取ってくれ」と願ったことでしょう。そして、小説『凍える口』を書いたことによって、吃音から解放されたと言っています。それは吃音を矯正したのではなく、「吃音であることも含めて自分という人間である」ということを自覚したということではないでしょうか。そんな金鶴泳にとっては「在日朝鮮人であることも含めて自分という人間である」ことは自明のことであったと思います。ですから、金鶴泳は吃音者であることによって、同時代の在日朝鮮人作家が書き得なかった、「民族を支えにしない個人の感受性を支えにした、いたって個人的な作品」を書き得たのだと思います。
 吃音者であれ、在日朝鮮人であれ、自らがのぞんでそうなったのではありません。だからこそ「なぜ私は吃音者として生まれたのか」、「なぜ私はこの日本で朝鮮人として生まれたのか」という問いに掴まれます。そしてその問いの答えは、おそれずに言うなら、吃音者であろうと、在日朝鮮人であろうと、それが自分という存在であり、その存在を拠り所にして、この社会を生きていくしかないのだと自覚することではないでしょうか。
 その「自分という存在を拠り所に、いたって個人的な金鶴泳の作品」が、世代、在日・日本人の違いを超えて読み継がれていってほしいと思っています。そして今回刊行した『凍える口 金鶴泳作品集』がその役割を担うことができるなら、発行者としてこれ以上の喜びはありません。
                (「スタタリング・ナウ」2004.8.21 NO.120より)


 明日は、文さんに依頼され、『凍える口〜金鶴泳作品集』(発行:クレイン)に書いた、僕にとっての『凍える口』を紹介します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/30 

吃音に悩み切ったところから、新しい人生が始まる

悩む力

 間直之助にはじまり、吃音の著名人について、過去に話したことや、書いたものなどを紹介してきました。その中の一人の小説家の金鶴泳についてもう少し紹介します。クレイン社という出版社が『金鶴泳作品集』を出版したことをきっかけに、僕は再び金鶴泳に出会うことになりました。金鶴泳を特集した、日本吃音臨床研究会の月刊紙『スタタリング・ナウ』の巻頭言として書いた文章を紹介します。

      
悩む力

    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 金鶴泳に再び出会うことができた。
 最初に『凍える口』を読んだ30年前とは、時代も変わり、私自身も変わったが、金鶴泳は当時のままに私の前に現れた。なつかしい時代と、なつかしい人に出会えたという感じがする。
 今の時代に、これだけ吃音に悩むことができる人がいるだろうか。吃音にこれだけ向き合える人がいるだろうか。かつて同じように吃音に悩んだ戦友に出会えた思いだった。
 吃音に悩んだ私たちのあの時代、40年前には金鶴泳や私だけでなく、吃音に悩む多くの人が、ただ吃音が治ればいいと漠然とした願望をもつだけでなく、本気で吃音を治したくて、実際に治すために必死の努力を続けた。
 私は4か月集中して、呼吸練習や発声練習、上野公園の西郷隆盛の銅像の前や山手線の電車の中での演説、街頭練習など、治したい一心で厳しい訓練に取り組んだ。金鶴泳も、日記によると、何年も呼吸練習や発声練習を続けている。
 よりよく生きたいという、森田療法でいう、「生の欲望」があり、それを阻むものとして「吃音」があったがために、治す努力にエネルギーを注ぐことができたのだろう。しかし、その治すための努力を続けることが、かえって吃音へのとらわれを深めたことになったのだが、そうでしか生きられない私たちがあったのだった。青春のほろ苦い1ページだった。
凍える口 ニュースレターの交換でしかおつきあいはないのだが、アサーティブ・ジャパンの牛島のり子さんから、「夫が金鶴泳の『凍える口』を出版します」というお便りをいただいた。出版されたら是非『スタタリング・ナウ』で紹介をしたいと返事を出すと、今度は、夫の文弘樹さんから、刊行する本の折り込みの冊子に「金鶴泳の作品に寄せて」の文章を書いて欲しいと依頼を受けた。
 喜んで引き受けたものの、一読者として文学作品を気楽に読むのと、読後感を書くことを前提に、それも本の刊行とともに公開されるという前提で読むのとは、読む気合いが違ってきた。また、30年のその後の私の吃音人生を通して読むことにもなるわけだから、正座をして読む感覚で、金鶴泳に向き合っていた。
 金鶴泳は、これでもか、これでもかとどもることの苦悩をさらけだしていく。あのように吃音に悩んだからこそ、自分を、そして生きることを見つめ、それが文学として結実していったのだろう。
 悩みから逃げて、何かで紛らわせるのではなく、悩みと向き合い、悩み切る。すると、悩みが、次に何をしていけばいいのか、生きる方向を指し示してくれる。金鶴泳には、自分の吃音の苦悩を作品として書き切ることを、長い孤独の生活を生きた私には、人とつながるセルフヘルプグループを設立することを、というように。
 悩みに向き合い、しっかりと悩む中から、悩みが指し示してくれるものはひとりひとり違うだろうが、自分自身を新しい地平に立たせてくれる。
 私はセルフヘルプグループの活動によって、金鶴泳は小説を書くことによって、吃音の悩みから解放された。
 看護専門学校の校長・鈴木秀男は、精神科医の森山公夫との対談でこう紹介している。

 「金鶴泳という小説家がいるんですが、かれはひどい吃りであったというんですね。ところが、自分の吃りの体験を小説に書いたところ、吃り自体は治らなかったのだけれど、吃りが苦にならなくなったといっているんですね。そうすると、吃ることが苦しいのではなくて、吃ることをいろいろと思い煩うこと、つまり、吃りを病気というふうにとらえるなら、吃ったら困るなとか自分が吃ることをできるだけ他人に隠したいとか、そういう吃りについて思い悩むことが病気なんじゃないか、ということになる。吃る体験を作品として書いたことによって、吃ってもいいじゃないかという気持ちになったというのですね。〜後略〜
   『心と“やまい”』 森山公夫 三一書房
「スタタリング・ナウ」2004.8.21 NO.120


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/29

どもる言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である

 「週刊エコノミスト」に掲載された僕の『新・吃音者宣言』の書評は、教育評論家の芹沢俊介さんによるものでした。そのタイトル「吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である」は、僕の伝えたいことを、本当に短いことばで的確に表していただいたと、うれしく、ありがたく思いました。
 その書評を紹介します。

   
吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である
                  評者・芹沢俊介(評論家)

『新・吃音者宣言』 伊藤伸二著 芳賀書店 1600円

 長い吃音へのアプローチの歴史は吃音と吃音者を分離し、吃音症状にのみ焦点をあてた歴史だった。症状の消失、改善に一喜一憂するその陰に吃る主体である人間が置いてきぼりにされていたと著者は述べる。
 著者は三歳ごろから吃りはじめた。しかし吃るということが、悪いこと、劣ったことだという意識をもった(もたされた)のは小学校二年生の秋の学芸会のときからであったと書いている。成績優秀だった著者は、ひそかに学芸会の劇でせりふの多い役がつくのではないかと期待していた。だがまわってきたのはその他大勢の役でしかなかった。
 落胆した著者は、友だちに、伊藤は吃りだからせりふの多い役をふられなかったのだと言われ、言いようのない屈辱感を味わう。そして教師への不信とあいまって稽古期聞中に、明るく元気な自分から暗くいじけた自分に変わっていってしまった。いじめの標的になり、自信を喪失し、自分が嫌いになっていった。吃ることを自己存在を否定する核に据えてしまったのである。人前で話すこと、人前に立つことを避けるようになった。自己をも喪失した状態になっていったのである。
 著者はすべての不幸の原因は吃音にあると考え、必死に吃りを治そうと試みる。だが治そうとすればするほど、逆に自分の居場所を失うことにやがて気がつくのだ。
 この本はそこから吃ることの全面肯定にたどりつくまでの、著者の涙と笑い、苦しみと喜びの軌跡が綴られている。吃ることを症状として自己の外に置いてしまったことの内省のうえに立った、吃音の自分への取り戻し宣言である。
 吃る自己の全面的受け入れにはじまり、吃る言語を話す少数者としての誇りをもって、吃りそのものを磨き、吃りの文化を創ろうという地点まで突き進むのである。負の価値としての吃りの解体が目指されているのである。
 吃る言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である。こうした自覚にいたるにはどうしたらいいか。
 まず吃音症状に取り組むという姿勢から離れること、吃音症状と闘わないこと、矯正の対象にしないことである。吃ることをオープンにしていくことも大切だ。いまでは幼稚園段階で吃音を意識する子どもたちが出てきている。親は子どもと吃音について話しあうために、自己の内部にある境界線を壊しておく必要があるだろう。
 さらには「吃ってもいい」を大前提に吃音を磨いていくには、吃音者は自分の声に向き合うという課題も生まれてくる。言葉とは何かを考えることも大切になってくる。長い間、虐げてきた自分の吃り言葉に無条件でOKを出すと、このように様々な喜びに満ちた未知が開けてくる。
 この本は意図された自分史ではない。そのときどきに発表されたエッセイの集積が、自分史を構成するまでに熟したものだ。子育て論、自分育て論に通底する爽快感あふれる一冊。
                2000.2.29エコノミスト〈毎日新聞社発行〉

芹沢さんの書評 

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/28

吃音の深い闇が、明るく照らされた経験

仲間 このすばらしいもの

 故郷・三重県津市に小さな旅に出かけたことから、同窓会の話になり、ずいぶん前のブログを再掲載しました。そこにも出てきましたが、『新・吃音者宣言』(芳賀書店)の書評が『週刊エコノミスト』(2000年2月29日・毎日新聞社)に掲載されました。教育評論家の芹沢俊介さんが書いて下さったもので、週刊誌が発売されるまで知りませんでした。僕の思想の本質を正確にとらえた、とてもありがたい書評でした。
 この週刊誌がきっかけで、同級生がFAXを送ってくれたことが、「何もいいことのなかった」故郷の津市とつながるきっかけでした。そのいきさつを書いた「スタタリング・ナウ」(2000.4.15 NO.68)の一面記事を紹介します。芹沢さんの書評は、明日、紹介します。

 
仲間この素晴らしいもの
             日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「小、中、高校と一緒だった分部です。先週、中井君から連絡が入り、エコノミスト誌に出ていた「新・吃音者宣言」の書評を拝見しました。早速、中根、行方、尾崎、守田・…、石田先生にファックスを入れ、君の出版を紹介させていただきました。中根君は、新聞などで見て、貴兄のこれまでの活躍、出版もよく知っていました。津市立図書館に「吃音と上手につきあうための吃音相談室」がありましたので、昨日借りてきました。妻と一緒に読ませていただきます。今後の一層のご活躍祈念します」
 先だって、一通のファックスが入った。一瞬、信じられない思いだったが、温かい幸せな気分が胸一杯にひろがった。直ぐに彼に電話をしてみた。
 「シンジの本には孤独だったと書いてあるが、お前とは高山神社で遊んだぞ。津高の教頭になっている中条もシンジのこと覚えていたぞ」
 吃音に悩み始めた小学校の2年生の秋から、ひとりの友達もなく、21歳まで、ひとりぼっちで生きてきたと信じ込んでいた。孤独で生きていた頃は、級友は誰も僕の存在など意識はしていないだろう。完全に忘れられた存在だと思っていた。
 このファックスと電話が一気に僕をその頃へと引き戻してくれた。しかし、名前を挙げてくれた10人の仲間。分部君からすると僕をよく知っているだろうと思った人達だろうが、僕が思い出せたのはわずかに二人だった。中学、高校の卒業アルバムを出して、名前をたよりに探したが、全く思い出せない。仲間と遊んだこと、何かをしたことが、すっぽりと記憶から抜け落ちている。苦しく、悲しかったことだけが、鮮明に思い出されて、記憶を強化してきたのだろうか。
 確かに彼たちの遊ぶ場所にはいたのかもしれないが、主体的に遊んでいたわけではなかったのだろう。常に僕は人の後で目立つ事なく、そっとついていっていたのだろう。楽しかった記憶はない。
 数日後に、故郷の津市で、急遽ミニ同窓会がもたれたようだ。僕の本『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)を酒のさかなに飲んだと、再び分部君から僕が大分県での湯布院のエンカターグループにいっている間に電話が入った。
 僕の逃げの人生のはじまりとして鮮明に記憶している高校一年の初めに卓球部をやめるエピソードにある、片思いの彼女は一体誰なのか、そのあてっこで盛り上がったのだと言う。みんなが一度シンジに会いたいど言っていると、その電話は終わったのだった。
 誰も、僕のことなど気にかけていてくれないし、覚えている人などいないと思っていた。それが一冊の本の出版のおかげで、僕は決して忘れられた存在ではなかったのだと知った。どもりを否定し、自分をも否定して生きていたから、仲間の気持ちも、思いも、僕には触れることはなかったのだ。
 今年の1月3日。島根県の玉造温泉に長期に滞在していた僕は、34年振りに初恋の人に会った。34年の年月は一瞬のうちに縮まり、次から次へと話題はひろがり、6時間以上も話し込んだ。21歳の僕は、今とは違ってかなりひどく吃っていた、それでも一所懸命話していたと彼女は言う。
 中学、高校時代の仲間からの思いがけない連絡。
 34年振りの初恋の人との再会。20世紀の最後の年に、奇跡のように起こったふたっの出来事。吃音を忌み嫌い、吃音を否定してきた暗い闇の人生を全て照らし出せたのは、新しく吃音とっきあう歩みを大きく踏み出した象徴でもあるだろう。
 日本吃音臨床研究会の中で、共に活動する仲間たち。大阪や神戸の吃音教室の仲間たち。吃音親子サマーキャンプにスタッフとして集まって下さる仲間たち。たくさんの印刷物の発送に休日に集まってくれる仲間たち。
 さらに、私たちの活動に共感し、支えて下さる幅広い多くの人々。多くの仲間がいる。
 吃音が縁で出会う仲間を大切にしていきたい。
「スタタリング・ナウ」(2000.4.15 NO.68)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/27

吃音の悩みが深く、行きたくなかった中学校の同窓会

中学校を卒業して49年後の同窓会

 昨日、三重県津市のかざはやの里の紫陽花の写真を紹介しました。その時、吃音に悩んでいた学童期・思春期を過ごした津市のことを書きました。友人が小学校の時の写真を送ってきてくれたこともあって、以前ブログに書いた記事を思い出しました。
 故郷の津市での小中高生活は、いい思い出がなく、津市へ行くこともあまりありませんでした。
ところが、「週刊エコノミスト」に載った、芹沢俊介さんによる僕の本『新・吃音者宣言』の書評を見た同級生が声をかけてくれ、僕は同窓会に出かけていきました。書評が出たのは、2000年2月なので、その同級生がよく覚えていて、声をかけてくれたものだと感謝しています。
 この同窓会に行ってから、たびたび津市に行くようになりました。最近のゴールデンウィークは、恒例のように津市に出かけています。おもしろい記事だったので2009年2月17日のブログを再掲載します。

    
故郷へ錦を飾る

 古めかしい表現ですが、「故郷へ錦を飾った」ような感慨におそわれました。
 2009年2月22日、三重県津市立西橋内中学校1959年度卒業の第4回学年同窓会の時です。何度も、本やその他の文章にかいているように、吃音に深く悩んでいた私は、友達がいなくて、寂しい小学、中学、高校時代を送りました。いい教師と出会うことなく、親しい友とも出会うことなく、生きてきたと思っていたので、中学の同窓会など参加する気持ちはまったく起きることはありませんでした。私が参加しなくても、誰一人私の話題などでないと思っていました。それほど、吃音にがんじがらめになっていた、苦悩の時代でした。楽しかった思い出は一つもなく、苦しかった思いばかりがのこりましたが、それも和らぐと、小学・中学・高校時代のことは記憶がほとんど飛んでしまっていたのです。
 1999年「新・吃音者宣言」を出版しました。その書評を「週刊エコノミスト」(毎日新聞社に有名な評論家・芹沢俊介さんが書評で大きく取り上げて下さいました。それを読んだN君が「あの伊藤が本をかいているぞ」と津に住んでいるたくさんの仲間にファックスをして知らせてくれ、いちやく彼の仲間の中では、私はよみがえったのです。そして、第一回だったとおもうのですが、同窓会に来るようにと誘ってくれました。その後NHKの「にんげんゆうゆう」も多くの人が見てくれました。誘ってくれたものの、やはり私は乗り気ではありませんでした。でも、いつまでも過去にとらわれるより、一度過去に戻ってみようと、意を決して参加したのでした。その時、思いがけないことが起こりました。何人かが声を掛けてくれました。私は中学時代のみんなから忘れられた存在ではなかったのです。少し、いやだった過去がそんなに嫌なものではなくなりました。故郷は少し近くなりました。
 そして、今回久しぶりに、今度は私の意志で参加しようと思いました。
 306名の卒業生の中で、すでに20人以上が亡くなっています。所在不明者も40名ほどいます。私は、同窓会の正式な案内が届く前に、年賀状でも知らせてもらえるほどになっていました。今年は80名以上が参加しました。
 3時間の前半は、自由に席に着きました。私は開いているテーブルに座りましたが、顔をみても誰もわかりません。思い切って横に座っていた人の名前を聞きました。その人のことはすぐに思い出しました。小学校から同じで、とても怖い、腕力のある子だったからです。いじめられた記憶はないのですが、小学校時代一番怖い人でした。ひとことふたこと会話はかわしますが、話はつづきません。他の人も、みたような気がする程度で、まったく思い出せません。6クラスですから、同じクラスにならなかった人もいるわけですから、ところどころのテーブルに前回知り合った人は座っていますが、ビールをついでまわったりできない私は、ずっとそのテーブルに居続けました。80人以上いる中で、数人程度しか顔見知りはいません。その中では、動き回って挨拶にいけないのです。前回会っている人とも10年ちかくたつとほとんど忘れてしまっていたのです。我が家の一番近くに住んでいて、前の同窓会で挨拶したT君の顔を忘れていて、「49年ぶりやね」といったら、前の同窓会で会っているやないかと叱られました。
 普段でも、人の名前と顔はよほどのつきあいがないと忘れてしまいます。講演会などでお久しぶりと言われても思い出せないことはたびたびなので仕方がないことですが。
 ときどき、私に話しかけてくれる人も、ぽつんぽつんといたために、昔とても恐れていた孤独感は感じませんでした。自分から話しかけようと思えば話しかけることができる人が少なくも数人いることは安心でした。
 前半の終わりに校歌をみんなで歌ってから、後半は卒業のときのクラスで集まることになっていました。そうすれば、もっと知っている人がいるからもっと気が楽になるだろうと時間を待ちました。
 前半がおわり校歌をみんなで歌った後、突然今回の代表幹事が「ここに、全国的な規模で活躍している人がいるので紹介します。伊藤伸二君は吃音の専門家で、この世界ではエキスパートで、テレビに出たり、本もたくさん書いています。伊藤君にスピーチをしてもらいます」と壇上に私を招いてくれました。彼が週刊エコノミストのコピーや、「にんげんゆうゆう」のことをみんなに知らせてくれた人でした。11月の「きらっといきる」も旅先のキャンピングカーの中で、早朝の再放送で見た人でした。
 突然のことでしたが、うれしい気持ちになりました。
 「こんにちは、伊藤伸二です。おそらく皆さんのほとんどは私のことは忘れていると思います。どもりで悩み、音読や発表ができずに強い劣等感をもっていました。人に話しかけることができずに、ひとりぼっちでした。・・・・・どもりに悩んだおかげで、大学の教員になり講演や講義など人の前で話す仕事につきました。あのころのことを思うと信じられない気持ちです。・・・・」


同窓会にて


 わいわいがやがや、恩師の話の時も近くの人と話していた人が多かったのに、私の話をみんな真剣に、シーンとなって聞いてくれました。3月6日NHK教育テレビの「きらっといきる」に私の仲間がでて、どもりのことが取り上げられますと紹介すると、「もう一度、ゆっくりいってくれと」と声があがり、メモをとってくれました。
 私は、故郷の津市でことばの教室の教員対象に2回講演などで話したことがあります。しかし、その時は故郷へ錦を飾るというようなことは、みじんも感じませんでした。ところが、今回は、自分がひとりぼっちと思っていた、誰も私の存在など、気にもとめてくれないと思っていた。目立たない人間が、みんなの前でスピーチをしている。ひとりの恩師以外誰一人としてスピーチをする人はいません。ただひとり、みんなの前でスピーチをし、大きな拍手で壇上を降りたとき、ひとつの決着がついたと思いました。
 テーブルには同じクラスだった人がいます。15名ほどの中でふたりしか思い出せません。女性がひとり「伸二君のことよく覚えているよ。目のまん丸のかわいい子だった。友達がいなかったのなら、話しかければよかった」と言ってくれました。何人かがよく覚えているぞと話に来てくれました。
 二次会はもうみんなと知り合いになれ、楽しいひとときを過ごしました。
 こんな粋なはからいをしてくれた、幹事代表N君にこころから感謝したのでした。 わが故郷はまた一段と近くなりました。
 その日は、興奮していたのかなかなか寝付けませんでした。
      2009年2月17日           伊藤伸二


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/06/26

吃音で深く悩んだ故郷も、今は懐かしい

故郷への小さな旅 紫陽花とおいしい食べ物を満喫

 昨日、第9回吃音講習会中止のお知らせをしました。
 昨年の第8回吃音講習会は、三重県津市で行いました。全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会が開かれ、それに続いて、僕たちの吃音講習会も津市で行ったのです。津市は、僕が、小中高と過ごした故郷です。
 小学2年生から吃音に深く悩んでいた故郷は、何一つ、いい思い出はありません。ずいぶん前のブログに、絶対行きたくなかった中学の同窓会に強く誘われて参加したことを書きました。そのとき、多くの人が話しかけてくれ、孤独ではなかったことが確認できました。そのおかげで、津市が近くなり、その後は時々行っています。懐かしい、ソウルフードがあるからでもあります。
 昨年の講習会、僕は、講演の冒頭でこう切り出しています。

 
「第8回吃音講習会に参加の皆さん、ようこそ、三重県津市にいらっしゃいました。津市は、僕が育った故郷です。養正小学校、西橋内中学校、津高等学校に通いましたが、津高のすぐ近くに、少年鑑別所があります。僕は、少年鑑別所の近くを通るたびに、「今の僕は塀の上を歩いていて、鑑別所の内側に落ちるか、外側に落ちるか危なっかしいものだ」と、いつも不安を抱いて思春期を送りました。中学生から映画館に入り浸り、夜の町をさまよい歩き、警察に何度か追いかけられました。パトカーに乗せられたことも一回あります。一歩間違えば、少年鑑別所に行っていたとの実感があるので、今日までよく生き延びてきたなあと思います。その思いを持って、今日は、故郷の津で、一生懸命しゃべります」

 
 県境をまたいでの移動が解除され、僕たちも、4月の終わりに行く予定だった小さな旅に出かけました。ここ何年かゴールデンウィークは、毎年、三重県に行っています。車の渋滞もなく、大阪から近くて、おいしいものがたくさんあるからです。今年もそのつもりでしたが、コロナの影響でキャンセルしたのです。

あじさい1あじさい2あじさい7





 津市に、「かざはやの里」というところがあります。初めて行ったのは、藤の花が見事に咲いていたときでした。ホテルだったかで小さなポスターを見て、時間もあったので、行ってみました。とてもきれいで、気に入りました。そこは、藤だけでなく、2月の梅、6月の紫陽花も有名です。今年も、藤の花を見るつもりだったのですが、それができなかったので、ぎりぎり紫陽花に間に合うかと思い、出かけました。
 広い敷地に、色鮮やかな紫陽花が、咲いていました。ゆっくり散歩して楽しみました。ひとときののんびりタイムでした。
 香ばしい鰻、やさしい甘さの蜂蜜まんじゅう、そして、伊賀の金谷本店のすき焼きと、パーフェクトに満喫し、久しぶりに旅行気分を味わいました。

 昨日、小学校の同級生が、古い写真をメールで送ってくれました。この年になると、そんな気持ちになるものなのかなあと思いながら、写真を眺めています。
 今日は、紫陽花の花を皆さんにもおすそ分けです。
 
あじさい3あじさい4あじさい5あじさい8あじさい9あじさい10あじさい11あじさい12あじさい13あじさい14あじさい15















明日は、何年も前のブログを再掲載します。津市が身近に感じられるようになったきっかけの
同窓会の話です。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/25

「吃音の夏」行事は全て中止になりました

第31回吃音親子サマーキャンプ、第9回親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会 中止のお知らせ
    

 僕たちが、「吃音の夏」と呼ぶ季節が、今年もやってきました。
 吃音講習会、吃音親子サマーキャンプの事前レッスンやキャンプの本番などが、7月から8月にかけて行われることが多いためです。いつ頃からか、「吃音の夏」と呼び、大切にしてきました。ちなみに、島根、岡山、千葉、群馬、沖縄などでの吃音キャンプは秋に行われるので、「吃音の秋」と呼んでいました。

 その「吃音の夏」ですが、今年は大きく様変わりせざるを得なくなりました。
 新型コロナウイルス感染症は、僕たちの生活を変えてしまいました。僕たちが大切にしてきた、「直(じか)」の出会いの場を奪ってしまいました。今、解除の方向にいっていますが、感染拡大は収まっているとは言えません。
 「コロナと闘う」から、「コロナと共存する」と変わり、少しずつ、そのつきあい方が分かってきました。これは、僕たちが考えてきた吃音とのつきあい方ととてもよく似ています。闘って、なくしてしまうのではなく、共存しながら、よりよく生きていく道を選んでいくことです。そう考えると、現状を冷静にみつめることができそうです。

 残念なお知らせをしなければなりません。
 今年の吃音親子サマーキャンプは、中止にいたします。

サマキャンの写真 ワークブック表紙 10% 8月のその頃は、コロナの状態がどのようになっているか予想はできません。しかし、吃音親子サマーキャンプの参加者は全国から集まり、2泊3日の長い時間、濃厚な接触になります。また、全国的にすべての学校で、夏休みが短縮され、参加が難しい人が多数現れそうです。夏休みの短縮で、ことばの教室担当者や言語聴覚士などのスタッフの確保も困難かもしれません。
 それでも、とても楽しみに待っている人は多いので、なんとか形を変えてでも開催できないか検討しました。土日の1泊2日はどうか、関東と関西に分けてはどうか、などいろいろ考えましたが、30年間、大切にしてきた本来の吃音親子サマーキャンプではなくなり、思い切って今年は見送るという結論に至りました。
 開催は難しいかもと思いながらも、少しは期待しておられた方も大勢おられたことでしょう。僕たちも、なんとか開催できないかと、ぎりぎりまで粘りましたが、そろそろ決断しなくてはいけない時期になりました。
 今年、卒業を迎える高校3年生が3人います。3人とも、3年以上参加しているので、卒業の資格はあります。卒業証書を渡すことを楽しみにしていました。その中の一人の女子生徒の両親は、2009年に初めて参加し、それから続けて11回参加しています。兄と妹のために両親そろって参加し続けました。1、2年なら両親ともに参加する場合も珍しくないのですが、11年連続とはすごいです。高校3年生の彼女は両親ともに、今年12回目の参加をし、キャンプでの卒業式を特別のものとして楽しみにしていました。この両親は、親の話し合いだけでなく、親が毎年取り組む表現活動を常に率先して取り組み、また初参加の保護者に働きかけるなど、吃音親子サマーキャンプにはなくてはならない存在になっていました。僕たちも、この父親、母親が卒業式にどのような話をするのか、とても楽しみにしていました。もちろん、お二人も、絶対に参加すると言っていました。
 ご本人たちもとても残念な思いでしょうが、僕たちもとても残念です。
 
 
 また、第9回親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会も中止にしました。
 開催趣旨の一部を紹介します。
 
  
どもる子どもとの対話〜健康生成論的アプローチ〜
 
 吃音は、未だに原因も解明できず、有効な治療法も開発されていません。そうした中で、僕たちは子どもたちと吃音について学び、吃音のこと、どもる自分のこと、日常生活での苦戦にどう対処するかなどについて、対話を続けてきました。
 今、大災害などによるトラウマやストレス、先の見えない不安などに対し、これまでの病気の原因を追及し、原因を除去することで病気を治す「疾病生成論」の考えでは立ち行かなくなりました。そこで、大変な状況の中でも健康に生きる人の要因を探る「健康生成論」が注目されています。健康状態を維持し続けた人々に共通していたのが、「把握可能感(わかる)」、「処理可能感(できる)」、「有意味感(意味がある)」の感覚でした。この三要素がバランスよく発達することが、重要だと指摘されています。どもる子どもがこれからのストレスが多い社会を生き抜くには、この3つの感覚を育てることが大切だといえるでしょう。ことばの教室や言語指導室での新しい吃音の臨床の展望を、健康生成論によって探っていきたいと考えています。また、子どもとの対話、レジリエンス、ナラティヴ・アプローチ、当事者研究など、これまでの講習会で考えてきたことを、初めての方が理解できるように、丁寧に整理していきます。どもる子どもと一緒に取り組める、楽しくそして豊かな実践を、みなさんと考えていきましょう。
  ◇日時  2020年7月25・26日(土・日)
  ◇場所  愛知県岩倉市総合体育文化センター


 その他の僕の今年の予定もほぼ、中止か延期になりました。
 これまで考えてきたことを整理し、まとめていく時間を与えられたのだと思い、ブログ、Twitter、Facebookで発信しています。日本吃音臨床研究会のホームページのトップページに、Facebookが埋め込まれています。5月から1日も欠かさず、更新しています。ご覧いただければうれしいです。
 また、日本吃音臨床研究会の月刊紙(年購読費5,000円)「スタタリング・ナウ」も、しっかり発行していきます。

 どうぞ、コロナ対策と、熱中症対策を怠りなく、お元気でお過ごし下さい。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/24

吃音の著名人 その生き方から学ぶ(7)

吃音の著名人語録

 こうして挙げてみると、たくさんのどもる人が、それぞれに、どもりと向き合い、自分なりに生きていることが分かります。吃音を持ちながらどう生きるか、僕たちがこれからどう生きていくかに、参考になることでしょう。そんな人たちが、自分の吃音について語っています。引き続き、青名秀人さんの大阪吃音教室の講座の続きを紹介します。

メディアに載っている吃音の著名人語録
・以下いずれも原文のまま。
新 田中角栄 木の実ナナ_0001*田中角栄(元首相) 自伝『わたくしの少年時代』 1973年 講談社
『どもりとは、まったくきみょうなものだ。ねごとや、歌をうたうときや、妹や、目下の人と話すときにはどもらない。まして、かっているいぬやうまに話しかけるときは、ぜったいどもらない。が、目上の人と話すとき、ふしぎにどもる。緊張したり、せきこむと、ますますひどくなる。いくらどもりをなおす本を読んでもだめなもので、自分はどもりでないと、自分にいいきかせて自信をもつことがたいせつなのだ』

新 田中角栄 木の実ナナ_0002*木の実ナナ(女優) 『下町のショーガール』 1986年 主婦と生活社
 『今も私は、ときどきどもります。でも、いまはどもりがいやだとは思いません。そりゃ、私だって女優ですから、歯切れのよい言葉で朗々と話したり、セリフを言ったりしたいものだと思わないことはありません。けれども、私はどもりだったために、人一倍悩んだり苦しんだり、また稽古もしました。そして、だからこそ、山田監督とも心に残るおつきあいができたんです。そう思うと、まさに「欠点があってよかったんじゃないか」で、いつしかどもりに感謝さえしているのです。そして、私にどもりをうつした叔父にも』

*三遊亭圓歌(落語家) 『これが圓歌の道標』 1998年 東京新聞出版局
 『……当時は、今みたいに拡声器なんかなかったので、駅員がホームに立ってて、電車が来ると、メガホンで、「新大久保!」って大きな声で言うんです。私と行っていた連中はみんなうまく言えるんですが、私は言えないんです。「し、し、し、し、新大久保」って言って目をあけると、電車ははるか彼方に行っちまって……。こりゃ、人がいるところじゃだめてんで今度は小荷物の係。……それにしても、吃音で世の中うまく生きていきにくいって思わせられましたね。私が吃音矯正の目的もあって落語界に入ったについては、このときのことなんかも心のどこかに焼きついていたのかもしれません』

*小倉智昭(ニュースキャスター)『私もサラリーマンだった!』 1995年マガジンハウス
 『ただし、話すときはつねに「自分はドモリなんだ」と意識して、適度な緊張感を持ってコントロールしていないとダメ。気を抜いているとき、たとえば家族との日常会話は相変わらずドモる。外面との落差を家族は不思議に思っていたようですね。まあそんなふうに、自分から進んで困難に立ち向かって克服していくのが好きな性格なんで、だからこそアナウンサーを目指したんですよ。アナウンサー試験を受けるにあたって、家族には断固反対されました。「おまえのドモリは完治しないんだから、無理だよ。あきらめなさい」』

*真経伸彦(作家) 『林檎の下の顔』 1974年 筑摩書房
 (文中の"彼"とは本人のこと)
 『講演に失敗して、失望し欄笑する聴衆の気配を背後に感じながら演壇をひきさがるとき、彼はとんだデモステネスだと自嘲することがあった。彼は古代ギリシャの雄弁家の名を、吃音矯正学院へ通いはじめた小学三年生のころから知っていた。矯正学院の教科書には吃る子供らをはげますために、毎日のように海辺へおもむき、小石を口にふくんで演説の練習をつづけて吃音を克服したデモステネスの逸話が載っていた。彼はそれ以上にデモステネスの伝記を知らず、知りたくもなかったが、この雄弁家の内心には語るべきこと、告知するべき独自のことが満ちあふれていたにちがいないと思われた。是非とも語らねばならぬという内からの衝迫が、吃音をも克服させたのだろう。彼の内心に、是非とも語らねばならぬことがあるのだろうか?』

*井上ひさし(作家)『パロディ志願 エッセイ集1』 1979年 中央公論社
 『……ドモリはなぜ起こるかといいますと、自分を中心に世界は回っちゃいない、他人を中心にして世界は回っていると思い込む人がいちばんかかりやすようです。つまり、相手がいれば、その相手を中心にして廻り舞台のようなものが回っている。その相手と話し合うときには、相手の廻り舞台にピョンと飛び乗らなくてはならない。しかし、自分は果たして相手を中心にして回っているこの廻り舞台に飛び乗れるだろうか。と、こんなことをしょっちゅう考えている。もっと砕いて言いますと、吃音症者は、こう言ったら笑われるだろうかとか、もし自分がどもったら軽蔑されるだろうとか、あるいは自分がどもると相手が気にするんじゃないかとか、こっちがどもると相手の人が困っちゃうんじゃないかとか、相手のことばかり考えてしまうんです。……』

*間直之助(動物学者) 『サルになった男』 1972年 雷鳥社
 『実のところ、私は小学校に入学してまもないころ、どもりをまねて本もののどもりになり、以来、半世紀以上もの間、このことから劣等感に悩まされつづけてきた。言語障害である。そしてこのことは、図らずも言霊(ことだま)の人間社会から言葉なき動物の世界へと、知らず知らずのうちに私を追いやる原因となった。……人間社会では最大のコンプレックスの種だった短所が、動物の世界での対話では、最大の武器であることに気がついたのである。私とサル、私と動物とを結びつけてくれた最初のきずなが、言語障害だったのだ。だから今では、このような生き方を少しも悔やむことはないと悟った』

*江崎玲於奈(物理学者) 『私の履歴書』 2007年1月 日本経済新聞
 『……1927年8月、私は二歳と五ケ月で全く覚えてないが、淡路島の南に位置する沼島という小さな島に滞在して夏の海辺を楽しんでいた。ところが逗留していた家に五歳ぐらいの悪さをする女の子がおり、たまたま縁側にいた私を後ろから突き落としたというのである。母が急いで私を抱き上げたが声が出ず、しばらくしてやっと口をきいたはよいが、ひどく吃り、それが急には直らなかったという。母の意見としては、これが小学校の生活を始めて再燃したというのである。腹式呼吸とか、さまざまの治療を試みたがほとんど役立たなかった。私は早くから自分はサイエンスの研究に適した人間ではないかと思っていたが、それは人とあまり話さなくてもよいという条件にもかなっていたからである。従って、私の場合、吃りはノーベル賞にはひょっとするとプラスに働いたかもしれない』

 世界的な作曲家の武満徹は本人は吃音ではないが、そのエッセイ選、『吃音宣言、どもりのマニュフェスト』の中で、「親しい友人であるすばらしい二人の吃音家、羽仁進、大江健三郎に心からの敬意をもって」とエールを送り、吃音礼賛の文章を書いている。
 「……べートーヴェンの第五が感動的なのは、運命が扉をたたくあの主題が、素晴らしく吃っているからなのだ。ダ・ダ・ダ・ダーン。………ダ・ダ・ダ・ダーン。」どもる自分を否定的にとらえて生きるか、あるいは肯定的にとらえて生きるか。さて、あなたは。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/23

吃音の著名人 その生き方から学ぶ(6)

大阪吃音教室で話題になった、吃音の著名人

 吃音の著名人という講座は、僕のほかにも担当した人がいます。
 大阪スタタリングプロジェクトがまだ大阪言友会を名乗っていた頃、会長だった青名秀人さんは、本が大好きで古書店の経営者でもありました。2008年9月19日、青名さんが担当した大阪吃音教室の講座「吃音とともに生きた著名人に学ぶ」を、翌10月号の大阪スタタリングプロジェクトの機関紙「新生」から紹介します。

吃音の著名人をジャンル別に書き出す
 先ず参加者から、この人は吃音だと思う人、あるいは本人が吃音であると宣言している人を順に挙げてもらい、青名さんがジャンル別にその名前をボードに書いた。「ヘェー!あの人が?」「エッ、そうなんや!」「そうだと思っていた」、どもる人間の仲間として、いろんな反応があった。中には違う人もいるかもしれないが、ほぼ当たっていると思う。ボードを再現する。(敬称略)

*政治家:田中角栄、チャーチル
*芸能人:木の実ナナ、三遊亭圓歌、マリリンモンロー、田辺一鶴、マルタ、桂文福、やしきたかじん、ブルースウィリス、スキャットマン・ジョン、花菱アチャコ、桂小米朝、ジュリアロバーツ、ミスタービーン(ローワンアトキンソン)、市川笑也、谷啓、ダークダックスのゲタさん、ケミストリーの一人、稲川淳二、小倉智昭、秋野暢子、片岡仁左衛門
*作家:重松清、ルイスキャロル、イソップ、野坂昭如、真継伸彦、大江健三郎、サマーセットモーム、尾崎士郎、村田喜代子、小島信夫、藤沢周平、井上ひさし、金鶴泳、諏訪哲史、岩明均
*学者:姜尚中、ダーウィン、江崎玲於奈、ルソー、西部邁、ニュートン、デモステネス、
*芸術:山下清、羽仁進、篠田正浩、岩合光昭、土門拳
*財界:梁瀬次郎、坪内寿夫、間直之助、佐藤正忠
*スポーツ:宗茂、円谷幸吉、ボブラブ
*その他:中坊公平、平野レミ、扇谷正造、ジョージ6世、モーゼ、徳川家光、徳川秀忠

 ざっと64名、あらゆる分野で活躍している。この中で、吃音ショートコースのゲストとして来ていただいた桂文福、重松清、村田喜代子、羽仁進の4名、私たちと直接に交流があった人としては、田辺一鶴、スキャットマン・ジョン、田中角栄、三遊亭圓歌、マルタ、真継伸彦の6名を挙げることができる。

吃音とどう生きるか
 ボードに名前を書き出した後、日本の吃音の著名人を二つのグループに分かれて、これらの人が次のABCの三つのうちのどれに当てはまるか、又、自分としてはどういうふうに生きたいかを話し合った。

A 吃音と闘った人
B 吃音に影響を受けた人
C 自分の生き方を貫いた人

 あるグループでは、Aとしては田辺一鶴、三遊亭圓歌、小倉智昭らが、Bとしては間直之助が、Cとしては桂文福、木の実ナナらが挙げられた。又、金鶴泳や真継伸彦の作品に現われているように以前は吃音が暗い否定的なイメージだけで書かれていたが、重松清の作品あたりから吃音が肯定的に描かれる時代になったのでは、という意見が出た。そして自分としてはどのような生き方を目指したいかでは、やはりCの意見が目立った。

(大阪スタタリングプロジェクト機関紙「新生」 2008年10月号より)


 この日の講座は、この後、メディアに載っている吃音の著名人の語録を紹介しています。自伝、回顧録、小説などで、自分の吃音について語っていることばを紹介したものです。明日、紹介します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/22

吃音の著名人 その生き方から学ぶ(5)

『人生劇場』の小説家・尾崎士郎さんは、どもりは得だと言った

 1996年10月25日の大阪吃音教室の講座の続きを紹介します。

 
それと、おもしろいのがあります。どもりは得やと言った人がいます。宇野千代という作家、知ってますか。90何歳で、つい先だって亡くなった人です。彼女はすごく自由奔放な人でした。札幌で主婦をしていたんですが、小説を書きたいと思って書いて、それを文芸春秋かどこかに投稿したら入選したんです。賞金をもらいに札幌から東京に出てきて、賞金をもらったらすぐに札幌に帰るつもりだったから、洗い物もそのままで東京に来た。そしたら、文芸春秋社で、ある人と出会った。宇野千代にとっては、運命的な出会いでした。この人やと思って駆け落ちをする。その駆け落ちをした相手が、『人生劇場』という小説を書いた尾崎士郎です。その尾崎士郎がすごくどもるんですね。
 宇野千代が『生きていく私』という本の中でこう書いています。

 『一緒に住んだ家に客が大勢来た。いつも談論風発で、そのあとは酒になった。尾崎はそれらの客を相手に、どもり癖のある、あの一種の話し方で、斬りつけるように言うのであった。「そ、それは君、間違っているよ。そ、そんなことで、復讐を受けるのが気になるなんて、そんな卑怯な考え方ってあるものか」。話の内容が、どんな鋭いものであっても、その語調には少しの毒もなかった。この尾崎の発想の、万人に愛せられる習性は、尾崎自身にとって何を意味するものであったか』

 要するに、すごくやさしい人だったらしいです。そのやさしさや人柄に、宇野千代は惚れたんでしょう。

 『青い山脈』『陽のあたる坂道』の作家、知ってますか。石坂洋次郎という有名な作家です。石坂洋次郎は津軽出身で、ズーズー弁なんです。彼は、ズーズー弁のために劣等感をもって辛い思いをしていた。

 『私は標準語で発音しているつもりなのに、相手のガールフレンドたちはいつも誤った聞き方をして、クスクスあるいはケラケラ笑い出してしまうのだ。私は強い屈辱感にうたれて、それらのガールフレンドから積極的に離れてしまった』

 彼は恋を何度もするが、津軽弁のためにふられる。そのあたりから『青い山脈』という小説を書いたんだろうと思います。そのとき、小説家仲間としてつき合いのあったのが、尾崎士郎です。石坂洋次郎はこう書いています。

 『私が学生時代、田舎なまりのせいで、ガールフレンドと付き合えなかった話を尾崎士郎にすると、尾崎は苦笑いをして、「お前、ばかだな。女学生たちはお前の津軽なまりのことばで、幼児のことばを聞くときのような母性愛をそそられて笑ったんで、お前が引け目を感じないでもうあと一押しすれば、彼女たちは陥落したんだよ。おれは、このとおりどもりだろう。しかし、女とは限らず、対人関係でこれで随分得をしてきているんだ。好きになったカフェーの女などに「ぼ、ぼくは、あ、貴方を…」と言いかけると、母性愛に作用された相手は「分かってるわよ。貴方、私が好きだって言うんでしょう。私も貴方が大好き…」とくるんだよ。今の女房とも、(今の女房っていうのは宇野千代ですけど)そういうことで結ばれたんじゃなかったかな。ハハハ…。そのころ、私も41歳になっていたので、ことばのなまりやどもりは、当人の心掛け次第で、対人関係の上ではプラスの作用をするものだという、尾崎士郎の意見を呑み込むことができたが、時すでに遅し、東京の女学生に諦めをつけた私は、予科時代に、津軽弁がツーカーと通じる同じ弘前の町の女学生と結婚してしまっていたのである』

 哲学者の高橋庄治という人も、「僕はどもりのためにどれだけ得をしたかも分からない」と言ってるし、周りの人も君はどもりでいいなあ、うらやましいというふうに彼に言っています。

 何人かの吃音の著名人を紹介しました。感想を含めて、自分なら1〜4のうち、どんな生き方がしたいか、話していきましょうか。
      
1、どもりを治そうと闘った人。
2、どもりのために生き方を変えた人。
3、どもりと関係なく、自分の生き方を貫いた人。
4、どもりで良かったという人。

A 生き方がよく分かった。自分としてどれの生き方を選びたいかといえば、やっぱり、3番目がいいかなあと思う。
B 今でしたら、まだ1番を。努力しないとだめと思います。
C 4番はちょっとね。一番興味あるのは、1番。克服したというのが気になる。どういうふうに克服したか調べてみたいと思う。
D 僕は2番。遠藤周作さんの『彼の生き方』という本を読んで感銘したから、2番がいいなあ。
E 4番のように、僕も吃音で得をしたかったなあと思う。今僕は38歳やから、まだこれからそんな境地になれるといいなあと思う。以前は、女性の前でどもった時に、笑われたら、劣等感で、嫌な感情が強かったから、引き下がっていた。尾崎士郎のように、相手に母性愛があると感じていたら、20代で結婚していたかな。
F(小学5年生) 4番が一番よかった。
G(どもる子どもの母) 作家の方で、そんなに有名な人がどもりなんて知らなかったので、こんなにたくさんおられるなら、有名でない人もたくさんおられるんだろうなあ。自分の子どもだけじゃないと気が楽になった。小倉智昭さんは、徹子の部屋で見て、あの方は小学5年生のときに、どもきんて言われていて、自分がどもるから、あえてアナウンサーを選んだらしい。面接のときも僕はどもりだから、この仕事をしたいと言ったらしい。
伊藤 小倉さんのように、どもるからといって話す仕事を選んだという人もたくさんいる。
三遊亭円歌、花菱アチャコ、田辺一鶴、…どもりだからこそしゃべる職業に就いて、なんとか闘いたいという人ですよね。
H ベンツで有名なあの人がどもりって聞いて正直言ってびっくりした。
I 得をしたというのが自分の生活の中であまりないので、得をしたいな。
J 知らない人の話が多かった。プラス面ばかりの話だった。『金閣寺』という本の中で、金閣寺に火をつけたのがどもる人で、その人はコンプレックスをもっていて、むしゃくしゃして火をつけたというマイナス面の話しか読んだことがなかった。いい勉強になった。
K 1番のああいう生き方を是非したい。難しいとは思うんですけど。
L どもりはハンディキャップと思っていて、損という考え方があるから、4番がいい。
M 宇野千代さんの『生きていく私」の本を読んだとき、尾崎士郎さんにどもり癖があると書いてあっても、どもりとは全然気がつかなかった。今日、聞いてああそうなのかと思った。私は3番。
N 4番。どもりは得やという考え方ができる人はうらやましい。もしかしたら得していたかもしれないけれど、それに気づかずにいたかもしれない。必要以上に自分を小さくしていたことがあるかもしれない。とりあえず、うらやましい。
O 真継伸彦さんが、4、5年前、テレビに、1週間ほど1時間半ずっとぶっ通しで出ていた。宗教について、ひとりで喋っていた。唇を歪めて、しゃべりにくそうで、それが1時間半、そして1週間続く。NHKの教育テレビがよくこれを放映するわと思うくらい、どもっても平気で喋っている。きっと本人が、喋りにくそうに喋るけど、最後まで放映してくれと言っているはず。そうしないと、カットされると思う。すごさを感じた。
P 私自身はこんな生き方をしたいと思っているわけじゃないけれど、1番の人はすごいなあと思う。私にはとてもできない。どもったことで嫌な思いもしてきたと思っていたけれど、みんなと比べたらずいぶん少ないかもしれない。羽仁進さんはどこに入るのかなあ。3番かな。あの人のどもり方が、かわいくて好きなんです。あんなふうに自然体で自分の言いたいことが言えて、それにどもりがくっついているというような生き方がしたい。トレードマークみたいでかわいいなという気がします。

 他にも、何人かが感想を言い、その後で木の実ナナさんの『下町のショーガール』を読んで、この日の大阪吃音教室は終わった。
(NPO法人大阪スタタリングプロジェクト機関紙「新生」1996年12月号)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/6/21
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