伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年05月

島崎藤村の『破壊』が、「吃音者宣言」の原点だった

大阪人権博物館(リバティ大阪)が、本日、閉館

リバティ大阪新聞記事_0001リバティ大阪新聞記事_0002 5月26日付け朝日新聞の夕刊で、大阪人権博物館(リバティ大阪)がいったん閉館するとのニュースを知りました。2008年、当時の橋下徹府知事から「展示内容が分かりにくい。公金を投入する意味を感じない」「差別、人権などネガティヴな部分が多い」と見直しを求められた大阪人権博物館。反論もしたし、なんとか継続できるよう模索を続けたのですが、立ちゆかなくなり、閉館になったとありました。これはぜひとも、見ておかないといけないと思い、出かけました。
 新聞記事を見られた方もおられたようで、多くはないけれど、それなりの人出でした。
閉館間際のため、特別に入館料は無料でした。中は、3つのゾーンに分かれていました。
リバティ大阪1
ゾーン1 いのち・輝き
 この世に生まれてくるということ、生きているということについて考えるコーナーです。私たちの生命はかえがえのないものです。この世に生まれて来たすべての生命が大切にされる社会について問いかけています。
・人工呼吸器をつけて生きる
・性別にとらわれない生き方
・働く権利
・DVや児童虐待
・HIV/AIDS
・環境
・犯罪被害者 など

ゾーン2 ともに生きる・社会をつくる
 大阪から日本や世界を見渡すと、多くの文化や生活、歴史があることに気づきます。さまざまな文化や人びとの生き方が大事にされ、共に生きる社会をつくるために私たちに何ができるのかを考えるコーナーです。
・世界と大阪
・在日コリアン
・ウチナーンチュ
・アイヌ民族
・ハンセン病回復者
・障害者
・ホームレス
・被差別部落
・大阪の歴史 など

ゾーン3 夢・未来
 世の中にはさまざまな職業があり、多くの人たちが働いています。働く人がどんな体験をしているかを知ることや、自分に合った仕事を調べることなどを通して、夢や未来について考えるコーナーです。
・いじめ
・働くということ など
リバティ大阪3
 主な所蔵品としては、次のようなものがあります。
・島崎藤村の小説「破壊」の初版
・朝鮮の人々が日本の植民地支配に抵抗する三・一独立運動のビラ
・水俣病を世界に伝えた米国人写真家の故ユージン・スミスのオリジナルプリント
・差別戒名を刻んだ墓石
・「解体新書」「蘭学事始」の実物 江戸時代の医学者杉田玄白が刑死者の遺体解剖に立ち合った際、被差別身分の人が執刀矢説明を担った。
・琉球使節の「江戸上り」の絵画 江戸時代に薩摩藩の支配下にあった琉球王国が、国王即位の際に江戸に謝恩使を送った様子を描く。
・足尾銅山鉱毒問題に取り組んだ田中正造のはがき
・戦前にアイヌの人たちが差別撤廃を訴えた講演会のポスター
・ハンセン病療養所で使えるお金「園内通用票」
・米占領期の沖縄の人たちのパスポート
 
 部落問題を中心に展示されていると思っていましたが、それだけではなく、さまざまな差別、人権問題について、来館者に問いかけ、考えてみようと投げかけているようでした。幅広く扱っているため、雑多な感じがするのですが、そこに流れているのは、ひとりひとりを大切にするということだろうと思います。それができていれば、悲しいできごとは起こりません。僕は、吃音を通していろいろなことを考えてきました。その中で、吃音だけでなく、様々な障害や生きづらさについても考えるようになりました。吃音を深く考えることで、吃音の外の世界も広がったような気がします。
 どの博物館でも、ショップでは、いつも買い物をしますが、今回は、『障害学の現在』(2002年・大阪人権博物館)と、『ビジュアル部落史3巻 水平運動と融和運動』(2007年・大阪人権博物館)を買ってきました。『障害学の現在』には、2018年に僕を東京大学先端科学技術研究センター主催の講演会に講師として呼んで下さった、福島智教授の「盲ろう者と障害学」、稲葉通太さんの「ろう文化へのアプローチ」が納められています。
 また、展示されていた、島崎藤村の小説『破壊』の初版本も目につきました。僕はこれまで何度も書いてきたように、映画や文学、小説からいろんなことを学んできました。小説では下村湖人の『次郎物語』を挙げてきましたか、もっと大事な本があったと気づきました。『破壊』です。被差別部落出身だということを隠せと父から強く戒められていた青年教師・瀬川丑松が、苦悩の末、ついにその戒めを破るシーン。自分が教えている生徒に「みなさん、許して下さい」で始まる、自分が被差別部落出身であることを語る文章を、中学生頃だったか、何度も何度も声に出して読んでいました。時には泣きながら読んでいた記憶が少し残っています。
 差別は許せないとの思いと、当時はあまり意識していなかったものの、吃音を隠し続ける人生、話すことから逃げる人生に危うさを感じていたのだと思います。それが後に、僕が『水平社宣言』に影響を受けて起草した『吃音者宣言』に結びついたのだろうと思います。『吃音者宣言』は『水平社宣言』に影響を受けました。それは間違いないことですが、大阪人権博物館で、島崎藤村の小説『破壊』の初版本を目にしたことで、ここに、僕の原点があったのだと気づきました。新しい気づきでした。
 今日で5月が終わります。予定していた研修会や講演会が全てキャンセルになり、ぽっかりと穴があいたような1ヶ月でしたが、なんとか、ブログ、Twitter、Facebookは、ほぼ毎日書き続けることができました。5月の終わりに、閉館間近となった大阪人権博物館に行き、『水平社宣言』『破壊』に出会ったことをひとつの縁と思い、明日から、『吃音者宣言』について、これまでに書いたもの、書かれたものを紹介していこうと思います。
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/31

窪田正孝のどもる姿はかっこよく、気持ちよい

  「エール」と弱さの強さ

 これまで全く見たことがなかった朝の連続テレビ小説ですが、今、放送中の「エール」は、主人公の小山裕一(作曲家の古関裕而がモデル)がどもっていると教えて下さる方が何人もいて、初めて見ました。子ども時代の子役も、青年期を演じる窪田正孝も上手にどもっています。子どものときは、朗読の時に笑われたり、からかわれる描写もありましたが、愛されていると実感できる家族と、大好きで得意な音楽があるから、何の問題にもなっていません。また、恩師にあたる藤堂先生の「人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること、それがおまえの得意なものだ。それがみつかれば、しがみつけ。必ず道はひらく」とのことばも、印象に残りました。
エール 新聞記事 その「エール」について、朝日新聞記事に小さなコラムがありました。斉藤道雄さん関連で、【「弱さ」を社会にひらく】という文章を紹介したばかりなので、よく似たタイトルに惹かれました。
 僕にとっては「弱さ」は自分を語り、見つめるキーワードであり続けています。弱いということを自覚したとき、弱さはしなやかさに変わる。それが、どもりと共に生きることにつながるのではないかと思いました。主人公・窪田正孝演じる小山裕一は、どもっていますが、人柄とマッチして少しの違和感も感じません。どもることは恋や友情、仕事に全く障害にはなっていません。さわやかなどもり方は、まねをしたくなるほど心地よいものです。周りに恵まれ、好きなこと、したいことがあれば、吃音は何の障害にもならないことを、あの時代でも証明してくれているようです。
 新聞記事を紹介します。

   
「エール」と弱さの強さ
 「弱さの強さ」。今春始まったNHKの連続テレビ小説「エール」を見て、その言葉の意味を考えている。主人公の小山裕一(窪田正孝)は、作曲家・古関裕而がモデルだ。ただドラマは、昭和の天才作曲家というより、「弱い人」の印象が強い。
 裕一は幼少期、運動音痴でいじめられっ子だった。商業高校でも落第を経験し、レコード会社でも苦労する。「頑張れ」と応援しながら見ていると同時に、彼の弱さに共感し、一生懸命な姿に元気をもらっている。
 裕一の恩師・藤堂清晴先生(森山直太朗)の言葉は、視聴者にも救いを与える。話す際、言葉が詰まる裕一に「歩く速さも違う。話し方も違う。違いを気にするな」と伝える。また、裕一の音楽の才能についてはこう話す。「人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること、それがおまえの得意なものだ。それが見つかれば、しがみつけ。必ず道はひらく」
 古関は、前回の東京五輪の開会式の入場行進曲「オリンピック・マーチ」の作者だ。志村けんさんを死に追いやったコロナ禍がなければ、今頃は、日本中が五輪一色の雰囲気だったに違いない。五輪のモットーは「より速く、より高く、より強く」で、裕一の姿とはほど遠い。だが彼は、音楽とともに弱さで人々を応援していると思う。(宮田裕介)
         2020年5月29日 朝日新聞 記者レビュー


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/30

「治るかどうかではない、どう生きるかが問題なのだ」

『治したくない−ひがし町診療所の日々』(斉藤道雄著 みすず書房)関連(7)

 斉藤道雄さんが送って下さった『治したくない−ひがし町診療所の日々』を出発に、斉藤さんとの出会い、川村敏明さんという精神科医のこと、べてるの家のことなど、話が広がりました。今回で一応の区切りと考え、『吃音の当事者研究−どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(金子書房、向谷地生良・伊藤伸二)の本に、斉藤道雄さんが、寄せて下さった文章を紹介します。
 向谷地生良さんのことは、以前ブログに書きました。島根県の浜田市のレストランでばったり出会うなど、不思議な出会いがあるのですが、最初の出会いは斉藤さんが作ってくれました。
 北海道浦河の「べてる祭り」に、長年つきあいのある統合失調症の青年のお母さんと参加した時です。「浦河に来られるのなら、浦河にある私の自宅で身近な人たちと食事会をするので、いらっしゃいませんか」と斉藤さんが誘ってくれました。喜んでお母さんとお伺いしたのですが、斉藤さんとおつきあいのあるいろんな方が招待されていた中に、向谷地さんのご家族がおられました。以前から向谷地さんに私たちの2泊3日の吃音ショートコースの講師として来ていただきたいと考えていたので、またとない機会だと、斉藤さんに紹介していただき、話をしました。そして、当時としては珍しい3日間の向谷地さんのワークショップが実現したのです。楽しく、有意義だった吃音ショートコースの最終日、興奮気味に向谷地さんが、「このワークショップの記録を本にしましょう」と言って下さり、実現した本が、『吃音の当事者研究−どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(金子書房、向谷地生良・伊藤伸二)です。
吃音の当事者研究 本の表紙 この本のまえがきに、斉藤さんが書いて下さった文章。ここに、僕たちのことを本当に理解して下さる方がいると心から実感できた文章でした。今、読み直してみても、その思いは全く変わりません。出会いと、その後のおつき合いに、感謝します。

「吃音の当事者研究」に寄せて
    斉藤道雄(さいとうみちお・ジャーナリスト)

 「治るかどうかではない、どう生きるかが問題なのだ」
 この言い方には、深いなじみがある。
 伊藤伸二さんにはじめて会ったとき、ああ、この人はぼくの出会った多くの人たちとおなじことばをしゃべっていると思った。
 吃音は治らない、治さない、仲よくしていまを生きる。
 この「吃音」を「精神病」と言い換えれば、それはそのまま北海道浦河町の精神障害者グループ、べてるの家の人びとの言い方になる。吃音と精神病はまったくちがうものだといわれそうだが、どちらも、治らない、治しても再発をくり返すし、多くの人は一生をそれとともに生きていかなければならない、ということでは共通している。治らない、治しがたいにもかかわらず、人は「治すこと」にとらわれ、そこから抜け出すためには自分自身を拠り所とする知恵と仲間の存在が欠かせない、そういった点でも、吃音と精神病はおどろくほど似かよっている。
 考え方、価値観がおなじ地平にある吃音の伊藤さんとべてるの家の人びとは、言語までもが共通している。治すのではない、自分自身を生きるのだという言い方、来るかどうかわからない明日のしあわせより、今日の、今のしあわせをたいせつにするということ。どんなに離れていても、いっぺんも出会ったことがなくてもおなじことばがぼくらはどこかでつながっているという安心感、既視感をもたらしてくれる。
 その一方で、ぼくは大多数の人びとがしゃべる別のことばも知っている。
 治そう、治さなければいけない、治そうとしないのは敗北だ。そう語る人びとは、あなたはそのままでいてはいけない、変わらなければいけないという。しかもそれはどうやら無条件に、みんなとおなじになること、多数派とおなじ人間になって多数派とおなじ人生を歩むことを前提としている。
 彼らは、みんなとおなじになうるというだけではない。いまよりさらに大きく、強くなろう、病気や障害だけでなく自分の弱さや迷いを克服し、さらなる高みをめざそうという。それがあなたのあるべき姿なのだと。そうした別のことばは、ぼくらが生まれてからこのかたずっと変わることなく学校で、会社で、社会で、テレビや新聞で、あらゆるすき間を埋めてぼくらに投げかけられてきた。治そうということばを聞いているとき、ぼくらはこの社会のまぎれもない多数派だった。
 治さないという少数派のことばと、治すべきだという多数派のことばは、まったくちがう別のことばなのだと思う。
 そのちがいは、自分のことばと他人のことばのちがいからきている。
 伊藤伸二さんと彼の仲間は、自分のことばをしゃべっている。吃音を治すべきだという多数派の人びとは、他人のことばをしゃべっている。ぼくにはそう思えてならない。
 自分のことばは、自分の抱えた苦労や困難を真剣に悩んだ人びとが、その悩みのなかで自分自身が感じ考えたことを、自分のことばで語ろうとする。けれど他人のことばをしゃべる人びとは、自分の困難について自分で考えることをやめ、人に説明してもらい、人に語ってもらう。あるいは人がしゃべったこと、とくに権威や専門家といわれる人びとのことばをそのままわがものとしてしゃべっている。自分のことをいっているようでも、また自分のことばだと思っていても、それはほとんどいつも他人のことばの受け売りだ。ときには権威や専門家といわれる人びとですら、そのいっていることは他人の受け売りにすぎない。
 もちろん、自分のことばと他人のことばは画然と分けられるものでない。ぼくらはいつだって他人に影響され、他人との会話のなかで自分の考えをまとめているし、まったく自分ひとりでことばを見いだす人なんていない。どんなに受け売りの上手な人でも、いくばくかの独自性はあるだろう。けれど二つのことば、自分のことばと他人のことばのちがいは、本人がほんとうに悩んだか、ただ迷っただけかのちがいからはじまっている。
 吃音であれ精神病であれ、治すか治さないか、あるいは治せない自分はそんな自分の人生をどう生きるかは、自分で考え、最後まで自分で考えなければならないこととしてある。周囲がなにをいっても、どんなことをいわれても、また専門家がどう説明してくれても、それが自分自身の問題として投げかけられている以上、自分ひとりで引き受けなければならない。少なくともべてるの家の人びとは、三十年に及ぶ当事者活動で無数の失敗を重ねながら、そのことをくり返し学んできた。アルコール依存や統合失調症をはじめとする精神病は、自分自身のことばで語りださないかぎり出口を見いだせない。それは彼らが命がけで見いだした、病気を生きる手段であり、知恵であり、ついには目的でもあった。
 自分のことばで、自分自身を語るということ。それがどれほどたいせつなことかを、そしてときにはそれこそが生きることの意味なのだということを、べてるの家の人びとはいつでも語ってくれるだろう。それは決してひとりではできない作業だということも。そのために仲間がいて、仲間とともに進める当事者研究というしくみがあるのだということも。
 自分のことを、自分のことばで語る。それがはじまったときに、当事者研究ははじまっている。だとするなら、伊藤さんたちの当事者研究はべてるの家と出会うずっと前からはじまっていた。伊藤さんがべてるの家の向谷地生良さんと出会うことで、二つの当事者研究が交差し、それぞれの当事者の悩みはさらに深められることになった。吃音者が、精神病者が、自分の苦労と悩みを自分のことばで語り継ぐとき、ぼくはそのことばを彼らの名前とともに記録しつづける。それこそがぼくにとって理解可能なことばであり、伝えるべき価値をもつことばだからだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/29

「治す文化」とは別世界に生きる

『治したくない−ひがし町診療所の日々』(斉藤道雄著 みすず書房)関連(6)

治したくない 斉藤道雄 表紙1 斉藤道雄さんに新刊をお送りいただき、斉藤さんとの出会いや斉藤さん関連の話をいくつか書いてきました。今日は、『治したくない』に出てくるひがし町診療所の医師、川村敏明さんの話です。ご自分のことを「治せない、治さない精神科医」と言います。
 僕がずっと相談にのっていた吃音の高校生が統合失調症になった関係で、統合失調症の勉強会や家族会に参加するようになりました。その家族会が川村さんを招いて講演会を企画したので、僕も参加しました。べてるの家の当事者とも出会いました。「吃音を治す」文化と長年闘ってきた僕としては強い味方ができたような思いがしました。講演会の後、川村さんとも話すことができ、講演記録を僕たちのニュースレター「スタタリング・ナウ」で紹介することができました。その号の巻頭言として書いた僕の文章を紹介します。

治せない、治さない精神科医
        日本吃音臨床研究会代表 伊藤伸二

 「勝手に治すな 自分の病気」
 「べてるに来ると 病気が出る」
 「自分でつけよう 自分の病名」
 これらは「べてるの家」の理念ともいえるもので、統合失調症という病気と向き合い、自分を助ける取り組みの中で、育まれてきたことばだ。「治療文化」「治す文化」を覆す考え方だと言っていい。
 北海道・浦河にある精神障害者の作業所には、「べてるな人」といわれる人たちが集まっている。その人たちを温かく見守っているのが、「治せない、治さない精神科医」と自ら誇らしげに言う浦河赤十字病院の精神科医・川村敏明さんだ。
 「病気は宝物、治りませんように」と、川村さんに七夕の短冊に書いてもらったと喜ぶ人がいる。このように思えるようになるには、ひとりの力では到底無理なことだ。長年病気に向き合っている先輩がいる。一緒に泣き、一緒に悩んでくれる仲間がいる。さらに浦河という地域の風土による力も大きいだろう。しかし、当事者だけで今の「べてるの家」があるのではない。ふたりの卓越した寄り添い人がいたから、「べてるの家」の今がある。私から言えば、奇跡のようなものだと思う。
 ソーシャルワーカーの向谷地生良さんと、精神科医の川村敏明さん。このコンビが、「べてるの家」の活動を生み、育て、発展させてきたのだ。二人を抜きに、「べてるの家」は語れない。
 高校生のときからつきあっている青年は、ひどいいじめや吃音に対する周りの無理解によって深く傷つき、統合失調症を発症した。その青年と私は、今も家族ぐるみでつきあっている。彼に、「べてるの家」を紹介し、行くことを薦めたことがあった。母親がまず浦河に行き、その取り組みに共感し、所属する奈良の精神障害者家族会が、川村敏明医師を招いて講演会を開いた。
 「べてるの家」の活動は書物で知っていたが、スライドや3人の当事者の体験を交えての講演会は、圧倒的な力で私に迫ってきた。遠慮をしてか、笑える場面でもあまり笑わない家族の中で、私はひとり声をあげて笑っていた。
 当事者が自分の病気を研究し、ユーモアを交えて話している。病気から起こってくる様々な、本当は深刻な問題を、他人事のように話す当事者の姿が、私には何ともうれしく、楽しかった。吃音に取り組んでいる私たちの理念、姿勢に共通することがとても多かった。
 生活に大きな支障がある病気や障害で、「治るもの、治せるもの」なら、治す方向で努力するのは当然のことだ。しかし、「治らない、治せない」ものは現実には少なくない。その現実に向き合ってもなお、なんとかして治そう、治さなければならないというのが「治療文化」だ。治そうとする人たちがいて、治されようとする人たちがいて、両者がその文化を支えている。
 「治される側」の私がそれに反発し、「治す努力の否定」とまで過激に提起したのは、「治療文化」があまりにも巨大だったからだ。それからすでに35年経つというのに、「治す側」の人たちの中から、「治せない、治さない吃音の専門家」と誇らしげに公言する吃音の臨床家や研究者は未だに出ていない。寂しく、残念なことだ。
 文化人類学者が「べてるの家」の活動をビデオに記録し、アメリカで紹介した。「治せない、治さない精神科医」を翻訳するのが一番難しかったと言う。韓国では、家族から「治せない精神科医は許せない」と言われたそうだ。やはり、「治療文化」は根強いということだろう。
 2007年2月3日の「べてるの家」講演会で、川村医師に講演記録を「スタタリング・ナウ」で使わせていただきたいとお願いした。ご快諾いただきながら、今になってしまった。私が大笑いした当事者の話を紙面の都合で掲載できなかったのは残念なことだが、講演は収録できた。お忙しい中、ご校閲下さった川村敏明さん、素晴らしい講演会を開催して下さったあらくさ家族会に感謝します。
「スタタリング・ナウ」2009.3.29 NO.175

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/28

「吃音に悩むのは、自分が弱いからだ」と考えていた

『治したくない−ひがし町診療所の日々』(斉藤道雄著 みすず書房)関連(5)
 
 僕は吃音に深く悩んでいたとき、他の病気や障害に比べて、それほど大きな問題とは思えない吃音に悩んでいること自体に悩んでいました。だって、小学2年の秋まではどもっていても全く悩んでいなかったのですから、考えてみれば、悩まなくてもいい吃音に悩んでいることになり、それは、僕自身が極めて弱い人間になってしまったからだと、自分自身の変化に戸惑い、悩んでいたのかもしれません。「弱いこと=だめな人間」の図式ができていたのです。その後、その「弱さ」をある程度認めることができるようになったのは、高校生の時、阿部次郎の『三太郎の日記』を読んだときからです。
三太郎の日記_0002 「弱い者はその弱さを自覚すると同時に、自己の中に不断の敵を見る。そうしてこの不断の敵を見ることによって不断の進展を促すべき不断の機会を与えられる。……弱い者は、自らを強くするの努力によって、最初から強いものよりも更に深く人生を経験することができるはずである。弱者の戒むべきはその弱さに耽溺することである。自ら強くするの要求を伴うかぎり、われらは決して自己の弱さを悲観する必要を見ない。……」
 『三太郎の日記』の十八「沈潜のこころ」の章を、何度も何度も覚えるくらいに読み返し、自分を奮い立たせていました。そうでなければ「弱さ」に負けてしまいそうだったからです。それでも、「弱さ」は僕にとって劣等感であり続けました。それが、セルフヘルプグループを創立し、その活動に夢中になることで、「弱さ」への感じ方、考え方が変わっていきました。應典院の秋田光彦さんによる僕へのインタビュー記事【「弱さ」を社会にひらく】が、東京にいる斉藤道雄さんと大阪の僕を結びつけたのです。「スタタリング・ナウ」2005年11月22日NO.135で紹介した、その文章を紹介します。

   
 
「学び・癒し・楽しみがお寺の原点」だとする大連寺住職・秋田光彦さんは、「ひとが集まる。いのち、弾ける。呼吸する、お寺」應典院(おうてんいん)の主幹でもある。その應典院は、竹内敏晴さんの大阪定例レッスンの場であり、「どもりは個性だ」と題した桂文福さんの講演など日本吃音臨床研究会のいろいろな催しの場となっている。秋田光彦さんが編集し発行する小冊子「サリュ」に、秋田さんが伊藤伸二にインタビューをした記事が掲載されました。それがTBSの斉藤道雄さんとの出会い、TBSの新番組「報道の魂」につながりました。人と人を結びつけたその記事を紹介しましょう。
  
  「弱さ」を社会にひらく−セルフヘルプとわたし
                  日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二さん

 少子高齢化社会を迎え、「弱さ」に目を向ける生き方が求められるようになりました。「弱さ」に目を向けるといっても同じ苦しみや境遇を癒しあうだけの、閉じこもった関係であってはなりません。自閉せずに「弱さ」を力にしてつながりあい、受容する社会を創造するには、どうすればよいのでしょう?また「弱さ」はどのように社会に参加することができるのでしょう?
 「どもり」という「弱さ」を社会にひらき、同じ悩みを持つ人たちの支えとなる活動を40年間続けてこられた日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんにお話を伺いました。

互いを支えあうセルフヘルプ
 ぼくは子どもの頃から、ずっとどもりで悩み、孤独に生きてきました。それが、大学の時に初めて同じようにどもりに悩んできた人たちと出会い、自分の話を聞いてくれる人が横にいて、そのぬくもりと安らぎを感じる体験をしました。これは何ともいえない喜びでした。一度その感覚を味わうと、また一人ぼっちになるのは耐えられません。
 1965年私は吃る人のセルフヘルプグループをつくりました。このグループでは同じように吃音に悩んできた人が集まり、支え合うだけではなく、自分の殻に閉じこもらないで、積極的に社会に出て行く活動をしました。当時は「セルフヘルプグループ」という言葉は日本に紹介されていませんでした。患者会や障害者団体はありましたが、その目的は生きる権利を主張したり、できれば「治す、改善」を目指しています。セルフヘルプというのは同じような体験をした者同士が支えあって、自分の人生を生きようということですから、治らないとか治せない、つまり簡単には解決しない問題をもっているというのが前提なのです。

配慮という暴力
 ぼくは、どもりの苦しみを同じように体験した人と出会うことで、ほっとしたり、力がわいてきたりという経験をしてきました。だから、子どもの頃に「ひとりぼっちじゃない」という経験をしてほしいと、15年前に始めたのが吃る子どもたちのための、吃音親子サマーキャンプです。毎年8月に開催して、全国から140名を超える参加があります。
 そこで16年、どもる子の親に接していますが、最初のころは、「うちの子はかわいそう、なんとかして治してあげたい」「どもりを意識させずにそっとしておいたほうがよいと指導された」「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という親がほとんどでした。それは親子を取り囲む社会全体、教師にも強くインプットされていて、子どもの欠点や弱さを指摘したらかわいそうだという、配慮に満ち満ちているからです。ぼくは「配慮の暴力」というのがあると思います。配慮が人を傷つけるということはいっぱいあると思うのです。 そんな大人のこれまでの意識を変えて欲しいと、本を書いたり、発言したりしてきていますが、なかなか浸透していきません。インターネットの時代で簡単に情報発信ができるために、「どもり治療の秘策」みたいな劣悪な情報が増え、状況は40年前よりさらに悪くなっています。親は治るというメッセージや情報にすがりつきたいわけですから、飛びつきます。
 「どもりが治る」とはどういうことか。ぼくも実際はっきりわかりません。一般的にいうと、空気を吸うように何の躊躇もなく話せるというのが治るということでしょう。また、吃りながらでも、吃音に影響されずに自信を持って生きるというのも治ることだといえるかもしれません。今、ぼくは何も悩んでないし、どんな不自由もないし、どもりで困ることは100パーセントありません。だから、「伊藤さんは、治っているんじゃないか」と言われたらそうだけれども、それを治るといってしまっていいのかどうか。吃りながら「俺は平気だよ」というほうがいい。だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい。治る、治らないの二元論的な世界から違う見方を提示したのが、セルフヘルプの活動といえるのかもしれません。

弱さに向き合うこと
 だから何が何でも治そうということではなくて、どもりという欠点と言われるものや弱さは弱さのままでいいんだときちんと受け止められたら、社会でひとつの力になる。弱さの持っている強さを自覚できたら、弱さのままでも社会に出ていける。弱さはしなやかですから。これまでは「吃ってかわいそう」と弱さの中の弱さを押し付けられたりしました。弱かった人間が強くなると周りから叩かれるという矛盾もありました。そうならないために、きちんと自分の問題を見つめることは大切なのです。
 例えば「吃って恥ずかしい」と思ったのは、一体なぜか?と自問してみる。それは周りの人から、吃るあなたは、こんなことはしなくていいよと配慮されたり、弱い立場を押し付けられたりしてきたことと関係があるのかもしれない。烙印(スティグマ)を押されてそこに安住させられてきた。弱さを自分で演じてきたこともあるでしょうね。それを明らかにしていくというのはある意味でつらい仕事だけれども、それに向き合うということをしないといけない。一人では難しいからセルフヘルプグループがあるんです。
 しんどいけれど一緒に向き合おう。それをしないとただ「そうだね、苦しいね、よくわかるよ」という表面だけの共感に終わってしまう。それだと本当の苦しさは超えられない。

失敗から学び、悩むことを恐れない
 今と違って、ぼくらの時代はがんばれば何かできるんじゃないかという希望がありました。今の子は悩んでいる感じはするけれども、悩み方がすごく下手になっている。悩み方のノウハウを教えるというのはすごく変だけど、「お前の悩み方、変じゃないの」ということを言う大人がいてもいいんじゃないですかね。悩むチャンスを大人が奪っている。それも配慮ということなんでしょうね。失敗したらこの子はだめだと、失敗させないように何とかしないと、という。そうではなくて、むしろ失敗したほうがいい、悩んだほうがいいわけですよ。悩むことのなかに工夫があり、発見があり、気づきがあったりするのに、悩むことを恐れてしまう。これからの自分とか、なぜ生きているのか、そういう問いを発見するのも、若い人がもっと創造的に悩むことじゃないかと思っています。
 そのために、弱さに向き合うチャンスや場を、もっと大人が提供していかないといけないですね。向き合うということは苦しいけれども喜びもあり、発見もある。吃音親子サマーキャンプが成功しているのは、ぼくらが吃りながらでも楽しく過ごしている、その姿を子どもたちに見せているからです。大人がモデルとなるような生き方をし、人生の喜び、楽しさを提示することです。じかにふれあえて向き合う経験をさせる。そういう場を与えることが大人の役割じゃないかと思います。
「サリュ」 應典院寺町倶楽部のニュースレター NO.43 2004.10.5発行


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/27

吃音に長年取り組んできた私たちへの応援メッセージ

『治したくない−ひがし町診療所の日々』(斉藤道雄著 みすず書房)関連(4)

スタナウ 135号 TBSがドキュメンタリー番組『報道の魂』の第1回放送に、「吃音」を取り上げて下さいました。放送の後、僕たちは、日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」で、『報道の魂』の特集を組みました。
 斉藤さんとの出会いのきっかけは、應典院寺町倶楽部が発行している小さなニュースレター『サリュ』の記事でした。應典院の秋田光彦主幹(当時)が僕にインタビューをして下さり、掲載された記事『「弱さ」を社会にひらく』を読まれた斉藤さんが興味をもち、電話をかけてきて下さったことがはじまりでした。これまで「吃音」については関心をお持ちでなかったであろう人が、どうして自ら、吃音を取材しようと思われたのか、とても興味のあることでした。そのあたりのいきさつも含めて、「スタタリング・ナウ」の特集を組むにあたり、斉藤さんに原稿を依頼しました。送られてきた原稿は、「メッセージ」と題した力のこもった文章でした。紹介します。

メ ッ セ ー ジ 
      TBSテレビ報道局 編集主幹
      TBSテレビ解説委員   斉藤道雄 (2005年現在)

 「ぼくは配慮の暴力というのがあると思います」
 小冊子のこのひとことに、僕は引きつけられた。
 配慮の暴力というのは、たとえば「子どもの欠点や弱さというものを指摘したらかわいそうだ」という親の思いこみからからはじまっている。あるいは、「治ることを期待してどもりについて話題にしない」という「大人の意識」のことだ。そうした意識が、子どもが本来もっているはずの力を、押さえつけているのではないか。
 この問題のとらえ方には、なじみがある。そう思いながら、先を読み進んだ。
 話は、吃音者の生き方をめぐるものだった。
 「治るとはどういうことか。ぼくもはっきりわかりません。…だから治るという言葉はあえて使わないで、治らないけれども自分らしく生きることはできるんだよというメッセージを投げかけたい」
 治らないけれども自分らしく生きる、これもまた、なじみのメッセージではないか。
 だれだろうと名前を見ると、伊藤伸二とあった。
 伊藤さんは、大阪の應典院というお寺が出している機関紙「サリュ」の2004年秋号に載ったインタビュー記事(「弱さ」を社会にひらく。セルフヘルプとわたし。)で、吃音について、吃音をめぐる「配慮の暴力」について、そして吃音を治すということ、治るということの意味について語っていた。それを読み終えて僕は思った。ああ、いつかこの人に会ってみたいものだと。会って、話を聞きたい。そしてたしかめてみたい。伊藤さんがいっているのは、僕がかつて受け取ったあのメッセージのことですよねと。「サリュ」の一文は、夜空に打ち上げられた一瞬の花火のようなものだったけれど、僕はたしかにそれを見たし、そこに伊藤さんの存在を感じることができたのですよと。
 いってみれば、そのことを伝えるために、僕は今回の取材に取りかかったのかもしれない。配慮の暴力ということばに出会ってからちょうど1年後、僕は東寝屋川駅にちかいマンションの自宅に伊藤さんを訪ねていた。そこで話を聞き、資料をもらい、この秋からはじまる新番組の企画で、伊藤さんの取材をしたいとお願いしたのだった。
 それがたまたま、年に一度の吃音親子サマーキャンプの時期と重なっていたのである。キャンプには伊藤さんたちの仲間と吃音の子どもたち、それにその親が、全部で140人も集まるという。好機を生かすべく、僕はさっそくカメラマンとともに、キャンプ地である滋賀県の荒神山まで出かけることにしたのだった。2泊3日の短い期間ではあったが、おかげでじつに密度の濃い取材ができたと思う。突然のテレビの闖入で参加者にはずいぶん迷惑をかけたことだろうが、それにもかかわらず快く取材に応じていただいたみなさんには、ここであらためてお礼を申し上げたい。
 もちろん、吃音などという問題にはかかわったことがなく、キャンプにもはじめていくわけだから、取材できることはかぎられていた。しかしそこで子どもたちが真剣に話しあい、劇の練習をするところを見ながら、そしてまたインタビューをくり返しながら、サマーキャンプがどのような場であり、その場をつくりだしているのがどのような人びとなのか、そしてそこでなにが語られ、なにが起きているのかを、多少なりともつかみとることができたと思う。
 ひとことでいうなら、それは長い物語をもつ人びとの集まりだった。
 吃音がもたらす苦労と悩み、そして人間関係のむずかしさや社会との緊張は、他人がなかなかうかがい知ることのできない生きづらさを、吃音者にもたらしている。その生きづらさは、時間を経てこころの奥底に滓(かす)のように沈殿し、重さをもち、それぞれの物語をつくる下地となる。キャンプの参加者はみな、そうした滓や重さや経験をことばにして、あるいは仲間の語ることばに共鳴する形で、自らの物語を紡ぎだしていくかのようであった。
 たとえばスタッフとして参加していた大学生は、小学校2年生のころは吃音がひどくて、話がほとんど会話にならなかったという。
 「友だちと話してるときに、やっぱり通じなかった記憶、ものすごいある。これ話したい、だけど一部分も話せずに去っていく、って経験がいっぱいあった」
 どもりをまねされ、からかわれ、「負けじとしながら、だいぶこたえて」いた。ふつうに話せないのが「ほんとにいやでいやで」、でもそれを認めたくないから「逆に強くなろうと突っ張って」いた。それだけではない。吃音を「隠そうっていうことを無意識に」しつづけていたから、表面的にはものすごく明るいいい子を演じていなければならない。そういう無理を重ねながら小中高と進んではみたものの、高校2年のある日、ついに合唱部の顧問の先生にいわれてしまう。「君は、ものすごい自分を出さない、こころを閉ざす子やな」と。
 それはそうかもしれない。しかし、じゃあどうすればいいのか、彼は途方にくれたことだろう。吃音がもたらす厚い壁は、自分で作り出したものかもしれないが、それは作らざるをえなかった防壁であり、そのなかでかろうじて自分を維持できるしくみだった。なぜそうしなければならないのか、どうすればそこから脱け出せるのか、それは周囲ではなく、だれよりも本人が自分に向けなければならない問いかけだったろう。その問いかけに、当時の彼は答えることができなかった。いまそれを語れるようになったということは、果てしない堂々めぐりのあげく、いつしか壁を抜け出していたということだったのではないだろうか。
 ここまでこられたのは、おなじ仲間との出会いが大きかった。そこで彼は目を開かれ、新しい世界に入っていくことができたからだ。いまでは自分が吃音に対してどういう心理状態にあるかを把握し、整理できるようになったというから、克服したとはいえないまでも、吃音との関係を以前にくらべてずいぶんちがったものにしているといえるだろう。しかしそれでもまだ、こころの底に鍵をかけているところがあるんですよと、テレビカメラの前で率直に語ってくれた。
 その長い話は、まだ先へとつづくのである。
 最近、彼はアルバイトで水泳のインストラクターをはじめるようになった。子どもたちに泳ぎ方を教えながら、「名前よぶとき、だいぶ詰まる」ことがあって、危ないときもあったが、「ごまかしまくって」なんとかやってきた。それが最近、仕事が終わったところで先輩にいわれてしまったという。お前、がんばってるな、だけど「これからは、どもらずにやろうな」と。それを「さくっと」告げられた経験を、苦笑いしながら話す胸のうちには、かなわんなあという思いと、どうにかなるさという居直りとが交錯していたことだろう。
 吃音をめぐる彼の物語は、いまなおつづいているのである。いや、吃音者はみな、終わることのない物語を刻みつづけている。それは一人ひとり異なっていて、みなおどろくほどよく似た部分をもっている。
 サマーキャンプでは、そうした物語が無数のさざめきのように、ときに深い沈黙をはさみながら語りあわれていた。そうしたことばと沈黙のはざまで、参加者はみなそれぞれに考えていたことだろう。吃音とはなにか、吃音を生きるとはどういうことか、なぜそれを生きなければいけないのか、それはなぜ自分の課題なのかと。しかしそうした困難な課題に判で押したような答がみつかるはずもない。いやどれほど考えても、そもそも答はないのかもしれない。答がないところでなおかつ考えなければならないとき、人はほんとうに考えているのかもしれない。
 取材者としての僕は、そのまわりをうろうろしているだけだった。ただはっきり感じることができたのは、そこで語り、語られる人びとの集まりのなかに、たしかな場がつくられ、その場をとおしてさまざまなつながりが生みだされているということだった。それはおそらく、絆とよぶことのできるつながりなのだろう。その絆が、吃音をめぐる苦労と悩みから生みだされるものであるなら、そしてまた生きづらさをともにするところから生み出されるものであるなら、僕はそうした絆をすでにそれまでにも目にしていたと思う。それも一度ならず。すでに見たことがある、その場にいたことがあるという、なじみ深さをともなった記憶は、キャンプにいるあいだ、いや最初に伊藤さんのことばに出会ったときから、僕にまとわりついていたものだと思う。
 それはもう20年も前、先天性四肢障害児との出会いにさかのぼる記憶でもある。その後のろう者とよばれる人びととの出会いと、そしてまた精神障害をもつ人びととの出会いにくり返し呼び覚まされた記憶なのだ。その核心にあるのは、自分ではどうすることもできない生きづらさを抱え、苦労し、悩みながらその経験を仲間と分かちあってきた人びとの姿なのである。彼らがみなそれぞれにいうのは、「そのままでいい」ということであり、「治さなくていい」ということであり、「どう治すかではない、どう生きるかなのだ」ということなのである。
 たとえばそれは、北海道浦河町の「べてるの家」とよばれる精神障害者グループの生き方であった。
 彼らとかかわってきた精神科ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、精神病の当事者に、はじめから「そのままでいい」といいつづけてきた。精神病はかんたんに治る病気ではないし、かんたんに治らないものを治せといわれつづけることは、その人の人生をひどく貧しいものにしてしまう。そうではない、病気でもいい、そのままで生きてみようと向谷地さんは提案したのである。そのことばで、どれほど多くの当事者が救われたことだろうか。彼らの多くは、病気は治らなくても生きることの意味を探し求めるようになり、妄想や幻覚は消えないのにむしろそれを楽しもうとさえしている。
 おまけにそこには、川村敏明という奇妙な精神科医がいて、「治さない医者」を標榜し胸を張っている。医者が治そう治そうと必死になったら、患者は服薬と闘病生活を管理されるだけの存在になってしまう。それがほんとうに生きるということだろうか。川村先生はそういいながら、患者を診察室から仲間の輪のなかにもどすのである。もどされた患者は病気の治し方ではなく生き方を考え、お互いに「勝手に治すな、その病気」などと唱和している。
 そこには、「この生きづらさ」をどうすればいいのかと、深く考える人びとがいる。その生きづらさは、それぞれが自ら引き受けるしかないものであり、だれもその生きづらさを代わって生きることはできないという、諦念というよりは覚悟ともよぶべき思いが共有されている。ゆえに浦河では苦労をなくすのではなく、いい苦労をすることが求められ、悩みをなくすのではなく、悩みを深めることが奨励される。みんながぶつかりあい、困難な人間関係を生きながら、しっかり苦労しよう、悩んでみようと声をかけあいながら、すべての場面で笑いとユーモアの精神を忘れない。彼らの生き方そのものが、ひとつのメッセージとなっている。
 そういう人びとを取材していると、さまざまなことが見えてくる。
 そのひとつが、当事者の力というものだ。
 「べてるの家」は、いまや全国ブランドといわれるほど有名になったが、見学者はそれがソーシャルワーカーや精神科医のつくりだしたものと勘ちがいしてしまうことがある。しかし浦河で真に状況を切りひらき、暮らしを築いてきたのは精神障害の当事者たちであった。生きづらさを抱え、苦労と悩みを重ねてきた彼らが仲間をつくり、場をつくり、自らの経験をことばとして物語にしてきたのである。
 まったくおなじことが、吃音親子サマーキャンプについてもいえるだろう。
 伊藤さんをはじめとするスタッフは、もう15年あまりこのキャンプにかかわっているという。そこでどれほどたくさんの子どもや親が救われたことだろう。けれどもしこのキャンプが、吃音の子どもたちを守り、助けることだけを考えていたのであれば、これほど豊かな場をつくりだすことはできなかったはずだ。その豊かさは、使命感に燃えるリーダーがつくりだしたものではなかったのだ。
 キャンプになんどか参加した女子中学生の二人が、ともに吃音でもいい、治さなくてもいい、あるいは治したくないとまでいっている。中学生でそこまでいえるのはすごいことだし、そういえるまでにはいろいろな苦労や悩みがあったことだろう。そのいい方は、これからも揺れたり変わったりするかもしれない。しかしふたりがこのキャンプで変わったということは、まぎれもない事実なのだ。灰谷健次郎がいうように、変わるということは学んだことの証でもある。子どもたちはキャンプにきて、確実に生きることを学んでいる。そして彼らが、だれに教えられるのでもなく自ら学び、変わっていくということ、そのことが伊藤さんを支え、そしてまたキャンプにきたみんなを支え、動かす力になっている。
 あなたはひとりではない。あなたはそのままでいい。そしてあなたには力があるという、そのことばは、伊藤さんが子どもたちに送るメッセージであるとともに、子どもたちが伊藤さんに送るメッセージでもあるのだと思う。

 斉藤道雄 1947年生まれ、慶應大学卒業、TBS社会部・外信部記者、ワシントン支局長、「ニュース23」プロデューサー、「報道特集」ディレクターを経て、TBSテレビ報道局 編集主幹。
著書『原爆神話五十年』中公新書 1965年
  『もうひとつの手話』晶文社 1999年
  『悩む力 べてるの家の人々』みすず書房 2002年は、講談社ノンフィクション賞受賞

 −べてるのいのちは話し合いである。ぶつかりあい、みんなで悩み、苦労を重ねながら「ことば」を取り戻した人びとは、「そのままでいい」という彼らのメッセージを届けにきょうも町へ出かけている。−    『悩む力』より

                「スタタリング・ナウ」2005.11.22 NO.135より


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/26

「治したくない」と「吃音を治す努力の否定」

「治したくない」と「吃音を治す努力の否定」

 斉藤道雄さんが、『治したくない』の著書を送って下さったことをきっかけにして、僕が長年考え、実践してきたことと、斉藤さんがこれまで取材し、考えてこられたことを紹介しながら、僕が提起した「吃音を治す努力の否定」について、しばらく考えてみようと思います。
 「吃音を治す努力の否定」の否定から、1976年に公表した「吃音者宣言」に至る道筋が第一段階です。その後、交流分析、論理療法、アサーション、認知行動療法、ナラティヴ・アプローチ、当事者研究、レジリエンス、オープンダイアローグ、健康生成論、ポジティブ心理学など、様々な領域と結びついたのが第二段階です。1970年頃から継続して続いている一本の道です。
 まあ、横道に逸れないで一筋道を歩んできたものだと感心します。次の第三段階は、「吃音哲学」の構築になるのでしょうか。今、まさに世界は混沌とし、新型コロナウイルスに翻弄されています。これまでのような生き方が通用しなくなると思われます。第一段階、第二段階を整理し、新たの道を模索できるのは楽しいことです。その時、斉藤道雄さんの『治したくない』は僕に新たな気づきを与えてくれるものと思います。じっくりと、丁寧に読みこんで、気づいたこと、感じたこと、考えたことを、斉藤さんに返していこうと思います。

 「伊藤伸二さんでしょうか。私は東京の民間放送のTBSというテレビ局でディレクターをしている斉藤道雄といいます。一度、大阪に出向いてお話をお聞きしたいのですが…」
 この電話の後、すぐに斉藤さんは大阪に来られました。自宅で3時間近くいろいろと質問を受けたりしながら話した後です。
 「やはり、伊藤さんは、私が考えていた、その通りの人でした。新しくTBSで始まるドキュメンタリー番組の第一回に伊藤さんの活動を紹介させて下さい」 
 ちょうど、吃音親子サマーキャンプが近づいていたこともあって、キャンプの3日間の密着取材、大阪教育大学の集中講義の様子、僕の自宅でのインタビュー、大阪吃音教室の取材をもとに、『報道の魂』が完成し、放映され、その後、TBSニュースバードの43分の「ニュースの視点」でも放映されました。
 その後も、おつきあいは続き、斉藤さんがべてるの家の取材のために、北海道の浦河に家をつくられた、そのご自宅にも招待していただきました。そこで出会ったのが、向谷地生良さん一家で、その縁で、向谷地さんに2泊3日の吃音ショートコースに講師として来ていただくことができました。不思議な縁でした。『吃音の当事者研究−どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(金子書房)も出版されました。
報道の魂 ネット 50 「報道の魂」の放送を特集した日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」の、「場の力」と題した巻頭言を紹介します。
 
  
場の力
      日本吃音臨床研究会代表 伊藤伸二

 斉藤 道雄様
 「勝手すぎる書き方かもしれず、ご希望に添えなかったかもしれません」の前置きの後、「メッセージ」と題した力のこもった文章を一気に読みました。読み進み、涙がにじんできました。ここに私たちを深い部分で共感し、理解して下さる人がいる。大きな力強い援軍を得た、そんな気がしました。うれしい原稿ありがとうございました。
 長い時間カメラが回っていました。吃音親子サマーキャンプの2泊3日間、大阪スタタリングプロジェクトの大阪吃音教室、さらに私の自宅や大阪教育大学にまで来て下さいました。かなり大量の取材テープだったことでしょう。私もインタビューでいろんなことを話したように思います。
 取材に来られた日の大阪吃音教室は、今秋の吃音ショートコース、「笑いとユーモアの人間学」の前段階として、自分の吃音からくる失敗やかつては嫌だった体験を笑い話として笑いとばす講座でした。笑いやユーモアについて考える時間であるため、大きな笑い声に満ち満ちていました。斉藤さんに代わって取材に来られた方が、予想をしていた内容、雰囲気とは全く違うと本当に驚いておられました。編集作業が始まった頃、斉藤さんからも「どの部分を切り出しても、伊藤さんたちの笑いや明るさが際だっている。吃音に悩む人にこのまま紹介したら、どのようなことになるか、ちょっと心配もあります。でも、本当のことだし…」といったような内容のメールをいただいていました。苦労をしながらの編集作業だったと推察します。
 「報道の魂」は、私たちの明るさよりもむしろ吃音に悩む人々への思いに満ちていました。どもる人のもつ苦しみと、苦しかったからこその明るさを表現して下さっていたように思います。
 世界の日本の吃音臨床・研究の主張は依然として「吃音の治癒・改善」を目指しています。私たちの考えや実践は少しずつですが理解されるようになり、仲間も増えました。しかし、少数派であることに変わりはなく、時に大きな壁、流れに空しさを感じることもあります。そんな時、いつも私たちを励ましてくださるのは、不思議なことに言語障害の研究や臨床にあたる人々よりも、今回のように、違う領域で活動をされている方々です。
 以前、NHKの海外ドキュメンタリーで「もっと話がしたい、吃音の克服への道のり」という番組がありました。吃音が改善され、幸せになった、だから、「吃音は治る、改善できる」というような内容だったように記憶しています。今回、メディアを通し、あのような切り口で吃音が扱われたのは恐らく世界でも初めてのことではないでしょうか。「どもっていても大丈夫」「吃音に悩むことにも意味がある、悩んだからこそ今がある」という私が伝えたいことのほとんどは、あの番組の中で、私以外のどもる人や子どもたちも語っていました。本当によく切り出して下さったと感謝しています。
 「どもりは差別語か?」の問いかけに対する高校生たちの意見。話し合いをしたこともないテーマに、自分のことばで自分の意見を語る子どもたちに、本当にびっくりしました。私たちが考えている以上に子どもたちは育っていました。子どもたちのすごさに驚き、誇りに思えました。
 斉藤さんが最後に書いて下さったように、あの映像から私が一番勇気づけられました。私が主張し活動してきたことは間違いではなかった。あんなに大勢の子どもや親やどもる人たちが私に、
「これまで言ってきた、そのままでいいんだよ」
「あなたはひとりじゃない。大勢の仲間がいる」
「あなたには、40年も継続してきた力がある」
 このメッセージを送ってくれたんですね。また、斉藤さんがこれまで取材されてきた、先天性四肢障害の人、ろう者、べてるの家の精神障害者と斉藤さんを通してつながることができました。私の主張は何も奇をてらったものでも、非現実なことでもなく、人がそれぞれに豊かに生きていくためのキーワードなのですね。これからも、私たちの考えや活動を見守って下さい。ありがとうございました。出会いに感謝します。   伊藤 伸二
「スタタリング・ナウ」2005.11.22 NO.135


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/25

斉藤道雄著『治したくない』は、小さな援助論

斉藤道雄さんの「治したくない」は、宝石箱のような本 
 
 斉藤道雄さんにお送りいただいた本は、宝石箱のような本です。
 「べてるの家」とかかわっておられた時代から知っていた精神科医の川村敏明さんの診療所「ひがし町診療所」にかかわっている人々の日常を、斉藤道雄さんが温かいまなざしでみつめるルポルタージュです。いただいた手紙には、映像を超えてとありますが、読み進めていると、診療所にカメラを据えて、ずっとフィルムを回し続けて撮ったドキュメンタリー映画を見ているようです。
 登場する精神障害の当事者、ソーシャルワーカー、看護師さんたちの生の声がそのまま拾われています。ひとつひとつのエピソードが読み切りなので、短編小説を読んでいるようです。そのひとつひとつに、たくさんの言葉がちりばめられて、まるで宝石箱のようです。登場する立場の違う人の言葉をマーカーで色分けをすれば、華やかな花畑のようになりそうです。実際にそうしてみようと書きながら思いました。
 「病気の話をしても先生は関心をもたない。けれど病気を通して自分を語る、自分の苦労を語るのであれば先生はよろこんで聞いてくれる」は斉藤道雄さんの言葉。
 「ぼくはね、ほかの人のちがいは何かって、自分で解釈したら、その人のいいところっていうか持ち味を一生懸命探しているんですよ。治しているんじゃないんです」は、川村敏明さんの言葉。
 これらのひとつひとつが僕の胸には響きます。うなずくことばかりです。
 「半分治しておくから、後の半分は仲間に治してもらえ−医者が出番を減らすとき、精神障害をかかえる人々が主役になり、新たな精神医療が始まる」
子どものための小さな援助論 これは、本の帯のことばです。これは最近引用として使うようになった、精神科医の鈴木啓嗣さんの『子どものための小さな援助論』(日本評論社 2011年)に通じます。
 対人援助に関わる人々に是非読んでいただきたい本です。
 
 斉藤道雄さんに次のようなお礼の手紙を書きました。

 
斉藤道雄様
 新型コロナウイルスの影響はいかがでしょうか。
 いろいろなことがストップしてしまったようです。私は、3か月ほどがなくなったような、不思議な感覚の日々を過ごしいます。
 このたびは、ご著書をお送りいただき、ありがうございました。封を開け、飛び込んできた本のタイトル『治したくない』に、斉藤さんの、にやっとした顔が浮かびました。『治りませんように』から進化してきましたね。
 「治したくない」を見た瞬間、斉藤さんが密着取材をして下さった、第16回吃音親子サマーキャンプを思い出しました。何人かの子どもたちにインタビューされていましたが、その中に、しおりちゃんという、当時中学1年生の女の子がいました。斉藤さんが「どもっているままでいいの?」と投げかけられたとき、しおりちゃんは「はい、治らなくていいです。というか、治したくないです」と答えています。
 インタビューを受けた高揚感から発せられたことばかもと思いましたが、どもる子どもたちが、短いながらも、どもりながら生きてきた中で考えついた、到達した究極のことばだったんだろうと思いました。そのしおりちゃん、昨年、お母さんから、同じくサマーキャンプに参加していた、私たちもよく知っている男の子と結婚したと連絡がありました。しっかりと自分らしく生きているようです。

 最近、「小さな援助」ということを伝え始めています。
 「吃音を治す努力の否定」を言い始めて45年以上たっています。私の考えがどうしたら理解してもらえるか、あの手この手を考えたとき、この切り口もありだと思ったのが、かなり以前に読んで、ずっと頭の奥にあった、精神科医鈴木啓嗣さんの本『子どものための小さな援助論』です。言語聴覚士が制度化されたために、「治したい」人々が増え、私はますます戸惑っています。どもっていると大変だ、かわいそう、だから、完全でなくても少しでも軽くしてあげよう、そうしてあげることは子どもたちの幸せにつながるはずだ、これらの善意の援助が社会の常識としてますます大手を振って大きな道を歩き、私はどんどん片隅に追いやられていきます。
 その私を常に応援し続けてくれているのが斉藤道雄さんの存在であり、ご著書の『悩む力』、『治りませんように』(みすず書房)でしたが、今回の『治したくない』が応援団に加わりました。
 本の中には、ワーカーの伊藤恵里子さんの「あたしたちが決めるコースに乗せるんじゃなくて、その人に必要な生活の支援ってなんだろうなみたいなこと、やっぱり考えていて」ということばがあります。
 また、「患者を、当事者を、医療者や専門職の考えた形に変えていくのではなく、医療者や専門職が自分たち自身を変えてゆくこと。彼らを変えるのではなく、自分たちを変える。そこには自分たちが変われば彼らもまた変わるという期待があり、手応えがある」との斉藤さんの書かれたところもあります。

 同じようなにおいのすることばや文章に出会い、とてもうれしくなりました。
 ゆっくりと読ませていただきます。本当にありがとうございました。

 今年、予定されていた小児科医会の研修会をはじめ、講演会、学習会、講義がほぼキャンセル、または延期になりました。動けないなら、そこでできることをと思い、ブログ、Twitter、Facebookなどで発信しています。仲間が、日本吃音臨床研究会のホームページにFacebookを埋め込んでくれたので、「ほぼ日刊 伊藤伸二吃音新聞」というタイトルで、発信中です。お時間がありましたら、のぞいてみて下さい。
 斉藤さんのこの本のこともぜひ、紹介させて下さい。斉藤さんとの出会いも、そして斉藤さんが以前書いて下さった文章も、紹介していきたいと思っています。お許し下さい。
 言語病理学の世界では四面楚歌でも、私と同じように考える人がいることは、私の大きな支えになっています。そして、ブログなどで紹介できることもありがたいです。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/05/24

『治したくない ひがし町診療所の日々』 斉藤道雄さんの最新刊

斉藤道雄さんの最新刊 『治したくない ひがし町診療所の日々』(みすず書房) 2200円+税

 桂文福さんのネット配信のことを、昨日、ブログに書きました。文福さんとの出会い、その後のおつき合いはとてもおもしろく、それを紹介するつもりでいたのですが、その前に、斉藤道雄さんが、次の手紙を添えて、ご著書を送って下さいました。
治したくない 斉藤道雄 表紙1 
治したくない 斉藤道雄 表紙2
 「性懲りもなく、また浦河を書きました。
 書き終わって、ようやく息がつけるようになった気がします。
 もっと広く見渡し、まとめたり解説したり論を唱えたりということを試みるべきだったかもしれません。でもぼくは一介のライターとして過疎の町にとどまりました。全体は見えないけれど人間は見える、そう直感したからです。笑いと思索が、そこでは共存していました。
 ひとつ、こころがけたことがあります。
 映像を超えるということ。
 ビデオや写真を撮り、ミーティングを録音しながら取材をつづけました。映像と音声の迫力にはいつも「かなわないなあ」と思ったものです。けれどそこからが考えどころです。圧倒的な臨場感、なまなましさ、迫りくるものをふたたびことばにしてゆくこと。記録された映像音声をふくみながら、そこから引きさがって人間を浮きあがらせること。それが少しはできたか、どうか。
 この本もまた、読者に出会ってはじめて完結します。
 ご一読いただければと願っています。
       2020年5月                  斉藤道雄」


 斉藤道雄さんは、元TBSのディレクターで、僕たちの第16回吃音親子サマーキャンプを密着取材して、『報道の魂』というドキュメンタリー番組を作って下さった方です。斉藤さんとも、長いおつき合いになります。
 斉藤さんが送って下さったご著書のタイトルは、『治りたくない』です。前のご著書のタイトルは、『治りませんように』でした。

 僕は、この「治したくない」のタイトルを見た瞬間、2005年に斉藤さんが密着取材をして下さった、第16回吃音親子サマーキャンプを思い出しました。『報道の魂』の映像では、何人かの子どもたちにインタビューされていましたが、その中に、当時中学1年生の女の子がいました。斉藤さんが「どもっているままでいいの?」と投げかけたとき、彼女は「はい、治らなくていいです。というか、治したくないです」と答えています。
 インタビューを受けた高揚感から発せられたことばかもと思いましたが、どもる子どもたちが、短いながらも、どもりながら生きてきた中で考えついた、到達した究極のことばだったんだろうと思いました。言語聴覚士養成の専門学校でよくこのDVDをみせるのですが、その発言には学生たちはみんな驚きます。「治したくない」は、僕が45年前に提起した、「吃音を治す努力の否定」にも通じます。斉藤道雄さんについてはまた紹介しますが、まず、本の裏表紙のことばを紹介します。

 
北海道、浦河。そこに、精神障害やアルコール依存をかかえる人びとのための小さなクリニックがある。
 開設から6年。「ひがし町診療所」がそれまでの精神科の常識をことごとく覆しながら踏み分けてきたのは、薬を使って症状を抑えるといった「いわゆる治すこと」とは別の、まったく新しい道だった。
 医療者が患者の上に立って問題を解決しない、病気の話はしない、かわりに自分の弱さを、問題を、きちんと自分のことばで仲間に伝えること。医師や看護師が能力を最大限発揮しない、それによって人が動き出し、場をつくり、その場の空気が、やがて本当の意味での力となってゆく。
 障害のある人びとを、精神科病棟のベッドから、医師や看護師のコントロール下から、地域の中に戻すこと。グループホームで生活し、病気の苦労、暮らしの苦労を自分たちの手に取り戻すこと。そのことが、患者の側だけでなく、健常者を、町全体を、そして精神科医療そのものも変えてゆく…
 北海道、浦河。べてるの家のその先へ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/05/23

笑いとユーモアが大切な時に

桂文福さんがネット配信

 大阪吃音教室は、本来、4月10日の金曜日、2020年度の開講式を行う予定でした。
 ところが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、会場が使用できなくなり、大阪吃音教室の2020年度の開講ができないままになっています。一年中、週に一度は会っていた人たちと会えなくなり、なんだか不思議な4月、5月を過ごしています。
 セルフヘルプグループにとって、一番大切なはずの、いつもの時間、いつもの場所で会い続ける、ということができないのは、厳しいことです。ことに、今、不安を抱えている人にとっては、先が見えない不安になっていることでしょう。
 緊急事態宣言が解除され、当面、6月5日に予定されている大阪吃音教室で、久しぶりにみんなと直(じか)に会えることを願っています。

桂文福1 50 そんな折、親しくさせていただいている落語家の桂文福さんから、おはがきをいただきました。
 「コロナ、大変ですね。皆さんもお困りでしょう」から始まり、「私も今や冬眠状態!」と続きます。何かしないといけないと思い、ネット配信を始めたとのことでした。
 You Tube「たぬき小屋から福もろ亭」で検索してみて下さい。満面笑みの文福さんをはじめ、息子の鹿えもんさん、三番弟子のまめださんなど、なつかしいお顔を見ることができます。
 吃音であることを全公開している落語家・桂文福さんとの出会いも、また紹介しましょう。おもしろいエピソードがいっぱいあります。

 僕の東京での大学生活は、新聞配達店に住み込んでスタートしましたが、吃音を治すために夏休みに新聞配達店をやめ、東京正生学院の寮に入寮しました。30日間の合宿生活の後、新聞配達店には戻らずに、アパートを借りて様々なアルバイトを始めました。新聞配達店と大学校舎の往復しかなかった、生活から一変し、本当の東京生活の始まりでした。
 田辺一鶴さんが「講談でどもりを治そう」と始めたのが上野本牧亭で、すぐ近くには鈴本演芸場があり、大好きな浅草には浅草演芸場があり、よく落語を聞きに行っていました。大阪に来てからは、立川志の輔のパルコ劇場にもそれだけのために、東京まで行きましたし、大好きでつきあいのある松元ヒロさんのライブに、新宿の紀伊國屋ホールにも何度か行きました。
 東京でしか聞けなかった立川志の輔、柳家小三治が関西に来るようになって、森ノ宮ピロティホールや京都のロームシアターには必ず聞きに行っていました。この3月には、大好きな立川志の輔が「春風亭昇太の落語はおもしろい」と言っていたので、初めて聞きに行こうとチケットをとり、楽しみにしていたのですが、コロナの影響で中止になりました。

 好きな映画にも行けない、落語も聞きに行けない状態ですが、大変なのは表現者です。桂文福さんはどうしているかなあと心配していたところに、紹介したはがきがきたのです。
 「笑い・ユーモア」に関心の強い僕なので、「どもって、なまって」と自分でも言い、「どもりを個性に」している落語家・桂文福さんと、ずっとつきあいが続いているのも自然の流れなのでしょう。
 笑い、音楽、映画、演劇は、人が生きる上で必要不可欠なものです。なんとか、この大変な状況をしのいで、復活してくださることを祈るばかりです。
 まずは、桂文福さんとお弟子さんたちの元気な姿を見ることができて安心しました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/5/22 
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