伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2020年04月

應典院との不思議なつながり 3

應典院住職・秋田光彦さんによる大阪吃音教室の紹介

 應典院との不思議なつながりを、2回書いてきました。最後の今回は、應典院の住職、秋田光彦さんのご著書『今日は泣いて、明日は笑いなさい』(KADOKAWA)の中から、ひとつのエッセイを紹介します。僕の吃音人生や大阪吃音教室のことを紹介して下さいました。とてもありがたいことでした。
秋田さんの本の表紙 まず、そのエッセイの前に、『今日は泣いて、明日は笑いなさい』の〈はじめに〉から、秋田さんのことばを紹介します。

 
私が住職を務めるお寺は、浄土宗大蓮寺と應典院。この本には、そのふたつのお寺で私が寄り添ってきた人々の、あるいは立ち会ってきたいろいろな出来事を綴っています。心から共感したり、うーんと唸ったり、しみじみと切なかったり。お寺を巡るそんな心の情景を一つひとつ拾い上げました。
 大乗仏教では、他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を「大悲」といってたいせつにしています。大悲。好きな言葉です。悲しむだけ悲しめばいい。よく悲しむことによって、慈悲の心は深まっていくからです。
 その行方にほんとうのよろこびがある。そう信じたいと、思います。


 
凹んだことがあると強くなれる

 毎週金曜日の夜、ある個性を帯びた人たちが應典院に集まってきます。世代はいろいろ、男女もまちまちですが、みな同じ吃音者、つまりどもりの人々です。
 その「大阪吃音教室」は、治療のための教室ではありません。むしろ勉強会のような印象が強い。メンバーがテキストを持ち寄って、対人コミュニケーションやケア、セラピーなどについて学びあいます。そのわりにガッツリ知識や情報を得ようというどん欲さもなく、和気あいあいとして、空気はゆるい。たぶん、ここが同じ境遇の人たちどうしが、安心して集える居場所だからでしょう。
 この教室をリードしてきたのは、四十年以上自身の吃音と向きあってきた伊藤伸二さんです。日本吃音臨床研究会の会長であり、著作十五冊を持つ大学講師でもあるのですが、そういう肩書きとはまったく程遠い、気さくで、闊達なおじさんです。
 伊藤さんの前半人生は、まさにどもりとの闘いでした。小学校二年で吃音に気づき、不安と孤独に苛まれ、二十一歳で上京して、「憧れだった」東京正生学院の寮に一ヶ月入寮。ここは全寮制の吃音矯正所で、伊藤青年は絶対完治すると、一日も休まず訓練に明け暮れます。
 「結局治らないのですよ。でも、治る治らんより、ぼくには矯正所にいる同じ吃音者の存在が何よりもありがたく、ずっと心を支えられた」退寮してから、伊藤さんは吃音者どうしの自主グループをつくります。みなで悩みを語りあったり、支えあったりする。まだセルフヘルプなどという考え方はなかった時代、都会の片隅に、同じ境遇の若者たちが人づてに聞いて加わっていきました。研究会の前身です。
 「東京で大学生しながら、キャバレーのボーイのバイトをやっていましてね、客の前でどもってしまって、『ありがとうございます』が言えない。殴られましたよ。なのに、キャバレーのお姉さんもバンドマンも貧乏学生のぼくに、みんなやさしかった」
 高度成長期絶頂期の頃、すべては進歩すると国民は刷り込まれていましたが、富める者の陰には必ず貧しい者がいました。貧しくとも、互いに惹かれあい、密かに支えあって生きていたのでしょう。現場があってそこに直に関係しながら存在していることの力強さに、伊藤さんは気づいたのです。吃音とは、どう治すかではなく、どう生きるか、という問題ではないかと。
 「で、吃音と闘うことを諦めたんですよ、治すことを断念した」伊藤さんの、吃音人生の第二章の幕開けでした。二十五歳の時のことでした。
 さらにこの人の人生は華々しいのです。約束された国立大学教授への道を捨てて、カレー専門店のオーナーに転身したり、世界で初めて吃音の国際大会を提唱して成功させたり、「組織に就職したことはない」が、吃音とは片時も離れず、ずっと一緒に生きてきました。髪をかきあげ、鼻をこすり、よく笑う。七十歳に近いとは思えない若々しさ。時間があえば、週末の大阪吃音教室に顔を出します。
 「ここでは毎回、生きる意味とか人とつながることとか、みんなで真剣に話しあっている。居酒屋でもないのに、そんな話を延々やっているなんて、すごいと思いません? これ全部どもりのおかげなんだ。みんな同じだから安心できる。向きあえる。だから、ここは当事者どうしが共生する場所、『矯正から共生へ』だよね」と笑う。
 六十歳を過ぎてから仏教書をよく読むようになりました。易行往生を説いた法然上人に惹かれるといいます。
 「吃音を完治しようとするのは、難行苦行。ぼくのように諦めよう、受け入れよう、というのは誰でもできるから易行。だから、法然さんに惹かれる。どうしようもない自分をそのままでいいと受け入れたのだから」
 弱さをきちんと受け止めて、そこから人生を生き直す。
 弱さの中に、本当の強さがある。伊藤さんの生き方を見ていると、そう感じます。

    『今日は泣いて、明日は笑いなさい』 浄土宗大蓮寺・應典院住職 秋田光彦著
                (2013年 KADOKAWA P.98〜P.101)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/4/29

應典院との不思議なつながり 

應典院との不思議なつながり 2

應典院 夜桜 應典院での最後の大阪吃音教室を終え、4月から新しい会場で始まるはずの大阪吃音教室は、休会が続いています。
 USBメモリーを整理していたら、「應典院原稿」という名前で保存してある文章がみつかりました。應典院から依頼され、ニュースレター「サリュ」に掲載するために書いたものではないかなと思うのですが、確かではありません。いつ書いたのかもはっきりしません。でも、内容は、前回のブログのつづきとしては、ぴったりです。何に掲載されたのか、いつ書いたのか、明らかでありませんが、僕の書いたものには違いないようです。紹介します。


 
「東京にひとりぼっちの若者をなくそう」
 第一回東京若者フェスティバル実行委員会には、労働者、学生の枠を超え、さまざまな領域で活動するリーダーが集まった。不登校や引きこもりということばの芽生えすらなかった時代にあっても、ひとりひとりの若者は孤独であった。特に、集団就職で地方から大都会で生活する若者の孤独は深刻で、集団就職者の「若い根っこの会は」社会現象としても取り上げられるほどだった。一方、公害訴訟や公害阻止運動に取り組む人、障害運動に取り組む人、学習運動に取り組む人、反戦運動に取り組んできたグループのリーダーたちも、企業や政府の大きな壁の前には、異端者であり少数派であった。それでも仲間と連帯して活動することの力と喜びを知った人々は、「ひとりぼっちをなくそう」とたちあがったのだった。第一回若者フェスティバルの実行委員会の中には、高度経済成長の戦艦の中には乗り遅れたものの、人と人との結びつきの中で孤独から解放され、私たちのひとりひとりの力は小さくとも仲間が集まれば何かができるかもしれないと明るい社会をつくることに楽観的に考えていた人々でもあった。
 1965年、私は、私と同じように吃音に悩む人々と出会い、救われた。そして、どもる人のセルフヘルプグループをつくり、活動を始めた。
 月日は流れ、会社のために豊かな生活のためにというこれまで多くの人が信じてきたひとつの価値観は崩れ、壊れかけていた共同体は跡形もなく消失した。目標を失い、若者は戸惑い、立ち止まった。ひとりひとりがばらばらになり、自分の殻に閉じこもり、仲間を求める力さえ失った。からだが、心が、ことばが、ひとりひとりの中に閉じこもった。不登校や引きこもりのあまりの数の多さに国さえも慌て始めたほどだ。
 そのような中、大阪セルフヘルプ支援センターでは、病気や障害だけでなく、様々な生きづらさを抱え、ひとりで悩んでいる人と人とを結びつける、セルフヘルプグループ活動のさらにはグループとグループを結びつける活動を始めた。
 その活動の中で知り合った読売新聞・森川明義記者が「伊藤さんが興味を持ちそうなお坊さんに取材に行くよ」と話してくれた。急なことだったが、同行をお願いした。應典院の秋田光彦住職との初めての出逢いだった。森川記者のインタビューに秋田さんがこれまでの應典院の活動、これからの展望を淡々と、しかし熱く語っているそばにいて、私もこの應典院の輪の中にいつの日か入っていくかもしれないという予感がしていた。
 そのときは意外に早く訪れた。独自のことばからだ観をもち、全国的にからだとことばのレッスンを展開している「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」を私が主催して大阪で定期的に開くことになったからだ。人が人を恐れ、人とのふれあいを拒否していくこの時代は、じかにからだとからだが触れ合うこと、ことばに触れていく、自らのことばとからだを取り戻そうとする竹内敏晴・からだとことばのレッスンを私が主催し、定期レッスンを大阪で開くとき、私には應典院を会場にすることしか思い浮かばなかった。應典院でレッスンを始める旗揚げとしての講演会を應典院寺町倶楽部の「寺子屋トーク」として組み込まれ、吹雪のように雪が舞う寒い悪天候にもかかわらず、150名という人々が本堂ホールに集まったとき、現代を生きる人々は自分のことばやからだ、そして他者と出会うことを求めているのだということを確信した。
 定期レッスンには、九州や関東地方からも人が集まり、3月の劇の上演を主体にした公開レッスンには遠く北海道からかけつける人もいた。こうして、應典院で開かれる定例レッスンは、定着していったのだった。
 一方、私は寺町倶楽部の理事となり、コモンズフェスタや寺子屋トークなどの企画にも加わらせていただいた。自分の興味がある自分の好きなことを何でもしていい、應典院を舞台に人々が集まり、何かと出逢うきっかけとなればいい。40年以上も前の、若者フェスティバルと名づけた活動は2年しか続かなかった。ある会場を設定して年に一度集まるというものでは若者が出会う場とはなり得なかったのだ。
 應典院はどっしりと天王寺の下寺町にいつもある。そこへ行けば、何かと出会える。興味をもったとき、應典院に行けばいいし、興味がなくともその空間を楽しみに行けばいい。そうすれば、思いがけない、生涯をかけて取り組むものに出会えるかもしれない。私が実際にそうだった。葬式仏教にどっぷりとつかる仏教や寺が嫌いな私は、興味を引かれながらも、仏教からは遠ざかっていた。しかし、毎月毎月、應典院という場に通い続ける中で、自然にこれまで本棚の隅に追いやられていた法然や親鸞の本に手をだすようになった。「風狂に生きる」の講演会での町田宋鳳さんの講演は、おもしろかったし、今は定期的にダンマパダを読むの学習会にも参加している。仏教が私にとって身近なものとなったのは、應典院という場に行き続けてきたおかげである。不登校や引きこもりの青年がふと應典院に立ち寄り、何かと出会えたらいいなあと思う。
 「東京にひとりぼっちの若者をなくそうと」大上段に構えた私たちが行ったような集会には今どきの若者は目もくれなだろう。しかし、好きな演劇を若者たちが一所懸命取り組んでいる。独自のアートを表現する人がいる。映画の試写会やトークの会がある。若者が興味を抱く企画が次々と持ち込まれ、それが実現していく。
 それらにふと立ち寄った時の應典院の場の力が少しでも若者たちに触れて行ってくれたら、うれしい。年間3万人もの若者が出入りする、出逢う場が應典院という場のスピリチュアリティがその人を静かに包み込み、何か新しいことと出逢う、新しい出逢いが起こっているかもしれない。私の活動しているどもる人のセルフヘルプグループのミーティング、「大阪吃音教室」のこれまで使っていた大阪市の会場が使えなくなった。金曜日の同じ時間、同じ場所でミーティングが続けられ、参加できない人たちにとってもミーティング会場、アピオ大阪がどもる人にとってある種心のふるさとになっていた。参加しなくてもあそこに今この時間、仲間が集まっていると思うだけで力がわいてくるという人がいた。その使い慣れた会場が使えなくなると聞いたとき、私はこれはピンチだが、大きなチャンスだと思った。竹内敏晴からだとことばのレッスンと同じように、應典院を会場にすれば、大勢の若者たちが集まる場にすれば、その場を通して吃音のテーマとして集まる人々が演劇や様々なアーツに、そして何よりも仏教に興味をもってくれるようになれば、私たちが提唱する、どもりをどう治すかではなく、吃音と共に生きるということがさらに深く伝わるのではないかと思った。それは、吃音に悩む人々にとって大きな力となると思ったからだ。
 2008年4月、應典院との新たな出逢いが始まる。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/4/27 

大阪吃音教室の会場だった應典院

應典院をめぐる不思議なつながり

 應典院での大阪吃音教室の最後の講座が3月27日に行われたことを、前回書きました。
その應典院とのつながりは、とても不思議なものです。人と人とはこうしてつながっていくのかと、大きな縁を感じます。
應典院入り口
應典院入り口2
 1986年、第一回吃音問題研究国際大会を、僕が大会会長になり、京都で開催しました。世界11か国、400人が集いました。その国際大会で、世界の人々が出会う最初が大事だと、「出会いの広場」を担当してくださったのが九州大学の村山正治さんでした。村山さんの九州久住高原でのベーシック・エンカウンターグループに参加していた僕は、参加して3回目かに、ファシリテーターをしてみないかと誘われました。臨床心理の勉強をしてきたわけではない僕に声をかけて下さったとき、僕がそのような役をしてもいいのかと思ったのですが、セルフヘルプグループの経験があるから大丈夫だと背中を押してもらい、引き受けました。その記念すべき初ファシリテーター体験をしたとき、私と組んでくださったのが、九州大学の高松里さんでした。セルフヘルプグループを研究していた高松さんから、大阪セルフヘルプ支援センターを紹介してもらいました。早速、そこに参加し、そのメンバーと、セルフヘルプグループについて研修をしたり、合宿をしたりしました。そのメンバーの中に、読売新聞記者の森川明義さんがいました。森川さんは、私のセルフヘルプグループで生きた半生を7回シリーズで写真付きの大きな記事にしてくださいました。

 ある日、森川さんから電話があり、「1997年に再建され、参加型寺院として、また人と人とが出会うお寺として有名な應典院を取材するが、よかったら一緒に来ませんか」と誘われました。好奇心の強い僕は喜んで取材に同行しました。そして、住職の秋田光彦さんの話をたくさん聞きました。明治大学出身であること、無類の映画好きであること、人との出会いを大切にしていることなど、共通することがとても多く、僕も話の中に加えていただきました。親しくなって、小劇場のような本堂ホールでのイベントなどを企画する、應典院寺町倶楽部の運営委員メンバーにも加えていただきました。
 その活動の一環として、当時東京と名古屋で定期的に行われていた「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」を大阪・應典院で開くことを提案しました。竹内さんもとても喜んでくださいました。
 そして、その旗揚げのための講演会が、1999年2月に開かれました。みぞれまじりの寒い悪天候の中、150名ほどの人が集まり、翌月からレッスンが始まりました。レッスンは、毎月第2土・日の2日間、欠かさず開かれ、それは2009年7月まで続きました。竹内敏晴さんは、その2ヶ月後の9月にお亡くなりになりました。
 應典院が、大阪吃音教室の会場になったのは、2008年4月からでした。それまで使っていた会場が使えなくなり、竹内さんのからだとことばの定例レッスンの会場である應典院にお願いしたのです。

 不思議なつながりは、ここで終わりませんでした。應典院の小さなニュースレターで私のインタビュー記事を目にして、東京から私に会いに来てくださったのがTBSディレクターの斉藤道雄さんでした。斉藤さんの、北海道浦河にある別荘でお会いしたのが、北海道・浦河のべてるの家の向谷地生良さんです。
 九州大学・村山正治さん、九州大学・高松里さん、読売新聞記者・森川明義さん、應典院の秋田光彦さん、TBSディレクターの斉藤道雄さん、北海道・浦河のべてるの家の向谷地生良さん。こうして人と人とがつながっていくのだと、不思議な縁を思います。

 このつながりが、ひとつの成果として、書籍や冊子の形でまとまっています。

朝日福祉ガイドブック『セルフヘルプグループ』(朝日新聞厚生文化事業団)
  日本吃音臨床研究会ホームページの「セルフヘルプグループ」のコーナーで全文掲載
TBSのドキュメンタリー番組「報道の魂」
『吃音の当事者研究〜どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(金子書房)
『竹内レッスン〜ライブ・アット大阪〜』(春風社)
  大阪でのレッスンが一冊の本に。竹内さんのエッセイと、2つの座談会を掲載。
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/4/26

吃音ブログ コロナにまけず、続けます

應典院での最後の大阪吃音教室

 ブログを読んで下さっている方々から、ブログが更新されないことに、安否を気遣うメールをいただきました。大阪でコロナウイルスが広がっていることもあり、心配していただいたようです。ありがたいことです。
 日頃から今の政府に大きな不信感と絶望感をもっているのですが、特にコロナ対策の無能さとドタバタぶりに、また世界のトップリーダーとのあまりの能力、人格の違いにただあきれるばかりです。医療や介護の崩壊、教育の崩壊、弱い立場にある人たちの窮状などを映像で見るにつけ、胸が締めつけられる、これまでほとんど感じたことのない不思議な感情に支配されています。

 子どものころから感受性が強く、浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺されたときは、ショックが大きくて、次の日、学校へ行けなかったくらいです。
 でも、あまり今の状態に支配されているわけにはいきません。僕のブログは、現在の社会情勢に何かコメントするものではなく、「吃音に特化したブログ」なので、周りにあまり影響されずに、これからは書いていこうと思います。春のいい季節に予定していた旅行もキャンセルし、全国各地での講演会や吃音キャンプもそのほとんどが中止か延期になりました。ここはゆっくりと思索をしなさいと言われているのかもしれません。

 後数日で僕も76歳になります。いよいよ終活が現実のものとなりました。「吃音」の僕のこれまでの取り組みを総括し、明日への提言を整理する時期にきたようです。僕の人生を振り返る自伝的なことも書いていきたいと考えるようになりました。
 何度も、ブログが更新できなかった時、これから、これからと言って、まるで「オオカミ少年」のようですが、また書いていこうと思います。
 まず、3月末に書いていた、大阪吃音教室についてです。


 3月27日の大阪吃音教室は、2019年度の最後の教室でした。そして、應典院での最後の大阪吃音教室でした。
應典院入り口2應典院 大阪吃音教室張り紙應典院研修室B さかのぼれば、2008年、それまで20年以上大阪市の委託を受けて長く会場として使用していた大阪市立労働会館が、橋下徹・大阪市長の文化や福祉などの切り捨て路線で使えなくなり、会場探しをしました。そして、すぐに、思い浮かんだのが、應典院でした。應典院の住職だった秋田光彦さんに大阪吃音教室の会場として、年間契約をお願いしたところ、快く受けていただき、それから、毎週金曜日、應典院の研修室Bが、どもる人たちの集まる会場として定着しました。

 僕と應典院との出会いは、そこからまた先にさかのぼります。
 1999年2月11日、雪まじりの冷たい雨の中、大阪での「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」の旗揚げとして、竹内さんの講演会を開催しました。150人を超える観客が訪れ、應典院の本堂ホールは、立ち見まで出て、盛況でした。そして翌3月から、竹内さんが亡くなる2009年7月まで、應典院は、大阪での定例レッスンの会場でした。僕たちは、毎月第2土・日曜日、竹内レッスン事務局として、應典院に通い続けました。

 2008年4月11日、大阪吃音教室の開講式が、應典院で行われました。機関紙「新生」によると、そのときの参加者は、25名、内初参加は4名とのことでした。松本進さんの司会で始まった開講式は、徳田和史さんの自己紹介ゲーム、僕の吃音何でも質問コーナーという内容でした。以来、12年間、應典院での大阪吃音教室が続いてきました。
應典院 例会風景應典院 伸二アップ
 その應典院も、今年の3月末、事情で一般利用ができなくなり、3月27日が、應典院での最後の大阪吃音教室となったのでした。門をくぐったとき、僕は、少し感傷的な気持ちにもなりましたが、教室そのものがなくなるわけではないので、すぐにいつもの教室の雰囲気の中に入っていきました。講座のテーマは、嶺本憲吾さん担当で、「どもりについて、みんなで語ろう」でした。初参加の大学生の話を中心に、みんなで考え、みんなで語り合った、いつもの講座でした。

 セルフヘルプグループで大切なことは、いつもの時間、いつもの場所で、集まり続けるということです。まさに、ミートし続ける、ミーティングです。應典院を訪れた大勢のどもる人の人生をどっしりと受け止めてくれた應典院、長い間、ありがとうございました。
 4月からは、アネックスパル法円坂に会場を変えて、大阪吃音教室は続きます。
 僕も、大阪にいるときは必ず参加しようと思っています。皆さんも、会い続けましょう。集まり続けましょう。

 ここまで、3月に書いていたのに、投稿しないでストップしている内に、コロナのため、新しい会場を使うことができなくなりました。いつ大阪吃音教室が再開できるか分かりませんが、またみんなが直接出会えるまで、じっくりと吃音について考えていこうと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/24

吃音に悩んでいたころの、我が心の歌 ガード下の靴みがき (3)

夢や希望を紡ぐ対話
 
 2013年夏、鹿児島市で開催された全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会鹿児島大会の吃音分科会の助言者として発言する冒頭に、僕はこの歌を歌いました。いきなり歌を歌ったことに、参加者はみな驚いたことでしょう。分科会が終わった後、分科会会場の責任者の校長先生が、「いやあ、びっくりしました。このような教育の研究協議の場で、講師が歌を歌うなんて、長い教員人生でも初めてです」と言っていました。僕としても、最初から歌を歌うことなど用意していたわけではありません。
 ことばの教室での、どもる子どもの指導についての事例が出されて、研究協議がなされていく進行をしていました。会場からたくさんの発言が出され、「どもる子どもにとって、この指導が本当に幸せに繋がるのか」の議論が展開していきました。その中で、僕は吃音に悩んでいた時のこと、悩みから解放され、今とても幸せに生きている人生を振り返り、何が一番苦しくて、どんなことばを悩んでいる小学生の僕に投げかけてもらったら良かったかを考えたとき、ふと、宮城まり子さんの「ガード下の靴磨き」の曲を久しぶりに思い出したのです。どもる子どもの教育にとって何が大切か、「夢や希望」を自分自身が感じ取れることこそが大切だと考えました。そして、この歌を歌わないと僕の話は展開できないと思ったのです。どもるとか、どもらないとかの問題ではなく、「夢や希望」が持てなかったことが一番辛いことだったからです。どもっていても、自分の夢があり、希望があれば、多少の辛さや苦しさは我慢ができたことでしょう。
 吃音に悩んでいた学童期・思春期の僕にとって、一番辛かったのは、将来への見通しが全くつかめず、夢も希望もなくしていたことでした。吃音とは何か、吃音が自分にどのような影響を与えているのかなど全く把握できずに、自分の力ではとても対処できるとは思えなかったからです。将来が見通せない不安や恐れは、一人で吃音に悩んできた僕にとっては、とても大きなものでした。そんな時、いつも口ずさんでいたのが、宮城まり子さんのこの歌だったのです。この人は、僕の辛さを分かってくれていると思えたのです。
 「子どもたちが、社会の一員として、希望をもって暮らしていくことを目指していた」
と、宮城まり子さんは言います。
 
 「言語訓練をして、少しでも吃音を改善して、君の夢を実現しよう」ではなく、「どもることは決して悪いことでも、劣っていることでもない。君は君の人生を、どもりながらしっかりと生きていけるのだ」と、これまで多くのどもる人のたどってきた道を、体験を示しながら、「君は何がしたいのか」と、どもる子どもと対話を続けたいのです。僕の仲間のことばの教室では、吃音治療、言語訓練しか考えられないアメリカ言語病理学とは違って、子どもと「夢や希望」を含めて、これからの人生についての対話を続けています。
 『どもる子どもとの対話−ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力』(金子書房)には、いきいきとした子どもとの対話例が紹介されています。

 最近、NHKで放送が始まった作曲家の古関裕而の少年時代の主人公に、音楽の藤堂先生が語る場面があります。どもるため音読がうまくできなかったり、運動が苦手で劣等感が大きくなっている少年に、「うまく話せるようになろう」「練習をして速く走れるようになろう」なんて言いません。
 藤堂先生は、少年にこう言います。
「人よりほんの少し努力するのがつらくなくて、ほんの少し簡単にできること、それがお前の得意なもんだ。それがみつかれば、しがみつけ。必ず道は開く」
 こうして少年は音楽、作曲の道にすすんでいくのです。

 出来ないことや苦手なことを治したり、克服したりする道ではなく、「そのままのあなたのままで」と、子どもと「夢や希望」を語る大人でありたいと思います。
 今回で、宮城まり子さんについてのブログは終わりとします。

 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/13

吃音に悩んでいたころの、我が心の歌「ガード下の靴みがき」(2) 

夢や希望のないことの辛さ

 前回、僕の辛かった学童期・思春期を支えてくれた歌として「ガード下の靴みがき」を紹介しました。そして、風の寒さや冷たさを耐えられた経験として新聞配達店の一年間の生活を紹介しました。貧乏には耐えられたのですが、「ああ 夢のないのが 辛いのさ」の「夢や希望」についてです。
 高校受験のときも全く勉強しなかったのですが、多分ぎりぎりのところで僕は三重県立津高等学校に合格したのではないかと思います。入学後、中学校のときも入っていて大好きだった卓球部に入ったのですが、自己紹介が恐いだけの理由で卓球部を辞めました。クラブ活動も勉強も全くせず、孤独の中で生きましたが、ただ大好きなことはありました。熱中できることはありました。友だちがなく、孤独だったからできたことです。それは、読書と映画でした。
 夏休みは三重県立図書館に入り浸りました。子どもの頃は児童世界文学全集、三国志や宮本武蔵、三木清の「三太郎の日記」など、いろんなジャンルの本を読みました。普段の夜は、全く勉強せずに映画館に入り浸りました。中学時代も映画館に入り浸っていたので、補導員や警察によく捕まりました。その頃のことは詳しくはまた書きたいと思いますが、当時の津市の映画館で上映された、アメリカ映画、ヨーロッパ映画のほとんどは観ていると思います。
 極めて貧しかったのに、中学、高校時代全く勉強しなかった僕が、大学受験を目指したのは、何か夢があったわけではありません。ただ就職して働いていることがイメージできなかっただけです。何かを勉強したかった訳でもありません。
 全く勉強しなかった僕が、二浪したとはいえ、明治大学に合格できたのはなぜでしょうか。2004年、僕たちの吃音ショートコースという2泊3日のワークショップに、講師として来て下さったトランスパーソナル心理学の諸富祥彦明治大学教授が、「伊藤さん、あまり勉強しなかった、勉強しなかったと言わないで下さい。よほど明治大学が入りやすい大学のようじゃないですか」と笑いながらおっしゃいました。「そんなに勉強しなかった伊藤さんがどうして大学に行けたのですか」と、石隈利紀筑波大学教授も何度も質問して下さいました。よく考えれば、人一番本を読み、読解力はついていたこと。映画をよく観て、日本や世界の歴史に興味があったこと。これらが、国立大学は無理でも受験科目が3科目の私立大学には通用したのかもしれません。「考える力」は学校の勉強以外で身についていたのでしょう。

 大学には合格したものの、「夢や希望」が全くないままに、1965年夏、運命の東京正生学院の門をたたくことになるのです。今回言いたかったのは「夢や希望」が持てないことが、貧しさよりも辛かったということです。しかし、それは、1944年生まれの僕の時代のことで、現代は深刻な「夢や希望」が持てない時代に来ています。僕の時代は敗者復活ができました。大器晩成ということばもありました。今は、当時の僕のような貧困家庭では、とても大学など行けません。特別の才能がない限り「夢や希望」が持てない時代でしょう。当時、私立大学でも授業料は記憶違いかもしれませんが、年間4万円程度だったと思います。新聞配達店に住み込んで働きながら大学生活が可能でした。今は、とてもそのようなことは不可能です。まあ、それはそれとして、「夢や希望」について、宮城まり子さんは、その後素晴らしい活動を展開します。

 
「人間が人間らしく、幸せに、自分のもっている能力で暮らすことができて、それが文化的な生活なのね。福祉は文化じゃないのかなあと思ったの。当たり前のことを人間がしているだけのことじゃないの。社会の一員として、希望をもって暮らしていくことを目指していた」


 1968年に私財を投じて肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立し、長年障害者福祉にかかわってきた、宮城まり子さんのことばです。衣食住の保証を中心にした日本の福祉と一線を画し、音楽、芸術、文化を強調して世の中に訴えました。福祉の世界で一番欠けていた「生きる意欲」、「夢や希望」を大切にしたのです。一貫して行ってきたのは、感性を育む教育で、子どもと歌を歌い、絵を描きました。ねむのき学園の子どもの描く絵は、世界児童画史上の「奇跡」だとも言われました。私の家には子どもの描いた緑鮮やかな一枚の絵皿があります。

 毎年大がかりな子どもの絵画展を開いていました。ある時、絵画展で、宮城まり子さんは、来館者に次のように挨拶しました。

 「子どもたちが大人になって、その中を生きていくことができるように、お守り下さいませ。大人になった子どもたちが、小さい間と違って、国が守って下さるお金は少なくなりました。これからこの子たちは、自分の職業を得なければなりません。職業を持つ、難しいです。でも、皆様、「福祉は文化」、私はいつもそう思います。文化的な日本になれるようにお願いいたします」


 長年子どもたちの絵を見続けてきた、「週刊新潮」の表紙の絵で知られる画家の谷内六郎さんはこう言っています。

 
「それぞれの強烈な個性、そしてその天才ぶりは、光芒と光る別の国から来たような作品群に、言葉では言い尽くせない次元の高さなのです。30年来各地の児童画を拝見したぼくにとって、もっとも驚くべきことであり、世界児童画史上の「奇跡」です」

 1955年にヒットした、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」。その歌を何度も折に触れ口ずさんでいた私は、当時はまだ「人気歌手」だった、宮城まり子さんに対して、この人は僕の苦悩、人の苦悩をよく理解できる人だと直感しました。そして、僕の直感通り、一つの歌のヒットや歌手や俳優生活では終わらず、93歳の生涯を閉じるまで、福祉活動に力を注ぎました。障害のある子どもの将来を案じ、その子どもたちの「夢や希望」をなんとか見つけ出そうとした人でした。
 これまで僕を支えてくれたことへの感謝と、心からの冥福をお祈りします。(つづく)

 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/12 

吃音に悩んでいたころの、我が心の歌

夢がないのは辛い、でも、しっかりと歩いていこうと背中を押してくれた応援歌

新型コロナウイルスの連日の報道に、気分の重い日が続いています。
高齢者で糖尿病の持病のある僕は、ハイリスク対象者です。
でも、目の前のできることをみつけ、動いていこうと、気を取り直しています。ぼちぼちとブログ、書いていくつもりです。

    
ガード下の靴みがき

赤い夕陽が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃ ネオンの花が咲く
俺ら貧しい靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない

「ネ 小父さん みがかせておくれよ
ホラ まだこれっぽっちさ
てんで しけてんだ
エ お父さん? 死んじゃった…
お母さん 病気なんだ…」

墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も 小さなお札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のないのが 辛いのさ

誰も買っては 呉れない花を
抱いてあの娘が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんで この世の幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ

作詞 宮川哲夫   作曲 利根一郎
https://www.uta-net.com/movie/13833/



 3月21日、「ねむの木学園」園長、宮城まり子さんが亡くなりました。1955年に、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」がヒットしました。僕が吃音に本格的に悩み始めた小学5年生ごろの歌です。この歌は僕にとって生涯大切な歌となりました。どれだけ勇気づけられたかしれません。
 ひとつのことば、ひとつの歌、ひとつの本、ひとつの映画、これらが人生の応援歌になることがあります。僕は人一倍吃音に悩んできたからでしょうか、応援歌がたくさんありました。自分で勝手にそれらを応援歌にしてきました。だから苦しくても生きてこられたのでしょう。たくさんの「本」「映画」「歌」「音楽」に支えられてきましたが、その中で子どもの頃からのものを挙げるとしたら、本なら下村湖人の『次郎物語』、映画なら『エデンの東』、歌なら『ガード下の靴磨き』でしょうか。
 「風の寒さや ひもじさは 馴れているから 泣かないが 夢のないのが 辛いのさ」
特にこの部分が僕の心には響きました。

 ひもじさについて
 僕の家はとても貧しくて、その日その日のお米を買うのにも困るほどでした。給食代を決められた日に持っていけないことがときどきあったのですが、担任の先生に「忘れました」と答えました。何日か繰り返すと、先生から叱られました。でも、両親が明るく、子どもに貧しさを感じさせないように育ててくれたおかげで、貧しかった割には、貧しさをそれほど意識しないで子ども時代を送ることができました。ただ大学受験となると別でした。吃音の劣等感があまりに強かったために、アドラー心理学でいう、劣等感コンプレックスに陥り、勉強も遊びも、スポーツも友だちとのつきあいもしないで生きてきたので、学力がありません。僕には真剣に勉強した記憶がないのです。貧しいので当然大学に行くとしたら近くの国立大学しかありません。でも、勉強していなかった僕が合格するわけがありません。浪人時代、がんばっても、勉強してこなかったツケはあまりにも大きく、2浪しても国立大学の受験は断念せざるを得ませんでした。
 残されたのは、大学に行かずに就職することですが、とても就職できるとも思えません。最後の手段は、私立大学の受験に切り替えることでした。大学受験料もないので、一年間働いて受験料と入学金を稼ごうと思い、僕は三重県津市の田舎から、大阪に家出をするように出ました。津市から近鉄電車で上本町駅に着いて、駅の売店で朝日新聞を買い、新聞広告で配達員を募集していた豊中市の曽根駅の近くの朝日新聞販売店に電話をして働かせてもらうことにしました。この一年間の新聞配達店での生活は、今まで、何をするにしても中途半端だった僕が、唯一逃げ出さずに最後まで一年間、勉強なり、仕事なりを続けた実績でした。
 冬の風の冷たい日や雨の日、まだ真っ暗の中での新聞配達は本当に辛いものでした。でもそれは、自業自得というか、吃音の悩みを口実に勉強してこなかった僕の責任です。自分で負わなければなりません。
 ここで宮城さんの歌です。「風の寒さや ひもじさは 馴れているから 泣かないが 夢のないのが 辛いのさ」の歌をよく歌っていました。何が辛いかというと、将来への夢、希望が全くなかったことです。大学受験も、社会人として働いている姿も、全くイメージできませんでした。その僕に「夢のないのは辛いよね」と、そっと包んでくれたのがこの歌でした。そして、「辛いけれど、それでもしっかりと自分の足で歩いていかなくてはいけないよ」と優しく、倒れそうな僕を支えてくれていたように思います。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/09
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