第17回 吃音キャンプOKAYAMA 保護者からの質問に答えて3
吃音キャンプOKAYAMAの最後のセッションは、保護者から出された質問に答えました。その続きです。
僕はこれまで、母親のことはいろいろな所で話してきたんですが、父親のことはあまり話してきませんでした。初めて、『親・教師・言語聴覚士が使える、吃音ワークブック(解放出版社)」の本に、父親、母親のことを書きました。今から思えば、本当にありがたい、いい父親、いい母親だったと感謝しています。
僕は小学2年生の秋から吃音に悩んだのですが、その前の僕は、どもっていたけれど、元気で活発でした。それは、父親にも母親にもほんとに愛されていたからです。愛されているという実感が持てたからです。実感を持てたのには、証拠があって、母親は、子どもの頃から童謡や唱歌をいっぱい歌ってくれました。僕を胸に抱いて、歌を歌い、たくさんの歌を教えてくれました。その中に、「動物園のらくださん」という歌があります。その歌、ほとんどの人が知りません。童謡をよく知っている人でも知らないんです。母親が僕のために特別に作ってくれた歌なのか、ものすごく稀な歌なのか、分からないけれど、それを歌ってくれるときは、母親に愛されているという実感を持てるんです。
中学2年生のとき、どもりを治すために発声練習をやっている僕に、母親は「うるさい。そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ」と言いました。そのとき、僕は、涙をぼろぼろ流して「くそ婆」と言って、そのときから母親とは全くしゃべらなくなりました。それは20歳まで続きました。大学受験に失敗した僕は、家が貧乏だったので、浪人生活を家ではできないと思い、家出同然のようにして大阪に行きました。新聞広告を見て、新聞配達店を調べ、そこに住み込んで、新聞配達をしながら、浪人生活をしました。大阪という大都会での孤独は、家族がいる家の中でぽつんと孤立している孤独とは違いました。19歳の僕は、本当に寂しかったのです。そのときに、ふと母親が歌ってくれた、「動物園のらくださん」の歌のメロディが浮かんでくるのです。すると、ああ、あのとき、「うるさい。そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ」と母親は言ったけれど、母親は、僕のことを嫌っていたわけではないだろう。更年期障害だったのかもしれない。分からないけれど、そんなことを思いながら、母親への思いが回復し、母親を憎んでいた気持ちが消えました。それは、子どものときに徹底的に愛されていたからだと思うのです。
僕の父親は、すごくどもります。87歳で死にましたが、最後までどもっていました。その父親も、僕をとってもかわいがってくれました。寝るとき、僕を布団の中に入れてくれて、仏教にまつわる話やおとぎ話など、いっぱいしてくれました。大人になってから、高野山の話を聞くと、あっ、これ、父親から聞いたなと思いました。父親は、僕にいろんな物語を話してくれていたということで、父親にも感謝しています。
子どものころに両親から徹底的に愛されたという基本的信頼があったから、僕は、小学校の2年生から悩み始めて、中学2年生からは、家族の中でも仲が悪くなって、ひとりぼっちになってしまったけれど、愛を取り戻すことができた。東京正生学院で初恋の人と出会ったときも、その愛を受け止めることができたのは、子どもの頃に愛されたという実感があったからだと思います。そのように、愛されていたにもかかわらず、どもる父親、どもる夫をもった妻である母親であるにもかかわらず、二人は、どもりのことは僕に一切言わなかったし、心配もしていなかった。三重県の山奥の田舎から、県庁所在地の津市に引っ越してきたときも、母親は、学校に慣れたかとか、友だちはできたかとか、そんなことは一切言わなかった。勉強しろ、宿題しろと言われたこともない。おかげで僕は、勉強ができなかったんたけど、でも、今から思うと、勉強するのも友だちを作るのも、それは全部僕の責任だと、つまり、課題は僕にあると思っていたということだったのかと思います。親の課題は、身の安全と健康を守ること、おいしい食事をつくることで、生活上の最低限のことは、親はしっかりとしてくれた。吃音についても、一切言わなかったし、僕からも言わなかった。つまり、しっかり、僕を悩ませてくれた。中途半端に慰められたり励まされたりすることが、実は一番つらいことです。とことん悩んで、そこから自分の力で這い上がらざるを得なかった。
夏休み、他の友だちが遊んでいるときに、図書館に行って本を読んだり、映画を見たりした。これが僕の、他の人の人生を自分の人生のごとく想像して、悲しんだり、悔しかったり、怒ったりするという、物語能力を育ててくれました。そのことが、将来、どもりは治らないかもしれないが、どもりながらもちゃんと生きていけるかもしれないと思わせてくれたのです。だって、今まで読んできた小説や文学の中で、いろんな困難を抱えながら、人は生きていた。いろんな矛盾の中で人は生きているということを僕は、小説や文学書や、映画とか、いろんなものを通して学んだ。その僕の物語能力が、僕を支えてくれたような気がします。
父親は、本を読めと直接には言わなかったけれど、書斎には本があり、父親は常に本を読んだり、机に向かっていた。その父親の姿は、僕にはとてもありがたいものでした。宿題をせず、成績が悪くて、怒られるのは僕の責任。高校受験のときも、勉強せずこれだけ成績が悪かったら、家の近くの県立津高等学校には行けないよと先生から言われたとき、母親は、「それは、本人のことですから。一応は、先生のことばは伝えますけど、私の口から、伸二に勉強しろとは言いません」と言ったそうです。先生がこんなことを言ってたよということは言ってくれました。
自分の人生は、自分でコントロールするのだということを、子どもの頃から植え付けられていたおかげで、大都会の大阪に出ていって、新聞配達をしながら浪人生活をするという自立性が育ったんじゃないかなと思います。だから、とても感謝しています。
父親は、僕が最初に本を出版したとき、送ったら、よかったなと言ってくれて、ほんとに綿密な感想文を書いてきてくれました。僕が大阪教育大学に就職したときも、すごく喜んでくれました。ということは、父親は、ずっと僕のことを気にはかけていてくれて、僕は僕なりに生きていくことができると、信頼してくれていたんじゃないかなと思います。
母親は母親で、自分の夫がすごくどもりながらも、ユーモアがあり、明るくて、敗戦の大変な時代、6人家族をちゃんと養ってくれた夫を見ているので、僕のこともちゃんとやっていけると思っていたのかもしれない。ということは、僕は信頼されていたのだと思います。僕は、就職したのが、28歳なんです。2年間浪人して、大学に4年行って、それからまた3年行って、そのときにはもう27歳になっていました。普通なら、そろそろ就職しろとか言うと思うけれど、父も母も一切言いませんでした。そして、今までは、アルバイトで生活してきたけれど、大阪教育大学に行くときは、しっかりと勉強したいので、お金を出してほしいと、初めて僕は、父親に甘えました。父親は気持ち良く、お金を出してくれました。父親に頼らないで生きた時代があり、甘えた時代もあり、僕は愛されていたし、信頼されていたと思います。いい父親、いい母親だったと、ほんとに感謝しています。そんな父親、母親でした。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/11/16
吃音キャンプOKAYAMAの最後のセッションは、保護者から出された質問に答えました。その続きです。
伊藤さんの両親は、伊藤さんの吃音のことをどのように思っていらっしゃいましたか。
僕はこれまで、母親のことはいろいろな所で話してきたんですが、父親のことはあまり話してきませんでした。初めて、『親・教師・言語聴覚士が使える、吃音ワークブック(解放出版社)」の本に、父親、母親のことを書きました。今から思えば、本当にありがたい、いい父親、いい母親だったと感謝しています。
僕は小学2年生の秋から吃音に悩んだのですが、その前の僕は、どもっていたけれど、元気で活発でした。それは、父親にも母親にもほんとに愛されていたからです。愛されているという実感が持てたからです。実感を持てたのには、証拠があって、母親は、子どもの頃から童謡や唱歌をいっぱい歌ってくれました。僕を胸に抱いて、歌を歌い、たくさんの歌を教えてくれました。その中に、「動物園のらくださん」という歌があります。その歌、ほとんどの人が知りません。童謡をよく知っている人でも知らないんです。母親が僕のために特別に作ってくれた歌なのか、ものすごく稀な歌なのか、分からないけれど、それを歌ってくれるときは、母親に愛されているという実感を持てるんです。
中学2年生のとき、どもりを治すために発声練習をやっている僕に、母親は「うるさい。そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ」と言いました。そのとき、僕は、涙をぼろぼろ流して「くそ婆」と言って、そのときから母親とは全くしゃべらなくなりました。それは20歳まで続きました。大学受験に失敗した僕は、家が貧乏だったので、浪人生活を家ではできないと思い、家出同然のようにして大阪に行きました。新聞広告を見て、新聞配達店を調べ、そこに住み込んで、新聞配達をしながら、浪人生活をしました。大阪という大都会での孤独は、家族がいる家の中でぽつんと孤立している孤独とは違いました。19歳の僕は、本当に寂しかったのです。そのときに、ふと母親が歌ってくれた、「動物園のらくださん」の歌のメロディが浮かんでくるのです。すると、ああ、あのとき、「うるさい。そんなことしても、どもり、治りっこないでしょ」と母親は言ったけれど、母親は、僕のことを嫌っていたわけではないだろう。更年期障害だったのかもしれない。分からないけれど、そんなことを思いながら、母親への思いが回復し、母親を憎んでいた気持ちが消えました。それは、子どものときに徹底的に愛されていたからだと思うのです。
僕の父親は、すごくどもります。87歳で死にましたが、最後までどもっていました。その父親も、僕をとってもかわいがってくれました。寝るとき、僕を布団の中に入れてくれて、仏教にまつわる話やおとぎ話など、いっぱいしてくれました。大人になってから、高野山の話を聞くと、あっ、これ、父親から聞いたなと思いました。父親は、僕にいろんな物語を話してくれていたということで、父親にも感謝しています。
子どものころに両親から徹底的に愛されたという基本的信頼があったから、僕は、小学校の2年生から悩み始めて、中学2年生からは、家族の中でも仲が悪くなって、ひとりぼっちになってしまったけれど、愛を取り戻すことができた。東京正生学院で初恋の人と出会ったときも、その愛を受け止めることができたのは、子どもの頃に愛されたという実感があったからだと思います。そのように、愛されていたにもかかわらず、どもる父親、どもる夫をもった妻である母親であるにもかかわらず、二人は、どもりのことは僕に一切言わなかったし、心配もしていなかった。三重県の山奥の田舎から、県庁所在地の津市に引っ越してきたときも、母親は、学校に慣れたかとか、友だちはできたかとか、そんなことは一切言わなかった。勉強しろ、宿題しろと言われたこともない。おかげで僕は、勉強ができなかったんたけど、でも、今から思うと、勉強するのも友だちを作るのも、それは全部僕の責任だと、つまり、課題は僕にあると思っていたということだったのかと思います。親の課題は、身の安全と健康を守ること、おいしい食事をつくることで、生活上の最低限のことは、親はしっかりとしてくれた。吃音についても、一切言わなかったし、僕からも言わなかった。つまり、しっかり、僕を悩ませてくれた。中途半端に慰められたり励まされたりすることが、実は一番つらいことです。とことん悩んで、そこから自分の力で這い上がらざるを得なかった。
夏休み、他の友だちが遊んでいるときに、図書館に行って本を読んだり、映画を見たりした。これが僕の、他の人の人生を自分の人生のごとく想像して、悲しんだり、悔しかったり、怒ったりするという、物語能力を育ててくれました。そのことが、将来、どもりは治らないかもしれないが、どもりながらもちゃんと生きていけるかもしれないと思わせてくれたのです。だって、今まで読んできた小説や文学の中で、いろんな困難を抱えながら、人は生きていた。いろんな矛盾の中で人は生きているということを僕は、小説や文学書や、映画とか、いろんなものを通して学んだ。その僕の物語能力が、僕を支えてくれたような気がします。
父親は、本を読めと直接には言わなかったけれど、書斎には本があり、父親は常に本を読んだり、机に向かっていた。その父親の姿は、僕にはとてもありがたいものでした。宿題をせず、成績が悪くて、怒られるのは僕の責任。高校受験のときも、勉強せずこれだけ成績が悪かったら、家の近くの県立津高等学校には行けないよと先生から言われたとき、母親は、「それは、本人のことですから。一応は、先生のことばは伝えますけど、私の口から、伸二に勉強しろとは言いません」と言ったそうです。先生がこんなことを言ってたよということは言ってくれました。
自分の人生は、自分でコントロールするのだということを、子どもの頃から植え付けられていたおかげで、大都会の大阪に出ていって、新聞配達をしながら浪人生活をするという自立性が育ったんじゃないかなと思います。だから、とても感謝しています。
父親は、僕が最初に本を出版したとき、送ったら、よかったなと言ってくれて、ほんとに綿密な感想文を書いてきてくれました。僕が大阪教育大学に就職したときも、すごく喜んでくれました。ということは、父親は、ずっと僕のことを気にはかけていてくれて、僕は僕なりに生きていくことができると、信頼してくれていたんじゃないかなと思います。
母親は母親で、自分の夫がすごくどもりながらも、ユーモアがあり、明るくて、敗戦の大変な時代、6人家族をちゃんと養ってくれた夫を見ているので、僕のこともちゃんとやっていけると思っていたのかもしれない。ということは、僕は信頼されていたのだと思います。僕は、就職したのが、28歳なんです。2年間浪人して、大学に4年行って、それからまた3年行って、そのときにはもう27歳になっていました。普通なら、そろそろ就職しろとか言うと思うけれど、父も母も一切言いませんでした。そして、今までは、アルバイトで生活してきたけれど、大阪教育大学に行くときは、しっかりと勉強したいので、お金を出してほしいと、初めて僕は、父親に甘えました。父親は気持ち良く、お金を出してくれました。父親に頼らないで生きた時代があり、甘えた時代もあり、僕は愛されていたし、信頼されていたと思います。いい父親、いい母親だったと、ほんとに感謝しています。そんな父親、母親でした。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/11/16