伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2019年08月

第30回吃音親子サマーキャンプが終わりました


 吃音の豊かな世界を紡いで30年 

 今年の参加者は、地元・滋賀県や大阪府など近畿地方だけでなく、遠く南は、沖縄、鹿児島、大分、高知から、北は宮城、千葉、東京、埼玉、神奈川、そして東海地方の愛知、三重などまで、114名の参加でした。30年欠かさず続けてきたことになります。ひとつの節目を感じ、終わった今も、その余韻に浸っています。
 
 8月23日、キャンプ初日は、朝から雨が降り、雨脚がひどい時もありました。チャーターバスを降りてから荒神山自然の家まで、大きな荷物をもって移動するのは大変だなあと思っていたら、バスが着いたときには、からっと雨があがって晴れ間も見えました。なつかしい顔、初めての顔、様々な思いをもった参加者を迎え、いよいよ30回の吃音親子サマーキャンプがスタートしました。

 いつもと変わらないプログラムです。入所式を行い、スタッフの顔合わせをしました。スタッフも、全国から集まってきているので、事前に実行委員会をもつことができません。自己紹介をし、1日目の内容について確認をします。そして、開会の集いです。全参加者を紹介しました。その後、出会いの広場で、いきなり初参加者も含めてグループに分かれ、パフォーマンスを話し合い、練習し、披露しました。そのころには、たった1時間くらいなのに、参加者がすっとうちとけていました。初めての参加者の顔がほころんできたのが印象的でした。中には、このような出会いの広場を苦手にする人がいるものですが、無理強いしないこともあってか、他の所では考えられないことが起こっています。

 夕食の後は、このキャンプが大切にしている90分の話し合いです。年代ごとにグループを分け、どもる大人とことばの教室担当者か言語聴覚士がファシリテーターとして入ります。保護者も4グループに分かれました。
 午後8時には、全員が集合して、キャンプのもうひとつの柱である演劇の、スタッフによる見本の上演でした。事前に合宿で練習した芝居をみんなの前で披露します。どもりながら、確かに相手に届く声で表現しているスタッフの姿は、どもる子どもにもその保護者にとっても、どもりながらもなんとかやっていけるとの見本を見るようで、大きな安心感を与えるようでした。
 あわただしく、1日目が終わります。夜のスタッフ会議では、どもる子どものこと、保護者のこと、そして自分のこと、時間をオーバーして、参加者の物語が語られました。いいスタートが切れたようです。

 今回は、30回記念として、最終日の午後に、「吃音親子サマーキャンプとは何か」というテーマで、30年を振り返る時間を作りました。竹内敏晴さんが亡くなってから、芝居の担当をしてくれている東京学芸大学教職大学院准教授の渡辺貴裕さんをファシリテーターに、大阪スタタリングプロジェクト会長の東野晃之さん、サマーキャンプ卒業生の浜津光介さん、千葉市立院内小学校ことばの教室担当者の渡邉美穂さん、そして、僕が前に出て、サマーキャンプについて、参加者から募った質問・疑問に答えました。改めてサマーキャンプの中で起こっている素敵なことを確認することができました。

 不思議なのは、参加者やスタッフが変わるのに、終わったときに、毎年、満足できるキャンプだったと思えることです。今年も大満足のキャンプでした。それは、参加者が違っても、スタッフとして不動のメンバーがいるからでしょう。
 大阪スタタリングプロジェクトのメンバー、ことばの教室の担当者、言語聴覚士、吃音親子サマーキャンプの卒業生、卒業生の保護者、ことばの教室の元担当者など、年中行事のように思い、ずっと続けて参加してくれている人がたくさんいます。仲間のありがたさを感じました。そんな、安心できるメンバーがしっかりと脇を固めているから、参加者に変動があっても、乗り切れるのだと思います。今年も全国から48名ものスタッフです。たくさんの人の力が集まって、吃音親子サマーキャンプが開催できていること、本当にありがたく思います。

 話し合いや作文、劇の練習や上演を通して、自分や自分の吃音と向き合っている子どもたちに、今年もまた励まされました。「人に与えられた楽しさではなく、自分の中にじわじわと感じる楽しさ」がたくさん溢れていたサマーキャンプでした。

朝日新聞キャンプ JPEG 3 最終日の8月25日、朝日新聞朝刊に、キャンプのことが大きく掲載されました。キャンプ会場の近くのふたつのコンビニで「朝日新聞」を買い占め、朝の集いの時に紹介しました。みんなびっくりし、大喜びでした。
 このキャンプに参加し、取材をして下さっていた朝日新聞の記者が、リアルタイムで、キャンプの様子を伝えて下さいました。写真入りの社会面での大きな記事、30回という節目でもあり、とてもうれしかったです。どもりながらも豊かに生きている子どもや大人がいるということを発信できました。

 これから少しずつ、キャンプで起こっていたことについて、報告していきます。
 これまでに参加した人たちの声を届けたいと願っています。
 朝日新聞デジタル版でも配信しています。たくさんのところに拡散していただければうれしいです。
http://www.asahi.com/articles/ASM8T6W1SM8TPTFC001.html

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/28

いよいよ、明日から第30回吃音親子サマーキャンプです

いよいよ、第30回吃音親子サマーキャンプです

 いよいよ、明日から、第30回の吃音親子サマーキャンプです。
 8月の初めは吃音講習会、そして今は、吃音親子サマーキャンプ。「吃音の夏」の大きなイベントです。参加者は、114名。近畿地方だけでなく、沖縄、鹿児島、高知、三重、愛知、神奈川、東京、千葉、栃木、宮城など、遠くからも参加して下さいます。

 初参加の人に電話を入れ、不安なこと、分からないことがないか、お聞きしました。ホームページの案内を見て、参加を決めた方もいらっしゃいました。
 内田樹が、著書『そのうちなんとかなるだろう』の中で、「自分の心と直感に従う勇気」と書いていました。それだけで生きてきたと。その勇気をお持ちの方のようです。全然知らないところに行く、まして2泊3日という宿泊を伴うところに参加するのは、勇気がいることだと思います。自分の直感に従って勇気を出して参加申し込みをしてこられた方を、誠実にお迎えしたいと思っています。

 参加者にお渡しする「しおり」や芝居の台本の印刷、終わりました。製本は、皆さんに手伝っていただこうと思っています。

 準備をしながら、改めて、30回という重みを感じています。30年です。まあよく続いてきたもんだなあと思います。これも大勢のスタッフが手弁当で参加して下さるおかげです。ありがたいことです。

 僕たちが、どもる仲間に出会い、セルフヘルプグループに出会って、受け取ったメッセージがあります。

 あなたはあなたのままでいい
 あなたはひとりではない
 あなたには力がある

 この3つのメッセージを子どもたちに伝えたいという思いから始まったキャンプ。
 そこに、底抜けの楽しさがあったから、ここまで続いてきたのだろうと思います。
 明日からも、僕たちも楽しく取り組みたいと思っています。

 また、様子をご報告します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/22

セルフヘルプグループでの経験を、ことばの教室で生かしてほしい

セルフヘルプグループでの経験を、ことばの教室で生かしてほしい
  〜全難言大会2日目午後吃音講習会〜

 前回の続きです。

 実際に、僕たちは、1965年にグループを作ったときは、治したいと願う人たちが集まってきました。しかし、会を作った創立メンバーたちは、民間吃音治療所の経験者なので、吃音を治すことが無理だとは分かっています。そこで、形ばかりしていた言語訓練的な例会はやめようと呼びかけ、話し合いを中心にした例会になりました。吃音を治すのではなくて、どう生きるかを考えようとしたことで、ずいぶんと楽になっていきました。
 言語聴覚士養成の大学や専門学校で話をしていると、「でも…」のことばをしょっちゅう聞きます。なんかどもりを治す、改善する訓練法があるんじゃないか、と期待をもってしまうようです。けれども、1903年から始まった組織的な吃音治療は、ほとんど失敗に終わっています。最新だと言われているカナダのアルバーター大学の吃音治療研究所「アイスター」でも、ゆっくり話すスピードコントロールしかなくて、3週間でできるようになっても100%再発すると、そこで治療にあたっていた言語聴覚士が報告しています。吃音の治療がどういう歴史をたどってきたのかを知っておくべきだと思います。

 午前中に話した、シーアンが出した吃音氷山説の行動、思考、感情の他に、僕は身体を入れました。緊張して話すときに硬直してしまう、人と出会うことを拒んでしまう体です。これらのものにアプローチすることができると考えます。また配布した資料に吃音の特徴をまとめました。読んでもらいたいと思いますが、吃音は自然に変わるものだと考えてもらったらいいと思います。どもらないように変わっていくことが多いです。どうしてかというと、僕たちはサバイバルといいますが、どもりそうなことばを瞬間的に言いやすいことばに言い換えたり、言いやすいことばを前につけたりしながら、なんとか目の前の人にしゃべっていこう、関わっていこうとするからです。アメリカの言語病理学は、それは吃音の回避行動という症状で、回避しないように治療しましょうと言いますが、とんでもないことです。どもる子どもたちが自然に身につけてきたサバイバル、工夫、それらを否定すべきではないと僕たちは考えています。

把握可能感
 僕たちはグループの中で、言語訓練ではなく、ずっと対話を続けてきました。あまりなかったですが、吃音の専門書もしっかり読み、英語の得意な人が翻訳した海外の文献も読んで勉強しました。他人はどもる人間をどう見ているのだろうかというアンケート調査をしたりして、僕たちは、対話を続け、吃音の問題は、どもることにあるのではないという洞察を得ていきました。吃音の問題を把握する力が育っていったから、「吃音を治す努力の否定」という、センセーショナルな問題提起ができたのでしょう。
 この僕たちのセルフヘルプグループでの経験を、ことばの教室で、子どもの指導にどう生かせるかを考えます。
伸二13 まず、把握可能感です。首尾一貫性は、「自分の生きている世界は首尾一貫して、筋道が立っていて、納得ができる」という感覚です。吃音は、どもったり、どもらなかったり、という波現象があり、自然に消えていく場合もあります。どもりが治るか治らないかは、分からないけれども、ひょっとしたら治らないでこのまま生きていく可能性はあるだろうなどと、自分の吃音の状態を把握することが把握可能感です。僕は、ことばの教室は、何をするところかと考えたとき、小学校なんだから、勉強するところだと思います。「君は、これから私と一緒に、吃音のことを勉強するんだよ」と言って、吃音の学習をする。吃音について現在解明されていることや、治療に関してどんな歴史があったのかを、社会科の歴史を勉強するようにする。また、社会にはいろんな困難を抱えて、それでも一生懸命生きている人がいる。「小児ガン」と子どもの頃に言われて、それでも自分できちんと受け止めて生きている人がいるなど、社会で起こっている様々な出来事も、子どもたちと一緒に勉強する。国語では、日本語の基本的な発音・発声について勉強する。これは、『親、教師、言語聴覚士が使える吃音ワークブック』(解放出版社)の本に、ことばのレッスンについてかなりのページをさいて書きましたので、ぜひ、参考にして下さい。
 また、吃音をこう考えて生きている人がいるという、どもる人の人生を知ることも大切です。どもる人がどんな職業についているかについて知ると、ああ、そうか、吃音は、それなりにつきあっていけるものだと、子どもは学んでいくだろうと思います。
 午前中の全国大会の吃音分科会の発表の中に、「吃音キャラクター」の実践がありました。自分のどもりのことを、また自分をどもらせるものをキャラクターにして、子どもは、その吃音キャラクターと対話をします。その中で、少しずつ、客観的に吃音を見ることができるようになります。

処理可能感
 これから起こってくる困難やストレスに、対処するための力が自分にはあり、また、SOSを出すことも含めて、私には助けてくれる味方がいる、そう考えたらなんとかやっていけそうだということです。自分で資源を発見し、また、できるだけたくさんその資源を作っておくことで、なんとかやっていけるだろうと思える感覚です。「吃音を知る」というDVDの中に、吃音親子サマーキャンプの様子が紹介されています。その中に、高校生3年生の子どもが、「これまでいっぱいつらいこと、苦しいことがあったけれど、これまでなんとかやってきたのだから、これからもいろんなことがあるかもしれないけれど、なんとかやっていけると思う」と作文に書いているのを紹介しています。これが処理可能感覚です。確実な根拠があるわけではないけれども、なんとかやっていけるだろうという思いを持ってもらいたいのです。
 処理可能感覚について、僕たちは、セルフヘルプグループで、新しく入った人を、春の創立記念祭、夏の合宿、秋の文化祭などの行事の実行委員長に任命して、新しい人たちだけで実行委員会を作って活動するようにしていました。電話をしたことがなかった人も、会場探しや、新聞社との交渉、講師への出演依頼などで電話をします。自分だけのためだったら動けなかったかもしれないけれど、行事のため、みんなのためならと、多くの人たちが行動をし始めます。行動していく中で、今までどもっていたら、からかわれたり、あまり相手にされないと思っていた人が、他者は案外話を聞いてくれるし、講師の依頼に行ったら喜んで来てくれることに気づいていきます。経験を通して、どもりながらでもちゃんとやっていけるんだというものが実感として湧いてきます。実際に行動すると、分かるんです。
 ことばの教室で何ができるかですが、子どもが尻込みしそうな課題に挑戦してみるということが考えられます。昨年の千葉のキャンプで、おもしろいことがありました。応援団長になりたいんだけれど、応援団長になると、みんなの前で、「フレーフレー」などと言って、リードしていかなくてはいけない。やりたいけれど、やれないと尻込みをする子に対して、どういう条件があったら、応援団長になれるか、一緒に研究しようと言いました。これが、当事者研究です。一緒に取り組めることを一緒に考えるのです。できるだけ大きな声を出すことに挑戦してみました。キャンプの場で、運動会を想定するのはちょっと恥ずかしいだろうけれど、「やってみよう」と言ったら、子どもたちは応援団長になったつもりで、ひとりずつ前に出て「フレーフレー」と大きな声を出していました。そんなふうに、自分の課題に挑戦する子どもに育てたいと思います。
 僕は、ずっと、ことばが育つのには日常生活の中でしかないと言い続けています。訓練室でいくら流暢性を形成してしゃべれるようになったとしても、ちょっと緊張する場面に出ていったらもうだめ、学校生活ではだめでは何にもなりません。般化といいますが、訓練室でやった効果を日常生活に活かすということが一番難しいんです。アメリカ言病理学でも、治療の限界と課題ということはずっと言われ続けていることです。訓練室で訓練をしない、言語訓練をしないとなると、ことばの教室では何ができるか、です。子どもが何をしたいか、何をしなくてはならないか、課題を特定し、それを遂行するための作戦会議を立て、今度何に挑戦するかというテーマを決める作戦本部がことばの教室です。実際に動くのは、学校生活やクラブ活動などの生活場面です。緊張する場面の中で発表したり、クラスの役割を果たすと、失敗したり悔しい思いをしたりして、ことばの教室に帰ってくるかもしれません。そのとき、励ましたり、勇気づけたりします。また一緒に、どういうことがうまくいかなかったのか、どういうふうにしたらうまくいくかと、当事者研究をします。失敗したと考えてしょげている子と一緒に、その経験を吟味します。「しんどかったね」と励まし、生活の中に出ていく背中を押す。一方的な合理的配慮のもと、みんなで気をつけてあげましょうという、ストレスのない社会では、自分が生きていく力は身につきません。配慮してもらえた時は良くても、環境が違えば、全く違う状況になります。
 僕たちの仲間に、ひとりの公務員の女性がいますが、今とても苦戦をしています。公務員は、3年ごとに、転職と同じくらいに、全く仕事の内容が変わります。人間関係もでき、仕事内容も分かって、順調にきていたのに、これまでとは全く内容が違う部署で、人間関係を作り、違う勉強をしなければならない。これは、大変なストレスです。そういうところに置かれた彼女は、今、苦戦しながらも、なんとか自分でやれると、自分で自分を支えて、13年間仕事を続けています。この公務員のように、ストレス処理可能な子どもに育ていきたいのです。
 ことばの教室の終了についてです。
 僕は、吃音を否定して逃げたり、やりたいことをやらなかったら損をするぞ、吃音氷山説を教えて、吃音を隠したり逃げたりしたら伊藤伸二のような悲しいつまらない人生を21歳まで送ることになるぞ、と、将来起こることを脅かしではないけれど、子どもに言います。吃音を否定していると起こってくる、将来の可能性について話す必要があると思います。いい話ばかりではありません。全く理解してくれない人は中にはいるからです。それでも、やっぱり理解してくれる人はいると信じて、社会に出ていくことを励ます、これは、ことばの教室の大きな役割だろうと思います。そうすることができたときに、なんとか安心して、ことばの教室を終了することができると思います。だから、ことばの教室の終了宣言をするとしたら、これからいろんなことが起こってくるかもしれない、でも、私は私なりに生きていけると思うと、子ども自身が言えたときでしょう。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/20

吃音に生かす、健康生成論の把握可能感と処理可能感 全難言大会2日目午後吃音講習会

吃音に生かす、健康生成論の把握可能感と処理可能感

 
 公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会での吃音講習会の話の続きです。
 今回の話の冒頭で、農林水産省の元事務次官に何が足りなかったのか、どんな力があれば、ひきこもり状態の息子を殺害しなくて済んだのか話し合ってもらい、何人かに報告してもらいました。先ほどお話した首尾一貫感覚で整理してみます。
伸二11
 把握可能感
 ひきこもりとはどういう状態になることなのか、彼は把握していなかったのではないでしょうか。ひきこもりに関しては本もたくさん出ているし、いろんなところで講演会などもあります。現実の息子のことをしっかりと見ていなかったのではないか、将来、この子がどうなるかという予想もできなかったのではないか、ひきこもりを把握することが彼はできていなかったのだろうと思います。40歳になる我が息子との向き合い方が分からない。つまり、把握可能感がなかったのです。

 処理可能感
 次に、これから、息子とどう生きていくかという処理可能感がなかった。農林水産省の元事務次官ですから、官僚としていろんなサービスはあるだろうことは、知っていたはずです。ひきこもりに対してのサービスや支援のネットワーク、相談窓口もいっぱいあるにもかかわらず、それを使うことはなかった。これが、彼の大きな悲劇のもとになったんだろうと思います。あるいは、相談することにプライドが許さなかったのかもしれません。助けを求める力がなかったということでしょう。

 この処理可能感を、僕がいいなあと思うのは、後で高めることができるところです。さきほど話したレジリエンスは、本来その人のもっている力です。しかし、アントノフスキーがいう首尾一貫感覚は、学童期、思春期に身につけられるもので、特に、処理可能感は、その人の力だけではなく、周りの力も利用しようというものです。これは、とても大きいことだと思います。自分には問題の処理を可能にするのに必要な資源があることを把握して、それを活用しようといいます。資源の中で、自分自身の資源とは、強い体力、病気に対する抵抗力、情報、知識、知性、哲学、柔軟性に考える力、などです。これから育てることができる自分自身の資源です。

 セルフヘルプグループがとても大事にしていることばがあります。平安の祈りというもので、必ずミーティングで使うことばです。少し変えていますが、こういうことばです。

   変えることができるのなら、変えていく勇気を持とう
   変えることができないものは、それを受け入れる冷静さを持とう
   そして、変えることができるかできないか、見分ける知恵を持とう

 当事者にとって、とても大事なことばです。どうしてミーティングのときに言い続けるかというと、自分の力で変えることができると思って、一生懸命闘ってきた。アルコール依存や麻薬依存を自分でコントロールできると思っていたけれども、それはもう無理だと「無力宣言」をする。私はアルコールに対して無力である。アルコールに対しては、お手上げだ。つまり、適度にアルコールを楽しむ力がない。この、「適度に飲む」とは、アルコールを飲む量をコントロールすることで、その力がない。この点では無力だけれど、変えることができることに対しては変えていく努力をしよう。でも、何が変えることができるのか、何ができないのか、見分けがつかなかった。それをセルフヘルプグループの中で、自らが語り、人の語りを聞く中で、変えることができるものと、変えられないものの見極めがついた。これを「知恵」がついたという言い方をします。

 僕たちも、吃音を治す努力をすれば治る。自分の力や、専門家に治療してもらえれば変えられると思って必死になってきました。そのことで、自分を、吃音を否定して辛くなっていました。しかし、努力しても吃音を治せないのだったら、認めるしかない。そう考えたとき、自分は本当は何をしたいのか、何をしなければならないのかに目が向き、自分が本来努力しなければいけないことをがんばろうという力が湧いてきました。変えることができるのは、「自分のしたい、しなければならないことをする努力」です。
 子どもたちには何か困ったときに、君にはこれだけの力がある、また君自身には力がなかったとしても、君には、助けてくれたり、味方になってくれる人はいっぱいいる、こういう情報もあるということを教えたい。これが、処理可能に必要な資源になります。
 大体、首尾一貫感覚は、分かっていただけたでしょうか。

 なぜ、どもる子どもに、健康生成論が必要なのかというと、吃音は原因が分かっていないし、メカニズムすら分かっていません。そして、どもる状態は常に変動します。
 僕たちの吃音親子サマーキャンプに長く参加していて、高校3年生のとき、ほとんどどもらなくなり、もう大丈夫と、サマーキャンプを卒業していった由貴さんが、大学2年生のときに、突然めちゃくちゃどもるようになりました。この変動性には僕もびっくりしました。お母さんもびっくりして、今からでもなんとか治さなければと焦ったくらいです。吃音親子サマーキャンプに小学4年生から高校3年生まで来ていて、僕たちの考え方はよく分かっているにも関わらず、お母さんは慌てふためいて、言語聴覚士のところへ行った方がいいのかと相談してきた。「何もしなくてもいい、その内に変わる」と言い続けました。だけど、子どもはえらいですね。キャンプの中で培った、どもることは決して劣った、悪いことではないとの価値観をしっかり持っていたので、カフェのアルバイトを辞めることもなく、薬学部の発表も休むことなく、どもりながらでも、それをやり遂げた。2年半くらい、すごくどもる状態が続いたけれど、元に近い状態に戻って、今、薬剤師として仕事もし、結婚をして幸せに生きています。
 それがもし、「流暢性の形成が大事」だ、「治すことが大事、改善することが大事」だと考えていたら大変なことになったと思います。あまりどもらなくなて、よかったねと「流暢性」を評価して卒業していたら、大学2年生のとき、めちゃくちゃどもるようになったら、絶望的になってしまいます。だけど、吃音親子サマーキャンプの価値観をちゃんと受け止め、生きてきたことによって確立した、価値観、人生観はそんなに簡単には変わらないのです。
 吃音はそれくらい変動性があるものだということはぜひ知っておいてもらいたい。成人になって社会人になっても、配置転換とか、転勤、転職など、いろんな変化が起こってきます。その変化のたびに、「吃音の流暢性」は変化していく可能性があります。だけど変化しないのは、困難に立ち向かう、ストレスに対処できる、対処能力です。それを養っておくことが大事だと思います。
 アウシュビッツの強制収容所という、過酷な経験をしたにもかかわらず、健康に生きている人がいる。こんな言い方は僕がどもる人間だから許してもらいたいと思いますが、大勢の前でひどくどもったことと、アウシュビッツのあの過酷な経験と比べれば、ストレスは全然違います。あれだけの過酷なストレスの中でも生きているのに、どもる僕たちが多少からかわれたり笑われたりすることがあったとしても、生き抜けないはずがありません。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/18

どもれる体になったことと、非認知能力−全難言大会2日目午後吃音講習会

 どもれる体になったことと、非認知能力

 どもりは治さなければならない、僕のその思いは、ますます強くなりました。大阪で新聞配達をしながら2浪生活をしたので、関西の大学でもよかったのですが、大学を東京にしたのは、「吃音は治る、治せる」と宣伝する東京正生学院に行くためでした。
 東京正生学院の寮に30日間入りました。合宿生活なので、朝から夜遅くまで、訓練に明け暮れました。ここでの方法は、「わーたーしーのーなーまーえーはー…」と、ゆっくり、やわらかく言うんです。ゆっくり、そっと、やわらかく、バリー・ギターの流暢性形成技法をしていたことになります。街頭訓練もありました。一日100人に声をかけて、「警察署はどこですか」「郵便局はどこですか」と聞きます。同じ人に聞いてしまうこともありました。
 一番嫌だったのは、山手線の電車の中での演説練習です。1駅分くらいの原稿を用意して電車に乗り、「皆さん、突然、大きな声を張り上げまして失礼ですが、私のどもりの克服のために、ちょっと時間をお貸し下さい」と言う。調子のいいときは、「ありがとうございました」と言って、さっと逃げられる。池袋駅から乗って、目白駅で逃げるというのが、僕の定番だったのですが、調子が悪いときは、そうはいかず、「ありがとうございました」を言う前に、すうーっとドアが閉まる。みんなのなんとも言えない、冷たいような、ばかにしたような視線を浴びながら1駅をやり過ごすことの辛さは、未だにしみています。
 上野の西郷さんの銅像の前でも演説をしました。そのときに、僕は、どもるくせにどもらない話し方をして、「みーなーさーん、私はどもりで…」と言って、本当に理解が得られるのかと思いました。「みみみみみ皆さん…」とどもりながら言うのが僕の話し方なのに、ゆっくりとどもらないで言うのは、詐欺商法のような感じがして、失礼じゃないかと思ったのです。ゆっくり、そっと話す訓練をしても治らないだろうと、訓練を始めてすぐ、おそらく2日目か3日目に僕は思いました。
 僕は、あれほど治したかったどもりなのに、どもりが治ること、治すことを諦めたのです。諦めることができたことに、また、女性がからんでいます。東京正生学院に入ってすぐ川内瑠璃子さんという広島の大学生と恋人になりました。僕は、同性の友だちもいないのに、恋人なんてできるはずがないと自信があったのですが、どういうきっかけか分からないけれど、彼女とすぐに仲良くなりました。毎朝、訓練の始まる前に、東京正生学院の前の鶴巻公園でしゃべりました。それまで全くしゃべらなかった人間が、彼女ができたことで、いっぱいしゃべりました。彼女の前では、「わーたーしーはー」と、こんなしゃべり方はできません。自然にどもってしゃべりました。彼女は、そんな僕の話を温かく聞いてくれました。また、ありがたいことに、すぐに大学生の親友が2人できました。恋人と親友ができたことは、僕にとってものすごいラッキーでした。大切なその人たちの前で、僕は、素直にどもりました。そのとき、しゃべるということは、こんなにうれしくて楽しいことなのか、たとえどもっていたとしても、しゃべることは楽しいし、人はちゃんと聞いてくれると心の底から思いました。こんな経験をすると、どもらないようにどもらないようにと必死になって気をつけてしゃべることがばからしくなりました。
 他の人たちは、教えられたことを忠実に守って「おーはーよーうーごーざーいーまーすー」としゃべっていましたが、僕は全く無視をして、劣等生になり、どもってどもってしゃべりました。東京正生学院は、どもりを治すための訓練をする、どもらない話し方を身につけるための訓練所だったはずなのに、僕にとっては、どもる練習をしているようなものでした。「どもれる体」になった場所ということになります。そのことに、去年の秋、東京大学で講演した時に初めて気がつきました。おもしろい発見でした。どもれる体になるということは、実はとてもステキなことで、子どもにとっても大事なことではないかなと思います。

伸二3 皆さんは、どもる人の悩みは、どもることだと思っているかもしれませんが、実はそうてはなくて、どもれないのがどもる人の悩みなんです。たとえば、優秀で昇進していって、課長になった人がいました。普段はよくしゃべる人間です。だけど、課長になったことによって、200人くらいの前で、「起立願います。着席願います」という短いことばを言わなければならない。課長になるくらいだから、みんなの前で、長い話はいくらでもできるけれど、「起立」「礼」などの短いことばをぱっと言うことができない。どもる人は、四六時中どもっているわけではありません。高校生たちも、飲食店のアルバイト先で「ありがとうございます」が言えないと悩んでいます。自分の仕事はとっくに終わっているのに、「失礼します」が言えなくて、みんなが帰るのを待って、一番最後に帰っている、そんな笑い話みたいなこともあります。「失礼します」「ありがとうございました」そんな短いことばが言えないのです。普段、それなりにしゃべれているから、どもりたくないし、こういう短いことばでどもるということが、自分には許せないのです。だから、子どもの頃から、平気とは言わないけれども、まあまあどもれるようにしておくこと、どもることに慣れておくことが大事だと思います。 それなのに、アメリカの言語病理学は、どもらないように、どもらないようにしようとしています。どもらないようにしようとすることは、どもることはいけないことだということを、常に、自分に繰り返し繰り返し語っていることになるんです。そのことに、アメリカ言語病理学は気づいてくれません。「どもれる体」になったということは、僕にとって、とてもありがたいことでした。

 どもれる体になった、ただそれだけのことで変われたのだとは思えません。あれだけ苦しかった悩みから、なぜ変われたのか、分からなかったのですが、考えて考え抜いて、ああ、そうかと気づいたことがありました。
 僕は、3歳から小学校2年生の秋の、学芸会でせりふのある役を外されるまでは、どもっていても全然気にせずに明るくて活発な子どもでした。どもるからという配慮、合理的配慮か教育的配慮かは分かりませんが、担任教師は僕に、せりふのある役をさせませんでした。僕は、そのことを「配慮の暴力」だと思っています。良かれと思っての配慮は、一方的な決めつけであり、子どものためになると思っての支援が、実は、その子どもを傷つけることもあるんだということを知っておいてほしいです。
 僕は、2年生まではとっても活発で元気な子でした。それから、21歳まで、僕は、ホコリにかぶるように、苦しみ、暗い人間になっていたのです。そんな僕に彼女ができ、親友ができ、しゃべれるようになったとき、かぶされていた黒いベールがはがれて、もともと持っている僕のレジリエンス、明るく、活発で、元気な子が戻ってきたと僕は思うんです。それが、非認知能力といわれるものでした。
 非認知能力は、幼児教育の中で、これから注目されていくもので、2017年度の幼稚園、保育所の指針として出されました。認知能力というのは、IQや学力といわれるもので、数値化できます。非認知能力とは、数値化できないもの、たとえば、やさしさ、まじめに努力する力、人を思いやる力、困難なことにも耐える力のことで、こういうことこそ大事だというのです。幼稚園教育の中でも変わろうとしています。僕はもともと持っている非認知能力があったから、治すことをあきらめ、パッと変われたのでしょう。東京大学での講演準備の中で気づいたのが「どもれる体」と、「非認知能力」でした。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/17

どもれる体 全難言大会2日目午後 吃音講習会

どもれる体
  全難言大会2日目午後吃音講習会


 「どもれる体になった」という表現は、聞いて変な感じがするかもしれませんが、僕はどもる人間でありながら、どもれない体になっていたんです。
伸二3 2年くらい前だったか、滋賀県・東近江市のことばの教室に行ったとき、子どもたちがたくさん質問してくれました。その中に、「伊藤さんは、いつごろ、どもりで困りましたか。どもりで困ったことはありましたか」という質問がありました。僕は、瞬間的に「僕、困ったことがないんだよ」と答えました。さて、「なぜ困ったことがないと、僕は言ったのでしょうか。想像してみて下さい」と質問をすると、大体、「あまり気にしてなかったからじゃないですか」と答えが返ってきます。そうではないのです。正解は、しゃべらなかったからです。つまり、僕は、どもりを隠し、話すことから逃げて、音読も発表はしないし、吃音とは関係ないのに、飼育委員や図書係もさぼっていました。逃げ一色の生活を送っていました。

 一番悔しい、悲しい記憶は、高校に入学して入った卓球部をすぐに辞めたことです。僕は、中学校時代も卓球部で、卓球をしているときだけが、気持ちが安らいでいました。だから、高校に入学したときも、すぐに卓球部に入りました。僕の話には、女性がよく登場するのですが、入学式のときに、かわいい人が僕の右前にいました。僕は、彼女に一目惚れをしたんです。うれしいことに、彼女も卓球部に入っていました。ラッキー、しめたと思いました。彼女と一緒に卓球ができると思うと、とてもうれしくなりました。男子コートと女子コートは離れていましたが、ちらちらと彼女の姿を見ながら卓球ができるのが幸せでした。でも、5月の初めか、4月の終わり頃だったかに、男女合同合宿があるという話を部長から聞きました。そのとき、僕はガーンと頭をなぐられたような気になりました。お分かりだと思いますが、男女合同合宿だと必ず自己紹介があるだろう。好きになった女の子の前ではどもりたくない。どもりがバレるは嫌だと思いました。当時、僕の高校は11クラスもあるマンモス校で、同じクラスになる確率は高くない。彼女と同じクラスにならない限り、僕のどもりはバレない。でも、合宿だったら、自己紹介がきっとある。僕は、自分の名前が言えないのです。いまだに、です。こうして人前で講演をしたり、NHKの番組で、2回もスタジオ出演もしていますが、未だに伊藤という名前が言いにくいのです。病院で、「伊藤さん」と呼ばれるから行っているのに、「お名前を、フルネームでお願いします」と必ず言われる。そしたら、「いいいい…」となってしまいます。また、僕は寿司が好きですが、好きな「たまご」が絶対言えません。今日こそは、タイミングを合わせて言おうと思うけれど、やっぱりだめで、違うものを注文してしまいます。未だに逃げているんです。

 名前が言えないことで悩むどもる人は、案外に多いです。他のことはすらすらしゃべるけれども、会社の名前が言えない、自分の名前が言えない、勤務先の部署が変わってその名前が言えない、などです。だから、どもりの症状が軽減され、あまりどもらなくなったということは、それほど意味がないのです。必ず、言えないことばが残り、完璧に治るということはありません。

 女優の木の実ナナさんが、映画「フーテンの寅さん」に出演したとき、あれだけ舞台や映画やドラマに主演している彼女ですが、「ア行」が言えないので、渥美清に「おにいちゃん」と呼びかけられない。「お」が出ない。2日間、撮影がストップしたという経験を、彼女は『下町のショーガール』の本の中に書いています。2日間撮影がストップするという辛さは、僕たちが学校で音読や発表ができなくて立ち往生するのとは全く質の違う大変なことだったと思います。関係者のホテル代など経費がかかるし、渥美清のスケジュールが狂う。彼女は、申し訳なさで一杯で、きっと暗澹たる気持ちだっただろうと思います。ミュージカルに主演し、舞台にも出て、しゃべれるようになってきているのに、それなのになぜ「お」が言えないのだろう。そう思いながら、宿舎に帰り、ひとり、花火をしているときに、山田洋次監督が来て、一緒に花火をする。線香花火をしながら、ふと、山田監督に話しかける。「監督、実は私は子どものころからどもりで、自分の名前が言えなかったり、国語の時間に音読ができなかったりして、苦しい思いをしてきました。おにいちゃんというせりふが言えないんです」。
 多分、「何々だよねえ、おにいちゃん」だったら言えると思います。だけど、「お」が語頭にくると、言えなくなります。言いやすいことばを前につければ出やすいのですが、山田監督は、台詞を変えず、自分が書いたとおりに言うようにというのがモットーなので、そんなことはできない。

 僕の大好きな片岡仁左衛門という人間国宝の歌舞伎俳優がいますが、彼も、子どものころから、歌舞伎俳優の家に育ち、いろんな舞台に立ち、ドラマにもいっぱい出ているのに、せりふが言えない。NHKの大河ドラマに出たときにせりふが言えずに、中村錦之助などの大御所からいろいろ言われて大変な思いをしたと語っています。それくらい、完璧にどもりが治るということは本当に難しいことだと思います。

 そうして、僕は逃げて逃げてきました。逃げて、しゃべってこなかったから、困らなかったのです。脱線しましたが、戻します。

 僕が「困らなかった」と言うと、子どもたちは不思議そうにします。そして、「なぜ困らなかったと思う?」と尋ねると、子どもは、「あまりどもっていなかったからじゃないですか」と言います。当然の反応ですが、「そうではないのです」と続けます。僕は、逃げて逃げて逃げ回っていたから困ることはありませんでした。子どもたちが、どもることで困るということは、一生懸命生きていることであり、何かをちゃんとしなければならないと思っているからであり、新しいことに挑戦しようと思っているからです。そんな子どもたちのことを、僕は心から敬意を表します。

 もうひとつ、僕にとって苦々しい思い出があります。高校のときの国語の教師はよく当てる人だったので、学校に行けなくなってしまいました。これ以上休んだら、進級できないというところまでいったので、先生の家を住所録で確認し、昼間に下調べをして、夜、訪問しました。「僕は、どもるので音読ができない。これ以上休むわけにもいかない。だから僕だけ当てないでほしい」とお願いをしました。今でも、その顔を思い出しますが、「うちの高校が、旧制第1中学校と言われた時代には、お前のような奴は入ってこなかったんだけどな」と言いました。そう言われたとき、僕は屈辱に震えました。だけど、その屈辱に震えることの代償に、僕は音読から免除されました。それで学校へ行けるようになり、ようやく僕は、高校を卒業することができたのです。僕は、どもる人間なのに、どもれなかった。「どもれない体」になっていたのです。逃げて逃げて逃げまくっていたから、くやしい思いをいっぱいしてきた。こんなことをしたかった、本当はこのことをしなくてはいけなかった、それなのに逃げてばかりいた。悔しいし、後悔しているし、許せない。そういう思いはあるけれど、どもることによってからかわれたりする経験はない。後悔には、ふたつの種類があると思います。何かに挑戦してうまくいかずに、こうすればよかったのにというような「後悔」。この後悔は後の成長につながります。僕の「後悔」は、やればできたかもしれないのに、せずに逃げた後悔です。逃げずにいたら、好きな卓球を続けることができたし、ひょっとしたら彼女と友だちになっていたかもしれません。しなかった「後悔」はずっと僕を苦しめました。どもる人間であるにもかかわらず、「どもれない体」になっていたことが、今になって、僕の苦悩の源泉だったと気づいたのです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/15

吃音と健康生成論 全難言大会2日目午後の吃音講習会

全難言大会2日目午後 吃音講習会 健康生成論

 今、注目を集めている考え方に、健康生成論があります。精神医療、福祉の世界で、原因を探して診断して治療するという、弱いところや悪いところを治していくという立場が「疾病生成論」ですが、それは、限界があって、もう立ちゆかなくなりました。治りにくい、治らない、病気や障害はたくさんあるからです。その代わりに、この人は、どうして病気や課題、問題を抱えながら、ちゃんと生きているのだろうと、健康面に焦点を当てて、その健康面を探り、それを育てていく「健康生成論」に、注目が集まっているのです。
 これは、1970年から1980年にかけて研究され、提唱されたものです。一時それほどでもなかったのが、40年の年月を経て今、すごく注目を集めるようになりました。大きな時代の流れになってきているからだと思います。1970年から1980年にかけて健康生成論が出てきて、前後して、当事者研究、ナラティヴ・アプローチ、ポジティヴ心理学、レジリエンス、オープンダイアローグなど関連する考え方が出てきました。ネガティヴなもの、マイナスのものを治し、改善するという発想は、人が幸せに生きるのに限界があると、大きく舵をきったということです。精神医療、福祉の世界で、これまでの臨床が、本当に、病気のある人、障害のある人の役に立ったのだろうか、大きな反省のもとに、真剣な議論、真面目な検討が行われ、疾病生成論ではだめだと方向転換をしました。ところが、残念ながら、言語障害、吃音の分野は、全く微動だにしません。これがだめだったら、別の方法を考えよう、別のことを考えようという発想が出てきても不思議はないと思うのですが、吃音の場合は、全く変わりません。1903年に始まった楽石社の考え方が、2020年の今、世界中で行われています。

 僕が、1965年に作った言友会という、どもる人のセルフヘルプグループが、どのように変わってきたのか、考えてみました。すると、ああ、そうか、僕たちは、健康生成論の立場に立って考え、活動してきたのだなあと整理がつきました。

 僕たちは、どもりを治そうと必死になって訓練をしました。しかし、治そうとすればするほど悩みを深め、治そうとすればするほどどもってしまうという現実の中で、これではもう立ちゆかないと思ったのです。治そうとすることが、自分自身が生きる上で、いかに大きな弊害があるかということに、僕たちは気づきました。そして、大きく方向転換をして、「吃音を治す努力を否定」するという提起をしたのです。今までの、治すということは当たり前で必要なこと、努力するということはまっとうなことですばらしいこと、という中で、治す努力の否定という問題提起をしました。そして、治す努力よりも、自分が何をしたいのか、何をしなければならないのか、という自分が生きるテーマに対して努力すべきだと考えて、吃音者宣言という宣言文を出しました。たいまつ社から『吃音者宣言』という本も出版しました。この本は、絶版になりましたが、日本吃音臨床研究会のホームページには、一冊丸ごと紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。吃音者宣言の本表紙
 それを読んでもらったら、分かると思いますが、40年以上も前に、苦しんだ中から悲鳴をあげて、自分たちはこう生きるんだと心からの叫びともいえる宣言を出しました。それは、1976年のことで、ちょうど、アントノフスキーが健康生成論を出した時期とほぼ重なります。そう考えると、因縁というか、縁を感じます。

 僕たちがどうして、そういう考え方に至ったのかを紹介することが、今、吃音に悩んでいる子どもに何ができるのか、につながっていくだろうと思います。

 アントノフスキーは、更年期を迎えたイスラエル人の女性の健康度を調べるというプロジェクトに加わりました。アウシュビッツの収容所を経験しない人と経験した人との調査結果から、興味深いことが分かりました。アウシュビッツのあの過酷な、もうこれ以上のストレスはないだろうといわれるくらいのストレスの中を生き抜き、そして更年期を迎えた女性の7割は、やっぱりしんどい思いをして生きたきました。つまり、健康状態としてはよくなかったのです。これまでの疾病生成論の立場に立ったら、この70%の人に焦点を当てて、どうしたらよかったのかを考えることになります。でも、アントノフスキーは、残りの30%の人に注目しました。あれだけ過酷なストレスの大きな状況の中でも、健康に、または、あの経験を糧にして、より良く生きている女性たちがいる。その3割の人たちにはどういう力があったのか、インタビューをずっと重ねていって、出てきたのが、首尾一貫感覚、SOCというものなのです。
 首尾一貫感覚とは、把握可能感、処理可能感、有意味感、この3つの感覚をいいます。 把握可能感は、自分の置かれている状況やその後の展開を把握し、自分のことばで説明することができる。今の状況を把握することができる。こういう感覚です。
 処理可能感は、自分にふりかかっているストレスや障害に、自分自身の力や、外部の力を使えば、なんとか対処できるという感覚です。その人の持っている力といえば、レジリエンスという考え方があります。レジリエンスは、回復する力、逆境を生き抜く力と言われます。阪神淡路大震災のときには、PTSDがすごく注目されました。東日本大震災のときには、あのような過酷な状況にもかかわらず、ちゃんと生きている人たち、しっかりと自分の将来をみつめている高校生たちもいる。この人たちには、あれだけ大変な状況の中でも、しっかりと生きていく力があったことになります。
伸二2 僕には、その大変な状況をとても身近に感じる出会いがあります。吃音親子サマーキャンプに来ていた小学校6年生の女の子が、吃音でいじめられて、4月から8月まで、長い期間不登校になっていました。その子が家族と一緒に、僕たちの吃音親子サマーキャンプに来ました。そして、話し合いの中で、「みんなはちゃんと学校に行っているのに、私は行きたいのに、学校に行けていない」と、涙をぼろぼろこぼしながら話をしました。そのとき、みんながそのことに応答していって、いろんなことを話しました。最初はどうしようもないくらい暗い顔をしていたけれど、たった90分の話し合いの中で、彼女は、目が輝いて、これからなんとかやっていけると感覚をもったのでしょう。翌朝の作文では、「私はこれまでどもりに負けていた。けれども、これから、なんとかやっていけると思う」と書き、処理可能感をもつことができました。そして、キャンプが終わったら、すぐに、彼女はすでに夏休みが終わっている学校に行きました。その後、中学1年、2年のときも、遠く、宮城県女川町から吃音親子サマーキャンプに来ました。女川町と聞いたら、ぴんとくる人もいるかもしれませんが、2011年3月11日、あの津波が彼女の町を襲い、そして、彼女は、仙台育英高校に進学も決まり、制服もちゃんとあつらえていたにもかかわらず、お母さんと共に逃げ遅れて、残念ながら今もまだ遺体もあがっていない状態です。
41xDLTUJWlL._SX342_BO1,204,203,200_ そのことについて、『どもる子どもとの対話−ナラティヴアプローチが引き出す語る力』(金子書房)の本に、実際に90分の話し合いの中で、どういう話が出てきたのかということを書いています。そのとき、彼女は、レジリエンス、回復する力をもともと持っていたのだと思います。こういうものがなかったら、90分の話し合いをしただけで、やる気が出てきて、キャンプが終わったらすぐに学校に行くということはできるはずがありません。彼女に、回復する力、逆境を生き抜く力があったということです。このように、レジリエンスは、育てることもできるけれど、もともと持っていた力、その人に備わっていた力のことを言います。
 今から紹介する健康生成論の首尾一貫感覚は、もともと持っていたものも多少あるけれど、学童期、思春期に育てることができる。むしろ、思春期にこの感覚が高められて育っていくんだとアントノフスキーは言います。
 そう考えると、僕たちが1965年に会をつくって活動していたのは、当然学童期も思春期も終わっています。でも、アントノフスキーの言う3つの感覚、把握可能感、処理可能感、有意味感を、グループの中で、育てていったのだと思えました。
 過去のできごとは変えられないけれど、過去の意味づけは変わる、僕はそう実感しています。
 去年の秋、僕は東京大学先端科学技術センターで講演をしました。盲聾の福島智教授、脳性マヒで車いす生活の熊谷晋一郎准教授がいる所です。そこでは、当事者研究やバリアフリーについて研究しているのですが、そこから、僕の50年に及ぶセルフヘルプグループの活動を振り返って話をしてほしいと依頼がありました。そこで、一生懸命これまでのことを振り返ってみると、すごく大きな発見がありました。僕は、これまで、過去のことを振り返って、いろんな所で話をしているし、本にも書いていて、これ以上は語れないというくらい語っているのに、もう一度、振り返ってみると、ああそうだったのかという発見がありました。それは、どもれる体になったという、僕にとってはとても大きな発見でした。どもれる体とは、については、次回に。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/14

どもる子どもとの対話−吃音哲学 全難言大会2日目午後

全難言大会2日目午後 どもる子どもとの対話−吃音哲学

伸二1 全難言大会の2日目の午後は、午前中の分科会を受けた形で、吃音の講習会でした。
 まず、僕は、「アンパンマンの歌、知ってる人?」と問いかけました。皆さん、きょとんとした顔でしたが、頷いている人がたくさんいました。「歌ってみましょう」と言うと、何が始まるのだろうと、訝しげでしたが、歌って下さいました。

 
そうだ うれしいんだ 生きる 喜び
 たとえ 胸の傷が いたんでも
 なんのために 生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて いやだ!
 今を 生きることで
 熱い心 燃える
 だから 君は 行くんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きる 喜び
 たとえ 胸の傷が いたんでも
 ああ アンパンマン やさしい君は
 行け! みんなの夢 まもるため

 幼稚園に通う年代の子どもたちがよく歌う歌です。これはすごいことだと思います。もちろん、幼稚園の子が詞を作ったわけではないけれども、何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないのは、そんなのは嫌だと言っています。
 次に、僕は、「小さな哲学者たち」という映画を見た人がいるか、尋ねました。これは、フランスのある幼稚園で行われている哲学の授業の記録映画です。「愛」とは何か、「死」とは何か、大人と子どもとはどこがどう違うのか、など、大人が考えても難しいことを、幼稚園児が哲学という授業の中で、先生と一緒に話し合っているのです。話し合いに慣れていない子どもは、最初、戸惑ってはいますが、話をしているうちに、誰かが、「おばあちゃんが死んだときに、私は…」とか「ペットが死んだときにね、…」とか、具体的な話が出てくることによって、話がどんどん広がっていくのです。その2年間の記録映画です。子どもたちは、本当に楽しそうに話をしていました。そして、小学校に上がるとき、子どもたちは、「小学校に行くのは嫌だ。小学校には哲学の授業がないから」と言います。子どもは、話し合いなんてできないんじゃないかと、大人はつい考えてしまいますが、子どもは、こちらが問いかけて、子どもが反応したことに、えっと驚くなど反応して、また対話をしていくという繰り返しの中で、驚くほど自分のことを語り、いろんなことを考えます。
 今、考える力、哲学する力がこれからますます求められていく時代なのだと思います。
 「愛」「死」「自由」など、そんなテーマを設定しなくても、どもる子どもたちは、傷ついたり考えたりしてきているので、自分の吃音についてというテーマであれば、十分語れると思います。僕は、吃音親子サマーキャンプを29年間してきて、今年で30回目になりますが、話し合いの時間を大切にしています。小学校1年生の子どもたちでも、「さあ、今から、どもりについて話をするよ」と始めます。ゲームなどの何の前振りもなしに、いきなり「どもりの話をするよ」と言って、話し合いを始めるのです。
 サマーキャンプでは、初日に90分、翌日に120分の話し合いをします。僕たちの吃音親子サマーキャンプは、サマーキャンプという名前がついているけれど、野外活動などの楽しいものではありません。プログラムはびっしりつまっています。2回の話し合いの他に、自分の思いを文章にする作文教室が90分あります。この時間は、自分ひとりで自分や自分の吃音と向き合うことになります。一生懸命考えるので、以前のことが思い出されて、何年かに一度は、泣き出してしまう子もいます。そうして、自分と向き合う3日間を過ごした後、子どもたちに、キャンプで何が楽しかったかと聞くと、ほとんどの子が「話し合いをしたことが楽しかった」と言います。どもりの話をすることは、とても過酷なことを強いているのではないかと、親や教師は思ってしまうかもしれないけれど、子どもたちは、十分に話し合うことができます。それができる子どもたちなのだと、僕は自分のキャンプの経験を通して、また、自分自身の体験から考えても、そう思います。
 今回、この講習会でお話するテーマは、「哲学する子どもを育てるために」です。こうして、講習会での話を始めました。

 最初に、健康生成論について話しました。
会場後ろから
 その導入として、農林水産省の元事務次官が、自分の息子を殺してしまったという悲惨な出来事の話から始めました。あの事務次官が、どういう「力」を持っていたら、ああいうことにならなかったんだろうか。近くの人と5分間だけ話し合ってもらい、何人かに発表してもらいました。初めに出たのが、「人に助けを求める力」でした。これは大事なことです。悲惨ないじめに遭いながら、自殺をした事件について、NHKがドキュメンタリー番組を放送していました。あれだけいじめられて、お金もとられて大変なのに、SOSを出せなかったのです。これからは、人の助けを求める力がとても大事になってくるだろうと思います。
 次に出たのが「選択肢がない。こうかもしれない、ああかもしれないと思う力がない」でした。これから子どもたちは大変な時代を生き抜かなければなりません。どんなときにも、必ず複数の選択肢があるということを子どもに学んでほしいと思います。いじめに合って、どうしようもなくなって、死にたいと思っても、他に選択肢はないのかと考えられる子どもになってほしいのです。究極には警察を呼ぶ、学校を辞めるなど、いろんな選択肢があるのに、この道しかないと思ってしまうことは、とても不幸なことです。
 人生の分かれ目で選択をしなければならないときには、複数の選択肢があるということ、常に子どもたちと一緒に考えてほしいと思います。普段の日常生活の中で、些細なことでも、できるだけ選択肢を拡げることを心がけることもいいことだと思います。
 もうひとり「この家庭が、もっと地域に透明な状態だったらなあ」が出ました。自分たちの中に閉じこもらず、オープンであったらなあと、僕も思います。吃音の問題にも言えることです。自分の吃音のことをオープンにできる、語っていくということが、吃音の場合はとても大事になります。匿名性のセルフヘルプグループがあります。そうでないと安全が保たれないという「言いっ放し、聞きっ放し」をルールにするグループも実際にありますが、吃音の場合は、他のセルフヘルプグループとは違って、他の問題とは違って、自分のことを語り、対話をしていくことが大切です。よく吃音を理解してほしいという話がありますが、吃音とはこういうものだと誰かが、またメディアが、メッセージとして与えても、吃音の理解につながらないと思います。そうではなくて、自分自身が、目の前の人に語ることば、自分が語るどもりを、周りの人は理解するのです。だから、自分のことを語れる子どもに育てたいというのが、僕の思いなのです。
 前段にこんな話をして、本題の健康生成論に入っていきました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/13

2019年度公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会の吃音分科会

2019年度全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会の吃音分科会

  全難言大会三重大会・吃音分科会での、ことばの教室の実践発表 

 吃音の分科会。事務局の都合で変更になった分科会の部屋は、少々手狭な感じがしました。部屋の両脇にもイスを並べて、ぎっしり満員でした。
伸二とトライアングルのタイトル 発表は2本。初めは、静岡県の発表でした。「吃音のある子どもへのトライアングルアプローチ〜ことばの教室と学びの教室の連携〜」というタイトルで、心理面、技能面にプラスして、身体的アプローチを行ったら、吃音症状の改善が見られたというものでした。心理面、技術面のアプローチだけではなかなか吃音の改善がみられなかったので、子どものからだの動きのぎこちなさに注目して、そこへのアプローチを試みたという実践です。筆圧が強すぎて、鉛筆の芯が何本も折れてしまうなどの細かな動作だけでなく、からだ全体のバランスの悪さに注目して、トランポリンやバランスボールを使って、子どものからだにかかわっていった実践です。それで、本人も家族も少し吃音が改善されたと喜んでいるとの報告でした。
伸二と土井さん 2本目の発表は、神奈川県の土井幸美さんです。「対話で拓く吃音の世界〜どもる子どもたちの「ことばの力」を信じて〜」とのタイトルでした。まず発表者の背景から、話はスタートしました。養護学校やろう学校での当事者との出会いや、「ろう文化宣言」の精神に触れたこと、べてるの家の当事者研究に影響を受けたことをまず話しました。子どもを弱い存在、小さき存在に囲わないというのが、子どもと接するときに大切にしていることでした。パワーポイントによる説明だけでなく、実際にどもる子どもと対話をしている映像は、子どもも土井さんも楽しそうに対話しながら、本質的な話に向かっていきます。楽しそうで、ふたりのいい時間が流れているのが伝わってきました。どもる子どもとの関わりに、対話の重要さが伝わってきました。
 事例発表は、A君、Bさんなどと子どものことは話しても、子どもにかかわる本人、教師のことが語られることは、ほとんどありません。子どもが変わっていくのは、教師と子どもとの関係性の中でです。このような事例研究のあり方に、村山正治・九州大学名誉教授は、パーソンセンタードアプローチの視点から「PCAGIP」と名付けた事例検討のあり方を提唱されています。僕は、発表するその人自身のことを語ってほしいと常に思っています。今回の土井さんもそうでしたが、僕たちの仲間のこれまでの全難言での発表もそのようなものになっています。
 
 さて、一方は「吃音改善」のために、からだに注目した実践。もう一方は、吃音改善をめざさない「哲学的対話」の実践です。コーディネーターとして、何か共通するものはないか、発表を聞きながら考えていました。そこでふと思いついたのが吃音氷山説です。実は、事前に、発表内容を知らされたときには、共通点として、氷山説は思い浮かびませんでした。当日、ふたりの発表を聞き、今後の実践に使えそうな視点はないかと考えた時に、氷山説がふと出てきたのです。
 このような全国規模での研修会で、実践発表をするとことは、勇気のいることです。発表してよかったと発表者が思って下さることがとても大事なことだと、コーディネーターの僕は考えています。共通項が見つかってよかったです。
 吃音氷山説は、吃音は氷山のようなもので、海面に浮いている目の見える部分は、吃音の問題のごく一部で、本当の問題の大部分は水面上に沈んでいるというものです。

 行動…どもりを隠し、話すことから逃げ、生活のさまざまな場面で消極的になる行動
 思考…「どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」「どもりは治る、治さなければならない」などの、自分をしばり、みじめにする考え方
 感情…どもることへの不安む、恐怖、どもった後の恥ずかしさやみじめさ、罪悪感など
 からだ…緊張し、人とふれあうのを拒む体
伸二1
 ふたつの発表は、一方は技術面へのアプローチもしているものの、心理的アプローチもし、今回は「からだ」へのアプローチです。海面下の問題に注目しての実践であることは共通しています。そのことを、氷山説をもとに解説しました。僕たちが、竹内敏晴さんから「からだとことばのレッスン」で学んだことも少し話しました。「からだ」へのアプローチはとても大切です。今後「からだ」を意識した取り組みが多く出てくることへの期待も話しました。
 ただ、「からだ」への注目は大切ですが、僕たちは、「吃音の改善」を目的にはしないことは伝えました。吃音に対してどのような考え方をもっているかで、指導・教育は変わります。たとえば、周りから見たら言語訓練をしているように見えても、目的が違えば本人に与える影響は全く違うものになります。「吃音を改善してあげたい」との目的で、音読や発声練習をするのと、吃音の改善は全く目的にせず、子どもの表現力を育てようと絵本や、文学作品を声を出して読むことを楽しむのとは全然違うのです。
 そのことを伝えて、午前中の僕のコーディネーターとしての役割を終えました。僕の吃音の取り組みについては、午後から2時間の講義・講演があるので、そこで詳しく話そうと思います。役割を終えてほっとしました。
 
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/11

吃音の夏のスタート 全国難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会 1日目

   吃音の夏のスタート

 時の流れは早いもので、今日はもう8月9日。公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会と親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会も終わり、今は30回目の吃音親子サマーキャンプの準備をしています。記録として残しておきたいので、繰り返すところもありますが、もう一度、全国大会から講習会までを日記風に振り返ります。

 8月1日、特別な思いで、三重県津市に向かいました。その日から、全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会三重大会と、その後、第8回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会が開催されます。
 三重県津市は、僕の故郷。高校までを過ごしました。冗談でよく言うのですが、「いい思い出など何ひとつなかった」故郷です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、堀内孝雄の歌、確か「遠くで汽笛を聞きながら」のフレーズに「何もいいことがなかったこの街で」とありますが、まさにそのとおりです。
 鶴橋から近鉄電車・アーバンライナーに乗ると、2つ目の駅が津でした。タクシーで、会場の三重県総合文化センターに行きました。津市の中心部の町並みは変わりませんが、会場に近づくにつれ、新しい建物が増えてきます。
 とにかく暑い津でした。日本吃音臨床研究会の仲間が、書籍販売のブースに、送っておいた書籍を並べます。テーブルを2つ借りていましたが、いっぱいです。たくさんのことを考え、本として残してきたのだなあと思いました。
全難言大会 書籍ブース 毎年、全国大会では仲間が書籍販売をしてくれます。そこには、全国にいる知り合いが寄ってくれ、書籍販売ブースが「たまり場」みたいになっているのがおもしろいです。
 今大会の事務局長の辻大輔さんが、会場内を走り回っています。最後の力を振り絞って、全体を取り仕切っていました。
 初日は、基調提案と記念講演でした。その後、会場をプラザ洞津に移して、交流会です。
 ここで、僕の古くからの知り合いの小島玉子さんに会いました。長年ことばの教室の教師をし、三重県のことばの教室の中心人物です。小島さんとは、東京で開催された研修会で会いました。どういうきっかけで話しかけたのか覚えていませんが、津市出身だと分かり、意気投合しました。その小島さんとの長いつきあいで、三重県での大会では必ず僕を講師として呼んでくれました。1997年5月、僕のことを取り上げてくれた新聞の7回連載記事掲載の最終日、僕は、三重県言語・聴覚障害研究会の総会で記念講演をすることになっていました。新聞掲載の最終日に、故郷・津で、教師に向かって話すという不思議な縁に、過去とのひとつの決着を感じたのを覚えています。そのことについて書いた「スタタリング・ナウ」の一面記事は、また後日、紹介しようと思います。
交流会 民謡3人 小島さんは、僕たちの吃音親子サマーキャンプにも何度かスタッフとして参加してくれていますし、長いつきあいがあったからこそ、今回の全国大会の吃音のコーディネーターの話が僕に回ってきたのだと思います。その小島さんが直前に体調を崩したと連絡があり、心配していたのですが、交流会会場の入り口で、尺八の演奏で迎えて下さいました。また交流会ではお連れ合いの誠司さんの三味線と尺八の演奏と、尾鷲節の名人の民謡の素晴らしい声が、僕たちを歓迎してくれました。
 お酒が飲めない上に、非社交的な僕は交流会が大の苦手です。テーブルに座っているだけでしたが、次から次へとたくさんの人が話しかけて下さって、なつかしい再会もありました。静岡のわくわくキャンプでご一緒したことばの教室の担当者にも会いました。九州地区のことばの教室の人たちも話しかけてくれました。全国大会の吃音分科会のコーディネーターも何度もさせてもらっているおかげです。
 宿舎のホテルには、僕の仲間が全国から集まっています。一滴のお酒も飲めないのに、居酒屋に行くみんなにつきあいました。僕の仲間はお酒の席でも、吃音やどもる子どもたちの話ばかりしています。その他の話題は全くありません。本当に吃音を愛し、どもる子どもが大好きな人たちです。吃音に悩んで、そのせいで何もいいことがなかった故郷の津市で、全国から集まった僕のいい仲間と吃音の話で夜が静かにふけていきます。吃音に悩み、吃音に必死で取り組んできた僕へのご褒美のような楽しく、うれしい時間でした。
看板と共に 明日は、午前中が吃音の分科会、午後からは僕が講師をする吃音の講習会です。分科会では、仲間の横浜の土井幸美さんが発表します。「吃音を生きる子どもに同行する、教師・言語聴覚士の会」の仲間が集まっている中で、「対話でひらく吃音の世界〜どもる子どもたちの<ことばの力>を信じて〜」とのタイトルで、子どもたちとの実践を発表します。
 全国大会の1日目(2019年8月1日)は、こうして静かに過ぎていきました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2019/8/9
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