伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2017年09月

どもる若い女性の 吃音と向き合う青春物語



 ラジオドラマのうれしい数々の受賞と、再放送

 吃音の夏が終わり、朝晩は涼しくなりました。
 暑い夏が長く続き、一気に冬になる、そんな季節の移り変わりを最近よくみてきたように思います。いつだったか、立川志の輔の落語を聞きに行ったとき、残暑が厳しかったその年のことを、「この暑さ、大晦日まで続くんじゃないでしょうかね」なんて枕に使っていたことを思い出します。でも、今年はしっかりと秋を味わうことができそうです。

 今年の3月の終わり、吃音をテーマにしたラジオドラマのことをこのブログで紹介しました。「5拍子の福音」というタイトルでした。プロデューサーの方から連絡をいただき、シナリオの段階から、少し関わった作品でした。僕たちの意見を取り上げていただき、シナリオに反映させてもらいました。声優さんにもお会いし、どもり方を事前に見せてもらい、少しだけアドバイスしました。映像のない、ただ声と音と効果音だけで、世界を表現することの奥深さを初めて見た貴重な体験でした。

 その「5拍子の福音」は、その後、毎日テレビの「マンスリーレポート」でとりあげられ、制作の裏側を知ることになりました。
 大阪吃音教室の4月8日の開講式では、その「マンスリーレポート」を見てから、「5拍子の福音」を聞き、みんなでその感想を言うという講座を持ちました。
 大阪だけでなく、神戸スタタリングプロジェクトでも、その取り組みは、行われました。
 
 とても印象に残る「5拍子の福音」は、僕たちだけでなく、ラジオドラマのジャンルで、かなり高い評価をしていただいたそうです。
 最初に連絡していただいたプロデューサーの方からは、その後、折に触れ、連絡をいただいていました。
 6月には、放送文化の質的な向上を狙って設立された放送批評懇談会という放送業界において権威ある団体が表彰する「ギャラクシー賞」の2016年度ラジオ部門の入賞作品に「5拍子の福音」が選ばれました。2016年度に放送されたラジオ番組の中から、上位8本が選ばれるのですが、その8本の中に入ったということです。6月1日の夜、大阪への帰りの新幹線の中から、選奨になったとの連絡を受けました。弾むようなメールをいただき、僕たちも心弾む思いでした。

 そして、民間放送連盟賞のラジオエンターテインメント部門、近畿地区の最優秀作品賞を受賞。続いて、各地区の作品を集めた中央選考会では、優秀賞と決定したそうです。
 作っては消えていく世界だということは、ある意味、仕方のないことだと思っていましたが、意外なことに、こうして余韻を楽しむことができ、関わった僕たちにとっても、印象深い、心に残る作品になりました。

 プロデューサーから、再放送の連絡をいただきました。文化庁芸術祭に出品するとのことで、急遽再放送となったそうです。
 10月4日、19:00〜20:00です。毎日ラジオ放送なので、どの地域の方にも視聴していただけないのかもしれませんが、rajiko.jpという媒体では、聞くことができると聞いたように思います。地域限定のお知らせになってしまいますが、ぜひ、お聞き下さい。ひと味違う吃音の世界の豊かさを味わっていただけると思います。

日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2017/09/26

第28回吃音親子サマーキャンプ 打ち上げ会

   どもる人が吃音親子サマーキャンプに参加する意義

    第28回吃音親子サマーキャンプ 打ち上げ会で
 9月16日、午後5時より、今年のサマーキャンプの打ち上げ会を行いました。
 関東地方のスタッフから、「参加したいけれど…」という声はありますが、さすがに新学期が始まって約2週間で、大阪に出てくることは難しいでしょう。大阪スタタリングプロジェクトのメンバーを中心に、神戸からのスタッフも交えて、サマーキャンプを振り返りました。
 台風が接近しているという状況の中でしたが、3時間30分という長い時間が、短く感じられる楽しいひとときでした。
 サマーキャンプで稽古して上演するための芝居のための合宿から始まる吃音親子サマーキャンプは、この打ち上げで終了します。来年のキャンプが今から楽しみになる時間です。
 参加者は、11名でした。

 それぞれのスピーチは、参加していた子どもの動向が中心です。プログラムの中で起こったさまざまなできごと、初参加の人たちの変化の様子など、多岐に亘り、サマーキャンプの再現フィルムを見ているような時間でした。みんな、子どもたちや親のことをよく見ているなといつも感心します。
 結局は、人への関心、興味、愛情のある人たちだから、このようなキャンプが毎年開けるのだと思います。全体を振り返って、小見出しをつけてみました。

どもる当事者がサマーキャンプに参加する意義

◇今回は、ビデオ撮影をしたおかげで、親の学習会に参加し、兵頭雅貴君の話を聞くことができた。伊藤さんからも兵頭君の話は聞いていたが、それとはちょっとニュアンスが違っていた。雅貴君が苦労したのは、どもることからくるものではなく、周りがとてもよくしてくれているのに、それに応えることができない自分が悔しいというものだった。周りはみんない人だった。「こんなにどもっていて、地域住民の命が守れるのか」と言った教官も、雅貴君のことを思ってのことばだった。消防学校の人たちは、みんないい人だったからこそ、辛かったという話だった。伊藤さんのインタビューに、雅貴君は質問にしっかり受け答えしていた。自分を語ることができる力がある。そしてまた、吃音を克服しましたという話ではなく、今も、どもることに苦労しながら、苦しみながら、それでもがんばっているという話がよかった。周りの人から自分にかけられたことばをよく覚えていて感心したが、それは、かけられたことばを自分に刻み込んでいるのだろう。インタビューによって、質問されることによって、引き出される物語がある。どもる当事者が、親の話し合いのグループに入り、体験を話すことがよくあるが、自分を語る力を持っておかないといけない。どもる当事者がキャンプに参加する意義のようなものについて考えてみたい。

◇去年11月に、沖縄のキャンプにスタッフとして参加した。この滋賀のキャンプは、スタッフとしては初めて。参加者としては20年前に高校性の時に参加している。私が参加していた頃とは違って、参加人数は多いし、プログラムもきっちりしていた。
 このキャンプに参加しようと決めたときから、家族の中では、いろいろな話し合いがあっただろうと思うと、初めのプログラムの出会いの広場で、もう胸がいっぱいになった。話し合いの時間が印象的で、自分自身のことをふりかえることができた。話し合いのとき、参加している親から「子どものころ、どうだった?」と聞かれた。どこまで話したらいいのか、とまどった。私の体験は私だけのものであり、ほかの人とは違うだろう。私が、どもる人を代表しているわけではないし、私が話すことによって、参加している親にその話がどう影響するだろうかと思うと、ちょっととまどいも感じた。どもることで、いいこともあったし、嫌なこともあったし、今もある。とまどいながらも、話せることは話した。

◇サマーキャンプには、ことばの教室の先生、言語聴覚士、当事者など、いろんな立場の人が参加する。私たちどもる当事者にできることは、自分の経験を語り、それを聞いた親たちが、将来の見通しを持てることだと思う。それは、私たちにしかできないことだ。吃音で苦労するネガティヴな話で終わったら、親は不安になるだけだと思う。自分の話す内容については、聞き手である親を意識することが大事だと考えている。

◇自分のことばで自分のことを語るということがよく言われる。でも、自分が思ったこと、感じたこと、経験したことをそのまま話したらいいということではないと思う。このことを話したら、聞いている人はどう思うだろう。話そうとしていることは、この場にどう影響するだろう。そんなことを、瞬時に、俯瞰して、考えて、語っていくことが大事ではないだろうか。自分のつらかったこと、しんどかったこと、いじめられたことがすぐ頭に浮かび、その経験を話したら、聞いている親は、どう思うだろう。ネガティヴ・キャンペーンをしてはいけない。ネガティヴな経験はもちろんあっただろうが、そこから、どう解放され、どう立ち直ってきたか、どう立ち上がってきたか、そのために何が必要だったか、そんな話も同時にしていくことが大切ではないかと思う。だから、常に、自分の吃音にまつわる経験を、整理しておくことが大切になってくる。また、ちょっと立ち止まることは、どもりの人は有利だと思った。なぜなら、これまでも、このことを言おうと思っても、どもるかもしれないと思うと、瞬間、迷ったり、ことばを選んだりしている。ことばを思いつくと同時に、僕たちはこのことばはどもるかどうかを吟味する。立ち止まる。このことはネガティヴなこととしてとらえることではなく、むしろ、どもる僕たちの有利なこととしてとらえることができる。
 吃音親子サマーキャンプの話し合いでは、どもるかどうかではなく、これを保護者の話し合いの場で話していいかどうか、瞬間、立ち止まってみることが大切だと、僕は思う。オランダでの第10回世界大会で出会った、世界的な小説家、デイビッド・ミッチェルさんが、どもりたくないために言い換えてきたその技術のおかげで、語彙数が増え、小説家としてはよかったと言っていた。それと同じで、どもる人も、経験を語る前に少し立ち止まることは大切だ。

卒業式での4人の卒業生の話

◇卒業式での卒業生の4人の話は、大阪吃音教室に何年も参加している人が話すような内容のようだった。どもりながら、一言一言確認しながら話している。自分の中からでてきたものを素直に表現していた。かっこいいなあと思った。親の話し合いの中で、親からいろいろ当事者のスタッフに質問があって、一生懸命私たちは応えるけれど、あの卒業式での高校3年生の話が、親たちにとっては、一番薬になると思った。

◇初めて参加できてよかった。サマーキャンプに参加して人生が変わった、180度変わったと、参加した人から何度も聞いていた。大人の人生を変えるサマーキャンプってどんなのだろうと思っていたが、僕も同じで、180度変わった。卒業式で、卒業生4人ともが、自分たち以外にどもる子に会えてよかったと言っていた。僕も、サマーキャンプには参加していないが、大阪吃音教室で、自分以外のどもる人に会えてよかったと思っている。それと同じことを子どもたちが言っていて、涙が出そうだった。サマーキャンプは、どもる子どもにとって、大きな意義があるのだろう。子どもの頃にキャンプがあったらよかったと、なんか、うらやましかった。

◇親はなくても、子は育つというが、娘の卒業式でのあいさつは、親として誇らしい気持ちだった。人前で、あんなによくしゃべるとは思わなかった。彼女は、少ない友だちとじっくりつきあうタイプだと思っていたので、人前で堂々と話す姿にびっくりした。いざとなれば、雄弁なんだと思った。僕は、話している途中でふらふらと横にそれたり、聞いている人の反応で、話が変わっていってしまうが、彼女は最後まで本筋でしゃべっていた。

◇卒業式での4人の卒業生の話がよかった。4人とも、誰が言っても同じということではなく、今、生まれてくる自分の思いを、それにふさわしいことばを選んでしゃべっていた。紙に書いてあるものを読むみたいな、通り一遍の話ではない。どもらないよう、すらすらしゃべることを目指していないこのキャンプで、私たちが大切にしたいと思っていたことを、こんな子に育ってほしいと思っていたことを、見事にそこで表現してくれているという感じがした。まさに、卒業生にふさわしいスピーチだった。

◇確かに、4人の卒業生の話は見事だった。卒業式でのあいさつは、こうするんだよと教えたわけでもない。僕たちは、1年に一度、3日間だけ、このサマーキャンプという空間で、共に過ごしている。どもっていてもいいんだよ、ということを口に出しているわけでもない。ただ、僕たち自身が、自分の言いたいことを、どもっても伝えようとしているだけだ。どもりながら、楽しそうに芝居をする姿を見せているだけだ。それらが漢方薬のようにじわじわと効いているのだろうか。これまで見聞きした卒業式での卒業生の姿が、いい文化として根付いているのは間違いない。今年の卒業式でも、見守る周りの人たちはすてきだった。小さい子も、親のパフォーマンス、芝居の上演、それに続く卒業式・ふりかえりという2時間を超える長丁場をしっかり支えてくれている。その中での卒業式、やっぱりいいもんだなと思った。

サマーキャンプは、いろんな人を変える力がある

◇どもる当事者で初参加したスタッフは、最初はどんなふうに参加したらいいのか居心地が悪そうだった。そこで、スタッフどうしで話をした。自分の立ち位置がはっきりしたのか、だんだんと表情が変わっていった。翌日は、自分のことばで自分の経験を話していた。どもる自分ができることは何かを考え、どもる自分だからこそ言語聴覚士になろうと思ったと話していた。

◇事前レッスンから参加できてよかった。人前で演じることなんて苦手だったけれど、サマーキャンプの劇は気持ちよかった。周りからもよかったと言ってもらえた。そして、子どもたちが、どもりながら劇をするのを見て、いいなあと思った。どもる子どもがどもりながらがんばっている姿を見て、自分もがんばらないといけないなと思った。5月から7月頃にかけて、転職しようといろいろやっていたけれど、行き詰まって就職活動がストップしていた。でも、またがんばろうという気になった。子どもから、勇気をもらった。

◇事前レッスンのときから、せりふがだんだん変化していった。登場するだけで笑いが起こっていた。それは自分でも分かるだろう。いつもは、早口だけど、今のスピーチも聞き取りやすかった。

◇サマーキャンプに参加して、いろんな立場の人がよかったというけれど、スタッフも一緒で、もしかしたら一番得しているかもしれない。サマーキャンプは、いろんな人を変える力を持っているんだなと思う。子どもから勇気をもらったと、スタッフのひとりが言っていたが、確かに、子どもから、勇気をもらうことってあるなあと思う。僕は、今年の話し合いで、4年生の担当だった。4年生は、初参加の4人を含めて7人だったけれど、どの子も、それなりにどもる子が多かった。これだけどもっていて、それでも、この子たちは、毎日学校に行っている。それだけでも、この子たちは、すごいなとすなおに思う。

ひとりひとりが自分の持ち場を分かって、自主的に動いている

◇今年は、1時間前に自然の家に行って、準備の手伝いができた。少しは役に立てたかなと思う。できたら来年も続けたい。きょうだいグループは話し合いをしなかったけれど、最初にそう宣言する必要はなかったかもしれない。来年は、少しでも、きょうだいとして、どもりのことを話し合ってみたい。来年は挑戦してみたい。

◇今回は、初参加で、劇の時グループに入れなかった子どもにつきあった。そのために、劇を見ることができなかったけれど、今までも、こういうことがあったのだろうと思った。そして、きっと誰かが、こんなふうにかかわっていてくれたのだろう。今年は自分だったということだ。彼は、私との会話では、いろいろ学校のことを話してくれた。どもりだから、友だちもできなかったと言っていた。劇はちょっと彼に合わなかったようだが、話し合いは楽しかったと言っていた。ウォークラリーも楽しかったと言っていた。

◇一人ひとりが自分の持ち場というか、役割を分かっていて、動いていたなと。みんなが劇の練習をしているとき、一人のスタッフが、劇の練習に入れない子の対応をしている姿は、別のグループだけど、ちらちらと見えていた。関わってくれているんだなと分かった。そんなふうに、みんなが自分の持ち場を守っているから、28回もサマーキャンプが続いているのだろう。目立たないところで、お茶の補充をしてくれている人もいた。それらが見えるようになったのは、僕に少し余裕ができたからだと思う。サマーキャンプは僕にとって、特別の空間だ。どもりだったおかげで、どもる人のグループと出会い、サマーキャンプとも出会えた。世界が広がった気がする。

◇いろんな思いをもって、このサマーキャンプにみんな参加してくる。現在通っている学校で問題ありと言われてしんどい状況の人もいる。でも、このサマーキャンプでは、そんな、一見大変そうな子どものことを語るとき、重苦しい雰囲気ではなく、楽しそうにおもしろそうに、その子と自分のやりとりを、スタッフ会議で語る。そして、ほかのスタッフも、それを楽しそうに聞く。これはすごいことだと思う。子どもを見る目が違う。この空間の温かさ、やさしさ、幅の広さ、奥の深さは、何事にも代え難い。これは、スタッフ一人ひとりが、自分の役割を自覚して、動いていてくれるからだと思う。

よくできたプログラム

◇芝居のことを話したい。何回も参加しているベテランの子どもたちの演じ方がとても頼もしかった。そして、初参加の子どもたちの貢献が目立った。年上の子が、年下の子の世話を丁寧にしていた。長いせりふをちゃんと覚えてきていた高校生もいた。初参加なのに、芝居のことで、アイデアを出し、みんなの演技にちゃんと反応していた。そんなふうに、芝居の練習の時間がうまくまわり、楽しいものだった。

◇キャンプ全体の内容がバラエティに富んでいて、改めて良いプログラムだと思った。話し合い、作文、劇、ウォークラリー、全てに意欲的に取り組める子も中にはいるだろうが、全てではなく、何かひとつでも、どれかがぴたっときて、そこで、自分を表現できたらいいんじゃないかな。

◇親の話し合いで感じたのは、初参加の親は、これまで経験した自分のことしか話せない。しかし、キャンプに複数回参加すると、その経験を話すことができる。経験がストックされていくのは、語りを豊かなものにしてくれる。何回も参加していくことによって、年々変化していくのだと思う。

◇出会いの広場とてもがいい。時間を一緒に過ごしていく中で、じわじわと、参加者がすなおになっていく感じがする。

◇プログラムは、もう20年以上変わっていない。変えていないという方が正しいかもしれない。よく出来ていると思う。バラエティに富んでいるので、どの子にも、何かヒットするものがあるのだろう。

◇初参加の人と、短い時間でもいいから個別に話す時間をとった方がいいかなと思った。何かあった時に、さっと関わることができる。サマーキャンプのこの空間は、奇跡みたいで素晴らしい。でも、このキャンプのことを学会で発表したとき、ごく一部だけど、学者の反応はかなり冷たいものだった。でも、めげずに続けてきた。キャンプに参加した人たちが、少しでも変わってくれたらそれはありがたいことだ。基本は、僕たち自身が楽しい思えること。義務でしているのではなく、楽しいから続けている。そしてそれが結果として、誰かの役に立っていれば、とてもうれしいことだ。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/09/20

吃音のもつ豊かな世界への招待





  大阪吃音教室 9月29日(金)〜櫛谷宗則さんをお迎えして〜
   法話  吃音を新しいいのちの明るさで生きる

 昨年に引き続き、新潟県五泉市にお住まいの禅師、櫛谷宗則さんをお迎えします。
昨年は、「自己の存在価値を自身の中に見出す」とのタイトルで法話をしていただきました。どもる、どもらない、治る、治らない、を超えた深い、吃音のもつ豊かな世界を明るく照らしていただいたように思います。今回も、大阪での坐禅の会の前日に来ていただけることになりました。ひと味違う講座をお楽しみ下さい。

◇櫛谷さんプロフィール◇
 昭和25年、新潟県五泉市の生まれ。19歳の時、内山興正老師について出家得度。以来安泰寺に10年安居し、老師隠居後は近くの耕雲庵に入り縁ある人と坐る。老師遷化のあと、新潟に帰り、地元や大阪等で座禅会を続けている。
 著書 「禅に聞け」「生きる力としてのZen」「内山興正老師いのちの問答」(大法輪閣)「共に育つ」(耕雲庵)

 
マインドフルネスが流行っています。ストレス軽減に役立つ、健康によい、仕事が能率よくやれる。人間の役に立つことは、勝った負けた、得だ損だ、良いだ悪いだの世界で役に立つことです。でもそういう人類の営み、私の人生は、何の役に立っているのでしょう。只美しい地球や人生を荒らしているのではないでしょうか。何の役にも立たないということは、人間のモノサシでは量れないということ。量りきれない寿(いのち)、量りきれない光、それを純粋に頂く姿勢が坐禅です。だから、坐禅の功徳は、無の功徳です。何にもならないという無の輝きのなかに坐るのです。考えてみると、私が生まれてきたということそのものが説明のつかないこと、不思議という他ないことです。そしたら、そのあとに展開される出来事はみな不思議という他ありません。この身体は私のモノでは無く、この世に私のものなど何一つ無いでしょう。その天地一杯のいのちが息吹きのように、坐禅みずからがただ坐るなかに安らいでいます。きのう死んでもおかしくない私が、今日いのちを賜っている。そのあり得ない真実が私を坐らしめています。今ただこのようないのちにある。それを私が向こう側に見て知るのではなく、自分を手放すなかにそれを成らしめられていくこと。その方向を深く心に刻みつけることが正念(マインドフルネス)です。   (9月30日・10月1日 ブレマ・サット・サンガでの坐禅の案内より)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/09/14

吃音親子サマーキャンプ番外編 とりあえが言い置く

 
 価値観は押しつけられない

 吃音親子サマーキャンプへの批判は前回紹介しました。批判の中に、子どもたちの「吃音を治したい、改善したい」と言うニーズを無視して、自分たちの「吃音と共に生きる」という価値感を押しつけている、というものがあります。僕たちは直接に「どもってもいい」とか、「吃音を受け入れよう」との話は一切していません。ただ、自分たちが経験して、考えてきたことを、「僕たちはこんな体験をした、そして、こう考える」と自分の人生を見せながら語っているだけです。

 自分たちの「立ち位置」「価値観」を子どもに押しつけている。こんな批判が相変わらず聞かれるのは、実際に吃音親子サマーキャンプを体験しない人たちのことばです。是非、体験して欲しいと僕たちは考えています。

 子どもたち、保護者やスタッフが吃音についての文章を綴っている90分、キャンプに初めてスタッフとして参加した人と、2回目程度の人を対象に、「吃音親子サマーキャンプ基礎講座」が開かれます。キャンプで大切にしていること、スタッフとしての心構えを学んでもらうためです。質問の中にこれまで途中で帰った人はいるのかというものがありました。27年の中、途中で帰った人が二人いました。ふたりとも高校生でした。その一人のことを詳しく話しました。

 石川県教育センターに教員研修で行っていたとき、紹介された高校生は、不登校になって、教育センターでカウンセリングを受けていました。昼ご飯を食べながら話したとき、僕がどもりながら話すので、安心したのか不登校の原因が吃音だというのです。しかし、そのことは親もセンターのカウンセラーも知りません。吃音が原因で不登校になっているのを知られるのは絶対に嫌だというので、「自己成長のためのキャンプ」と名前を変えた案内を送って参加した高校生です。


 その高校生が、早朝帰ると行って姿を消しました。スタッフは大慌てで探し回りましたが、最寄り駅のベンチで始発電車を待っていました。彼にとって、キャンプは負担だったのかと思ったのですが、一年後、石川県教育センターでの講義のために、宿泊したホテルに彼と、母親が尋ねてくれました。途中で帰ったけれど、キャンプの話し合いと、その夜知り合った高校生との交流で、彼は変わったそうなのです。その時のことを、以前のスタタリングナウに少し書きましたので紹介します。


      
  とりあえず言い置く

 「ぼくはまだ未熟な医者です。もっと勉強しなければなりません。でも、勉強はそう簡単なものではなく、上には上があります。先輩をみて、せめてあれくらいの腕をもちたいと思っても、なかなか辿り着けません。かといつてそこに辿り着いてから治療しようと思えば、その間、僕は医者としては働けません。未熟だけれど、とりあえず未熟なままで治療するほかはないのです。また、この病気はこうすれば治る、と自信がもてれば問題はないが、やってみなければ分からないのが治療です。この薬はこれまで同じようなケースでは効いていた。だから今度もとりあえず使ってみようと薬を出す。効かなければその時考えよう。8割方は効く薬を出すがく効かないことも有り得る。目の前のケースが効く人なのかそうでないかは、神のみぞ知るです」
            一とりあえず主義とは一『ちくま』1998.10

 精神科医・なだいなださんは、このようにとりあえず行動する生活の姿勢をとりあえず主義といい、自らを《とりあえず主義者》という。
 私も、なださん同様、《とりあえず主義者》だが、さらに《言い置く主義者》でもある。
 大阪教育大学・特殊教育特別専攻科の集中講義で、吃音親子サマーキャンプの体験を話した時、途中で帰った高校生のことにも触れた。すると、人にはそれぞれ時期があり、花でもその成長を待たなければならない。性急にその高校生に迫りすぎたのではないか、との率直な指摘があった。
 吃音に悩み、何かを求めてきた高校生に、その時は誰が時期尚早か判断できずに、とりあえず、キャンプを勧めたのだった。明らかに、集団に入るのはまだ厳しすぎると思う例も時にはあるが、それほど多くはないからだ。
 個人面接や大阪吃音教室で、吃音について、私たちのこれまでの実践や考えてきたことを話す。とても共感し理解してくれる人もいるが、反発する人もいる。これまで信じてきた考えと、かなり違う主張は、自らの体験を通さなければ、受け入れることは難しい。
 吃音に悩む人に向き合ったとき、私がその人に何ができるかとても心もとない。吃音を治したり、改善したり、どもり方を変えるなど、とてもできないことだから、それはできませんとはっきりと言うことができる。また、吃音は治らないとは言えないまでも、私たちの吃音は治らなかったと、大勢のどもる人の体験をそのまま事実として伝えることはできる。
 治らなかったものを治らなかったとは言えても、「〜ができる」は、本人が行動しなければならないことだけに、言い切ることは難しい。
 「吃音は治らずとも、自分らしく吃音と共に生きることはできる。それを一緒に考え、行動することには私たちも一緒につきあえる」。こう言われても、これまで、吃音が治らないと人生はないとまで思い詰めてきた人にとって、容易には受け入れられないことだろう。それを承知の上で、分かってもらえるかどうか分からないけれども、とりあえずは言ってみる。このように「言い置く」ことしか私にはできないのだ。
 20数年前までは、吃音に悩む人を前にして、自己の体験、多くのどもる人の体験をもとに、提案というより、「吃音を受け入れよう」と、説得をしてきたように思う。今は、とてもそのようなことはできなくなっている。
 人が他者の吃音を治したり、軽くしたり、どもり方を変えたりできないのと同じように、どもる人の生き方にっいて、他者が変えることはできない。
 私たちは自らの体験を語り、できるだけ多くの人の体験を紹介することしかない。その体験を知った人が、何に気づき、どう動くかは、その人自身のことなのだ。私たちの情報提供や提案に反発しても、私たちの考えは、体験はとりあえず伝える。
 その人が何かの壁にぶつかったり、吃音と直面せざるを得なくなったときがチャンスだ。その機会がその人に訪れた時、私たちが言ったことを思い出してくれればいい。時期尚早かどうかは、その人が決めてくれるものだと信じて、今日も、とりあえず言い置くことを続けている。
1998.10.17 「スタタリング・ナウ」NO.50


日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2017/09/11

吃音を治そう、改善しようとしないのは、危険思想か?


   第37回日本特殊教育学会
     吃音親子サマーキャンプ10年を報告して批判を受ける

 もう、18年前になります。北海道で行われた第37回日本特殊教育学会で、僕は、吃音親子サマーキャンプ10年の実践報告と題した発表をしました。
「吃音を治す、改善する」ことを目指した、訓練的なキャンプではなく、「吃音を肯定的にとらえる」ことを目指したキャンプだと報告しました。すると、吃音分科会の二人の座長が、示し合わせたように僕を強烈に批判しました。吃音は治せるのに、治そうとしないで、「吃音と共に生きる」ことを目指すのは、危険思想だというのです。「それでは、あなたたちは治せるのですか」と反論したのですが、それが油を注いだようで、僕にはとうてい理解できない論理で、大勢の参加者の前でさらに批判されました。内須川洸筑波大学教授や僕を氷解してくれている研究者も同席しています。

 良い機会だと思って、大勢の参加者の前で議論ができればと、私は覚悟を決めました。発表予定者のひとりが体調を理由にキャンセルしたために、時間はたっぷりとありました。にもかかわらず、座長権限で、一方的に批判されたまま、何を批判されたのかもわからないままに、吃音分科会は終了を宣言されてしまいました。不思議な経験でした。

 「吃音は治せる」というのは、後で考えれば、どもりはじめの幼児吃音のことを指してのことだったのかと思います。確かに、幼児吃音の場合は、小学入学時までなら、45パーセント程度が、指導も何もしなくても自然に消失(自然治癒)します。かつては、自然治癒は80パーセントと言われた時代が長く続き、今でも、70パーセントと主張する人もいます。

 しかし、学童期になると自然消失は極めて少なく、「治っていない」場合がほとんどなのです。幼児吃音を頭に入れて「自然に治る、ちょっとした訓練で改善する」と言われても、学童期の子どもにはあてはまらないのです。吃音親子サマーキャンプは、その学童期・思春期の子どものためのものなので、「治す、改善する」の副作用を熟知している僕たちは、「治す、改善する」にとらわれず、吃音と共にいかに楽しく生きるか、吃音がマイナスに影響しないで生活できるようになるかを目指していたのです。結果として吃音は変わっていくのも事実なのですが。

 今でも、18年前と変わらない批判が僕たちに寄せられています。何も変わっていかない吃音の世界ですが、それでも、今年、28回目のキャンプが終わりました。たくさんの子どもたちが、幸せに生きることができるようになっています。キャンプり卒業生が様々な仕事について活躍しています。その成果を、僕を批判している人たちは、無視し続けるのでしょうか。

 日本特殊教育学会の予稿集に掲載された文章を紹介します。
なお、論文の中に、「吃音児」「吃音者」「吃る」ということばが出てきます。今は、これらのことばを使わなくなりましたが、18年前は使っていました。原文のまま、紹介します。

 
日本特殊教育学会  言語障害6-7
          吃音親子サマーキャンプ10年の実践報告
                       伊藤伸二 (日本吃音臨床研究会)
              key words: 学童吃音、親指導、セルフヘルプグループ

はじめに
 思春期および思春期以降の吃音者が、高校・大学に行けなくなる。就職した後、厳しい現実の社会生活の中で、吃音に悩み、仕事場に行けなくなる。このようなケースが最近増えてきた。小学生の不登校も増えている。
 これらの場合、学齢期から思春期にかけて、吃音の話題を避け、吃音と直面せずにきた人が多い。吃音を否定し、隠し、話すことを避けてきた筆者の内省から、学齢期に、吃音をオープンに話題にし、早期に自らの吃音と直面する必要性を考えてきた。早期に吃音と直面し、吃音と共に生きる自覚を持つために、10年間、吃音児のためのキャンプに取り組んできた。その第9回のキャンプの概要を紹介しよう。

概要
 1998年8月21・22・23日2泊3日で行われ、吃音児、吃音児をもつ両親、公立小学校言語障害学級教師、スピーチセラピスト、成人吃音者など91名が参加した。

目的
 子どもたちは、吃音について自分のことばで話し、自分の悩みや苦しみを真剣に聞いてもらう経験がない。また、同年齢の吃音児だけでなく、成人の吃音者とも会っていない。自分ひとりが悩んでいると思っている。吃音と共に生きる道を探るにはこのことが必要なのである。早期にそれらのことができれば、吃音と直面し、吃音を受容し、吃音から大きなマイナスの影響を受けずに生きることができる。吃音症状の早期治療ではなく、早期受容のために、小学校1年生からの子どもを対象にしたサマーキャンプを開く。

活動
◇吃音についてのオープンな話し合い
 吃音に直面するとは、吃音の症状への直面ではない。自分の吃音をどう考えているか、どのような影響を受けているかに向き合うことだ。吃って笑われたり、いじめられたりした経験や、したいことで、しなかったことがあるか、もし吃音が治らなかったらどうするか、将来の仕事などについて話し合う。
 学齢期の低学年、中学年、高学年グループ。中学生、高校生とグループなどに分かれてグループで話し合うが、ひとりの吃音者とことばの教室の教師がファシリテーターとして加わる。初めて吃音について話したという子どもが多いのは、これまで、家庭でも、学校でも、吃音についての話題が避けられてきたためである。子どもたちは実によく話し、他人の体験に耳を傾ける。また、作文を通して自分を語る。
◇からだとことばのレッスンと、表現としての演劇
 吃音児の声は小さく、不明瞭で、相手に届くものでないことが多い。また、からだの緊張が大きく、かたい。からだとことばのレッスンで知られる竹内敏晴にスタッフが、キャンプで取り組む劇について、演出、指導を受ける。からだとことばのレッスンと合わせて、キャンプで子どもたちと劇に取り組む。宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュなど子どもたちが興味をもって取り組める演題が選ばれる。症状にアプローチするのではなく、吃音児のからだや声にアプローチし、相手に向き合うからだをつくり、相手に届く声が出るよう、生きる力となる声が出るよう指導する。
 吃音児の中には、学校生活の中で、吃るがゆえに、せりふの少ない役や裏方の仕事をしてきたという子どもは少なくない。吃りながらも人前で演じることの楽しさを知ってもらい、声を出す喜びを味わう。吃ってもいいという雰囲気の中で、演劇に取り組むことで、表現力をつける。登場人物になりきって、動作をつけながら、楽しく演じる中で、かたくこわばっていたからだがリラックスし、細かった声が張りのある生き生きとした声に変わっていく。
◇親の学習会
 吃音児がグループの中で話し合いをしているとき、親もグループを作り、話し合う。子どもの吃音について不安に思っていることや、悩みや困っていることを話す。子どもと同様、親も仲間と出会い、自分だけが悩んでいるのではないと実感する。その中で出てきた問題を解決するために、交流分析、アサーティブ・トレーニング、論理療法などを活用した学習会をもつ。

成果
「高校生も吃っていたな。僕も吃っていいの?」(7歳)
「何でどもりになったのかという暗い気持ちから、どもりでよかったという明るい気持ちになった」(10歳)
「2年の頃、よくからかわれたり、真似をされ泣いて帰ったが、3年生の時、キャンプに参加して、吃ってもいいんだと分かってから、発表ができるようになった。からかわれたら、「それがどうしたんだ」と言い返します。(10歳)
 吃音児は、吃ってもいいんだというメッセージを受け、徐々に吃音を受容していく。吃音を隠したり、逃げたりすることが減少する。学校でいじめやからかいにあっても、アサーティブに対応することができるようになる。
 親も、キャンプに入った直後にわが子の吃音をどうとらえるか、私たち独自の吃音評価法の3つのうちのひとつである吃音についての意識のチェックをする。キャンプ中にそれがどう変化したか、同一のチェックリストで調べるとかなりの変化がみられる。
 例えば、「吃音であれば、教師やセールスの仕事などつけない」と思っていた親が、できるだろうの項目へと変化する。また、「吃音をどうしても治したい」から、治るにこしたことはないが、どうしてもということではないに変化する。
 親は、将来吃音が治らずとも、明るく前向きに生きる成人吃音者と出会い、話をする中で、吃音症状に以前のようにはとらわれなくなる。キャンプに来るまでは子どもが吃っている姿を見るのは辛かったが、今は子どもが吃っていても平気でいられるようになったという父親がいた。
 父親が参加することで、家族で吃音児とかかわる態度が育成される。兄弟姉妹が吃音児を理解するのに役立つ。
 吃音児と親が、吃音を受容した吃音者に出会うことによって、将来、吃音が治らずとも、自分なりの人生を歩んでいけることを実感する。具体的なモデルを提示することになる。
 セルフヘルプ・グループで活動する吃音者と、ことばの教室の教師やスピーチセラピストが一体となって、スタッフとして取り組むことによって以上のような成果があがる。
                            ITO Shinji
                    
 日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二 2017/09/07

第28回吃音親子サマーキャンプ どもる子どもや親だけでなく、臨床家も変わる

  どもる子どもや親だけでなく、臨床家も変わる

 
 第28回吃音親子サマーキャンプの様子について、写真とともに紹介してきました。最後に、参加しての感想が寄せられているので、それを紹介します。
 どもる子どもやその保護者はもちろんですが、スタッフとして参加している人からも感想が寄せられています。子どもや保護者の感想は、またどこかで紹介したいと思っていますが、今回は、初めて参加し、メールで感想を送って下さった、沖縄と大阪でそれぞれ言語聴覚士として働いている人です。

 まず一人目は、沖縄からの参加でした。

 
参加者とスタッフは、ひとりひとりが主役で、対等

 初めてのキャンプ。あっという間の3日間で、本当に楽しくてびっくりしました。何より驚いたことは、スタッフ・親との区別がなく、本当に対等にかかわる意識がしっかりとあることでした。それは、スタッフが意識して実践しているだけでなく、数年でできた形でもなく、長年の歴史の中で実践して受け継がれて当たり前にそういう雰囲気に作りあがったものなんだろうと思いました。『一人一人が主役』という言葉や、『対等性』という伊藤さんの言葉が、現実に体験できて言葉と意味がしっかりと結びついたキャンプでした。

 私は親の話し合いに参加したのですが、そこでとても驚きました。それは何回もキャンプに参加しているお母さんたち。3名のお母さんは3年以上参加しているお母さんで、高校生や中学生のお母さんでした。今まさに悩んでいる親に対して、親の気持ちを受け止めてあげたり、自分もそうだった…という共感もとても上手でした。また、話し合いの流れもこうしたらいい…というアドバイスではなく、その親のいいところを伝えて自分はそんな風にできなかった…と伝えていたり本音を出しながら自然につながっていく感じがありました。まさに、同じ立場の先輩であるからできる語りでした。
 家庭で厳しくしていて将来のために何でも自分で言わせるようにさせている…という話の際には、子どもはどこまで嫌なのかなぁ…、食べれなかったり眠れないということがバロメーター…、私は鬼母で将来のために厳しくしていたけど、キャンプに来た時に先輩の親から「学校で頑張っているのだから家庭では手伝ってほしいと言われたらしてあげたらいいじゃん」と言われて肩の荷がおりた…など、結論ではなく自分の体験での話や、いろんな幅広い見方で話が展開されることがすごくいいなぁと思いました。グループなので自分からあまり積極的に発言をされない親ももちろんいます。でも、自分も聞いているだけでいろんなことを学び考えさせられたので、選択肢の幅を広げるような話し合いを聞いているだけで、きっといろんなことを感じられると思います。なので、発言をしなくてもこの場にいることの大事さを実感しました。親もスタッフも対等ということが実感できた話し合いでした。

 子どもとの劇は初めてで、緊張しましたがとても楽しく有意義でした。同じことに向かって一緒にすることや、苦手なことを逃げずに頑張る姿や、少しでも表現をして伝えていこうとする姿に、子どもの力を感じました。また、私自身人前に出ることは苦手なので劇に出ることは正直とっても嫌です。しかし大人が逃げてはいけない…と思い、子どもに勧められた私は酔っ払い役も覚悟を決めてしました。対等性…まさに実感です。

 また、言語聴覚士の立場としてとても得るものも大きかったです。どうしても『人のためになることをする』という思いで選んだ職業でもあるため、何かしないと…という意識だけが強く、テクニックを学ばないと…、もっとできるようにならないと…と思い、上手くできない自分に落ち込んだり、イライラしたり…ということがありました。伊藤さんの『人間はたいしたことができない』という言葉でとても楽になりました。また、キャンプに対する思いも『親のために』『子どものために』と思ってしているのではなく、『自分が楽しいから』という言葉もとても胸に刺さりました。人のために…も考え方によっては、傲慢であることも分かりました。

 伊藤さんからは、『この場を提供しているだけで、何もこういう風にさせようと思っているのではなく勝手に親が考えて学んでいく』、親からは、『吃音の大人の姿を見ているだけで、将来は大丈夫な感じがした』『毎年参加して先輩のお母さんの話を聞いたり、伊藤さんの話を聞いているうちに自然に安心に変わった。』この話に、心からほっとしました。何もしなくていいんだ…という思いになりました。

 最後に、スタッフのみなさん一人一人の対話力や引き出し方、子どもの気持ちを盛り上げていく力やよく考えられた進め方に…とても感動しました。28年のコツコツとした積み重ねの形なんだろうなぁと思いました。沖縄でも一歩一歩形ができていく事が楽しみになっています。ありがとうございました。


 二人目は、大阪からの参加です。

  
どもっている、自分の結婚式の映像を観ることができた

 今回、スタッフとして初めて参加させていただきました。これまでに何度かキャンプの話を聞く機会があったので、漠然としたイメージはあったものの、当日は期待と緊張が入り混じったような気持ちでのスタートでした。初めは参加者の多さに驚き、初対面の子供たちや親御さん、他のスタッフの方々とどのように関わって良いのか少し尻込みしていましたが、先輩方から、「参加者はみんな対等な関係で良い」ということや「自分達が楽しむことが大切」だということを教えていただき、それからは子どもたちや他の参加者の方に声を掛けたり、話し合いの場などでも積極的に発言したりすることで次第に自分自身も楽しめるようになってきました。みんなが、“吃音”という共通のテーマについて考えたり、話し合ったり、劇をしたりとこれまでの人生で味わったことのない貴重な体験ができました。
 タイトなスケジュールのため、その時にはひたすらそれらをこなすことで精いっぱいでしたが、一日の終わりには心地よい疲労感でその日の出来事を振り返り、満足感を得ながら眠りにつくことができました。特に印象的だったのは、子どもたちが劇でどもりながらも一生懸命に演じる姿や卒業生が一生懸命にあいさつする姿でした。胸がじーんと熱くなり、どもりながら発せられる言葉に感じるものがありました。

 そのこともあってか、私自身にもキャンプの前後で変化が起こりました。その変化とは、今年、結婚式で自身が親族に対してスピーチをしている映像を観られるようになったことです。キャンプに参加する前はどもりながら挨拶する姿はみじめで恥ずかしい気がして、観ようと言われても断っていたのですが、キャンプの後には進んで観てみたいという気持ちになっていました。キャンプでたくさんのどもる仲間に出会って否定的な感情が弱まったのかもしれません。また、大勢の前でどもることを気にせず、どもりながらも伝えたいことを話す経験ができたことも非常に大きかったと思います。

 実際の映像では自分が話すことばに参加者みんなが聞き入ってくれているのがわかりました。中には感動して泣いてくれた人もいたようです。挨拶は自分が思っていたほど悪くなく、どもっているのも逆に良い間となっており、観る前と印象ががらりと変わりました。他にも仕事のカンファレンスなどで報告する際、以前に比べてどもることがそれほど気にならなくなり、とても話しやすくなりました。聞き手は普段と同じメンバーで以前と変わったのは自分の気持ちだけなので、改めて自身の捉え方の影響が大きいということを実感しました。

 参加前にはこんな変化があるとは思いもしませんでしたが、3日間のキャンプでこのような結果が得られたことは本当にラッキーだったと思います。キャンプから2週間が経った今でも余韻に浸り、早くも次のキャンプを楽しみにしているほどです。本当にありがとうございました。


 吃音親子サマーキャンプを、ことばで説明するのは、難しい。まずは一度参加してみてほしい。そんなふうに思っていましたが、ふたりの感想は、まさに、今年初めて参加し、体験して感じたことをすなおに綴っていただけたものと思います。

 参加した人から、感想がぽつぽつと返ってきています。それらを読みながら、次への気持ちを新たにしています。あの子の卒業までは…と思うことは、僕の生きるエネルギーになりそうです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/09/06

28回吃音親子サマーキャンプ報告6 どもりながら、セリフを言い切る子どもたちに温かい拍手

  どもりながら、セリフを言い切る子どもたちに温かい拍手

 サマーキャンプの最終日、今朝も放送は鳴らずでしたが、朝の集いはスムーズに進んでいきました。部屋のそうじ、荷物の後片付け、シーツ返却と忙しかったのですが、予定より15分早めて活動が始まりました。
 
 朝食後、子どもたちは、芝居のリハーサルです。芝居の上演会場となる学習室をグループごとに時間を区切って、本番同様のリハーサルをします。

 子どもたちががんばっているその頃、実は、保護者も、集会室で、親のパフォーマンスの練習に必死なのです。子どもたちが、苦手な芝居に挑戦しているのだから、親も、それを応援するだけでなく、自分の声、自分のことばを磨こうと始まった親のパフォーマンス。子どもたちの芝居の前座のつもりだったのですが、いつのまにか、サマーキャンプにはなくてはならないものになってきています。
 長年、このサマーキャンプに参加している保護者の中には、この時間に命をかけているくらい、このために参加していると言ってもいいくらい、大切にしてくれている人がいます。

 最初の頃は、歌を歌ったり、谷川俊太郎の「生きる」や北原白秋の「お祭り」などを使っていましたが、ここ10年以上は、工藤直子の「のはらうた」を使っています。題して、「荒神山ののはらうた」。今年は、そのPART13でした。
 5つの詩を選び、それなりに順番や構成を考えて、台本らしきものを作ります。ここまでは、僕たちがサマーキャンプ前にしてきます。
 それを、話し合いの5つのグループごとに分かれて表現するのです。全員で読んだり、ひとりで読んだり、振り付けあり、芝居仕立てあり、それぞれが工夫して表現します。その練習風景は、ほかのスタッフはみんな、子どもたちの芝居のリハーサルをしているので見ることはできず、僕たちだけしか見ていないのですが、ほんとに楽しそうです。

 初日の90分、翌日の120分の話し合いの時間を一緒に過ごし、親の学習会では、グループで模造紙を前に真摯に考え、取り組んだ仲間だからこそ、こんなに弾み、楽しそうに見えるんだろうなと思います。いや、楽しそうというのは、外から見ているから言えることかもしれません。本当は、恥ずかしくて嫌だなと思っている保護者もいるのかもしれません。でも、この時間、子どもたちも、苦手な芝居に挑戦しているのです。そう思うと、保護者だって、という気持ちになってくるのでしょう。どのグループも、ユーモアたっぷりのパフォーマンスが完成しました。

 開場です。120名を超す参加者が、入り口がひとつしかない学習室に入り、着席するのに、5分とかかりません。会場係がいるわけでもないのに、この速やかさ、いつも感心させられます。

 前座は、保護者のパフォーマンス。子どもたち、特に初めて参加の子どもたちの目は、釘付けです。今まで観たことがないような親の姿にびっくりしています。親たちも、もうやるっきゃない!と開き直ったように、とびっきりの笑顔で、全開のパフォーマンスでした。

親の表現1
親の表現2

このおかげで、緊張していた子どもたちの表情も和らぎ、さあ、いよいよ、子どもたちの芝居のはじまりです。
 せりふをほとんど覚えて台本なしで演じている子どもがいます。自分たちのアイデアを取り入れ、芝居に厚みと深みが出ています。どもってことばが出にくい場面も、みんな自然に待ちます。相手のことばを受けて、それに反応しながら、自分のせりふを言います。みんな、女優、男優になったような気持ちでしょう。観ている観客もすばらしくて、大きな拍手を送ります。
子どもの劇1
子どもの劇2
子どもの劇3

 みんなで、ひとつの芝居を作り上げた満足感が会場全体を包んで、上演が終わりました。
 そして、この余韻の中、今年、高校3年生を迎えた4人の子どもたちの卒業式を行いました。卒業式ができるのには、条件があります。サマーキャンプに、3回以上参加していることです。ひとりひとりに合ったことばを手作りの卒業証書に記して、渡します。そして、次に、ひとりひとりが、語ります。これが、見事でした。

 4人とも、ぽつりぽつりと話し始めました。今、自分の中から生まれてくることばを慈しむように、大切にしながら、サマーキャンプで得たものを話していきます。どもりながら、今の気持ちにぴったりのことばを選びながら、語る姿を見て、僕は、胸がいっぱいになります。すらすらしゃべることではない、自分の思いを自分のことばで語れるようになってほしいと願ってきたことが、今、目の前で子どもたちが見事にやってのけているという事実、これがサマーキャンプなのだと思いました。
卒業生4人

 卒業生が話した後は、子どもを連れてきた保護者も話します。連れて来ることだけしかできなかったと言いますが、それが親にできる最大のことでしょう。この卒業式を観ている周りの観客もとてもすばらしいと、いつも思います。小さい子たちも、静かに、お兄ちゃん、お姉ちゃんのことばを聞いています。何年か後の自分を重ねているのでしょうか。
卒業生を見守る参加者

 卒業式の後、短い時間でしたが、初参加の人に感想を聞きました。皆さん、温かい雰囲気で、とても居心地がよかったとおっしゃいます。これは、吃音親子サマーキャンプだけでなく、「親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会」でも、以前、行っていた「吃音ショートコース」でも、よく言われたことです。僕たちにとっては、いつもの雰囲気、いつものことなのですが、初めて参加される人にとって、そんなふうに感じていただけることは、ありがたいです。それは、参加者がみな対等であること、ひとりひとりが主人公であること、そんなサマーキャンプで大切にしていることが、長い間に熟成されて、醸し出しているサマーキャンプの雰囲気、風、場の力なのかもしれません。

 何よりも、僕たちが「世のため、人のため」ではなく、自分自身が楽しい、自分がしたいからしている活動で、スタッフ自身が楽しんでしているからだと思います。参加者の声を聞き、卒業してスタッフとして戻ってくる人たちや、親の学習会では講師を務めるほどに成長している子どもたちを長年見ていると、ふと、こりゃ、やめられないじゃないかと思ってしまいます。

 今年は、第28回目でした。30回まではやると宣言しました。その後は、僕が元気であれば、余力があればと、明言は避けました。皆さんから、「うちの子が卒業するまでは、ぜひ」と何人かから言われています。
 サマーキャンプで、きっと僕が一番元気をもらっているのだから、死ぬまで続けるしかないだろうな。そんなことを思いながら、今年のサマーキャンプを終えました。
 
 例年、サマーキャンプが終わると、秋の訪れを感じます。今年は、少し暑かったようですが、ここに来てようやく秋らしくなってきました。

 吃音の夏が終わります。少しさびしい気がしますが、秋は、静岡、岡山、島根、群馬と、各地でキャンプがあります。秋の吃音キャンプロードが、静岡をトップに9月下旬から始まります。また、新しい出会いが楽しみです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/09/04

第28回吃音親子サマーキャンプ報告5 吃音と就労

 吃音と就労−就けない仕事はほとんどない
    消防士として働く体験を聞いて、親も実感


 さあ、親の学習会。今年は、特別ゲストを招いていました。僕がよく講演などで話す、消防士の兵頭雅貴君がやっととれた休みを利用して、サマーキャンプに参加してくれたのです。キャンプが始まる3日前に、父親である兵頭潔さんから、電話があり、雅貴君の参加を知りました。そのとき、それまでいろいろ考えていた親の学習会の内容をすべてやめて、雅貴君にスポットを当てようと決めました。保護者にとって有意義なだけでなく、僕にとっても、雅貴君にインタビューし、対話することは、今、とてもありがたいことだと思いました。わくわくしながら、この親の学習会を迎えました。

 雅貴君へのインタビューの前に、NPO法人全国ことばを育てる会発行の両親指導の手引き書41『吃音と共に豊かに生きる』をテキストに使い、そこに書いてある、レジリエンスの7つの構成要素を説明しました。

 さらに、そして、今、レジリエンスの関係で勉強している、ポジティブ心理学の、創設者であるマーティン・セリグマンの、「PERMA(パーマ)」〜幸せのための五つの条件〜についてもできるだけ詳しく説明しました。

・Positive Emotion (ポジティブ感情)
・Engagement (エンゲージメント)
・Relationships (関係性)
・Meaning (意味・意義)
・Achievement (達成)
 
 このキーワードと、レジリエンスの7つの構成要素を頭に入れて、雅貴君のインタビューを聞き、後で、グループに分かれて彼の体験を整理して、模造紙に表現するという計画です。
 
 雅貴君へのインタビューは、どこかで詳しくテープ起こしをして、紹介したいと考えています。
 雅貴君は、小学校5年生のとき、僕たちどもる大人が参加する大阪吃音教室に初めて保護者と一緒に参加しました。そのことを日記に書いています。たとえば、小学校6年生のとき参加した、論理療法の講座の日記は、こうです。

   論理療法   小学6年生 7月5日
 今日、吃音教室に行った。今日は、論理療法というのをした。A(できごと)があって、C(結果)がある。でも、AとCの間には、B(受け取り方)がある。その受け取り方で結果が変わるんじゃないかということだ。
 たとえば、人前でどもって(しゃべるときにつまって)笑われてしまった。そして、落ち込んだ。そのときの受け取り方は、人前でどもることはいけないことだ、という考えだ。でも、受け取り方が、人前でどもってもいいじゃないかに変わると、Cの落ち込みは小さくなるんじゃないか。
 僕は、これから吃音のことだけでなく、ピンチがチャンスに変わる考え方をしようと思う。



 そして、就職を考えるとき、彼は、憧れていた消防士を目指します。しかし、消防士は、一刻を争う緊急の事態への無線連絡などの対応の場面が容易に想像できます。どもっている自分が、消防士になれるだろうかと相談がありました。そのとき、僕は、「どんな仕事に就いても、どもる苦労はついてくる。それなら、自分が好きな、一番したいと思う仕事に就いて苦労すればいい。それなら、耐えることができるだろうから」と答えました。彼は、このことをよく覚えていてくれました。
消防学校に入学した彼に、想像以上の試練が待っていました。「そんなにどもっていて、地域住民の命が守れるのか。今のうちにどもりを治せ」と叱責されます。

 この教官のことばは、彼のことを思って言ってくれていることは分かっていても、かなりの衝撃でした。そのとき、雅貴君は、また、僕にどうしたらいいか相談してくれたのです。
 ちょうど、サマーキャンプの事前レッスンが近かったこともあり、そこに来るように連絡し、彼は素直に参加してくれました。電話で話して事足りる話ではないからです。また、からだとことばのレッスンを2日間経験してもらいたかったからです。もちろん、これで、どもらなくなることなんてあり得ません。でも、サマーキャンプの風を感じながら、スタッフとともに過ごした2日間は、彼にとっていい刺激となり、リフレッシュになったことでしょう。気を取り直し、消防学校での生活に戻っていきました。きっと大変な苦労があったと思いますが、彼は、それに耐えました。

 どもることは変えられないが、それ以外のこと、たとえば、消防の服に着替える早さを競う大会では、彼は、努力し、いい成績をとったようです。 
 今、彼は、念願の消防士として、今、立派に働いています。
 今の彼を作り上げたのは、どんな力があったからなのだろうか、どんな力が彼を支えたのだろうか、彼は、自分でどんな力をつけていったのだろうか、彼の話を聞きながら、印象に残ったことばをメモしていってもらいました。そして、事前に学んだキーワードをもとに、グループごとに模造紙に書いていったのです。

親の学習会 全体親の学習会 インタビュー親の学習会 模造紙にまとめる

 大きな木を真ん中に描いて、その根、幹、枝、葉にどんな力があったかを描いたグループがありました。はなびらにたとえたグループがありました。彼の得意なバスケットボールにたとえ、ドリブルからシュートする過程で表したグループもありました。ああでもない、こうでもない、それぞれが印象に残ったことばを出し合い、ときに笑い、ときに真剣に、模造紙に向かって描き込んでいきます。できあがった模造紙1枚1枚に、保護者が雅貴君に重ね合わせた我が子の姿が現れているようでした。

 保護者が発表をしているころ、外がにぎやかになってきました。子どもたちが、荒神山から無事帰ってきたようです。どの子も満足そうです。体調を考慮して、これまで下山は車を利用していた男の子が、今年は上りも下りも自力でがんばったといううれしい知らせも受けました。子どもたちは、からだをつかい、保護者は頭をつかい、午後のプログラムが終わります。

 そして、恒例の野外での夕食です。サマーキャンプ20周年のとき、食堂に無理を言って、特別にカツカレーを作っていただきました。それから、ずっと変わらぬメニューです。僕は、いつもこのカレーを食べているときの光景が好きです。吃音ファミリーということばがピッタリの光景です。TBSのニュースバード「報道の魂」でも、とてもすてきな映像として流れていました。

 食べ終わった子どもたちは、小高い山の頂上からころころと滑って降りてきます。毎年、誰か、そんな遊びをしています。
 今年初めて沖縄から参加した方が、「緑がきれいですね。山がこんなに近くにあるなんて。沖縄にはない風景です」と、とても感激していました。

 夜、子どもたちは、お芝居の練習です。そろそろ配役を決めているようです。子どもたちからのアイデアも取り入れ、各グループ、熱が入ります。その間、保護者は、学習室に集まります。芝居の練習に、和室をとられてしまうからなのですが、保護者が一堂に集まり、フリートークの時間です。制約のない自由な時間、サマーキャンプの中で唯一のゆったりした時間かもしれません。

 後は、昨日と同じように、スタッフ会議をします。2日目が終わりました。残るは、後1日です。

 「2泊3日なんて短すぎる。1週間くらい続けてほしい」、以前、そう言っていた子がいます。その子は、今、スタッフとして、どんなに仕事が忙しくても、到着が深夜になっても、かけつけてくれています。今年も、結婚式をちょうど1週間前に挙げたばかりだというのに、深夜、荒神山自然の家に来てくれました。彼をここまで動かす力が、吃音親子サマーキャンプにはあるということなのでしょう。

 参考文献 
両親指導の手引き書41 『吃音とともに豊かに生きる』  1冊500円
   全国ことばを育む会に注文できますが、日本吃音臨床研究会でも受け付けています。
   日本吃音臨床研究会にご注文の場合には、切手での申し込みも受け付けています。
   ご希望の方は、送料を加え、700円分の切手を同封してお申し込み下さい。
   2017年4月、改定第2版となりました。
   薄い冊子ですが、吃音に関する知識、子育てで大切なこと、通常の学級の担任に説明するときの   参考にしていただけることなど、詳しく丁寧に書かれています。
   是非お読み下さい。
   日本吃音臨床研究会   〒572-0850 寝屋川市打上高塚町1-2-1526 

   発行 NPO法人全国ことばを育む会
   〒105-0012 東京都港区芝大門1-10-1 全国たばこビル6階

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/09/04

第28回吃音親子サマーキャンプ報告4 自己内対話と、自分の声・ことばに向き合う


  自己内対話と、自分の声・ことばに向き合う


 吃音親子サマーキャンプ2日目の朝。毎年、流れる朝の放送が流れません。
 数年前までは、この音楽なら誰でも絶対起きるだろうというほどの、にぎやかな曲が流れていましたが、少し前からさわやかな曲に変わりました。それが流れません。警備員の人が「おかしいな、音が鳴らない」とあちこち触ってくれましたが、一向に出ません。桑田省吾さんと相談して、桑田さんの放送で朝の集いをすることにしました。

 奥村寿英さんが前に出て、かけ声でラジオ体操が始まりました。しかし、どこからか、ラジオ体操の音楽が聞こえてきます。小さい頃から慣れ親しんだ曲なので、口ずさみ始める人が現れ、それなりの音量になりました。歌いながらの体操でした。

 朝食の後、テーブルの上に手早くロール紙を敷き詰め、食堂が文章教室に早変わりしました。毎年のことながら、手際よいスタッフに感謝です。
 同じころ、しゃくなげの部屋では、ウォークラリーのときに配るおやつの小分けをしてくれています。
 いつも、このおやつを買うのに悩みます。個装されているものを買うのですが、全体のグラム数は書いてあっても、1袋に何個入っているのか分からず、袋を手探りしてだいたいの個数を想像して買っています。人数が多いので、同じものを8袋、10袋とスーパーのかごに入れていきます。毎年恒例の買い物風景です。

 文章教室に早変わりした食堂に、みんな筆記用具を持って集まってきます。作文が始まりました。
 「どもりについて作文を書きます。どもりに関係することで一番よく覚えていることひとつにしぼって書きます。ふさわしいタイトルもつけましょう。書けたら持ってきて下さい。読ませてもらって、ちょっと足りないなということがあったら、書き足したり、書き直したりしてもらいます。昨日の夜は、みんなでどもりについて話し合いました。今日、これからの時間は、ひとりで自分のどもりについて向き合う時間です」だいたい、こんなことを言います。

 作文が苦手で、もし、何も書けなかったとしても、書けない自分に向き合う時間になってくれたらいいと思っています。

 「では、始めましょう」の合図で、静かになり、鉛筆の音だけが聞こえてきます。毎年思いますが、100人以上の人が一斉に原稿用紙に向かっている光景は、なんともいえないものです。話し合いでは、同じグループの人と対話をしますが、この作文の時間は、ひとりで自己内対話をします。
作文教室  作文が終わると、昨日に引き続いて2回目の話し合いです。さきほど書いた作文の話題から始めるグループも、昨晩出ていた宿題から始めるグループもあります。話し合い、作文、話し合い、と2日にわたって、サンドイッチになっているこのプログラムは絶妙だと、密かに僕は思っています。

 今年の高校生グループは、直前に1人キャンセルがありましたが、それでも全員で11人。話し合いのグループとしては、ちょっと多すぎると思いましたが、高校生同士のつながりも大事にしたいと思い、とりあえず、11人全員で話し合いを始めてもらいました。
 2回目の話し合いは、少しの時間、3、4人の小グループに分かれて話し合いをし、最後には、また、全員に戻って話し合ったと聞きました。それは、高校生が、グループ分けも含めて自分たちで決めたそうです。話したいテーマを決め、話し合う小さいグループを決め、全体に戻すという構成も自分たちで決めたとのこと。
 そして、「サマキャンに来て変わったこと」というタイトルで、寄せ書きのように、大きな紙に自分のことを振り返って記入していました。しっかりと自分をみつめている高校生の姿がありました。

 この作文の時間に平行プログラムとして、初めてあるいは2度目の参加のスタッフ向けのサマーキャンプ基礎講座をしています。まず、一日、実際にキャンプを体験してもらい、2日目の朝に、初参加の人からの質問を受けて話しますが、結局は、キャンプを始めたいきさつ、キャンプが目指していることなどを話すことになります。

 今回は特に、28年の歴史について話しました。疑問や質問には、ベテランのスタッフも答えます。サマーキャンプ卒業生がスタッフとして参加した場合、キャンプの舞台裏を初めて知る機会になります。それぞれのプログラムに込められた僕たちの思いを直接聞くことになります。
サマキャン基礎講座
 午後は、子どもと保護者のプログラムが平行して進みます。

 まず子どもたちは、芝居の練習です。昨晩見たスタッフのお芝居を今度は、自分たちが上演します。
 以前は、すぐに誰が何の役をするのか決めて練習していたのですが、最近は、事前レッスンで受けたいくつかのエクササイズをしたり、全員でいろんな役をしてみたり、芝居に入る前にだいぶん遊べるようになってきました。これは、誰が誰に言っているせりふなのか、このせりふを聞いてどう思うか、など、ここで深めていくことが大切です。子どもたちからもどんどんアイデアが出てきます。芝居をそつなく完成させることが目的ではなく、そのプロセスを大切にしたいというスタッフの基本姿勢が一致しているため、どのグループも、笑いがあり、大いに楽しんでいるようでした。
 
 しかし、楽しいだけではなく、「自分の声」に向き合う時間でもあります。声が出ずに、時につらい体験をする場合もありますが、それは同じような体験を体験をしてきた仲間なので、支えることができるし、乗り越えていくことができます。懸命に自分の声、ことばに向き合う姿は、感動的です。
 「吃音とともに豊かに生きる」と主張すると、言語訓練は一切しない、ことばには触れないと誤解されていますが、僕たちが一番、言語訓練的なことを大切にしていると言えます。もちろん、「治す、改善する」ためのものではありませんが。

劇の練習1劇の練習2
 
 午後3時になると、子どもたちは、荒神山へのウォークラリーに出発するため、長袖に着替え、水筒を持って、玄関前に集まってきます。生活・演劇グループごとに少しずつ時間をずらして出発します。
 このウォークラリー、数年前から、高校生や何回も来ている子どもたちがリードするようになってきました。毎年登っているので、よく知っている子どもたちはリードすることができます。ここで、他者貢献を味わっているようです。頂上に着くと、琵琶湖がきれいに見えるそうです。そして、この3日間で唯一のおやつの時間です。このウォークラリーで生活・演劇グループの結束力が高まります。

 残念ながら、僕は、このウォークラリーに参加したことがありません。もう20回以上、荒神山自然の家を利用していますが、一度も登っていません。子どもたちがウォークラリーをしている間、僕は、保護者と一緒に親の学習会をしているのです。

 親の学習会については、次回紹介します。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2017/9/1
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