伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2016年07月

吃音にこだわるのはよそう

 人間らしく確信をもって生きよう
   消極的に自分をころすのは卑怯だ


昨日、ブログで紹介した八木晃介さんの新聞記事の文字データです。


10周年を迎えた全国言友会が「吃音者宣言」を採択

 百人に一人は吃音(きつおん=言語障害)に悩んでいるという。なんとか治そうと努力して治る場合はそれでよいが、どのように苦労しても治らないときの絶望感は非常に大きい。こうした事実を冷静にみつめ、吃音を治そう、とあくまでもそれにこだわることをやめ、吃音をもったままで、人間としてたくましく生きていこうという動きが吃音者の間で広がってきている。また、それは吃音研究者の研究の中心的な課題ともなっている。

「治らない」という現実に直面し
 吃音者の集団に「全国言友会」(丹野裕文会長、本部・大阪市)というのがある。これは、すでにいろいろな治療機関や矯正機関で吃音の治療を受けても、どうしても治らなかった人たちが作った集団。10年前、この会ができたときには、やはり「治す」ということを目的としていたが、吃音者たちはここでも「治らない」というどうしようもない現実に直面しなければならなかった。
 こうした「治らない」事実をつきつけられて会員たちは、自分たち自身の考え方を改めなければならないことに気づかされていったのである。それはいってみれば、それでもなお「治す」ことにこだわり続けるのか、それとも「治らなくてもよい、吃音をもったままで人間らしく生きていく」ことに確信をもつのか、の選択の問題であった。そして会員たちは結局、後者の方を選んでいった。

社会的活動がなおざりになる
 こうした動きについて、大阪教育大学の伊藤伸二講師は「いつまでも吃音ばかりにこだわり続けていては、そのことにエネルギーの大半を使ってしまい、人間として大切な社会的な活動(勉強や仕事)がなおざりになることを、吃音者自身が気づいたからだ」と説明している。ちなみに、伊藤講師も吃音者である。
 吃音は、かくそうと思えばかくすことも可能である。すなわち、人間として当然自分を主張すべきときでも発言せず、消極的になっておれば、自分の吃音をかくしとおすことも不可能ではない。いわば“自分をころす”ことによって吃音をかくすわけであり、こういう姿勢がながく続けば、消極的な生き方というものが文字どおり身についてしまうわけで、吃音者たちはそこを問題にするわけだ。
 「吃音が治るまではがまんしよう。治った後で、モリモリ活動しよう」という考え方が吃音者の間に多くみられるが、言友会の会員はこの考え方も否定する。吃音が必ず治るならそれでもよいが、治らないという事態に直面した場合、その考え方でいけば、一生消極的に生きなければならなくなるからである。

社会通念が吃音者を追い込む
 一方、一般の社会には「吃音は努力すれば治る」という通念があり、「治らないのは本人の努力が足りないからだ」という考え方がある。こういう考え方は明らかに吃音者を追い込んでしまう。一般社会の通念では、吃音者には「暗い」「小心」「みっともない」「神経質」などのイメージがあり、吃音者をさらに苦しい立場に追い込んでしまうわけなのだ。
 言友会の会員たちは「一体なぜ、どもってはいけないのか」というところから考え直していった。どもっていても、人間と人間の対話は十分可能なのに、どもることを恐れて対話の場からひっ込んでしまう、そういう卑屈な態度はやはり人間として本質的ではない、と考えたのである。吃音が治ったあとの自分を夢見るのではなく、吃音をもった自分がいま何をなすべきか、それこそ人間としてもっとも大切なことであることに思いいたったわけなのだ。このように書くと、吃音者でない人には何でもないことのように思われるかもしれないが、吃音者にとっては、“革命的”な変化であった。

偏見や差別を取りのぞこう
 全国言友会はことしで創立10周年を迎え、このほど東京で記念大会を開いた。そして、その場で、自分たちが吃音者であることを社会的に明らかにしていくために「吃音者宣言」を採択した。そこでは「いまこそ、自らの吃音をひき受け、吃音をもったままでも、よりよく生きる生き方を確立しなければならない」と述べている。
 吃音をかくすのではなく、むしろ積極的に明らかにし、人間としての活動に参加していくことを内外に表明したわけである。言友会の会員は約3000人だが、これまでにこの会に参加し、自分の問題を解決して出ていった会員まで含めると2万人以上に達するという。吃音研究者、学者もこの言友会の運動を正しいものと評価し、会の活動に協力している。言友会のゆき方が広く理解されることにより吃音者への偏見や差別が徐々に取りのぞかれていくことが期待されている。 1976年5月25日 毎日中学生新聞(毎日新聞学芸部・八木晃介)

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年7月14日
 

最近の吃音の記事に思うこと。

 中立ということ、並列ということ

 ここ最近、2つの新聞記事に吃音のことが掲載されました。記者は、丁寧に誠実に取材をして下さった。長時間、これまでの吃音の取り組み、アメリカ言語病理学のこと、それに対する僕たちの考えを話し、それなりに共感していただいたと思っていました。しかし、掲載された新聞記事を読むと、僕たちの考えだけではなく、治す・改善する方向での取り組みも同じように並列で書かれています。いや、むしろ、治す・改善する方に偏っていて、一方でというふうに簡単に紹介されているように思うのは、ひがみでしょうか。

 時代の流れなのでしょうか。言語聴覚士という仕事が認知されてきたからでしょうか。「治したい」という当事者や親の願いにストレートに答える取り組みを紹介することが記者としての良心だということでしょうか。

 最近は、治す・改善する方向での記事が多く目につきます。吃音のために働きたくても働けないという叫びが大きな見出しになって取り上げられたのも、記憶に新しい。こんなに苦しいんだ、こんなに大変なんだ、こんなに困っているんだ、つぎつぎと出てくるネガティヴな情報に、いや、そんな人ばかりではない、どもりながらも、豊かに生きている人たちもいるんだよというメッセージを伝えることがせめてもの抵抗になるのかと思います。

 放送禁止用語だということで、「どもり」は使えないというのはわかるのですが、動詞の、「どもる」も使えないという新聞社があったのには驚きました。「どもり」もなくなり、「どもる」も新聞記事からなくなる。とてもおそろしいことが起こっているような気がします。

 記者ひとりの一存ではどうにもならないという。政治の世界も、原発のことも、マスコミは、中立の立場をとるという。中立とは、並列して並べることか。そこに記者の考えは反映されないのか。なんとももどかしさを覚える。
 僕たちは、自分の立ち位置をはっきりさせています。少数派であることは承知の上で、できることをする。共感してくれるひとがいれば、それはうれしい。僕たちは、僕たちの信じる道を淡々と歩むしかないと最近強く思います。昔の懐かしい記事を一つ紹介します。記事としては読みにくいので、文字データは明日紹介します。

あっちの道もあったんだ

 1965年、僕がどもる人のセルフヘルプグループを設立する以前の吃音に関する記事は、ネガティヴなものばかりでした。吃音の悩みや悲劇が主で、だから吃音は治すべきものだという主張です。毎日新聞の八木晃介さんにであったのもそのような記事ばかりの時代でした。八木さんとのことは後で書きますが、とりあえずこの記事を紹介します。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年7月13日

片岡仁左衛門さんの吃音体験


 いよいよ、読売新聞を読んでいない人のために、片岡仁左衛門さんの記事の転載です。ここまでご自分の吃音について語ってくださったこと、僕たち成人のどもる人だけでなく、どもる子どもにも、大きな勇気を与えてくれることでしょう。どもる人で活躍している人はたくさんいます。その人たちが、仁左衛門さんのように吃音について、語ってくだされば、どもる人に限らず、どれだけ多くの人を勇気づけることだろうと思います。
 片岡仁左衛門さんにこころから感謝の気持ちと、敬意を表します。 

 せりふ言えずNG20連発  歌舞伎の華 片岡仁左衛門 7 

 子ども時代から、私は吃音の悩みを抱えていました。緊張したり、急いで話そうとしたりすると、どもってしまうのです。小学生の頃は、時々級友にからかわれることもありました。黒板の前に立って発表する時など、スムーズにしゃべることができず、そんな時は、歌うように言葉に節を付けて発表していました。
 ちょうど、歌舞伎の演目「吃又どもまた(傾城反魂香 けいせいはんごんこう)」に出てくる主人公が、吃音だけど、鼓の調子に乗せると、滑らかにしゃべれるのと同じで、節を付けて歌うように話すと、緊張していても、スムーズに話すことができるのです。

 舞台でも、せりふが出ず、お客さまに笑われたこともしばしばありました。時代物ならば、朗唱術でせりふを言えますが、世話物は写実に近く、例えば「か」や「た」、急ぐせりふには苦労しました。役者の子でなかったら、早い時期に「役者には向いていない」と言われ、クビになっていたと思います。
 関西歌舞伎が不振だった頃には、花登筐(はなとこばこ)さんの脚本で、大村崑さん、茶川一郎さん、芦屋雁之助さんらが出演されたコメディー番組「青春タックル」(1962年)に出してもらったこともあります。

 松竹新喜劇の渋谷天外さん(2代目)、当時は若手で大人気だった藤山寛美さんのテレビ番組にも出していただいたことがあります。
《1953年(昭和28年)2月にNHK、8月に日本テレビが放送を開始。東京五輪が開催された64年には、白黒テレビの普及率は約90%になった》

 ドラマの収録スタジオは、本番前に分厚いドアが閉まると、シーンと静まり返ります。「本番○秒前」と秒読みが始まると、もうドキドキしてきて、ダメなのです。NHKでは、20回近くNGを連発しましたが、その記録は、いまだに破られていないのではないでしょうか。

 大河ドラマ「春の坂道」(71年)で、豊臣秀頼を演じた時のことです。秀頼と徳川家康が二条城で対面する有名なシーンで家康役の山村聡さんや主役・柳生宗矩に扮する中村錦之助(後の萬屋錦之介)さんほか、そうそうたるみなさんが居並ぶ中、「いろいろとお教えいただかなければなりません」というせりふが、どうしてもうまく言えないのです。
 
最初のうちはみなさん「気にしなくていいよ」「大丈夫」と慰めてくださっていたのですが、回を重ねるうちに、「おーい、誰か、お茶でも飲ませてやってよ」と、だんだん雰囲気が重くなってきました。出演者もスタッフも最悪の空気の中で、どうにか収録は終わりましたが、その時は本当につらく、自分が情けなくなりました。
 ただ、克服するために、鏡を見ながら、舌の使い方、口の開き方などを必死に研究しました。結果として、そのことは役者としてもプラスになったと思います。(大阪文化部 坂成美保)

片岡仁左衛門 新聞記事

      読売新聞  2016年(平成28年)7月2日(土曜日)         日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016年7月11日

片岡仁左衛門の芝居でのどもり方 


 2015/05/13 に書いたブログの採録です。

 2月、大阪松竹座で、中村鴈治郎四代目襲名興行に行ってきました。三代目は今の藤十郎です。藤十郎よりも扇雀の時代の方がよく知っています。

 さて、今回は傾城反魂香をみたくて行きました。近松門左衛門のこの作品は、どもりの絵師又平と恋女房お徳との夫婦の情愛を描いたものですが、どもる僕たちにとっては、又平の「どもりっぷり」に興味が湧きます。ひどくどもる人間として描かれているので、どもり方も役者の演じ方で変わります。

 以前のブログに書きましたが、中村吉右衛門の又平と、片岡仁左衛門の又平の三人をこれまで見ています。役者のどもり方に二通りがあります。いわゆる連発(繰り返し)のどもり方と難発(ブロック)のどもり方です。役者はそのどちらかを選ぶのですが、今回の鴈治郎はブロックのどもり方でした。ブロックはことばが詰まって「・・・・・・・」となるので表現はできません。そこでブロックといっても、息を吸いながらどもる、いわゆる「引きどもり」というどもり方でした。この選択はまちがいだったと思います。

 息を吸いながらどもるので、何を言っているのかが聞き取れないのです。周りには、ただ「わあわあ騒いでいる」だけに見えるのです。

 中村吉右衛門も片岡仁左衛門も、はでな連発(繰り返し)のどもり方だったので、すごくどもっているのですが、何を言っているかはよくわかるのです。二人とも、見事などもり方でした。

 ここで、僕が思ったのは、ひどくどもっても、「ぼぼぼぼぼほぼく・・」の連発のどもり方のほうが、日常生活でもずっと楽だということです。著名人でテレビに出てくる人は、自分がどもりだと公表していても、あまりどもりません。ブロックの軽い状態で、どもらないように工夫しているのがよくわかります。

 最近はほとんどテレビに出なくなりましたが、映画監督の羽仁進さんは、すごくどもりながら、気持ちよく話していました。子どものように連発してのどもり方は、とても心地よいものでした。どもりたくないとすることが、かえって聞き手には違和感を持たせますが、羽仁監督のように堂々とどもると、とてもさわやかです。

 僕も最近、講演でもよくどもるようになりましたが、目立つどもり方を心がけています。
 またどこかで、「傾城反魂香」が歌舞伎でかかることがありましたら、是非見て下さい。とてもいいお芝居です。どこがいいかは、以前のブログで書いたので今回は省きます。 2015/05/13 

  日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/7/9

どもりの又平 片岡仁左衛門さんの関連です。

 片岡仁左衛門さんの関連で、2013/01/15に書いたものを採録します。


初春・大歌舞伎「傾城煩反魂(けいせいはんごんこう)の昼の部の舞台がはねて、どもりの又平と、歓喜のおどりを一緒に踊っているような高揚感をもって、新橋演舞場を出ると、予想もしなかったそこは一面の銀景色になっていました。

 金曜日から神奈川、東京の滞在は吃音ワークショップや志の輔落語、思いがけないうれしい人との出会いがあるなど、充実した4日間でした。その締めくくりが歌舞伎でした。

1月14日、久しぶりに観た歌舞伎が、以前から観たかった「傾城煩反魂」です。歌舞伎に行くことになろうとは、大阪を発つときは想像もしませんでした。金曜日に行った神奈川県の秦野市立西小学校で、昼間はどもる子どもと、保護者と語り合いました。夜は、その催しを企画した4人の教師との懇親会です。吃音についての楽しい語らいをしているとき、正月に始めて行った歌舞伎が、どもる人間が主人公だったので、驚いたとの話を聞きました。

 難しい名前の演題なので名前は正確には言えなかったのですが、どもりの又平の物語だとすぐに分かりました。東京滞在の最終日がまだ予定なしです。以前からみたかった舞台です。「ここで会ったが百年目」と、観に行かないわけにはいきません。千葉のことばの教室の仲間を誘って三人で行きました。また、報告しますが、土曜日に聞いた、立川志の輔落語の演題が「百年目」です。何かの因縁を感じざるをえません。

 大きな力のはからいで、念願だった「どもりの又平」の、それも大好きな、人間国宝・中村吉右衛門の又平をみることができたのです。そして、7年ぶりの東京の大雪の銀世界に、「こいつあ、春から縁起が良いわい」の歌舞伎の名セリフが口をついて出てきました。

 雪の中、銀座で食事をしようと歩き出したのですが、雪で人通りもなく、歌舞伎を見に来た人たちともはぐれ、きがついたら大回りをしてやっと地下鉄の駅にたどり着き、三越の上で食事をしていたとき、まさか、飛行機全便が欠航とは知りませんでした。モノレールに乗ろうと「浜松町」行ったら、飛行機は全便欠航。急遽新幹線で大阪にもどったハプニングも楽しむことができました。夜遅くの帰阪もきになりませんでした。

 近松門左衛門作の「傾城煩反魂」は、絵師の又平が、土佐の名字で名乗ることを、後輩に先をこされてあせり、師匠に自分も名乗らせて欲しいと訴えますが、どもって言えません。代わりに弁の立つ妻とくが切々と訴えるのですが、実力があっても絵師としての功績がないために許してもらえません。絶望して死ぬことを覚悟し、切腹しようとした時、妻のとくに説得されて、今生の名残として石の手水鉢に自画像を描くと、その絵が石を通して鉢の裏側に抜ける奇蹟が起こり、絵師としての実力が認められて、土佐の名字をなのることを許されるのです。

 絶望から、天国へ、歓喜のおどりは、はちきれんばかりでした。ひどくどもって言えない夫と対照的に弁が立つが、夫をつねに支える夫婦の情愛を描いた名作です。

 死を覚悟して、必死に絵筆を握る又平にはもう世間体とか、名誉とかは関係がありません。ただ、一心不乱に絵を描いてく。書き終わったときには、侍が大勢の人を切った大立ち回りをしたとき刀が外れないように、又平の手から絵筆が離れません。まだ、奇跡が起こっていることを知らない妻は、死に向かう夫とのこれまでの夫婦生活を思い出しているのか、慈しむように、一本一本指を絵筆からほどいていきます。必死で絵筆をふるった夫を誇りに思い、お疲れさんでしたと、労をねぎらう、妻の愛情あふれる名場面です。

 人並み以上に弁の立つ又平の妻おとくは、出しゃばりではありせん。ほとんどの場面で、夫の求めで、夫の考えや気持ちを代弁します。今回も、又平はどもる自分に変わっておとくに言ってもらっているのですが、妻の切々たる訴えを、師匠が聞き届けてくれません。どんなにどもろうと、自分が、自分の言葉で言うしかない。
 それまで、妻の代弁に頷いてばかりいた又平が、今度ばかりは、自分のことばて、どんなにどもろっても伝えたいと思って、敢然と話し始めます。のどをかきむしるように、必死に、自分の言葉で、必死に声を振り絞る、中村吉右衛門の名演技で、その必死さがつたわってきます。どもるは、身を乗り出しで見ていたと一緒に行った人が笑っていました。
 
 近松門左衛門があの時代、このような、どもりを温かく描く作品を書き、それを歌舞伎の名優が演じ続けてくれている。どもりの歴史を思い、感謝の気持ちがわいてくるのです。いろんなことが起こった4日間でした。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/7/7

片岡仁左衛門さんありがとう



 父親が歌舞伎が大好きで、日常生活の中でも「知らざあ、言って聞かせやしょう」などのセリフを聞かされていたためか、子どものころから歌舞伎に親しみをもっていました。その中でも片岡仁左衛門さんは特別に好きでした。父親の十三代目片岡仁左衛門は、大川橋蔵の時代劇や、渥美清の寅さん映画にも出演するなど、独特の風格と、親しみをかんじさせる、身近な存在でした。そのせいか息子の片岡孝夫も好きでした。

 いつだったか、何で読んだのかは記憶になかったのですが、仁左衛門が吃音に悩んだ経験があることは知っていました。しかしその記事がどこにも見当たりません。吃音ワークブックにどもる人の著名人を紹介したときも、データがないものは書くことができませんでした。しかし、第十五代目の襲名口上で、一瞬ですが、声が出ない時がありました。NHKのインタビューでは、芝居と違って口上は難しい、一瞬忘れてしまいましたと答えていました。そのとき、どもっていたのだろうと僕は思っていました。中村勘三郎の息子の七之助の襲名のときも、口上がうまくいかず、その時も、自分の時と同じようなことを言っていました。だから、僕は仁左衛門さんが、吃音だとは確信していましたが、それを裏付けるインタビューも記事にもそののち出くわすことはありませんでした。いつか、自分の吃音について語ってほしいなあと、思っていました。

 それが、7月2日の読売新聞「時代の証言者」に片岡仁左衛門さんが連載されているなかで、「せりふ言えずNG20連発」のタイトルで、吃音について大きく書かれていました。

 「子どもの時代から、私は吃音の悩みを抱えていました。緊張したり、急いで話そうとするとどもってしまうのです。小学生のころは、時々級友にからかわれることがありました。黒板の前に立って発表をするときなど、スムーズにしゃべることができず、歌うように言葉にふしをつけて発表していました」

 やはり、僕の記憶違いではなかったのです。人間国宝として、歌舞伎の華として、当代随一の歌舞伎役者がこのように自分の子ども時代のことから、役者として仕事をするようになってからも、吃音については困ることも悩むこともあったと、正直に語ってくれたこと、とてもありがたいことでした。

 歌舞伎の演目の、「傾城反魂香」は、どもりの絵師「ども又」が主人公です。僕はこれまで、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、四代目中村鴈治郎の三人の舞台をみています。もちろん僕は、片岡仁左衛門さんが、吃音だと信じてみていたのですが。中村吉右衛門もさすがに人間国宝、とてもよかったのですが、ひいき目に見てしまうのか、片岡仁左衛門の「ども又」が、ことばが出ない苦しみが、一番僕には迫ってくるものがありました。

 以前から知っていたことが、明白に本人のことばで語られたこと、うれしいことでした。吃音のネガティヴな側面ばかりが新聞で掲載さるようになったので、今回の仁左衛門さんの記事は、まことにありがたいものでした。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2016/7/7
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