伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2015年10月

どもる子どもとの「白熱教室」 2


 前回の続きです。

クイズ3 小学校時代で一番嫌だったことは、何だったと思う?

子 発表。
子 先生に怒られる。
伸二 それはあったなあ。そうじ当番をさぼってばっかりだったから、先生には怒られたなあ。
子 いじめられた。
伸二 いじめられた記憶はないね。笑われて嫌だったけれど、もっと嫌だったこと。みんなは、そんな経験、してないのかなあ。

子 ヒント、出して。
伸二 他の人が楽しいこと。
子 いじめ?
子も伸二も いじめられて楽しいか? 楽しくないやろ
伸二 他の人は楽しいけれど、僕は嫌だったこと。
子 遊ぶこと。

伸二 そう、遊びたいのに、友だちに「僕も仲間に入れて」と言ったら、仲間に入れてくれたかもしれないのに、僕は仲間に入れてくれないと思って、全く言わなくなった。つまらなかった。遊ばなかった人間が辛いことって何だろう。今のヒントで分かるかな。僕が小学校時代、一番嫌だったことは何だろう。

子 会話ができなかった。

伸二 そう、会話ができなくなったことで、何が嫌になったか。
子 学校。
伸二 うーん、学校は、いやだったけどね。
子 勉強。
伸二 さっきのヒント、忘れたのか。他の人が楽しいのに、僕だけ楽しくないことやで。
僕と比べたら、君たちは悩みは少ないのかな。僕が一番嫌だったのは、運動会と遠足。

子 えーーーー。なんで−−−

伸二 みんなは、運動会のとき、友達とお弁当を食べるの?
子 食べるよ。
子 分かった。友だちとお弁当を食べれない。

伸二 そう。話ができないから、仲間に入れないから。僕は足が速かったし、運動が大好きだっけれど、運動会が嫌いだった。僕と一緒に弁当を食べてくれる人がいるだろうか、とても心配だった。また、昔の遠足は、今と違って、1時間か2時間くらい歩くんだ。友だちと横になって歩く。他の人は、楽しそうにしゃべっているのに、僕はいつも一人ぼっちなんだ。さびしかった。

 だから、小学校、中学校、高校で一番つらかったのは、高校2年生のときの修学旅行。遠足と違って、修学旅行は、長い。先生は観光バスに乗るとき、「仲のいい友だちと一緒に座ってもいいよ」と言うけれど、僕はいつもひとりぼっちだった。つらいなあ。聞くも涙、語るも涙の小学校、中学校、高校時代を送った。

 劣等感というのは、他の人と僕とは違うと感じること、考えることなんだけど、劣等コンプレックスというのは、どもりを言い訳にして、理由にして、本当はしないといけないことを、したいことをしないこと。どもりだから何々ができない、どもるから僕はだめなんだと、どもるから仕方がないやと、本当はしないといけないことをしなかった。みんなは、「どもるから何々ができない」と、しなければならないことをしなかったことがある人いる?

子 ない。ないよ、そんなん
伸二 ないのか。すごい、みんなはえらい。僕と全然違うね。そうじ当番とどもることは関係ないし、飼育当番とどもりは関係ないのに、僕はさぼっていた。そうじはしないし、勉強はしないし、普段の宿題はしないし、夏休みの宿題もあまりしなかった。

子 えーーーーー。
伸二 みんなは、するの?
子 する。するよ。とうぜんじゃん。

伸二 僕は全然だった。発表や音読することは、どもりと関係あるけど、どもりと関係ないことでもしなくなった。
子 いやなら逃げればいい。
伸二 そう。だから、逃げて勉強もしなかったんだ。今から思うと、すごい損をしたなあと思う。僕から声をかけていったら友だちができたかもしれないし、遊んでくれたかもしれない。運動会や遠足のとき、一緒に弁当を食べてくれたかもしれない。それなのに、僕は勝手に逃げていた。だけど、僕は、21歳から、すごく変わりました。ものすごく元気になりました。小、中、高校と全然違って、元気になりました。何があったでしょう。

 クイズ4 21歳の時何があったでしょうか

子 ことばの教室に行った。
伸二 うん、ことばの教室じゃないけど、どもりを治す学校に行った。
子 友だちができた。
伸二 友達ができたことは、大きいね。友だちはともだちだけど、どんな人かな。
子 ことば専門の弁護士かな。
伸二 もう時間がないので、答えを言おうかな。

子 同じようにどもる人。

伸二 ピンポーン。当たり。どもりを治す学校に行って、それまでは僕だけが悩んでいたと思っていたのに、東京正生学院という学校には、300人も来ていた。こんなにたくさんどもる人がいるのかと思った。「僕だけじゃなかったんだ」とほっとした。
 うれしかったのは、僕がどもることで嫌だったこと、悲しかったことを話すと、みんな、「そうやそうや、僕も同じや」と真剣に聞いてくれた。そのとき、僕は、そこに泊まり込んで1ヶ月いたけど、毎日がお祭りのように楽しかった。また明日、みんなと話ができる。聞いてくれるし、しゃべれる。そう思うと、天国にいるような気持ちだった。

 クイズ5 そのとき、僕が一番うれしかったことは何でしょう。

子 一緒に話を聞いたり、遊んでくれた。
伸二 そういう友だちができたのはすごくよかったね。でも、それよりもっといいこと。
子 友だちが守ってくれた。
伸二 うん、守ってくれたのはうれしかったね。
子 彼女ができた。

伸二 そう、これは大きいね。僕は男の友達もいなかったから、女の子に好かれるはずがないと思っていた。でも、僕をほんとに好きになってくれた人がいた。どもりの学校で、「どもってもいいや」と僕がどもりながらどんどんしゃべれるようになったときだから、彼女は、こんなにどもっているのに、自分のことを一生懸命しゃべる伊藤さんがとてもすてきだ、大好きと言ってくれた。

子 デート、した?
伸二 毎日毎日したよ。朝早く起きて、15日くらい毎日デートした。それが、僕の初恋の人。そのとき、僕も生きていけると思った。
 そこで、東京正生学院が終わってから、言友会という、どもる人の会を作ったんだ。それが、今から50年前。だから、50年前に僕の小学校時代が始まり、しばらくして中学校が始まり、高校時代になり、そして、一人前の大人になっていった。
 話すことの多い仕事なんてできないだろうと思っていたのに、ことばの教室の先生を教育する大阪教育大学の先生になって、どもりのことを勉強し、研究して、どもりのことをいっぱい話した。
 
 僕が自慢できることは、日本で初めてどもる人の会を作って、全国に広げたことと、世界で初めて「どもる人の世界大会を開こう」と言い出して、今から30年前に第一回の世界大会を京都で開いたことです。3年ごとに世界大会は開かれて、この前、オランダで第10回大会が開かれたんだよ。どもりの本をたくさん書いて、こうしてどもる子どもたちのキャンプをしたり、いろんなところでどもる子どもに会ってきました。

 僕がそうしてどもりの悩みから解放されたのは、自分のどもりのことを話したこと、それを聞いてくれた人、仲間がいたこと。そして、人間っていいなあ、あたたかいなあと思えたこと。どもりに悩んでいたときは、友達も、周りの社会もみんな僕にとって「僕を理解してくれない敵だ」と思っていたけれど、人間っていいなあと思えたことがよかったね。

 そして、「どもってもいいや」と思って、どもっていったら、中にはからかう人もいたけれど、ほとんどの人はちゃんと聞いてくれてた。僕は、家がとても貧乏だったので、大学生活は全部自分でアルバイトをしてだしていたんだ。いろんな種類の、たくさんのアルバイトをして、「どもっていても、いろんな仕事ができる」ことを、僕の経験を通して知ったんだ。

 あっ、時間が足りなくなりました。今日はDVDを見ようと思ったのに、残念。
子 イエイ(と歓声があがる)
伸二 ごめんね。
子 結婚した?
伸二 結婚? できたよ。結婚したし、今とても幸せです。僕のいい仲間たちと、どもりについていっぱい勉強し、話し合い、いろんな活動をしているよ。これから本も書くつもりだし、一生懸命遊んでいる。海外旅行したり、車で遠くへでかけたり。大好きな映画を見たり。はい、以上が伊藤伸二の話でした。

 子どもとの対話の時間はあっという間にすぎました。僕があんなに苦しんできた小学生時代と、キャンプにくる子どもたちとは全然違います。僕は、誰にもどもりのことを話さずに、ひとりで悩んでいましたが、この子どもたちは、ことばの教室に通い、どもりのことを勉強し、どもりのことを話し合う仲間がいる。

 僕が21歳で生まれ変われたように、子どもたちは小学校の時代に、ことばの教室の先生、どもる仲間と出会い、「どもっていても、まあ、いいか」と考えるようになっている。ここにいる子どもたちは、思春期、成人期になって困ること、悩むことがあるだろうけれど、なんとか生き抜いてくれるだろうと確信を持ちました。

 「どもりを治す、少しでも軽くする」などと、いつまでも、どもりの症状といわれているものに関わらず、どもりにしっかり向き合い、どもりについての勉強をして、「吃音哲学」をもてば、僕が、21歳からは別人のように楽しく、豊に生きられたように、この子どもたちは生きていけると思いました。

 さて、今から、17回目になる、島根スタタリングフォーラムと名付けられた、吃音キャンプに出かけます。この続きは、島根から帰ってから書きます。

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/10/30


どもる子どもとの 「吃音白熱教室」


楽しかったどもる子どもとの対話

 岡山のキャンプでは、子ども全員に僕が話をして、その後グループに分かれて話し合うというプログラムがあります。今回は、メーガン・ワシントンさんのDVDをみてもらい、僕の体験を合わせて話そうとかんがえたのですが、直前にスタッフにDVDの用意をお願いしたときに、「伊藤さんの体験を、何度でも私も聞きたいし、子どもも興味をもってくれると思うから、DVDよりも体験を話して欲しいと言われました。

 僕は、13回も岡山にきている訳だし、僕の体験は、「親・教師・言語聴覚士が使える 吃音ワークブック」や、「どもる君へ いま伝えたいこと」(解放出版社)などで書いていますので、つい話さないで済ませてしまいます。今回は、是非といわれましたので、話すことにしましたが、どう話すかは全くかんがえないままに、子どもたちの前に立ちました。ふと、浮かんだままに、子どもたちの顔をみながら、反応をみながら話し始めたら、このような展開になりました。前もって予定をしていたわけではありません。おもしろかったので紹介します。

 
伸二 僕は、今、何歳くらいだと思いますか。
子 71歳。
子 55歳。
子 35歳くらい。

伸二 71歳? そうか、初めの挨拶で71歳と言ったんだね。
僕は、小学校、中学校、高校時代、とても苦しくて辛くて、僕の本当の意味での小学校生活、中学校生活は、21歳から始まっていると思っています。どもりを治す学校へ行って、そこで初めて同じようにどもって辛い思いをしている人と会いました。それが、21歳です。それまでは、僕の父親はどもっていたけれども、父親以外にどもる人はいなかったので、学校では僕たけがどもっていて、なぜ僕だけどもっているのかとすごく悩んでいた。そんな時期が長かった。

 僕は、小学校時代、中学校時代、高校時代を、ほんとの意味で、送っていないんじゃないかと思うくらい、楽しい思い出は何一つありません。21歳から、そんな小・中・高校と送ってきているので、なんか今まだに思春期を送っているような気がします。だから、誰かが言ってくれた、35歳くらいの年齢だと思っています。

 僕は3歳くらいからどもっていたんだけど、どもりに悩むことも困ることも全然なく、平気でどもっていました。でも、小学校2年生のときに、あるできごとがあって、そのときから僕は、「僕はだめな人間だ」、「音読や発表のできない、僕みたいにどもる人間はこれからどう生きていったらいいのか分からないと思い始めました。ここで、クイズです。

 クイズ1 「小学校2年生の秋に、僕に、どんなことが起こったでしょうか」

子 発表会でどもってしまった。
子 劇でどもってしまった
子 どもりどもりといじめられた
子 勉強のとき、どもってた

伸二 当たっているようで当たってないね。

伸二 学芸会のときに、浦島太郎の劇をしたんだけど、僕は浦島太郎になりたかった。浦島太郎がだめなら、カメ。どっちかなあと思っていた。僕だけでなく、友達も「伊藤が浦島太郎かカメだろう」思っていたんだけど、全然違っていて、僕は、カメが海へ帰っていくときに、3人で声をそろえて「さようなら、カメ」という役だった。そのせりふだけだった。僕は、せりふのいっぱいある太郎やカメになりたかった。

 僕は、クラスで人気があったし、元気だったので、できると思っていたのに、「さよなら、カメ」だけだった。僕は、なぜせりふのある役をさせてもらえなかったんだろうかと考えたときに、初めて、そうだ、僕はどもるから、せりふのある役を先生が与えてくれなかったんだと思った。すごく悔しかった、腹が立った。

 それまでは、どもることは悪いことでも、劣ったことでもないと思っていたのに、このとき初めてどもる僕はダメな人間だ、せりふのある役をさせてもらえないんだと思ってしまった。劣等感を初めて感じた。

 劣等感というのは、自分とほかの子とは違って、だめなんだ、劣っているんだと思うこと。他の子は、せりふのある役があるのに、僕だけにはない。ほんとは僕だけじゃなくて3人いたから、僕だけというのは間違っているけれど、そのときはそう思ってしまった。では、クイズ第2問。

 クイズ2 「どもりに劣等感をもって悩み始めたときから、どんなことが起こったでしょうか」

子 いじめられた。
伸二 そう。それまではいじめもからかわれることもなかったけど、からかわれて、笑われた。いじめられはしなかったけどね。
子 悲しかった。
伸二 悲しかっただけじゃなく、くやしかったし、いやだった。他には?
子 (考えている)
伸二 君たちはどう。どもるからといって、勉強しないってことはある? 勉強してる?
子 やっとる。勉強はしなきゃだめでしょ。
伸二 そうか、君たちは僕よりずっとえらいね。僕は、どもることと黙って勉強することとは何も関係ないのに、勉強がいやになってしなくなった。当然、手も挙げなくなった。音読をするのもしなくなった。みんなは、どもっていても、ちゃんと音読してる?
子 (みんな声をそろえて)してる。
伸二 そうか、みんな、えらいね。僕よりずっとえらい。僕は、音読はしなくなって、当てられて立っても、そのまますぐ座ってしまっていたんだ。
   (長いので、2回に分けました。後まだ続きます)

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/10/29

岡山と静岡の吃音キャンプに行ってきました。


 一年、一年を大切に生きたい

 13回目の岡山のキャンプ、14回の静岡キャンプに行ってきました。

岡山ではキャンプを始めた、ことばの教室の担当者が、教育委員会や大学の教員などに転出し、その後、キャンプの中心メンバーだつた人が、次々にもことばの教室の担当を離れ、教育委員会などに転出する中で、よくつないで13回もつづいたものだと、頭が下がります。

 また、静岡も一緒に始めた人が体調を崩し、参加出来なくなるなど、困難な状況の中で、やはり、「どもる子どもたちに、吃音キャンプを経験させたい」との強い思いから14回目を迎えることができました。

 夏に3歳年上の兄が健康であったにも関わらず、突然なくなるなどで、「人の死」がとても身近に感じられるようになりました。僕も71歳になり、これまでとは違う感覚になりました。来年また出会えるとは考えないで、今の出会いを最後だと考えながら、大切にしようと強く思いました。

 これまで、毎年、その年に学んだ新しいことが話すよう、昨年とは違う話をするように心がけてきました。しかし、この出会いが最後だと考えれば、新しいことばかりを話している訳にはいきません。どうしても伝えなくてはならないことは、話さなければならない。何度も参加している人にはまた聞く話であっても、大切にことは繰り返し話す必要があります。保護者への話は、第一回に話したようなことも含めて、丁寧に話していきました。

 また、岡山でも、静岡でも、例年と違うプログラムがありました。
 これも、子どもたちとの出会いを、また会えるからと考えずに、これまで以上に、丁寧にかかわろうと思いました。

 岡山では、小学1年生から子どもの全参加者に僕が話をする時間があります。今年は、劣等感。劣等コンプレックスの話をして、オーストラリアのミュージシャン、メーガン・ワシントンさんのTEDでのスピーチのビデオをみてもらおうと、用意したのですが、担当者から、有名人でも、知らない人のことよりも、「伊藤伸二の体験」を話して欲しいと言われ、まず、僕の話をして、時間があれば、メーガンさんのビデオと用意しました。ところが、僕の話に子どもたちがのってくれて、あっという間に時間になりました。子どもたちがよく聞いてくれました。やはり僕は、自分の体験を、何度も話しているからとパスしないで、繰り返し伝えて行く必要があると感じました。

 子どもたちに、質問をしながら話を展開していきました。
「僕は、3歳からどもり始めたのですが、小学2年生の秋までは全く悩んでいませんでした。僕がどもりに悩み始めたのは、どんなことがあったからでしょうか?」

 子どもたちは、どんどん手を挙げて発言してくれました。
 「僕は21歳から吃音に悩まなくなりましたが、何があったでしょうか?」

おもしろかったので、次回詳しくお伝えします。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/10/28

吃音の秋 キャンプロード


 長い間、ブログの更新をお休みしました。再開したいと思います。


 吃音親子サマーキャンプの報告を続けてきましたが、その終わりとともに、吃音の夏が終わり、いよいよ、吃音の秋の到来です。

 僕を講師として迎えて下さる吃音キャンプが今週末から、岡山、静岡、島根、群馬と続きます。キャンプロードのようです。一番長く続いているのが,島根のキャンプです。17回目とはすごいです。
 それぞれのキャンプ、ことばの教室の教師が中心になって取り組んでいますが、大勢が参加する年もあれば、少ない年もあります。また、スタッフも、教育委員会や大学などへの転出、通常学級への異動などがあります。それでも、それぞれの地域がここまで続いているのは、子どもたちや保護者の「参加して良かった、また来年、参加したい」との声に励まされるからです。

 僕たちの滋賀の吃音親子サマーキャンプも26回、一度もとぎれることなく続いています。始めたものはいつの日か終わるときが来ます。その時は、これまで続いてきたことに誇りを持ちたいと思います。

 いろんな出会いがありました。そこで出会った子どもたちの話は、別のキャンプの子どもたちに伝え、それがまた子どもから、子どもへとつながっていく。

 「吃音を治す・改善する」とはまったく違う、吃音と仲良く生きるためのキャンプが、各地で続いてきたことそのことを僕はとても喜んでいます。

 キャンプが終わったら、僕たちの主催する第21回吃音ショートコースです。
 体調を整えて、どもる人やどもる子どもたちとの対話を楽しみたいと思います。
 
 キャンプでどのような出会いがあり、どんなことを話したか、書き留めていきたいと思います。

岡山…第13回 吃音キャンプ IN OKAYAMA
 10月24日(土)9:00〜17:00
 国立吉備青少年自然の家

静岡…第14回 静岡県親子わくわくキャンプ
 10月25日(日)9:30〜16:45
 東海大学社会教育センター三保研修室

島根…第17回 島根スタタリングフォーラム
 10月31日(土)〜11月1日(日)
 島根県立少年自然の家

群馬…第7回吃音キャンプ IN GUNMA
 11月7日(土)〜8日(日)
 独立行政法人国立青少年教育振興機構 国立赤城青少年交流の家

 日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/10/23 

吃音とともに歩む人生の旅立ち

 第26回吃音親子サマーキャンプ〜吃音と共に歩む人生の旅立ち〜

 親も子どもにとっても特別な卒業式

 吃音親子サマーキャンプに参加できるのは、高校3年生まで。高校3年の最後の夏、子どもたちはサマーキャンプを卒業していきます。
 初めて、サマーキャンプで卒業式をしたのは、2003年、第14回のキャンプ、長尾政毅君が高校3年生のときでした。キャンプが始まる前までは全く考えてもいなかったのですが、小学校4年生から続けて参加してきた長尾君は、サマキャンの申し子のような存在で、僕たちは、彼の成長を間近で見てきました。もうこれで最後だと思った2日目の夜、急に思い立って、最終日に卒業式をしようと思いました。

 青色の画用紙に手書きの文字で、贈ることばを書きました。芝居の上演が終わった後、それを読み上げ、みんなで卒業を祝いました。長尾君も泣き、僕も涙をこらえることができませんでした。これが吃音サマーキャンプの涙の卒業式のはじまりです。

 それから、毎年のように、高校3年生が参加していて、卒業式をしています。青色の画用紙ではなく、ちゃんとした賞状を用意しています。手書きの文字は変わっていませんが。

 高校3年生だから卒業式をするということではなく、最低3年はキャンプに参加していることが条件です。だから、サマーキャンプを知ったのが高校2年生で2回しか参加できなかった子には、卒業証書を渡すことができませんでした。高校3年生のときに参加していなかったため、5年も参加しながら、卒業証書をもらえなかった子もいます。スタッフの中には、サマキャン卒業生がたくさんいますが、「卒業証書をもらっていないサマキャン卒業生です」なんて自己紹介する人もいるくらいです。
卒業式1
卒業式2
卒業式3

 今年は、3人の卒業生がいました。卒業証書を読み、手渡し、本人から、そして一緒に来ている保護者から、あいさつをしてもらいました。サマーキャンプを振り返り、連れてきてくれた親に感謝のことばを言う子、来年はスタッフとして参加したいと決意を言う子、自分の成長を話す子など、ひとりひとりが自分のことばで語ります。140人の参加者の前で、どもりながら、泣きながら、気持ちにぴったりのことばを選びながら、話す姿は、小さい頃からを知っている僕たちにとっては、まぶしく、頼もしい存在です。一緒に参加している親も、自分にとってのサマーキャンプを振り返ります。夏の恒例の家族旅行になった親子もいました。挨拶のことばに代えて、応援団長になったように大声で、我が子へのエールを贈ったお父さんもいました。

卒業式4
卒業式5
卒業式6
 この卒業式、それなりに長い時間になりますが、小さい子どもたちも静かに真剣に聞いています。全体の雰囲気が小さい子どもたちへも影響しているのでしょう。そして、子どもたちの心の中には、何年か後の卒業式に臨む自分の姿も目に浮かんでいるようです。それは、保護者の方も同じようで、うちの子が卒業するまでサマキャンを続けて下さいねとよく言われます。

 健康に気をつけて、命の続く限り、続けていこうと、僕も決意を新たにする、吃音親子サマーキャンプの卒業式です。

卒業式7
 ブログで、今年のサマーキャンプを振り返ってきました。これで、一旦、サマーキャンプの報告を終わります。写真の中の弾けるような子どもや親、スタッフの笑顔が、このサマーキャンプの魅力を物語ってくれていると思います。
 また、来年、なつかしい顔、初めての顔、久しぶりの顔と、出会えますように。荒神山で、すてきな時間を一緒に過ごしましょう。

 明日から、1週間ほど、旅に出ます。ブログの更新ができませんが、また帰ってきてから、ぼちぼち続けていきたいと思っています。よろしくお願いします。

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二  2015/10/6

 

竹内敏晴さんのことば<後に引けない場に立つ>

第26回吃音親子サマーキャンプ

竹内敏晴さんのことば<後に引けない場に立つ>

 2009年、竹内敏晴さんがお亡くなりになる直前まで、僕たちは大阪の定例レッスンの事務局をしていました。この定例レッスンは、11年続きました。
 ことばがうまくしゃべれないのは、どもる人の特権ではなく、どもらないのに自分のことばを求めてたくさんの人が遠いところからレッスンに参加していました。からだを揺らし、歌を歌い、詩を読み、芝居のセリフを言い、そんな自分を表現するレッスンを、毎月第2土曜日と翌日曜日に行っていました。
 そして、年に一度、レッスン会場だった應典院の大ホールを借り、公開レッスンという名称で、レッスンを公開していました。レッスンしてきたことを会場の皆さんの前で披露するのです。年を追うごとに、だんだんと大きな芝居を上演するようになりました。でも、その芝居を完成させることが目的ではなく、自由なからだや届く声、自分を表現することの楽しさを求めたものでした。いつも竹内さんは、
「途中でレッスンし直すかもしれないよ。そのつもりで」
とよく笑いながら言っておられました。実際に芝居の途中にストップがかかったこともありました。季刊で発行していた「たけうち通信」の中に、竹内さんのこんなことばがあります。
 「お客さんの前に立ったとき、もうのっぴきならなくなる、後に退く、逃げ出す、ということができない場に立って、エイと自分を前に押し出すことが、ひとつ自分を超えてゆくことになる…」

 吃音親子サマーキャンプでも、子どもたちの芝居の練習と上演は、吃音の話し合い、親の学習会と並んで大きな位置を占めています。せりふのある役をしてこなかったり、いつも裏方ばかりしていたり、大勢で言うだけだったり、それぞれ芝居にはいろいろ思いがあります。一番苦手な場にあえて仲間とともに立つ、逃げ出したくなるのを堪えてお互いに支え合いながら舞台に立つ、そんな経験をしてもらいたくて、ずっと続けてきました。
 竹内さんがお亡くなりになってからは、京都大学大学院の学生の時、大阪の定例レッスンに参加していた渡辺貴裕さんが、跡を継いで、芝居の演出をして下さっています。
子どもの芝居2
子どもの芝居3
子どもの芝居4
子どもの芝居5 
 事前の合宿レッスンで体験した楽しさを、子どもたちとともにもう一度味わいます。配役を決めるのは後にして、初めは、それぞれがどの役も演じてみます。今回は歌がたくさんあったので、その歌を歌いながら声を出しました。きつねの紺三郎と四郎やかん子のやりとりは、みんなで2組に分かれて、掛け合いをしました。幻灯にうつったパントマイムもジェスチャーゲームのようにみんなでしました。そんなふうに充分に遊んでから、役を決めています。芝居の中でのせりふの持つ意味がみんなの中で共有できているから、ひとつのものを作り上げていく喜びが味わえるのでしょう。
 自分の声に向き合い、自分で押さえていた限界を突破するために、小山の上から、下にいる人に声を届けたり、からだ全体を使って歌を歌ったり、懸命に自分の声に取り組みます。
 どうしてもことばの出にくい子には特別レッスンをすることもあります。竹内さんが言っておられた日本語の発声・発音の基本に沿って、母音をしっかり出すことを練習します。
 そうして、迎えた本番。いい観客の前で、子どもたちは伸びやかに自分を表現していました。「後に引けない場に立つ」、子どもたちにそんな悲壮感は全くありませんが、舞台から逃げ出さず、演じきった子どもたちの満足そうな顔から、ひとつ超えたなと感じます。サマーキャンプ全体の雰囲気がそうさせていると言えるでしょう。僕がよく言う、サマーキャンプがひとつの装置となっていることを証明してくれています。
子どもの芝居1

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二  2015/10/5

真剣に話し合ったからこその弾ける姿〜親の表現活動

第26回吃音親子サマーキャンプ 14

  真剣に話し合ったからこその弾ける姿 親の表現活動
 
 さあ、3日目の最終日。
 朝食後、子どもたちは劇の上演に向けて、リハーサルが始まります。上手に演じることが目的ではなく、芝居という形で、自分の声、ことばに向き合うのです。自分のことばが相手に届いた実感、表現することの楽しさを知ってほしい、そんな願いのもと、スタッフは、グループごとに独自の取り組みを通して子どものことばに関わっていきます。衣装をつけ、小道具をもつと、みんな女優・男優気分です。

 そんな子どもたちの上演の前座をつとめるのが親たちです。親たち自身にも表現力をつけてほしいと、偶然、生まれた親の表現活動、いつの間にか定番プログラムになってしまいました。

親の表現練習1

親の表現練習2

親の表現練習3

 集会室に集まった常連の親は余裕の顔ですが、初参加の親は何が始まるのだろうかと少し緊張気味です。ここ10年以上、工藤直子の「のはらうた」から詩を用意しています。それを話し合いのグループごとに集まり、身振り手振りをつけて表現するのです。笑い声があちらこちらから聞こえてきて、楽しそうですが、練習は真剣そのもの。動き回り、走り回り、詩の世界がぐんと厚みを増していきます。緊張気味だった初参加の親も、全体の雰囲気につられて、楽しそうに表現しています。上演少し前にリハーサル、それぞれのグループらしさが出ています。
 今年は、「のはらうた」に登場する常連の<かまきりりゅうじ>のソロライブとしました。5つのグループがそれぞれの<かまりりゅうじ>を表現していました。

親の表現観客

親の表現本番1
親の表現本番2
親の表現本番3
 午前10時、いよいよ開場・開演です。今年は特別に、レジリエンスの発表が1組あった後、僕のスタートの合図で、親の表現活動が始まりました。
 子どもたちが驚きの表情でみつめます。家では見たことのないような親の姿です。こんなことができるのは、この3日間、共に考え、話し合い、活動してきた仲間だからでしょう。弾けた親の姿は、すぐ後に続く子どもたちに引き継がれていきます。興奮状態が覚めやらぬ中、子どもたちの劇「雪わたり」が始まります。

日本津気温臨床研究会 伊藤伸二  2015/10/2

「若者たち」の山内久さん さようなら ありがとうございました。

 
山内久さん(やまのうち・ひさし=脚本家)が9月29日、老衰で死去、90歳。お別れの会は7日午後6時と8日午前9時30分から東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場で。喪主は養子の脚本家渡辺千明さん。
 「幕末太陽伝」(川島雄三監督らとの共同、1957年)や「豚と軍艦」(61年)など多くの映画脚本を手がけた。66年にはテレビの連続ドラマ「若者たち」の原作・脚本を担当。5人きょうだいが様々な問題を乗り越えて懸命に生きる姿は、主題歌のヒットもあって茶の間の人気を博した。翌年映画化され、毎日映画コンクール脚本賞を受けた。


 山内久さんが亡くなりました。
 山内さんとはたくさんの思い出があります。90歳になっておられていたのですが、僕が山内さんと出会ったのは、48年も前のことです。映画「若者たち」を僕たちが全国にさきがけて上演してからのつきあいで、言友会創立5周年では「若者の明日を築くために」のシンポジウムに来て下さいました。その後も、僕たちの会合に来て下さり、公開対談もしました。
 
 山内さんのご自宅、逗子市山の根のご自宅にも遊びにゆくなど、交流がありました。映画好きの僕は、とても幸せな時間を過ごすことができました。
 その後も、僕の吃音に対する考えにとても共感して下さり、いつも励まして下さっていました。世界大会の開催の時も支援をして下さり、いつもいただく、独特の字体のメッセージを、しばらく保管していたほどでした。

 「いつも、ユーモアを忘れずに」が口癖でした。
 「吃音を治す、改善する」の立場の人との、僕の孤立した、悲壮な戦いに常に思いをかけて下さり、応援してくださっていました。僕の気負った姿に危ういものを感じたのか、よく「ユーモアを忘れず、おおらかに」と書かれていました。いつの間にか年賀状のやりとりはなくなっていましたが、山内さんの、戦争への思いや、僕たちの活動への思いは、つねに僕の胸の中にありました。

 9月中旬、信州蓼科高原に遊びに行ったとき、小津安二郎監督が、晩年仕事場にしていた民家にいきました。その資料館で、このあたりに山荘をかまえる映画人のことが紹介されており、その一人に「山内久」の名前があり、とても懐かしく、今、どうしておられるかと、久しぶりに思い出していたところでした。

 もう一度、お会いしたかった。また、僕のぐちを聞いて欲しかったと、今になって思います。
 「幕末太陽伝」や「豚と軍艦」「聖職の碑」「ああ野麦峠」「私が捨てた女」など、DVDがあるので、もう一度みたいと思います。

 『吃音者宣言』(たいまつ社)の本の中に書いた、「若者たち」について書いた文章を紹介し、山内さんのご冥福をお祈りします。

 映画「若者たち」のこと

 事務所が言友会の活動の中心の場となるにつれ、そこには常に明るい笑い声が絶えなかった。若い私たちには雨もりのするどんなボロ屋でも、5人も10人も同じ屋根の下で夜遅くまで語れる場があるということはありがたかった。マージャン屋や酒場に早替わりすることもたびたびあったが、悲しいときうれしいとき、自然と足は事務所に向かった。
 会が充実するにしたがって、これまでの活動では物足りなくなってきた私たちは、何か夢のあることがしたくなっていた。また言友会の存在を大きくアピールすることはできないか、常にそのことが頭の中にあった時期でもあった。
 ある日、新聞で「若者たち」という映画が制作されながら、配給ルートが決まらず、おくらになりかけているという記事を読んだ。テレビで放映されていたものが映画化されたのだった。テレビで感動を受けていた私は、いい映画が興業価値がないことでおくらになることが不満だった。そしてその置かれた立場を言友会となぜかダブらせていた。

 「そうだ、この映画を全国に先がけて言友会で上映しよう。そして吃音の専門家に講演をお願いし、講演と映画の夕べを開こう。吃音の問題を考えると同時に、映画を通して若者の生き方を考えよう」

 そのことが頭にひらめくと私の胸は高鳴り、もうじっとしておれなくなった。さっそく制作した担当者に電話をし、新星映画社と俳優座へと出かけていった。どもりながら前向きに生きようとしている吃音者のこと、言友会のこと、そして今の私たちに必要なのは、映画『若者たち』の主人公のように、社会の矛盾を感じながらも、社会にたくましくはばたこうとする若者の生き方であることを訴えた。私たちの運動には理解や共感をしえても、末封切の映画の無料貸し出しとは別問題であった。あっさりと断わられたが、私は後ろへ引き下がれなかった。東京の吃音者に言友会の存在を広く知らせ、共に吃音問題を考え、生きる勇気を持つにはこの企画しかないと私は思いつめていたのだ。

 私は、六本木にある俳優座にその後も何度も足を運んだ。交渉を開始してすでに7ヵ月が過ぎた。そして、映画『若者たち』も上映ルートが決まらぬままであった。再度私はプロデューサーに長い長い手紙を書いた。あまりのしつこさにあきらめたのか、情勢が変化したからなのかわからなかったが、この手紙がきっかけとなって映画を無料で借り出すことに成功した。そして、上映運動が展開される時には協力を惜しまないことを約束した。これまで私が生きてきてこの日ほどうれしかった日はかつてなかった。さっそく事務所にいる仲間に伝え、手をとりあって喜んだ。
 とにかく、250名もの人を集め、主演の山本圭も参加してくれての夕べは成功した。会場を出る時参加者は『若者たち』の歌を口ずさんでいた。

伊藤伸二編著 『吃音者宣言−言友会運動10年』(たいまつ社・1976年)  P93〜P94

日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2015/10/01
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