諦める・捨てる
NHKの番組で20代の自殺について取り上げられ、その番組への反響が昨日放送されていました。
「死にたい、消えてしまいたい」と、どもり(吃音)に深く悩んでいた21歳までは、僕もよく思いました。番組を見ながら、なぜ僕は死なずに済み、その思いから解放されたのか、「死にたい」と思い続けることから抜け出られないのはなぜなのか。画面下に出てくる、視聴者からのメッセージも読みながら考えていました。
僕が死にたいと思ったのは、どもり(吃音)という具体的な悩みがあったからで、その悩みにある程度距離が持てたとき、「死にたい」との思いがきえたのではないかと、今、考えます。ところが、番組で紹介されていた20代の若者は、具体的な悩みではなく、原因としては、虐待やいじめなどが考えられるものの、将来への「漠然とした不安」、漠然とした自己否定感なのではないかと思いました。実は、この漠然とした「不安や恐れ」「自己否定」が、そこから抜け出すことをむずかしくさせているのでしょう。漠然としているから、どうそのことに、向き合い、対処すればいいか、とてもつかみにくいのだろうと思います。
どもりに悩んでいた時は、これさえなければと、どもりを悪者にしていれば、それなりのバランスがとれたのですが、「これが悪い」という明確な「悪役・敵」がいないと、これはつらいだろうなあと思いました。
「どもりさえ治れば、楽しく生きられる」と思えたから、それが,当時の僕を助けることになっていたのです。しかし、21歳で「東京正生学院」で、1か月必死で「治す努力」をした結果治らなかったから「どもりを治す」ことにあきらめがつきました。この「あきらめ」がついたことが、僕には幸いでした。「諦める」「治す努力をやめる」という、捨てるものがあったから、僕は「死なずにすんだ」のかもしれません。
番組に出てきた20代の若者に、「あきらめるもの」「捨てるもの」がないから、苦しく、つらいのだろうと思います。
番組にも出てきた、同じようなつらさを持っている人との出会い、自分の弱さや、悩み、苦しみを語れること。悩んでいる自分を恥じる必要はないと思えたこと。誰か一人でも、自分を好きになってくれる人と出会えること。僕は幸いにも21歳でそれらを得ました。それが、僕が死なずにすんだ要因だと思っていましたが、それ以上に「捨てる・諦める」具体的などもり(吃音)があったからではないかと思いました。
20代の若者の自殺は、日本社会にとても大きなものを突きつけています。個人の資質や努力では解決できない大きな問題です。それを感じ取れない政治屋ばかりの日本では、絶望的になります。誰か一人でも真剣にこの問題に向き合う、有力な政治家はいないのでしょうか。今の日本の、政治、経済の劣化、崩壊を思わざるを得ませんでした。
一度ならず、何度も「死にたい」と考えた僕にとっては、この問題は避けて通ることはできません。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2014/09/26