
第12回静岡吃音キャンプの親の学習会
親の学習会の3時間30分は、親から出される質問に沿って話していくことにしている。講演の形にすると、親がもとめていたものとずれてしまうからです。しかし、質問をしてもらうと、少なくともその人には関心があることなので、安心して話すことができます。
最初に父親から発言がありました。
「他の病気や障害はある程度理解がある。私も、子どものころから、目や耳や身体に障害がある人に対して、からかったり、指摘したりなど、教えられなくてもしてはいけないことだとの認識はある。それらに比べて、「なんど、そんな話し方はするんだ」「ちゃんと日本語しゃべれ」などと、子どもは指摘や、からかいにあっている。それが,他の障害のある人にくらべて、そうすることが失礼や、問題だとおもっていない。どもりをたいしたことがないと思っている。どうしたら、他の障害や病気と同じくらい、どもる子どもに対する理解がすすんでいくのか。子どもが生きやすくなるのか、吃音はとても軽く見られている」
これは議論によっては深い議論になる、大切な問題です。
「お父さんは、どのように子どものことを理解して欲しいですか。「かわいそうな存在」、「弱い存在」として、同情や、特別の配慮をして欲しいですか」と尋ねました。
「たいしたことではない」がプラスのこととして、みんながどもって時間がかかっても聞いてくれるのであればいいが、「早く言え」などと言われると、やはり理解がひろがればいいと思う」
とすぐに横の母親が発言しました。
本当にそうですよね。「かわいそうな存在」として、特別の配慮をして欲しい、たとえば障害者として認定して欲しいと考えているわけではないとの発言もありました。
どもる人にとっての理解とは何か、以前書いた文章がありますので、後で紹介しようと思いますが、おもしろい話し合いになりました。「たいしたことがない」「吃音を理解してもらわなくてもいいから、僕の話し方に慣れてくれればいい」と、吃音親子サマーキャンプの子どもが言っていました。
「どもりながら、自分なりの豊かな人生を送っている」との肯定的な吃音のとらえ方がひろがればいいなあと僕はおもっているのですが、どうでしょうか。
さきほどの、「たいしたことがない」と思われて、からかわれたり、笑われたりするのであれば、「かわいそうだと」哀れみをかけられるよりは、ずっといいと言った子どもがいました。岡山のキャンプであった子どもは、デメリトはメリットに変えられると、変換する練習をしているように僕にはみえましたが、彼ならこの話し合いにどんな反応をするか、しりたくなりました。「たいしたことがないと思うから、わらったりするのなら、ぼくらも、本当にたいしたことがじゃない、笑われるくらいのことなんだと、軽く考えればいいんだ」、と言うかもしれません。
「吃音の理解」につては、今後も考え続けたいと思います。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二 2013/10/30