反戦貫いた映画監督・新藤兼人さん
私がもっとも敬愛する映画監督、新藤兼人さんが、100歳で老衰でなくなりました。老衰とはなんと素晴らしい亡くなり方でしょう。その前年に代表作とも言える映画「一枚のハガキ」を脚本・監督で世に送ったのですから。死ぬまで生ききった、素晴らしい人生でした。
何度も書いていますが、私は映画少年、映画青年でした。1950〜60年代の主な洋画はほとんど観ているだろうと思います。一番好きな俳優が「バート・ランカスター」でした。中学・高校時代友だちがなく、孤独だった私の唯一の楽しみが映画だったのです。映画に助けられ、多くのことを学びました。私が映画好きになる原点が「反戦・平和」です。小学校入学前か、すぐか覚えていませんが、夜の校庭で白い布をひろげての映画会。風が強いとスクリーンがたなびく、今では考えられない映画鑑賞です。私にとって最初の映画が反戦映画「きけわたつみの声」でした。
他のシーンも内容もまったく覚えていませんが、上官がが下士官の口に軍靴を入れ殴りつける場面。戦争から帰らぬ父親を待つ男の子と女の子が、ちいさな橋のある小川で「春の小川はさらさら行くよ・・」と手をつないで童謡を歌っている場面。このふたつのシーンだけが常に思い出されます。
「どんなことがあっても、戦争はだめだ」「戦争はさせてはならない」が私の中心に座りました。しかし、学生運動は、家が貧しくてアルバイトにあけくれていたためにできず、私が唯一できたことは、他のことは問題があったとしても、「非武装中立・憲法第9条を守る」のそれだけで、日本社会党を積極的に応援することだけでした。
映画は映画館で観るものだと信じている私は、新藤監督の「一枚のハガキ」だけは、どんなに忙しくても、見に行くと決めていました。監督の最後の映画だと思っていたからです。「自分の体験を、自分の考えをすべて出す」の意気込み通り、98歳にして代表作ともいえるものにになっていました。
「戦争では多くの兵隊が死にました。しかし、戦争の悲劇の本質は、亡くなった兵隊たちの家庭が柱を抜いたようにずたずたに破壊されることにある。戦争をすればこういう悲劇を招くんだということを単純に語りたかった。最後だから、自分の考えを全部思い切りだそうと思った。この映画を撮れて本当に良かった」
新藤監督は映画を撮り終えてこう語っていました。ところが、映画にはそのような気負いが私にはあまりl感じられませんでした。力を抜いて、人間を描きながら「戦争はだめだよ」と優しく語りかけているようでした。セリフに役者の表情に、ユーモアが効果的にちりばめられていたからかもしれません。人間の弱さ、くだらなさを肯定し、ユーモアで笑い飛ばす。苦しくても、つらくても、にもかかわらず生きる。生きるエルネギーが感じられたからかもしれません。
あの東日本大震災の時新藤監督はこう言ったそうです。
「それでも顔を上げて歩くんだ。泣いたりなんかしちゃいけない。前を向いて歩くと、つぶてが飛んでくるけれど、それでも顔をあげて行くんだ」
戦争と吃音とを比喩にしても結びつけのには、あまりにもレベルが違い、無理があり、失笑を買うことを覚悟で私は時々比喩として使います。
新藤監督が自らの体験を考えをことばにし、映像として世に残しました。
以前私は、「教え子を戦場に送るな」の教師の思いを比喩として、ことばの教室の教師へのメッセージとして、「どもる子どもを、吃音治療の戦場に送るな」と書いたことがあります。
吃音を敵として見立て、闘いを挑み、私はいろんなものを失いました。吃音と戦争することで、自分が壊れていきました。「吃音と闘うな」は私の21歳までの苦悩の人生からでてきた実感です。闘えば闘うほどに敵は強大に成長します。相手を優しいまなざしでみつめ、向き合えば、吃音は敵ではなく、強い味方になるのです。
新藤監督は、「反戦・平和・反核」について、自らの体験だけを手がかりに、ことばに、映像にして世に出しました。監督に見習って、私は、吃音の分野で「反戦・平和」の語り部として、語り続けていこうと思います。
新藤監督、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年5月31日
私がもっとも敬愛する映画監督、新藤兼人さんが、100歳で老衰でなくなりました。老衰とはなんと素晴らしい亡くなり方でしょう。その前年に代表作とも言える映画「一枚のハガキ」を脚本・監督で世に送ったのですから。死ぬまで生ききった、素晴らしい人生でした。
何度も書いていますが、私は映画少年、映画青年でした。1950〜60年代の主な洋画はほとんど観ているだろうと思います。一番好きな俳優が「バート・ランカスター」でした。中学・高校時代友だちがなく、孤独だった私の唯一の楽しみが映画だったのです。映画に助けられ、多くのことを学びました。私が映画好きになる原点が「反戦・平和」です。小学校入学前か、すぐか覚えていませんが、夜の校庭で白い布をひろげての映画会。風が強いとスクリーンがたなびく、今では考えられない映画鑑賞です。私にとって最初の映画が反戦映画「きけわたつみの声」でした。
他のシーンも内容もまったく覚えていませんが、上官がが下士官の口に軍靴を入れ殴りつける場面。戦争から帰らぬ父親を待つ男の子と女の子が、ちいさな橋のある小川で「春の小川はさらさら行くよ・・」と手をつないで童謡を歌っている場面。このふたつのシーンだけが常に思い出されます。
「どんなことがあっても、戦争はだめだ」「戦争はさせてはならない」が私の中心に座りました。しかし、学生運動は、家が貧しくてアルバイトにあけくれていたためにできず、私が唯一できたことは、他のことは問題があったとしても、「非武装中立・憲法第9条を守る」のそれだけで、日本社会党を積極的に応援することだけでした。
映画は映画館で観るものだと信じている私は、新藤監督の「一枚のハガキ」だけは、どんなに忙しくても、見に行くと決めていました。監督の最後の映画だと思っていたからです。「自分の体験を、自分の考えをすべて出す」の意気込み通り、98歳にして代表作ともいえるものにになっていました。
「戦争では多くの兵隊が死にました。しかし、戦争の悲劇の本質は、亡くなった兵隊たちの家庭が柱を抜いたようにずたずたに破壊されることにある。戦争をすればこういう悲劇を招くんだということを単純に語りたかった。最後だから、自分の考えを全部思い切りだそうと思った。この映画を撮れて本当に良かった」
新藤監督は映画を撮り終えてこう語っていました。ところが、映画にはそのような気負いが私にはあまりl感じられませんでした。力を抜いて、人間を描きながら「戦争はだめだよ」と優しく語りかけているようでした。セリフに役者の表情に、ユーモアが効果的にちりばめられていたからかもしれません。人間の弱さ、くだらなさを肯定し、ユーモアで笑い飛ばす。苦しくても、つらくても、にもかかわらず生きる。生きるエルネギーが感じられたからかもしれません。
あの東日本大震災の時新藤監督はこう言ったそうです。
「それでも顔を上げて歩くんだ。泣いたりなんかしちゃいけない。前を向いて歩くと、つぶてが飛んでくるけれど、それでも顔をあげて行くんだ」
戦争と吃音とを比喩にしても結びつけのには、あまりにもレベルが違い、無理があり、失笑を買うことを覚悟で私は時々比喩として使います。
新藤監督が自らの体験を考えをことばにし、映像として世に残しました。
以前私は、「教え子を戦場に送るな」の教師の思いを比喩として、ことばの教室の教師へのメッセージとして、「どもる子どもを、吃音治療の戦場に送るな」と書いたことがあります。
吃音を敵として見立て、闘いを挑み、私はいろんなものを失いました。吃音と戦争することで、自分が壊れていきました。「吃音と闘うな」は私の21歳までの苦悩の人生からでてきた実感です。闘えば闘うほどに敵は強大に成長します。相手を優しいまなざしでみつめ、向き合えば、吃音は敵ではなく、強い味方になるのです。
新藤監督は、「反戦・平和・反核」について、自らの体験だけを手がかりに、ことばに、映像にして世に出しました。監督に見習って、私は、吃音の分野で「反戦・平和」の語り部として、語り続けていこうと思います。
新藤監督、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
日本吃音臨床研究会・会長 伊藤伸二 2012年5月31日