阿部容子さん、莉菜さんのご冥福お祈りします。
吃音親子サマーキャンプに参加していた2家族が、大震災にあいました。
岩手県に住む一家族は内陸であったために無事でした。昨年サマーキャンプで卒業式をして、この4月、大学に入学しました。あとの一家族が宮城県に住む阿部さん家族です。
私がブログに安否を尋ねる記事を書いたところ、吃音親子サマーキャンプに参加していた何人もの方から、問い合わせがありました。キャンプが終わってからも、それぞれの家族が連絡をとりあっていたことがよく分かりました。
私も、その後、日常の生活は従来通りこなしていましたが、気持ちは常に被災地にあり、阿部さんのことがずっと気がかりで、気持ちの整理ができず、ブログの更新もできませんでした。さまざまな形の日本中での自粛や元気のなさが、被災された方にとって、かえってよくないのではないかとの見解が多く出されるようにもなりました。
私も、気持ちをしっかりもって、前に進まなければならないと、思い切って、阿部容子さんが高校時代にお世話になった方に電話をしました。そして、覚悟はしていたものの、つらい現実に向き合わなくてはならなくなりました。
莉菜さんは、吃音親子サマーキャンプに家族で3年間参加し、とても元気になって、この4月、仙台の高校の入学が決まっていたそうです。制服も用意されていたのに、未来を閉ざされてしまいました。初参加の年、私が担当する話し合いのグループに彼女はいました。とてもよく覚えています。遠い宮城県から、夏休みが終わっているにもかかわらず、ご家族で参加し、熱心に吃音と向き合う姿に敬意をもっていました。
いつまでも、悲しんでいるわけにはいきません。このブログの記事で、ひとつの区切りをつけて、吃音に取り組む私の仕事に戻ろうと思います。そうすることが、縁あって、短い時間であっても濃密な時間をともに過ごした阿部さんご家族への私にできる精一杯のことではないかと思うからです。「莉菜のように吃音に悩む人の力になって」と、容子さんが言っているように思います。
新たな気持ちで取り組みますので、どうかよろしくお願いします。
以下の記事は、阿部さんの家族のことを問いあわせて下さった、多くの方々への報告です。長い電話で話して下さったことを正確に皆さんに伝える自信がなくて、容子さんのご親戚への報告のメールを送っていただきましたので、そのまま紹介します。
関係する方々に是非お読みいただき、ふたりのことをしっかりと覚えておきたいと思います。
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
伊藤伸二にいただいたメール
お電話とメールをありがとうございます。
ブログも拝読させていただきました。
行方不明のご家族は、容子さん、容子さんの母上の栄子さん、長女の莉菜さん。いま避難所(女川青少年センター)にいるのは容子さんのご主人の征弘さん、父上の良弘さん。次女の弘愛(ひろか)さんは、ご主人の実家がある仙台に転校し、実家から通学中とのことです。容子さん叔父上の福島市の今野様へ送信したメールを下に貼りつけたいと思います。
容子さんのことが中心のやりとりになっていますが、ご容赦下さい。又、前後のことが伝わらない部分もあろうかと存じますが、ご推察いただけると有り難いです。
今回の大津波はたくさんの尊い生命を奪っていきましたが、それでも尚、沿岸の人々は海をよりどころにして生きていかねばならないし、そうしたいと願っていることでしょう。宮城県だけで4月20日現在の行方不明者は7934名、女川町は1035名です。
親思い、子供思いで、高校時代から常に人のことを考える容子さんでした。
容子さんより大きくなった莉菜さんを抱きしめたりしてるんだよ・・という同期生の話を聞いていましたので、一生懸命家族のため、ご近所のため、親御さんのために働いていた姿があらためて目の前に浮かんでおります。
本当に最後まで容子らしく頑張ったんだろうなと思うと、悲しい中にも誇らしい気持ちになりました。という同期生からの返信メールも来ておりました。
今後、なにか情報が入りましたら、お知らせ申し上げます。
ご心配をおかけしている皆々様にもなにとぞ宜しくお伝え下さいませ。
ーーーー私から叔父上様あての報告メールーーーーーーーーーーー
4月14日、容子さんの同期生 涌谷町の福田さんと石巻市の武田さんが女川に行きまして、容子さんご主人の征弘さんと会ったそうです。その時のことをお伝えさせていただきます。3月7日の誕生日におめでとうの電話を容子さんからもらったのが最後、と言っていた武田さんは、どうしても女川に行って、自分の目で確かめてきたかったそうです。
なんと書いたらよいのか迷いつつ、征弘さんから二人が聞いてきたところをできるだけそのまま箇条的にお伝えしたいと思います。
いま避難先は父上や容子さんの長姉、次姉ご家族と一緒の青少年センター。父上の良弘さんと布団を並べて暮らしているとのこと。
次女の弘愛さんは転校して、仙台の征弘さんの実家から通学していて、お母さん達のことは一切語らないでいるようだ。でも元気にしている。住んでいた家(3階建て)は跡形もなく、思い出に残る品も何もない状態。車だけが敷地内の山側のところに破損したまま残っていた。
瓦礫の中を捜索してもらったが、いまも見つかっていない。日頃から容子さんは、隣に住んでいる一人暮らしのおばあさんのことを心配していて、何かあった時は自分が助けないと・・・と話していたそうな。その「隣のおばあさん」も含めて見つかっていない。
家があった場所に征弘さんに案内してもらった二人は200〜300m歩けば避難場所へ着く・・という場所だったので、それが一番悔しかったそうです。でも、「隣のおばあさん」を車に乗せようとしていたのだとしたら、想像していたように、容子さんらしかったと思うし、もしも容子さん家族は助かって、隣のおばあさんが亡くなっていたとしたら、きっと容子さん自身がいたたまれなくなっていただろうし、“容子らしい”と、二人は感じたそうです。
仙台に転校した弘愛さんが、何も語らない・・というのも、“容子に似てるなあ・・”と。
昨年夏に、小岩井の当ペンションへ同期会で来てくれましたが、そのとき、行き帰りの車中含めて、とっても楽しかったようで皆であのとき集まれてよかったと話していたそうです。
(自分の家も津波で被災している)石巻の武田さんは特に、普段は友人にもあまり涙をみせたりしない人ですが、容子さん宅の跡に立ったとき、ふたりで泣いてしまったとのことでした。
今朝、高校生のころに、容子さんの同期生みんなで写した写真をアルバムからとり、小さな額に入れました。そのころ17歳の容子さんは、昨年は40歳になっていたのに、何も変わっていませんでした。
1時間ほど涌谷の福田さんと電話で話しました。ご心痛が消えず、いままた、女川の復興の為にお働きを始められましたことに心から敬意を表しますとともに、どうぞ容子さんの何かの情報など入りましたら、お知らせいただけますと幸いでございます。
今野様、奥様も、ご高齢のお母上様はじめ、少しでもお体をお大切になさってくださいませ。いろいろとお騒がせいたしました。ありがとうございました。
私もいつか女川をこの目でみたいと念じております。