伝統・継続の底力
2009年5月23日、5月24日
第11回島根スタタリングフォーラムがありました。島根県下のことばの教室に通うこども、終了したこどもを対象に毎年開かれています。
島根県ほど私が足繁く行くところは他にはありません。子ども達のこのキャンプだけでなく、島根県の難聴言語障害教育の研修大会や、親の会の総会、特別に企画して下さった講演会など、かなりの回数、島根県を訪れています。
日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」は、海外を含めて、さまざまな吃音の情報や、吃る人や、吃るこどもの親の体験、講演の記録などを掲載しています。年間購読費が5000円です。吃る人だけでなく、ことばの教室の先生の読者はとても多いのですが、その中で、際だって多いのが島根県のことばの教室です。私たちの考えや実践に共感して下さる人が多いということです。その人たちと取り組む、島根県スタタリングフォーラムは、私にとってとても大切なもののひとつです。
こんなことから、島根の人たちとのつきあいが始まりました。
私は、毎年、神奈川県久里浜にある、国立特殊教育総合研究所(当時の名称)の言語障害の研修の吃音の講義をさせて頂いています。全国からことばの教室の担当者が
参加しています。
1998年の参加者の中に、島根県松江市のことばの教室の担当者黒崎典子さんががいました。私はその年の年末年始にかけて、島根の玉造温泉に2週間ほど滞在することにしてて、彼女に話したところ、島根に伊藤伸二がいるのなら、講演会のようなことをしないかと、年末の忙しい28日ごろ松江市内のことばの教室で、ことばの教室担当者、吃るこどもの親を対象にした集まりが、計画されたのです。
年末の忙しい時期にももかかわらず、大勢の人が参加して、その後の宴会も盛り上がりました。親の会の30周年の記念に吃るこどもだけを対象にしたキャンプの開催が計画されており、その企画の中心になる人たちが集まっていたからです。
1999年5月のこのキャンプは、大勢が参加して、楽しい、有意義なキャンプでしたが、一回きりの企画でした。誰も続いてやるとは考えても居なかったようです。もちろん私も。キャンプが全て終わり、少人数で打ち上げ会のようなものがありました。その中で、楽しかったね、良かったねという話が口々に出され、一回きりでは残念だという話になりました。その中心にいたのが、宇野正一さんと黒崎典子さんたちでした。それが、10年も続き、今年が11回だったのです。
今年は思いがけないハプニングがありました。常にこのフォーラムの中心にいた宇野さんが体調を崩して、当日になって参加できなくなったのです。ぽっかりと穴が開いたような寂しさが私にはありましたが、残った他のことばの教室の教師達は、ずっと一緒に、真剣に取り組んできた仲間たちですから、計画通りに、いつもの、島根スタタリングフォーラムを無事に終えることができたのです。
私は、伝統、継続の力のすごさを思いました。これだけ大きな1泊2日の集まりを、文字通りの大黒柱が不在でも、こなしていける。吃るこども達のキャンプで大切にしていること、大切にしてきたことをみんなが共通の認識としてもっていたからできることだと思います。島根スタタリングフォーラムは、また、ひとつ大きくなったと言えると思います。
機会があれば内容についても触れたいですが、今回は、フォーラムが始まったいきさつを記しておきたいと思いました。
そのことを書いた、日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」の1999年6月19日号の「初恋の人」の文章を紹介します。
初恋の人
日本吃音臨床研究会 代表伊藤伸二
小学2年生の秋から、吃ることでいじめられ、からかわれ、教師から蔑まれた私は、自分をも他者をも信じることができなくなり、人と交わる術を知らずに学童期、思春期を生きた。凍りつくような孤独感の中で、不安を抱いて成人式を迎えたのを覚えている。
自分と他者を遠ざけているどもりを治したいと訪れた吃音矯正所で、私の吃音は治らなかった。しかし、そこは私にとっては天国だった。耳にも口にもしたくなかったどもりについて、初めて自分のことばで語り、聞いて貰えた。同じように悩む仲間に、更にひとりの女性と出会えた。吃音矯正所に来るのは、ほとんどが男性で、女性は極めて少ない。その激戦をどう戦い抜いたのかは記憶にないが、二人で示し合わせては朝早く起き、矯正所の前の公園でデートをした。勝ち気で、清楚で、明るい人だった。
吃音であれば友達はできない、まして恋人などできるはずがないと思っていた私にとって、彼女も私を好きになっていてくれていると実感できたとき、彼女のあたたかい手のひらの中で、固い氷の塊が少しず解けていくように感じられた。
直接には10日ほどしか出会っていない。数カ月後に再会したときは、生きる道が違うと話し合って別れた。ところが、別れても彼女が私に灯してくれたロウソクのような小さな炎はいつまでも燃え続けた。長い間他者を信じられずに生きた私が、その後、まがりなりにも他者を信じ、愛し、自分も愛されるという人間の渦の中に出て行くことができたのは、この小さな炎が消えることなく燃え続けていたお陰だといつも思っていた。
この5月、島根県の三瓶山の麓で、吃音児だけを募ってのキャンプ『島根スタタリングフォーラム』が行われた。このような吃音児だけを対象にした大掛かりな集いは、私たちの吃音親子サマーキャンプ以外では、恐らく初めてのことだろう。
島根県の親の会の30周年の記念事業として、島根県のことばの教室の教師が一丸となって取り組んだもので、90名近くが参加した。
「三瓶山」は、私にとって特別な響きがある。彼女の話に三瓶山がよく出ていたからだ。
「今、私は他者を信じることのできる人間になれた。愛され、愛することの喜びを教えてくれたあの人に、できたら会ってお礼を言いたい」
30人ほどのことばの教室の教師と、翌日のプログラムについて話し合っていたとき、話が弾んで、何かに後押しされるように、私は初恋の人の話をしていた。その人の当時の住所も名前も決して忘れることなくすらすらと口をっいて出る。みんなはおもしろがって「あなたに代わって初恋の人を探します!」と、盛り上がった。絶対探し出しますと約束して下さる方も現れた。
三瓶山から帰って2日目、島根県斐川町中部小学校ことばの教室からファクスが入った。
「初恋の人見つかりました。なつかしい思い出だとその人は言っておられましたよ」
私は胸の高鳴りを押さえながら、すぐに電話をかけた。34年間、私に小さな炎を灯し続けてくれた彼女が、今、電話口に出ている。三瓶山に行く前には想像すらできなかったことが、今、現実に起こっている。その人もはっきりと私のことは覚えており懐かしがってくれた。会場から車でわずか20分の所にその人は住んでいたのだった。電話では、《小さな炎》についてのお礼のことばは言えなかったが、再会を約して電話を切った。
吃る子どもたちとのキャンプ。夜のキャンドルサービスの時間に、ひとりひとりの小さなロウソクの炎は一つの輪になって輝いていた。子どもたちと体験したこの一体感が、私にその話をさせ、さらに34年振りの再会を作ってくれたのだ。子どもたちとの不思議な縁を思った。
子どものころ虐待を受けた女性が、自分が親になったときに子どもを虐待してしまう例は少なくない。しかし、夫からの愛を一杯受け、夫と共に子育てをする人は子どもを虐待しない。
人間不信に陥った私が、人間を信頼できるようなったのは彼女から愛されたという実感をもてたからだ。
この子どもたちは、小さな炎と出会えるだろうか。小さくても、長く灯り続ける炎と出会って欲しい。一つの輪になったローソクの小さな、しかし、確かな炎を見つめながら願っていた。 1999年6月19日
味イソか背恣意