伊藤伸二の吃音(どもり)相談室

「どもり」の語り部・伊藤伸二(日本吃音臨床研究会代表)が、吃音(どもり)について語ります。

2009年07月

第11回 島根スタタリングフォーラム


 
       伝統・継続の底力  


 2009年5月23日、5月24日
 第11回島根スタタリングフォーラムがありました。島根県下のことばの教室に通うこども、終了したこどもを対象に毎年開かれています。
 島根県ほど私が足繁く行くところは他にはありません。子ども達のこのキャンプだけでなく、島根県の難聴言語障害教育の研修大会や、親の会の総会、特別に企画して下さった講演会など、かなりの回数、島根県を訪れています。
 日本吃音臨床研究会の月刊紙「スタタリング・ナウ」は、海外を含めて、さまざまな吃音の情報や、吃る人や、吃るこどもの親の体験、講演の記録などを掲載しています。年間購読費が5000円です。吃る人だけでなく、ことばの教室の先生の読者はとても多いのですが、その中で、際だって多いのが島根県のことばの教室です。私たちの考えや実践に共感して下さる人が多いということです。その人たちと取り組む、島根県スタタリングフォーラムは、私にとってとても大切なもののひとつです。

 こんなことから、島根の人たちとのつきあいが始まりました。
 私は、毎年、神奈川県久里浜にある、国立特殊教育総合研究所(当時の名称)の言語障害の研修の吃音の講義をさせて頂いています。全国からことばの教室の担当者が
参加しています。
 1998年の参加者の中に、島根県松江市のことばの教室の担当者黒崎典子さんががいました。私はその年の年末年始にかけて、島根の玉造温泉に2週間ほど滞在することにしてて、彼女に話したところ、島根に伊藤伸二がいるのなら、講演会のようなことをしないかと、年末の忙しい28日ごろ松江市内のことばの教室で、ことばの教室担当者、吃るこどもの親を対象にした集まりが、計画されたのです。
 年末の忙しい時期にももかかわらず、大勢の人が参加して、その後の宴会も盛り上がりました。親の会の30周年の記念に吃るこどもだけを対象にしたキャンプの開催が計画されており、その企画の中心になる人たちが集まっていたからです。
 1999年5月のこのキャンプは、大勢が参加して、楽しい、有意義なキャンプでしたが、一回きりの企画でした。誰も続いてやるとは考えても居なかったようです。もちろん私も。キャンプが全て終わり、少人数で打ち上げ会のようなものがありました。その中で、楽しかったね、良かったねという話が口々に出され、一回きりでは残念だという話になりました。その中心にいたのが、宇野正一さんと黒崎典子さんたちでした。それが、10年も続き、今年が11回だったのです。

 今年は思いがけないハプニングがありました。常にこのフォーラムの中心にいた宇野さんが体調を崩して、当日になって参加できなくなったのです。ぽっかりと穴が開いたような寂しさが私にはありましたが、残った他のことばの教室の教師達は、ずっと一緒に、真剣に取り組んできた仲間たちですから、計画通りに、いつもの、島根スタタリングフォーラムを無事に終えることができたのです。
 私は、伝統、継続の力のすごさを思いました。これだけ大きな1泊2日の集まりを、文字通りの大黒柱が不在でも、こなしていける。吃るこども達のキャンプで大切にしていること、大切にしてきたことをみんなが共通の認識としてもっていたからできることだと思います。島根スタタリングフォーラムは、また、ひとつ大きくなったと言えると思います。

 機会があれば内容についても触れたいですが、今回は、フォーラムが始まったいきさつを記しておきたいと思いました。
 そのことを書いた、日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」の1999年6月19日号の「初恋の人」の文章を紹介します。



            初恋の人                  
                   日本吃音臨床研究会 代表伊藤伸二
 
小学2年生の秋から、吃ることでいじめられ、からかわれ、教師から蔑まれた私は、自分をも他者をも信じることができなくなり、人と交わる術を知らずに学童期、思春期を生きた。凍りつくような孤独感の中で、不安を抱いて成人式を迎えたのを覚えている。
 自分と他者を遠ざけているどもりを治したいと訪れた吃音矯正所で、私の吃音は治らなかった。しかし、そこは私にとっては天国だった。耳にも口にもしたくなかったどもりについて、初めて自分のことばで語り、聞いて貰えた。同じように悩む仲間に、更にひとりの女性と出会えた。吃音矯正所に来るのは、ほとんどが男性で、女性は極めて少ない。その激戦をどう戦い抜いたのかは記憶にないが、二人で示し合わせては朝早く起き、矯正所の前の公園でデートをした。勝ち気で、清楚で、明るい人だった。
 吃音であれば友達はできない、まして恋人などできるはずがないと思っていた私にとって、彼女も私を好きになっていてくれていると実感できたとき、彼女のあたたかい手のひらの中で、固い氷の塊が少しず解けていくように感じられた。
 直接には10日ほどしか出会っていない。数カ月後に再会したときは、生きる道が違うと話し合って別れた。ところが、別れても彼女が私に灯してくれたロウソクのような小さな炎はいつまでも燃え続けた。長い間他者を信じられずに生きた私が、その後、まがりなりにも他者を信じ、愛し、自分も愛されるという人間の渦の中に出て行くことができたのは、この小さな炎が消えることなく燃え続けていたお陰だといつも思っていた。

 この5月、島根県の三瓶山の麓で、吃音児だけを募ってのキャンプ『島根スタタリングフォーラム』が行われた。このような吃音児だけを対象にした大掛かりな集いは、私たちの吃音親子サマーキャンプ以外では、恐らく初めてのことだろう。
 島根県の親の会の30周年の記念事業として、島根県のことばの教室の教師が一丸となって取り組んだもので、90名近くが参加した。
 「三瓶山」は、私にとって特別な響きがある。彼女の話に三瓶山がよく出ていたからだ。
 「今、私は他者を信じることのできる人間になれた。愛され、愛することの喜びを教えてくれたあの人に、できたら会ってお礼を言いたい」
 30人ほどのことばの教室の教師と、翌日のプログラムについて話し合っていたとき、話が弾んで、何かに後押しされるように、私は初恋の人の話をしていた。その人の当時の住所も名前も決して忘れることなくすらすらと口をっいて出る。みんなはおもしろがって「あなたに代わって初恋の人を探します!」と、盛り上がった。絶対探し出しますと約束して下さる方も現れた。
 三瓶山から帰って2日目、島根県斐川町中部小学校ことばの教室からファクスが入った。
 「初恋の人見つかりました。なつかしい思い出だとその人は言っておられましたよ」
 私は胸の高鳴りを押さえながら、すぐに電話をかけた。34年間、私に小さな炎を灯し続けてくれた彼女が、今、電話口に出ている。三瓶山に行く前には想像すらできなかったことが、今、現実に起こっている。その人もはっきりと私のことは覚えており懐かしがってくれた。会場から車でわずか20分の所にその人は住んでいたのだった。電話では、《小さな炎》についてのお礼のことばは言えなかったが、再会を約して電話を切った。
 吃る子どもたちとのキャンプ。夜のキャンドルサービスの時間に、ひとりひとりの小さなロウソクの炎は一つの輪になって輝いていた。子どもたちと体験したこの一体感が、私にその話をさせ、さらに34年振りの再会を作ってくれたのだ。子どもたちとの不思議な縁を思った。
 子どものころ虐待を受けた女性が、自分が親になったときに子どもを虐待してしまう例は少なくない。しかし、夫からの愛を一杯受け、夫と共に子育てをする人は子どもを虐待しない。
 人間不信に陥った私が、人間を信頼できるようなったのは彼女から愛されたという実感をもてたからだ。
 この子どもたちは、小さな炎と出会えるだろうか。小さくても、長く灯り続ける炎と出会って欲しい。一つの輪になったローソクの小さな、しかし、確かな炎を見つめながら願っていた。          1999年6月19日



















味イソか背恣意

 映画 「愛を読む人」と、劣等性・劣等感・劣等コンプレックス


劣等感のもつ、強いマイナスエネルギー 


 先だって、本当に久しぶりに、一年以上観ていない映画を観ました。映画狂いの中学生、高校生だった私は、今でも、映画は大好きです。しかし、最近、映画館にわざわざ行く時間がなかなか作れないままに、映画から遠ざかっていました。たまたま用があって難波に出たとき、少しの時間があいたので、映画館に行くと、ちょうど「愛を読むひと」とタイミングがあいました。
 「朗読者」という原題で、アカデミー賞のいくつかの部門にノミネートされ、主演女優賞を受賞した映画だという程度のことは知っていました。
 ストーリーは、まだ上映されているので控えますが、ネット上で紹介されているストーリーはこうです。

 「第二次世界大戦後のドイツ。15歳のミヒャエルは、気分が悪かった自分を偶然助けてくれた21歳も年上の女性ハンナと知り合う。猩紅熱にかかったミヒャエルは、回復後に毎日のように彼女のアパートに通い、いつしか彼女と男女の関係になる。ハンナはミヒャエルが本を沢山読む子だと知り、本の朗読を頼むようになる。彼はハンナのために『オデュッセイア』『犬を連れた奥さん』『ハックルベリー・フィンの冒険』『タンタンの冒険旅行』といった作品を朗読した。
 だがある日、ハンナは働いていた市鉄での働きぶりを評価され、事務職への昇進を言い渡される。 そしてその日を機に、ハンナはミヒャエルの前から姿を消してしまうのだった。理由がわからずにハンナに捨てられて長い時間が経つ。 1966年ミヒャエルはハイデルベルク大学の法科習生としてナチスの戦犯の裁判を傍聴する。その被告席の一つにハンナの姿を見つけるのだった。裁判に通ううちに彼女が必死に隠し通してきた秘密にようやく気づき、衝撃を受けるのだった。
 与えられた職務を全うした1人の女性。決して許されない罪を犯したのだとしても、彼女は彼女のなすべきことをしたのだ。本作の主題はホロコーストの追及や、禁断の愛を描くことではない。そのとき、もしハンナあるいはマイケルの立場だったら何が出来たかを、観る者ひとりひとりに問う人間性についての映画なのだ。原作はベルンハルト・シュリンクの世界的ベストセラー「朗読者」。念願のアカデミー賞主演女優賞に輝いたケイト・ウインスレットによって、弁解を一切しない孤高の女性ハンナの人物像が小説よりも明確に浮かび上がる。相手役の新人デヴィッド・クロスも好演。監督は『リトル・ダンサー』の名匠スティーヴン・ダルドリー」

 ストーリーは控えるといっても、私がこのブログを書くと種明かしになってしまうかとも、恐れます。もし、映画をこれから観に行こうと考えている人は、伊藤伸二のブログを読むのはここまでにして、映画を観てから続きをお読みいただくとありがたいです。
 だから、上映が完全に済んでからとも思ったのですが、このブログで観に行こうかと思う人がいるかもしれないので、危惧をもちつつも書いてみます。

 私は、吃音に強い劣等感を持ったために、吃音をとても恥ずかしい、みじめなものと思い続けていました。だから、他人に吃音がばれるのが、大げさに言えば、死ぬほど嫌でした。自分の吃音を隠したい、吃音がばれるのが、高校生の当時の私には、一番辛いことでした。だから、何にもまして、吃音を隠すことが優先されました。
 高校入学式のとき、見初めた女性が同じ卓球部に入っていることを知り、私は、苦しいだろうと予想する高校生活に光がさした思いがしました。嬉しかったのです。
 しかし、5月上旬、新人歓迎の男女合同合宿計画が発表されてから、私の苦悩が始まりました。好きな彼女の前では吃りたくない。どもりを知られたくない。その思いが私の心を占めていきました。苦しかった中学生生活の、唯一の救いの場であった卓球をやめたくない。しかし、このまま合宿に参加すれば、必ず自己紹介があるだろう。当然吃って吃って自己紹介をすることになる。彼女に吃音がばれるのは嫌だ。結局、私は合宿の直前になって退部し、あれだけ好きな卓球をやめてしまいました。それから、私の「逃げの人生」が本格的にスタートしたのです。それから21歳の夏までの苦悩は、何度も書いていることでもあります。

 吃音にあれほど強く、堅い劣等感を持たなければ、吃る事実を認めてさえいれば、吃ることを隠そうとしなければ、変なプライドを持たなければ、私の高校生活はまったく違ったものになっていたことでしょう。だから、今現在吃音に強い劣等感をもって悩む思春期の子ども達に、私と同じような道を歩んで欲しくない。祈るような思いで、『どもる君へ いま伝えたいこと』(解放出版)1260円を出版したのです。

 この映画、邦訳の「愛を読むひと」のタイトルが極めて不適切です。原題をそのまま使ってほしかったと思います。せめて、ただ「読むひと」と訳して欲しかった。
 ハンナの秘密は、ナチスの戦犯であることだけではありません。他人にある劣等性を知られたくない。このことを知られることは、ハンナにとって何よりも辛く、それを隠すことが、何よりも優先するのです。この劣等コンプレックスによってとてつもなく大きな代償を支払うことになるのです。ハンナがその劣等性を認め、公表すれば、この話は全く違う展開になってしまいますので、この小説そのものが成立しなくなります。ということは、劣等感、劣等コンプレックスがこの話の大きなテーマの一つだと私には思えるのです。その後、その劣等性と向き合い、涙ぐましい努力で、劣等性を少し克服するのですが、最後の幕切れは、彼女の劣等感と表裏一体となっている、強いプライドを示して終わるのです。
 この映画は人によって様々な感想があるでしょうが、強い劣等感の固まりであった私は、「劣等感のもつ、強いマイナスエネルギー」として、残り続ける映画となりました。日本吃音臨床研究会ではこの秋の吃音ワークシヨップである吃音ショートコースで、アドラー心理学を学びます。劣等生、劣等感、劣等コンプレックスについて考えたいと思います。

                     2009年7月21日  伊藤伸二

岡山吃音相談会

 私は、元祖、本家、総本山か?


 5月17日に岡山市で開かれた吃音相談会について、ふれない訳にはいかないと思い、ずいぶん前の古い話題になりますが、報告します。
 私は、言友会の創立者であり、長年全国組織の会長をしていましたが、1994年、大阪、神戸の人たちと離脱して新たに「日本吃音臨床研究会」をつくりました。言友会とはまったく関係がなくなったのですが、岡山言友会だけが、毎年私を講師にして「吃音相談会」を開いてくれています。
「言友会を離れた人間を、どうして講師に呼ぶのか」という批判や指摘があったようですが、それでも私を呼び続けて下さることに、とても感謝しています。もう、10年も続いています。そのことが、きっかけかどうかは分かりませんが、以前、名古屋言友会、徳島言友会も、私を呼んで下さいました。なぜ、ありがたいかというと、「治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方」を新しい人にも知って欲しいからです。
 吃音は、依然として謎に包まれ、確実な治療法はありません。しかし、インターネット上では「吃音が治る」の情報が充ち満ちています。それらが、ほとんど効果がないことは、私の開いている吃音ホットラインの電話相談に、たくさんの苦情が寄せられますので、想像がつきます。効果がなくても、「吃音を治したい」との吃る人の思いは切実なものがあります。吃音について、何も知らなかった21歳までの私も「吃音が治らないと、私の人生はない」と、治ることを強く願っていましたので、「治したい」との気持ちはとてもとてもよく分かるのです。
セルフヘルプグループを訪れる人のほとんどは、吃音を治したいと思っていることでしょう。グループのリーダーはその声を無視できません。よほどの信念と確信がないと、新しく来た人の「治したい」との思いに、つい寄り添ってしまうだろうと思います。
 私は、1965年秋に言友会を設立し、ずっと、セルフヘルプグループに関わり、世界大会を開き、たくさんの人との出会ってきました。多くの人の体験を整理し、検討してきました。その中で、治そうとするよりも、吃る事実を認めて、吃音と共に生きる道を探ることが、吃る人の幸せにつながると、大阪吃音教室で多くの人と実践してきました。また、早期に吃る子どもたちがそのことを知ることが幸せにつながると信じて、吃音親子サマーキャンプを19年間つづけてきました。それらの活動を続け、「どう治すかを考えるより、吃音と共に生きる」ことを考えることが大切だという考えは、揺るぎないものになっています。
 それは、21歳までの深い苦しみと、その後、大げさにいえば、命をかけて、「吃音を生きる」道を探ってきた、大勢の吃る人の体験につきあってきた人間だから言えることだと思います。自分一人の経験、少しの活動の中だけでは、熟成しないものだろうと、傲慢かもしれませんが、思っています。
 何事も、原点にあたるのが、あることがらを理解する近道であり、必須のことだろうと思います。私が、「吃音を治すべきだ、治るはずだ」に大きな異議をとなえ、「吃音を治す努力の否定」とまで言い続けてきた、張本人です。多くの批判もありながら、めげることなく、しつこく、「吃音と共に生きる」道を探り、実践を積み重ねてきました。そして、テレビ出演や、新聞、著作などで、発信し続けてきた、「吃音を生きる」主張の原点のような存在です。元祖、本家、総本山とも言うべき存在だと自負しています。
 岡山言友会に、毎年、連続して行っていますので、私はそんなに、目新しい話ができる訳ではありません。結局は、同じ話の繰り返しです。一度聞けばいいと言われればそれまでかもしれません。しかし、世間、一般社会はつねに「吃音を治す・改善する」立場の人が主流です。何もしなければ、つい、その大きな流れに流されてしまうでしょう。それを食い止めるには、その流れに対抗するために先頭に立っている私の、生の声を聞いて、自分たちがしていること、考えて来たことは間違いではないと、確認して下さっているのではないか。そのために、同じ話しかしない人間を10年も、毎年呼び続けて下さっているのではないかと、私は、勝手に思っているのです。

 今年は、27名の参加がありました。その内岡山言友会の会員は12名。15名の新しい人が参加して下さったことになります。今年の特徴は、吃る子どもの親と、ことばの教室の教師の参加が多かったことです。遠く、広島から6名ほど、ことばの教室の教師が来て下さったのはうれしいことでした。また、担任の教師が子どもを支援するためにと、来て下さったのもうれしいことでした。
 今回、初めて参加した成人の人は、近くの喫茶店での懇談会にも参加してくれました。毎回、相談会が終わった後、岡山言友会の会員や相談会の参加者と2時間ほど話すのですが、それもとても楽しみのひとつです。
 そして、私にとっては何よりも嬉しいのは、7人ほどの中心メンバーが必ず顔を揃えてくれることです。何か、一年に一度の同窓会のような雰囲気になることです。信頼し会える、戦友と再会し、吃音について、とことん話し合いができるのは、私の無上の喜びでもあります。私は吃音が大好きなのです。吃音について話したり、話し合うことがだいすきなのです。だから、吃る人のセルフヘルプグループの活動を43年もつづけられるのでしょう。
 ありがたい出会いに感謝しているのです。


  2009年7月1日            伊藤伸二




























Archives
livedoor プロフィール

kituon

QRコード(携帯電話用)
QRコード