高松里さんとの出会いは、九州大学の村山正治先生の九重エンカウンターグループでした。 参加者として参加した三度目のときに、村山先生から、「ファシリテーターをしてもらえませんか」とお誘いを受けました。臨床心理士でもない僕に務まるのかと思いましたが、村山先生からの、「伊藤さんが生きてきたそれがそのまま臨床経験ですよ」とのことばに背中を押されて不安ながらも引き受け、初めてファシリテーターとして参加したとき、一緒にファシリテーターを組んだのが、高松里さんでした。このとき、僕はとてもいい経験をしました。それから、高松さんとのお付き合いが始まり、僕たちの、「親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」の2回目の講師もお願いしました。その高松さんが「生活の発見会」で講演され、その講演記録を、毎月送っていただくの発見会誌でみつけ、事務局に転載をお願いしました。僕たちへの応援歌として、うれしく読ませてもらいました。(「スタタリング・ナウ」2013.7.22 NO.227)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/31
セルフヘルプ・グループの機能と役割―「言葉を紡ぐ」という視点から―(1)
九州大学留学生センター准教授・臨床心理士
高松里(たかまつ・さとし)
セルフヘルプ・グループにおける“言葉”のもつ意味を探りながら、グループの果たす役割について考えます。(2012年6月2日開催、「生活の発見会」全国研修会での講演より)
「異文化」としての症状
私は今、留学生センターで留学生のカウンセラーをしています。九州大学には2000人ぐらい留学生がいますが、その相談を受けるという仕事を20数年やっています。「異文化」というのは、国と国との違いだけではありません。たとえば自分が病気になって、それまで平気でできていたことが急にできなくなることなども、一つの異文化だと考えられます。病気やけが、障害を負うなど、異文化に突き落とされて右往左往しているときは「言葉をなくしている」状態だと言えます。今日は、なくした言葉をどんなふうに紡いでいくのか、を考えてみます。
また、私は虐待の被害者支援や、子ども時代に性暴力を受けた人たちの支援を10年ほどやりました。これらの被害も「異文化」です。それまでの生活が、あるときプツっと切れて、何か異質なもの(暴力等)が入り込んでくる。その後また元の生活が始まるかもしれません。しかし、ここに、「何かよくわからない、言葉にならないもの」が存在しているわけです。特に「トラウマ」と呼ばれるものはなかなか扱いにくく、触れた方がいいのか、そのまま何もしないほうがいいのかは、どちらとも言えない問題です。
皆さんが経験されたいろいろな問題は、恐らく人生の中の一つの(トラウマとまでは言いませんが)、何かよくわからない、あれは何だったんだろう、というものだと思います。一体自分はどうなってしまったのかという、言葉にならないものを何とか言葉にして、他者に伝えるための意味を紡ぎ出すことがグループの目的だと思っています。
がん騒動
私は、1999年12月中旬に、背中が痛かったので、近くの胃腸科でエコー検査をして、胃カメラをしました。次の週に行くと、医者が胃の写真を見せ、「胃はきれいだが、十二指腸に何か飛び出している」「これは形からいえば悪性でしょうね」と話をされた。悪性だというので「十二指腸のがんじゃないか」という話になった。「大学病院の医者に写真を見せるからちょっと待ってほしい」と言われ、年を越しました。
結局、私は1カ月間、自分が十二指腸がんだと思っていました。インターネットを見ると、十二指腸がんは「予後不良」と書いてあります。部屋の荷物を見ながら、これはだれにあげようかとかいろいろ考えました。つまり、私は医者の言葉によって患者になっていた。結果的にどこも悪くなかったのですが、「患者役割」を背負わされまして、とりあえず手術はするだろうが、再発はするのかな、いつまで生きるんだろう、みたいなことを一カ月間考えていたわけです。
そして、1ヶ月後の1月中旬、電話が来ました。「大学病院にベッドを用意するので即入院してください。検査に引き続き、手術になります」と言われました。ところが、造影剤を入れて撮ってみたら何も出なかった。じゃあ、もう1回胃カメラをしましょうということで、さらに次の日、胃カメラの検査をして、無罪放免になりました。すごく変な感じでした。
一カ月間、私はどうなるのだろうと思っていたのに、今日は「何もありません」の言葉一つでまた外に出てしまった。何か罪悪感みたいなものを持っていました。入院している方々は今から手術する人もいっぱいいるわけです。私はその横を通り抜けながら、医者に「いや、大丈夫ですよ。同じような人はたくさんいますから、みんな元気にしていますよ」とかなんとか言われながら、手術だなと思っていたら外に出てしまった。すごく奇妙な体験でした。体は何も病気ではないのに、「病気ですよ、そうかもしれません」と言われた「言葉」によって世界は一気に変わりました。見え方が全然違うんですね。それまで当たり前だと思っていたことが全然当たり前ではなくなりました。
その時思ったのは、「何がしたいか」よりも、「何がしたくないか」です。いろいろなものをやめました。「やりたいことは先延ばししない」「人からの評価なんてどうでもいい」という基本方針のもと、非常勤の講師、学会の役員など全部やめました。勢いがついて年賀状もやめました。その空いた時間に原稿を書きはじめて、『セルフヘルプ・グループとサポート・グループ実施ガイド』という最初の本を書いたのは、年賀状をやめたおかげでした。
色々なことを辞めたら時間ができたので、コーヒーの自家焙煎を始め、パンを焼き、米も玄米を精米することにしました。昔やっていた自転車に乗り始め、音楽ライブも定期的に行うようになりました。
「言葉一つで人って変わるなあ」と思いました。以前の私は、ほとんどワーカーホリックの人間で、土曜日も含めてカウンセリングしていましたし、毎日のように研究会があり、遊ぶ時間もない生活でした。それが「がんかもしれないですよ。悪性でしょうね」の言葉からすっかり変わっていったし、それは何だったのかというのをずっと考えています。
そういうわけで、言葉の機能について考えるようになりました。「セルフヘルプ・グループ」や「サポート・グループ」と呼ばれているものについて、30年以上研究と実践をしてきましたけれども、ここ数年、これらのグループの本質的な機能は、「言葉を紡ぐこと」ではないかと思うようになりました。
異文化間カウンセリングとナラティヴ
皆さんが「ある問題」を持ったというのは、皆さんの人生にとってどんな意味があるのでしょうか。それについてみんなで考えていくのがグループではないかと思います。グループに出たから治ったとか治らないとか、症状がよくなった、よくならないというよりは、その問題・課題を持ったこと自体の意味づけが大事なのではないかと思います。
日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんは、「どもりでよかった」とよく言います。いろいろな病気の団体でも「病気になってよかった」と言う人がいます。「よかった」とはどういうことでしょうか。それはきっと、本当はそんなにいいわけはないのだけれども、そのことによって気づかされることがたくさんあった、そのことによって人生が豊かになったということではないでしょうか。結果的に症状もよくなっている可能性もあります。でも、症状がよくなるかどうかよりも、そのことで自分の人生がどんなふうに変化するのかという点が大事なのではないかと思います。
言葉について考えるきっかけは二つありました。一つは、私の職業である、「異文化間カウンセリング」の実践からです。もう一つは、「ナラティヴ」と呼ばれるアプローチです。
ナラティヴの考え方では、基本的に、「世界は言葉でできている」と捉えます。物理的な物を認識しているのはすべて言葉であり、言葉がないところは認識がないということです。言葉が発見されることによってある概念がはっきりしてくる。
診断名もそうです。「発達障害」という言葉が出てきて、ある曖昧なものが、発達障害という言葉でその輪郭がバッと出てきます。しかし、最近では何でも発達障害にされてしまう傾向があり、概念が生まれることでそれに縛られていくという側面もあります。
私は、「異文化とは、理解できないから異文化なのではないか」と考えていますが、こういう発想は、案外ありませんでした。「異文化理解」という言葉は矛盾しています。異文化は理解できないから異文化なので、理解できたものは異文化ではない。異文化理解というのはそもそも存在しない言葉のはずです。異文化というのは、我々にとっては「異郷」であり、言葉がない、語る言葉を持たないものであろうと思われます。
野口裕二さんが『物語としてのケア』という本で、ちょっとおもしろいことを書いています。
「言葉が世界をつくる」と書いています。「世界がまずあって、それが言葉で表現されるのではなく、言葉が先にあって、その言葉が指し示すような形で世界が経験されるというのが社会構成主義の主張である」「私たちは客観的事実ではなく、言葉をたよりに現実を認識し、自分の生きる世界を構成しているのだといえる」
現実よりも言葉のほうが先だと言っているわけです。言葉があるからこそ、この現実が認識されるというふうに考えると、確かにそうだなと思う例がたくさん出てきます。私がかかわった虐待問題では、「虐待」という言葉が出てきたので、あれは虐待だという認識ができた。虐待という言葉が広まる前、30何年か前は、あれはしつけだとか言われていた。虐待という言葉が出てきたところで、ああ、あれは虐待だったんだというふうに思うわけです。
同じような言葉に「セクハラ」というのもあります。セクハラも、この言葉が出てきたから、あれはセクハラだと認識されたんです。それまでは「スキンシップだ」とか「職場の潤滑剤だ」とか、ひどいものですよね。職場にヌード写真を貼ったって別にいいじゃないか、そんなの自由だみたいなことを言っていたわけですが、今は全部セクハラだということになっています。言われてみると、確かにひどいじゃないか、体を触るとは何事だとか、暴言もひどいじゃないかとか、そういうことがわかるんです。しかし、それまでに言葉が存在していない部分は認識されないままいて、わからないわけです。言葉が出てくると、ああ、そうだったのかと後でわかってきたりするわけです。
問題に名前をつける―「色覚マイノリティ」を題材に
私は、目に問題があり、いわゆる「色盲」なのですが、そう呼ばれるのは不愉快です。そもそも色盲とは何なのかよくわかりません。小さなころから検査のたびに、色盲だとずっと言われてきたのですが、実はよくわかっていませんでした。他に「色弱」や「色神」という言葉もありますが、こちらも意味不明。「色覚障害」と言われても、私は大して障害だと思っていないのに、周りが勝手に障害にしてしまって、就職差別があったり結婚差別があったりする。「色覚異常」という言葉がありますが、「あんたは異常だ」とまで言われなくてもいいだろうと思うんですね。
だから、自分の問題は何と呼べばいいのだろうとずっと考えていたんです。結局、私は自分で名前をっけました。「色覚マイノリティ」だと。マイノリティ、つまり少数派なのだ。だから別にこれは障害でも何でもなくて、別の種族みたいなものである、というふうなことにして学会発表を行ったりしました。
つまり、まず自分の障害とか自分が持っているものは一体何という名前なのかという、タイトルとしての名前が重要です。そしてその名前を使って、その問題を持っている自分には、どんなことが生じているのかを考えていく。
色覚マイノリティで困ることはいろいろあります。信号機で警察につかまったりしました。信号には色が3つあります。右側が青と覚えている。真ん中が黄色で、黄色と赤の区別はつきにくいが、黄色はちょっとたつとすぐ消えて赤に移動するので、あれは黄色だとわかる。そうやってずっと何の問題もなくやってきました。ところが、ある日、道路の真ん中に「一灯式信号」があって、片方が赤で片方が黄色で点滅している。だけど、一色だけだと、赤なのか黄色なのか区別がつきません。なので、一旦停止せずに通過したら警察につかまりました。こういう不便はありますが、これは信号自体を改善してもらえば問題ない。
あと、生の焼き肉を食べてしまうことがよくあったのですが、これは改善しました。まわりの人に「私はよく区別がつかないから教えて」と言うと、みんなが「焼けたよ」と教えてくれます。人に助けてもらえば、ちょうどいい焼き加減の肉を食べられるわけです。
このように、外から見てもわからないし、そんなに不便もない色覚マイノリティの問題ですが、遺伝性の問題ですので、結婚差別につながったり、進学や就職差別にずっとつながっていました。今は検査自体がなくなり、だれが色覚に問題を持っているかわからなくなってしまいました。でも、わからなくなっただけで、男性の20人に1人は同じ問題を持っている。差別は減った。じゃあ、なかったことにしていいのか?
私のあの経験は何だったのだろうかと考えるわけです。言いにくいですよ、色覚の問題って。色の見え方って、人と比べられないので、話そうと思ってもうまく話せない。何か困っているといえば困っているけど、困っていないといえば困っていない。ただ、学校の美術の時間とか色覚検査の場面などで嫌な目にはいっぱい遭ってきました。それについて話せればいいのですが、話すのには随分時間がかかりました。色覚の問題を今みたいに話せるようになるのに30年かかって、ようやく自分の経験をまとめました。
でも、色覚マイノリティでよかったと思うところもあります。世の中のマイノリティと呼ばれている人たちが、どんな気持ちでいるのか、少しわかります。恐らく自分のことを表現できない、自分はこうなんだということをマジョリティの人に言う言葉がない、仲間が見つからない、そういうことで苦労しているのだと思います。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/31