「スタタリング・ナウ」2012.1.22 NO.209 に掲載した、高松里さんの異文化体験としての吃音―ナラティヴ・アプローチと当事者研究 を2回に分けて紹介します。
高松さんと初めてお会いしたのは、九州大学の村山正治先生がされていた九重のエンカウンターグループでした。参加して3回目のときに、村山先生から「ファシリテーターをお願いします」と言っていただき、初めてのファシリテーターをしたときにペアを組ませていただいたのが高松さんでした。村山先生からは「伊藤さんのままでいいんだよ」と言っていただいていたのですが、とても不安でした。でも、最初のファシリテーター経験が、高松さんが相棒だったことは、本当にありがたいことでした。いろいろと学ぶことが多く、その後のファシリテーターの役割に全く不安がなくなりました。
その後、人間性心理学会のシンポジウムもご一緒したり、第2回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会の講師として来ていただいたり、いろんなところでお世話になっています。
高松さんにお願いして、異文化体験という視点から、吃音をみつめていただきました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/26
高松さんと初めてお会いしたのは、九州大学の村山正治先生がされていた九重のエンカウンターグループでした。参加して3回目のときに、村山先生から「ファシリテーターをお願いします」と言っていただき、初めてのファシリテーターをしたときにペアを組ませていただいたのが高松さんでした。村山先生からは「伊藤さんのままでいいんだよ」と言っていただいていたのですが、とても不安でした。でも、最初のファシリテーター経験が、高松さんが相棒だったことは、本当にありがたいことでした。いろいろと学ぶことが多く、その後のファシリテーターの役割に全く不安がなくなりました。
その後、人間性心理学会のシンポジウムもご一緒したり、第2回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会の講師として来ていただいたり、いろんなところでお世話になっています。
高松さんにお願いして、異文化体験という視点から、吃音をみつめていただきました。
異文化体験としての吃音
―ナラティヴ・アプローチと当事者研究
九州大学留学生センター准教授(臨床心理士) 高松里
(1)はじめに
私は、九州大学留学生センターで、留学生を対象としたカウンセラーをしています。日本では珍しい仕事です。この仕事を始めたのが1989年でしたので、22年間続けていることになります。
その中で、「異文化とは一体何なのだろうか」という大問題をずっと考えてきました。みなさんは、「異文化」と聞くと、おそらく外国の、日本とは全く違った顔をした人々、考え方、文化や習慣といったものを思い浮かべるのではないかと思います。つまり、異文化は日本の外にある、と。
しかし、実際は違うのではないかと私は思います。
私たちは日常生活の中で、現実には多くの異文化に取り囲まれて暮らしています。普段は意識しないかもしれません。でも、ある日突然異文化が姿を現す、ということもあります。
例えば、昨年(2011年)3月11日の大震災はどうでしょうか? それまでの「日常」が地震と津波によってすべてが塗り替えられてしまいました。家も、人も、人間関係も、仕事も、大事にしていた思い出も、すべて一瞬にして消えてしまいました。その時の経験は、「とても言葉にできない」「どう言ったらいいかわからない」「頭が真っ白になった」経験だったと思います。
その、「どう言ったらいいかわからない」状況こそ、「異文化」であると私は考えています。つまり異文化とは、定義するならば「それまで自分が持っていた言葉では、表現できない状況を指す」ということになります。
異文化とは「理解不能」という意味です。巷には「異文化理解」という言葉がありますが(私も時々使いますが)、実はこれは根本的に間違っています。異文化とは理解できないものであり、理解できたときにはすでに異文化ではなくなっています。どう言葉にして良いかわからない、どう表現していいかわからない、自分にもわからないから人にも伝えられない。そういうものが異文化です。
では、本題に入りますが、「吃音」を持つ、ということは一つの異文化体験であると考えられないでしょうか。あるとき、気がつくと、自分は「吃音者」となっていた。だけど、そのときにはおそらく何が起きたのか、全然わからない。いきなり、違う世界に突き落とされてしまう。なぜそのような話し方をするのかと友達も親も聞いてくるでしょう。しかし、それは「答えられない」のです。なにせ、異文化にいるのですから。言葉にできない、理解できない、説明できない。
私たちはそのような状況を生き延びていくために、自分なりに理解し言葉にし、他者に伝え、徐々に「異文化性」「異文化度」を小さくしていく努力が必要となります。
そのプロセスがどのようなものであるのか、本論では考えてみたいと思います。
(2)吃音を治そうとする人たち、吃音と生きようとする人たち
ところで、この文章は、日本吃音臨床研究会代表の伊藤伸二さんから依頼されました。伊藤さんとは、長いおつきあいになりました。それは、伊藤さんが吃音者のための「セルフヘルプ・グループ」を実践されているからです。私も、先ほど異文化が専門と書きましたが、もう一つの専門はセルフヘルプ・グループで、論文や本を何冊か書いています(高松、2004、2009)。
ところで、伊藤さんはずっと、吃音を治すことよりも、吃音を持ったまま生きることについて考えてきた人です。それは伊藤さん自身の経験に基づいています。伊藤さんは過去に、吃音あるいは吃音を持つ自分を否定し、吃音を治すことに全力をかけたことがありました。でも、今は違っています。治すことにこだわるよりも、その経験をどう語り、意味づけ、そこからどういう教訓を得ることができるのかを求めているように見えます。
しかし一方、世の中には、「吃音を治す」ということだけを推し進めている人たちもいます。彼らは吃音を治すとか改善するという点を強調した本を出版しています。最近読んだものとしては、小林宏明さんという方が書いた、『学齢期吃音の指導・支援』(小林、2009)という本があります。
この本は「ことばの教室や言語聴覚士の先生方を対象とした、学齢期の吃音の指導・支援の方法について解説したもの」(「まえがき」より)だとされています。内容的には、吃音を持った子どもたちに対してどのように指導するかが書かれているのですが、私は読んでみて、「え?これで終わりなの?」と思いました。この本にあるべき最後の章が抜けているのではないか、という強い違和感を持ちました。つまり、色々と指導もし、支援もしたけれど、なおかつ吃音が良くならない子どもに対して、どう対応するのかが全く書かれていないのです。これでは、全員の吃音が改善してしまうように見えます。でも実際にはそんなことはないでしょう。
この本の巻末資料に「きつ音○×クイズ」というものがあります。「Q12:きつ音がよくならないのは、努力が足りないからである」という問題があるのですが、その答えは「×」。これはいいでしょう。そこには「練習を続けてもきつ音が良くならないのは、決してあなたの努力がたりないからではありません」と書いてあります。しかし、すぐ後に、「練習した効果が出るには長い時間が必要なのです」「(練習を)地道にやり続けていくことが必要になる」とあり、効果が出なくてもとにかく改善を目指すべきだと主張しています。要するに結果が出るまでは、永久に努力を続けるべきだと勧めているように見えます。こういう闇雲な努力をさせられる子ども達は気の毒だなあとしみじみと思います。
つまり伊藤さんが取り組んでいるような、「大丈夫だよ、吃音が治らなくたって幸せな人生も送れるんだよ」というようなメッセージは一つもありません。吃音は治すべきものであり、吃音を持ったままではまともな人生は送れませんよ、と暗に言っているようにさえ見えます。
その部分、つまり伊藤さんたちがずっと主張していること、最後の章にあるべきことが書かれていません。この本には、たくさんの引用文献、参考文献が紹介されているにもかわらず、伊藤さんの論文や著作が一切ないのも、何だか変です。
「治らなかったらどうしよう」「治らなかったら人生は終わりだ」という恐怖感のために、「治らないかもしれない」ということは考えないようにしている、という感じです。
ところで、著者の小林さんご自身も、吃音者のようです。巻末の「著者紹介」には次のように書かれています。
「幼少の頃から吃音があり、高校から大学院時代の前半にかけては、上手く発話ができないことに悩む時期を過ごすが、その後吃音は徐々に軽快化する。現在でも、吃音症状が見られたり話しにくい語に悩んだりはするものの、日常生活にはあまり支障がない状態となっている」。
つまり、小林さん自身も当事者であり、また悩んできた一人である、ということがわかります。
しかし、この本の中では、小林さん自身の経験は、全く語られていません。小林さんが「日常生活にはあまり支障がない状態」となるために、どのような練習を地道に続けてこられたのか、などについては全く触れられていません。
もちろん、専門書や研究書は、客観性が大事であり、著者の個人的な経験を語るべきではない、という見方もあるでしょう。しかし、我々は何かの本を読んで理解するとき、どういう著者がどういう立場から書いたものなのか、という情報は実はかなり重要なのです。例えば、「吃音なんて気にする必要はない」という発言があったとします。これは、当事者が言ったことなのか、全然関係のない人が言ったことなのかで、伝わる響きは全く違ってきます。前者だと「どういう経験をしたんだろう?」と考えるでしょうし、後者だと、「わかりもしないのに放っておいてくれ」という気分になるでしょう。
それに対して、伊藤さんは、ある意味、自分のことばかり書いています。『吃音ワークブック』(伊藤ら、2010)の本論は、「吃音を生きる伊藤伸二の人生」という文章から始まっています。伊藤さんは、徹底して「当事者であること」にこだわり、当事者の立場から発言をしようとしているように見えます。
なぜこのような事態が生じているのでしょうか。そして、どちらの本が「正しくて」「役に立つ」のか、私にはわかりません。そもそも私は吃音は専門外で、吃音は治るのか、治らないのか、本当のところわかりません。どうやら治る人もいるようです。しかしその理由はわからない。治らない人もいる。その理由もやはりわからない。そういう感じを持っています。
ただ、私にも、吃音を持つ人たちに対して、協力できることはあります。それは、「吃音という経験について語る」ということを支援することです。吃音が治ったならばその経験を語ればよい。治らないのなら治らない経験を語れ。それが大事なことだ、と私は思っています。
(3)異文化としての吃音―言葉が溢れている領域と言葉の不毛地帯
前述したように、異文化の定義は、「それまで自分が持っていた言葉では、表現できない状況を指す」のだと考えています。つまり、何だか変だし、何かが起きているみたいだけど、それが何なのか、何と表現すれば良いわからない状況です。不安定で地に足が着かない、何だか自分だけが取り残されているような、世界からこぼれ落ちてしまったような感覚、のことを指しています。
吃音を持った(持ってしまった)という経験は、一つの「異文化体験」なのだと考えられます。つまり、なぜ自分は普通の人のように流暢に話せないのか。その理由はわからない。誰も教えてくれない。そういう異文化状況の中でもがいている状況なのではないかと思います。
ところで、世の中には、言葉が溢れている領域と、ひどく言葉の少ない領域があります。世の中のことは、どんなことでも言葉で表現できる、というのは間違いです。言語というのは、一種の記憶の集積装置みたいなもので、その時代や文化によって、言語化が徹底してなされている領域とひどく無視されている領域があるのです。
例えば、多様な言葉で溢れている領域の一つの例が、「恋愛」です。古今東西、恋愛に関する詩、音楽、小説、戯曲、ドラマ、指南書、結婚産業など、猛烈な蓄積量があります。つまりあらゆる状況に対応できるだけの言葉が用意されています。片想いをしようと、失恋をしようと、ハッピーになろうと、あらゆる勇気づけの言葉、慰めの言葉、具体的な方法論などが豊富にある。ところが、例えば同じ恋愛でも、「同性同士の恋愛」となると、その量はぐっと減ります。それでも、最近はボーイズラブ・腐女子などの言葉もあり、それなりの盛り上がりも見せています。
それでは、「離婚」はどうでしょうか? 離婚は何だか話題に上りにくい。ドラマティックではない。財産の分配だの子どもの養育権だの、全然心躍る要素がありません。だから、この領域についての言葉は、法律用語だとか、人生相談などが新聞に載る程度です。このように、世界の様々な事象については、言葉が盗れている領域と全くの不毛地帯があります。
では、本題である「吃音」はどうでしょうか? 吃音が、人々の話題に出てくることはほとんどありません。また、吃音者がいる、ということも世間の人はあまり認知していません。それは、多分、吃音を持つ人々の多くは、言葉の言い換えなどによって、あまり目立たないように努力しているからなのではないかと思います。
ただ、時々、小説などに吃音が登場することがあります。例えば、村上春樹さんの「ノルウェーの森」では、大学時代の同室者が吃音者という設定になっていました(実在するモデルがいたようです)。大学生なのに朝早く起きて、寝ている主人公の横でどたどたとラジオ体操をするような少し変わった、朴訥な人として描かれていました。主人公がそのことを女友達に話すと、その場がなごむ、というようなエピソードでした。
また、石田衣良さんの「アキハバラ@DEEP」では、主人公は吃音のフリーターです。彼は言葉を直接話さず、パソコンのキーを叩いて意志疎通を図ります。映画版では、子ども時代に吃音でいじめられた記憶が再現されるシーンがあります(ちなみに映画では成宮寛貴さんが主演。カッコイイ!)。
残念ながら、私の知っている範囲で、吃音を身近に感じられる小説や映画はこのくらいのものだと思います。
つまり、そもそも吃音についての情報も少なく、語られることもほとんどない。従って、その経験を言い表す言葉はあまりない。さらに、吃音が治るとか治らないとか、そういうことについては、語る言葉がさらに少ないというのが、現状だろうと思います。
そもそもこの領域は、症状を表す言葉すらあいまいです。私が以前、セルフヘルプ・グループについての本の原稿を書いていた時、編集者から「"どもり"という言葉は差別用語ではないのか? 使って良いのだろうか」という質問を受けました。「本人たちが了解しているのだから、いいんじゃないですか」と私は答えました。「吃音」という言葉よりは、「どもり」という言葉の方が世間には知られていると思いますが、これらの言葉が公に使えるものかどうか迷う、というのが現状なのです。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/26