NPO法人大阪スタタリングプロジェクトが主催する《ことば文学賞》は、2011年、14回目を迎えました。吃音について、自分について、ことばについて、体験したことや考えていることを綴るこの試みは、読み手である多くの人に勇気を与え、何よりも書き手である自分自身が人生を振り返る機会となってきました。この年の作品も、物事をとらえる意味づけの世界の豊かさを感じさせてくれる体験がそろいました。紹介します。
今日は、由緒あるどもりの話です。この話からしても、吃音は、昔からの、由緒ある話し言葉の特徴であることが分かります。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/04
今日は、由緒あるどもりの話です。この話からしても、吃音は、昔からの、由緒ある話し言葉の特徴であることが分かります。(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)
どもりの遺伝子
丹佳子(愛媛県在住)
婚活中である。40オンナに世間の目はそう温かくないが、まだ婚活中である。確かに美人てもんでもない。昔から「いいお母さんになりそう」とか「雰囲気がいいですね」とは言われてきたが、「きれいですね」なんてことは言われた試しがない。
中学のときから、私はどもるようになった。それに気づいた父は「うちの家は代々どもりだから…」とぽつりと言った。実際、父もどもりである。そして、うちのご先祖様もどもりだった。
名を丹(たん)任部(にんぶ)の守(かみ)という。
豊臣秀吉の軍が四国征伐で攻めてきた際、任部の守の軍はこれを迎え撃ったそうだ。戦いは長時間におよんだ。勝敗がつかないまま夕刻近くになったとき、敵方の大将が任部の守に打ちかかってきた。暗闇がせまってくる中、任部の守の家臣が加勢にきたが、大将二人は似たような甲冑を着けていたため、どちらが任部の守かわからない。そこで家臣は「どちらが丹任部の守様か」と問うのだが、任部の守はどもりであったため、自分の名前がとっさに言えず、その間に相手方が「我こそが丹任部の守である」と言ったため、誤って殺されたという。そういう昔話とその霊を祭るための神社が残っているくらいだから、本当にどもりだったのだろう。
それまで、国語の朗読を得意としていた私は、どもる自分を受け入れることが全くできなかった。授業中に先生に当てられて、答えがわかっているのに、最初の音がでなくて「わかりません」と言うのはつらかった。また、一生懸命答えを言おうとして真っ赤になっているのを、周りの子たちに笑われるのもつらかった。どもっている自分は本当の自分ではないと思った。最初のころは、そのうちすぐ元のどもっていない本当の自分に戻るにちがいないという期待をしていた。しかし、それが絶望に変わったころ、一つの誓いが心の中で芽吹いた。どもりに対して復讐である。
「うちがどもりの家系であるなら、私がどもりの遺伝子を断ち切ってやる」と。
自分のどもっている年月が、どもらなかった年月を追い越した20代後半くらいから、私はどもりは自分が背負うべき人生の重荷なのだと考えるようになり、あきらめと自虐に浸るようになっていた。
進学のとき一番行きたかった外国語を学ぶ道に行けなかったのも、就職活動の面接で失敗し、希望したところに就職できなかったのも、なんとか就職した会社で電話の取り次ぎや朝礼当番になったときの司会がうまくできないのも、どもりなんだからしょうがないと、なげやりな気持ちになっていた。教師だった母は、私も教師になることを期待していたようだった。しかし、私はどもりなのに、人前で話すことが仕事の教師になんかなれるはずはないと思った。期待に添えないこともつらかった。
現在はそれほどでもないが、このころの私は、言葉を出そうとする度、最初の音が喉の奥につっかえることが多かった。最初つっかえるとその後は、どんなに音をしぼりだそうとしても全く音がでなかった。違う音を探そうと、言い換えの言葉を探すのだが、あわてているから余計でてこない。顔を真っ赤にして、唇だけパクパクさせている沈黙の時間は、悲しくてみじめだった。その度、自分はやっぱりだめな人間なんだと思った。周りの人たちが、すらすらと話していることがうらやましかった。どもりさえなければ、自分の人生はもっといいものになっていたはずなのに、と自分の運命を恨んだ。だからそんなときは「どもりの遺伝子を断ち切ることが私の使命である」と思うようにしていた。そのとき私はどもりに対して復讐を完成させることができるのだから。
それでも、それなりに恋をし、恋人ができたこともある。が、彼の前でどもりの自分を見せるのは嫌だったから、必死で隠そうとしていた。また「もし生まれた子どもがどもりだったら」と考えることは恐かった。彼は、結婚したら子どもを持って温かい家庭をつくりたいという、ごく普通の夢を語ってくれた。どこかでどもりの遺伝子が「滅ぼされないぞ」と笑っているような声が聞こえた気がした。結局、私から別れを切り出した。
30歳のとき、大阪吃音教室に出会った。そこで、「どもりは遺伝しない」と教わった。なんとも拍子抜けをしたような気分になったのを今も覚えている。同時にやっぱりとも思った。どもりの遺伝子という呪縛を作って自分を縛っていただけ……自分のどもりから逃げるために、私はその言い訳として、「どもり」と「どもりの遺伝子」を使っていたと、どこかでは気づいていたのだ。だから、呪縛からの解放は、喜びではなく、今まで気づかないふりをしていたことに、向かいあわなければならないという苦しみをもたらした。面接で落とされ続けたのは、一度どもってしまったら、落ち込んでしまって自信のなさそうな受け答えしかできなかったのが原因だということ、教師にならなかったのは、荒れるクラスを抑えるような力量は自分にはないことがわかっていたこと、外国語の道に進まなかったのは、好きなことで失敗したくなかったこと、恋人と別れたのは……子どものこともあるのだが、本当の原因はみじめな自分を一番好きな人に見せるのが嫌だったこと。心のどこかでうすうすは気づいていたが、「どもり」や「どもりの遺伝子」という言い訳を理由に、気づかないふりをし、努力もせず、ただただ逃げ出してきたことを認めなければならなかった。
私は単なるプライドだけ高い臆病者のまぬけだったのだ。でも、伊藤伸二さんや大阪吃音教室の仲間と関わるうちに、どもりを肯定することはできるようになっていた。「どもってもいいんだ」と思えるようになったことで、生きることが楽になった。どもりの自分を受け入れることができるようになった。
実は、大学で外国語を学ぶ道からは逃げたが、結局どこかであきらめられず、20代のころは英字新聞で、どもってもいいんだと思うようになった30の頃からは英会話教室で、地道に英語の勉強は続けていた。今は英語の指導助手として来ているアメリカ人に英語と日本語を交えながら弓道を教えている。昨年暮れにはアメリカの家にも招待されて、昔あこがれたホームステイを体験できた。努力してきたことに救われた気がした。
いつのまにか、私の心の中にあった憑きものの「どもりの遺伝子」は消えていた。今考えると莫迦げているのだが、つらかった10代、20代を生きる抜くためには、その存在は必要だったのかもしれない。今もどもることはある。でも、楽にどもる方法を身につけたり、言い換えの語彙数を増やしたりしたことで、どもるからつらいということは少なくなった。今はどもりの自分を認めることができている。どもりのある人生をちゃんと生きたいと思う。もし、私に本当に「どもりの遺伝子」があって、それが我が子に遺伝してしまっても、今はそれを受け入れ、大丈夫だと言ってあげられるだろう。正しい知識も教えることができるし、どもりだからこそ深められる人生もあると言ってあげられるだろう。我が子……その前にパートナーを探さねば。これは努力だけではどうにもならないかもしれないが、今は前向きに、婚活、婚活!まあ、見つかっても見つからなくても、私の人生をちゃんと生きようという覚悟はできている。
【作者受賞の感想】
ありがとうございました。ことば文学賞は、いつか応募して賞をいただけたらいいなと思っていたので、非常にうれしいです。
今までも何度か応募しようとしていたのですが書けなくて、今年こそはと思い、自分にしか書けないことってなんだろうと考えていたとき、どもりの遺伝子のことを思い出しました。
でも、最初は、どもりの遺伝子は私の妄想の申し子なので、こんな恥ずかしいことは絶対誰にも死ぬまで言うまいと思って却下していました。そんなとき、今度こそと思ってつき合っていた人に手痛い振られ方をしてしまい、追い詰められたような心境の中、婚活に絡めてどもりの遺伝子のことをちょっと書いてみたら、だんだんその存在が膨張し始め、結局それを核にすることで、今までの思いや今の心情がうまくまとまったので、まあいいかと思い、そのまま応募してしまいました。
あのとき振られなかったら、おそらくは永久に生まれなかった文章なので、今は振られたのもよかったのかなと思っています。
【選者コメント】
作者と初めて出会ったのは、もう何年前のことだろう。言いにくいタ行で始まる、珍しい名前だった。そして、出会ってしばらくしてから、「由緒あるどもり」であることを聞く機会があった。へえーっ、と感心したが、今回、そのあたりのことをもっと詳しく知ることができた。
まず、「どもりの遺伝子」というタイトルに惹かれ、婚活中であるという書き出しにも引きつけられ、読み進めた。
自分のどもりから逃げるために、「どもりの遺伝子」を使っていたと気づいた作者は、その呪縛から解放された喜びより、今まで気づかないふりをしていたことに向かい合い、認めざるを得なくなった。厳しい直面に立たされた作者は、それまでの自分を真摯に振り返っている。外国語を学ぶ機会を失ったこと、希望した所に就職できなかったこと、司会がうまくできなかったこと、恋人と別れたことなど、一見マイナスのことで、運命を恨んだとあるが、なぜか悲壮感がない。そこにはユーモアがにじみ出ている。
婚活、婚活、明るくそう言う作者に、白馬に乗った王子様が早く訪れますように祈っている。
【資料 丹民部(たんみんぶ)さん】
西条市の町はずれには、伊予の人々が讃岐の"こんぴらさん"に参詣するための金毘羅街道が走っている。このあたり町並みも古めかしく旧街道のおもむきをよく残している。
ここに丹民部さんの墓とお堂があって道行く人の足をとどめさせている。
丹民部さんは戦国時代の武将であったという。近藤長門守の家来ではあるが、勇将のほまれが高く、一方の旗頭として数十人の部下をかかえていた。
天正年間に小早川隆景が四国へ来襲して来た。
そこで丹民部さんも近藤長門守の下にあって、応戦してよく戦った。近藤方は敵兵を西条市の南の野々市原へおびきよせた。この広い原野には、あちこちに木の茂みがあるので、敵兵は方角の勝手が分からない。乱戦となって、地の利を得た長門守方は敵兵多数を討ち取った。しかし、敵の兵は数も多く、戦いは長びいた。夕方ごろになって、敵の武将吹上六郎というものが丹民部さんの前に現れた。そこではげしい組み討ちとなった。丹民部さんはようやくの思いで、やっと吹上六郎を組み伏せた。そしていざ一突きと吹上六郎の首を取ろうとしたときに、丹民部さんの家来数人がかけつけて来た。ところが折からの夕闇である。上になっているのがだれだか分からない。そこで家来が、
「殿は上なりや、下なりや」
と聞いた。ところが丹民部さんは生まれついてのどもりなので、とっさに返答ができない。
吹上六郎は組み伏せられていたのだが、
「下じゃ、下じゃ」
と言った。そこで家来たちは、上の丹民部さんを敵将と思い、槍で一突きについた。思わぬことから、丹民部さんはあえなく落命してしまった。だが、家来たちはなかなか、そのまちがいに気がつかない。そのすきに吹上六郎は夕闘にまぎれて、そそくさと姿を消してしまった。
家来の一人が火をともしてから改めて見ると、なんと討ち取ったと思ったのは、わが主君ではないか。あまりのことに皆あきれはてて、物も言えない。
「かくなるうえは仕方がないわ。われらも討ち死にしよう」
と敵勢の中に斬りこんで、皆々戦死をとげてしまったという。
やがて野々市原の戦いは終わった。敵も味方もわが陣へと引き揚げて行った。付近の村の人々は勇将丹民部さんが討ち死にしているのを知った。そこで屍を埋めて、その上に墓をきずいた。
丹民部さんはどもりであったので、やがてどもりの神さんになった。また足を病む人がお祈りをするようにもなった。今、お堂には草履や鉄の鳥居が奉納されている。
日本の民話(全16巻)13巻 四国 68ページ 研秀出版株式会社
(「スタタリング・ナウ」2011.12.20 NO.208)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/04