大阪吃音教室の定番講座に、「どもる人の当事者研究」があります。ひとりのどもる人にスポットを当て、僕との対話を通して、その人の人生に耳を傾けます。2010年9月、僕との対話の相手は、堤野さんでした。ことばを選びながら、真摯に答えてくれた堤野さんとの時間は、僕にとってすばらしい時間でした。今日と明日の2回に分けて、紹介します。(「スタタリング・ナウ」2011.1.22 NO.197 より)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/21
【当事者研究】
どもりを豊かさの糧にして
〜堤野瑛一さんの場合〜
日時:2010/9/3
会場:應典院
担当:堤野瑛一・伊藤伸二
伊藤 31歳の若さで、自分の人生について公の場で話すのは勇気のいることです。「当事者研究」を引き受けてくれたことに感謝します。
この5月の「東京ワークショップ」で、昔の堤野さんと同じように吃音に悩む若い音楽大学の学生に会いました。堤野さんが吃音のために大学を退学した体験を話しましたが、似たような体験なので参考になったと思います。
この「当事者研究」の講座が、吃音に悩む人にとって、自分を考えるきっかけになればと願っています。吃音の当事者研究なので、吃音を主軸に、話題を展開しますが、他に話したいことがあれば、話して下さっても結構です。まず堤野さんから、吃音を通じて考えてきたこと、今現在考えていることを話して下さい。
堤野 僕も昔は、吃音が治らないと生きていけないと思っていました。どもりを治すか、首を吊って死ぬかの二者択一でした。今では、どもりであっても生きていけると思っていますが、でもそれは、決して何も悩まなくなったということではありません。今でもどもりでしんどい思いはしますし、逃げたいこともあるし、惨めな気持ちになることもあります。でも、結局はなんとかなっています。仕事をしてお金を得ることができ、人と関わることもできています。これから先も、少々苦しいことが起きても、その都度なんかとかしていけるだろう、絶体絶命なんてことはない、という思いがあります。
伊藤 悩みの真っ只中にいたころは、とてもそうは思えなかったと思うのですが、そう思えるようになったプロセスはどのようなものですか。
堤野 僕は高校2年生のときからどもり始めました。当初は、隠せるくらいの症状で、どもることを隠し続けていました。どもりそうになれば話すのをやめたり、言い換えたり。そして、どもりをごまかしたまま大学に進学したのですが、大学生活を送る中で、ごまかしきれなくなり、挫折し、20歳の時に、ピアノがしたくて苦労して入った芸術大学を中退しました。
伊藤 治らないと死ぬしかないとまで思い詰めたのはどうして?
堤野 どもり始めた当初は、たまたま一時的なことで、そのうち自然に治るだろうと、意外と楽観的でした。でも、いつまでたっても治る兆しはなく、不安を抱えながら大学に入学したのですが、不安は的中しました。ある授業の自己紹介のとき、名前が出ませんでした。それが僕にとって、初めて人前でどもった経験でした。そして、周りからは笑い声やヒソヒソ声が聞こえてきて、耐えられないほどの恥辱を味わいました。
そのことが本当にショックで、人前でどもることなど耐えられない、絶対にどもりを治したいと思いました。そして、どもる不安から、話すことが必要な場面を避けるようになりました。
大学では担任の先生がいるわけではなく、事務手続きなども全部自分で事務局に行ってしなければならないのに、それもなかなかできなかった。大学生活でさえこんな状態なのに、将来、社会人としてやっていけるはずがないと思ったのです。
伊藤 自己紹介でどもったときのことを、もう少し詳しく聞かせて下さい。
堤野 ピアノの「演奏研究」という生徒数10人ほどの小規模な授業でした。初回の授業では自己紹介があると予想して、ずる休みをし、二回目のときに初受講しに行ったら、「君は先週休んだから」と、一人自己紹介を求められました。みんなが僕に注目しています。そこで、30秒くらい、声が出ずに力んでいたら、みんなは顔を見合わせ、ヒソヒソ声で笑い合っている感じでした。
力んだすえ、やっとのことで名前が言えましたが、先生から、「もう少ししゃべってよ。好きな作曲家は?」と質問を受けました。好きな作曲家の名前がたくさん浮かぶのですが、どもって言葉にできずに、「いえ、特に…」とごまかしました。
これは大変な屈辱でした。音楽が大好きでわざわざ芸大に勉強しにきているのに、好きな作曲家がいないわけがないし、音楽に対しても作曲家に対しても僕には溢れる思い入れがあり、それをぜひとも話したい。それなのに、声が出ずに不本意にごまかしました。「特に…」だなんて、周りからも変なやつと思われたに違いないと思ったし、一刻も早くその場から立ち去りたいと思いました。
それ以来、その授業には出なくなりました。でも、それは必修科目なので、出なければ卒業できません。そこで、1年間休学をして、どもりを治すことに専念しようと思いました。
伊藤 大阪吃音教室には、大阪市立総合医療センターの言語聴覚士と一緒に参加しましたね。その時のことを僕はよく覚えていますが、総合医療センターに行ったのは、その頃ですか?
堤野 そのあたりの記憶は曖昧なのですが、医療センターには、大学入学の前後から通っていたと思います。初めて吃音教室に来たのが、大学休学後すぐであったことは覚えています。医療センターのセラピストからは、「どもりは治らない」と聞かされていたのですが、僕はどうしても納得できませんでした。どうにかすれば治るはずだ、と。
伊藤 「治るはずだ」と思った理由は?
堤野 僕は多くの人と違い、幼少からではなく、大きくなってからどもり始めた、ということが大きかった。子どもの頃からの吃音と自分の吃音は違うと思ったのです。ついこの間まで全然どもらなかったのだから、またもとに戻るはずだと。
伊藤 初めて吃音教室に来たときの感想は?
堤野 正直言って、ものすごく気分が悪くなりました。そのとき初めて、自分以外のどもる人を見たのですが、その姿を見るのには耐えがたいものがありました。どもっている人の姿が、醜く、無様に見え、自分も周りからはそう見えるのだと思いました。それに、どもりは辛いに決まっているのに、みんなの、「どもっても大丈夫」「どもっても前向きに生きていける」という趣旨の発言が飛び交うのを聞いて、「欺瞞だ」「無理にそう思い込もうとしているだけだ」と思いました。ただ慰め合っているだけの場だと思いました。
伊藤 「どもっても大丈夫」だなんて、普段の大阪吃音教室でそんな発言が飛び交うことはまったくないと思うけれど、そう感じたのかな。
堤野 今思えば、それはたまたまの文脈に応じての発言で、それほど全面的に強調されてはいなかったかもしれません。でも、そのときの僕には、そういったニュアンスの発言が刺激的すぎたので、拡大視されて印象に残っているのだと思います。
伊藤 吃音教室が、どもりを治そうとしているところではないと知っていたのに、来た理由は?
堤野 言語聴覚士の先生が強く勧め、一緒に行くというので、しぶしぶです。そこに足を踏み入れることは、自分をどもる人間だと認めてしまうことだと思ったし、本当は来たくありませんでした。
一度きりの参加で、「ここにはもう二度と来ない」「絶対にどもりを治してやる」と決めました。僕には、何かをやると決めたら絶対に努力は惜しまない自信がありました。ピアノで大学を受験すると決めたときもそうでした。受験を決めるのが遅く、周りからも「今からでは合格は無理」と言われていたのに、僕は人一倍努力して合格しました。当時の僕は、努力して出来ないことなどないと思っていました。
伊藤 治すために、具体的にどんなことを?
堤野 家では毎日、本の朗読をしたり、いろいろな発声練習をしていました。そういった自主訓練と並行して、最初は、鍼に半年くらい通いました。そこの鍼は普通の刺す鍼ではなくて、「気」の力を利用した不思議な鍼だったのですが、「病院ではどうしようもなくなった人が行くところ」と聞いたので、どもりも治るかもしれないと思いました。
そういった治療にかかる費用は高額なのですが、自分では払えないので親に出してもらっていました。決して快く出してくれていたわけではなく、「お前はほんまに金喰い虫や」などと言われ続け、苦い思いをしながらの治療でした。「どもりさえ治れば、働いて返すから」と言い続けていました。
でも結局は、全然治りませんでした。期待が大きかった分、裏切られたとの思いが強かった。
べつの鍼灸院にもいくつか通い、新大阪にあるキリスト教系の整体(宗教法人十字式健康普及会)にも通いました。そこでは、西洋医学では手に負えなくなった癌の症状でも改善した人がいると聞いたので、どもりも治るかもと思いました。
吹田にある催眠療法にも通いました。そこにはかなり期待して行ったのですが、一向に治る気配はなく、高額なこともあり、ある程度のところで見切りをつけてやめました。今度こそ今度こそと思っていろいろなところに通い、どれも最低半年は続けて通ったのですが、どれも駄目でした。
伊藤 堤野さんがいろいろなところをさまよい歩いたのは、結局どのくらいの期間でしたか?
堤野 3年か4年くらいです。でも最終的にはあきらめました。最後に通ったのが新大阪の十字式で、そこをあきらめるころには、どもりは治療して治るものではないと、確信にいたるほどでした。
伊藤 不思議に思うのですが、それだけさまざまなところを渡り歩いていながら、鍼灸とか、僕が腰痛で行ったことのある十字式健康とかで、どもりを治すことを専門にしている吃音矯正所に行かなかったのはなぜですか?
堤野 吃音矯正所でする大体の内容は、スピーチセラピストの先生から聞いていました。発声練習とか、注意転換法を利用した練習とか、ゆっくり話す練習、腹式の練習など、要するに発話に直接アプローチする訓練です。それならわざわざ高額なお金を払って通わなくても、家で自分でできると考えていたのです。だから、家では出来ない鍼や整体、催眠などに通いながら、自宅では吃音矯正所でやるような言語訓練をしていました。
伊藤 治るという根拠もないのに、どうしてそんなところに通ったの?
堤野 どうしても治したいとの思いが断ち切れず、藁にもすがる思いだったんです。
伊藤 治療をあきらめたときの気持ちは、どんなふうでしたか?
堤野 あるときピタッとあきらめたわけではありません。どんな治療も効かない経験を重ねて、数年かかって、徐々に徐々に、あきらめの気持ちが広がっていきました。
それに、治療に通う傍ら、人との関わりの中で、いろいろと気持ちに変化が起きました。たとえば、知り合いの劇団に音楽スタッフとして参加していた時期があったのですが、そんな人との関わりの中で、気を許せる人には、吃音のことを打ち明けていきました。そんな相手の前では、いつしか隠さずにどもってでも話すようになっていったのですが、どもるからといって人は僕を決して軽く見ることはないし、それどころか、どもっていても、自分を必要としてくれることがわかったし、相変わらず仕事も依頼してくれる。
そういう経験を重ねるにつれて、どもりのままでも、社会人として仕事もしていけるかもしれないと思うようになっていきました。それに、治すことに固執することに疲れ果ててきたことも相まって、どもりが治ってから社会に出ていこう、という考えから、どもったままで社会に出ていこう、という考えに変わっていきました。
伊藤 そこで数年のブランクを経て、二度と行かないと決めた大阪吃音教室に再び行こうと思ったきっかけは?
堤野 そんなころ、ふと吃音教室のことを思い出していたんです。一度は「気分が悪い」「自分の行くところではない」と一蹴したはずなのに、「あそこには仲間がいる」と思うようになっていたのです。どもったまま生きていこうと思い始めてはいたし、少しずつ勇気も出てきていたのですが、でも、独りでは心細い、仲間がほしいと思いました。自分以外のどもる人が集まる場に行けば、今度は昔とは全然違った光景が開ける予感がしました。
伊藤 再び行こうと思ったとき、勇気がいったのではないですか? あいつ、前に一度だけ来たやつだ、なんて思われるかもしれないし。
堤野 そうですね。もう一度行ってみたいと思い始めてから実際に行くまでに、何ヶ月かかかりました。でも、たぶん誰も僕のことを覚えてはいないだろうと思っていました。
伊藤 数年ぶりの吃音教室はどんな感じだった?
堤野 戦友に会えたようで、嬉しかった。昔のように、他人のどもる姿も「醜い」なんて全然思いませんでした。みんな、ただどもっているだけで、全然普通じゃないかと。それに、昔は「どもり」ということばを聞くだけでも耳を塞ぎたいほどの気持ちだったのに、どもりのことを冗談にして笑えるまでに自分が変化していたことも体感し、驚きでした。人は変わるんだなと思いました。
伊藤 最初と、数年を経て二度目に来たときとで、みんなの見え方が全然違ったということですが、心境に、どういう違いがあったんですか?
堤野 初めて来たときは、僕は自分のどもりを認めることができずに、それを見るのがとても嫌で、蓋をしたかった。他人のどもる姿を見ることは、自分の見たくない恥部を強制的に見せられているようで、とても不快で惨めだったのです。でも、二度目に来たときには、僕はすでに、いろいろなことを通じて自分のどもりを見つめ、向き合うことを経験してきているので、他人のどもる姿を見ても平気でした。どもりに対して免疫、耐性が出来たというか。いつの間にか、僕は自分がどもりであることを認めたのです。
伊藤 堤野さんは、吃音以前に、チック症がありましたね。そのことで、親に「治せ」と言われ続けて、辛い思いをしてきたと話されていましたが。
堤野 はい、四六時中言われ続けていましたし、殴られもしましたし、延々と監視されているような状態で、しんどかったです。
伊藤 ご両親は、治るものと思っていたの?
堤野 僕がいくら、注意されたり治そうと思って治るものではないと言っても、「治す気がないからや!」と怒鳴られました。僕は、医学的な情報に頼らずとも、自分の状態だから、自分の意志でコントロールしきれるものではないということを分かっていたし、親にも分かってほしかった。でも、いくら説明しても駄目でした。親からすれば、しょせん「子どもの言うこと」だったのです。僕の両親は決して僕を対等には見ませんでした。
伊藤 そういったチックによる否定体験と、どもり始めたときに大学を辞めるほどの否定的行動をとったこととは、関係があると思いますか?
堤野 分からないけれど、チック体験が自己否定を助長したことはあると思います。今でこそ僕はだいぶん自己肯定的ですが、昔の僕は劣等感の塊でした。実は今でも、僕は写真を撮られるのが嫌いだし、今日の例会のように、みんなが自分の方を向いて座っているのも、苦手です。人からの注目が嫌いなのです。
伊藤 自分ではハンサムだと思っていないの?
堤野 人から言われるので、平均以上なのだろうとは思っています。でも、チックの症状が人目に触れたり写真におさまることが嫌なのです。
伊藤 現在のチックの症状は、これまでと比べてどうなの? 吃音との相関関係はありますか?
堤野 一番ひどかったころに比べれば、今はだいぶ軽い状態ですが、なくなりはしません。吃音との関係は、自覚的には、ほとんどありません。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/04/21