僕の古くからの友人、五味淵達也さんによる、チャールズ・ヴァン・ライパー著の『The Treatment of Stuttering』第10章「検証」の翻訳を紹介します。吃音へのアプローチで、一番僕に近いと思われたチャールズ・ヴァン・ライパーですが、やはり決定的に違うということが、改めて明らかになりました。
 翻訳の前に、「スタタリング・ナウ」2010.6.21 NO.190 の巻頭言から紹介します。

  
回避とサバイバル
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 世界の吃音研究臨床家の中で、手紙のやりとりを通してではあるが、深いつきあいがあり、最も敬愛していたのが、チャールズ・ヴァン・ライパー博士だと、私はたびたび書いてきた。
 「自分も含めて吃音を治せなかった。そろそろ、治らない事実を受け入れよう」に共感したし、私の提起する「治す努力の否定」や「吃音者宣言」を強く支持をして下さっていたからだ。
 しかし、今回、五味淵達也さんが、こつこつと訳して下さった、『The Treatment of Stuttering』(1973年)の10章「検証」を読んで、私との大きな違いに気づかされた。この章の読後感は、『To The Stuttrer』を翻訳して出版した『人間とコミュニケーション―吃音者のために』(内須川洸他訳 日本放送出版協会)のときと同じだった。
 その本も、基本的には「吃音を認めて素直に生きよう」が流れているのだが、11人のメッセージの中には、どもったときに自分が何をしているのか、向き合い、検証するというものがあった。鏡やテープレコーダーなどを使って、自分の吃音を検証し、変えていこうというものだ。読んだ当時、こんなことはとても私にはできないし、したくもないと思った。
 この10章の検証の中に、「回避行動の検証」がある。いろいろな場面で起こったできごとを書きとめ、自分が話す時のごまかし術の全レパートリーに気づかせる。ことばの言い換えや、文の順番を変えたことなどをテープで聞いて確認する。回避行動を認識し、回避することが、いかに吃音に負けてきたかということを認識させるという。

 「回避行動を収集し分類することで、より深いレベルで自分自身と向き合い始める。そして、この回避をやめるために、流暢にどもる技術を学び、それを身につける。そうすれば、回避やどもらないふりをすることが少なくなる。
 大部分の人は、回避は卑怯なことだと理解している。回避行動との対決は、自己概念との対決も含む。回避することで、たまたま話せたとしても、この誤魔化しを使ったことは、どもる人間であることを再確認させる。治療を通して、二つの自分自身の調和を、セラピストは回避行動の検証の中で、理解し、受けとめる」

 こう読んできて胸が詰まってきた。アメリカの人たちは、このように吃音と直面させられ、このような直面が大切なことだと考えているのだ。私たちの回避のとらえ方とに大きな違いがある。
 私たちの回避は、どもることを理由にして、人生の課題から逃げるこで、ことばの言い換えなどはささいなことで、回避と位置づけない。どもらないためではなく、相手に伝えることから逃げないために、伝える工夫として、ことばを言い換えているのであり、それも含めて、どもる人のことばなのだと考えるからだ。
 アメリカ言語病理学では、吃音をコントロールすることを目指す。吃音をコントロールし、流暢にどもることができれば、回避しなくてもいいから、回避を治療の対象にする。私たちの言う、人生の課題からの回避は治療ではなく、生き方を考え直すということで、根本的に違う。私たちは、吃音のコントロールできないと思うから、言い変えても、文章の順序を変えても、言いたいこと、言わなければならない意味合いは伝えていこうとする。
 「私はそれが欲しい」の「わ」が出なければ、「欲しい 私は それが」でも、相手が「この人は、これが欲しいんだなあ」と聞いてくれれば、それでいい。手を振りながら言っても、相手に働きかけている。言い換えをしても、どもりそうなことばの前に言いやすいことばをつけても、相手とつながりたいと話していく。何でもありの吃音サバイバルだ。「焼き肉定食」を「アキニクテイショク」と言っても、目的が達成されればいいのだ。
 ライパー博士を敬愛しつつも、アメリカ言語病理学とは決別する。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/26