
巻頭言のはじめに、「新しい本の原稿をやっと出版社に届けた。あとがきを書いたのが、私の66歳の誕生日だった」とあります。解放出版社から『親、教師、言語聴覚士が使える 吃音ワークブック』を出版したときのことでした。今から15年前のことです。
この号は、チャールズ・ヴァン・ライパー博士を特集しています。アメリカの言語病理学者、吃音研究の最大の研究者といえるでしょう。著書やメッセージを送っていただいたり、「吃音を治す努力の否定」「吃音者宣言」についてのコメントを求めたり、幾度となく、交流のあった人でした。ライパー博士の時代とほとんど変わらない今の吃音界の現状を知ったら、ライパー博士は何と言うだろうかと思います。今、改めて、ライパー博士の文章を読み返し、感慨深い思いをしています。
どもりの森をさまよう
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
新しい本の原稿をやっと出版社に届けた。あとがきを書いたのが、私の66歳の誕生日だったことが、この本を象徴しているように感じられた。
一年ほどかけて、色あせた古い本と文献、最新の本や最新の文献をもう一度読み返した。その中で、アメリカの言語病理学者、チャールズ・ヴァン・ライパー博士の存在の大きさが改めて浮かびあがってきた。そして、日本の私たちにとても強い関心をもち、手紙やメッセージを残して下さっていたことにも、思いを馳せた。
翻訳権をあなたたちに無償で提供しますから、日本の人たちに紹介して下さいと送って下さったのが、自身の吃音臨床の集大成とも言える『The Treatment of Stuttering』(1973年)だった。
さっそく、チームを組み、合宿を何度も繰り返して、多大なエネルギーをかけ、翻訳に取り組んだ。素訳が終わった時点で、私の仕事の関係で、頓挫してしまった。昔の技術のせいか、せっかくの翻訳のコピーが色あせ、読みづらくなっている。内容も、もう古くなってしまったのだろうか。
最新と言われる、バリー・ギターの著作を読んでも、ライパーがよく出てくる。ライパーのお弟子さんだから当然なのだが、現在も、アメリカの吃音セラピーに、大きな影響を与え続けていることがよく分かる。そのライパーの著作を、私の古くからの友人、岐阜県大垣市在住の五味淵達也さんが翻訳をし直して下さった。83歳の五味淵さんの絶えない好奇心と、吃音への思いに脱帽する。
できれば、この「スタタリング・ナウ」で紹介したいと考えているが、それに先だって、五味淵さんが書いて下さったライパーに触れた思いを、1977年、ライパーが私に送って下さった「どもりはどこへ」の文章と一緒に紹介することにした。
ライパーはその中で、「私たちは、どもりの森をさまよってきた」と表現し、これまでの歩みを振り返っている。
35年ほど前に書かれたものだろうが、今、書かれたものかと錯覚するくらい、新しい。というよりも、どもりの森が何も変わっていないことに、ただただ驚くばかりだ。ライパー博士は、文の最後に、一度立ち止まって「木に登ろう」、そして、吃音について、どのような道を歩んだきたか振り返り、未来を眺めてみようと書いている。
果たして、ライパーの弟子である、アメリカの言語病理学者は、木に登ったのだろうか。登っても何も見えなかったのだろうか。まだ、彼たちは森の中をさまよっていると私には思えるのだ。
私は、ライパーに言われるまでもなく、木に登った。自分の人生や、多くの人の吃音人生を振り返りつつ、どもる子ども、どもる人の未来を想像してみた。そして、吃音を治すことにこだわらず、今を生きようと、「治す努力の否定」を提案し始めた。それは、1971年頃からだから、40年近く前のことになる。私は「木に登って」ていねいに見渡し、新しいものが見えてきたが、アメリカの言語病理学者には、私とは違う景色が見えていたのだろう。
ライパーの、1930年代から1960年代の振り返りを読んだが、その後の40年も何も変わっていないことだろう。もうそろそろ、「どもりの森」の中で議論するのではなく、森が見渡せる木の上でも、丘にでも登って論議した方がいいのではないかと、痛切に思う。
五味淵さんは、ライパーと梅田薫・東京正生学院院長を対比した。おこがましいが、この二人に、伊藤伸二を加えて比較すればおもしろい。三人に共通するのは深く吃音に悩み、生涯を吃音に取り組み、最後はあまりどもらなくなったことだろう。
梅田薫は、それを「どもりが治った」と位置づけ、「吃音は治る」と治すことにこだわる。ライパーと私は治らなかったと位置づけるが、ライパーは、セラピーのおかげで変わったとして、セラピーを信じ、どもり方を変えようと言う。
私は、梅田薫にセラピーを受けたが治らず、日常生活を生きる中で自然に変わった。だから、どもる事実を認めて、吃音を生きようと言う。
人は自分の人生から離れられないものだ。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/03/23