吃音の問題の核心となるのは、予期不安です。どもるかもしれない、どもったらどうしよう、そんな予期不安にどう対処したらいいのか、参加者ひとりひとりが考え、自分の体験を話し、それを聞いて体験を重ね合わせていくセルフヘルプグループならではの時間を再現しました。
 僕が担当した、2008年10月の大阪吃音教室の、「吃音の予期不安に対する対処の仕方」の講座の様子をお届けします。(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)

  
《大阪吃音教室2008.10.3》 吃音の予期不安に対する対処の仕方
                     担当:伊藤伸二


はじめに

伊藤 吃音の大きな問題は、みんなも知っているように、予期不安です。どもるかもしれないという予期不安を持ってしゃべると、普段よりもよけいにどもってしまう。さらに強い不安をもつと、話す場面に出ていけない。吃音の予期不安と、話さなければならない場面に出ていけない場面恐怖が、吃音の中心的な問題です。まず、自分がこれまで、吃音に関して、経験したものすごく不安に思った場面、恐怖にまで高まった場面を書いて、それに対して自分はどう対処したか。その場面から逃げたか。どういうふうな工夫をしたか。思い出せる範囲で、書ける人だけ書いて下さい。

世界の論議から

伊藤 今、国際吃音連盟で論議されていることを紹介します。吃音氷山説です。海面に浮かんでいて、目に見える部分は吃音の症状で、吃音の全体のごく一部です。本当の大きな問題は、海面の下に沈んでいる。その主なものが不安、恐れ、恥ずかしさ、みっともないという感情。僕はこのシーアンという人の氷山説(『スタタリング・ナウ』152号参照)を30年以上も前に翻訳して出版しましたが、今になって、急に世界のセルフヘルプ・グループの人たちが、吃音の問題は氷山の海面に沈んだ部分にあると言い始めた。それは、吃音が治っていない現実に、世界もやっと目を向け始めたということで、歓迎すべきことです。しかし、海面下の問題を、「吃音シンドローム」と名づけて、この不安や恐れや恥や感情は大変大きな問題で、セラピーの重要な部分だと、吃音治療の臨床家に認識させなければならない。そう認識しないセラピストは失格だとまで言われると、とてもおかしなものになる。つまり、専門家に海面下の問題をセラピーしてもらおうという考え方なんです。
 吃音をそのように定義しようとする動きに、僕は強く反対しています。吃音シンドロームという名前をつけられたら、病的なものになって、自分自身では解決できないから、専門家にセラピーしてもらって、不安や恐れや恥ずかしい感情からちょっと楽になろうという論理なんです。
 僕が真っ向から反対しているのは、どもる人がもつ不安や恐れや恥ずかしいという感情は病的なものじゃないからです。吃音で悩んでいる人だけでなく、どもる人の誰しもが持つもので、自分で対処不可能なものではないと僕は思うからです。
 僕は氷山説を昔から評価しています。氷山の海面上のどもるということに関しては、長年臨床研究が続けられてきたけれどほとんど効果がない。でも、海面下の吃音の大きな部分に対してはアプローチできる可能性があるととらえる。ところが、アメリカやオーストラリアでは、これは、非常に大きな問題で、セラピストに委ねなければならないと考える。僕とずいぶん違うと思うんだけど。
T これだけ問題があると言われるのと、これだけ可能性があるんだと言われるのとでは、取り組み方が違ってくる。
伊藤 もっと変なのは、吃音を「オバート吃音」、「コバート吃音」、「吃音シンドローム」の3つに分けて定義するという提案です。ただ単にどもるのを「オバート吃音」。どもることばを言い換えて言ったり、回りくどい言い方をしたり、話す場面を避けると吃音は表面に出ない。つまり、吃音が分からない部分が「コバート吃音」。強い不安や恐れなどネガティブなものをもっているものが「吃音シンドローム」。そして、3つそれぞれに治療が必要だと言う。
 そこで、みんなに聞いてみたいんだけど、「コバート吃音」、つまり、言い換えたり、逃げたりすることを生活の中でやっていないという人、手を挙げてみて下さい。(誰もいない)
 じゃ、自分は、「コバート吃音」もあるなあという人、手を挙げてみて。(全員)
 コバート吃音をいけないことだ、それをなんとか治さなければいけないとなったら、僕たちの、なんとかどもりながらこの社会で生き延びようとする「吃音サバイバル」は、ちょっと難しいよね。どこでもどもることから逃げないで、いつでも吃音と向き合い、吃音と共に生きている。それが「吃音と共に生きる」ことだと言われてしまうと、僕はだめです。
 僕は、大事なことでは逃げないけれど、どうでもいいことだったら、いっぱい逃げている。寿司屋で、「トトトトトトロ」ってひどくどもって食べることもないから、「まぐろ」と言うことはある。小さいことを言ったら、みんな逃げていると思う。自分の言いにくいことばを、いっぱい言い換えをしていると思う。僕も、無意識に近い状態で、瞬間的に言い換えをしています。それがだめなことで、そうすることが治療の対象になるのなら、僕は話せなくなってしまう。このように、吃音を3つに分けようと強く主張するのが国際吃音連盟の前会長です。
 それに対して、僕らは、弱い部分もあるし、隠したい部分もあるし、恥ずかしい思いもある。そんなものを抱えながら生きていくという感じで、いつでもどこでも元気で、どもっても平気というわけにはいかない。それでも基本的には自分の人生を誠実に、大切に生きようと主張しています。この吃音定義の論議がどう決着がつくか分かりませんが、僕は徹底して反対していきます。
 不安や恐れや恥ずかしさは、仲間の力を借りるにしても、自分の力で向き合って対処していくことができる。治療を必要とする病的なものではないと思うんです。ここまでのことは、「合点していただけますでしょうか。(合点、合点)
 オバートであったり、コバートであったり、シンドロームであったり、ぐるぐる回って、この全体が吃音だと思うんだけどね。
N 鴻上尚史さんが、どもる人のことと英語ができないこととを合わせて文章にして下さった中に、自分は英語が下手だから、言いたいことがあっても、簡単な言い回しにするとか、時には発言をやめてしまうこともある。コバート吃音と同じことを外国語が苦手な人はしょっちゅうやっている。じゃ、その人に対して、語学の先生が指導の対象にするかといったら、しないでしょ。
 仕事柄、いろんな障害のある人たちとつきあっているけれど、右手が不自由だったら左手でカバーするとか、いろいろしますよね。あきらめるとか。ちょっとがんばったらいいのに逃げてしまうとか。それを治療の対象とは誰も考えない。どうしてどもる人だけがそう考えるのか非常に不思議。
H どもらない人であっても、ちょっと言いよどんでなかなかことばにならなかったり、言いかけてちょっとこれはやめとこかとやめるときもあるわけで、何もどもる人だけのことではないような気がしますね。なんで、どもる人が、完壁に話をしないといけないと思うのか。
伊藤 そうやね。それがどもる人が持ちやすい完全主義なんだね。デモステネスコンプレックスという名前をつけたりするけれども。ほかの人でも経験するようなことでも、完全にしゃべらなければならないと、思ってしまうと、つらいよね。
 不安や恐れは、克服はしなくていい。上手に不安や恐れにつきあえばいい。対処すればいい。今、皆さんに書いてもらったことは過去のことが多かったようです。過去より現実の、あるいはこれから起こるであろう不安や恐れについて、どんな場面がありますか。

40名の前での社訓の朗読が不安

A 今度の職場では、朝礼のときに、社訓を章に分けて読ませて、その後に、感想とか意見とかを述べるというコーナーがあるらしい。果たして、人前で社訓を読めるかどうか、とても不安です。
伊藤 はい。ではこの問題を通して、不安や恐れに対しての対処を一緒に考えていきましょう。
人前で社訓を読めるかという不安、恐怖があったとしたら、どういうことが考えられる?
K 社訓を読むということですが、どもらずにきちんと読むことを言っているのか、どもりながらでも読むことを言っているのか。
A どもりながらでも読んでいかざるを得ないなとは思っています。
K そうですよね。じゃ、どもりながらだったら、読めるんじゃないですか。
A そうですけど、もし、ことばが出ずに、止まってしまったら、し一んとなってしまって、「あいつ、どうしたんやろ?」となってしまったときに、手を動かしてでも出ればいいんですけど。
H 「どうしたんや?」と思われることがひっかかっているんやったら、簡単やないですか。どもっていると言えばいい。
伊藤 簡単やなんて、言ってしまったら、結論が早すぎます。物事には順番がある。Aさんのことだけを考えるのではなくて、みんなが同じようなことを経験するとして考えていきたい。社訓を章に分けて読まなければならないということは現実に多くの人に起こりうるので、一緒にそのような場にあったらどうするか考えましょう。
 僕らは、一瞬一瞬何かが起こったときに、いろんなことを考えて、それを心の中でことばにしてつぶやいている。認知療法では、自動思考といいますが、どもって声が出ないときにAさんや皆さんは、瞬間的にどういうことばを思いつく?
A 恥ずかしい。
C かっこわるい。みっともない。
D どもりたくない。
E 立ち往生したらどうしよう。
F 叱られたらどうしよう。
G 馬鹿にされる。
H どもりがばれたらどうしよう。
I 流れを自分のところで止めてしまう。
J びっくりされ、引かれる。
K 何事が起こったかと思われる。
伊藤 こんなくらいですか。このような、瞬間的に思い浮かぶことをことばとして覚えておくと、いろんなときに役立つ。僕らが、不安とか恐れを持ったときに、自分は心の中で瞬間的にどんなことをつぶやいているか、浮かんでくる自動思考をみつけ、そして、浮かんできたこれらのことを点検してみる。浮かんだことは浮かんだことで仕方ないけど、論理療法で言えば論理的に当たっているのか、自分自身を楽にするのか、それとも却って不安に陥れていくのかを検証していくことが必要です。
 「馬鹿にされる」、これはあり得えますか。
A あると思います。どもりについて知らない人は、ことばにつまって、「どどどど」とどもっていることに関して、おかしいな、変なしゃべり方をしていると見てしまって、おかしいんじゃないの、というふうに理解される。
伊藤 問題を自分の力で切り開いていくためにという前提だから、ちょっと考えてね。じゃ、おかしいと思われる、馬鹿にされるという奥には、吃音に対する理解が周りにないからだといえる?
A そう思います。
伊藤 と考えたら、その対処としては、どんなことが考えられる?
A どもりとはこういうものであって、僕のしゃべり方は治らないんですと、分かってもらうしかない。
伊藤 何人くらいの前で社訓を朗読するの?
A 40人くらい。
伊藤 じゃ、対処法を考えましょう。40人が吃音を理解してくれたら、どもっても馬鹿にされることはないわけですね。中には、どんなに説明しても理解してくれない人はいる。弱いところを突いてくる人はいる。でも、多くの人は、吃音とはこういうものだと理解したら、少なくとも馬鹿にはしないね。となると、Aさんのすることは?
K まず説明した上で、どもることはしょうがないから、仕事はきっちりする。どもっていて、仕事をしなかったらどうしようもない。仕事はきっちりする。それでいいんとちがうかなあ。
伊藤 仕事をきっちりとするということが大きな前提となると、僕たちがしなければならないことは、40人の前でちゃんと読むための練習ではなくて、吃音以外のところでちゃんと仕事をして、自信をもつことですね。
 仕事をきっちりした上で、どもりのことを理解してもらうためには、『どもりと向き合う一問一答』や『どもる君へいま伝えたいこと』をしっかり読んで、自分なりにまとめて、私はこういう人間なんだと説明する。しゃべってもなかなか理解されにくいなら、文章にまとめて40人に配布する。そうすることで、少なくとも馬鹿にされるということからは解放されませんか。
A そうですね。
伊藤 はい、これでひとつ、解決策ができました。じゃ次に、「立ち往生したらどうしよう」はどうですか。すごくどもったときに、立ち往生した経験はありますか?
E 電話でまったく声が出なくて、どうにもこうにもならないときが、何度もありました。
伊藤 で、そのとき、どうしたの?
E どうしたんだろ。なんとかかんとかしたんだろうけど、一回電話を離して一息ついた。
伊藤 ちょっと一呼吸おいたりね。ほかに何かある? 僕は、立ち往生しそうな場面には出ていかず、逃げて逃げてばかりしていたから、立ち往生することはなかったけど。立ち往生したときに、こうしたということ、ないですか?
M 立ち往生しても、ひどい連発、醜いどもり方でもいいから、言おうとしたら、なんとかことばはつながりますね。
伊藤 はい。どもってなら突破できますね。そこで、これも常に考えてもらいたいことですが、仮に立ち往生した。最悪の場合、どういうことが起こりますか?
H どうしたんやと声をかけられるとか。
M 低い評価をされて、
H そこまでいかんやろ。
伊藤 それは、ずっと後のことですね。
T 聞いている人が、ざわざわし始める。
N 発言者を変えられる。
伊藤 Aさんの場合、最悪の場合には、どんなことが考えられる?
A 最悪の場合、ほかの人が手をさしのべてくれて、どうしたんやと言ってくれて、私はどもって読めませんと言うしかない。
伊藤 それは、最悪の場面ですか? 最高の場面と違う? 最善の方に、ジャンル分けできるよ。
S 交代させられる。
伊藤 交代させられたら、ラッキーですね。
B くびになる。
伊藤 これが最悪やね。だけど、こんなことでくびになると思う? 仕事ができないというのではなくて、ただ社訓を朗読するだけのことですよ。朝礼は仕事の本筋ではない。自分の仕事として評価されるんじゃなくて、ただ社長の哲学・方針を書いた文章を読むというセレモニーでしょ。
A そうです。
伊藤 その、セレモニーで立ち往生したからといって、くびにはならない。最悪の事態というのは、たかだか笑われるくらいですよ。僕らは立ち往生したら最悪の場面が起こりそうだと思うけれど、たいしたことない。命をとられるわけではない。
 こういうとき、いつも思い出すのは、今から25年も前、第一回の国際大会を開こうと言ったときのこと。みんなが、不安や恐れがある、参加者が少なかったら、資金が集まらなかったらどうしようと反対した。そこで、最悪の場合は何だといったら、赤字が出ることだと言う。赤字が出たら、実行委員のメンバーがボーナスを一回パスしたらいい。それで済むことだから、やろうとなった。そして開催して成功した。最悪のことを考えても大したことはない。そういうふうに考えられたら。
K 今だったら、よく分かりますが、自分がどもりを必死で隠していたとき、自分のどもりがばれたら最悪と思っていたから、そういうときに立ち往生したら最悪です。みんなに自分のどもりが分かってしまう。
伊藤 だから、対処として一番大事な前提は、今の話でいうと、「どもる事実を認める」しかない。どもる事実を認めたくないのであれば、不安や恐れや恥ずかしさは、一生続きます。だから、どこで踏ん切りをつけるかになる。私はどもるのだという事実を認めることができなかったら、残念ながら吃音の恐怖や予期不安の対処は無理です。どもる事実を認めるところが出発じゃないかな。じゃ、どもる事実が認められない人にどうするか。何かある?ここに来ている人たちは、内心は分からないにしても、どもる事実を認めないとしゃあないと思ったり、本気で認めている人であったりする。でも、どもる事実を絶対認めたくない人は、現実にはいっぱいいる。そういう人には、どうしたらいい。
G 知り合いにいる。友だちになって、食事に誘ったりして、この吃音教室の話をしたりする。
伊藤 どもる事実を認められない人に対して、僕たちに何ができるかは、セルフヘルプグループの大きな役割だよね。吃音親子サマーキャンプでも、絶対どもることを認めたくない、そんなキャンプに行きたくないと言う子を母親が無理矢理連れてきて、どもる人たちの中に入れて、自分だけじゃないんだ、どもる事実を認めても最悪のことは起こらないんだ、ということを目の当たりに経験して変わる例はたくさんある。では、どもる事実を認めたくないのはなんでやろ。
N 吃音を知られたら、自分が吃音であることを認めたら、自分が終わりになると思っている。
伊藤 終わりって何やろ。
H 僕は、認めたくなかったときに、このままどもりであったら、僕の人生は展望、未来が開けないとずっと思っていた。まともな社会人になれないんじゃないか、一人前になれないんじゃないか、果たして結婚できるんやろか、とか。
伊藤 それは、Hさんがひとりで悩んでいたからでしょう。自分だけの世界の中での想像だったり、思い込みだったりしたんでしょう。それが、どもりながら、しんどいこともあるだろうけれど、仕事に就き、結婚もしているどもる人たちと出会ったら、どもる事実を認めたくないと思っていた人であったとしても、どもりながらでもこうして豊かに生きていけるなあと思える可能性がある。となると、僕らNPO法人大阪スタタリングプロジェクトの社会的な責務としては、確かに苦しいことや困難なことはあるけれども、どもりながらでもそれなりに生きていけるんだという見本を見てもらうことですね。大阪吃音教室に来てもらったり、情報を提供したりということは可能かな。
 不安や恐れの対処の前提は、どもる事実を認めているということで、スタートしていいですか?
(「スタタリング・ナウ」2009.8.24 NO.180)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/02/13