昨年秋、牧口一二さんがお亡くなりになりました。このブログにも取り上げましたし、毎月発行しているニュースレター「スタタリング・ナウ」でも特集を組みました。その牧口さんがレギュラーコメンテーターをされていた、NHK教育テレビ『きらっと生きる』に、僕たちの大阪吃音教室の仲間が数人スタジオ出演しました。
 収録の日、僕もスタジオに行きました。僕は、VTRでは登場しますが、スタジオ収録には出ません。どんな内容になるか、カメラはどの場面を撮るのか、出演者のどんな表情を撮るのか、気になっていました。取材を受けた経験が少なくない僕は、取材をする側、カメラを回す側が、どんな問題意識を持っているかで取材内容が変わってくることを何度も経験しています。話した内容は同じでも、どこを切り取るかで、全く違った内容になってしまうこともありました。収録を見守りながら、僕は、何度も大きなため息をつきました。(違う。なんでそっちに行ってしまうんだ。吃音の問題はそこではない)、多分、僕のつく大きなため息には、こんな思いが凝縮されていたのでしょう。そのため息は、カメラを回していた人にも聞こえたようでした。収録後、「伊藤さん、何かありますか」と聞きに来られました。僕は、正直に不満に感じたことを伝えました。その話を理解してくれ、ディレクターは追加の場面を収録してくれました。最終的に放送されたのは、追加して撮り直しされた映像でした。そんな懐かしい思い出のある『きらっと生きる』です。
 2008年に放送されたものを再現した「スタタリング・ナウ」を紹介します。「スタタリング・ナウ」2009.2.22 NO.174 より、まず巻頭言から紹介します。

  
きらっと生きなくても
                日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 『きらっといきる』という、NHK教育テレビで長年続いている人気番組のディレクターと会った。この番組を支えているレギュラーコメンテーターの牧口一二さんの紹介で、吃音について取り上げることになったという話だ。
 牧口さんは、私の著書『どもる君へ いま伝えたいこと』を読んで、今まで一度もどもる人を取り上げなかったことに気づき、吃音を取り上げることを提案して下さった。誰かに焦点を当てたいので、ふさわしい人を紹介して欲しいと言われた。
 大阪吃音教室の何人ものメンバーが思い浮かんだが、掛田力哉さんを紹介した。しかし、謙虚な彼は、今、6年生の担任として苦労していることを話し、自分よりもっとふさわしい人がいるだろうと、出演することを渋った。
 確かに、「きらっと生きる人」と言われれば彼ならずとも、誰もが尻込みしてしまうだろう。かといって、「きらっと生きている」と思っている人が周りからはそう思えない場合もある。
 「明るく、輝いている」と一般的にとらえるような意味で彼は「きらっと生きて」いないかもしれない。悩み、困りながら教師生活を送っている。自分の弱さを自覚しながら、精一杯、誠実に生きている。そんな人に出て欲しいと彼にお願いした。
 学校にテレビカメラが入るなど、難しい学級で苦戦している彼にとっては大変な重荷であろうことは想像できた。しかし、その困難な状況の中で、自分の吃音を公開し、この番組に取り組むことを通して、彼の中で、学級の子どもたちの中で、何かが変わるだろうという予感もあった。
 スタジオには彼以外にも大阪吃音教室のメンバーが出演することになった。候補になった3人は掛田さんと同じ反応をした。吃音を理解してもらえる場に、自分が本当に出てもいいのかと、何度も確認をしてきた。そこで私は、「素直に、正直に自分の思いや考えを語ればいい。大阪吃音教室を代表しているなんて思わなくていい。何一つ格好をつけることはない」と励ました。
 当日、ステージに立つ娘や息子を見守るステージパパのような心境で、しかし安心して、スタジオ収録の場に立ち会った。
 このスタジオ収録で、「治すことにこだわらず、吃音と共に生きる」姿が浮き彫りにされると期待していた。ところが、大阪吃音教室のVTRではかなりどもっていた溜さんが、珍しくあまりどもらなかったことと、掛田さんが授業中はほとんどどもらないことで、話題がどもることに偏ってしまった。どもる人の生き方よりも、どういう時にどもるかどもらないか、また、どもらないようにする工夫などに話題が集中していった。これは、社会一般の常識的な関心でもあるのだろうが、私は不満だった。スタジオ収録中の私の深いためいきは、カメラマンの耳にも届く大きなものであったらしい。
 私と同様、4人にも、大阪吃音教室の活動の中で得たものを伝えたいと意気込んでいただけに、自分たちの発言はその責任を果たしたのかという思いはあったようだ。やはり吃音は、私たちが思うように理解を求めても無理なのだろうか。
 私たちが勉強している論理療法では、「私たちが喜ぶように、私たちが期待する通りに世間は吃音を理解すべきだ」となると、相手への強い要求になり、非論理思考になってしまう。相手のいることだから自分たちの思い通りにはならないことを、番組収録後、出演者4人と確認した。
 膨大な撮影、取材、スタジオ収録がどのように編集されているか、不安と期待で放送日を迎えた。少しの不満はあるものの、出演者だけでなく、大阪吃音教室の仲間の多くが納得する番組に仕上がっていたことはうれしかった。番組にかかわった人たちは、ほっと胸をなでおろしたのだった。
 どもる当事者、吃音の専門家であっても、吃音はかなり違った考え、とらえ方がある。スタンダードな吃音理解というものが、そもそもないのだ。
 「きらっと生きなくても」、どもる事実を認め、自分の弱さを肯定し、自分の気持ちに正直に、他者と誠実に関わりながら生きていく。その私たちの生きる姿を伝えていくしかないのだろう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/20