第11回ことば文学賞の受賞作品を紹介しています。今日がその最終です。
 吃音のせいで、自分がしたかったことをあきらめたことはありますか? この問いかけは、吃音親子サマーキャンプの子どもたちの話し合いでも、ときどき話題になります。今日、紹介する作品の作者、堤野さんは自分にとって大切なものをあきらめました。吃音を認め、どもる覚悟をもてば、吃音は人生を左右するほど大きな問題ではなくなると思うのですが、その前提がないと、堤野さんのようなことは起こるでしょう。現在のどもりながら楽しく仕事をし、一緒に活動している堤野さんからは想像できないほどの辛い過去の出来事です。吃音をあまりにも強く否定してしまうと大変なことになるということを声を大にして言い続けたいと思います。

  
伝えられなかったこと
                         堤野瑛一(会社員29歳)

 大好きなピアノを勉強するために、僕は大学へ進学した。
 高校二年で急に思い立って、ピアノ科受験の準備を始めるなんて遅すぎると、周りの人から言われもしたが、意志が強く、負けず嫌いだった僕は、音楽への情熱だけを糧に、大学でピアノを学べることを夢見て、練習、勉強にあけくれた。そうした思いと努力の末に入学した大学だった。しかし、入学を境に、僕のどもりの苦悩は始まった。
 ほんの二年前にどもり始め、そのうち自然に治るだろうと軽くみていたどもりは、一向に治ってはおらず、僕は入学直後のある授業で、初めて人前で激しくどもり、深く傷ついた。
 このままでは駄目だと考えた僕は、一年間大学を休学し、必死の思いで、どもりの治療を試みたが、結局まったく治らないままに、休学期間を終え、一年越しに改めて大学生活をスタートさせた。
 とはいえ、僕は怠惰だった。きちんと、どもる自分自身と向き合うことはせずに、この期におよんで、そのうちどもりが自然に治らないかと、根拠のない期待をいだき、人前でどもることを、極端に恐れた。そうしながら、みんなの前で発言を求められるような授業は避け、だましだまし、大学生活を送り始めた。
 しかし、レッスンだけは、毎週欠かさず通った。
 大学では週に一度、ピアノ実技の個人レッスンがある。ピアノが二台置いてあるだけのレッスン室で、マンツーマンで行われる。僕のレッスンの担当は、東欧人の先生だった。
 先生は、一応日本語は話せたものの、あまり上手ではなく、つたない日本語だったので、会話のペースはいつもゆっくりだった。そのせいか、僕は先生に対してだけは、どもりの不安は比較的小さかった。それに、先生だって日本語の流暢でない外国人なのだから、という気持ちもあり、先生の前では割合どもることもできた。
 レッスンを重ねるごとに、僕はだんだん、先生に親しみを感じ、先生を好きになっていった。
 先生は、一見怖そうな50代の男だったが、話しだすととても気さくで、面白おかしくよくしゃべり、よく笑った。レッスンとは関係のない、ごくプライベートなことまで、なんでも開けっぴろげに、よく話してくれた。
 いつも煙草をくゆらせ、おおよそ、日本人の先生にはあり得ないような、自由奔放な振るまいだったが、それでいて、指導は丁寧で、いつでも鮮やかに、ピアノを弾いてみせてくれた。
 僕は先生に憧れていた。ずっと昔から親子関係の良くなかった僕は、本来父親に対して向けられるような愛着を、先生に対して感じていた。
 この先生から、たくさんのことを学びたいと思い、毎週、レッスンに向かうのが、楽しみだった。
 しかし一方で、僕のどもりに対する苦悩は、日に日に膨れあがっていった。相変わらず、いくつかの授業は避け続けており、どもりになにか変化がある気配もない。いつまでも、ごまかしがきくはずもなく、どんどん焦りが増した。
 僕は入学当初、いっさいの努力を惜しまない意気込みでいっぱいだった。しかし、こんな状態が続けば、いくら大学に来たって、単位を取れずに卒業できない。その先、社会に出ることだってままならない。このままでは、いくら努力をしたって、なにも実らず、なにも報われない。ピアノなんか一生懸命練習したって、なにもならない。
 そんな気持ちが、僕の心を徐々に支配していき、練習も、だんだんと上の空になっていった。そんなある日のレッスンでのこと。先生は唐突に、「あなた、いつも悲しい顔をしてる。なにか悲しいことでもある?」と僕にきいた。僕はいっそ、この際に、誰にも話せないでいたどもりの苦悩を、すべて先生に話してみようかと一瞬思った。しかし結局思いとどまり、ただ遠慮がちに、「僕は吃音があるので…」とだけ答え、それ以上は話さなかった。
 僕は、どもる症状自体もさることながら、それにともなう苦悩の内容と、そういう自分の弱さを、人に知られることが怖かったのだ。
 先生は、意外にも"吃音"という言葉を理解し、「ああ、どもりね。ボクもどもりだよ。」と言った。言われてみれば、たしかに先生も、若干どもることがある。先生は、僕を励ますふうに話を続けた。
 「そんなこと以外にも、ボクには怖いことがたくさんある。会議でも、外国人は自分だけだし、日本語は難しいし、よその子どもに"外人だー"なんて言われることもあるし…でも、どもることくらい、心配いらない、大丈夫」
 僕は静かにうなずき、とりあえず納得したようなふりをしたが、「いや、全然大丈夫じゃない、そんな軽い悩みではない」という思いが込みあげた。
 しかし、どもることで学校生活が恐ろしくて仕方がないこととか、具体的にどんな場面に怯えているのかとか、必要な授業を避けていること、途方のない不安のためにピアノへの意欲が低下してきていることは、怖くて話せなかったし、「僕は吃音があるので…」だけでは、そこまで伝わるはずもない。悩みの本質をすべて話せなかったことに、あと味の悪い気持ちが残った。
 さらに日がたち、悩みの真っ只中で、ピアノの練習もろくに手がつかなくなったころ、僕はレッスンで先生を苛立たせることが多くなっていった。
 「何でちゃんと練習して来ないの?」
 僕は、「すみません…」としか言えなかった。
 やはり先生の中では、、僕がどもりで悩んでいることと、練習がおろそかになっていることとは、結びついていないようだった。あからさまに先生の機嫌を損ねてしまい、レッスンが始まって数分しかたたないうちに、「今日はもういいよ」と帰されたこともあった。
 先生は、どもる僕に対しては優しかった。「息を吸って、ゆっくり吐きながら話してごらん」と促してくれたり、僕の肩や背中を優しく叩き「大丈夫」と微笑んでくれた。しかし、きちんとピアノの練習をしてこない僕に対しては、厳しかった。それは当然で、ここは音楽を勉強しにくるところなのだ。
 僕の苦悩は、ますます膨れあがった。
 僕は本当にピアノが大好きで、そのためなら努力は惜しまないという気持ちは、決して嘘ではない。しかし、頑張りたいのに頑張れない。決して、怠けたくて怠けているのではなく、本当はいくらでも努力がしたい。先生から、たくさんのことを教わりたい。それなのに、練習が手につかない。
 先生に対して申し訳のない気持ちと、本音を全部話せない自分への苛立ち、どもりでさえなければという悔しさ…。
 僕はとうとう耐えられなくなり、不本意ながらも、大学を辞める決心をした。
 またのレッスンの日、僕は、大学を辞めることを先生に伝えるために、いつもの決まった時間に、レッスン室へと向かった。レッスン室のドアを開けると、先生は、いつもと同じように僕を待っていて、いつもと同じようにこれからレッスンを始めるつもりでいて…そんな、いつもとなんら変わらない様子が、切なかった。
 僕は、先生とあいさっを交わすなり、いつもの調子で話しだそうとする先生を遮る形で、唐突に、今日で大学を辞めることを告げた。
 先生は、驚いた様子で、「なんで?」ときいてくれたが、僕は、父親の仕事が大変になってきたので…と、嘘をついた。
 「そう、残念…」と、先生は言ってくれた。
 それからしばらくの時間、先生はなにか話をしてくれ、僕がレッスン室を出るときには、いつもとちがい、一緒に外まで出てきてくれた。そこで表を見ながら、引き続き少し立ち話をしてくれた。
 そういう間じゅう、僕はなるべく平然を装っていたが、実際には、辛さと、申し訳なさと、後ろめたさと、悔しさと、先生との別れの寂しさでいっぱいで、先生の話はほとんど頭に入ってこず、先生の顔も、まともに見ることができなかった。
 そして最後に先生は、「じゃあ、元気でね」と、いつもの微笑をもって、バイバイと手を振ってくれた。
 先生、ちがうのです!本当は辞めたくない、頑張りたい、先生からたくさん学びたい!…そんな僕の叫びは、ただ心のなかで虚しく響くだけで、先生に届くはずもない。
 結局、そんな思いは伝えられないままに、僕はレッスン室をあとにした。以前のあの努力と、入試合格の喜びと、希望に満ちた志は、一体なんだったのだろうかと途方に暮れ、なんともいえない虚脱、無力感に苛まれ、未練をずるずると引きずりながら、大学を去った。
 あれから、ちょうど十年になるが、今、こうして当時をふり返りながら思うのは、人は、驚くほどに変わるということだ。当時の僕は、どもりをかたくなに拒絶し、どもりでは生きていけないと固く決め込み、人前でどもることは、人生の終わりかのように恐ろしいことだった。
 しかし、あれから少しずつ、どもってでもできた経験、どもっても他人は自分を否定しなかった経験を重ねていくなかで、徐々に、"どもりをもった自分"という自己像が、確立されてきた。"どもる人間として"生きていこうと、徐々に歩きはじめた。
 なにより、さんざん治療を試みた結果、どもりは治らないと"あきらめた"ことが、僕を新たな歩みへと向かわせた。今では僕は、どもるからといって、本当にしたいこと、せねばならないことを、あきらめることはない。
 時間をさかのぼって、"もしも"のことを考えても仕方がないが、今の僕ならば、大学を辞めはしないだろう。多少、不自由で不便で、少々辛いこともあったかも知れないが、それでも、どもるのが自分だと認めたうえで、その都度、どんな手段をつかってでも、どうにかして、大学に通うことはできたはずだ。
 大学を辞めてしばらくは、ピアノもろくに弾かず、無気力な生活を送ったが、年月を経て、徐々に生きる気力がよみがえると同時に、また、ピアノを弾きたい気持ちがあふれてきた。どうも僕は、生きる気力と、ピアノへの意欲が、連動しているようなのだ。
 しかしもう今となっては、先生の教えを受けることはできない。先生は、僕が大学を辞めた数年後に、亡くなってしまったのだ。
 今のような迷いのない気持ちで、もしも先生のレッスンを受けることができたなら、先生は一体、どんなことを教えてくれただろうか。
 そんなふうに、ときどき先生のことを思い出しながら、僕はこれからも、ピアノを続けていくだろう。

選者コメント
 作者にとってピアノは大きな存在だった。今の作者から想像すると、きっと真面目で本当に一生懸命練習に励んでいたのだろう。しかし、どもりという大きな象は、それを認め、どもる人間として生きていこうと決断しない限り、人生の岐路に立ちふさがる。大好きなピアノを、必死にがんばって入学した大学を、大好きだったピアノのレッスンを辞めざるを得なかった作者の無念さ、悔しさを思うと、読んでいて胸が苦しくなる。
 10年という時間が経過し、作者は今少しずつ変化していっている。どもりをもった自分としての歩みを確かに刻み続けている。あの、ピアノの先生に伝えられなかったことを今、他の誰でもない自分と対話しながら、歩き続ける作者に、静かに声援を送り続けたい。(「スタタリング・ナウ」2009.1.20 NO.173)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/01/18