「スタタリング・ナウ」2007.10.21 NO.158 では、第18回吃音親子サマーキャンプの報告を、参加した人たちのふりかえりでしています。紹介します。自分が担当している子どもの指導に役立てたいと、全国各地から、たくさんのことばの教室の担当者が参加します。当初の「担当する子どものために」から、結局は自分のためになったとほとんどの人が口をそろえます。その担当者の声を紹介します。『スタタリング・ナウ』は定期購読者のためのものなので、全て実名で掲載されていますが、今回はインターネットでの紹介なので、実名を伏せ、小学校名だけにとどめました。

 
夏の終わりは、サマキャンで!
 合い言葉になりそうなほど、続けて参加している私たちにとっては、なくてはならないイベントとなった吃音親子サマーキャンプ。今年で18回を迎えた。参加している子どものほとんどが生まれる前から、このサマキャンは存在していたことになる。
 当初は、1泊2日で、参加者も少なかった。何年かして2泊3日になった。参加者が70名を超えたとき、それまでの2倍になったと驚いたが、今はそのまた2倍の140名を超えている。プログラムは、話し合い、劇の練習と上演、作文、野外活動、親の学習会など、15年ほどほとんど変わっていない。スケジュールはぎっしりつまっている。でも、いらないものはないし、大切なものはちゃんと入っている。
 また、参加者のバランスが絶妙だ。初めての人と複数回参加している人が交じり合い、なんともいえないいい空間を演出している。これはスタッフにも言えることだ。初めて参加するスタッフも、何回か参加しているスタッフも、毎回参加している人も、それぞれの役割がある。初めはどう動いたらいいかととまどうこともあるようだが、すぐにその人らしく自然に溶け込んで下さっている。
 2日目の午前中、みんなが作文を書いている時間に、初めてスタッフとして参加して下さった方を対象とした「サマーキャンプ基礎講座」を設定している。サマーキャンプを先入観なしに肌で感じていただいた後、疑問や質問を出していただき、私たちがサマーキャンプで大切にしてきたことを解説する。それらを踏まえてまた、サマキャンの中に入っていってもらう。
 スタッフも、交通費を払い、参加費も払って参加する。何度も参加しているスタッフは、初めは担当しているどもる子どもの指導に生かしたいと思って参加するが、そのうち自分のために参加するようになると言う。自分が楽しく、元気になるから参加するのだそうだ。本当にありがたいことだと思う。
 今年のサマーキャンプ報告は、そんなスタッフ、今年初めて参加したスタッフに焦点を当ててみた。次号では、初めて、あるいは2回目参加の比較的サマキャン歴の浅い親子にスポットを当てて特集を組む予定である。新鮮な感覚を紹介できたらと願っている。

  自分が自分らしくあれて、そんな自分でいいんだ
                広島市立五日市東小学校ことばの教室担当者

 吃音のある子どもを初めて担当した昨年。ことばの教室の担当者として、どのようなことを大切に考えて子どもたちと向き合ったらよいのか、どもる子どもを持つ親をどのようにサポートしたらよいのか…と模索し、悩みながら指導を行っていました。ある日、もっと吃音のことについて学びたいとインターネットを見ていたときに、日本吃音臨床研究会のホームページに出会いました。引きこまれるように読み進めていく中で、吃音についてますます勉強したいと思うようになり、日本吃音臨床研究会が発行する臨床研究雑誌やDVDを購入したりする中で、吃音親子サマーキャンプのことを知りました。
 それぞれの年齢で自分の吃音について向き合い、自分のことばでどもりについて語ることのできる場であるサマーキャンプに大変感銘を受けました。
 そして、今年になり、同じくDVDを見た同僚に、「一緒にサマーキャンプに行ってみませんか」と声をかけてもらいました。「ぜひ!」とは答えたものの、伝統あるキャンプに、経験の浅い私たちを受け入れてもらえるのだろうか…不安な気持ちで問い合わせてみたところ、大変温かく受け入れていただき、このような機会を与えられた喜びに胸を高鳴らせて、当日を迎えました。
 キャンプに初めて参加してみて、私自身語りつくせないほどの思いがありますが、一言で言うなら、「自分が自分らしくあれて、そんな自分でいいんだ」ということを、体験を通して感じることができる場であったということです。
 各年代で行う話し合いでは、私は小学校6年生のグループに参加させてもらいました。スタッフの方々が、「なんかこの場で話してみたいことはあるかあ?」と子どもたちの思いを受けとめ、「そうか〜、それはいやだよなあ。そんなとき、じゃあ、どうしたらええ? みんなで作戦を立てようや」、というスタンスで子どもたちの気持ちに寄り添っておられる姿が大変印象的でした。受け入れてもらえるという安心感のある土壌の中で、子どもたちは、現在悩んでいることや将来への不安など、この場でだからこそ出せることを率直に話し合っていました。子どもたち自身、答えは自分の中に持っていながらも、話をしていくうちに、そのことに自分で気づいていっているように思えました。そして、話し合いが終わった後、それが実りあるものであったことは、話し終えた後の子どもたちの晴れ晴れとした表情が語っていました。
 どもることを通して、自分自身と向かい合い、自分の心を豊かに成長させている…。私自身、子どもたちのそのような姿に学ばせてもらい、未熟ではありながらも「明日からまたがんばっていこう!!」という勇気と活力を与えてもらった3日間でした。初めての参加で、足を引っぱることも多くあったかと思いますが、皆さんに大変温かく受け入れていただきまして、大変ありがとうございました。

  吃音をもつことの強さ
                    広島市立牛田小学校ことばの教室担当者

 吃音親子サマーキャンプに参加してみたい、初めてそう思ったのは5年前でした。
 私は、手相に「あなたは食べ物に対し質を求めるよりも量を求める傾向にあります。」と出るほどの欲張り?です。体型から判断しませんでしたかと確認したくらいですが、確かにこの5年間で、私は、サマーキャンプに対して「知りたい欲」が膨らんでいました。
 参加の原動力となったのは、ことばの教室に通う小学校3年生の男の子の「こんなん(どもってしまう子)他にもおるん?」ということばでした。「待ってましたー」とばかりに答えようとしてふと考えました。自信をもって答えられるほど私は何も知らないじゃないか。やっぱり動きださなくちゃ、潜入調査だ。そして動き出しました。
 今まで貯めていた資料を一気に見直しました。サマーキャンプについて具体的なイメージが広がります。するとむくむく次なる欲が…。2泊3日のこのキャンプ、わが子にも体験してほしいこと感じてほしいことが満載じゃない!
 ある時、小学4年生の息子について担任の先生が、「この子頭は悪くないのに怠け者ですね。本人にも言っているんですよ」とおっしゃいました。なるほど、彼は確かに動き出すまでに、悠久の時がかかります。でも、本当に怠け者なのか? 彼は、「怠けて」手に入れた時間に喜びを感じるより、実行して出た結果に喜びを感じるように見えるのに。それからは、苦手さ、自信のなさ、恥ずかしさ、いろいろな気持ちがめぐる時々に、彼は「どうせ、俺はわからん」と言い、「だって俺怠け者だもん」とまとめます。そうなると前に進むのに倍以上のエネルギーがいることは、本人も母親の私にも実感できます。
 とっかかりが怠け者風でも構わない。実際に取り組むこと、問題と向き合うこと、そして、表現することで得られるすっきり感を息子とともに経験したい。仕事にかまけて子どもたちには迷惑ばかりかけているけど、やっとこの仕事が役に立つ。そう思ったら実行です。
 「スタッフとして何でも仕事をやります。どうか子連れで参加させてください」
 実際、このキャンプのスタッフの方々は、まるでそれぞれ合衆国の州知事がカリスマ性と実行能力のある大統領のもとに集まり機能しているようにバランスが取れ、すばやい動きでキャンプを動かしています。恥かしながら私は、後について歩くのがやっとの働き具合でしたが、私の子どもたちは私の思惑以上に楽しみいろいろなことを感じたようです。2日目に、「吃音って何?」と息子は聞きました。そしていろいろ話しながらキャンプを過ごしました。夏休みの課題の「夏休み新聞」に彼は、サマーキャンプのことを書くと決めました。「劇のせりふを言う時、たくさんの友達が言いにくそうだったのに、諦めないで頑張っててすごいなあと思いました」と書きました。そして、すぐに全部消しました。
 「どもっていても言えたことがすごいと思うのは自分の方が上のような見方だからやっぱりやめる」。そして、「恥ずかしくてもみんなでやってすごく楽しかった。自分は人前で話をするのも、役になって舞台に出るのも恥ずかしくてできなかったけど、ナレーターをして声を出せて気持ち良かった」と言いました。「それはすてきな発見ですてきな気持ちだから、そのまま書いたらいいね」と話しましたが、結局、「新しい友達ができて本当に良かったです」という一文に落ち着きました。
 彼の夏休み新聞は、文章としては味気ないものとなりましたが、彼の表したことばの深さを私は大切にしていきたいと思います。子どもの年齢が増すにつれ、自分と向き合い悩む時を親として共有することは難しいのかもしれません。しかし、このキャンプは、共有の場が土台となっています。その安心感が、子どもたちには生き生きと自己表現する上での支えであり、親としては少し距離を置きながらも共に歩んでいると実感できる場として存在できるのではないか。そんなことを感じながら、今回子連れでの参加を認めてくださったスタッフの皆様に心から感謝しました。
 欲深い私が5年前から持ち続けていた最大の目的は、「なぜ、伊藤伸二さんの講義の後、学生たちは泣き、私は、ファミレスで学生と人生相談会を開かねばならなかったのか」という謎の解明でした。当時、私は、名古屋にある言語聴覚士の養成校で教員をしていました。夏の一番暑い時期に毎年伊藤さんは吃音の集中講義をしてくださいます。シラバスはもちろんありますが、実際にどんな授業が繰り広げられていたのか新入りの私には知る由もありません。ただ、何時間かの講義の後、必ず泣きながら出てくる学生がいて、伊藤さんが颯爽と帰った後の私の仕事が、悩み相談だったことだけは事実です。
 在職していた養成校は大学卒業後の2年課程です。短期間に莫大な量の知識を蓄え、同時にいろいろな作業を進めていくことを求められる厳しい時間です。年齢も個性も背景も本当に色とりどりなメンバーたちは、それぞれに大きなゆさぶりをかけられます。ゆさぶりは知識や技術量だけに向けられません。「どうしてあなたはそう考えたのか、そう考える根拠をしっかりとあらわすこと」を求められます。
 涙した学生には二派ありました。一つは、「君は君のままでいいじゃないか。そんなふうに言ってもらえることは今までなかった。本当に気持ちが軽くなってがんばれそうな気がする」という明るい涙の頑張る宣言派。もう一つは、「私は、何をどう考えていけばいいのか何もかも分らなくなった」と悩みの底なし沼に足を突っ込んでしまう底なし沼派。「言語聴覚士としてやっていけるのか、自分はこのままでいいのか、自分はどうしたいのか…」。自己を見つめようとした時に一番大切な「自分」という存在が見つからない。まるで、ドーナツの真ん中に空いている穴のように心の中心にぽっかり穴が空いている。「自己が見つからない」こんなに不安なことはないだろうと私は感じました。
 なぜ、伊藤さんの授業で学生が泣くのか。謎を解くカギはキャンプにあったように思います。 キャンプの参加者は小学生の時から吃音と真正面に向き合う時を持っています。家族も吃音を持つわが子を通して実は自分自身を見つめる作業を繰り返し行っているようでした。無意識の時からでも強く意識しだしてからでも「吃音」に向かい合う。成長とともに長い時をかけて自分を見つめ、感じたことをことばにしてあらわしていく。向かい合うものがある。向かい合ってみる。その作業に没頭できる時間がありそれを共有する仲間がいる。「吃音を持っていることで生まれる強さだ」私はそう感じました。そして、うらやましくさえ思えました。
 「究極に向き合い続けるものがある」ことの強さを私は自分の母親に感じたことがあります。母は癌でした。脊髄に転移し徐々に動けなくなり、私が仕事を辞めて親元に帰ってすぐに余命数カ月を宣言されました。しかし、母は毎日とても意欲的でした。リハビリや情熱を注いでいる「歌」のステップアップを目指して日々努力をします。ドクターは、「お母さんは自分の置かれている状況を本当に分かってないのでは? まだ治るとでも思っているの?」と言います。余りにもはつらつとして意欲的なため、そろそろ薬を処方して意識レベルを下げ強い痛みをやわらげる時期なのに、予定通りのケアができない。ドクターのボヤキにまあまあ焦らずに行きましょうと答えた程です。
 私は、母が最大限やりたいことをできるよう環境を整えて前向きな母に付き合うことを心に決め、確実に死期が近づいている母が、もし、死を怖いと口に出した時にはしっかりと寄り添わなくちゃなどと現状を受容して、先々の準備もしながら過ごす付添い人のプロにでもなったつもりでいました。入院中、病院が母親の誕生日会を開いてくれることになりました。何か生きがいにつながることをと考えた病院スタッフが、誕生日会で歌を披露しないかと提案してくださいました。しかし、逆効果。母は怒り出しました。「何で自分のお祝いに自分が歌を贈らなくてはいけないの?」私はひやひやしました。しかし、大変心のこもった誕生日会でしたので、よほど嬉しかったのか、母は、「お礼に一曲歌います。」といって歌い始めました。その曲は、「千の風になって」でした。当時はあのCDも発売されてない時でしたので、スタッフの方も私も初めて聞く歌とその内容に衝撃を受けました。
 「私のお墓の前で泣かないでください…」母の前でそれまで泣いた事など一度もなかったのに、その歌を聞いて私は涙が溢れて止まらなくなってしまいました。悲しいというよりも、「あー、やられた。完敗だ。母にはかなわない」という思いだったと思います。自分の方が病状を知り支えていたつもりだったのに、私がとらわれていたことなど母はすっかり踏まえた上で「生きる」意欲を捨てなかったのです。
 発症から10年もの間、母は自分の生と死を見つめていました。再発の時、人生の新しい可能性を見つけた時、家族のことを考えた時、母は必ず、生と死を見つめ立ち止まったのでしょう。そして次のステップに進む。癌であることは、母の人生に転機をもたらしたけれど、母が母であることを変えるものではなく、逆に向き合い進みだすきっかけとなってくれたものなのかもしれない。私がかなわないと思った強さがそこにありました。
 キャンプでも同じような感覚を持ちました。何かの岐路でいつも自己を見つめなおさなければいけない、見つめざるを得ない。等身大の自分を知ること客観的に表すことでつかむ実感は確実に自己の強さにつながるのではないでしょうか。「吃音を持つことの強さ」私はそう感じました。
 ドーナツの穴に気づいた学生たちは、その後いろいろな道を進みました。自己を見つめようとした泣いたあの時は、必ず力になっているだろう改めてそう思います。
 「吃音」を知る以上にいろいろなことを感じられたこのキャンプに参加でき、私の欲は一段落です。しかし、それで終わることはありません。次なる欲(目的)が湧いてきます。でもこれは、私のせいではなく手相がそうさせるのでしょう。
 多くのことを考える機会を下さったキャンプに、そして、伊藤さんはじめスタッフの方々、キャンプの参加者の方々、そして一緒に参加してくれたわが子に感謝します。ありがとうございました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/11/06