「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138 の巻頭言を紹介しようと読み始めて、ドキッとしました。遅れに遅れた年報の編集をしているとの書き出しに、今と全く同じだと思ったのです。僕は、今、毎月のニュースレター「スタタリング・ナウ」の編集と並行して、年報の編集に取り組んでいます。遅れに遅れとまではいかないのですが、少し遅れています。
 毎日、何か、書いています。書くという作業は、僕にとって、欠くことができない日常生活になっているのです。
 では、文章を綴るということのタイトルの、「スタタリング・ナウ」2006.2.25 NO.138の巻頭言を紹介します。

文章を綴るということ
             日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二


 今、遅れに遅れた研究会の年報の編集をしている。今年度の分も含めて、4年分が滞っていた。2002年度の年報は「建設的な生き方」だ。
 文化人類学者・デイビット・レイノルズさんとの対談の中に、内観の話がある。「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の3つを通して自分の過去を振り返っていくのだ。
 吃音内観という、新しい試みを提案してみた。吃音に悩む人たちの中には、どもることで周りに「迷惑をかけたこと」を必要以上に挙げる人がいる。例えば、会社窓口業務は、どもって応対すると、会社の信用を損い、迷惑をかけているというのだ。
 吃音に悩んでいたとき、周りの人から「してもらったこと」はないのかを振り返り、さらには、どもって私たちが話していくことは、誰かに「して返したこと」ことにならないのか。つまり、社会に役に立つことはないのかと、話を展開していった。「迷惑をかけたこと」はすぐに思い浮かんでも、「して返したこと」はなかなか思い浮かばない。そもそも、そのような発想自体が全くないのだ。しかし、結果としては「して返したこと」になるかもしれないということは出始めた。
 その中の大きなことが、私たちが自分の吃音体験を綴っていくことだとは、多くの人が納得した。だからこそ、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトが、ことば文学賞を制定し、多くの人に参加を呼びかけているのだ。
 今年もll編の大作、力作が集まった。今回は事情によって、初めて選考委員のひとりとなった。作品を気楽な気持ちで楽しく読むのと、選考委員として読むのとでは大きな違いがある。この文学賞に応募した11人だけでなく、読んで下さる大勢の人々のためにも、選考は慎重になる。何度も何度も読み返した。これまでの長い間、選考を続けて下さった高橋徹さん、五孝隆実さんのご苦労に改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。
 私たちの周りには、吃音を治すのではなく、どう生きるかを真剣に考え、その道を歩み始めた人は多い。時には「どもりでよかった」とさえ口にする。今の時点のその状態だけを取り出せば、「あれは特別の人たちなのだ。人はそんなに強くなれるものではない」と感想をもたれる人がいるのは、仕方がないことなのだろう。
 今は笑顔でそう語る人たちの、ここまでの道は決して平坦ではない。行きつ戻りつ、悩み、落ち込み、時には人間不信に陥りながらも、やはり、人と直(じか)にふれ合おうとする、人としての営みを通して、やっとの思いで辿り着いた地点なのだ。このことは、ことば文学賞に寄せられた人たちの文章を読めば、分かって下さることだろう。
 人としての苦悩、劣等感、罪悪感など、自分を縛る苦悩をもつのは、どもる人の専売特許ではない。多くの、苦悩をもつ人たちが解放されていく道筋が、私たちにとって大きな道しるべとなったように、私たちの体験も共有できるのではないか。
 私たちが自らの体験を書き続けることは、結果として、誰かに何かを「して返したこと」になる。その、誰かとは、まずは、現在吃音に悩む人たちだろう。「今は苦しくても、ぼちぼちと自分の人生を大切に生きれば、きっと楽になれるよ」と体験を通して応援のメッセージを送っているのだから。さらにそれは吃音理解に結びつき、どもる人をとりまく人間関係にも広がっていく。そして、様々な悩みを持ちながら、自分らしく生きることを模索する多くの人々にも共通の財産になることだろう。
 書くことを仕事にしている人でない限り、自然に書く気持ちがわいてくるものではない。それなりの発表の場があることが動機となる。ことば文学賞がなければ人の目にふれることのなかった文章。その人の人生に触れることの幸せを思う。
 この春には、遅れていた4冊の年報が同時に発行される。その4冊の中にも、私たちならではのメッセージが込められている。
 発行できなかったことへの苦情や批判もなく、私たちを信頼してお待ち下さった皆さんに心から感謝致します。すばらしいものをお届けします。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/07/07