2003年2月15日、不登校、引きこもりの子どもの保護者、学校関係者、適応指導教室の担当者、相談機関など、様々な場で子どもの支援に当たっている人を対象にした研修会が石川県教育センターで開かれました。その時の僕の講演記録を、石川県教育センターの相談課が冊子としてまとめてくださいました。「スタタリング・ナウ」2005.6.18 NO.130 で、講演記録の三分の一ほどを掲載しています。タイトルは、「響き合うことば」でした。部分的な紹介なので、タイトルと合致しないように思われるかもしれませんが、この後、自己表現へと話は続いたようです。機会があれば、続きを紹介したいと思います。

《講演録》 響きあうことば
             伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長
 
今、ここでのことば
 こんにちは。私は人前で話を随分してきていますので、本来ならだんだん上手になっていくものでしょうが、私の場合は、最近だんだんと話せなくなってきています。以前ですと、起承転結をつけて、順を追って話さなければならないと思い込んでいたせいか、話したことが、そのまま文章になってしまうぐらい、まとまった話ができた時代がありました。それが最近できないんです。しなくなったというのが正確かもしれません。そして、以前は大勢の前で話すときはほとんどどもらなかったのが、最近はよくどもるようになりました。自分では、まあいいことだなあと思っています。
 読んでいる方もおられるでしょうが、『ことばが劈(ひら)かれるとき』という本を書かれた〈からだとことばのレッスン〉の竹内敏晴さんの演出で主役の舞台に立ったときから、私は変わってきたように思います。『ほらんばか』という芝居で、東北の山村に新しい農業を導入しようとして、周りの妨害で、発狂し、恋人を狂気の中で殺してしまう主人公の青年を演じました。稽古の始まる前の私を、竹内さんはこう表現しておられます。
 「伊藤さんは、台本を広げて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ほとんどどもらない。まっすぐにことばが進む。しかし、聞いていた私はだんだん気持ちが落ち込んできて、ほとんど絶望的になった。つきあって数年。かなりレッスンをして、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたが、からだには何も滲みていなかったことだろうか。説得セツメイ的口調の明確さによる、言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声に変えていくことができるか」(『新・吃音者宣言』(芳賀書店)304ページ)
 こうして、竹内さんに徹底的にしごかれました。その時の稽古と本舞台を通して、何かパカッと自分が弾けたような気がしました。明確に、説得力のある情報を伝えることを習慣としてきた私のことばが、表現としてのことばに脱皮したとも言えると思います。
 準備してきたことよりも、今ここでの気持ちや、皆さんの反応を受けながら、生まれてくることばを大事にするようになると、これまでのようなまとまった話ができなくなったのです。これは、今回の話のテーマにもなるのだろうと思いますが。
 先だって、サードステージという有名な劇団の劇作家で演出家の鴻上尚史(こうかみしょうじ)さんに、私たちのワークショップに来ていただいて、大変興味深い体験をしました。
 竹内敏晴さんや鴻上尚史さんから学んだことや、私自身が自分の人生の中で考えてきたことを、今浮かんで来るままに、表現についてお話したいと思います。だから、ちょっと取り留めもなく、あっちこっちに脱線しながらの話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

吃音に悩んだ日々
 まず、私がどういう人間かが背景にないと、話がなかなか伝わりにくいかなと思いますので、ちょっと自分のことを話します。
 私はどもりながらも明るくて元気な子どもだったのですが、小学校2年の学芸会で、セリフのある役を外されてから、吃音に強い劣等感をもち、悩み始めました。それまでなかった、からかいやいじめが始まり、友達も一人減り二人減り、気がついたら友達が一人もいなくなってしまいました。
 アイデンティティーの概念で知られる、心理学者のエリクソンは、学童期を学ぶ時期だとして、劣等感に勝る勤勉性があれば、何事かに一所懸命いそしめば、学童期の課題を達成し、有能感をもって、次の思春期の自己同一性の形成へと向かうと言いました。勉強もがんばるけれど、友達と一緒に何か一所懸命やる喜びや楽しさを感じる時期ですが、私は劣等感の固まりで、楽しかった記憶が全くありません。その頃、授業中に当てられて、ひどくどもっている時も辛かったのですが、それ以上に、他の人たちが楽しく遊んでいるときにいつもポツンといる休み時間や遠足や運動会が大嫌いで、辛かった。これは、人間関係がつくれないことがいかに辛かったかということでしょう。
 自己紹介で自分の名前が言えない不安と恐怖は大きなものでした。小学校5年生の時から、中学校の自己紹介で、どもってどもって、惨めな姿をさらけだしているを想像して、嫌な気分になっていました。中学生になりたくないと思っていました。
 中学生になって、私は両親、兄弟とも関係が悪くなり、家庭には居場所がなくなりました。学校生活はいつも針のムシロで、早く卒業したいと思っていました。当時、暴走族もシンナーもなかったのが、幸いでした。今なら完全に非行少年になっているだろうと思います。親から預かった記念切手を売っては、中学生が保護者同伴でしか映画館に行けない時代に、映画館に入り浸りました。当時の洋画、ジェームス・ディーン、ゲイリー・クーパー、バート・ランカスターなど、ほとんどの映画を見ています。補導されたり、警察に捕まったりしながらも、映画館だけが唯一の居場所で、映画だけが私の唯一の救いでした。
 一番辛かったのは高校時代です。当時は不登校ということばはなかったですが、これ以上学校を休むと卒業できないところまで、私は学校を休みました。国語の朗読の順番が私の目の前で終わると、次は確実に私から始まります。それが、分かっている日は、校門から中に入れない。ひとり映画をみたり、ぶらぶらしていました。
 21歳まで本当に孤独に生きました。人とふれ合いたいと強く願いながら、いつもひとりぼっちでした。友達と会っても、「おはよう」が言えず、「おっおっ・・」となっているうちに通り過ぎてしまう。自分の名前も言えないために、新しい場面や話す場面から逃げる。そのとき一番思ったのが、人間が分かり合えるのは、ことばが全てだということです。だからあの当時、「足がなくても、目が見えなくても、病気になって病院に入院しても、確かに辛い状況かもしれないけれども、しゃべれたら、あいさつもできるし、会話ができる。体が不自由でもいいから自由に話せることばがほしい」と、本気で思っていました。人と人とが結びつくために、自由に話せることばが欲しいと、祈りにも似たことばへの欲求がありました。

どもりは治らなかったが
 21歳の時に、どもりを治したくて、吃音の治療機関に行きました。朝から晩まで発声練習や呼吸練習に明け暮れ、上野の西郷さんの銅像の前や、山手線の電車の中で、昼下がりに、「皆さん。大きな声を張り上げまして失礼ですが、しばらく私の吃音克服のためにご協力下さい」と、演説の練習をしました。今から思うと、よくあんなことをやれたなあと思います。それだけ治したいと必死の思いだったのです。4カ月一所懸命やったけれども、どもりは治らなかった。これから自分はどうしたらいいのか。どもったままで生きるしかないと思ったときに,どもりは恥ずかしいとか隠そうとか思っていたら、私は一生しゃべらない人間になってしまう。人間関係を結べない人間になってしまう。それじゃ損だって思った。ようやく、どもっている自分を認め、向き合うようになりました。
 21歳までの私は、「どもりは悪いもの、劣ったもの」と考え、どもる自分を否定して、どもりが治ってから話そう、人間関係を作ろうと思っていました。自分が大嫌いでした。その頃は、どもるから話せないと思っていたけれど、そうではなくて、自分自身が話さなかったのだ。これは、今から思うと、大変な気づきだと思うのです。何々のせいでできなかったのではなくて、どもるのが嫌さに、自分の選択で話さなかっただけの話です。
 孤独の話、辛かった時代の話をすると、そんなにしんどかったのに、生きてこれたのはなぜかと、あるワークショップで質問を受けました。今まで考えたことがなかったので、「子どもの頃母親に愛されたからかな」と言った後で、ちょっと違うなあと、話が終わってから訂正しました。笑い話みたいですが、当時、入浴剤にムトウハップというのがあって、万病が治ると書いてあった。これを飲んだらどもりが治るかもしれないと、すごい量飲んで、救急車で運ばれたことがあります。今から思えば、死にたかったのかもしれません。
 「どもりのまま死んでどうする。どもりが治らないと死ねない」だったと、あの頃を振り返ると思います。学童期・思春期にしたいことを何一つしないで、人生の喜びも楽しみも感動も経験しないで21歳まで生きてきた人間が、このまま死んでたまるかと思ったんだと思うんです。
 21歳の夏からの私の人生は、苦しいこともあったのですが、どもる人の国際大会を世界で初めて開いたり、何冊も本を出版したり、すばらしい人とたくさん出会えたり、自分のしたいことをしてきた人生だったと思います。来年は60歳になりますが、いい人生だったなあと思うし、だからあのとき死ななくてよかったなあと思うのです。
 21歳までの私と今の私とは全く別人のような感じがします。あのひねくれた、無気力で消極的だった少年がよくここまで生きてきたなというのが実感なのです。中学校のときの同窓会が、一昨年あったんですが、皆にびっくりされました。伊藤は変わったなあって言われました。
 『人間は変わるものだ、変わる存在だ』と私は信じています。
 私は、成長するっていうことばは、あまり好きじゃないので、〈変わる〉と言います。人間が変わるのは、医療の世界で言われる、自然治癒力と同じようなものだと考えています。自分自身に備わっている変わる力が、誰かと出会い、ある出来事と出会い、それが響きあって、自ずと自分の中から力が湧いて、力が出て変わっていく。人間には、そういうものが備わっているのだと思います。

あなたはあなたのままでいい
 私が〈変わる〉出発地点に立てた話をします。
 『新・吃音者宣言』という本の中に、「初恋の人」という文章を書いています。私はそれまで人間が信じられなかった。親も教師も友達も信じられなかった。学童期、思春期と本当に孤独で生きて来た人間が、初めて他者を信頼できて、「ああ、人間って温かいなあ、信頼ができるな」と思ったのは、初恋の人との出会いでした。とってもすてきな女性で、その彼女と出会ったことが、私の一生を変えたと言ってもいい。だから私は彼女に今でも感謝しているんです。その彼女とは、偶然のきっかけで、36年ぶりに島根県の松江市で再会することができました。そのとき、「伊藤さんは、21歳のときにすごくどもりながら、一所懸命しゃべっている姿を見て、私もすごく力を得た」と言われました。私はすごくどもっていた時代を忘れていますが、彼女とは、36年間全く会っていないですから、私の21歳の頃を鮮明に覚えていたわけです。気持ちの持ち方、考え方も、もちろん変わったけれども、私のどもりの症状そのものも変わったと言えるようです。
 彼女とは吃音の矯正所で出会いました。9時から授業が始まるので、話ができるのはその前です。夏ですから、朝早く起きて、二人で学校の前の鶴巻公園で、毎朝、朝ご飯も食べないで授業が始まる前までしゃべってました。そこで初めて、今まで誰にも話せなかった、こんな嫌なことがあった、こんな嫌な先生やクラスの人がいた、家でも母親からこんなことを言われた、そのとき私はどんな気持ちだったかをいっぱい話をしました。彼女は、一所懸命聴いてくれました。人に話を聴いてもらうことが、こんなにありがたい、うれしい、ほっとすることか。どもる自分が大嫌いだったのが、どもっていることを含めて彼女は私を好きになってくれた。愛されていると実感できたときに、人間不信という硬い氷のような固まりが、すっと彼女の手のひらの中で溶けていくような実感がありました。人間は信じられると思えたのですね。
 吃音矯正所は全国にあって、どもる人がたくさん出会っているのに、どもる人の会は全く作られていない。私が初めて、セルフヘルプグループを作ることができたのは、彼女とのありがたい出会いと、それまでがあまりにも孤独で、人とふれ合いたいとの思いが、人一倍強かったからだと思います。
 彼女との出会いの中で得た、なんとも言えない安らぎ、ありがたさ、喜び、安心感。また、ひとりで吃音に悩んでいたと思っていたのが、同じように悩んできた、たくさんのどもる人との出会いは、とてもありがたいことでした。この喜びを知ってしまった私は、吃音矯正所を離れるとまた、21歳までの気の遠くなるような孤独な世界に戻ってしまう。これまでは、孤独でも生きてきたけれど、そうじゃない世界を知ってしまった以上はもうその世界に戻るのは嫌だと思ったわけですね。私の苦しみを分かってくれる同じような体験をした人達といっしょに手を繋ぎたい。それで、セルフヘルプグループを作ったのです。その原動力となったのは、その初恋の人との出会いでした。

基本的信頼感
 私は、エリクソンのライフサイクル論が好きなのですが、エリクソンが言うには、人間は心理的・社会的には、階段を上がるように発達していく。人生を8つの節目に分けて、その時期その時期に達成する課題があり、その課題をクリアしたときに次の段階にいくのだと言いました。最初の課題である基本的信頼感が、基本的不信感よりも勝ったときに、その時期の課題が達成される。私は親から愛され、基本的信頼感から、自律性、自発性へと進みましたが、学童期につまずいたわけです。
 学童期の課題は、劣等感に勝る勤勉性です。私は、勉強も遊びも何かの役割もしないで、逃げ廻り、全く勤勉性が達成されずに、劣等感ばかりが大きくなりました。だから次の段階、思春期の自己同一性の形成にはいかなかったのです。自分が何者か、これからどう生きていくのかがつかめなかったのです。その私が、初恋の人と出会って、自分を取り戻してもう一度階段を上がり始めることができたのは、私には乳幼児期の基本的信頼感が、クリアーできていたからだと思うのです。
 母親との関係が悪くなったのは中学1年生のときからです。私がどもりを治すために、一所懸命発声練習をしていたときに、母親に「うるさい! そんなことしてもどもりは治るわけないでしょ」って言われた。母親に対して、「何で僕がどもりを治そうと思っているのに、母親がそんなこと言うんだ」と泣きわめいていました。それから、母親に対する反発が生まれて、家出を何度も繰り返しました。母親への反発は、父親へ、兄弟への反発になっていった。その母親に対する強い不信感が後で取り戻せたのは、子どもの頃、母親から愛されたという実感があったからです。辛かった学童期を生きられたのも、人間不信に陥った私が、もう一度人間を信じるきっかけを作ってくれたのも、初恋の人との出会いを生かすことができたのも、母親への基本的信頼感だと思います。
 初恋の人と、10日間の出会いの最初の5日間、私は、ことばでいっぱい自分のことを話しました。そして、彼女が聞いてくれた。ところが、6日目あたりからはあまり話さなくなった。話さなくても通じ合える。話すことに疲れたり、話し尽くしたわけではないけれども、お互いが分かり合える世界になったのでしょう。公園で手をつないで、彼女の温かさを肌で感じながら、ベンチに座っているだけで十分だった。ことばだけの世界でなくても人間は、響き合い、通じ合える。これまで僕は、ことばだと思っていたけれども、黙っていても、お互いが愛し愛され、信頼できれば十分伝わるし、長い時間も過ごすことができるのだということが、この時に彼女との経験で分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/03