2021年6月、僕の自宅に、ひとりの訪問者がありました。その人は、50年前に亡くなった僕の親友であり、言友会活動の良きライバルだった京都言友会の生みの親、吉田昌平さんの娘さんでした。それは、本当に不思議な縁、運命としか言い様のない出会いでした。
 僕が、吉田昌平さんに出会ったのは、どもりを治すために東京正生学院に行き、そこでの訓練に見切りをつけ、治すことをあきらめ、どもりながら生きていこうと、どもる人のセルフヘルプグループを作って活動を始めた頃でした。吉田昌平さんも、1966年、京都から、僕と同じようにどもりを治そうと東京に出てきていました。
 東京のオンボロの言友会事務所に昔からいたみたいに住みついていた吉田さんのことを、僕はブログに書いていました。そのブログを見た吉田さんの娘さんが、「吉田昌平の娘です」と、僕に連絡してくださったのです。その日、初めて出会った僕たちは、長い時間、たくさんの話をしました。昌平さんとの思い出話、娘さんの今の生活のこと、僕が今していることなど、初めて会ったとは思えないくらい、次から次へと話題が出てきました。僕は、亡くなった昌平さんが今、僕の目の前に現れたような錯覚を覚え、今、していること、しようとしていること、したいことを彼女に話していました。
 彼女は、父親である昌平さんが僕と一緒にしたかったことを、私が代わってしたいですと申し出てくれました。
 昌平さんも僕も、どもりがどもりのまま認められる社会を作りたいと思っていました。そして、日本だけでなく、世界の仲間とつながっていこうというのも共通の思いでした。僕の頭の中には常に彼がいました。彼が亡くなった後、「吃音を治す努力の否定」を提起し、「吃音者宣言」を出し、京都で第1回吃音問題研究国際大会を開き、子どもたちと吃音親子サマーキャンプを続けています。これらのことは、僕が昌平さんと一緒にしたかったことです。昌平さんも、きっと一緒に取り組んでくれたことだと確信しています。
 昌平さんが亡くなるとき、僕は、声にはならない昌平さんの思いを聞きました。「伊藤、どもりのことは、お前に頼むよ」と言われているような気がしました。きっと、今、僕が考え、取り組んでいることを、昌平さんは応援し、喜んでくれているだろうと思います。

 今、僕がしたいと思っているのは、吃音を正しく知り、否定的にとらえず、吃音とともに豊かに生きている人の存在を広く知ってほしいということです。そのために、僕たちの考えや活動を社会に発信をしなければなりません。日本吃音臨床研究会のホームページはありますが、僕自身が常に自分で情報を簡単に更新したいし、スマートフォンに対応できるものにしたいと考えていましたが、IT関係が苦手な僕にはできませんでした。そのことを娘さんの谷口弘美さんに話をすると、「それ、私がお手伝いをしましょうか」と言ってくれました。谷口さんは、実はIT企業の経営者だったのです。このようなホームページにしたいと計画書を出し、文章も書きためていたものをまとめました。仕事がとても忙しい中で二度も、手伝ってくれる社員の方とも会って打ち合わせをしました。膨大な文章量で、細かい希望をたくさん出したために、大変な作業だったと思います。コロナ禍でそれでなくても大変だった時期に、僕がお願いしたイメージのホームページをつくっていただきました。50年の歳月を経ての奇跡的な出会いがきっかけで、今、僕たちのホームページのリニューアルが実現しました。
 僕は今、ともに夢を語り合った吉田昌平さんの分まで、吃音に関して、できることを精一杯取り組んでいこうという思いを強くしています。今回、娘さんと出逢えたこと、僕のできないことを娘さんが代わりにしてくださったこと、吉田昌平さんはきっととても喜んでくれていると思います。昌平さんとともにしたかった吃音に関する発信を、昌平さんの娘さんとともにできたことは、僕にとって大きな喜びです。
 では、今回の不思議な出会いのきっかけとなった、1976年に出版された、『吃音者宣言〜言友会運動十年〜』(たいまつ社)の本の中から、吉田昌平さんとの出会いを紹介します。僕はこの本に、「吉田昌平に捧げる」と記しています。


故吉田昌平氏の思い出
 私が言友会の活動の中で涙を流したのは、言友会旧事務所が取り壊される時と吉田昌平氏の死に直面した時の2回である。
 言友会が好きで好きでたまらなかった彼と私はまさに言友会の虫であった。言友会の大会の議事の最中に喧嘩をしたり、意見が合わないと言っては何度も喧嘩をした。「お前みたいな奴とはもう会いたくない」とお互いに何度この言葉を言い合っただろうか。それでも私たちは離れることはなかった。彼は私にとって本気で怒りをぶつけられる相手であった。
 彼との出会いは昭和41年7月の下旬であったろうか。久しぶりに事務所を訪れた私は、見かけない男が一人、自分の家のように住みついているのを見て驚いた。一見おとなしそうで、変に図々しいこの男の間の抜けたけた話しぶりが、この家にいることの正当性を主張していた。
 話してみると愉快な男で、自分が何故ここに住んでいるのかを、おもしろおかしく語ってくれた。どもりに悩み、なんとかどもりを治したいと思いつめた彼は、職を捨て、恋人と離れて東京のどもり矯正所に来たのだった。
 そこで言友会を知り、例会に参加するうちに会がおもしろくなり、京都にも言友会を作ろうと決意したという。
 ちょうど夏休みに入っていた私は、彼と私と、そしてSとIとの4人で共同生活を始めた。彼が土方やダンプの運転手をして稼いだお金は、私たちの夕食代に消えていった。カレーライスやブタ汁を作り、夜も遅くまで語り明かした。2ヶ月にわたる私たちとの付き合いの中で、彼は京都で言友会を作るエネルギーを貯えていった。
 彼は、その後京都に戻り、言友会を作る活動を開始した。9月下旬京都に帰り翌年の6月まで、職につかずに彼は言友会の専従として仲間作りや事務所作りに専念した。
 活動家が育ち、会が軌道に乗ったのを見届けて、彼はタクシーの運転手になった。どもりながらも親切に応待する彼のタクシーは評判であったが、その料金収入のカーブは言友会の活動に対する貢献度と見事に反比例し続けた。
 その後、京都ろうあセンターの職員になった彼は、水を得た魚のように手話通訳や聴力検査・聴能訓練に打ち込んでいった。彼の豪放でユーモラスな性格と、人並み外れた行動力は、ろうあ者と吃音者との結びつきに大きな役割を果たした。彼のシンボルとも言うべき大柄な体と太い手の指で、体ごと語る彼の手話はろうあ者の信頼を得ていった。「僕は手話をやりながら話すとどもらない、君も手話をやったらどうだ」と私たちにも推めたものだ。
 彼は京都、私は東京と生活の場は離れたが、二人は良く会った。彼は、私のことを「千三つ」と言っては良くからかった。大風呂敷を広げた話ばかりで、千に三つしかまともなことを言わないと皮肉るのだ。その彼とて、私に勝るとも劣らず話が大きかった。私たち二人が会うと夢は大きく広がった。
 彼は、良く東京に出てきては私と新宿のサウナで話し合った。私たちは、それをサウナ会談と名付けた。京都では受け入れてもらえない話でも、東京では受け入れられて話が進んでいく。それに力を得ては、彼は「東京は実行することを決意し動き始めた」と京都の会員を説得し、強引とも言えるやり方で京都言友会をリードしていった。
 その現われが、吃音専門雑誌『ことばのりずむ』の発行であり、第1回吃音問題研究集会の開催であった。
 当時、全国に言友会が広がりつつある情勢の中で、彼と私は「吃音児・者の指導はいかにあるべきか」「各地で吃音に対してどのような取り組みがなされているのか」「吃音とは何か」などを全国のレベルで総合的に考える雑誌や研究会の必要性を感じていた。京都と東京が一体となって雑誌作りが進められ、昭和46年9月『ことばのりずむ』が創刊された。その後、彼が病に倒れるまで彼を編集責任者とする京都言友会がその発刊の責任を担っていった。
 昭和47年5月には、彼を実行委員長とした第1回吃音問題研究集会が京都で開かれた。彼なくしてはとても開かれなかったと言われる集会であった。冒頭の「ハヒフヘ本日は……」で始まった実行委員長の挨拶は、未だに参加者の心に残っている。思えば、この吃音問題研究集会が終わった頃から彼は時々頭痛を訴えるようになっていた。
 正月には一緒にマージャンをやろうと言っていた彼が、卓を囲む直前の昭和47年12月29日、病に倒れた。すぐ京都の病院に駆けつけた私は、大きな体の彼が小さくなってベッドに横たわっている姿を見て胸が締めつけられた。「伊藤やで」と言った私の声に頭だけを動かしてわかったという合い図をしてくれた。
 その後、一進一退を続けた彼だが、時には見違える程元気な時もあった。そんなある時、彼は私にこう言った。
 「なあ伊藤、この春大阪教育大学を卒業したら東京へ帰るやろ。オレも病気が治ったら家族みんなを連れて一緒に東京へ行くわ。二人で東京言友会の専従をしたら東京で大きな事ができるで。やはり東京は日本の中心や、東京で活動しなきゃなあ。早く治りたいわ……」
 彼は病の中でも常に言友会のことを考えていた。その彼が、突然、余りにも急に昭和48年3月29日、帰らぬ人となった。病名は脳腫瘍であった。私の胸の中で、彼は今も生き続けている。「言友会を頼むよ」、彼はニッコリ笑ってそう言っているようだ。(1971年9月24日)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/9/25