吃音親子サマーキャンプの、スタッフのための演劇の事前レッスンが終わりました。
 7月末は、愛知県名古屋市で、第10回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会があります。そして、8月18・19・20日は、滋賀県彦根市で第32回吃音親子サマーキャンプです。猛暑が続いている今、「吃音の夏」を満喫しています。
 今日は、「スタタリング・ナウ」2002.5.18 NO.93の巻頭言を紹介します。
 どもる自分を否定せず、どもりながら生きる覚悟をもつ、それが僕にとって、自分らしく生きること、なのでしょう。

 
自分らしく生きる
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「あなたにとって、自分らしく生きるとはどういうことですか?」
 「自分らしく生きる」がよく使われるようになって久しく、簡単に使ってしまうことばだが、こう改めて問われると、ことばに窮してしまう。
 自分らしいと思っていることが必ずしもそうとは限らない。自分を壊したところから、自分らしさが現れることもある。好きな自分、嫌いな自分、変えたい自分もあるだろう。何が自分らしいのか、自分をみきわめるのはかなり難しいことだと言える。
 吃音に悩んできた人にとって、自分らしく生きるとは、吃音抜きには考えられない。私にとっても、吃音と自分との長い闘いの歴史があった。
 私の吃音は、時期により、場面により、相手によって変化した。調子の大きな波、小さな波もあった。だから、どもらずに話している自分が自分なのか、ひどくどもっている自分が自分なのかがつかめなかった。どもって、立ち往生している、みじめな自分を、自分らしいとは思えない、思いたくない。どもらずに話している自分こそが、自分らしいと思いたかった。どもらずに話せることもあったから、あと一歩で手の届くところにあるように思え、吃音が治ることにあきらめがつかず、いつかは治ると固く信じていた。治るはずのものを受け入れる必要はない。どもっている間は仮の人生で、どもらなくなってからの人生が本来の自分の人生だと思った。仮の自分を、「自分らしく生きている」とは到底思えない。
 今のままの自分が自分らしいのか、変えたい自分、変わった自分が自分らしいのか。揺るがない自分らしさがある一方で、変化していくものもある。
 長い、セルフヘルプグループの活動の歴史の中で、伝えられ続けてきたことばがある。AA(アルコーホリックスアノニマス)など匿名性のグループのミーティングのはじめにみんなで読む、「神よ!私にお与え下さい」ではじまる平安の祈りだ。

  変えられるものは変えていく勇気を。
  変えられないものを受け入れる冷静さを。
  変えられるか変えられないかを見分ける知恵を。

 現実の人生の中で、変えられないものは、それこそ山ほどある。実際には変えられないものを、変えられると思い込んで、変えようと努力するのは、自分自身についての事柄であれば、無駄な努力であるだけでなく、自己否定につながっていく。
 「人は、瞬間瞬間に自分に一番理にかなった行動を無意識のうちにとっている」は、ゲシュタルト・セラピーの考え方だが、そうして生きた歴史が、その人の言動をつくるのだから、そんなに簡単には変わるものではない。人が変わる第一歩は、「あなたはあなたのままでいい」と今の自分がまず肯定されることだろう。その時、「このままの私でいい自分とは何か?」の問いかけが、他人からの強制ではなく、自分自身の叫びとして浮かび上がってくる。もし、現実の自分に満足できず、自分を変えたいと思えば変えていけばよい。しかし、これまで馴染んできた自分を変えるには勇気がいることだ。
 また、ひとりでは、それが変えることができるか、変えられないものかの見分けが難しい。吃音の長い歴史がそれを物語っている。変えられないものだと知る知恵は、同じように変えられると信じて悩んできた人が大勢出会うことで得られるのだろう。セルフヘルプグループの意義のひとつは、この知恵を共有することだ。だから、この平安の祈りは、セルフヘルプグループの中で生き続けたのだろう。
 自分らしく生きるとは?
 自分の中で変えたいと思い、変えられることは、変えていく勇気をもち、無理ない程度に誠実に取り組みを続けること。変えられないものをいつまでも変えようとするのではなく、それを受け入れる冷静さをもつこと。そして、変えることができるかどうかを見分ける知恵をもつこと。
 それは常に自分を発見し、自分をしっかりとみきわめ、それを受け入れていくことだろう。
 今のままの自分も自分らしいし、変わっていく自分もまた自分らしい。(「スタタリング・ナウ」2002.5.18 NO.93)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/07/19