昨日は、4年ぶりに岡山で吃音相談会が開催されました。岡山言友会が主催で、ずっと僕を講師として呼んでくれています。いつもと変わらないメンバーが僕を迎えてくれました。
どもる成人だけでなく、二組の小学生と保護者、ことばの教室の担当者に対して、今、僕が注目している健康生成論、そして具体的な提案として「首尾一貫感覚(SOC」」の話をしました。
後で、とても参考になりましたと、小学生の保護者と、成人で夫婦で参加した人が話に来てくれたので、ほっとしました。いつも話し慣れていることではなく、新しいネタを話す時はやはり、伝わったかどうか、気になります。単に情報ではなく、生活にいかすところまで、新しい知識を理解し、活用してもらえるように伝えるのは、簡単ではありません。
今週の金曜日には、鹿児島県のことばの教室の担当者の県大会があり、その準備にいかすことができるのは、ありがたいことでした。いつものことながら、ぎりぎりまで粘って、岡山の経験をいかし、鹿児島大会の準備の修正をしているところです。
今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88 は、交流分析の人生脚本について書いています。「どもってはいけない」との思い込みから解放されることで、新しい人生が始まります。交流分析を学ぶ中で、その思い込みの背景に気づきました。個人の人生脚本、社会の文化脚本を書き換えていく、その歩みは今も続いています、健康生成論、首尾一貫感覚というキーワードとともに。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/12
どもる成人だけでなく、二組の小学生と保護者、ことばの教室の担当者に対して、今、僕が注目している健康生成論、そして具体的な提案として「首尾一貫感覚(SOC」」の話をしました。
後で、とても参考になりましたと、小学生の保護者と、成人で夫婦で参加した人が話に来てくれたので、ほっとしました。いつも話し慣れていることではなく、新しいネタを話す時はやはり、伝わったかどうか、気になります。単に情報ではなく、生活にいかすところまで、新しい知識を理解し、活用してもらえるように伝えるのは、簡単ではありません。
今週の金曜日には、鹿児島県のことばの教室の担当者の県大会があり、その準備にいかすことができるのは、ありがたいことでした。いつものことながら、ぎりぎりまで粘って、岡山の経験をいかし、鹿児島大会の準備の修正をしているところです。
今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88 は、交流分析の人生脚本について書いています。「どもってはいけない」との思い込みから解放されることで、新しい人生が始まります。交流分析を学ぶ中で、その思い込みの背景に気づきました。個人の人生脚本、社会の文化脚本を書き換えていく、その歩みは今も続いています、健康生成論、首尾一貫感覚というキーワードとともに。
人生脚本
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
「《どもることが普通》の世界にいられるのはうれしいことです。これは本当にうれしいことです」
「僕は、《どもってはいけない》と思い込み、鎖が全身にまきついたような状態になっていた。しかし、吃音サマーキャンプでは、その鎖がとけ、どもってもいいという解放感がうまれ安心してどもれた。この経験は生涯忘れない」
今年の夏、吃音親子サマーキャンプに参加した中学1年生の谷中陽菜さんと、高校1年の安田善詞君のことばだ。数年前には、「高校生のにいちゃんもどもってはったなあ、僕もどもっていいの?」と、母親に問いかけた小学3年生がいた。
どもる子どもたちや、吃音に悩んだ私たちは、なぜこうも「どもってはいけない」と思い、どもる自分を責めてきたのだろう。
これを説き明かすには、交流分析の提唱者、エリック・バーンの、人生脚本の理論が役に立つ。それは子どもの頃に親から与えられた禁止令による幼児決断だというのだ。人生脚本とはこうだ。
「人は、親およびそれに代わる人から影響を受け、自分では気づかないうちに、自分で脚本をつくり、その脚本にしたがって、あたかもドラマを演じるように人生を生きている」
どもる子ども自身が、自分で「どもることは悪いことだ」と思い始めることは、ほとんどないだろう。親や親に代わる人の「治って欲しい」との願いや、教師を含めた社会一般の、「どもらない方がいい」という価値観が、「どもってはいけない」という禁止令になっていき、その子どもの人生脚本をつくっていく。
親が子どものどもっている姿を見てかわいそうだと思うことは自然な感情だといっていい。治してあげたいと思うのも親心だろう。しかし、この子はかわいそうな子だ、どもりをなんとか治してあげたいと思うことは、「どもってはダメだ、どもっていては楽しい人生は送れないのだよ」という人生脚本を子どもに手渡したことになる。そして、子どもは、その脚本どおりに自分自身をかわいそうな存在だと思い、どもっている自分は自分ではない、どもりが治ってからの自分が本来の自分だと強く思ってしまう。そこから、吃音に悩む人生がスタートするのだといっていい。
さらに社会一般の「どもっていては有意義な人生は送れない」「どもりを治しなさい、どもっていてはいけない」という禁止令は、最近でも出版される、『吃音は必ず治る』や『吃音の克服と改善』などの書籍や情報を通してその強化因子として強く働く。
吃音に悩む人を悩ませるのは、親やそれに代わるもの、社会一般の「どもってはいけない」の禁止令を含んだ個人の人生脚本、また、人間の歴史の中で営々と続いてきた、「吃音の悲劇」をテーマにした吃音についての文化脚本だといえる。
この秋の吃音ショートコースのテーマは、交流分析で、幼児決断、再決断について学んだ。
「どもりは悪いもの、劣ったもの、治さなければならないもの」という社会通念への決別は、25年前に、私が《吃音者宣言》を起草して以来、提唱し続け、実践も重ねて来た。そして、今、新たに、交流分析を通して再度、この問題提起を整理する作業を始めたい。人生脚本や文化脚本を書き換えること、それは、この人生脚本に気づいた私たちの責務でもある。後に続く人々に、この人生脚本を手渡してはならない。
吃音ショートコースの最終日、みんなで語ろうティーチインの、ゆったりとした温かい雰囲気の中で、参加したひとりひとりが、自分の人生を振り返り、それぞれの自分に与える許可証を確認した。
「どもってもいい」という「許可証」の考え方が、滋賀県のりっとう山荘で出会った仲間たちだけでなく、日本吃音臨床研究会の多くの仲間たちへ、そしてそれを個人の人生脚本だけでなく、社会の脚本というべき吃音の文化脚本を書き換えていく力につなげていきたい。
そう、「あなたはどもってもいい」 (「スタタリング・ナウ」2001.12.15 NO.88)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/06/12