僕が吃音に深く悩むようになった原点ともいえる小学2年生の秋のできごとは、これまで幾度も語り、書いてきました。せりふのある役を外した担任教師、一言も相談してくれなかった担任教師の真意は、悪意からきているのか善意からきているのか、わかりませんが、僕は傷つき、深い悩みの中に入っていったきっかけになったことは違いありません。人権問題としてとらえたとき、あのできごとのもつ意味が明確になります。
 「スタタリング・ナウ」2001.8.23 NO.84 の巻頭言を紹介します。

  
配慮が人を傷つける
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「私の吃音の長い苦しみの旅は、小学校2年の学芸会でセリフのある役を外されるという、教師の不当な扱いから始まった」
 私は長い間そう思っていた。小学校から、高校を卒業するまで、どもる私の苦しみを理解しようとした教師はひとりもいなかったから、よけいに「不当な扱い」だと思っていたのだろう。
 しかし、平井雷太さんの詩、『いじめられっ子のひとりごと』に出会い、教師の対応は、意図した不当な扱いではなかったのかも知れないと思い始めた。
 平井さんは、「いじめっ子よりも、私がどもると、私のそばで一生懸命助けてくれた友だちの優しさに傷ついた」といい、優しさ暴力という表現を使う。
 「学芸会は大きなイベントだ。成績は一番だが、どもる伊藤には、セリフの多い主役はさせられない」
 担任はこう考えたのだと思って来た。しかし、そうではなく、優しい配慮だとも考えることはできる。
 「どもる伊藤にセリフのある役をさせて、人前でどもって失敗したら、自信を失わせ、かわいそうだ。だから、どもらないですむよう3人でセリフを言わせよう」
 どのように考えたにせよ、教師からは一切相談や説明はなかったから、教師の真意は分からない。どのような意図があったにせよ、仮に優しさだったとしても、私が大きく傷ついたことに間違いはない。
 「なぜ僕はセリフのある役をさせてもらえなかったのか。それは僕がどもりだからだ。どもってセリフを言ってはいけないのか。どもりは悪いもので、劣ったものなのか。どもる僕はダメな人間なんだ」
 それまで、いくらどもってもどんどん発言し、吃音が日常生活にマイナスの影響を全く与えなかった。どもることすら自覚していなかった私が、どもりをマイナスのものと、強く意識してしまった。どもりを否定し、自己を否定し、吃音の悩みに入っていった。
 教師は、私への露骨な差別意識から、不当な扱いをしたのではなく、よかれという善意からの配慮だったとしたら、その配慮が裏目に出て、人を深く傷つけたことになる。平井さんのクラスの友だちの優しさも裏目に出た。私の教師も、平井さんのクラスの友だちも、おとしめよう、いじめようとしたわけではないから、悪意はないだろう。だから、本人は相手に悪いことをしたという意識は全くないだろう。
 今年の6月、3年目になる、どもる子どもたちのための、島根スタタリングフォーラムが開かれた。私は、今年も保護者の話し合い、学習会を担当した。
 その中で、「今、目の前でどもっている子どもを見てどう思うか?」と尋ねたとき、ほとんどの親が、「かわいそうと思う気持ちになる」と言った。「かわいそうと思う気持ちは、分からないではないが、その気持ちが子どもを否定することに繋がるんですよ」と私は指摘し、「お母さん、あなたがもし、誰かに、『あなたはかわいそうな人ですね』と言われたら、どんな気持ちがしますか?」と尋ねていた。仮にかわいそうと思われる状況だったとしても、他人から「かわいそう」と思われるのは嫌だと、その場の保護者の方々は言ったのだった。
 話し合いの振り返りで、どもる子どもの親で、自身もどもる人が、最後の感想にこう言った。
 「私は、今まで、どうして私が吃音についての強い劣等意識をもつようになったのか、疑問がずっと残っていました。私の記憶の中では、誰からも『どもりは悪いもの、劣ったもの』と直接言われたことがありません。それなのに、強い劣等意識と嫌悪感、どうしても治さなければならないとの思いを強くもっていました。それがなぜなのか今やっと分かりました。周りの人が、私のどもっている姿を見て、『かわいそう』と思う、一見善意の気持ちが、逆に私に強い劣等意識を植えつけたのです。ことばでは、いくら『どもってもいいんだよ。どもりは悪いことではないんだよ』と言っても、子どもは、『かわいそう』という本音を敏感に感じ取っていたんです。『かわいそう』の裏には、自分よりも劣っている人を哀れむという優位性が隠されているのではないでしょうか。かわいそうだと思われている子どもは、『どもることはかわいそうで、悪いことなんだ。本当はどもってはいけないんだ』と、どんどんどもりを否定する気持ちをもっていったんですね」
 『かわいそう』『優しさ』『配慮』の裏には、その人の人権を踏みにじっている場合があることを、知っておきたい。子どもと、吃音についてオープンに話が出来ないのは、吃音を少なくとも肯定していないからではないか。子どもを無力な存在だと大人が思っているからではないか。その子の人権を尊重すると、また吃音を否定していなければ、子どもと吃音を率直に話せるのではないか。
 吃音との直面を、人権という角度から考えたい。

(「スタタリング・ナウ」2001.8.23 NO.84)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/18