どもっていたら話すことの多い仕事はできないと思われがちですが、実際は、話すことの多い仕事に就いているどもる人は少なくありません。学校の教師という、話すことが商売のような仕事にも、僕たちの仲間は就いています。普段の授業や職員会議や授業参観、保護者会などは、なんとかこなしているけれども、教師として不安が一番大きくなるのは、卒業式だと言います。厳粛な雰囲気な中で卒業する子どもたちの名前を読み上げる、子どもの名前が出てこなかったらどうしよう、卒業式が台無しになってしまうのではないか、そんな不安を抱えるどもる教師は少なくありません。
 先日、『スタタリング・ナウ』NO.79(2001・3・17)の一面記事『どもる権利』の中で、卒業式を控えた2人の教師から電話があったという話を取り上げました。今回は、いろんな思いの中で卒業式を迎え、そして無事卒業式を終えた、2人の生の声を紹介します。

ああ、卒業式 〜不安、恐れ、そして新たなスタート〜
                          平田由貴(中学校教諭)

 3年の担任を持つことになった時、まず心をよぎるのは、卒業式の名前の読み上げ。約1年後のことを、そして、わずか数分のことをずしっと重く、恐れ、心配し続けているのである。どもりらない教師からすると、きっと信じられないようなことだろう。
 これまでの何回かの名前の読み上げで、どもることも、難発状態で名前が出てこないで立ち往生したという経験は幸いにしてない。しかし、これまでないからといって今回も大丈夫だという保証はどこにもない。むしろ何かの拍子に、いったん経験してしまうと、意識過剰になり、かなりの確率で繰り返すというのがこれまでのパターンである。現に、私は教師になってから自己紹介するとき、平田のヒがスムーズに出てこなくなった。教師同士の集まりで、保護者の前で、結構、自分の名前が言えず10秒程のことだろうが、口をぱくぱくさせて、皆の不思議そうな視線をあびたことも何度もある。卒業式のシーンと静まり返った場内で、生徒・保護者・来賓・同僚達みんなの前で、同じような事が起こったらと考えると、それは私にとっては何物にも変えがたいような大きな恐怖である。
 不安が最高潮に達したのは、卒業式を一週間後に控えた頃だった。宵の口にすっと寝付いたものの、1、2時間程で覚めてしまう。その後、卒業式のことが繰り返し繰り返し脳裏に浮かんできて眠れなくなる。寝床の中で、神経が高ぶっていく。眠りたいけど眠れない。そんな時が、だいぶ続いた後、起き上がり、昨年8月の「スタタリング・ナウ」を探した。石川県教育センターの徳田健一先生が寄稿された文章を読むためである。
 最も思い出したくない、教師になって3年目の卒業式。「タケウチ」のタが出てこず、苦心してようやく読み上げたという体験を綴った文面である。これまで、卒業式でそんな体験をした教師がいるというのは聞いたことがあった。どうしても名前が出てこず、教頭が代わって読み上げていたことが自分の学生時代にあったといっていた人もいた。しかし、文章で読むというのは初めてだったので、随分印象深かった。そして、それを読んだ後の、本で読んだ論理療法で、頭で起こるかどうかわからないような予期不安に脅かされて消耗していくのはイラショナルビリーフ(非論理的)だとわかっていても、来年3月の卒業式のことを考えると怖くてたまらない。そして、徳田先生のようなことが、もし自分の身に起こったらと思うと耐えられない。
 そんな徳田先生の卒業式の体験を、もう一度、真夜中に読み返した。声が出なくなった場面が克明に記されている文面を2,3度読んだ。読み返しながら、ふと、この後、どうだったのかと、それを知りたいと思った。その夜は、朝まで眠ることができなかった。
 翌日、仕事を終え帰宅し夕飯にしようとしたが、食欲がない。昨夜はほとんど眠れず疲れているので、今夜は早く寝ようと思うのだが、明日からの卒業式の練習のことを考えると胸のあたりが重い。
 今回の卒業式の名前の読み上げはこれまでとパターンが違っていた。これまでは、出席番号順に生徒名をいっきに読み上げ、最後に代表生徒が壇上に卒業証書を取りに行くパターンだった。私は自分のペースで読め、読み上げに直面している時間も短かった。しかし、今回は生徒一人一人が壇上に上がり校長から証書を受け取る。前の生徒が証書を受け取り終わるタイミングを見て、次の生徒の名前を読み上げねばならない。この間に、自分の呼吸が乱れて、ア行やワ行など言いにくい音がスムーズに出てこないのではないかという心配があった。これが、私を大きな不安に陥れていた要因である。
 まず、練習の段階でどもってしまったら、生徒たちは騒ぐだろうか?練習でぶざまな姿をさらした後、私はどんな顔をして、終学活をすればいいのだろうか?考えているとますます気はめいる。たまらなくなって、自分の気持ちの弱さに半分腹を立てながらも、伊藤さんに電話をしていた。今の自分の不安を、誰かに訴えずにはいられなかった。このままの状態で、明日という日を迎えたくなかった。
 いつも忙しい伊藤さんを、つまらないことで煩わしては悪いなあという気持ちもあったが、こんな場面では、伊藤さんが最も頼りになる人だった。
 ひとしきり、その時の不安を聞いてもらって、私の心は少し落ち着いたと思う。同僚や友人には、残念ながら吃音の悩みはまだ打ち明けることができず、話を聞いてもらえる人はいない。自分自身が乗り越えねばならない辛さだが、温かく包み込むように不安な思いを受け止めてもらって、宙をさまよっていた魂がようやくどこかに着地できたような感じだった。そして、石川県の教育センターの徳田先生と話してみたいことを相談した。とても信頼できるいい方だからということで、電話番号を教えてもらった。
 夜分にまったく面識のない人のもとへ、しかも本人が最も思い出したくないことと記されていることを尋ねることに多少のためらいを感じはしたが、あつかましくも伊藤さんの電話を切ってすぐ、徳田先生にかけた。
 初めて話をする人にもかかわらず、私の不安な思いを受け止めていただき、また、ご自身のことも、率直に話して下さった。あの卒業式の後、同僚も生徒もみんな気を使ってくれたのか、誰からもそのことについて触れられることはなかったと。そして、不安でいっぱいだというあなたの言葉は素直で、前に向かっていこうとする明るいものがあると言って下さった。この一言で、随分吹っ切れたような気がする。怖いけど、前を向いていこう。たとえどもったとしても、これからのためにもしっかり目を開いて自分をみよう、と。
 翌日の第1回目の練習。寒の戻りで、体育館の中はとても寒かった。さまざまな諸注意の後、実際の練習に入っていく。私が心がけていたのは、何であれ自分ができることを精一杯すること。昨夜、伊藤さんと徳田先生からいただいた温かい気持ちを、自分も忘れず持ちつづけること。
 思いのほか練習に時間がかかり、初日の読み上げは、後半のクラスはカットされそうになり、心の中でラッキーと叫んだが、最初の5人ずつだけ読み上げることになった。寒さと緊張で体は硬くなっていたが、5人の名前はスムーズに出た。途中で余裕が生じ、「名前を呼ばれたときの返事が小さい」と、いつものペースで、一喝。その日が終わったときは、疲労困慰していたが、随分、気持ちは軽くなっていた。
 次の日は、式次第にのっとり通し練習をした。壇上に上がって証書の受け取り方がまずい子は、ストップしてやり直しをしたりしたので、私の6組の番になった時は、生徒たちもだれていて、館内はだいぶ騒がしかった。そのせいか、緊張感もなく、どの名前も滞りなく落ち着いて読み上げることができた。もう大丈夫という安堵の感があった。
 さっぱりした気持ちで連休を過ごすことができ、そして、予行の日を迎えた。この日は本番と同じように、校長、教頭が立会い、効果音も流して進められた。前の練習時とは明らかに違う空気が流れていた。マイクの前に立っときから足は震え、読み上げのための名簿を持った手も震えている。案の定、二人目の「エガシラ」というところで、ちょっとひっかかった。慌てて、周りの反応を確かめたが皆気にとめている様子はない。最後まで、ドキドキしながら読んだ。終わりがけ、もう一人ほど、声が出にくい思いをした。この日は、朝から安心しきっていて、読み上げ直前に急に緊張が襲ってきた。やはり、気を抜くとだめなのか。どもりは、いつ突如として現れるかわからない。結局、その夜もあれこれ頭に浮かんできて眠れなかった。
 当日の朝は、あわただしく過ぎ去った。チャパツのままの子の頭に黒染めスプレーをふったり、ルーズソックスを履き替えさせたり。入場するとき「いくぞ!」と、クラスの生徒たちに声をかけたのでみんなびっくりしていた。普段の私にはない表現が思わず口から出た。自分自身に対する掛け声で気持ちを奮い立たせようとしたのかもしれない。
 開式後、順番を待っているときは、目を閉じ、心と呼吸を落ち着けることに専念した。昨日のように震えがきたら、思い切り足をつねるつもりだった。5組が終わり、マイクの前に立ったとき、緊張はしていても上がることはなかった。ドキドキすることも、体が震えることもなかった。「6組」と、力強く宣言し、一音一拍を心で念じながら、ゆったりと読み上げていった。最後まで、呼吸は乱れることなく、壇上の下で待つ生徒をしっかり見つめながら声を発することができた。さすがに、自分の席に着いたときは、すべての肩の荷が下りたような気がした。来年で定年という先輩の教師が、「自分のクラスの読み上げがすむと急に寒さを感じるようになった」と、後で言ったのを聞いて、何回経験していても、どもりでなくても、誰でも、緊張する場面なんだなあと実感した。
 式後、3年生の教師仲間と酌み交わした打ち上げのビールの味は格別だった。親睦会の係が、なぜ打ち上げの予約もしてないのかとみんなから責められたが、「ごめんなさい、気が効かず!」と、笑ってあやまっておいた。気がついてないことはなかったが、とてもそんな気分になれなかった私の気持ちはみんな知らないと思うが。
 今回のことで、次の卒業式のときはもう少し違った気分で取り組むことができそうに思えた。また、逃げずに3年生の担任を受けて本当に良かったと思う。1年間、いろいろあったけど、これまでになく生徒と通じ合えたような気がする。39人の子どもたちの、一人一人が持っていた悩みや苦しみを、一緒に共有できたのではと思う。私にとっては、教師として一皮むけた年でもあった。
 中学生以降は、授業中ほとんど発言もした事のない私が、あえて教師になってしまったのである。何とか仕事に就き、自立したかった私は、両親の猛反対と真っ向から対立して教職に就いた。この仕事にあこがれていたわけでも、子どもが好きだったわけでもない。文学部日本文学専攻の私に、他の就職先などなかったのである。さすがに、覚悟していたとはいえ、吃音のことなんかで悩む以上にしんどいことは多かった。人と交わることが苦手な人間は、教師として致命的な適正の欠如かもしれない。でも、コミュニケーション能力に欠けるというのは、何をしていようと大変不幸なことである。教師になったおかげで、長い時間はかかったが、対人関係面では、改善の機会をたくさん持つことができた。この仕事に就かなかったら、限られた周囲の人としか話せない、自分の考えを口に出すこともできない、自分の殻に閉じこもったまま一生を終えていたかもしれない。
 様々な格闘の中で私は、学生の頃からは考えられないほど、進化したと思うし、自分の人生も苦労しながらも切り開いてこられたと思う。そして、現在も、進化中であるし、これから挑戦していきたいこともまだまだいっぱいある。
 どもるからといってあきらめず、また、あまり予期不安に悩むことなく、その頃は名前も知らなかった論理療法を自然に実践して、教師になって良かったと、今はつくづくと思う。吃音は、確かに仕事をしていく上で一つのハンディである。しかし、ハンディがあるからこそ工夫もするし、考える機会も与えられる。吃音は、私を人間として成長させてくれたかけがえのないものかもしれない。まだ、親しい人にさえ、吃音の苦しみは打ち明けられずにいる私だが。(「スタタリング・ナウ」2001.4.21 NO.80)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/05/02