昨日は、最優秀賞作品を紹介しましたが、今日は優秀賞作品です。日本吃音臨床研究会の「スタタリング・ナウ」購読者の作品です。
 2023年度のことば文学賞も、今、作品募集中です。6月24・25日に開催する新・吃音ショートコースで受賞発表を行います。応募資格は、大阪スタタリングプロジェクトおよび日本吃音臨床研究会のメンバーです。吃音について、ことばについて、生き方について、綴ってみませんか。詳しくは、大阪吃音教室のホームページをご覧ください。

第3回ことば文学賞・優秀賞作品
   押入れの中から
                   高田健一35才(公務員 東京都在住)

 先生のタバコの煙が教室内に充満している。教えたとおりにギターを弾けないといらいらし、タバコを吸い始める。口調は柔らかだが、タバコの煙が先生になり代わって責め立てる。
 「いや、うちの二歳のやんちゃ坊主が練習の邪魔をするんですよ」と弁解したいところであるが、子どもが生まれてくる前と後の練習時間に差はない。むしろ時間を大切にするようになり、練習の密度も濃くなった。しかし音物が好きなやんちゃ坊主のおかげで、少なくとも我が家では練習ができないので、昼間、職場の中にある重油のにおいがきついボイラー室で練習することにしている。確かに職場では、「がんばっているね」と応援してくれる人もいるが、やっかみも多いと聞いている。直接、「昼休みに職場で好きなギターを練習することが、あなたにとって迷惑ですか」とお伺いをたてたわけではない。どもる人特有の感受性の強さで、職場の同僚の冷たい視線を感じる時がある。しかし30歳から始めたギターも5年間続けることができた。今が楽しい。
 小学生の頃、兄のまねをしてギターを習いに行った。しかし、もともと飽きっぽい性格なので、すぐに挫折し、ギターは押入れの中に入りっぱなしであった。
 中学校、高校と特に何の特技も取り柄もない人間であり、その上高校も中退したものだから、本当に吃音以外は何の特徴もない人間であった。ギターとともに暗い押入れに入っていた。
 いつの間にか大検を受けて合格し、大学に進学した。大学では言語障害児教育を専攻したが、なぜか少年院の教官になっていた。朝礼では百人もの少年の前で人員の報告を行うが、難発の吃音で恥ずかしいなんてもんじゃない。けど少年院の少年達は、弱味を見せることが下手なことが多いので、案外いい見本になっていたのかもしれない。朝礼時の難発型報告は、私の朝の日課になっていた。少年の中には応援してくれる者もいた。
 少年院は、大阪生まれで東京育ちの私と何の関係もない茨城県にあり、特に趣味もない者にとって、何か思いにふけったり、時たまエッチなビデオを鑑賞したりすること以外やりたいことが見当たらなかった。地元の子供たちのボランティアや手話サークルなどといろいろ参加してはみたものの、どれも長続きはしなかった。女性との出会いを求めていたのだから仕方がない。
 そんなある日、職場の仲間と嫌いなカラオケに行き、歌ってみたところ自分の歌のうまさ、声のよさを体感した。もちろん職場の仲間もほめてくれた。歌を歌うときはどもらないものだから調子に乗って何曲も歌い続けた。歌をどもらずに歌えることは気持ちがいいが、これがどもる人にとってマイナスな効果を生む結果となることも多い。
 「歌うように話せばどもらないんだ。」
 歌うようにリズムをつけて、メロディをつけて話すなんてできるわけがない。しばらくまた吃音と闘うことになった。
 吃音を恨むことは今でも多い。社会人になってますます強くなってきた。「人間はでこぼこで、どんな人でも60点位のものだ」と言われるが、吃音はマイナス40点として、いつも私の心の隅に置かれている。そのことばは、私にとって何の励みにもならなかった。少年たちの前で行う難発型報告でも、さっき「朝の日課となっていた」と強がってみたものの、ビデオの一時停止がかかり、血管がぷっつん切れるほどのつらさは二度と味わいたくないと思う。
 そんな中、押入れからギターを取り出して、ボロン、ボロンと弾いて歌うようになっていった。
 歌うときの声は普段話をしているときの声と違う。よく通る声だ。時々少年たちの講話の時間に弾き語りをする。自己満足の世界に陶酔しているようだが、くだらない説教より少年たちの評判も上々であった。
 楽器は正直なもので、毎日演奏していないといい音を出してくれない。しかも管弦楽ならなんでもそうだが、大きな音を出せば、出すほど、楽器の音が生きてくるらしい。人の感受性を微妙に表現してくれるし、言葉に代わるコミュニケーションの手段である。
 場所は変わったが、二十年ぶりに押入れのギターを取り出し、7畳半のアパートの手が届く所に置くようになった。
 7年間の茨城の勤務を終え、東京に戻ってきてからは、若い頃全く興味がなかったジャズにはまっている。ジャズは原曲をもとに、その人なりにアドリブ、つまり即興演奏を行う音楽である。だから会話と同じで、相手の演奏をよく聞いていないといけない。リズムも合わせないと、演奏がバラバラになり、聞き苦しいものになる。ましてギターはサックスやトランペットなどと違って呼吸楽器ではないので、やたらと長いフレーズを弾き続けることもできる。
 しかし人の話と同じで、息を吸い、吐きながら、そしてたまには深呼吸を入れるほどの間をあけて演奏するのが、、聞いている方にも心地がよい。
 またギターは腹に抱える楽器で、しかも人間にくっついている部分が多い楽器でもある。気持ちをこめれば、相手に対してことば以上に自分の気持ちが伝わる。もちろん私の場合、初心者以上中級者未満の腕なので、演奏もどもる。しかし、吃音矯正と違い、練習すればするほどどもる回数は減るようである。吃音については半ばあきらめている状態であるが、ギターを抱えて、腹の底から、心の底から自分の出したい音をどもってもいいから表現してみたい。そんな気がする。
 私のように楽譜もろくに読めない者が、30歳を過ぎて、ジャズギターを始めた。ことばの出にくい一人の人間と一人では音の出せない物体が、20年もの時を隔てて再会し、生き返ったようにことばをしゃべる。もっと若い頃から始めれば、プロとして女の子から「きゃーきゃー」「ひーひー」言われるほどうまくなっていたのかもしれないが、今となってはもう遅い。でも自分の名前が言いづらいおやじにしか出せない音だってあるはずだ。
 そういえば、押入れから出ていたギターも私の心の中と同じようにずいぶん埃をかぶっていた。ネックは曲がって弾きづらいが、音は毎日弾き続けているので、次第に良くなってきた。中性脂肪がたまり、臆病になる心と老いていく体を背中から押していってくれるような力強い音も出せるし、ギター特有の繊細な響きもそれなりに出してくれる。音数は少なくていい。曲を通して、聞いている人に気持ちが伝わるように、一つ一つの音に魂をこめて弾いていきたい。そう思えるようになったのも、吃音のおかげかもしれない。

《選者・高橋徹さんのコメント》
 御作「押し入れの中から」は、吃音者と音楽とのかかわりを描いて、まことにユニークでした。このような視点の作品は初めてでした。歌うことから、ジャズ・ギターへ。とりわけジャズ・ギターのところは大兄ならではの深いところにまで筆が及んでいました。文句なしに優秀賞でした。

 高田さんは東京にお住まいで、大阪吃音教室での受賞には参加していただけませんでした。選者の高橋徹さんからいただいた上記コメントと共に、受賞をお知らせしました。とても喜んで下さいました。また、受賞の知らせを聞いたときの気持ちを聞かせて下さいとお願いし、次の文を綴っていただきました。

 日本吃音臨床研究会からの小包を開け、中から受賞の知らせを見た瞬間、この「ことば文学賞」への応募を勧めてくれた妻と二人抱き合って喜びました。
 東京在住で日本吃音臨床研究会の活動も直接参加したことはありませんが、今回自分の吃音を表現でき、結果的に自分の今までを振り返ることができました。私の作品は、吃音に対して前向きに取り組んでいる様子を伝えたものではありません。私は吃音から逃げたい時は逃げているし、常にどもらずうまく話そうとしています。吃音に対して真正面からぶつかって、はね返されるのが怖くて、35歳の今でも吃音とはうまくつき合えません。そんな大人が夢中になれるギターと再会し、ジャズという音楽に出会ってしまったというものです。自分の中で具体的に何かが変わったわけでもありません。したがって、吃音に対して目を反らせた内容かもしれませんが、文を書いている間、なぜかとても幸せな気分になりました。本当にありがとうございました。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/26