應典院で開催されたコモンズフェスタでの、文福さんと僕の対談を紹介してきました。2時間15分に及ぶ対談は、今、読み返してみても、文福さんの温かい人柄があふれている、楽しい時間でした。
 参加された方の感想を紹介します。

優しさに包まれ、パワーを吸収した
                              坂上和子

 桂文福さんの公演録を読み、再びあの優しさに包まれたお人柄を思い出しています。本当に親子3人で出席してよかったです。息子は小学5年生ですが、子どもにたくさんのメッセージをいただき、帰ってきてからの1ヵ月は、文福さんのパワーを十分に吸収した様子でした。まずしばらくは「気持ちがむちゃくちゃ楽になった」と言って、毎日「学校で今日は何回発表した」と私に報告していました。機関銃のように勢いよくしゃべる子どもを横目に“おいおい、そんなに早く治るなよ”と寂しいような感情がわいてきたのですが、誰に報告するともなく、しばらく様子を見ることにしました。そして、やはり効果は1カ月足らず、尻すぼみで、またかっこ悪さを自覚しながら日々戦っているようです。定期的に大阪へ通えたらいいだろうなと切実に思いました。でも、昨年、吃音ショートコースに参加できたおかげで、子どもの将来を少し客観的に考えることができるようになり、親としての心構えは準備OKのような気がします。皆さん、お年を召される順に魅力的だと思いました。うちの子は、まだ笑うしかない状態でどもっちゃっていますが、あたたかく見守っていこうと思います。


文福さんから貰った大きな力
                    金森正晃(和歌山県・高野山)

 私は現在、僧侶として和歌山県の高野山に住んでいる。11月6日。待ちに待ったその日は、あの和歌山が生んだスーパースター、桂文福さんに会えるというので朝からウキウキワクワク。一日中落ち着かず、仕事を少し早目に切り上げて大阪へ向かった。
 少し早目に出発したが、5分の遅刻。もう既にお弟子さんの"桂ちゃん好"さんの前座トークがはじまっていた。しかし文福さんの登場はまだ、ギリギリ間に合ったという感じだ。少しすると、派手なピンクの羽織姿で文福さんの登場。
 よ、待ってました!
 前半は文福さんの落語、後半は文福さんと伊藤さんの対談という形であったが、落語も対談も、とにかく文福さんの話はおもしろかった。中でも和歌山弁ネタの話は、和歌山の高野山に住む私にとっては、とても可笑しく久しぶりに腹を抱えて笑った。さすが文福師匠、やっぱり一流の噺家さんである。
 和歌山の人はザ行の音が発音できず、ザ行を含む音はどうしてもダ行になってしまう。ぞう(象)がドウ、ぞうきん(雑巾)がドウキン、れいぞうこ(冷蔵庫)がレイドウコというふうにである。文福さんも故郷を離れ、落語界に入門された頃には、この和歌山弁のせいで随分困ったそうだ。そんなことをおもしろ可笑しく話していただいた。
 実は私自身も高野山に住み始めた頃には、和歌山弁には随分と困った。私の場合、文福さんとは全く反対で、和歌山弁が聞き取れなくて困ったのである。更に、私は島根県出身なので言葉は田舎丸出しの出雲弁、それもどもりながら話すのであるから全く意味不明になってしまう。そんな私も和歌山高野山に住むようになって、はや20年、今ではすっかり和歌山の人間である。高野山が好きで、熊野の森が好きで、有田の海が好きで、和歌山全体が好きだ。そして和歌山の人たちが大好きだ。文福さんはその和歌山が生んだスーパースターなのである。
 伊藤さんとの対談の中で、文福さんは自分の吃音についていろいろと話して下さった。そのお話の中で、文福さんも私たち同様、子どもの頃から吃音に悩み苦しまれていたことを知った。しかし、さすが文福さんである。吃音のことについて話していても、決して重たい暗い雰囲気にはならず、会場から笑いの声が途絶えることのない楽しいものであった。まるで文福さんと伊藤さんの漫才のような対談であった。
 文福さんは不思議なことに高座の上で落語をされている時は全くと言っていいほど、どもらない。私も今まで文福さんがどもる人だなんて知らなかったほどだ。でも、高座を降りて普段の会話になると、よくどもるという。伊藤さんが初めて文福さんから電話をもらった時は、吃音の相談の電話だと勘違いしたぐらい、電話では特にどもるそうである。そんな文福さんが30年近くも落語を続けてこられ、ついには弟子を持ち、“師匠”と呼ばれるようになるには並大抵の努力ではない。文福さんは“努力”の人である。文福さんを常に支えていたものは「落語が誰よりも大好きだ」という一途な思いである。人は誰しも決して諦めずに、自分の心の中に、強い信念を持ち、そして自分自身に絶対的な自信を持ち、目標へと向かってゆくことが大切なのだろう。
 話芸の達人、落語家としての文福さんの成功は、私たち吃音を持つ者に大きな勇気と希望を与えてくれた。私たちは誰しもが文福さんのようになれる。それは決して落語家になれるという意味ではない。あらゆる分野において成功しうる可能性を誰しもが持っているということである。私は今回の吃音を通じての文福さんとの出会いに心から感動した。吃音を受け入れ、吃音と上手につきあっている文福さんは、決して吃音を芸風にしたり、売り物にしたりはしない。それが文福さんの魅力だ。
 私はこの4月、住み慣れた和歌山高野山を去る。兵庫県の湯村温泉の近くに“春来(はるき)”という過疎の村で、今まで住職のいなかった小さな村の小さな寺“萬福寺”に住職として入寺する。これから先、いろいろと大変だと思うが、がんばってみるつもりである。
 “寄席”とは、どんなものでも決して排除せず、全てのものが寄り集まる処であると文福さんは云う。お年寄りも若い方も子どもたちも、そして動物や小鳥までもが寄り集まる処。それが寄席なのである。お寺も同じであると私も思う。私のお寺も、そんなみんなが寄り集まるような寺にしたい。そしてこの寺の名前の如く、萬(よろず)の福を多くの人が持ち帰っていただけるような、お寺にしたい。それが私の夢である。
 今回、文福さんからは、笑いとともに大きな力を貰った。文福さんに心から感謝する。そして、私を20年間、育ててくれた愛する和歌山高野山に心から感謝する。みんな是非、来年から私の寺に遊びに来てほしい。それが私がこれから作る“萬福寄席”なのである。
(「スタタリング・ナウ」2001年2月17日 NO.78)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/04/21