1999年度の吃音ショートコースのテーマは、論理療法でした。筑波大学の石隈利紀さんの講義と演習で楽しく論理療法を学んだ後、僕との対談がもたれました。打ち合わせを全くしないままに始まった『吃音と論理療法』の対談は、石隈さんと僕のパーソナリティーがぴたりと合ったのか、論理療法への共通する熱い思いからか、楽しく弾みました。それまでもそれ以後もたくさん対談をしていますが、石隈さんとの対談は特別でした。まるで漫談のように軽妙に話は進み、参加者からは、聞くのも口にするのも嫌だった吃音についての話であれだけ大笑いするなんて信じられないとの感想がありました。テープ起こしされたものには、爆笑につぐ爆笑とあります。しかし、紙面には限りはあるので、漫談風の話はカットし、楽しさの雰囲気を伝えることより、内容優先としました。
 吉本新喜劇風の漫談バージョンではなく、クソマジメバージョンで対談をお届けします。

伊藤 『吃音と論理療法』と最初にお聞きになってどんな感じでしたか?

石隈 私は論理療法とのつきあいは長いですが、論理療法と吃音と言われた時に何かぴたっとこなかったですね。論理療法は、悩みがあって、落ちこんだり不安になったりする人に役立つのはもちろん知っていますし、自分のためにも使っていたんですが、吃音の方がどうやって論理療法を使っていらっしゃるのか知らなかったものですから。最初聞いたときはびっくりしました。私が果たしてお役に立てるか、私のほうが予期不安を抱いて、緊張しました。
 國分康孝先生が編集された本、『論理療法の理論と実際』に伊藤さんが書かれた章を読んで、ああそうか、吃音の方は論理療法を自分とのつきあい方で使っていらっしゃるのかというのを初めて知りました。

伊藤 アメリカにもどもる人はたくさんいるんですが、アルバート・エリスの論理療法研究所にどもる人はあまり来ないのでしょうか?

石隈 どうですかね。私はアラバマ州という南部の方と、最後はカリフォルニア州という西の方に住んでいました。アルバート・エリスは東の方のニューヨークに住んでいまして、時々しか会わなかったから、どういう人が来ているのか知らないで過ごしているかもしれませんけど。

伊藤 7年前に、『自分を好きになる本』(径書房)を書いた、アサーティブ・トレーニングセンターのパット・パルマーさんにサンフランシスコに来ていただいて、ワークショップを私たちが主催したんです。その時、アメリカのどもる人が相談に来ることがあるかとお聞きしたら、全然ないと言うんですね。言語療法には行っても、心理療法やカウンセリングには関心がないようなのです。

石隈 そうですか。吃音と論理療法の関係はアメリカで私は聞かなかったですね。何でですかね。こうしてみなさんがよく使っていらっしゃるのを見ると不思議ですね。
 英語のほうが、ぺらぺら喋ることに対してのこだわりが強いと思うんです。だけど、私もアメリカに行く前には、英語をアメリカ人みたいに喋れたらいいなあと思って行ったんですが、ぺらぺら喋るのはやはりアナウンサーくらい。そして、アメリカは、いわゆる白人のアメリカ人ばかりじゃない。アフリカ系、メキシコ系、アジア系のアメリカ人など、みんな言葉が違うんです。だから、一人一人言葉が違うということが、アメリカではわりに普通でしたね。
 これは喋り方だけじゃなくて、英語の種類とか語彙も人によって違うというのは、当たり前です。行って1年目ぐらいに、アラバマ州のバーミングハムという大きな(かつて鉄鋼で有名だった)町で、ジャパンウィークがありました。そこで、アトランタから日本人の外交官が来て、英語で話したんです。つっかえつっかえ、上手な英語じゃないが、アメリカ人はみんな、話の内容に喜んで拍手している。アメリカ人って、ぺらぺら喋ることに確かに憧れているけれど、一人一人が喋る場合は違うのかな、そんな感じを受けました。

伊藤 今までお話をうかがっていて、不思議に思うんです。アメリカはいろんな人がいて、一人一人が違うということは子どもの頃から身についているように僕は思えるんですが、どもる人たちのセルフヘルプグループですと、日本の僕たちがどもってもいい、人は全部違うじゃないか、と言うけれども、アメリカはやっぱり治す、治療を捨て切れないんですよ。

石隈 治す方ですか。何でですかね?。一人一人違うということは、僕らみたいにいい意味にとらえたら楽なんですけど、自分は他の人とどう違うかを相手にちゃんと伝えなくちゃいけない。こちらでおやりになった、平木典子先生のアサーティブ・トレーニングもそうですね。アメリカ人みんな喋って、えらそうな顔をしてるのに、何でアサーティブ・トレーニングがアメリカで流行ってるのかと思うでしょう。だけどアメリカ人でがんがん喋ってえらそうにしている人もいるけども、どんどん喋らないと置いていかれる、自己主張しないと相手が分かってくれないという辛さはあるでしょうね。それがしんどいです。日本は黙っていても分かってくれるという部分がまだありますね。その辺が違うかな。
 アメリカは確かに一人一人が違っていいんだけれども、違うことを言うのはあなたの責任だという部分がある。僕がアメリカの学校に勤めていた時の教員会議ですが、すごい。みんなワーと喋って早い。僕が喋ろうと決意する時は大体会議が終わる2分ぐらい前なんです。僕も言いたいのに、会議が終わる。しょうがないからメモに書いて、司会者に会の後で渡す。『トシ、おまえの意見はよく分かった。何でもっと早く言わんのか』って。早う言わんのかって言われても、みんなが早く喋りすぎなんです。
 自分のことは自分で言わないといけないというのと、思っているのを隠しているのは卑怯だということがあり、とりあえず皆がワーと言ってみて最後に決めようとするのがアメリカ的なんです。
 やっと何とか一言二言会議で言えるようになった頃、日本の教員になった。私の先輩の先生が、『石隈君、日本であんまりぺらぺら喋ったら嫌われるからね、会議の時は黙っときよ』って。私、会議では、日本に帰ってから2年間ぐらい無口でした。今は多少喋った方が分かってもらえるので喋ってますけど。

伊藤 他の人と違うということを、社会全体が分かってくれているということではなくて、自分自身が主張しないといけないというのは、きついですね。日本の場合は何となく違いを分かってよという、甘えのようなものが、ある程度許される。

石隈 関西弁で「ぼちぼちです」ってありますが、アメリカじゃ、ぼちぼちって、どのくらいぼちぼちかって聞かれる。ところで、アメリカでは吃音を治そうとしているんですか。
つづく 「スタタリング・ナウ」2000年3月 NO.67)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2023/02/19