昨日の続きです。「ことばの人」と言われる谷川俊太郎さん、よどみなく次から次へと発言が続きます。「からだの人」の竹内敏晴さんは、谷川さんのようにはいかないとおっしゃっていましたが、このときの対談は、竹内さんご自身が「珍しくたくさん話した」とおっしゃったくらい、話が途切れず続きました。お互いが刺激し合って、活性化されている様子がよく分かりました。竹内さんの発言を読み返して、このような内容の話は、竹内さんの他の著作には出てこないもので、貴重なものだと思います。たくさんの贈り物を竹内さんからいただき、改めてありがたいことだと、感謝の気持ちがわいてきます。

恨みや不信をもつ余裕すらない

竹内 谷川さんはペラペラ喋る、伊藤さんはことばに恨みがあるという。僕はどうなんだろうなあって考えてみると、子どものころ僕は、ともかく聞こえないでしょう。だから、ことばに恨みがなんていうところまで、行かないわけですよ。人のことばを理解できないということで、全然切れちゃってるわけですから。やっと聞こえるようになってからは、今度は、自分の中に動いているものをどうやって人様に伝えたらいいのかに必死でしたから、恨みつらみをもつ余裕なんてなかったなあ。
 谷川さんと私はあべこべに歩いてるなあという感じがしたのは、自分が何か喋ろうとすると、自分の中で動いているものを一所懸命ことばにするんだけど、相手はきょとんとして何を言ってるのか全然分からないという顔をする。こっちは伝えたつもりでも、相手には全然見当の違う何かがあるらしいというのが一番最初の発語体験ですね。
 文章はまあ読んでいるから、文章としての言語は知ってるけど、言いたいことを文章に当てはめてみても、どうも違うらしいんです。今から思えば、発音がはっきりしてないから、相手に分からなかったという部分が非常に大きいと思う。けれども、その当時はそう思っていないから、こういう言い方をしたら、単語をこう組み合わせたら相手に伝わるだろうと必死になって考えている時期があった。まあ、この時期は今でも続いていると言ってもいいですけどね。
 芝居にするため、ヘレン・ケラーのことをだいぶ調べたんですが、彼女は81歳くらいだったかで亡くなるんですが、毎朝起きると30分くらい、たぶん私と同じような感じで、自分の中でことばを組み合わせて表現することを考えていたようです。この場合は、情報伝達と言うか、表現と言っていいのか分かりませんが。そういうものを見つけようとしているときには、ことばが信用できないなんていうものが入ってくる余地がない。ことばが信用できないものだと気づいたのは随分後からですね。
 「情報伝達のことば」で急に思い出したんだけど、私が宮城教育大学にいたときに、事故で障害を持って、何年もかかってリハビリしてやっと喋れるようになった青年が推薦入学で受験したいって言ってきた。彼が大学での課業に耐えられるか、テストをしたが、1年目はだめで、2年目に学生部長の発達心理学の教授とスクラムを組んで引き受けた。彼は僕の研究室に入ったので、関西から来た3年生に「相談相手になってやってくれ」と頼んだのです。2ケ月ほどしてその3年生が「どうしたらいいか、分からない。彼はやっぱり、大学は無理なんじゃないか」と私の所に相談に来ました。
 大学で講義を受講するには受講カードを出さなきゃいけないが、期日がきても彼は出さない。出さなきゃダメだと教えてやるとどうしたらいいかと聞く。履修要項で説明すると、「うーん」と聞いているが、やっぱり彼は出さない。こう書けばいいと教えてもやっぱり出さない。と言うより書けないのです。それで先輩も訳が分からなくなった。その話を聞いたとき、言語障害をもつその青年の気持ちが、僕にはものすごくよく分かった。
 なぜかと言うと、僕も同じような経験をしているからなんです。私は芝居をやってましたので、50代の半ばまで勤めたということがなく、大学教授が初めての勤めなんですが、そのとき同じような経験をしたわけです。
 芝居をしていた頃、アルバイトなんてあまりなかった時代だから、どうやって食ってたか、今だってよく分からないんです。とにかく、芝居をしたい女の人は飲み屋に行けばいいんだが、男にはアルバイトってのが全然ない時代なんです。
 御茶ノ水から東大前のYMCAの学生会館の稽古場に通っていた。ある日稽古が終わって帰り道、御茶ノ水から電車賃が10円の代々木で降りて、ポケットを探ったら10円玉ひとつしかない。それで飯を食うかパンを買うかすると、明日稽古場に行けない。仕方がないから何も食べずに、アパートに帰ってお湯を飲んで寝る。次の日に代々木から10円玉で電車に乗って、御茶ノ水から歩いて、稽古場に着く。すぐに「おーい、だれかパン買ってくるから、お金貸してくれ」。私だけじゃなくて、芝居をする人間ははみんなお金がなかった。
 長年そんな生活を続けてきて、とにかく大学教授が生まれて初めての職だ。何年も宮城教育大学の林竹二先生に誘われていたのをずっとお断りしていたんだが、林先生が学長を辞められた後で、「やっぱり、おいでなさい」と電話があり、「じゃあ、行きます。お世話になります」と言ったのは、ボーナスってものをもらってみたいと思ったからなんだな。その時、初めての就職なわけで、いろんな手続きがあるんです。その手続きの書類を読むのが苦痛でしょうがない。芝居のせりふを読むと、その人はどんな表情で、どんな風に動くだろうかなんかはすぐ出てくるけど、あの手続きの書面は全然からだに入ってこない。仕方がないから、頭の中でスイッチを切り替える。向こうから入ってこないから、こっちから出ていくしかない。「これはこうでこうなって」と、積木を重ねるみたいに思考を組み立ててやっと処理する。これはすごくくたびれることでした。
 そういう経験があるものだから、障害のある彼が今、そういうことができる手前にいるんだってことが分かった。書類を読んだって文章が入ってこないだろうし、説明されれば意味は分かるが、それによって自分が触発されることにならないから、彼は行動が起こらない。
 そのときによく分かったのは、非常に単純なんだけど、彼があるいは障害を持った子どもが回復していくのは、何とか日常生活でことばを交わすことができるようになってくるということなんです。彼にとってみると情報伝達などというものではなく、人間関係が回復してきたということなんです。
 こんなこともありました。共同作業をしたり、作品をつくるときなんかは周りが彼を手伝う。実験なんかも、手伝ってもらってやっとできる。ところが彼は礼を言わない。それが気になったある教授が、「みんながあれだけ手伝ってくれたんだから、ありがとうって言ったらどうか」と言ったら、彼が嫌ーな顔をした。その後も、彼はやっぱり「ありがとう」を言わない。それで、「彼はやっぱり人間的に欠陥があるんじゃないか」と言う人があったのです。
 私はそのときのことも、ものすごくよく分かるわけです。つまりね、手伝ってもらうのは、仲間として一緒に取り組むのだから、善意でやってくれてるその人本人も楽しんでるわけですよ。一緒に取り組んだことが終わったから「できた。良かったねー」でおしまいだ。それを、手伝ってもらったことに「ありがとう」と言ったら、これは他人行儀の関係になってしまい、冷たい関係に戻ってしまう。「ありがとう」を言うような関係にしたくないのです。これは彼に会って確かめたことですが。
 そういう彼に、事務的な手続きがワッと来たって、どうにもならないんです。私が大学を辞めて、彼は残ったんですが、私と組んで彼を支えていた先生が亡くなり、結局彼は、卒業できず、中退という形になりました。
 今振り返ってみると、彼にとって、「表現としてのことば」と言うべきかどうかは分かりませんが、つながりとしての人間関係の発語みたいなものが回復してきたのであって、「情報伝達のことば」が身についてくるには、まだまだものすごい距離があったわけです。
 伊藤さんの話で、どもる人たちが、「情報伝達のことば」を求めて、「表現のことば」がなかなか戻ってこないということを聞いて、どういうふうに考えればいいかを考えながら、さっきまでの話を聞いていました。
 僕なんかは、相手から何か言われると一所懸命考えてやっとことばをみつけるんですが、ものすごい時間がかかる。ところが谷川さんを見てて、僕は驚嘆しているわけですが、さっと来たらパッと鏡みたいに反射する。ことばが出てくるってことが、谷川さんが考えてるってことなのかなあ? あれは何だろうなあと僕は考えてしまう。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/12/21