「スタタリング・ナウ」NO.51(1998.11.19)の巻頭言を紹介しました。
 その号の特集は、その年の9月に開催した吃音ショートコースでした。ゲストは、詩人の谷川俊太郎さんと、演出家の竹内敏晴さんでした。テーマは、《表現としてのことば》。楽しかったなあと、今でも思い出します。終わった後、谷川さんからいただいた私たちへのメッセージを紹介します。谷川俊太郎さんのお父さんの谷川徹三さんは、僕たちと同じように、どもる人でした。

'98吃音ショートコース 表現としてのことば
1998.9.12〜14  奈良県桜井市・『大和路』
特別ゲスト 
  詩人・谷川俊太郎さん
  演出家・竹内敏晴さん

年報用 竹内写真2  98ショートコース 谷川と 4回目となる'98吃音ショートコースは、《表現としてのことば》をテーマに、特別ゲストに、詩人の谷川俊太郎さんと演出家の竹内敏晴さんをお迎えし、100人を越える参加者と共に、3日間、笑い声が溢れる温かい雰囲気の中、行われました。
 昨年のショートコースでは、どもる人とどもらない人がほぼ半数ずつでしたが、今年はとうとうどもらない人の方が多くなりました。成人吃音者だけでなく、ことばの教室の担当者をはじめ、スピーチセラピストの方、どもる子どもをもつ親、吃音問題やコミュニケーションに関心を持つ方など、幅広い方々と、楽しく満ち足りた時間を過ごせたこと、大変うれしく思っています。
 吃音ショートコースの帰り、厚かましくも谷川さんにお願いした私たちへのメッセージが早速届きました。《内的などもり》と題されたこの文章、吃音ショートコースでの、あの谷川さんのすてきな笑顔を思い出しながら、読んでいます。

    内的などもり
                          詩人・谷川俊太郎
 父がどもりだったので、吃音に私は違和感なく育ちました。父は大学教師でしたが、講義や講演などはどもらずにしていたようです。しかしうちではときにどもることがあって、ふだんは少々もったいぶって喋る美男子の父がどもると、私はどこか安心したものでした。英国の上流階級の喋り方を映画などで聞くと、ときどきどもっているように聞こえますが、あれは一種の気取りでしょう。どもることで誠実さを仮装する習慣のようにも思えます。
 どもるとき、父の言葉はどもらないときよりも、感情がこもっているように聞こえましたが、それはどもらない人間の錯覚かもしれません。しかし私にはあまりになめらかに喋る人に対する不信感があるのも事実で、これは自分自身に対する疑いと切り離せません。私もいわゆるsmooth-tonguedの一人なのです。
 でも私だって自分の気持ちの中では、しょっちゅうどもっています。それは生理的なものではないので、吃音とは違うものですが、考えや感じは、内的などもりなしでは言葉にならないと私は思っています。言葉にならない意識下のもやもやは、行ったり来たりしながら、ゴツゴツと現実にぶつかりながら、少しずつ言葉になって行くものではないでしょうか。
 そうだとすれば、どもりではない人々と、どもる人々との間には、そんなに大きな隔たりがあるとも思えません。せっかちに聞くのではなく、ゆっくり時間をかけて聞けば、吃音は大きな問題ではないはずです。ビジネスの多忙な会話の世界ではハンディになることが、人と人の気持ちの交流の場ではかえって有利に働くこともあると思います。こんなせわしない時代であるからこそ、話すにも聞くにも、ゆったりした時間がほしい。
 先日、日本吃音臨床研究会の活動の一端に触れて、私は言葉についての自分の考えを訂正する必要がないことを確認できましたが、それが吃音のかかえる苦しみや悩みを軽視することにはならないと信じています。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/11/08