僕の好きな精神科医、なだいなださんの、この〈とりあえず主義〉を読んだとき、そうだ、僕も同じだと、うれしくなりました。他人を変えることなどできないし、大勢の人に何かを伝えることもできない。でも、僕の目の前の人、僕に連絡をしてきた人には、精一杯、関わりたい。〈とりあえず主義〉と〈言い置く主義〉は、そんな僕の思いを言い表してくれている大切なことです。

      
とりあえず言い置く
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

「ぼくはまだ未熟な医者です。もっと勉強しなければなりません。でも、勉強はそう簡単なものではなく、上には上があります。先輩をみて、せめてあれくらいの腕をもちたいと思っても、なかなか辿り着けません。かといってそこに辿り着いてから治療しようと思えば、その間、僕は医者としては働けません。未熟だけれど、とりあえず未熟なままで治療するほかはないのです。
 また、この病気はこうすれば治る、と自信がもてれば問題はないが、やってみなければ分からないのが治療です。この薬はこれまで同じようなケースでは効いていた。だから今度もとりあえず使ってみようと薬を出す。効かなければその時考えよう。8割方は効く薬を出すが、効かないことも有り得る。目の前のケースが効く人なのかそうでないかは、神のみぞ知るです」
               ―とりあえず主義とは―『ちくま』1998.10

 精神科医・なだいなださんは、このようにとりあえず行動する生活の姿勢をとりあえず主義といい、自らを《とりあえず主義者》という。
 私も、なださん同様、《とりあえず主義者》だが、さらに《言い置く主義者》でもある。
 大阪教育大学・特殊教育特別専攻科の集中講義で、吃音親子サマーキャンプの体験を話した時、途中で帰った高校生のことにも触れた。すると、人にはそれぞれ時期があり、花でもその成長を待たなければならない。性急にその高校生に迫りすぎたのではないか、との率直な指摘があった。
 吃音に悩み、何かを求めてきた4人の高校生に、その時は誰が時期尚早か判断できず、4人にとりあえず、キャンプを勧めたのだった。明らかに、集団に入るのはまだ厳しすぎると思う例も時にはあるが、それほど多くはないからだ。
 個人面接や大阪の吃音教室で、吃音について、私たちのこれまでの実践や考えてきたことを話す。とても共感し理解してくれる人もいるが、反発する人もいる。これまで信じてきた考えと、かなり違う主張は、自らの体験を通さなければ、受け入れることは難しい。吃音に悩む人に向き合ったとき、私がその人に何ができるかとても心もとない。「吃音症状」を軽くしたり、治したり、どもり方を変えるなど、とてもできないことだから、それはできませんとはっきりと言うことができる。また、吃音は治らないとは言えないまでも、私たちの吃音は治らなかったと、大勢のどもる人の体験をそのまま事実として伝えることはできる。治らなかったものを治らなかったとは言えても、「〜ができる」は、本人が行動しなければならないことだけに、言い切ることは難しい。
 「吃音は治らずとも、自分らしく吃音と共に生きることはできる。それを一緒に考え、行動することには私たちも一緒につきあえる」
 こう言われても、これまで、吃音が治らないと人生はないとまで思い詰めてきた人にとって、容易には受け入れられないことだろう。それを承知の上で、分かってもらえるかどうか分からないけれども、とりあえずは言ってみる。このように「言い置く」ことしか私にはできないのだ。
 20数年前までは、吃音に悩む人を前にして、自己の体験、多くのどもる人の体験をもとに、提案というより、「吃音を受け入れよう」と、説得をしてきたように思う。今は、とてもそのようなことはできなくなっている。
 人が他者の吃音を治したり、軽くしたり、どもり方を変えたりできないのと同じように、どもる人の生き方にっいて、他者が変えることはできない。
 私たちは自らの体験を語り、できるだけ多くの人の体験を紹介することしかない。その体験を知った人が、何に気づき、どう動くかは、その人自身のことなのだ。私たちの情報提供や提案に反発しても、私たちの考えは、体験はとりあえず伝える。
 その人が何かの壁にぶつかったり、吃音と直面せざるを得なくなったときがチャンスだ。その機会がその人に訪れた時、私たちが言ったことを思い出してくれればいい。時期尚早かどうかは、その人が決めてくれるものだと信じて、今日も、とりあえず言い置くことを続けている。(「スタタリング・ナウ」1998.10.17 NO.50)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/29